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【坐禅作法131】原哲夫・武論尊『北斗の拳』

かなりキワどい坐禅作法 原哲夫・武論尊『北斗の拳』

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〜付録2:縁覚の経典4〜


禅者諸君、妙法蓮華経を聞くがいい!

妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)は永遠に進化と成長を続ける未完の経典である。

ところが、この経典には文字による真理の解説がない。 そのため、誰もが目や耳にしていながら、誰も読むことができないという謎の経典となっている。 それでも諸経の王『法華経』は、「もしも妙法蓮華経の一偈一句(いちげいっく)でも聞くことができたなら、君こそが菩薩だ。さあ、すぐにでも教え諭(さと)せ」と伝えている。 そうすれば誰でも無上のさとりを約束されるのだよと…ここでは、その真意を伝え残そう。

矢印マーク 『図説 法華経大全―「妙法蓮華経全二十八品」現代語訳総解説』


妙法蓮華経は人類共通の故郷の言葉で説かれている。
だから『法華経』は、最後まで読みきっても、
「どうせ読んだってわからん」としか書いていない。
禅者諸君!故郷の言葉を思い出せ。
さすれば“妙法蓮華経”が聞こえてくるだろう。


原哲夫(はらてつお)と武論尊(ぶろんそん)の漫画『北斗の拳』は、その妙法蓮華経のひとつである。

この経典は、世紀末救世主「ケンシロウ」として選ばれた菩薩が、世に出現するときに起こる現象を説明した預言書。 主な舞台設定は1999-2019年の日本だ。 そして主人公のケンシロウとは、この『坐禅作法』シリーズの著者・布施仁悟のことである…

ここで私の頭がおかしくなったと考えるのは、まだ早いぞ。 そういうことは、この記事を最後まで読み終えてから判断するといい。 そもそも頭がおかしいのは、妙法蓮華経を読めない諸君のほうだと知るだろう。

私がこれを書きはじめている現在は2018年12月。 ちょうどこの預言書の登場人物ほぼ全員が世に出てきて顔をそろえたところだ。 時代はあと、総大将ケンシロウ菩薩の登場を待つばかりとなっている。 いまや機は熟した! そろそろこの経典の極意を知らしめるべき時だろう。

おそらく『北斗の拳』は「史上最強の仏教経典」と言ってもいい。 その解説を読めるのは、この時代の日本に生まれて、この記事にたどりついた諸君の特権だろう。 是非とも続編の『蒼天の拳』までを手元にそろえてお楽しみいただきたい。

矢印マーク 北斗の拳 1巻


1983年―「週刊少年ジャンプ」誌上で伝説は始まった

一子相伝の北斗神拳。 正統伝承権を持つ主人公のケンシロウは21世紀の日本に出現する菩薩。 これは史上最強の仏教経典だ!

矢印マーク 蒼天の拳 1 (ゼノンコミックスDX)


2001年―北斗の物語は再び動き出した

一子相伝の北斗神拳。 正統伝承権を持つ主人公の霞拳志郎はカルマヨーガの師。 『北斗の拳』の真意を詳細に解説した副読本。

赤雲水

ミスミの爺さん―小泉純一郎

黒雲水

北斗の拳の舞台は199X年に起こった核戦争の後の物語という設定になっている。

―  一九九X年、世界は核の炎につつまれた! 海は枯れ、地は裂け…あらゆる生命体が絶滅したかにみえた。 だが…人類は死滅していなかった!!  ―
(作:武論尊 画:原哲夫『北斗の拳』―「第1話 心の叫びの巻」より)

この漫画の連載が『週刊少年ジャンプ』誌上で始まったのは1983年。 アメリカとソ連(現ロシア)の東西冷戦の時代で、1990年代に核戦争が起こると言われても、誰も不思議に思わない時代だった。 実際には核戦争なんか起こらなかったのだけれど、1990年代というのは人間が人間らしさを失っていった時代だ。 その空白の十年を経て2000年になった頃には、この漫画で描かれているのと同じ状況が生まれていた。

その状況を描いていたのが、『北斗の拳』の第2話に出てくる「種もみ爺さんの譬え」である。

種もみ爺さんの譬え


 ある村に向かっていたミスミの爺さんは野盗(やとう)たちに襲われた。

「た…たすけてくれ。わしはこの種もみを、どうしても村にとどけねばならんのじゃ〜」
「なにぃ?」

ボウガンを向ける野盗に、ミスミの爺さんは懇願するように言うのだった。

「この種もみが実を結べばあんたらにも分けてやろう。 それまで待ってくれ!! この種もみをやっと探し出して、一週間なにも口にせずに戻ってきたんじゃ」

ところが199X後の時代を生きる野盗は、オツムがひっくり返っているので、ミスミの爺さんの言っていることがさっぱり理解できない。

「なおさら、その種もみを食いたくなったぜ」
「た…たのむ!後生じゃ、見逃してくれ!!」

そこへ通りがかったケンシロウに助けられたミスミの爺さんは、せつせつと語るのだった。

「今ある食糧はいずれは消える。 だが…だが…その種もみさえあれば米ができる。 毎年、毎年、米ができるんじゃ。 だれもがみんないつまでも生きていくことができる。 そうすればもう食糧を奪い合うこともない。 争いもなくなる」

ミスミの爺さんは、さらに続けた。

「今日より明日なんじゃ」

それを聞いたケンシロウはつぶやく…

「今日より明日…久しぶりに人間に会ったような気がする…」

作:武論尊 画:原哲夫『北斗の拳』―「第2話 怒り天を衝く時!の巻」より


この種もみの爺さんは、2001年にみんなの前に登場している。 以下の小泉純一郎元首相の所信表明演説『米百俵』を読んでみてもらいたい。

小泉純一郎首相 所信表明演説『米百俵』


 明治初期、厳しい窮乏の中にあった長岡藩に、救援のための米百俵が届けられました。 米百俵は、当座をしのぐために使ったのでは数日でなくなってしまいます。 しかし、当時の指導者は、百俵を将来の千俵、万俵として活かすため、明日の人づくりのための学校設立資金に使いました。 その結果、設立された国漢学校は、後に多くの人材を育て上げることとなったのです。
 今の痛みに耐えて明日を良くしようという『米百俵の精神』こそ、改革を進めようとする今日の我々に必要ではないでしょうか。
 新世紀を迎え、日本が希望に満ち溢れた未来を創造できるか否かは、国民一人ひとりの、改革に立ち向かう志と決意にかかっています。

2001年5月13日


私はこの所信表明演説を聞いたとき、<<ようやく人間がこの国の首相になった>>と思った。 小泉純一郎首相は、「今日の私たちのエゴのために未来にツケを残していいものだろうか」と問いかけていたのだ。 今日より明日…その選択をするためには、今日の痛みを伴う志と決意が必要だと訴えていたのが小泉純一郎だった。

私が高校生のとき、サッカー部の連中がこんなことを語っていた。

「俺らが一年だったとき、先輩からパシリにされたり、ボール蹴らせてもらえなかったりしたからさ。 そういうの本当に嫌だったのね。 だから、俺たちが三年になったら、そういうの絶対止めようぜってみんなで話し合ってたの。 俺たちの代で終わりにしようぜってね」

これが人間として「生きる」ということだ。 「こんなことは俺たちの代で終わりにしようぜ」という志と決意を持てないやつは、人間として「死ぬ」。 ところが小泉首相の退陣した2006年以降、日本の国民は「今日の私たちのエゴのために未来にツケを残して何が悪いというのですか!」と主張する安倍晋三に丸め込まれていった。 彼は国の借金を増やしてまで雇用を生み出すことを景気対策と称し、歳出削減の努力よりも増税を推進する野盗の親玉だった。 「明日より今日」というわけである。 はじめ甘露のように思いなすものは、いずれ毒薬に変わると決まっている。 そのうち“しっぺ返し”がやってくることなどお構いなしなのだ。

どうして平成時代の日本の国民にはこんな単純な道理も解らなかったのか。 それは誰もが「明日より今日」という生き様を選択して、自分の人生の勝負どきを取り逃がしていたからである。 自分個人の人生にすら真向勝負を挑もうとしない「死んだ」連中が集まれば、社会全体もまた「死ぬ」。 現代は「個人病むゆえに社会全体もまた病む」という病理が、時代に暗い影を落としているのだ。

― てめえらに今日を生きる資格はねぇ!! ―
(by ケンシロウ 『北斗の拳』―「第2話 怒り天を衝く時!の巻」より)

ケンシロウの北斗神拳の真髄は極限の怒りと哀しみにあるという。 これまで私をつき動かしてきたのも、幼い頃に感じた時代に対する怒りだった。 小学四年生のとき、社会科の資料集で年金制度の図を見せられたときのことを、私は今でも鮮明に覚えている。 そこにあったのは、現在は3-4人でひとりの老人を支えているけれども、私たちが大人になる頃には1人で何人かの老人を支えることになるという図だった。 そのとき感じた憤りは、私の心に濃いブルーの文字で刺青(いれずみ)のように刻まれている。

<<何だこれ、ふざけんな。フェアにやろうぜ!>>

どうして自分個人の人生すらまともに生きようとしなかった連中のケツをみんなで拭かなくちゃならんのだ?…さっぱり理解できなかった。 そんなことをしたら誰も自分の人生と真向勝負をしなくなるじゃないか。 この国で生きる未来に希望が持てなくなった。 こんな国と時代に生まれたことが本当に嫌になった。 だから私は、こんな思いを未来の子供たちに絶対にさせたくないと思った。

そうしてはじまった私の探求は、人間の人生が何によって、また何ゆえに失われるのかという原因について、突き止めるに至った。 それがこの『坐禅作法』シリーズに結実されている。 だからもう…

「こんなことは俺たちの代で終わりにしようぜ」

人間として「生きる」とはどういうことなのか? 人間として「死ぬ」とはどういうことなのか? 『北斗の拳』はその生と死のはざまを見切って生きた男の物語になっている。

―  今こそ悟った! おまえは今日まで死を見切って生きてきた。 熾烈なる強敵(とも)との戦いの中で生と死の狭間(はざま)を見切ったのだと!!  ―
(by ラオウ 『北斗の拳』―「第136話 さらば強敵よ!の巻」より)


北斗神拳奥義―水影心

北斗神拳は究極の暗殺拳。 太平の世にあっては死神の拳法として忌避(きひ)される伝説の秘拳である。 この設定は、北斗神拳が自我の暗殺を目的とした技法であり、誰もが現実逃避をして亡霊のように生きていた平成のような時代の人々には、死神の技法としてしか映らないことを示唆している。

― ここに一子相伝をもって秘匿(ひとく)され続けてきた究極の殺戮暗殺拳がある。 その名も―北斗神拳。 この拳法の創始はおよそ一八〇〇年前にさかのぼる。 まだ小勢力であった西方の浮屠教徒(仏教徒)たちが群雄割拠する乱世にあり、その教えを守り、生き抜くためにあみだした秘拳であった…  ―
(原哲夫 武論尊監修『蒼天の拳』―「第1話 賞金首・閻王の巻」より)

また北斗神拳は、秘孔(ひこう)を突き、経絡(けいらく)に気を送り込むことで、肉体を内部から破壊することを極意とする。 この設定は、誰もが目や耳にしていながら、誰も読むことができない謎の経典―妙法蓮華経によって自我を暗殺する技法の喩(たと)えとなっている。

― 人体には七百八つの経絡秘孔(ツボ)がある。 北斗神拳究極の真髄はその経絡に気を送り込み、肉体の表面からではなく、その内部からの破壊を極意とした… 破壊された肉体に外傷なし―ゆえに究極の暗殺拳であった。  ―
(原哲夫 武論尊監修『蒼天の拳』―「第2話 江湖の義気の巻」より)

妙法蓮華経は、この原哲夫の漫画『北斗の拳』だけではなく、井上陽水の歌や村上春樹の小説や宮崎駿のアニメ映画として大衆文化の中に透け込み、人知れず心の中に忍び込んで、その自我を暗殺する。 北斗神拳の正統伝承者として選ばれた菩薩は、それら妙法蓮華経を自家薬籠中(じかやくろうちゅう)の法財として自在に活用できるのだ。 それが北斗神拳奥義…
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北斗神拳の正統伝承者の手にかかれば、ありきたりな大衆芸術が生きた経典として甦(よみがえ)る。

― おまえたちは北斗神拳がなにゆえ一子相伝の最強の拳法か知らない!それを教えてやろう!! 北斗神拳奥義・水影心! 北斗神拳は一度戦った相手の拳を、おのれの分身とできる。  ―
(by ケンシロウ 『北斗の拳』―「第84話 南斗白鷺拳!乱舞!!の巻」より)

この『かなりキワどい坐禅作法』で私が展開してきた説法の技法こそ、北斗神拳奥義・水影心にほかならない。 どうだ、まいったか。お約束だから、「あべし!」とか「ひでぶ!」と叫んでおきなさい。

青雲水

北斗神拳究極奥義―無想転生

緑雲水

北斗神拳は、釈迦の開いた初期仏教が潜在的に抱えていた限界を突破するために生まれた技法の喩え。 その限界は物語の中で、こんな風に解説されている。

―  わからぬか!? おまえが使った拳こそ、宗家の拳。 しかし、極められた拳ゆえに受け身の技も極められ、実戦での戦闘力を失くしていたのだ!!  ―
(by ケンシロウ 『北斗の拳』―「第208話 戦場の凄拳!の巻」より)

『北斗の拳』では、釈迦の開いた初期仏教のことを北斗宗家の拳(ほくとそうけのけん)と呼んでいる。 釈迦は悟りに至る仏陀の道について完璧な理論体系をつくりあげた人物だった。 たしかにそれは釈迦一代で「極められた」と言ってもいいほど見事なものである。

とはいえ人間の自我というものは何にでも理屈をつけられるものだ。 その理論体系が完璧であればあるほど、自我はその反証体系を完璧につくりあげていく。 そもそも釈迦の教えは、人間として「生きる」ことを辞めて悟りに至るための方法論だった。 それは人間として「死ぬ」ための完璧なヘリクツを自我に与えるもので、自分個人の人生すらまともに生きようとしない連中が「受け身の技を極め」るための拠り所になっていった。 かくして釈迦の教えでは自我の構築する防壁を打ち破ることができなくなり、「実戦での戦闘力を失くしていた」。 すなわち、釈迦の開いた初期仏教を学んだ者たちは、誰も人間として生きようとしなくなった…というわけである。

そこで、大衆文化の中に透け込む妙法蓮華経により、人知れず心の中に忍び込んで自我を暗殺するという菩薩の道が説かれはじめた。 こうした大乗仏教の誕生により、釈迦の開いた初期仏教は小乗仏教と呼ばれるようになったのである。

―  北斗神拳は、戦場の千変万化する闘いの中にこそ、その奥義をみいだしたのだ!!  ―
(by ケンシロウ 『北斗の拳』―「第208話 戦場の凄拳!の巻」より)

大乗仏教の菩薩は、誰も到達できそうにない瞑想の世界から真理を説くのではなく、むしろ大衆の千変万化する日常の世界に溶け込んで真理を説く。 誰もが目や耳にしていながら、誰も読むことのできない妙法蓮華経によって真理を説くがゆえに、人知れず心の中に忍び込んで自我を暗殺することができる。 その妙法蓮華経は、複数の芸術家による分担作業により、ひとつの絵巻を紡ぎあげる経典であるため、誰も菩薩の実体をとらえることはできない。 それが北斗神拳究極奥義…
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無より転じて生を拾う無想転生は、自我を沈黙させたところに待っている実在の創造性により、自身の人生の守備位置を確保する技。 それは北斗神拳の正統伝承者が菩薩として世に出ようとするときに身にまとう究極奥義なのだ。

―  誰にもオレの実体は捉えられぬ。 無より転じて生を拾う。 それが北斗神拳究極奥義・無想転生!!  ―
(by ケンシロウ 『北斗の拳』―「第184話 玉砕!無想転生!!の巻」より)

私はこの究極奥義を身にまとうために、ああでもない、こうでもない、とやってきたわけである。 小乗の覚者である仏陀たちは、こうした菩薩の美学がわからない無粋(ぶすい)な連中なので、悟った途端に使い物にならないゴタクを並べはじめてしまう。 仏陀たちがさんざん与太話(よたばなし)を広めたせいで、菩薩たちは仕事がやりづらくて仕方がないのだ。 おバカな仏陀たちにはちょっと黙っててほしいものである。

そこへいくと、老子、あんたの時代はよかった…

― 知る者は語らず、語る者は知らず。 ―
(布施仁悟訳 『老子 道徳経―下篇』第五十六章より)

老子の語る無想転生


 道は広大無辺な空虚であるから一定の型にはまることはない。 それは深く水をたたえた淵(ふち)のような万物の根源をおもわせる。 そこで、血気さかんなぎらぎらの鋭気をへし折り、魑魅魍魎(ちみもうりょう)の入り乱れた雑踏のただ中をそぞろ歩く。 人目を惹くぴかぴかの才気をひた隠し、なんでもないもののただ中に透けこむ。 それは気配を消して水中ふかく潜りこみ、その境域に息をひそめているようなものだろうか。 おかげで私は自分の氏素性(うじすじょう)もよくわからなくなってしまった。 万物をとりまとめている天帝の祖先になぞらえてみようか。

布施仁悟訳 『老子 道徳経―上篇』第四章より


『北斗の拳』では、この無想転生は「哀しみを背負った人間のみがなしうる」とされている。

―  この世で最強のものは無…その無より転じて生を拾う。 それが無想転生。
 ラ…ラオウ。 うぬがいかに強大になろうとも、この奥義だけはつかめぬ!! なぜならば、うぬはあまりに強大なその野望ゆえに哀しみを知らぬ。
 それは哀しみを背負った人間のみがなしうる。
 ―
(by リュウケン 『北斗の拳』―「第124話 血の奔流!の巻」より)

この哀しみの意味は、続編『蒼天の拳』で北斗神拳始祖シュケンの生涯を通じて明らかにされた。


北斗神拳の源流―始祖シュケンの生涯

妙法蓮華経の原型は、ユダヤ教の聖典『旧約聖書』に見ることができる。 それは『蒼天の拳 REGENESIS』で、天斗聖陰拳(てんとせいいんけん)と呼ばれているもので、旧約聖書の預言者たちは物語や詩によって自我の壁を打ち破る技法に長(た)けていた。 その技法がイスラムのスーフィズムに受け継がれて、アラビアンナイトのような文学や西欧の童話に影響を与えていったことは、すでに紹介した通りである。 天斗聖陰拳は北斗神拳とよく似た技法なのだ。

― 天斗聖陰拳は気の流れを操る。 自他の気の流れを自在に変動し、人体の操作、破壊を行う。  ―
(by ヤサカ アニメ『蒼天の拳 REGENESIS』―「第9話 赦す者」より)

ただし、それが聖典の形式になり教義として完成された時点で、経典の進化と成長が止まってしまうのが欠点だった。 そのため、スーフィーの導師の中には、自分が弟子に授けた物語を決して文字にしてはいけないと言い残している者もいる。 以下はアニメ『蒼天の拳 REGENESIS』に登場する北斗神拳伝承者・霞拳志郎と天斗聖陰拳伝承者・シメオンの会話。

― [霞拳志郎] 北斗神拳は究極無形の技。 まず疑い、相手の拳(こぶし)を我が身に受ける。 おのれ自身と拳を鍛錬させる。 それが北斗神拳。 この拳は一八〇〇年の歴史の中で成長と進化を続けてきた。
 [シメオン] 成長、進化だと?それこそ不完全である証し。我れの神技は完璧に完成している!
 [霞拳志郎] 止まってるんだ。 おまえの拳は大昔に止まったままだ。 まるで脱皮しない蛇みてえにな。
 ―
(by 霞拳志郎&シメオン アニメ『蒼天の拳 REGENESIS』―「第18話 ナハシュの落日」より)

北斗神拳の源流図
図:布施仁悟(著作権フリー)


さらに『蒼天の拳』には、天斗聖陰拳との交流で生まれた西斗月拳(せいとげっけん)という拳法が登場してくる。 中国に最初に仏教経典をもたらしたのが中央アジアの遊牧民・月氏(げっし)だと言われているのだけれど、物語の設定上では、月氏はその他にも西斗月拳を中国に持ち運んだことになっている。 北斗神拳はその西斗月拳から経絡秘孔の秘術を取り込んで生まれたものと説明されるのだ。 すなわち妙法蓮華経による自我暗殺の技法は、イスラエルから中央アジアの遊牧民を経て中国にもたらされたという設定なのである。

― かつて北斗宗家の拳は、世の平和を守らんとする英雄を守護する最強の暗殺拳であった。 しかし、この時代にはあらゆる受け技が極められ、もはや最強拳ではなくなっていた。
 そこで浮屠教(仏教)の高僧たちは、北斗宗家の拳の天才シュケンに西斗月拳を学ばせた。 それは、その経絡秘孔の秘術を北斗宗家の拳に取り込み、新たな最強の暗殺拳を生み出すためであった。
 そして、ついに完成されたのが正に北斗神拳であったのだ。
 ―
(原哲夫 武論尊監修『蒼天の拳』―「第234話 北斗神拳始祖!!の巻」より)

こうして北斗宗家の拳の天才シュケンによって北斗神拳は生み出される。 その後、始祖シュケンは北斗神拳を一子相伝の秘拳とするため、西斗月拳の高弟すべてを惨殺してしまう。

― 西斗月拳の秘術は…知れば恐るべきものだった! まさに人を死神に変える。 だから私は西斗月拳を永遠に封じるのだ。 敢えてこの手で!  ―
(by シュケン 『蒼天の拳』―「第234話 北斗神拳始祖!!の巻」より)

北斗神拳の正統伝承者に選ばれて菩薩になるためには、始祖シュケンのたどった経緯をそのままなぞらなければならない。 修行者は何よりもまず北斗宗家の拳(釈迦の開いた初期仏教)を究めることになるだろう。 やがてその限界を知る頃になって、ようやく妙法蓮華経の価値が分かってくるからだ。 そのときに学ぶことになるのが西斗月拳の経絡秘孔の秘術なのである。 これは妙法蓮華経の意味を誰かに説明しようとする過程で、「妙法蓮華経による自我暗殺の技法」を学ぶことを意味している。

また、北斗神拳伝承者の宿星は北斗七星。 それは死をつかさどる星であるため、北斗神拳の正統伝承者になる過程は死神の子のOJT(On the Job Training)にもなっている。 その死神の子の仕事とは「人間の生と死のはざまに立ち会うこと」だ。

(村上春樹『海辺のカフカ』にみる)人間の生と死のはざま


 僕らの人生にはもう後戻りができないというポイントがある。 それからケースとしてはずっと少ないけれど、もうこれから先には進めないというポイントがある。 そういうポイントが来たら、良いことであれ悪いことであれ、僕らはただ黙ってそれを受け入れるしかない。 僕らはそんなふうに生きているんだ。

村上春樹『海辺のカフカ』第17章より


この村上春樹の『海辺のカフカ』で説明されている「もう後戻りができないポイント」と「もうこれから先には進めないポイント」が“人間の生と死のはざま”だ。 たいていの人々は33歳と37歳の厄年でそのポイントを迎えるらしい。 そのとき人間として「死ぬ」選択をした人たちに、死神の子は「おまえはもう、死んでいる…」と深い哀しみの中で告げることになる。 ほとんどの人が、その生と死のはざまを乗り越えようとしないからだ。

始祖シュケンが「西斗月拳の高弟すべてを惨殺した」という挿話は、妙法蓮華経の意味を説明しようとする過程で知り合った人たちに、「おまえはもう、死んでいる…」と告げることの寓意になっている。

― もう後戻りはできないのです。 ならば背負うのです。 この哀しみを…背負う哀しみが深く重いほど、天はあなたの願いに微笑むでしょう。 哀しみは、天があなたに課した試練! そして宿命!  ―
(by ヤーマ 『蒼天の拳』―「第236話 北斗の慈母!!の巻」より)

こうして深くて重い哀しみを背負わなければ、北斗神拳の正統伝承者に選ばれて菩薩になることはできない。 では、なぜそうまでして西斗月拳(妙法蓮華経による自我暗殺の技法)を学ぶのか…始祖シュケンはこう答えている。

― この世に平和をもたらすために! これ以上、この悲劇を繰り返さぬために! 俺がこの世の救世主となる!  ―
(by シュケン 『蒼天の拳』―「第252話 究極の愛!!の巻」より)

そうして敢えて西斗月拳を封じるとき、すなわち妙法蓮華経の意味の解説を封印するとき。 修行者は、北斗神拳の正統伝承者となり、乱世に菩薩の智慧の光をもたらす救世主として世に出て行く。

妙法蓮華経の意味の解説を封印するのは、妙法蓮華経自体が人を強く惹きつける吸引力を持っているからだ。 ある種の人たちは、見つけるべき時に、見つけるべき場所で、そのときの自分にふさわしい妙法蓮華経を見つけ出す。 別の言い方をするなら、妙法蓮華経みずからがその人物を選び取る。

それは分かる人にしか分からない言葉で説かれているため、分かる人には解説なんかしなくても分かる。 それは分からない人には解説しても分からない言葉ということでもあるから、そういう人たちには妙法蓮華経を解説すること自体が逆効果になってしまう。 幼児(おさなご)に語るサンタクロース伝説のように、真実を知るべき時がくるまで知らない方がいいこともあるのだ。

けれども、こうした道理は妙法蓮華経の意味を解説する修行の中で、何人かの被験者に「おまえはもう、死んでいる…」と告げ、その限界を思い知らなければ腑に落ちてこない。 したがって、その悲劇は修行者が妙法蓮華経の解説をみずからすすんで封印するまで続く。

矢印マーク 海辺のカフカ (上) (新潮文庫)


2002年―村上春樹流「潜在的傾向の克服指南」

【15-16歳で背負わされる運命の十字架の処方箋】
― 君が声を求めるとき、そこにあるのは深い沈黙だ。 しかし君が沈黙を求めるとき、そこには絶えまのない予言の声がある。 その声がときとして、君の頭の中のどこかにかくされている秘密のスイッチのようなものを押す。 ―
(第1章)


中島みゆき禅師は、その分かる人にしか分からない言葉をこう名づけている…
ougi_aikotoba

愛詞の構造1〜 ツインレイとの合言葉 〜


 ありふれた男と ありふれた女が
 群像の中で 突然の中で 特別な人になる

 傷ついた昨日も 傷ついた未来も
 諦めの中で 突然の中で 意味のある日になる

 逢いたくて
 昨日までと違う意味で 逢いたくて
 触れたくて
 昨日までと違う意味で 触れたくて

 傷ついたあなたへ 傷ついた命へ
 わかる人にしかわからない
 それでいい 愛詞

中島みゆき『愛詞』(2013)より


中島みゆきの『愛詞』の一番は、ツインレイとの合言葉について歌ったものだ。

ツインレイの男女の再会は、別れた後の逢いたくても逢ってはいけない現実に直面したとき、諦めの中で突然に意味のあるものに変わる。 そのとき、二人の間にしか分からない愛詞をかわしていたことを知るのだ。

愛詞の構造2〜 ツインシャドウとの合言葉 〜


 風の強い夜です 手をつないでください
 昨日までならば 言えた戯(ざ)れごとも ためらう風の中

 願いごと増えました 独りなら願わない
 あなたが微笑んでいてくれるように 泣かずにいるように

 伝えたくて
 昨日までと違う意味で 伝えたくて
 せつなくて
 昨日までと違う意味で せつなくて

 凍(こご)えてるあなたへ 凍(こご)えてる命へ
 心の扉の鍵になれ
 ひと粒(つぶ) 愛詞

中島みゆき『愛詞』(2013)より


中島みゆきの『愛詞』の二番は、次世代のツインシャドウとの合言葉について歌ったものだ。

菩薩が妙法蓮華経を紡ぎあげる仕事は複数人の芸術家の協力のもとに遂行される。 その天職を遂行するために世に出て行こうとするとき、菩薩は遥か以前から深い縁を持つ人々に呼ばれていたことを知る。 それは「独りなら願わない」仕事なのだ。

また妙法蓮華経は自分で発見したほうが宝さがしみたいでいい。 くわえて世の中には、言葉で説明されてしまうと、かえって大事な何かを損なうこともある。 そのため、この仕事のためには妙法蓮華経の意味の解説を封印しなければならない。 妙法蓮華経は、いつ何処で手にするかで、まるっきり嘘になってしまうこともあるから、それを受け取るべき誰かが現れる時節をひたすら待つことになる。 「昨日までと違う意味で伝えたくて」、「昨日までと違う意味で切なくて」とは、そういう意味だ。

沈黙をともなった愛詞は、人知れず次世代のツインシャドウの心の中に忍び込み、その自我を暗殺する。 北斗神拳の正統伝承者に選ばれる次世代の菩薩は、そうやって心に投げ込まれたひと粒ひと粒の愛詞によって育てられるのだ。 これこそ北斗神拳が一子相伝の秘拳とされる所以(ゆえん)なのである。

矢印マーク 問題集

2014年―中島みゆきの集大成

最後の扉を開くためのアルバム。ツインレイとの再会の後に聴くといい。
『愛詞』収録

桃雲水

剛の拳と柔の拳―無想陰殺

赤雲水

北斗一門のラオウ・トキ・ケンシロウの三兄弟は、菩薩修行の三段階を象徴している。

北斗三兄弟の拳質図
図:布施仁悟(著作権フリー)


この菩薩修行の三段階を昇格していく過程は、定規と鉛筆を使って直線を引けばいいというほど単純ではない。 そこにはゲシュタルト転回の試練が待っているからだ。 菩薩を目指す修行者は、前の段階で学んだ真理を捨てて、次の段階に移行することになる。

ゲシュタルト転回〜北斗三兄弟の拳質的考察〜
図:布施仁悟(著作権フリー)


『北斗の拳』では、このゲシュタルト転回を北斗三兄弟の拳質の違いで描いているので、ここからは各兄弟の拳質を比較しながら考察してみることにしたい。

トキの柔拳〜聖人の道〜

まずトキは、誰にでも慕われる人格者として描かれる人物で、いわゆる道徳を極めた聖人を象徴している。 世の中は道徳すらまともに守れない人たちばかりだから、トキの聖人の道を歩むことが人間の最初の目標となる。

ヨガナンダの語る聖人の道


 あなたがたは宗教的ではなくても道徳的であることはできますが、宗教を実践してゆくには、まず道徳の基本を身につけることから始めなければなりません。 なぜならば、真の宗教は神との交わりを目的とするため、普通の道徳よりも深いものだからです。

パラマハンサ・ヨガナンダ『人間の永遠の探求』P.304-305「講話三十六 キリストとクリシュナ―同じ真理を説いた二人のアヴァター」より


またトキの拳質は柔の拳。 これは、善行を施しながら、運命の流れに逆らうことなく身をまかせる聖人の生き様を象徴している。

― 激流に逆らえばのみこまれる。むしろ激流に身をまかせ同化する。  ―
(by トキ 『北斗の拳』―「第68話 血を呼ぶ宿命!の巻」より)

たしかに最後はこの境地に行き着くことになるから、ほとんどの人はトキの生き様の何が間違っているのか分からないかもしれない。 けれども人間の運命の流れというのはそんなに単純なものではないのだ。 聖人のように善い行いをしていれば運命の流れも善い方向に変わっていくと考えるとしたら、とんでもない勘違いである。

運命の女神は自分の天性の義務を遂行しようとする人だけに微笑む。 自分の天性の義務をないがしろにしたまま、どんなに善行を施してみたところで、運命の流れは本来あるべき方向には向かわない。 ところが聖人は、誰もが認めるところの正道にしがみついて、その道を踏みはずことに怯えている。 しかしながら天性の義務を遂行する道は、その正道のとなりを走っているのだ。 もしもその正道のとなりを走っている道に飛び移らなかったら、人間として「死ぬ」のである。

老子の語る正道のとなりを走っている道


 上等の人士が道について聞くと、矢も楯もたまらず歩まずにはいられなくなる。 けれども中等の人士が道について聞く耳は、その場にいながら死んでいるかのように閉じられている。 そして下等の人士が道について聞くと、端(はな)から馬鹿にして笑い飛ばす。 けれども笑われないようであればそれを道とは呼べないだろう。 万古不易(ばんこふえき)の格言にはこうある。 本当に明かるい道は暗闇の中を歩むようであり、本当に前進しているときは後戻りしているようであり、本当に平坦な道は凸凹(でこぼこ)として入り組んでみえる。

布施仁悟訳 『老子 道徳経―下篇』第四十一章より


そのためトキは、199X年に起こった核戦争で死の灰を浴びて、ただ死を待ちながら生きることになった生ける屍(しかばね)として描かれる。 聖人トキは、その星が見える者にはその年の内に死が訪れるという死兆星(しちょうせい)を宿星として背負ってしまうのだ。

矢印マーク 『人間の永遠の探求』

修行の基本はこの本で学んだ。
もしも道に迷ったらこの人に聴けばいい。
ただし納得できたものから少しずつ取り入れていかないと、
ただのストイックな禁欲主義になるのでご用心。


ラオウの剛拳〜仏陀の道〜

ラオウの拳質は剛の拳。 これは憂いや恐れを生むからという理由で情愛を捨てようとする仏陀の生き様を象徴している。

― よいかトキ、武に生き覇者となるに一片の情(なさけ)も無用!!  ―
(by ラオウ 『北斗の拳』―「第125話 運命の罠!の巻」より)

ラオウは、みずから拳王を名乗り、恐怖で乱世を支配しようとする人物として描かれる。 そのラオウが仏陀と同格というのは信じられないだろうけれど、仏陀の代表である釈迦は、こんな言葉を残しているのだ。


 愛情から憂いが生じ、愛情から恐れが生ずる。愛情を離れたならば憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?
(法句経213)


「情愛を捨てよ、さすれば安らぎを得られん!」というわけである。 これは13歳の厄年から聖人の道を踏みはずした人が最初にすがるべき教えと言えるかもしれない。

(村上春樹『海辺のカフカ』にみる)13歳の厄年からの試練


 だからさ、こういうのは頭の良し悪(あ)しの問題じゃないんだ。 俺はべつに頭なんて良かねえよ。 ただ俺には俺の考え方があるだけだ。 だからみんなによくうっとうしがられる。 あいつはすぐにややこしいことを言い出すってさ。 自分の頭でものを考えようとすると、だいたい煙たがられるものなんだ。

村上春樹『海辺のカフカ』第20章より


世の中のたいていの人は13歳の厄年で精神年齢が止まる。 その頃には自分の頭でものを考えないように飼い慣らされてしまっているからだ。 そもそも道徳で言動を縛(いまし)める聖人の道は、自分の頭でものを考えられない人たちの信じる道だから、自分の頭でものを考えられる人はその正道を踏み外してしまうことになる。 すると次第に煙たがられ、うっとうしがられて、差別されるようになっていくのだ。

それは自分の頭でものを考えられない人たちにとっては、何ら罪の意識のない無感覚的な差別だ。 けれどもそれは、他人の家の玄関で犬におしっこをさせている飼い主をにらみつけるような敵意すら感じさせる。 そんな世間的差別を受けた痛みは、心の中にいつまでも傷口として残る。 やがて年齢を重ねるごとに住んでいる世界がどんどん乖離していき、自分と真逆の世界に属する人と憎み合うようにもなる。

この憎しみのカラクリは、村上春樹が『ねじまき鳥クロニクル』で解説しているので、知っておくといい。

(村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』にみる)憎しみのカラクリ1


 「綿谷ノボル様は岡田様とはまったく逆の世界に属している人です」と加納クレタは言った。 それからしばらく口を噤んで言葉を探していた。 「岡田様が失っていく世界で、綿谷様は獲得していきます。 岡田様が否定される世界で、綿谷様は受け入れられていきます。 またその逆のことも言えます。 だからこそあの方は岡田様のことを激しく憎んでおられるのです」

 「僕にはそこがよくわからないな。 あの男にとっては僕の存在なんて目にも入らないくらいちっぽけなものじゃないか。 綿谷ノボルは有名だし、力もある。 それに比べれば僕はまったくのゼロだ。 そんなものを、どうして手間暇かけて憎んだりしなくてはいけないんだろう」

 加納クレタは首を振った。 「憎しみというのは長くのびた暗い影のようなものです。 それがどこからのびてくるのかは、おおかたの場合、本人にもわからないのです。 それは両刃の剣です。 相手を切るのと同時に自分をも切ります。 相手を激しく切るものは、自分をも激しく切ります。 命取りになる場合もあります。 でも捨てようとして簡単に捨てられるものではないのです。 岡田様もお気をつけになってください。 それは本当に危険なのです。 一度心に根づいた憎しみを振り落とすのは至難の業です」

村上春樹『ねじまき鳥クロニクル 第2部』―「14 加納クレタの新しい出発」より


もしも憎しみの起こるカラクリを理解できれば、もはや憎しみには左右されなくなる。 『ねじまき鳥クロニクル』から、もう一ついってみよう。

(村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』にみる)憎しみのカラクリ2


 ねえ岡田さん、一人の人間が誰かを憎むとき、どんな憎しみがいちばん強いとあなたは思いますか? それはね、自分が激しく渇望しながら手に入れられないでいるものを、苦もなくひょいと手に入れている人間を目にするときですよ。 自分が足を踏み入れることのできない世界に、顔パスですいすい入っていく人間を指をくわえて見ているときです。 それも相手が身近にいればいるほど、その憎しみは募ります。 そういうもんです。

村上春樹『ねじまき鳥クロニクル 第3部』―「31 空き家の誕生、乗り換えられた馬」より


こうした状況を打破する仏陀の処方箋は、世間的差別に抵抗するのではなく、むしろ孤独になりきればよい、というものになる。 「遁世により俗世の人々への執着を捨てよ」というわけだ。 以下は『法句経』にある釈迦の言葉。


 愛する人と会うな。愛する人に会わないのは苦しい。また愛しない人に会うのも苦しい。
(法句経210)


 それ故に愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。愛する人も憎む人もいない人々には、わずらわしの絆が存在しない。
(法句経211)


 愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる、愛するものを離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか?
(法句経212)


このように仏陀の道は、徹底して情愛を捨て、愛にまで背を向ける道なのだ。 これらの言葉を発した釈迦の心情をラオウの台詞で要約すると、こういうことになるだろうか。

― この拳に殉じた拳王…北斗の長兄ラオウが愛を背負ったなど恥辱!!  ―
(by ラオウ 『北斗の拳』―「第135話 血に染まる覇王!の巻」より)

仏陀というのは何かと生きづらい生き物のようである。 しかし、こうして孤独になりきって情愛に左右されないようになると、やがてある能力が活性化してくる。 その必殺の剛拳が…
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この拳は無意識、無想に生まれてくるアイデアの象徴。 道徳の呪縛を解いて自分の本心から行動できるようになったとき、誰からの借り物でもない自由な発想が自然に生まれてくるのだ。

― 無想陰殺!! 気配を読み、殺気との間合いを見切り、無意識、無想にくりだされる必殺の拳!!  ―
(作:武論尊 画:原哲夫『北斗の拳』―「第102話 めざめる血!の巻」より)

この無想陰殺は、情愛を捨てる仏陀の道に入り、非情の剛の拳を学ばなければ身につかない。 そのため、聖人の道にとどまったトキが仏陀の道を歩むラオウに勝つことは絶対になかった。

― トキ!このラオウをめざしていたのであれば、なぜ非情の剛の拳を学ばなかった!! 剛は殺!柔は情! 剛の道にふみ込まなかったきさまの優しさが命取りになった!! もはや、この勝負みえたわーっ!!  ―
(by ラオウ 『北斗の拳』―「第102話 めざめる血!の巻」より)

この完全無欠のように見える仏陀の道にも、残念ながら落とし穴がある。 釈迦というのは、その落とし穴にはまりこんで生還できなかった哀れな男なのだ。 そう、ラオウと同じように。

矢印マーク 『ブッダの真理のことば・感興のことば』

こなれた現代語で読める法句経。
私の仏教に対する誤解は この本で初めて解けました。


仏陀の道に踏み込むことは神隠しの世界に移行することだ。 あたかも明け方の空の星のように、あるいは夏草の上の朝露のように、いつのまにか俗世から姿を消す。 それでも世の中は何ら痛みを感じることなくまわり続ける。

「自分はもう誰にも求められてはいないようだ…」

それが何よりもはっきりとした現実になる。 かつてあったはずの親密さが失われ、人々との隔絶が決定的なものになるにつれて、<<もう二度と俗世に戻れないのではないか…>>という鈍い疼(うず)きに胸を絞めあげられてゆく。 けれども、冷たい汗が脇の下から降りていくような圧倒的な動揺が過ぎ去ってしまうと、絶望感はだいぶ薄まる。 そこで聴こえてくるのは風鈴のように涼しげなあきらめだ。 ほんとうに不思議なことなのだけれど、それはそんなに悪くない気分なのである。

老子の語る神隠しの世界への移行


 ハイと返事をすることとウンと返事をすることに一体どれほどの違いがあるというのだろう。 善とされるところのものと悪とされるところのものに、いちいち違いをみるのは一体どういう了見(りょうけん)なのだろうか。 さりとて他人様(ひとさま)の畏(おそ)れ謹(つつし)むところをとやかく言い立ててみたところで仕方のないことだった。 こうした議論はどれほど詮(せん)じつめても心は荒涼とするばかりで永遠に尽きることはなかった。
 人々は暖かな光に包み込まれるかのように浮き浮きして、まるで宴席で供応(きょうおう)にあずかる招待客のようであり、うららかな春の日に高楼(こうろう)の眺望を愛(め)でる物見客のようだった。 一方の私は、一人ぽつねんと取り残され、ちっとも先の見えない暗闇の中にいた。 人見知りをしてちっとも笑わない乳飲み子のように人目を怖がった。 もはや立ちあがる気力も残っていないのに、どこにも帰るところはないかのようだった。 誰もがその青春の活力をもてあましているとき、私ひとりが置いてきぼりを食っている心持ちだった。
 そして私は破れかぶれにこうおもった。 おろかなバカでもかまわない。 この世は玉石混交(ぎょくせきこんこう)なのだと。

布施仁悟訳 『老子 道徳経―上篇』第二十章より


仏陀たちはそこに立っている。 そのとき釈迦の教えは、優しく温かく静かに手を差しのべてくれる。 私は釈迦の開いた初期仏教を伝える経典『法句経』を何度もリフレインで読んだ。 それは信仰告白のようなものだったのかもしれない。 自分が神隠しの世界をそのまま受け入れようとしていることを仏陀たちに向かって告白しているのだ。 その頃の私にとって仏陀は神よりも偉大だった。

このあたりのことは、宮崎駿の『千と千尋の神隠し』で、こんな風に表現されている。

― 口を開けて、これを早く。 この世界のものを食べないとそなたは消えてしまう。 ―
(by ハク 『千と千尋の神隠し』より)

まずは自分が迷い込んだ世界をより正しいものとして受け入れる必要があるのだ。

ゲシュタルト転落〜ラオウ恐怖の暴凶星への道〜
図:布施仁悟(著作権フリー)


けれどもそこは神隠しの世界。 俗世に戻る出口を模索せずに、そのまま馴れ親しんでしまうと、出口の扉は音も立てずに閉まる。 仏陀たちは、その瞬間に頓悟(とんご)するのだ。 そこには生きることの苦しみを生み出す自我の観念はなく、安楽の境地が広がっている。

ところが自分の天性の義務をないがしろにしたまま頓悟してみたところで、運命の流れは本来あるべき方向には向かわない。 つまるところ、そこは人間として「生きる」ことを辞めた者たちの集う修羅(しゅら)の国なのだ。 そんなものは、もはや剛拳ではなく、魔拳と呼ぶにふさわしい。 仏陀とは、そんな頓魔(トンマ)な連中のことなのである。

― おまえはもう、死んでいる… ―
(by ケンシロウ)

一方、神隠しの世界から俗世に帰還した人間の人生には愛とロマンがある。 ロマンを分かちあう友にめぐり逢うこともなく、愛される喜びを知ることもできない悟りに、衆生はいったい何を望むのだろう。 仏陀たちには人の心を救うことなど永遠にできないのである。

仏陀の道に踏み込んだまま修羅の道に落ち、菩薩の道へのゲシュタルト転回に失敗した者たちは、もはや自分の天性の義務を果たす宿星を背負うことはできない。 かわりに屑星としての宿星を与えられるのだ。 そのためラオウは狂える恐怖の暴凶星という不名誉な宿星を背負うことになり、最後にはケンシロウの前に敗れ去る。

― おまえの強さは、愛を捨てた者と、心に愛を刻みつけた者との違いと…  ―
(by ラオウ 『北斗の拳』―「第135話 血に染まる覇王!の巻」より)

かくして仏陀たちは、菩薩に愛の強さを見せつけれら、人間として「死ぬ」選択をしたことを悔やみ、苦しみと歯ぎしりのうちに死んでいくのだろう。 それは遥かベーリング海峡を旅して、繁殖のために北海道の川に戻ってきた鮭が、あと一息のところでヒグマに捕食されるようなものだ。 たぶん、もっとも往生際の悪い人種が仏陀たちだとおもう。

おそらく仏陀たちの最大の問題点は、情愛のみならず、神すら切り捨てて悟りに至ろうとすることだろう。


 正しいさとりを開き、念いに耽り、瞑想に集中している心ある人々は世間から離れた静けさを楽しむ。 神々でさえもかれらを羨む。
(法句経181)


この釈迦の言葉をラオウの台詞で要約すると、こういうことになる。

― おれはだれの命令も受けぬ!! たとえ神の命令でもな!!  ―
(by ラオウ 『北斗の拳』―「第69話 今一瞬の命を!の巻」より)

神がいるとか、いないとか…そういうことが問題なのではない。 ただ、世間から離れた静けさに逃げ込み、人生に時折あらわれる不可視のしるし―ハディルの掴み方を知ろうとしないことが問題なのだ。 そういう生き方をしていると天性の義務を遂行する道からはずれてしまうのである。 そうして屑星の宿星を背負った己れの本性に従うと、人々を修羅の道に引きずり込んでしまうのに、その暴走を止めることもできない。 仏陀とはまったく始末に負えない鈍チン(にぶちん)たちなのである。

仏陀たちのように自分の宿星をわきまえない鈍チンを、老子は痛烈に批判している。

老子の語る人間の宿星


 天地ですら気まぐれ千万な自然の性質にしたがっているのだから、人はなおさら自分の具えている自然の性質を弁(わきま)えておかなくてはなるまい。
 もとより世事にあたって道(タオ)を具現する者は、それにふさわしい振るまいをしているものだ。 また徳を具えた者は有徳者に、不徳を具えた者は背徳者にふさわしい振るまいをしていたりする。 このように道(タオ)を具現する者には、道もまたその者に道の振るまいをさせ、有徳の性質を具えた者には、道もまたその者に有徳をもって応え、背徳の性質を具えた者には道もまたその者を背徳をもってもてなす。
 えてして人のはからいなきところのささやきに耳をすませようとしないと、信頼も何もあったものではなくなってしまうものだ。

布施仁悟訳 『老子 道徳経―上篇』第二十三章より


そのくせ仏陀たちは、こういう頓珍漢(とんちんかん)なことを言って死んでいこうとするのだ。

― わが生涯に一片の悔いなし!!  ―
(by ラオウ 『北斗の拳』―「第136話 さらば強敵よ!の巻」より)

ふん、釈迦も似たようなことを言って死んでいったそうだよ。

矢印マーク 千と千尋の神隠し[DVD]


 ― これは“神隠し現象”を疑似体験するための映画だ ―

したがって、この作品には賞味期限がある。 おそらく26-27歳の時節に鑑賞するのが最も効果的だろう。 その後は“神隠し現象”をみずから体験して、その忠実な描写に驚くがいい!

矢印マーク ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編

1995年―村上春樹流「仏陀の道からの生還指南」

【二つのゲシュタルト転回を乗り越えるための処方箋】
― 時間をかけることを恐れてはいけないよ。 たっぷりと何かに時間をかけることは、ある意味では、いちばん洗練されたかたちでの復讐なんだ。 ―
(第二部 第17章)


ケンシロウの剛+柔拳〜菩薩の道〜

ケンシロウの拳質も基本的にはラオウと同じ非情の剛の拳。 ただし、それほど非情に徹しきらないところにラオウの剛拳との違いがある。

― 闘気とはいわば非情の血によって生まれるもの。 おまえもシンやレイとの非情の戦いの末に闘気をまとうことができた。 だが!!ラオウとおまえでは非情さが違う。  ―
(by トキ 『北斗の拳』―「第69話 今一瞬の命を!の巻」より)

あまりに激しい情愛は、深い憎しみや怨(うら)みに姿を変え、自他の心を傷つけてしまうことがある。 そのとき情愛に左右されない忠―どまんなかの心―に達するための仏陀たちの処方箋は、それを執着であると観じて情愛を捨てる瞑想の技法だ。 これは「まぶたの裏側のアプローチ」と言えるだろう。 しかしながら、この方法論で成功できるのは(それを成功と呼べれば…の話だけれど)、情愛が生まれる人間関係を観念にすぎないとして、心を捨てられる人たちだけである。

結局のところ、そういう仏陀たちの方法論は私の性(しょう)に合わなかった。 それはおそらく幼い頃に聴いていた歌の影響だとおもう。

『ガンダーラ』〜 仏陀の道の正しい入口 〜


 そこに行けば
 どんな夢も かなうというよ
 誰もみな行きたがるが
 遥かな世界

 その国の名はガンダーラ
 何処かにあるユートピア
 どうしたら行けるのだろう
 教えて欲しい

 In Gandhara,Gandhara
 They say it was in India
 Gandhara,Gandhara
 愛の国 Gandhara

作詞:山上路夫/奈良橋陽子 作曲:タケカワユキヒデ『ガンダーラ』(1978)より


この『ガンダーラ』は、『西遊記』(1978-1979)という特撮ドラマのエンディングテーマで、テレビで何度も再放送されていたのを小学生の頃によく観ていた。 『ゴダイゴ』というグループのタケカワユキヒデが作曲しているのだけれど、この人は仏陀の道の正しい入口と出口を歌っていた人物で、この歌は正しい入口を教えている。

― この世の何処かに、そこに行けばどんな夢も叶うという伝説の国ガンダーラがある。 誰もがみな行きたがるけれど、どうしたら行けるのかは誰も知らない。 その国はかつてインドにあったと人々は言う。 いまは歴史の流砂の中に埋もれ、幻の国として語られるだけなのだよと。 でも、たぶん、それは違う。 だって、ガンダーラは“愛の国”。 僕らはその国の中に生きているはずなのだから… ―

この歌が投げかける謎の印象は強烈で、私の意識の中に消えずに残ることになった。 それに、この歌はかつてインドで誕生した釈迦の方法論を暗(あん)に否定していた。 釈迦の方法論とは別の方法論があるはずだと『ガンダーラ』は教えていたのだ。

ケンシロウの剛拳の秘密は、その別の方法論にある。 それは「まぶたの表側のアプローチ」と言えるかもしれない。 もちろん、この技法も情愛に左右されない忠―どまんなかの心―に達するときに、人間関係を見かぎることになる。 「おまえはもう、死んでいる…」だ。 けれども、そのとき心をひとつ捨てるのではなく、心をひとつ拾う技法なのである。

― オレは、この傷をひとつ負うごとに、心をひとつもらってきた!!  ―
(by ケンシロウ 『北斗の拳』―「第202話 憎しみの傷跡!の巻」より)

『北斗の拳』では、闘うことを避けられなくなった敵を「強敵」と書いて「とも」と呼ぶ。 その強敵のひとりひとりが宿星を背負っていて、誰もがその宿星に忠実に行動するのだ。 ケンシロウは、その強敵との闘いを通して相手の宿星を理解し、人間として「生きる」ことの哀しみを背負いながらタフになっていくのである。

― み…見える。 選ばれた男とのみ闘い、流されていった血がケンシロウ様の中に脈うつのが! 闘いの哀しみがケンシロウ様の体にあらゆる奥義をきざみつけていった…その哀しみが深ければ深いほど!!  ―
(by リハク 『北斗の拳』―「第124話 血の奔流!の巻」より)

これは精神世界で言うところのソウルメイトの概念で、“魂の仲間”との縁を大切にすることで運命を変えていく技法にほかならない。 これが『北斗の拳』シリーズの根底に流れる主題なのだ。

― [流飛燕] これも縁だぁ。 縁を大事にしたら運命も変えられるぞ。
 [エリカ] 拳志郎の口癖ね。
 ―
(by 流飛燕&エリカ 『蒼天の拳』―「第142話 劉家拳の僧現る!!の巻」より)

人間関係の縁というのは、ソウルメイトの宿星を理解できたところで切れるもので、運命の歯車はそのときになってようやく回り出す。 逆にいうと、ソウルメイトの宿星を理解できるまで運命の歯車が動き出すことはない。 運命が変わるときには、ソウルメイトとの別れの哀しみと出会いの喜びが必ずセットになってやってくるのだ。 人間として「生きる」ということは、魂の仲間との出会いと別れを繰り返しながら、心に哀しみを刻みつけると同時に運命を変えていくことなのである。

では、ソウルメイトの宿星を理解するとはどういうことなのか。 ヨガナンダの講話録の言葉を引用して考察してみよう。

(ヨガナンダの語る)ソウルメイトの宿星の理解


 父親たちは、自分が単なる人間としての父親ではなく、天の父の代理であることを自覚すべきです。 私は天の父のために働いています。 すべての父親たちの背後にいて、彼らに父の役を演じさせているのは天の父です。 もし、父親の心が無知や間違った考えで汚れていると、天の父の光を正しく透過させることができません。 ですから、父親たちは、正しく振る舞う責任があることを自覚して、いつも清純な心を保持すべきです。 天の父は、すべての父親たちを通して、この地上の子供たちの面倒を見ておられるのです。

パラマハンサ・ヨガナンダ『人間の永遠の探求』P.249「講話三十一 神の母性と父性」より


父親たちはみな、父親としての宿星を天から与えられている。 ところが父親たちも人の子だから、自我を持つ人間にすぎない。 そのため父親たちが子供に投げる言葉には、“宿星による言葉”と“自我による言葉”が混在してしまう。

父親と子供の人間関係が難しくなる原因の一つは、無意識から生まれる宿星の言葉よりも、潜在意識から生まれる自我の言葉を子供に刷り込もうとする父親の習性にある。 これがヨガナンダの言っている「父親の心が無知や間違った考えで汚れていると、天の父の光を正しく透過させることができない」ということの意味である。

また父親と子供の人間関係が難しくなるもう一つの原因は、自我の言葉を刷り込もうとする父親の習性に反発するあまり、無意識から生まれた宿星の言葉まで無視しようとする子供の習性にある。 たいていの人は、自分に都合のよい言葉は進んで受け入れるけれども、都合のわるい言葉には自分自身を閉ざしてしまうものだ。 けれども父親が無意識的に投げる宿星の言葉には、時に厳しい批判を伴うものもあるため、そういう子供の心理が父子の関係を難しくすることもある。

それでも父と子の一対一の対峙の中で、無意識から生まれる宿星の言葉と潜在意識から生まれる自我の言葉をよく観察して区別することができれば、自分と相手の言動を支配している思考パターンが浮き彫りになってくる。 すると自分自身の自我の潜在的傾向をより深く理解できるのだ。 そうして互いの魂が父と子としてめぐり逢うことになった宇宙的意味を知るとき、情愛に左右されない忠―どまんなかの心―に達することになる。

そのためソウルメイトとの一対一の対決を避けていたら、相手の宿星を理解して運命を変えることは絶対にできないだろう。 以下は、トキがそのことをケンシロウに教え諭す場面の台詞。

― 北斗神拳の戦いに二対一の戦いはない。 たとえ相手を倒したとしてもそれは勝利ではない。 おまえは北斗神拳の正統の伝承者であることを忘れてはならぬ!!  ―
(by トキ 『北斗の拳』―「第70話 静水のようにの巻」より)

これがソウルメイトの宿星を理解することの意味であり、ソウルメイトとの縁を大切にして運命を変える“まぶたの表側のアプローチ”なのだ。 ところが人間関係から生まれる情愛を執着であると観じる“まぶたの裏側のアプローチ”では、ソウルメイトとの縁をないがしろにしてしまう。 仏陀たちが運命を変えられずに修羅の道に落ちるのは、そのためなのである。

仏陀たちは、おおかたの苦しみの原因は、己れがあるという思いによる無明であり、そこから起こる執着であると説く。 けれども執着を生むからという理由で情愛を捨てなければ生きられないとしたら…まさにその生き様が地獄である。 だいたい人生で遭遇する情愛の苦しみなんてものは、当たって砕ければほとんど消えてしまうもので、残りのことは時間が解決してくれる。 時間で解決できなかったことを自分で解決すればいいだけの話なのだ。 私は仏陀たちのように愛とロマンを失ってまで悟ろうとはおもわない。

そもそも人間の苦しみの原因は、こういう運命の皮肉にあるのではないだろうか。

(村上春樹『海辺のカフカ』にみる)運命の皮肉


 僕のまわりで次々にいろんなことが起きる。 そのうちのあるものは自分で選んだことだし、あるものはぜんぜん選んでいないことだよ。 でもそのふたつのあいだの区別が、僕にはよくわからなくなってきているんだ。 つまりね、自分で選んだと思っていることだって、じっさいには僕がそれを選ぶ以前から、もう既に起こると決められていたことみたいに思えるんだよ。 僕はただ誰かが前もってどこかで決めたことを、ただそのままなぞっているだけなんだっていう気がするんだ。 どれだけ自分で考えて、どれだけがんばって努力したところで、そんなことはまったくの無駄なんだってね。 というかむしろ、がんばればがんばるほど、自分がどんどん自分ではなくなっていくみたいな気さえするんだ。 自分が自分自身の軌道から遠ざかっていってしまうような。 そしてそれは僕にとってはひどくきついことなんだ。 いや、怖いっていうほうが近いかもしれない。 そう考えはじめると、ときどき身体がすくんでしまうみたいになるんだ。

村上春樹『海辺のカフカ』第21章より


運命の皮肉は、「意志あるところに道は通じる」という信念を意に介さないハゲ遺伝子のように、本人の努力の及ばないところで決定されているところにある。 もしも誠実さや正直さによって福楽が保証されるというなら、保険会社が儲かることは絶対にないだろう。 運命のカラクリが、微笑みと薄笑いの真ん中あたりの無気味な笑いを浮かべていて、スフィンクスの謎かけのように意地悪だから、人は不安になり、怖れと苦しみを生むのだ。

私は35-37歳のとき、父親と一対一の喧嘩をし、その宿星を理解することで、この運命の皮肉に打ち勝った。 運命の皮肉による不安は前世から持ち越してきた業が生み出していた。 前世の業が絵本の不吉な挿し絵のように私の頭上に暗い影を落としていたのである。 それは生まれながらの潜在的傾向、運命の青写真…さまざまな呼び方があるけれど、とにかくその業を解消する最後の鍵は父親との喧嘩にあったのだ。

もちろん私は、父を憎んだこともあれば、怨(うら)んだこともあるし、怒りに震えたこともある。 一対一の喧嘩をしたときには互いの心を傷つけあうことにもなった。 けれども、ただ坐ったままで、ガチンコ勝負の喧嘩を挑まず、それらを執着にすぎないと切り捨てていたら、私はいまでも運命の皮肉の前に悩み続けていたことだろう。 すでに喧嘩を終えた今、父と私は和解に至り、互いに理解しあえるようになっている。 だから私にはこう言えるのだ。 「一対一の喧嘩をするほど深い縁はない」と。 右の頬を叩かれたら、左右倍返しで殴り返してやれ! そうして完膚なきまでに叩きのめした後で、こう言い放つのだ。

― おまえも、まさしく強敵(とも)だった!!  ―
(by ケンシロウ 『北斗の拳』―「第209話 執念の業火果つ!の巻」より)

『北斗の拳』は、仏陀たちのように情愛を捨てるのではなく、情愛から生まれる哀しみや苦しみを背負うことでしか、人はタフになれないことを教えている。

― 最後におまえにききたいことがある。 愛や情は哀しみしか生まぬ…なのになぜ哀しみを背負おうとする。 なぜ苦しみを背負おうとする。  ―
(by サウザー 『北斗の拳』―「第97話 愛深きゆえに堕つ!の巻」より)

この問いをケンシロウに発したサウザーは、一子相伝の南斗鳳凰拳(なんとほうおうけん)を伝承するとき、掟にしたがって師と一対一の対戦をし、最愛の師を殺さなければならなかった。 ソウルメイトとの縁が切れて運命が変わるとき、そんな風に傷つけあった相手が人間として「死ぬ」瞬間に立ち会うこともある。 したがって、この“サウザーの問い”の裏を返せば、こういう疑問にもなるだろう。

(村上春樹『海辺のカフカ』にみる)サウザーの問い


 どうしてもわからないんだ。 なぜ誰かを深く愛するということが、その誰かを深く傷つけるというのと同じじゃなくちゃならないのかということがさ。 つまりさ、もしそうだとしたら、誰かを深く愛するということにいったいどんな意味があるんだ? いったいどうしてそんなことが起こらなくちゃならないんだ?

村上春樹『海辺のカフカ』第43章より


この“サウザーの問い”に対するケンシロウの回答が、ソウルメイトの宿星を理解して運命を変える鍵なのである。

― 哀しみや苦しみだけではない。 おまえもぬくもりを覚えているはずだ。  ―
(by ケンシロウ 『北斗の拳』―「第97話 愛深きゆえに堕つ!の巻」より)

最終的にケンシロウは苦痛を生まない北斗有情拳(ほくとうじょうけん)で強敵サウザーを葬(ほうむ)る。 人間として「死ぬ」選択をした者を軽んじて辱(はずかし)めるのではなく、心で泣いて哀しみを背負う者だけが運命の勝利者となるのだ。

老子の語る北斗有情拳


 兵法に金言あり。 ― 仕掛けていくより受けて立て、一歩出るより十歩引け― 。 こうした金言は、動かざるして動かす、気負うことなき腕まくり、徒手空拳(としゅくうけん)の楯、対せざるゆえの手綱むすびなどとも言えるだろうか。 相手を小馬鹿にして辱(はずかし)めることほど悪い結果をもたらすものはなく、そんなことをしたら大切なものをごっそり失ってしまいかねない。 したがって互いに武器をとりあって争わなければならないときは、心で泣いている者が勝利をおさめる。

布施仁悟訳 『老子 道徳経―下篇』第六十九章より


私はこうして運命を変えてきた。 もしも35-37歳の厄年までに運命の変え方を学ばなかったら、悟りをひらいた仏陀であろうと運命の皮肉の餌食になる。 けれども運命の変え方を学んだ者は、次に「カサンドラ伝説」に挑戦する資格を与えられることが『北斗の拳』に描かれている。

カサンドラ伝説
図:布施仁悟(著作権フリー)


『北斗の拳』のカサンドラとは、一度収容されたが最期、二度と生きて門を出ることのできない死封(しふう)の監獄島のこと。 この「北斗カサンドラ伝説」の設定は神隠しの世界の隠喩(メタファー)になっている。 神隠しの世界に足を踏み入れた人のほとんどが、仏陀たちの並べるゴタクに欺(あざむ)かれて、俗世に戻る出口を見失うからだ。

― カサンドラに生きるすべてのもの…たとえ虫ケラ一匹でも…ここからはい出ることはできん! それがカサンドラ伝説。  ―
(by ウイグル獄長 『北斗の拳』―「第54話 死の門をあけろ!!の巻」より)

このカサンドラの監獄には、トキが囚われていて、ケンシロウが来るのをずっと待っている。 カサンドラ伝説を破り、トキを解放したケンシロウは、トキから柔の拳を授けられるというのが物語の大まかなあらすじだ。

― あえて捕らわれの身になって待っていた。 おまえがくると信じて。  ―
(by トキ 『北斗の拳』―「第60話 北斗有情拳!の巻」より)

このあらすじは37歳位で始まる『創造の病』から40-42歳で体験するゲシュタルト転回までの寓意になっている。 35-37歳の厄年で前世から持ち越してきた業を解消することに成功すると、菩薩を目指す修行者は無想陰殺を体得できる。 つまり創造性が発現してきて『創造の病』がはじまるわけだ。 次の運命の課題は、カサンドラの監獄―すなわち神隠しの世界から如何にして脱出するか。 それは神隠しの世界から戻った俗世で創造性をどう活かすのかという課題でもある。

で、ここが『北斗の拳』の凄いところで、「カサンドラ伝説」に二重の意味を持たせている。 もともとのカサンドラ伝説というのは、ギリシア神話に登場する誰にも信じてもらえない予言をする王女の伝説のこと。 創造性が発現した当初というのは、その王女カサンドラと同じ状況に立たされる。

これは村上春樹の『海辺のカフカ』にある「元祖カサンドラ伝説」の注釈。

(村上春樹『海辺のカフカ』にみる)元祖カサンドラ伝説


 カッサンドラは予言をする女なんだ。 トロイの王女だ。 彼女は神殿の巫女(みこ)になり、アポロンによって運命を予知する能力を与えられる。 彼女はその返礼としてアポロンと肉体関係を結ぶことを強要されるがそれを拒否し、アポロンは腹を立てて彼女に呪いをかける。

 (中略)

 彼女の口にする予言はいつも正しい。 しかし誰も彼女の予言を信じないだろう。 それがアポロンのかけた呪いだ。 おまけに彼女が口にする予言はなぜか不吉な予言ばかりだ―裏切り、過失、人の死、国の没落。 だから人々は彼女を信じないばかりか、彼女をさげすみ、憎むことになる。

村上春樹『海辺のカフカ』第17章より抜粋


私は厄年の概念と現象の観察から演繹(えんえき)的に運命の法則を導き出し、それを「星まわりの科学」と呼んで、この『坐禅作法』シリーズで紹介してきた。 私にとっては人生の勝負どきを知るツールとして活用するための研究だったのだけれど、どうやらそれが不吉な予言に聞える人もいたらしい。

人間なら誰しも星まわりの法則に支配されていて、求道者の星まわりから外れたら、それほど良い人生にはならない。 私たちの生きている現象世界がそういう法則で成り立っているのであれば、その法則を逆手に取って運命に挑むことが、人間を深め、タフにするはずだと私は信じていた。 それがより高い次元への救いの扉を開く鍵になるはずだと。

ところが読者の反応は私の想定を大きく覆(くつがえ)すものだった。 ある人は「私を洗脳しようとするな」と抗議してきたし、「私は貴方に束縛されているみたいだ」と言いがかりをつけてきた人もいるし、「私は地獄に落ちてしまうのでしょうか」と泣きついてきた人もいる。 だいたい星まわりの科学を信じようとした人たちだって、そのほとんどが自分に理解できる部分だけを持ち出して都合よく曲解しているだけだった。 そこにあったのは、あからさまな拒否反応だったのだ。 誰も私の研究を正当に理解できない…それが私の直面した元祖カサンドラ伝説である。

それは自我の障壁だった…その前では論理や法則を武器に外部から斬りつける方法は通用しない。 自我の障壁を築きあげている人たちのオツムは、アマガエル一匹なみの知性しかないようなもので、彼らの自我の障壁を打ち破るには内部から破壊する必要がある。 カサンドラ伝説を破るには、人知れず自我の障壁の内部に忍び込む究極の暗殺拳…北斗神拳を身につけなければならなかったのだ。

すなわち、『創造の病』における運命の課題とは、妙法蓮華経による自我暗殺の技法―北斗神拳を学ぶことだったのである。 その『創造の病』に入ったときにまず困ったのは、仏陀たちはカサンドラ伝説に挑戦するまでもなく、その前段階で菩薩への道から脱落しているので、それまでガイドブックとして読んできた経典類が役に立たなくなったことだ。

ゲシュタルト転回〜経典の性格的考察〜
図:布施仁悟(著作権フリー)


聖人の道から仏陀の道へのゲシュタルト転回では、釈迦の『法句経』にある教えに従った方がいい。 非情の剛拳を伝える仏陀たちの教えは、その移行を円滑にしてくれるからだ。

しかし、その経典は仏陀の道から菩薩の道へのゲシュタルト転回の場面では使えない。 そこではまったく新しい教えを伝授される必要がある。 あたかも春のおだやかな光のなかで新たに手にした教科書をぱらぱらとめくるように。 『北斗の拳』ではトキの柔拳がその教えを象徴していた。

『北斗の拳』という物語の特徴は、登場人物の象徴しているものが場面によってコロコロ変わることだ。 トキに関して言えば、トキ対ラオウの場面では聖人対仏陀の構図だったものが、トキ対ケンシロウの場面では菩薩対菩薩見習いに変わる。 特にカサンドラ伝説の一幕のトキは、ケンシロウに菩薩の道の教えを伝授する重要な役割を担っていた。

その場面でトキがケンシロウに伝授する柔拳こそ菩薩の道の教え。 それは老子『道徳経』の教えにほかならない。

― 激流を制するのは静水…激流に対し激流で立ち向かっても、のみこまれ砕かれるだけだ!!  ―
(by トキ 『北斗の拳』―「第68話 血を呼ぶ宿命!の巻」より)

このトキの台詞は、老子『道徳経』の代名詞とも言える第八章の四字熟語を意味している。
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この思想を最もわかりやすく説いてあるのは老子『道徳経』の七十八章だろうか。

老子の語るトキの柔拳


 天下に水より柔らかでかよわいものはない。 けれども堅くて強いものを打ち負かすのに、それに勝るものはない。 ほかにそれに代わるものは何ひとつない。 結局最後には、かよわきものが強きものを尻に敷き、剛直なものが物腰のやわらかなものの尻馬に乗る。 これは天下に知らない者はひとりもいないのに、誰にも実践できない道理である。

布施仁悟訳 『老子 道徳経―下篇』第七十八章より


上善如水の教えは、本当にタフな人は剛拳ではなく柔拳を身につけている、という教えである。 固い障壁を自分の周囲に築きあげるのではなく、水のようにどんなものでも自然に受け流せる人が最もタフなのだと。

そのタフさは、仏陀たちのように、誰にも傷つけられず、心も移ろわず、時間も流れない“まぶたの裏側”に隠れ、現実をはねつけるための障壁を築いていたら身につかない。 人々が傷つき続け、心が移ろい続け、時間が流れ続ける“まぶたの表側”に立ち、現実に立ち向かわなければタフにはなれないのだ。

この「柔拳のタフ」については、村上春樹の『海辺のカフカ』で、こんな風に表現されている。

(村上春樹『海辺のカフカ』にみる)柔拳のタフ


 僕が求めているのは、僕が求めている強さというのは、勝ったり負けたりする強さじゃないんです。 外からの力をはねつけるための壁がほしいわけでもない。 僕がほしいのは外からやってくる力を受けて、それに耐えるための強さです。 不公平さや不運や悲しみや誤解や無理解―そういうものごとに静かに耐えていくための強さです。

村上春樹『海辺のカフカ』第21章より


この上善如水の教えは、天下に知らない者は一人もいないのに誰にも実践できない、と老子は言う。 それはたとえば仏陀たちのように、人間として「生きる」ことをやめて修羅の道に落ちたら、運命の流れが本来あるべき方向には向かわないからである。 あるいはニーチェのように、修羅の道に落ちることなく『創造の病』に入れたとしても、自我の障壁に対して論理や法則を武器に外部から斬りつけ続けたら、やはり、運命の流れは本来あるべき方向には向かわない。 そのままでは彼らがどんなに水のごとく流れようとしても上善にはなり得ないのである。

その理由は、彼らが老子『道徳経』の秘奥義を知らないことにある。
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その光を和(やわ)らげ、その塵(ちり)に同じくす。 これは妙法蓮華経による自我暗殺の技法―北斗神拳を学ぶ者が胸に刻む暗殺者の掟だ。 すなわち和光同塵の教えは、妙法蓮華経を読めるようになった者だけが真意を知る秘奥義になっている。 この和光同塵に至って、ようやく人間は本来あるべき道の上に立ち、水のごとく運命の流れに乗るのだ。 それゆえに老子の教えは『道徳経』と呼ばれる。

和光同塵の教えを実践できる者は天下に極めて少ない希少価値を持つと老子は言う。

老子の語る暗殺者の掟


 知る者は語らず、語る者は知らず。 あふれでる才気の穴を塞ぎ、こぼれでる才気の門を閉ざす。 血気さかんなぎらぎらの鋭気をへし折り、魑魅魍魎(ちみもうりょう)の入り乱れた雑踏のただ中をそぞろ歩く。 人目を惹くぴかぴかの才気をひた隠し、なんでもないもののただ中に透けこむ。 これを玄同(げんどう)― 知られざる同調― という。 才気があるからといって、親疎(しんそ)の分別をするものではない。 利害の分別をするものでもなければ、貴賎(きせん)の分別をするものでものない。 それゆえに天下に極めて少ない希少価値を持つ者となる。

布施仁悟訳 『老子 道徳経―下篇』第五十六章より


私は老子『道徳経』の秘奥義を知り始めてから、オーディオ機器のボリュームをしぼるように、仏陀たちの声を頭の中から消していった。 そうして『道徳経』の教えが腹にしみるようになる頃に、カサンドラの監獄から脱出した。 すなわち神隠しの世界から俗世に戻る出口のトンネルが見えてきたわけだ。 ただし、本来あるべき運命の流れに乗り、菩薩の道の上を歩き出すまでには、最期の試練が待っている。

その最期の試練は「トキの秘孔縛(ひこうばく)」として『北斗の拳』に描かれている。

トキの秘孔縛
図:布施仁悟(著作権フリー)


カサンドラ監獄からの出口は、42歳の後厄でツインレイと再会したときから見えてくる。 けれども愛は人に哀しみを背負わせるものだ。 その再会は別れの覚悟を確かめるような儀式になってしまうだろう。 しかしその儀式を終えたとき、ツインレイの彼女は運命のジグソーパズルの最後のかけらを手渡してくれる。

― 二人は今まさに運命の岐路に…そして、どちらを選ぶかは二人の心が決める…  ―
(by 霞拳志郎 『蒼天の拳』―「第136話 運命の岐路!!の巻」より)

これはツインレイの再会の儀式を歌った松任谷由実の『満月のフォーチュン』の歌詞。

『満月のフォーチュン』〜 ツインレイの再会の儀式 〜


 待ってたのかもしれない
 このときを いつからか
 友達とちがうサイン
 気づかずに投げ合って

 ジグソーのかけらの
 最後をきみにあげる

 動き出すフォーチュンに
 飛び乗る勇気を
 確かめるまなざしが 二人のはじまり

松任谷由実『満月のフォーチュン』(1990)より


ソウルメイトとのめぐり逢いが人の運命を変える。 しかしながら、めぐり逢えたら僕らは離れてゆく…というのがツインレイの男女の宿命だ。 運命は残酷なのか、慈悲深いのか、よくわからなくなってくる。

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私の妙法蓮華経を読み解く能力は、その意味を探る中で覚醒していった。 その意味を私に教えてくれたのは、人知れず大衆文化の中に透け込んでいた妙法蓮華経だったのである。

ツインレイの彼女と私は、互いを切実に必要とし、激しく求めていた。 でも彼女のツインレイとしての宿星がそれを口に出すことを押しとどめていたらしい。 だからこそ、まわりくどい方法で、謎かけのような言葉に変えて、必死に何か大きな秘密のようなものを私に伝えようとしていたのだ。 そう思うと、私の胸は熱くなり、私の中で凍りついていた非情さを溶かし去っていった。

私はそこに愛を見つけた。 愛はそこにあったのだ…私にはそれがわかる。 ツインレイの彼女が愛を教えてくれた。

けれども、そこでは別の誰かが私を呼んでいた。 誰かが私を求めていた。 まだ幼かった頃の私のように、声にならない声で、言葉にならない言葉で。 けがれもないままに道を探し、私から手が差しのべられるのをじっと待っている誰かがいた。

ツインレイとの再会の儀式の意味を私に教えた妙法蓮華経は、私が15-16歳で思春期を迎える以前、大衆文化の中に当たり前にあったものだった。 それを私は、好きも嫌いもなく、ひとつ残らず吸収していただけなのだ。 なにを残して、なにを捨てるべきかは、その後で決めればよかった。 ところが現代の大衆芸術の中には吸収すべきもの自体がない。 少年少女にとって、こんなに不幸な時代はかつてなかったとおもう。

私は踏みとどまらなくてはならなかった。 「そのあと二人はいつまでも幸せに暮らしましたとさ」という昔ばなしのようなわけにはいかない。 何よりまず、少年少女たちに手を伸ばすための手だてを見つけなくてはならない。 そう気づいたとき、愛は、私がかつて置き去りにしてきた世界を再構築しはじめ、引き返す価値のある俗世の場所を指し示した。 それが私のやるべきことの続きだった。

― 誰かが…誰かが愛を説かねばならぬ。 それが北斗神拳伝承者の宿命と知れ! ―
(始祖シュケンの遺言 『北斗の拳』―「第207話 北斗神拳創造!の巻」より)

「トキの秘孔縛」は、こうした洞察によって意識を転換し、やるべきことの続きを思い出すまで、運命が流れ出さないことを象徴している。

― 秘孔・新胆中(しんたんちゅう)を突いた…おまえの体はわたしの声がかからぬ限り動かぬ。 ―
(by トキ 『北斗の拳』―「第70話 静水のようにの巻」より)

このあたりのことを悟りの軌道理論にあてはめると、こんな感じの時系列になるだろうか。

悟りの軌道理論〜北斗の拳的考察〜
図:布施仁悟(著作権フリー)


最終的に、トキの秘孔縛はケンシロウの魂の力によって破られることになる。 その魂の力を引き出すため、何人もの登場人物が世紀末救世主としての使命をケンシロウに教えようとするのだけれど、このあたりのことは、ヨガナンダが講話録でこう語っている。

ヨガナンダの語るトキの秘孔縛破り


 神は小説家としても超一流です。 ですから、人は創造活動の複雑な筋書きや矛盾に戸惑いを感じさせられるのです。 その謎を解こうとしても途方に暮れるだけです。 しかし、あなたが神を見つけたとき、その最後の章で、神は人生のあらゆる謎を解いてくださるでしょう。 そして、その答えを知ったとき、あなたはただ神の英知に感嘆するほかはないでしょう。 それは私が経験したことです。

パラマハンサ・ヨガナンダ『人間の永遠の探求』P.176「講話二十一 ほほ笑みの百万長者になれ」より


トキの秘孔縛は、ここでヨガナンダの言っている「最後の章」だ。 そのとき創造主は、修行者が出口に近づいていることを確信できるように、人生のあらゆる謎を少しずつ解明してくれる。 自分の宿命を知ると同時に、今までどうやって導かれてきたのかを知るのは、このときだ。

世の中のひとつひとつの現象のあいだには、一見すると何の繋がりもないように映るかもしれない。 そのため、自分がどこにも繋がっていないような気分になり、間違った場所で、間違った時間を消耗し、間違った道の上を歩いているように感じるのだ。 けれども妙法蓮華経を読めるようになれば、そこに形而上(けいじじょう)的な繋がりのある超現実が形づくられていることが判(わか)る。

なかでも私が最も驚いた妙法蓮華経は『北斗の拳』だった。 私という人間の存在理由が、小中学生の頃に読んでいた漫画の中に書かれている!? しかも私のソウルメイトたちが、この物語の中にそっくり描かれていたため、ゆで卵の殻をつるりと剥(む)くように彼らの宿星が明らかになった。 私はそれによって謎のまま通り過ぎるしかなかった人生の空白を埋め、ミッシングリンクを充当することができたのだ。 私は『北斗の拳』から、自分の宿命と二人きりで差し向かう勇気をもらった。

何かが私のまわりで形をとりはじめ、こんな小さな命の心の叫びまで聞こえてきた。

― 消えてしまう…せっかく生まれようとしている小さな光まで消えてしまう!! ケン動いて!! おねがいケン動いて!! ケン…ケンがいなければ、ちっぽけだけど小さな光が消えさってしまう!! あと救えるのはケンしかいないのよーっ!! ―
(by リン 『北斗の拳』―「第71話 その秘孔縛を解け!の巻」より)

できれば北斗神拳伝承者みたいな死神の宿星ではなく、つつましい市井(しせい)の人生がよかった。 けれども私はすでに普通の人たちとは成り立ちが違い、まったく普通ではない生き方しかできなくなってしまったらしい。 たしかに、この時代に愛を説く資格を持っているのは私しかいないようだった。 こうなったら仕方がない…この布施仁悟が第64代北斗神拳正統伝承者「ケンシロウ」を襲名(しゅうめい)してやろう!

以下はアニメ映画『千と千尋の神隠し』の主題歌のひとつ『いのちの名前』。 神隠しの世界から俗世に戻るためには、仏陀の道で名乗っていた戒名(かいみょう)を捨て、菩薩の道を歩むための“いのちの名前”を襲名する必要があるのだ。

『いのちの名前』〜 戒名の真実 〜


 未来の前にすくむ心が
 いつか名前を思い出す

 叫びたいほど いとおしいのは
 ひとつのいのち
 帰りつく場所
 わたしの指に 消えない夏の日

作詞:覚和歌子 作曲:久石譲『いのちの名前』(2001)より


この歌詞のうち、「ひとつのいのち」とは次世代のツインシャドウの幼い汚れなき心。 「帰りつく場所」とは引き返す価値のある俗世の場所。 「わたしの指に消えない夏の日」とはツインレイとの再会の儀式の日のことである。

こうして、いのちの名前を思い出すとき、トキの秘孔縛を破る魂の力が湧きあがってくる。 菩薩はそうやって世に出て行くのだ。

― 破ったのはおれの肉体ではない。 あくまでも人間として生きようとする幼い汚れなき心…心が秘孔を破ったのだ!! ―
(by ケンシロウ 『北斗の拳』―「第71話 その秘孔縛を解け!の巻」より)

ここまできたら、タケカワユキヒデが歌っていた仏陀の道の正しい出口の意味がわかるとおもう。

『銀河鉄道999』〜 仏陀の道の正しい出口 〜


 そうさ君は気づいてしまった
 やすらぎよりも素晴らしいものに
 地平線に消える瞳には
 いつしかまぶしい男の光

 あの人の目がうなづいていたよ
 別れも愛のひとつだと

 The Galaxy Express 999
 Will take you on a journey
 A never ending journey
 A journey to the stars

作詞:山川啓介/奈良橋陽子 作曲:タケカワユキヒデ『銀河鉄道999』(1979)より


かつての日本には「完璧なアニメは主題歌まで完璧になる」という法則があって、1979年に公開されたアニメ映画『銀河鉄道999』もその法則にのっていた名作だった。 これはその主題歌の二番である。 『銀河鉄道999』は『宇宙戦艦ヤマト』と並ぶ松本零士(まつもとれいじ)の代表作なのだけれど、松本零士作品というのは全体のあらすじに重要な意味を持たせるのが特徴だ。

― 主人公の星野鉄郎は、機械の体を手に入れて生老病死の苦しみから逃れるため、機械の体をタダでくれるという星に向かって旅に出る。 けれども結局、機械の体を手に入れることはネジや歯車になって生きるようなものだと気づいて地球に帰ってくる。 ―

そんな物語なのだけれど、この映画は、仏陀の道に入った者が修羅の道に落ちることを批判した大乗仏教の説話になっていることが分かるだろう。

この歌詞の中で最も解釈が難しいのは、第二句にある「地平線に消える瞳には/いつしかまぶしい男の光」という部分だとおもう。 ここは同じ年にリリースされた久保田早紀の『異邦人』とリンクしている部分で、地平線というのは「空と大地がふれ合う彼方/過去からの旅人を呼んでる道」のことだ。 その道があらわれたときに覚醒する第三の眼のことを歌っているのである。

矢印マーク 銀河鉄道999 (劇場版)


 1979年公開作品

 諸君!「エバーグリーン」という言葉を知ってるか?
 たぶん、この作品がそれなのだろう。いつの時代も…
 こういう作品を誰かが創らなきゃイカンのである。


秘孔―詞宝林

『北斗の拳』は預言書の性格を持っている。 小泉純一郎が種もみ爺さんだったように、『北斗の拳』の登場人物たちは21世紀の日本に実際に出現しているのだ。 どうしてそんなことが起こるのかは、私が教えて欲しいくらいである。

しかしながら、『北斗の拳』は妙法蓮華経なので、誰もが目や耳にしていながら、誰も読むことができない謎の経典になっている。 そのため、小泉純一郎が『米百俵』の所信表明演説をしたときにも、「おおっ、種もみ爺さんが現れた!」とは誰も言わなかった。 あまつさえ『北斗の拳』は特殊な経典で、第64代北斗神拳伝承者ケンシロウにしか読み解けない文字で書かれているらしい。

― ケンよ…おまえは泰聖殿で、ある聖塔をみい出すであろう! そして、そこに記された文字を解読する力は、おまえだけに隠されている。
 秘孔・詞宝林(しほうりん)を突くがいい…その時、その力は意識の底より湧き出でる!!
 ―
(by ヒョウ 『北斗の拳』―「第200話 眠れる愛!の巻」より)

ここでいう「泰聖殿の聖塔」というのは『北斗の拳』シリーズのことで、その碑文を解読する力は、第64代北斗神拳正統伝承者として選ばれた菩薩だけが具えていると言っているのである。

さて、私がその第64代北斗神拳伝承者ケンシロウであるからして、 その能力は私の中に装置として埋め込まれているらしい。 どれどれ…その秘伝の秘孔を突いてスイッチを入れてみるとしようか…
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というわけで人類の愛と平和のために特別に解読してあげるのである。 まず「泰聖殿の聖塔」の碑文とは、とりわけ2018年に製作されたアニメ『蒼天の拳 REGENESIS』を指している。

― おまえはそこでひとりの男の生涯を瞬時に体験するだろう。 ケンよ…その男とともに人の世の限りなき哀しみに涙するがいい!! そして天を衝く怒りに身を震わせるのだ!! その男の大いなる遺言を伝承するのだ!!
 そして最後に…
 ―
(by ヒョウ 『北斗の拳』―「第200話 眠れる愛!の巻」より)

ここにある「ひとりの男の生涯」というのは、『蒼天の拳 REGENESIS』の主人公―第62代北斗神拳伝承者・霞拳志郎(かすみけんしろう)の生涯のことである。 このことは2001年から『週刊コミックバンチ』で連載を開始した『蒼天の拳』の冒頭で明かされた。 それは197X年のケンシロウ生誕の場面だった。

― 一九七×年 日本…
この子には我が兄上・拳志郎の名をもらい…名づけよう! ケンシロウと!!
そして、いつかこの子に聞かせよう。 あの蒼天のようだった兄上の話を!!
 ―
(by リュウケン 『蒼天の拳』―「第1話 賞金首・閻王の巻」より)

これは、197X年の日本に生まれた子供が第64代北斗神拳伝承者に選ばれたとき、霞拳志郎の生涯の物語を聞かせようという未来の約束なのだ。 また「この意味を解読できた者は“ケンシロウ”をいのちの名前とするがいい」という指示でもある。 そして197X年生まれの男の子のうち、1974年生まれの私・布施仁悟が一番乗りで解読した人物になった。

で、『蒼天の拳 REGENESIS』の主人公・霞拳志郎は、第二次世界大戦前の1930年代を舞台に、その時代に生まれたミガドルの雷(いかずち)―いわゆる核爆弾の開発を阻止して死んでいく。 つまり『蒼天の拳 REGENESIS』は、ケンシロウに伝承するべき遺言を持った「ひとりの男の生涯」になっているのだ。 そこで語られた「その男の大いなる遺言」とは、こういうものだった。

― [霞拳心] ここで俺が倒れても、いずれミガドルの雷は生み出される。
 [霞拳志郎] かもな…だが北斗神拳伝承者とて人の子だ。 せいぜい愛すべき者を守ることくらいしかできない。 あとのことは、あとのやつにまかせるさ。
 ―
(by 霞拳心&霞拳志郎 アニメ『蒼天の拳 REGENESIS』―「第24話 霞拳志郎と云う漢」より)

その遺言は、2018年に入っていよいよ復活してきたアンゴルモアの大王の野望―核戦争を阻止しろということと、その役割を第64代北斗神拳伝承者ケンシロウに託すというものだった。

アンゴルモアの大王というのは、ノストラダムスの予言に登場するアイツである。

『ノストラダムスの予言』〜 アンゴルモアの大王 〜


 1999年7か月
 空から恐怖の大王が来るだろう
 アンゴルモアの大王を蘇らせるために
 その前後、マルスは幸福の名のもとに統治するだろう

百詩篇 第10巻72番より


2018年は、かつて第二次大戦のうねりを生んだナショナリズムの台頭が世界中で顕著になってきた年。 ちょうど1918年の第一次大戦終結から100年を迎えたため、パリで記念式典が開かれたのだけれど、そこで演説したフランスのマクロン大統領がアンゴルモアの大王の復活を宣言した。

仏マクロン大統領 第1次大戦終結100周年記念式典演説『古い悪魔』


 第一次世界大戦後、屈辱や復讐心、経済危機や道徳の危機が、ナショナリズムと全体主義を作り出していきました。 いま「古い悪魔」が再び現れつつあり、混沌と死をもたらそうとしています。

2018年11月11日


ノストラダムスの予言にあるマルスというのは火星(MARS)に象徴される軍神を意味するから、アンゴルモアの大王が復活した以上、そう遠くないうちに第三次世界大戦が起こるのかもしれない。 その終結により、「終わりの見えない対テロ戦争」がなかった1999年7月以前の世界に戻るという予言なのだろうか。 どちらにしろ、核戦争の脅威を世界に訴えられるのは唯一の被爆国である日本だけだ。 この時代にわれわれ日本人の果たすべき役割は重大である。

2018年に製作されたアニメ『蒼天の拳 REGENESIS』は、この予言とまったく無関係の物語ではなかった。 というのはマクロン大統領のいう「古い悪魔」の誕生した時代を描いているからだ。 そのほか2016年から製作されている『ハリーポッター』シリーズの続編『ファンタスティック・ビースト』シリーズも、同じく「古い悪魔」が生まれた時代の物語になっている。

矢印マーク ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅


 2016年公開作品

 恐怖の大王の降臨を描いたのが『ハリー・ポッター』シリーズなら 、アンゴルモアの大王の復活劇を描いているのが、この『ファンタスティック・ビースト』シリーズなのだ。 J.K.ローリングはすごい!


この二つの作品のような時代に警鐘を鳴らす物語は、偶然の一致ではなく必然の一致として創造されていることを認識したほうがいい。 つまり、どちらの作品も「君たち人類があまりにマヌケだから、アンゴルモアの大王が復活しちゃったじゃないか」と訴えているのである。 まあ復活しちゃったものは仕方がない。

そこで世紀末救世主伝説『北斗の拳』シリーズなのだ。 これはアンゴルモアの大王支配下のダークサイドに対抗するライトサイドの物語。 そのためアンゴルモアの大王が復活する2018年に物語が完結するように創造されてきたのだ。 この預言書に書かれているのは、アンゴルモアの大王の復活に抵抗して散っていったルネサンスの騎士たちの物語なのである。

私がとにかく気に入らないのは、この日本に土着する無抵抗気質であり、種もみ爺さん・小泉純一郎をたたえて今日より明日に挑み続けるどころか、手のひらを返したように明日より今日の選択をしている腑(ふ)ぬけた国民性である。 諸君、頼むから少年時代を思い出してほしい。 かつて一緒に『北斗の拳』を読んでいた同志諸君! 無抵抗はアンゴルモアの大王には通用しないんだぞ。

― 意志を放棄した人間は人間にあらず!! ただ笑いと媚びに生きてなにが人間だ。
 よいか!!この拳王には無抵抗は武器にはならぬ!!
 ―
(by ラオウ 『北斗の拳』―「第107話 人間の証!の巻」より)

『北斗の拳』における狂える恐怖の暴凶星ラオウとは、ほかでもない、アンゴルモアの大王の隠喩(メタファー)なのだ。 それに対するのは第64代北斗神拳伝承者ケンシロウ一人ではない。 北斗神拳伝承者とて人の子だ。 せいぜい人々の心ひとつひとつを束ねるシンボルを創造することくらいしかできないのだから…

みなのもの、このシュウの遺言を忘れたとは言わせんぞ!

― みなも聞くがよい。 今、動くことはない。 おまえたちの中にある心が動いただけで十分だ。 その心が、いずれこの世に再び光をもたらすであろう。 心ひとつひとつが大きな束となった時に。  ―
(by シュウ 『北斗の拳』―「第92話 宿命の道!の巻」より)

まだ見ぬルネサンスの騎士たちよ。 いま諸君に真実を告げる時がきた。 無抵抗の時代から抵抗の時代への転換を告げるために現れ、明日の礎(いしずえ)となるべくして散っていった男たちの物語を聴け! 諸君は決して古い悪魔に魂を売ってはいけない。

― わたしは悪魔には従わない。 たとえどんなことがあっても悪魔に屈したら人間じゃなくなる…そうケンは教えてくれたもん。  ―
(by リン 『北斗の拳』―「第63話 小さな勇者!の巻」より)

矢印マーク 蒼天の拳 REGENESIS 第1巻<アニメ>


2018年―北斗の物語は完結へと動き出した

舞台は、ナショナリズムが台頭し、「古い悪魔」のうごめいてた1930年代。 2018年現在の世界を包む空気はその時代の背景とよく似ている。 人類は同じ過ちを再び繰り返そうとしているのだろうか? 拳志郎、蒼天に死す…この男の大いなる遺言を伝承するのだ!

黒雲水

南斗六星―相棒(バディ)たちの宿星

青雲水

『北斗の拳』の南斗六星は相棒(バディ)たちの宿星を象徴している。 すなわち主要なソウルメイトの類型モデルになっているのだ。

― 南斗六星はおのおのがひとつの宿命を持っている!  ―
(by ユダ 『北斗の拳』―「第78話 妖星の赤き牙!の巻」より)

南斗六星〜ソウルメイトの類型モデル〜
図:布施仁悟(著作権フリー)


『北斗の拳』は、197X年の日本に生まれてケンシロウに選ばれる少年を導くための物語なので、原則としてケンシロウのソウルメイトが描かれている。 そのため、ケンシロウに選ばれる道―すなわち北斗神拳伝承者になる道から外れなければ、将来こういうソウルメイトに出会うだろうという助言になっていたのだ。 こうした人生の体験とともに深みを増す作品はそうそう巡りあえるものじゃない。

『北斗の拳』が『週刊少年ジャンプ』誌上に連載されていた1983-1988年というのは、『週刊少年ジャンプ』が驚異的な発行部数を誇った黄金期と呼ばれているのだけれど、それはすべて2018年にケンシロウを生み出すために起きた現象だったらしい。 『北斗の拳』は少年向け雑誌の漫画にしては扱(あつか)っている主題が深遠(しんえん)で、物語の展開も複雑で難しかったため、『北斗の拳』を読ませるためには客寄せパンダみたいな他の連載漫画も必要だったのである。 布施仁悟少年も『キン肉マン』や『ドラゴンボール』といった他の作品を目当てに買って読んでいた。

本物の芸術作品は、人生に対する深い洞察力が成熟してこないことには、どうしても埋まらない空白を持っている。 その空白をみずからの内的体験によって埋めたとき、その作品は鑑賞した人物の中ではじめて完成するのだ。 すなわち未完の空白こそ優れた芸術作品の証しなのである。 『北斗の拳』の作者である原哲夫と武論尊は、神おろしの沙庭(さにわ)に座り、鑑賞を終えた後からはじまる繰り返しの吟味に耐えられるだけの未完の空白を世に送り出していた。

このような未完の空白は「難解」とか「退屈」とか「冗長」という印象を与えるため、平成の時代になると毛嫌いされるようになったのだけれど、ジャンプ黄金期の少年たちは『キン肉マン』や『ドラゴンボール』につられて、そういう未完の空白に触れる貴重な原体験をしていた。 すなわち、当時『週刊少年ジャンプ』を読んでいた少年たちは、誰もが北斗神拳伝承者ケンシロウになる資格を持っていたとも言えるのだ。 かくいう私も『北斗の拳』の熱心な読者ではなかっただけに、私のような厚顔無恥のろくでなしがケンシロウを襲名することは、申し訳ない気分でいっぱいである。

当時『週刊少年ジャンプ』を読んでいた少年のみなさん。 すみません、私がケンシロウになっちゃいました。 でも、いまの時代、みなさんの力が必要なのです。 私と一緒に狂える恐怖の暴凶星ラオウ退治に出かけましょう。 北斗印のきびだんご。 あなたにも、ひとつあげたい。

というわけで南斗六星の解説である。 おそらく、みんなのまわりにも似たような人がいるとおもう。


義星のレイ〜道案内をする男〜

義星(ぎせい)のレイは、南斗水鳥拳(なんとすいちょうけん)の伝承者で、ケンシロウの盟友として描かれる。 二人は生きざまがよく似ているので互いに分かりあうことができるのだ。

― 同じだ…おれもかつてひとりの女のためだけに生きた。 そして死闘の果てに残ったものは、たとえようもない孤独だけだった。 おれは…おまえとは闘いたくないだけだ…。  ―
(by ケンシロウ 『北斗の拳』―「第35話 岩を裂く拳!の巻」より)

私にとっては中学時代の相棒(バディ)の一人が義星のレイだった。 斉藤由貴のアルバムを聴いていたのも、村上春樹を競いながら読んでいたのも、彼の影響である。 義星のレイは興味を惹かれるものが共通している親友のことなのだ。 おそらく誰にでも、少年時代の幸せな記憶の傍(そば)にいつも立っていた男がいるだろう…たぶん、そいつが義星のレイだ。

― おれはおまえといると、ふと昔を思い出す。 おまえはなぜか平和な時代のなつかしい匂いがした。  ―
(by レイ 『北斗の拳』―「第35話 岩を裂く拳!の巻」より)

義星のレイは15-16歳以前の少年時代に出会う相棒。 彼は三障の闇の十字架を背負う以前の“なつかしい匂い”を漂わせている。 大人になった自分に少年時代を思い出させてくれるタイムマシンのような存在…それが義星のレイなのだ。 そのためレイの存在自体がこんな疑団(ぎだん)を生む触媒(しょくばい)になってくれる。

(村上春樹『海辺のカフカ』にみる)レイのもたらす疑団


 フルニエの流麗で気品のあるチェロに耳を傾けながら、青年は子どもの頃のことを思い出した。 毎日近所の河に行って魚や泥鰌(どじょう)を釣っていた頃のことを。 あの頃は何も考えなくてよかった、と彼は思った。 ただそのまんま生きていればよかったんだ。 生きている限り、俺はなにものかだった。 自然にそうなっていたんだ。 でもいつのまにかそうではなくなってしまった。 生きることによって、俺はなにものでもなくなってしまった。 そいつは変な話だよな。 人ってのは生きるために生まれてくるんじゃないのか。 そうだろう? それなのに、生きれば生きるほど俺は中身を失っていって、ただの空っぽな人間になっていったみたいだ。 そしてこの先さらに生きれば生きるほど、俺はますます空っぽで無価値な人間になっていくのかもしれない。 そいつは間違ったことだ。 そんな変な話はない。 その流れをどこかで変えることはできるのだろうか?

村上春樹『海辺のカフカ』第34章より


南斗六星に共通するキーワードは「27」だ。 27歳には運命のクロスロードがある。 彼らはそこからみずからの宿星にしたがって動き出すらしい。 そもそも私が27歳のときに東京から故郷の札幌に帰ったのは、レイから長い間途絶えていた年賀状が送られてきたからだった。 そのとき私は「レイに呼ばれている」と思ったのを覚えている。 そうしてレイと再会したとき、私の中に根源的な疑団が生まれた。 思えば、それが30代の探求のはじまりだったのである。

そのときから義星のレイが果たした宿命は「道案内をする男」。 つまり、私を33歳夏のぷっつん体験へ導くのが彼の宿星だった。 そのため『北斗の拳』のレイは、マミヤという女と二人でケンシロウをカサンドラの監獄へと道案内する。 マミヤはぷっつんレディ4号の隠喩(メタファー)になっていて、かなわぬ恋と分かっていながらケンシロウを支えようとする女性。 レイはマミヤの宿命を知るがゆえに、マミヤを静かに見守る男として描かれている。

― [レイ] やつの心の中にユリアがいるかぎり、だれもやつの心を開くことはできんぞ!!
 [マミヤ] わかってるわ。 ただ少しでも、ケンの宿命を…あの人の苦しみを救いとってあげたい。
 ―
(by レイ&マミヤ 『北斗の拳』―「第52話 飢えた荒野!の巻」より)

現実のレイとマミヤの二人は、どちらが言い出すともなく、交代で先に立ったり、後ろについたりしながら、ぷっつん体験から創造の病までの道案内をしてくれた。 ときには、私がどこまで耐えられるのか、私の意志の力を試しているみたいに思えることもあった。 役割分担としては、レイが33歳夏のぷっつん体験まで、マミヤが37歳の創造の病までの案内役だった。 私はレイとマミヤに導かれてカサンドラの監獄にたどりついたのである。

― ここを登りきればみえるはずよ! これがカサンドラ。 またの名を鬼の哭(な)く街!!  ―
(by マミヤ 『北斗の拳』―「第53話 伝説をつくる男たち!の巻」より)

遠くで汽笛を聞きながらの構造1〜 27歳の帰郷 〜


 悩み続けた日々が
 まるで嘘のように
 忘れられる時が来るまで
 心を閉じたまま

 暮らして行こう

 遠くで汽笛を聞きながら
 何もいいことがなかったこの街で

作詞:谷村新司 作曲:堀内孝雄『遠くで汽笛を聞きながら』(1976)より


これは谷村新司と堀内孝雄の『遠くで汽笛を聞きながら』の歌詞。 ちょうど27歳の運命のクロスロードで故郷に帰った男の歌になっている。 三障の闇に呑(の)みこまれた15-16歳以前の自分を取り戻すためには、ひとまず出発点のある故郷に帰らなければならない。 そのとき故郷に帰るように手招きしてくれるのがレイなのだ。

遠くで汽笛を聞きながら…それがまさか44-45歳でやってくる列車の汽笛だなんて27歳の私は知らなかった。 でも、札幌に帰ればレイが待ってる…それが私にとってどれほど心強かったことだろう。 レイがいなければ、私は故郷の札幌に帰ることはなかったとおもう。 私はどういうわけか彼が何かを知っていると思っていたのだ。

― [ケンシロウ] レイ、どこへ連れていく気だ。
 [レイ] フフ…ついてくればわかる。
 ―
(by ケンシロウ&レイ 『北斗の拳』―「第52話 飢えた荒野!の巻」より)

遠くで汽笛を聞きながらの構造2〜 3号の記憶の清算 〜


 俺を見捨てた女(ひと)を
 恨んで生きるより
 幼い心に秘めた
 むなしい涙の捨て場所を

 さがしてみたい

 遠くで汽笛を聞きながら
 何もいいことがなかったこの街で

作詞:谷村新司 作曲:堀内孝雄『遠くで汽笛を聞きながら』(1976)より


『遠くで汽笛を聞きながら』の二番は、故郷に帰って真っ先に取り組むべき運命の課題を歌っている。 つまりこれは、ファム・ファタール(ぷっつんレディ3号)との恋の記憶を清算する場面なのだ。 そこで身につけた心随観の技法が、やがて両親と一対一の喧嘩をして運命を取り戻す鍵になる。

そう、「幼い心に秘めたむなしい涙」とは、15-16歳で三障の闇に呑みこまれたリトル仁悟の涙―“生まれながらの潜在的傾向”のことなのである。

遠くで汽笛を聞きながらの構造3〜 レイとの別れ 〜


 せめて一夜の夢と
 泣いて泣き明かして
 自分の言葉に嘘は
 つくまい人を裏切るまい

 生きてゆきたい

 遠くで汽笛を聞きながら
 何もいいことがなかったこの街で

作詞:谷村新司 作曲:堀内孝雄『遠くで汽笛を聞きながら』(1976)より


間奏をはさんで歌われる三番は、時計の針が進んで34歳の心象風景になっている。 33歳夏のぷっつん体験のときのレイは、私を寒風吹きすさぶ千尋(せんじん)の谷に連れて行き、バンジージャンプの跳躍台に立たせたようなものだった。

「さあ、ここだ。オマエはここから跳ぶんだ」
「そうか、そういうことだったのか…オレが跳んだら、もちろんオマエも跳ぶんだよな?」

無言のままに語りかける彼の沈黙の言葉に促されて、私は千尋の谷に跳びこんだ。

「ハイホー、キンタマちぢむ〜っ!でも、そんなに悪くない気分だぜ。オマエも来いよ!」

その瞬間、レイは私の役目は終わったとばかりに背を向けた。 彼は仲の良かった職場の同僚と連れ立って、私にひとことの相談もなく転職を決めてしまった。 そこは札幌に本社をおくソフトウェアハウス。 私が以前働いていた業界で、ただ使い捨てにされてゆくシステムエンジニアを私は何人も見てきた。

「オマエ…飼い殺しにされるぞ。それでもいいのか?」

そんな一言を告げることもできないまま、まもなくレイは東京に飛ばされていった。

ずっと一緒にやっていけるものだと思っていただけに、彼がどうして背を向けたのか、うまく理解できなかった。 <<何でオレに相談してくれなかったんだよ、レイ。あんな職場の同僚なんか業界の体質を何にも知らないお坊ちゃまじゃないか>>。 そうして、せめて一夜の夢であってくれと、泣いて泣いて泣き明かしたとき、ひとりぼっちの私に“35歳の何もない春”がやってきた。

彼が義星のレイの宿星を背負っていたことを知ったのは十年後、44歳になって『北斗の拳』を読み返したときだった。 『北斗の拳』のレイは、みずからの先走った行動のために、ラオウから致命の秘孔を突かれて乱世に散っていくのだ。

― レイ!! なぜ…なぜおれを待たなかった…。  ―
(by ケンシロウ 『北斗の拳』―「第65話 凶星炸裂!の巻」より)

男の美学を知る男たちは、いつも自分の心に語りかけている。 自分は人間として生きているか、賭ける価値のあることに命を燃やしているか、自分の想いを託すべきは誰か。 もしかするとレイは自分の果たせなかった想いを私に託したのかもしれない。 相棒たちとの約束は何よりも重い。 その想いを裏切ることなく、私は生きてゆきたい。

― 生き続けろ。 死ぬなよ。 今の時代、おまえの北斗神拳が必要なんだ! 涙を笑顔にかえるために。  ―
(by レイ 『北斗の拳』―「第82話 永遠の別れ!の巻」より)

ソウルメイトはおのおのがひとつの宿星を持っている。 どんなに不可解にみえる行動も、その宿命にしたがっているだけで、彼らには傷つけるつもりも、害を及ぼすつもりもないのだ。 そのためソウルメイトの宿星を理解できたとき、心の中でわだかまっていたものがすべて消え去っていく。 ゆるしとは理解だ。ソウルメイトの宿星の理解こそが“ゆるし”なのである。


仁星のシュウ〜目をつぶる男〜

仁星(じんせい)のシュウは、南斗白鷺拳(なんとはくろけん)の伝承者で、レイの親友として描かれる。 私にとっては中学時代のもう一人の相棒だった。 『北斗の拳』の設定どおり、レイとシュウは本当に仲がいい。

― わたしはレイの親友、仁星のシュウ…。 まっていたケンシロウ、あなたのくるのを。 聖帝を倒せる唯一の男! 北斗神拳伝承者を!!  ―
(by シュウ 『北斗の拳』―「第84話 南斗白鷺拳!乱舞!!の巻」より)

シュウは洋画の先生で海外の大衆芸術の魅力は彼から教わった。 ホラー映画(『エルム街の悪夢』シリーズ)に連れていってもらってハマったのが最初で、私がホラーの帝王スティーヴン・キングを信仰するようになったのは明らかにシュウの影響である。 レイとシュウと私の三人でよく映画を観に行ったことが私たちの共通の想い出となっている。

27歳でレイと再会したときにシュウとも合流して、33歳夏のぷっつん体験まで毎月のように会って飲み歩いていた。 二人に会うと私は力のようなものを受け取ることができた。 口数は少ないけれど穏やかに湧きあがる力。 それは私にとって何よりも大切な時間だった。 ぷっつん体験をした年の11月に札幌から函館まで一泊二日の小旅行に出かけたとき、この言葉を呟いたのがシュウである。

「こんな風にみんなで旅行するのもこれで最後かもしれないね」

なかなか勘のいい男なのだ。 そして趣味がいい。 『北斗の拳』のシュウは、少年時代のケンシロウに他流派の拳の強さを味わわせる男として描かれる。 おそらく誰にでも、自分の中にはなかった別世界の扉を開いてくれた男がいるだろう…たぶん、そいつが仁星のシュウだ。

― わたしも乱世に散り、おのれの星の宿命に生きる六聖拳のひとり! 人はわたしを盲目の闘将と呼ぶ!!  ―
(by シュウ 『北斗の拳』―「第84話 南斗白鷺拳!乱舞!!の巻」より)

こんな風に、仁星のシュウは目が見えない男として登場してくるのだけれど、たしかにシュウの星質は、そのまんま「目をつぶる男」だった。 33歳夏のぷっつん体験をした後、シュウにもぷっつん体験するように誘ったのだけれど、そのときの会話はこういうものだった。

「このまま人生を終えるのはもったいないことだと思うんだ」
「だったら坐禅をするといいよ。42歳から運勢拓(ひら)けてくるぜ」
「うん、君が実際にそうなったらボクもそうさせてもらうよ」

そのときシュウは、私が誰の目にも分かる実力を身につけるまで様子を見ようとした。 圧倒的な実力差を見せつけられるまで、みずから目を開いて世界の真実を知ろうとしない男なのだ。 33歳のときのシュウは「君は黒魔術師にでも弟子入りしたのかい?」とでも言いたげな様子だった。 たしかに一般の価値基準に照らせば、私は何ひとつ達成できていなかったし、何から何まで中途半端に終わる可能性もあった。 そう考えると、私の言うことは単なる詭弁(きべん)でしかない。 おかげで何も言い返せなかったのを覚えている。

『北斗の拳』のシュウも、ケンシロウが北斗神拳伝承者としての実力を身につけるまで様子を見ようとする。 そのため、成長したケンシロウの腕をたしかめるために勝負を挑んでくるのだ。

― 強い…レイがおのれを賭けたのがよくわかる。 すまぬ、命をかけねばあなたの力を知ることができなかった!  ―
(by シュウ 『北斗の拳』―「第84話 南斗白鷺拳!乱舞!!の巻」より)

当然のことながら、こういう男が人生の勝負どきを取り逃がすわけである。 私たちが44歳で迎えた2018年10月、東京で働いているレイが札幌に帰省してきたので、久しぶりにシュウも交えて会うことになった。 そのときシュウは、こんなことを語った。

「このままいったら七十歳くらいまで働かなくちゃいけないよ。なんか悲しくなってくる」
「どんなに真面目に働いても、この業界の仕組みには頭打ちになる壁があるんだよね」

34歳のときに父親のすすめで介護の仕事に就いてから、ずっと真面目に働いているのだけれど、職種が職種だけに給料がさっぱりあがらなかったらしい。 高卒初任給並みの賃金をあい変わらず受け取り続けているそうだ。 シュウはその境遇を努めて納得しようとしていた。 「これでも幸せに暮らせているんだ…」と。 それを聞いた私は、かつて「このまま人生を終えるのはもったいないことだと思うんだ」と語った彼はまだ死んでいないとおもった。

生は挑戦の中にある
生は危機の中にある
生は不安定を必要とする
(by OSHO)

彼はまだ生の不安定の中に生きていた。 あとは目を開いて生の危機と挑戦の中に入り込んでいけばいい。 彼の中には未来への希望に生きる仁星の宿命がくすぶっていることを私に隠すことはできなかった。

― これも仁星…未来への希望に生きる宿命!  ―
(by シュウ 『北斗の拳』―「第86話 南斗の帝王!の巻」より)

どうやら、かつて別世界への扉を開いてもらったお礼に、彼の目を開いてあげるのがケンシロウの役目になっているらしい。 『北斗の拳』では、乱世に散る直前にシュウの目がみえるようになることが予言されていた。

― [ケンシロウ] シュウ…、まさか…見えるのか。
[シュウ] な…なんということだ。神が最期にひとつだけ願いをかなえてくれた!!
 ―
(by ケンシロウ&シュウ 『北斗の拳』―「第93話 非情の奇跡!の巻」より)

とはいえ、45歳のミッドライフ・クライシスが目前に迫っていたから、もはや運命は変えられない。 アンゴルモアの大王が復活する時代の「乱世に散る」というシュウの宿命は避けられないだろう。 シュウのような宿星を持つソウルメイトは、人生の勝負どきにおける選択の過ちを思い知るまで待ってあげる必要があるようだ。 少なくともそれは54歳以降…ずいぶん気の遠くなる話である。

33歳の後厄には、かくあるべしと信じていた世界が崩壊するトンネルに飛び込む勇気以外、何の条件もぶらさげていない待ったなしの夏がある。 そのとき、頭の中に刷り込まれてきた人生の必勝方程式を乱す無礼きわまりない人物が誰の前にも現れるものだ。 それがシュウにとっては私だった。 そのとき私は、彼の父親とは真逆の意見を持っていたため、彼の人生計画を邪魔する異分子として背を向けられることになったのだ。

「うん、君が実際にそうなったらボクもそうさせてもらうよ」

この33歳のときのシュウの言葉は「もしうまくいかなかったらどうするんだよ。まるきり人生を棒に振って、取り返しがつかなくなるじゃないか」という意味でもあったのだろう。 たしかに33歳後厄の夏は、普通の男の子に戻ることのできる最後のチャンスでもある。 彼の言ったことは父親が子供を諭すような正論であり、一般論としての誤りはひとつもない。 彼の心中は察するにあまりある。

私は一子相伝の北斗神拳伝承者になる道をひたすら歩んできただけに、同世代の男はひとり残らず脱落者にしか見えない。 しかし誰もが私のように形(なり)振りかまわぬ修業三昧を続けたら社会がまわらなくなるのも事実なのだ。 私がシュウの友情を裏切ったのか、シュウが私の友情を裏切ったのか…そこのところがよく分からなくてずいぶん悩んだ。

けれども、44歳になった私には、そんなことはもうどうでもよくなっていた。 すべてはシュウの仁星の宿命であり、私の北斗七星の宿命なのだ。 歳月が私に彼の宿星を理解させてくれていた。 私はシュウにもう一度機会が巡ってくるときのために、かつて失なった光を目の中に取り戻すヒントをあげることにした。

Runnerの構造1〜 14-15歳の卒業シーズン〜


 雨を避けたロッカールームで
 君はすこしうつむいて
 もう戻れはしないだろうといったね

 瞳の中 風を宿した
 悲しいほど誠実な
 君に何をいえばよかったのだろう

 かげりのない少年の
 季節はすぎさってく
 風はいつも強く吹いてる

 走る走る俺たち
 流れる汗もそのままに
 いつかたどり着いたら
 君にうちあけられるだろ

作詞:サンプラザ中野 作曲:Newファンキー末吉『Runner』(1988)より


この『Runner』は、私たちが中学三年生だった1988年のヒット曲。 ちょっきり昭和最後の年の作品で、ロックバンド「爆風スランプ」の文句なしの傑作だ。 平成時代になると、こういう真実のロック―転がり続ける者たちの旅路の歌―を歌うバンドは出てこなくなった。

この一番は、ちょうど中学三年生の卒業シーズンを歌っている。 高校に進学して15-16歳の思春期を迎えると、誰もが三障の闇に飲み込まれていってしまう。 その運命の十字架の足音がすぐそこに聞こえているのだ。

私はレイやシュウと一緒に中学校に通い続けていたかったけれど、やはり押し出されるように卒業させられてしまった。 その後は別々の高校に通うことになって、ずいぶん淋しい思いをしたものだ。 映画を観ても、この感動を分かち合う友はもう隣にいないのだと思うと、急につまらなくなった。

この『Runner』は、私たち三人のいたクラスが中学の卒業式の入場行進曲に使った思い出の作品で、今おもえば正鵠(せいこく)を射た選曲だった。 44歳の2018年10月にレイとシュウと私の三人が顔をあわせたとき、私はこの『Runner』のCDを二人に贈った。

Runnerの構造2〜 44-45歳の卒業シーズン〜


 グラウンドに忍び込んで
 芝生の上寝転んで
 星の数をかぞえて眠った あの頃

 かかえきれぬ思いを胸に
 君はかるくほほえんで
 ふり帰らず この部屋を 出て行くのか

 飾りのない少年の
 心は切り裂かれて
 夢はいつも遠くみえてた

 走る走る俺たち
 流れる汗もそのままに
 いつかたどり着いたら
 君にうちあけられるだろ

作詞:サンプラザ中野 作曲:Newファンキー末吉『Runner』(1988)より


『Runner』の二番は、一番からきっかり30年後の「時空飛ばし」。 44-45歳のミッドライフ・クライシスの時節を迎えて、いつも遠くにみえていた少年時代の夢が現実のものになろうとしている。 しかしながら、ふたたび押し出されるような卒業シーズンがやってきたことも知っている。

45歳のミッドライフ・クライシスからは、泣いても笑っても、今生における運命の選択の結果を受け取る。 すぐそこに、その体験を共有する新しいソウルメイトとの出会いが待っているのだ。 そのため古いソウルメイトとはひとまずお別れしなければならない。

レイとシュウは、天性の義務を回避しようとしたために30代をいい加減に生きてしまった。 その借りは40-50代で早めに返してしまったほうがいい。 そうしなければ60代以降の人生にツケがまわってくるからだ。 これから54歳を迎えるまで、二人には大変な運命が待っているだろう。

― 走る走る俺たち 流れる汗もそのままに
いつかたどり着いたら 君にうちあけられるだろ ―

運命のカラクリを知りすぎてしまった私は、二人に月並みな言葉をかけることしかできなかった。 でも、レイとシュウと私の運命の旅は、まだまだ続く。 いつかたどり着いたら、北斗神拳伝承者としての私の正体を打ちあけ、彼らを本当の幸せに導くこともできるだろう。 でも今はまだ、その時じゃない。 いくつもの秘密とさまざまな仮説を呑み込んだまま別れる方がいいとおもう。

レイがめずらしく「みんなで写真を撮ろう」と言い出したので、幹事をしていた私は、写真をラミネート加工して、その裏に矢沢永吉が45歳の時にリリースした歌の一節を記して送った。

 いつの日か もう一度会おう
 夢を見ていた この場所で

 (作詞:秋元康 作曲:矢沢永吉『いつの日か』(1994)より)

レイから「今までの負債を解消するべく黙々と頑張ってるよ」と返事がきた。 彼はなんとなく分かっているらしい。 レイよ、シュウよ、しばしのあいだ、さらばだ。

矢印マーク Runner(通常盤)


 2018年作品

 1988年のリリースから30周年ということで発売されたミニアルバム。 二番が30年後の“時空飛ばし”になっていると気づいた団塊ジュニアのあなたへ…
 それはちゃんと生きてきた証拠です!


妖星のユダ〜うらぎりの男〜

妖星(ようせい)のユダは、南斗紅鶴拳(なんとこうかくけん)の伝承者で、いわゆるオカマチキンである。 私にとっては高校時代の相棒がユダだった。 『北斗の拳』では、南斗六星から出た最初の「うらぎりの男」として描かれる。

― あの戦争後、南斗六聖拳は二派に分裂した! 平和を望む者と覇権をめざす者とに!!
 この時ユダは裏切った! 平和を望む声が優勢とみるや、自分の配下、南斗二十三派をひきつれ、恐怖の覇王・拳王と手を結んだのだ!!
 ―
(by レイ 『北斗の拳』―「第80話 南斗六聖拳堕ちる時の巻」より)

ユダは、27歳の運命のクロスロードで札幌に帰ったとき、「公務員試験を受けようと思うんだ」と告白してきた男だ。 そして、その翌年に警察官になった。 人間として「生きる」ためには、一番なってはいけない公務員になったのである。

生は挑戦の中にある
生は危機の中にある
生は不安定を必要とする
(by OSHO)

公務員や安定企業の正規社員は社会的に生活の安全を保障されている。 そうした外部からもたらされる安定の上に生きていると、自分の潜在能力に頼ることを忘れてしまうのだ。 人間の意志は案外もろいもので、一時の苦しみから逃れるためならカツ丼一杯と引き換えでも魂を売る。 だから、一度そうした環境に身を置いてしまうと、たった数年で比較すること自体が無意味なくらいの差が出る。 そうして人は自分の天性の義務を果たすための創造力を失なっていくのだ。 社会からもたらされる安定は麻薬と同じだ。 公務員や安定企業の正規社員として働くことは覚せい剤を常習して廃人になるようなものである。

おそらく彼らの人生にも葛藤というものがあるのだろうけれど、それは社会的生活保障の上で生まれたものだから、そんなものは私に言わせれば天使の憂鬱(ゆううつ)である。 あえて不安定な生活を選び、挑戦と危機の中で42年間を生き抜いた者たちの体験する葛藤とは比べものにならない。 天性の義務を遂行しはじめる45歳のミッドライフ・クライシスからは、そこで培(つちか)われたタフさがものを言うのである。

あれは29歳のときだったろうか。 ユダが警察学校を卒業した後にもう一度会うことになった。 彼は不安定な生活をしていたときとは、打って変わって陽気になり、まるきり生まれたときから警察官みたいな顔をしていた。 その日、「オレは勝ち取ったんだ」とユダは語った。 けれども私には、<< 私の知っている彼はもう、死んでいる… >>としか思えなかった。

― おれの持つ星は最も美しく輝く星、妖星!! 人は裏切りの星と呼ぶがそうではない! 妖星は天をも動かす美と知略の星なのだ!!  ―
(by ユダ 『北斗の拳』―「第78話 妖星の赤き牙!の巻」より)

このように、人間として「死ぬ」選択をしても、それを美学や戦略と言い切ってしまうところが、オカマチキンのユダの星質らしい。 ただ彼の名誉のために、これだけは言っておきたい。 たしかにユダは相棒たちの中から出た最初の裏切り者である。 しかしながら私の大学の友人たちのほとんどは27歳を待つまでもなく人間として死んでいた。 ユダが彼なりに人間として生きようとしたことは評価してあげなければならないとおもう。

私とユダが出会ったのは平成のはじまった1989年。 高校一年の教室だった。 『北斗の拳』は前年に連載を終了し、『週刊少年ジャンプ』がほとんど文化といってよく、私たち団塊ジュニアのステイタスシンボルであった時代は終わっていた。 折りしもバブル景気は最高潮に達し、加熱しすぎた経済をどのように収束させようかという議論が始まっていた。 「今日より明日」を社会が信じさせてくれた時代が終わろうとしていたのである。 そのとき人生計画の規範となるはずの父親の世代は、時代の恩恵を受けてきただけの世代だから、参考にすべきところがまったくなかった。 おかげで私たち団塊ジュニアは精神的支柱を見つけられずにいた。 私とユダは、そんな時代に出会った。

一流企業の正規社員を父親に持つ私たちは境遇が似ていた。 父親の属している団塊世代の人生訓は、自分たちの人生には役立ちそうにない。 そればかりか、自分の潜在能力で明日を勝ち取る挑戦をしなくても、のうのうと暮らせていける彼らがうらやましくあり、憎らしくもある。 そういう点で私とユダは意見が一致した。 おそらく誰にでも、家庭環境がよく似ていたために意気投合した男がいるだろう…たぶん、そいつが妖星のユダだ。

今日より明日がよくなると社会が信じさせてくれないのなら、自分の潜在能力で今日より明日を勝ち取らなければならない。 高校生活を謳歌していた周囲のクラスメイトたちは、その現実をそれほど深刻には受け止めていないようだった。 いずれ運命が音を立てて崩れはじめるまでの限りある猶予期間を、目いっぱい楽しもうとしているかのような黙示録的饗宴は、それはそれでうらやましいのである。 そんな彼らを横目に、私とユダの掲げたスローガンがこれだ。
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無為徒食(むいとしょく)に老いていく人間たちのかくも多い中で、我らこそは眠れる大器であると信じつつ、不安定な生活に飛び込み、死なばもろとも誰にも恥じぬ挑戦を続けるつもりだった。

そして2001年。 私たちが27歳の運命のクロスロードに立ったとき、ついに小泉内閣が発足して、構造改革を打ち出した。 年功序列や終身雇用といった旧来の社会制度が見直され、正規社員と非正規社員の区別が生まれた。 バブル景気の頃にはまったく人気のなかった公務員になろうとする平成のハナタレ男子が増殖した。 勝ち組、負け組という言葉も生まれた。 格差社会のはじまりである。

「望むところだ。来るなら来いっ!」

公務員や正規社員になって勝ち組などと言ってるやつは、人間として「生きる」ことを辞めたクズだ。 それは団塊世代の父親たちが証明している。 これからは自分の潜在能力を覚醒させた者が最後に浮かび上がるのだ。 フェアな社会じゃないか。 私とユダは自分の潜在能力で「今日より明日」を勝ち取る。 その道筋を次世代につけてやるのが私たち団塊ジュニアだ。 そうだよな、相棒! そのときのユダの回答がこれである。

「公務員試験を受けようと思うんだ」

こういうユダみたいなオカマチキンが今日のネジれた社会構造をつくり出した。 自分の潜在能力を覚醒させるには時間がかかる。 私の半生の足跡を見てくれればわかるように、42年もかかるのだ。 しかも、その間、不安定な生活に飛び込まなくてはならない。 「今日より明日」を社会が保障してくれる時代は終わった。 地球儀を逆回転させられるからといって、地球がその通りに自転してくれるわけではないのと同じだ。 もう戻ることはない。 それなのに、「今日より明日」のために人間として生きようとしている若者から搾取し、人間として生きることを辞めた連中に分配する制度をいまだに継続している。 あのときユダは、人間として生きる挑戦をやめて搾取する側につくと言ったのだ。

― 一星崩れる時… 残る五星もまた乱れ、この世に巨大なる悲劇のタネはまかれた!!  ―
(by レイ 『北斗の拳』―「第80話 南斗六聖拳堕ちる時の巻」より)

2001-2006年に小泉内閣が政権を握っていたとき、私たち団塊ジュニアは27-32歳だった。 まず2001年に27歳の妖星のユダが崩れ、2006年になると32歳だった義星のレイや仁星のシュウも乱れはじめた。 そのとき顔をのぞかせたのが第一次安倍晋三内閣で、2006年に発足したとたんにフェアな社会を目指す構造改革の理念をぶち壊しにした。 この『北斗の拳』の予言は、この世に巨大なる悲劇のタネが蒔かれたのは、私たち団塊ジュニアが天性の義務をないがしろにして、人生の選択を間違ったせいだと言っているのである。

― かつて南斗六聖拳は皇帝の居城を守る六つの門の衛将と呼ばれ… 南斗聖拳総派百八派の頂点だった!!  ―
(by レイ 『北斗の拳』―「第80話 南斗六聖拳堕ちる時の巻」より)

私たち団塊ジュニアは、時代の頂点に立ち、小泉純一郎のような英雄を守護する役目を持っていた。 だからこそ、団塊ジュニアが15-16歳の思春期を迎える以前の大衆芸術には、将来の忘却による侵食を受けても、かなめ石のように心に残る何かがあったのだ。 それは自分たちが歩み、やがては次世代を導くための地図になっていたのである。 その期待と恩寵を受けておきながら、次世代の若者を搾取する側にまわり、ぬくぬくと生きている団塊ジュニアは恥を知れ。

北斗神拳は英雄を守護する拳法と言われている。 私は北斗神拳伝承者として、これから世に出てくる英雄を全力で守護するつもりだ。 とりわけ第64代目のケンシロウは、破壊と再生をつかさどるシヴァ神の化身(リバース)でもある。 いつまでも、こんな時代が続くと思うなよ。

― 南斗乱れる時、北斗現る。北斗現れるところ乱あり。  ―
(作:武論尊 画:原哲夫『北斗の拳』より)

ユダとは、44歳の2018年6月に会ってきた。 27歳からの歳月は、人間としての生と死のはざまの越えてはならない一線を彼に越えさせてしまったようだった。 いまやユダには、あるべきはずだった人生の幻影を追って生きることしかできない。 かつては彼も、私やレイやシュウのように、あえて不安定な生活を選び、挑戦と危機の中で生きることに憧れた一人だったのに。

― レイ、おれの心の中には、いつもおまえがいた。 おれはずっと幻影を追っていた。 おまえを、そして美しい南斗水鳥拳の舞いを!!  ―
(by ユダ 『北斗の拳』―「第82話 永遠の別れ!の巻」より)


「可愛いだろう」

ユダは私に子供の写真を見せてくれた。 でも、いまさら彼の生きざまを肯定するには、私はあまりに多くの運命の真実を知りすぎてしまっている。 ただうなずいて苦笑いするしかなかった。

― ユダ!妖星は二度と輝かぬ!!  ―
(by レイ 『北斗の拳』―「第79話 最期の炎!の巻」より)


殉星のシン〜恋ゆえに果てる男〜

殉星(じゅんせい)のシンは、南斗孤鷲拳(なんとこしゅうけん)の伝承者で、ケンシロウから婚約者のユリアを奪った男だ。 つまりシンとは、私のツインレイの彼女と結婚した男のことになる。 しかしながら、「誰もが愛する人の前を気づかずに通り過ぎてく」という法則があるため、私は彼女の存在自体をすっかり忘れていたわけだから、「奪われた」というのはおかしいかもしれない。 だいたい私はシンに会ったこともないのだ。 『北斗の拳』では、ケンシロウの胸に七つの傷を負わせた男として、シンは登場してくる。

― やつの名はシン!!おれの胸に七つの傷をつけた男だ!!  ―
(by ケンシロウ 『北斗の拳』―「第6話 宿命の再会!の巻」より)

殉星のシンは、ユリアを奪うとき、ケンシロウの胸に北斗七星の形をした七つの傷を負わせる。 この設定は、197X年生まれの男は、ツインレイの彼女を誰かに奪われたときから、北斗神拳伝承者としての道を歩みはじめることを意味していたらしい。 ツインレイの彼女は27歳のときに結婚したと言っていたから、そういうことで間違いないとおもう。 すなわちツインレイのミッションは、27歳の運命のクロスロードから早くも動き出していたのだ。

― 執念!! おれを変えたのは、きさまが教えた執念だ!!  ―
(by ケンシロウ 『北斗の拳』―「第8話 執念の炎の巻」より)

『北斗の拳』のケンシロウはユリアをとり戻すための執念を燃やしてタフになっていく。 この点について後悔しているのは、28歳のときの高校の同窓会に参加しなかったことだ。 運命の機会をつかむためには、息をひそめて託宣(たくせん)がくだるのを待っているだけではダメだ。 悪いおみくじを引いたときのような目つきで見られるのを分かっていながら、相棒たちに会いに行かなければならないときがある。 でも私はツインレイの彼女に会いに行かなかった。 おそらく28歳の同窓会に参加していれば、シンに嫉妬して執念を燃やしていたのではないか、と考えられなくもない。

「男ってさ、やっぱり自分の才能を発揮してナンボってところがあるんだよ」
「でも、うちの主人は、ただの平凡な男よ」
「まあ、そういう人もいるけど…」

42歳の同窓会で彼女に再会したときには、すでに運命の勝負がついていて、シンはただのつまらん男になっていた。

「なんだか…主人が…どこか遠くへ行ってしまったようで…」

私は彼女のこの言葉で、シンが37歳のときに創造の病に入ることに失敗して、ただの平凡な男になったことを知った。 とはいえ、シンはツインレイの彼女と結婚したほどの男だから、多少なりとも普通の男ではない部分を持っていたはずだ。 彼女はありきたりな基準で男を選ばない女だから。

レイ、シュウ、ユダ…私の相棒たちは、みんな15-16歳で思春期を迎えた頃から孤独の中で生きる術を覚えはじめている。 ツインレイの彼女もそうだった。

「私はこうみえても孤独な女なのよ」

彼女が高校時代の私に興味を持ったのも、おそらく同じ孤独を抱えていたからだとおもう。 その孤独は、村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』にも描かれている。

(村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』にみる)相棒たちの孤独


 まずどうして私があの雨蛙みたいに退屈な夫婦の娘として生まれたかというのが謎です。 ひとつの大きな謎です。 何故なら自分でいうのも何だけれど、私はあの夫婦を二人あわせたよりもまだまともだからです。 エバッテいるんじゃなくて、これはじつに本当の事実なのです。 両親より私の方が立派だとはいわないけど、少なくとも人間としてはまともです。 ねじまき鳥さんだってあの二人に会えばきっとわかると思う。 あのヒトたちは世界というのは高級建て売り住宅の間取りみたいにシュビ一貫して説明がつくと信じています。 だからシュビ一貫したやり方でやっていけば、すべては最後にはうまくいくと思っているのです。 そして私がそうしないことに混乱したり、悲しんだり、腹を立てたりするのです。

 どうしてあんなとんまな両親の子供として私はこの世に生まれてきたのだろう、どうして私はそのヒトたちに育てられながら、同じようなとんまな雨蛙の娘にならなかったのだろう? 私はずっと大昔からそれについてずいぶん考えてきました。 でもうまく説明できません。 何かちゃんとした理由があるような気もするのですが、私には思いつけないのです。

 そういう筋道の通らないことがほかにもけっこうたくさんあります。 たとえば「どうしてまわりのみんなは私のことをそんなに毛嫌いするようになったのか?」とかね。 私はとくに何かまずいことをしたわけでもない。 私はごく普通に生きていたのです。 なのにある日ふと気づくと、私は誰にもすかれていなかった。 それは私にはほんとうによく理解できないことだったの。

村上春樹『ねじまき鳥クロニクル 第3部』―「19 とんまな雨蛙の娘(笠原メイの視点5)」より


13歳の厄年で精神年齢を止めなかった少年少女たちが、こうした孤独を抱えはじめる。 やがて15-16歳の思春期ともなると、周囲のクラスメイトたちとの対話が、おそろしく空虚な感じをもたらすようになってくる。 彼らの価値観に触れると自分のまわりに積みあげている現実が、ゴミや石ころみたいに見えてきて空気がだんだん淀(よど)んでくるのだ。 私とユダが意気投合したのも、そうした孤独を同じように抱えていたからでもあった。 おそらくシンもそういう男だったのだろうと推測される。

― あの後… おれはユリアに与えうるすべてを与え続けた…そして幾度となく略奪と殺戮をくりかえした。 おれは走った!しゃにむに走った!!  ―
(by シン 『北斗の拳』―「第8話 巨星堕つ時の巻」より)

27歳で結婚してからのシンは、彼女に普通の女としての幸せを与えようとしたのだとおもう。 ただひとつの問題点は、ツインレイの彼女が31-33歳の大厄のときに普通の女の子に戻らなかったことだ。 彼女はシンの与えてくれる普通の女の幸せよりも啓示にしたがう道を選んだ。 きっと、シンも自分と同じように啓示にしたがう道を選んでくれる、と信じていたに違いない。 その啓示というのは、こういうものだ。

(村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』にみる)31-33歳の大厄の啓示


 人生というものは、その渦中にある人々が考えているよりはずっと限定されたものなのです。 人生という行為の中に光が射し込んでくるのは、限られたほんの短い期間のことなのです。 あるいはそれは十数秒のことかもしれません。 それが過ぎ去ってしまえば、そしてもしそこに示された啓示を掴み取ることに失敗してしまったなら、そこには二度目の機会というのは存在しないのです。 そして人はその後の人生を救いのない深い孤独と悔悟の中で過ごさなくてはならないかもしれません。 そのような黄昏の世界の中にあって、人はもう何ものをも待ち受けることはできません。 彼が手にしているものは、あるべきであったものの儚(はかな)い残骸にすぎないのです。

村上春樹『ねじまき鳥クロニクル 第2部』―「4 失われた恩寵、意識の娼婦」より


イスラムでは こうした啓示をハディルと呼ぶらしい。 ハディルが現れるときは、不器用にもぞもぞとした何かが生まれるのに気づくはずだ。 それは誰からも反対の声がかかり、自分の望むかたちでもないのに、その糸の端を引っ張って、あっさりとほどいてしまいたくなるような何かである。 それはほどかれるのをずっと待っていたような何かなのだ。

でも33歳のシンはハディルにしたがう道を選ばなかった。 おそらく、その啓示なり恩寵なりの発する光に耐えうるだけのタフさを身につけていなかったのだろう。 そうして37歳から創造の病に入ることに失敗したシンと、それを嘆き悲しんでいる彼女…42歳の再会の日、ツインレイの彼女の言葉の隙間からは、そんな風景が透けて見えていた。

― [ユリア] あなたはまちがっている。 こんなことでわたしの気持ちはかわらない。 むしろ軽蔑する。
 [シン] おれにケンシロウと同じ生き方をしろというのか! できんな。 いったはずだ。 おれはおれ流のやり方でやるとな!
 ―
(by ユリア&シン 『北斗の拳』―「第8話 巨星堕つ時の巻」より)

『北斗の拳』の設定では、ユリアの心をつかめなかったシンは、精巧に作られたユリアの人形とともに暮らす。

― [シン] おれが欲しかったものはたったひとつ。ユリアだ!!
 [バット] そ…それであんな精巧な人形を。
 ―
(by シン&バット 『北斗の拳』―「第8話 巨星堕つ時の巻」より)

ツインレイの彼女は「主人がどこか遠くへ行ってしまったようだった」と語ったのだけれど、それはシンが彼女に感じていたことでもあるのだろう。 自分がまるで人形を愛しているかのように思えてきてしまったのだ。

― 最後まで…とうとう最後まで、ユリアの心をつかむことができなかった…。 ユリアの中にはいつでもおまえがいたからだ。  ―
(by シン 『北斗の拳』―「第8話 巨星堕つ時の巻」より)

ツインレイの彼女と再会した日、私はシンに嫉妬するよりも、むしろ同情してしまった。 こんな女に恋をしたら、普通の男は耐えられないよと。 「恋ゆえに果てる男」…それが殉星のシンの宿命だ。

― [バット] なぜだよ、なぜそんな男に墓をつくってやるんだよ。
 [ケンシロウ] 同じ女を愛した男だから。
 ―
(by バット&ケンシロウ 『北斗の拳』―「第8話 巨星堕つ時の巻」より)


将星のサウザー〜南斗最強の男―米津玄師〜

将星(しょうせい)のサウザーは、一子相伝の南斗鳳凰拳(なんとほうおうけん)の伝承者で、みずからを「聖帝」と名乗る南斗最強の男だ。 これはシンガーソングライターの米津玄師(よねづけんし)のことである。 彼は27歳になった2018年、誰もが認める年度代表曲『Lemon』を世に送り出した。 私も嫉妬しちゃうくらいのすごい才能だった。

南斗鳳凰拳一門
図:布施仁悟(著作権フリー)


サウザーの伝承拳である南斗鳳凰拳とは、阿久悠が得意としていた技のことである。 つまり、『北斗の拳』に登場するサウザーの師オウガイとは、阿久悠のことなのだ。

― みなし子だったおれは、南斗鳳凰拳の先代伝承者オウガイにひろわれ、子のなかったオウガイは、おれを実の子のように育てた…  ―
(by サウザー 『北斗の拳』―「第94話 愛ゆえに!の巻」より)

すなわち阿久悠と米津玄師は、超現実的な師弟関係で結ばれていて、同じ才能の油田にアクセスする能力を持っていたと言える。 この師弟関係のシンクロニシティは探せばいろいろ見つかる。

米津玄師は2018年12月31日に放送された第69回NHK紅白歌合戦で、『Lemon』のテレビ初歌唱を披露した。 そのとき、阿久悠の故郷である淡路島と米津玄師の故郷である徳島を結ぶ大鳴門橋が映し出されたのだけれど、それはこの師弟をつなぐものを橋で象徴していたことになる。 その映像には阿久悠への魂の想いが表現されていたとも言えるだろう。

また当日の放送を観ていた人なら、その舞台演出が聖帝十字陵の階段や聖室の隠喩(メタファー)になっていたことが分かるとおもう。 聖帝十字陵とは、『北斗の拳』のサウザーが完成を目指しているピラミッドの形をした巨大な陵墓のこと。 サウザーは、オウガイの遺骸を十字陵の聖室に安置し、そこに師への想いを込めるのだ。

― この十字陵は、偉大なる師オウガイへのオレの最後の心!!  ―
(by サウザー 『北斗の拳』―「第95話 愛の墓標!の巻」より)

この師弟に共通する南斗鳳凰拳の特徴の一つは、雄(オス)の「鳳(ほう)」と雌(メス)の「凰(おう)」が対になって舞う歌を創ること。 これは『五番街のマリーへ』と『ジョニーへの伝言』のように、男唄と女唄が二曲一双(にきょくいっそう)になって一つの恋物語を紡ぎ出す技だ。 もう一つの特徴は、『もしもピアノが弾けたなら』のように、民族の集合的無意識から声をすくい上げて、誰かが感じていながら声にできないでいる声を歌にすること。 この技なら、歌を聴く人々に、今つくられたものでありながら、どこかなつかしい太古からの響きを感じさせることができる。 いわゆる「真実のフォーク」を創れるのが南斗鳳凰拳一門なのだ。

米津玄師は、この南斗鳳凰拳の奥義を『打上花火』(2017)と『Lemon』(2018)で繰り出してきた。 ただし、彼は聖帝サウザーとしての宿星を持っていたので、阿久悠と違ってちょっとひねくれていたのである。 それが『北斗の拳』で描かれているサウザーの謎だ。

― 心臓の位置も逆! そして秘孔の位置も表裏逆! それがおまえの謎だ!!  ―
(by ケンシロウ 『北斗の拳』―「第96話 天砕く拳!!の巻」より)

打上花火の構造1〜 ツインレイの男の43歳夏 〜


 あの日見渡した渚を
 今も思い出すんだ
 砂の上に刻んだ言葉
 君の後ろ姿

 パッと光って咲いた
 花火を見ていた
 きっとまだ 終わらない夏が
 曖昧な心を 解かして繋いだ
 この夜が続いて欲しかった

米津玄師『打上花火』(2017)より


この『打上花火』は、2017年の夏に発表されたもので、42歳夏にツインレイとの再会を果たした後、ちょうど一年経った頃の心象風景になっている。 この声の主は女の方ではない。 ツインレイの男が43歳夏を迎えたときの声にならない声だ。 あの夏の夜の恋は遠い日の花火だったのか…男はまだ一年前の再会の儀式の意味を消化しきれないでいる。

米津玄師がこの歌で拾い上げたのは、ほかでもない、2017年に43歳夏を迎えていた私の声にできないでいる声だ。 とりわけ圧巻なのは、この部分である。

打上花火の構造2〜 再会の日の男の情動と焦燥 〜


 あと何度 君と同じ花火を
 見られるかなって
 笑う顔に何ができるだろうか

 傷つくこと 喜ぶこと
 繰り返す波と情動
 焦燥
 最終列車の音

 何度でも 言葉にして
 君を呼ぶよ
 波間を選び もう一度

 もう二度と 悲しまずに
 済むように

米津玄師『打上花火』(2017)より


42歳の再会の日、ツインレイの彼女はシンとの関係が変わってしまったことに、いまだ折り合いをつけられずにいた。

「でも、主人を愛しているの」

そんな彼女の言葉を聴くと、ツインレイの男としてはちょっとヘコむ。 それでも最終列車の音が聴こえるまでに、なんとかして「シンとの幸せは二度と戻らない。でも、いつか必ず僕が迎えにいくから」という想いを伝えなくちゃいけない。 もう二度と悲しまずに済むように。 でも、それは決して言葉にしてはいけない言葉なのだ。 だから、何度でも、言葉を探して、彼女の心に呼びかける。 そうした男の情動と焦燥を、このように描写している。

この場面を実際に体験した私が、いずれやろうとしていたことを、米津玄師は先にやってしまったのだ。 おかげで同時代に生きる私にとって、これと同じものを創ることには、もはや意味がなくなった。

<< このカードはもう使えない… >>

悔しくて仕方がなかった。 この『打上花火』こそ、『北斗の拳』に描かれているサウザーの極星十字拳である。 ケンシロウは一度、サウザーの極星十字拳の前に敗れ去るのだ。

米津玄師…北斗神拳をおびやかす「南斗最強の男」が現れた。 けれども私には、『打上花火』の意味を読み解く能力があった。 米津玄師の拳を、たしかに見切ったのである。

― たしかにケンシロウは一度相手の拳をみれば、その拳を見切れる能力をもっている。 力はサウザーよりケンシロウのほうが上かもしれぬ! だが!!ある謎を解かぬことにはケンシロウは勝てぬ!!  ―
(by ラオウ 『北斗の拳』―「第87話 帝王の微笑!の巻」より)

ここでラオウが言っているように、私は米津玄師の謎の前にうろたえた。 そのとき彼は、才能の片鱗を見せてきただけで、いまだその宿星は謎のままだったからだ。 そういう得体の知れない人物に、人は畏(おそ)れを抱くものである。 嫉妬なのか、憎しみなのか、うまく判別できない複雑な感情が湧き上がるのを抑えることができなかった。

<< な…なんなんだ?こいつは… >>

そもそも因縁の深いソウルメイトというのは、そういう第一印象を抱かせる相手のことなのだ。 相手の宿星を理解できるまで、その感情を適切に処理することはできない。 私の完敗だった。

― たしかに拳の勝負にはきさまが勝った!! 拳の速さ、寸分狂わぬ秘孔への突き! さすがに伝承者だ!! だが!! きさまはこの身体に流れる帝王の血に負けたのだーっ!!  ―
(by サウザー 『北斗の拳』―「第88話 鮮やかなるシバ!の巻」より)

ただ米津玄師はひねくれていた。 この男唄『打上花火』をDAOKOという女性シンガーに歌わせておきながら、これと対になる女唄を彼女にくれてやらなかった。 八代亜紀と高橋真梨子に男唄と女唄をセットで授けて、彼女たちの持ち歌にさせた阿久悠に比べると、それはちょっと不可解な行動だった。 どうやらシンガーを育てる気がないようなのである。

― サウザーの星は極星・南十字星。 またの名を将星!独裁の星!! 肉親も友も情もない。 あるのはおのれひとり。 生まれついての帝王の星なのだ!!  ―
(by シュウ 『北斗の拳』―「第86話 南斗の帝王!の巻」より)

おそらく米津玄師に宿るサウザーの南十字星―生まれついての帝王の星がそうさせてしまったのだろう。 DAOKOに出し渋った女唄『Lemon』を、男の米津玄師本人が歌ったことで、男女が逆転するねじれ現象が起こった。 こうして「心臓の位置も逆!そして秘孔の位置も表裏逆!」という『北斗の拳』の予言は完成し、私に米津玄師の謎を解かせた。

<< これは…阿久悠先生の南斗鳳凰拳だ。こいつ、サウザーだったのか! >>

― サウザー!! きさまの体の謎は見切った!!  ―
(by ケンシロウ 『北斗の拳』―「第95話 愛の墓標!の巻」より)

Lemonの構造1〜 ツインレイの女の44歳春 〜


 夢ならばどれほどよかったでしょう
 未だにあなたのことを夢にみる
 忘れた物を取りに帰るように
 古びた思い出の埃を払う

 戻らない幸せがあることを
 最後にあなたが教えてくれた
 言えずに隠してた昏い過去も
 あなたがいなきゃ永遠に昏いまま

 きっともうこれ以上傷つくことなど
 ありはしないとわかっている

 あの日の悲しみさえ あの日の苦しみさえ
 そのすべてを愛してた あなたとともに
 胸に残り離れない苦いレモンの匂い
 雨が降り止むまでは帰れない
 今でもあなたはわたしの光

米津玄師『Lemon』(2018)より


この『Lemon』は、2018年の春に発表された女唄。 男唄の『打上花火』と二曲一双になる作品で、南斗鳳凰拳奥義・天翔十字鳳(てんしょうじゅうじほう)にあたる。

― 帝王の拳、南斗鳳凰拳に構えはない!! 敵はすべて下郎!! だが対等の敵が現れた時、帝王みずからが虚を捨てて立ち向かわねばならぬ!! すなわち天翔十字鳳―帝王の誇りをかけた不敗の拳!!  ―
(by サウザー 『北斗の拳』―「第96話 天砕く拳!!の巻」より)

南斗鳳凰拳の伝承者は、民族の集合的無意識から声をすくい上げて、大衆のロールモデルとなる男女の声を歌にすることができる。 この『Lemon』は44歳春を迎えたツインレイの彼女の声だ。 2016年夏の再会の儀式からちょうど一年半後、2018年春の彼女の心象風景になっている。

また、この歌は運命をひらく恋の秘奥義とも言えるだろう。 ちょうど『北斗の拳』に登場する「大乗南拳奥義秘書(だいじょうなんけんおうぎひしょ)」に通じるものがある。

大乗南拳奥義秘書〜運命をひらく秘奥義 〜
『北斗の拳』―「第220話 血を吐く願い!の巻」より


再会の日、ツインレイの男が彼女に教えるのは、シンとの幸せは二度と戻らない、ということだ。 そのとき彼女は、私に心を開き、声を振り絞って、あの日の哀しみの記憶を語り出した。 誰にも言えずに隠していた昏(くら)い過去の記憶を意識の表面に引きずり出したのである。

「なんだか…主人が…どこか遠くへ行ってしまったようで…」

私の宿星である北斗七星が蒼くふるえ、彼女の頭上に輝いたのはそのときだった。 おかげで彼女は、忘れ物を取りに帰るように、古びた思い出の埃を払うことができるようになった。 運命の道が開かれたのである。

― オラア〜、今頃、気づいたよ。 北斗神拳は…人の心を救う拳だとな。
 だから、その拳を憎しみや怒りで汚しちゃあだめだ。
 ―
(by 流飛燕 『蒼天の拳』―「第255話 憤怒の一撃!!の巻」より)

北斗神拳は人の心を救う拳だ。 ただし、北斗神拳伝承者に救われるためには、誰にも言えずに隠してきた哀しみの記憶を語ることを求められる。 北斗は死をつかさどる星ゆえに、自我の死に直面することを求めてくるのだ。 それはとても勇気のいることであり、その瞬間には苦いレモンの匂いがする。 それが分かっているからこそ、あの日の苦しみの記憶を語りはじめた彼女が愛おしくてたまらなかった。 それは私と彼女の心が通い合った瞬間だった。

こういう歌があれば、たとえ遠く離れて暮らしていても、ツインレイの男女はお互いの状況を知ることができる。 一方、大衆は自分たちの模範となる男女の恋物語を聴いて人生の糧とできる。 それが「真実のフォーク」だ。 『Lemon』は、ほとんど独走状態で2018年のヒットチャートを駆け抜けた。 当然だ。 この歌は奇跡のように日本列島に鳴り響いた真実の愛の歌だったのだから。 さすがは帝王の誇りをかけた不敗の拳である。

こうして、阿久悠の南斗鳳凰拳は弱冠27歳の米津玄師に伝承されたことが白日の下にさらされた。 そうなると問題は、彼の次の作品になる。 その作品は、長い眠りから覚めた阿久悠の才能の油田を使って、大衆をどこに導こうとしているのかを告げる所信表明になるからだ。 そこでは井上陽水や村上春樹のように、大衆に背伸びをさせる作品を発表することが正解になる。

ところが、米津玄師が2018年10月にリリースしてきたのは、こんなものだった。

Flamingo〜 ユダの予言との不吉なシンクロニシティ 〜


 宵闇に爪弾き
 悲しみに雨曝し花曇り
 枯れたまち にべもなし
 侘しげに鼻垂らしヘラヘラり

 笑えないこのチンケな泥試合
 唐紅の髪飾り
 あらましき恋敵
 触りたいベルベットのまなじりに
 うすらはざむい笑みに

 あなたは Flamingo
 鮮やかな Flamingo
 踊るまま ファファ
 笑ってもう帰らない
 寂しさと嫉妬ばっか残して
 毎度あり 次はもっと大事にして

米津玄師『Flamingo』(2018)より


もはや詩ではなかった。 はっきり言って私は頭にきた。 この『Flamingo』がリリースされるまで、米津玄師は私の相棒だと信じていたからだ。 何しろ彼が伝承したのは阿久悠の才能の油田なのである。 阿久悠の遺志を継げるとしたら、彼しかいない。 その油田があれば、彼にしかできない色んなことができる。 そこに私の才能が加われば、時代に奇跡を起こすことだって不可能じゃなくなる。 なのに、時がきて、フタを開けてみたら、このザマだった。

― 南斗極星の拳、南斗鳳凰拳もまた北斗神拳と同じく一子相伝の拳法。 伝承者が新たな伝承者に倒されていくのもわれらが宿命! わしは…おまえの瞳の中に極星・南十字星を見ていたのだ…  ―
(by オウガイ 『北斗の拳』―「第94話 愛ゆえに!の巻」より)

阿久悠は、この「新たな伝承者に倒されていく」という南斗鳳凰拳伝承者の宿命にしたがって、2007年8月に亡くなった。 私と米津玄師が、それぞれ井上陽水と阿久悠から才能の油田を託されたのは、ちょうどその前年―2006年のことなのだ。 この超現実は、そのとき32歳だった私が気づいていなかったのと同じように、当時15歳だった米津玄師も気づいていなかったとおもう。 しかしながら、この伝承劇も『北斗の拳』の予言のひとつなのだ。

― [サウザー] そしておれが15になった時…
 [オウガイ] よいかサウザーよ。 これからおそいかかる敵を倒せ。 これはおまえにとって、はじめての真剣勝負!! しかもおまえは目をふさいで闘わねばならぬ!! これこそ伝承者への試練!
 ―
(by サウザー&オウガイ 『北斗の拳』―「第94話 愛ゆえに!の巻」より)

種もみ爺さん・小泉純一郎が構造改革を唱えていた2001-2006年は「種もみ時代」と呼べばいいだろうか。 私たち団塊ジュニアが27-32歳の頃だ。 私の相棒たちのレイ、シュウ、ユダ、シン…彼らは生きることにどうしようもなく不器用な男たちだった。 しかしながら、それゆえに南斗六聖拳の伝承者候補でもあったのだろう。 おそらく団塊ジュニア世代にはそういう男たちが何人もいたのだとおもう。 彼らは33歳のぷっつん体験を乗り越え、潜在能力を覚醒させ、天性の義務を果たし、フェアな社会の礎(いしずえ)となるはずだったのだ。 ところが2001年のユダの裏切りを皮きりに、団塊ジュニアの結束は乱れ、2006年を迎えたときには壊滅状態になった。

こうして、窒素・リン酸・カリ…良質の有機肥料を与えられ、純粋培養されたはずの団塊ジュニア世代は崩壊し、安倍晋三内閣が亡国の遊戯をはじめるのを許してしまった。 そこで私と米津玄師が、それぞれ井上陽水と阿久悠から才能の油田を託されることになったのである。 それは、2019年以降に、その才能の油田を使って次世代を導くためだった。

1991年3月生まれの米津玄師の世代は、2001-2006年の種もみ時代のとき、9-10歳の運命のクロスポイントから15-16歳の思春期までの時期を過ごしている。 つまり、最も多感な少年期に種もみ時代の大衆芸術を享受していた子供たちなのだ。 そんな彼らを「種もみ世代」と名づけてみよう。 種もみ時代は、団塊ジュニアが27-32歳を迎えていたため、これから33歳のぷっつん体験を乗り越えようとする時期に役立つ大衆芸術が創造されていた。 代表的な作品を挙げると、宮崎駿の『千と千尋の神隠し』(2001)やBUMP OF CHICKENの『天体観測』(2001)、それから中島みゆきの『宙船』(2006)といったところになるだろうか。 米津玄師の属している種もみ世代は、その恩寵を一身に受けて育った世代なのである。

そして2018年―その種もみ世代が、ついに27歳の運命のクロスロードに立った。 彼らが少年少女時代に享受した大衆芸術の遺産は、そのまま彼らの武器になる。 種もみ世代は日本の希望だ。 彼らには決して団塊ジュニアと同じ轍(わだち)を踏ませてはいけない。 レイ、シュウ、ユダ、シン…種もみ世代の中にいる南斗六聖拳の伝承者候補の崩壊を防ぐのが至上命題になる。 そのため、私はこうして団塊ジュニア世代の遺産と失敗を伝え、米津玄師は種もみ世代の結束のシンボルになった。 それが民族の指導霊の計画だったのだ。

― [バット] そんなところに蒔いたって実るわけねえだろ。
 [ケンシロウ] 実るさ…下にあの老人が眠っている。
 ―
(by バット&ケンシロウ 『北斗の拳』―「第3話 秘拳!残悔拳の巻」より)

種もみ爺さん・小泉純一郎が蒔いた種が発芽するかどうかは、米津玄師にかかっていると言っても過言ではなかった。 団塊ジュニア世代の果たせぬ願いは、米津玄師が率いる種もみ世代に託されたのだ。 これは遺恨試合といおうか、因縁の取り組みといおうか、とにかくそういうものである。 種もみ世代よ、いざ、歴史の表舞台へ!

そのとき米津玄師の発表してきた作品が『Flamingo』だった。 フラミンゴの和名は紅鶴。 紅鶴といえば南斗紅鶴拳の伝承者―妖星のユダである。 こうして『北斗の拳』の予言との不吉なシンクロニシティが起こってしまった。

― 聖帝について、これは話しておかねばなるまい。 南斗六聖拳の崩壊は妖星ユダの野望で始まったが、妖星を動かしたのはサウザー!! サウザーはこの世紀末の世をまっていた!!  ―
(by シュウ 『北斗の拳』―「第86話 南斗の帝王!の巻」より)

おそらく米津玄師には「種もみ世代の絆を結ぶ」という自分の天性の義務を果たす気はさらさらないのだろう。 おまけに種もみ世代の間では、妖星のユダの裏切りがすでに始まっているらしい。 米津玄師…オマエもかっ!?私はまた相棒を失くしてしまった。

修羅の道の類型図
図:布施仁悟(著作権フリー)


どうして米津玄師が私のソウルメイトの名簿に載っていたのかと言うと、彼が修羅の道の傍流(ぼうりゅう)を歩んでいたからだ。 第64代北斗神拳伝承者の使命は、菩薩の道の解明という人類初の快挙を成し遂げ、修羅の道に堕ちようとしている迷える子豚たちを救うことにある。 そんな関係で見過ごすわけにはいかない人物だった。

残念ながら『北斗の拳』は、米津玄師のように修羅の道に堕ちる人物の類型を描ききれていなかった。 そのため修羅の道については、続編『蒼天の拳』において補足的な説明が加えられている。 それをまとめたものが上の「修羅の道の類型図」である。 修羅の道に堕ちる人物は、だいたい四つの類型におさまるのだ。 米津玄師の歩んでいた道は、北斗劉家拳(ほくとりゅうかけん)から派生した極十字聖拳(きょくじゅうじせいけん)のところに位置している。

― 極十字聖拳…かつて北斗劉家拳の天才が編み出した拳法にして、 北斗神拳と互角に闘った拳法!  ―
(by ギーズ 『蒼天の拳』―「第114話 強き者を求めて!!の巻」より)

この修羅の道の四類型を簡単に説明すると、まず釈迦みたいな仏陀が北斗劉家拳の伝承者。 あっちの世界に突き抜けちゃった修羅だ。 で、あっちの世界に抜けきれなかった中途半端な修羅が、北斗孫家拳(ほくとそんかけん)か、北斗曹家拳(ほくとそうかけん)の伝承者になる。 北斗孫家拳の伝承者は幻覚をみるようになった精神分裂症の修羅で、北斗曹家拳の伝承者はそれより軽症の修羅だ。 それで、こっちの世界に突き抜けちゃった修羅が極十字聖拳の伝承者になる。 北斗劉家拳の伝承者があっちの世界の悟りを得るのに対して、極十字聖拳の伝承者はこっちの世界の才能を得る。 『北斗の拳』では、極十字聖拳を南斗鳳凰拳、それ以外をすべてまとめて北斗琉拳(ほくとりゅうけん)と呼んでいた。

― 思えばラオウもトキも愛に彷徨していた…  ―
(by ケンシロウ 『北斗の拳』―「第207話 北斗神拳創造!!の巻」より)

修羅たちに共通する特徴は、愛に彷徨(ほうこう)していることだ。 愛と引きかえに悟りを得ようとするのが北斗琉拳なら、愛と引きかえに才能を得ようとするのが極十字聖拳。 22歳の分かれ道で世の中に飛び出してくる飛べる豚たちは、基本的に愛と引きかえに才能を手にした極十字聖拳の伝承者たちである。 米津玄師にしても、一子相伝の南斗鳳凰拳を極めた人物というだけで、愛に彷徨している極十字聖拳の伝承者ということに変わりはない。 下のサウザーの台詞のように、飛べる豚たちは愛を捨てて才能を手にするのである。

― こ…こんなに悲しいのなら、苦しいのなら…愛などいらぬ!! おれはその時から愛をすてた! いや、帝王の星がめざめたのだ!!  ―
(by サウザー 『北斗の拳』―「第94話 愛ゆえに!の巻」より)

飛べる豚たちについては、きっと誰もが疑問を抱いていたことだろう。 たとえば松任谷由実は、ツインレイとの再会の儀式の部分を担当していたソングライターなのだけれど、本人はどう考えてもその体験をしていない。 そのくせ歌詞の中身は、実体験との思わせぶりな符合をいくつも具えていた。 ときどき歌詞の意味について訊(たず)ねると、すっとぼけたことばかり答えるので、はぐらかしているのか、なにも解っていないのか、それすら判別できなかった。 愛に彷徨しながら愛を説く…飛べる豚たちは、そういう不思議ちゃんたちだったのである。

ついでに言うと、飛べる豚たちのメジャーデビューや人気絶頂の時期が、ほぼ一致していることもおかしい。 たとえば米津玄師の場合は、15-16歳頃から動画サイトへの投稿をはじめて、22歳の分かれ道でメジャーデビューし、27歳の運命のクロスロードで人気絶頂期を迎えるという典型的な飛べる豚だった。 そんな彼らの最も不可解な謎は、27歳の人気絶頂期を迎えた後だろう。 そこからさらに飛ぶ豚もいれば、そこで墜落する豚もいる。

ここでは、その謎を解き明かして、愛に彷徨している迷える子豚ちゃんたちを救おうというわけである。

飛べる豚の年齢パターン図
図:布施仁悟(著作権フリー)


まず飛べる豚たちが人生を踏み違えるのは、早くも14-15歳頃のようだ。 そのとき15-16歳の思春期を目前にした少年少女に天使と悪魔がささやきかける。 天使は「ちゃんと約束を守って。いつか天使の羽をつけてあげるから」と耳打ちし、悪魔は「愛なんか捨てちまえ。いますぐ悪魔の羽をつけてやる」と誘惑する。 その羽はどちらも同じピカピカの才能の翼だ。 飛べる豚たちは、悪魔と取引をして、いますぐ手に入る悪魔の羽をつけてもらう。 それが修羅の道に堕ちる瞬間だ。

修羅たちに共通しているのは、「近道をしたやつはその近道につぶされる」という美学を持っていないことだろう。 そのため、いずれ“しっぺ返し”がやってくるという感覚がない。 私の場合は、幼い頃から「急がば回れ」という諺(ことわざ)をバカ正直に信じて、近道に見えるものはすべて邪道だと思ってきたから、飛べる豚たちの言動はときどき理解に苦しむところがあった。

以下は、米津玄師が『Flamingo』と同時に両A面シングルとして発表してきた『TEENAGE RIOT』。 なんでも15-16歳の頃に作った曲をリメイクしたものだそうで、悪魔と取引をして修羅の道に堕ちた人間の思想が表現されているのではないかとおもう。

TEENAGE RIOT〜 14-15歳における悪魔との取引 〜


 潮溜まりで野たれ死ぬんだ
 勇ましい背伸びの果ての面相
 ワゴンで2足半額のコンバース
 トワイライト匂い出すメロディー

 今サイコロ振るように日々を生きて
 ニタニタ笑う意味はあるか
 誰も興味が無いそのGコードを
 君は酷く

 愛していたんだ

 煩わしい心すら
 いつかは全て灰になるのなら
 その花弁を瓶に詰め込んで火を放て

 今ここで
 誰より強く願えば
 そのまま遠く雷鳴に飛び込んで
 歌えるさ
 カスみたいな
 だけど確かな
 Birthday birthday song

米津玄師『TEENAGE RIOT』(2018)より


私は天使と取引した人間なので、この歌詞が何を言ってるのかさっぱりわからない。 たぶん、この歌詞の意味が解るのは悪魔と取引した人間だけじゃないだろうか。 そうやって手に入れた才能は、積極的解釈をすれば天才だけれど、狂気という消極的解釈もできる。 これは飛べる豚が誕生する瞬間の「Birthday song」だ。 そっくりそのまま、ダークサイドの心象風景である。

次は、私のような飛べない豚が誕生する瞬間をのぞいてみよう。 それは天使と取引をするライトサイドの心象風景だ。

天使のウインクの構造1〜 14-15歳における天使との取引 〜


 約束を守れたなら
 願いを叶えてあげる
 春の国 飛びたてる羽
 つけてあげるよ

尾崎亜美『天使のウインク』(1985)より


これは1985年に松田聖子(まつだせいこ)が歌った尾崎亜美(おざきあみ)の『天使のウインク』の冒頭。 ツインレイの少年と少女が天使と取引をする14-15歳の心象風景だ。

おそらく斉藤由貴のアルバムをよく聴いていたからだと思うのだけれど、14-15歳頃の私は本当の恋に憧れる少年になってしまっていた。 おかげで何も知らないうちに、悪魔の誘惑を退けて、天使と取引していたらしい。

阿久悠の語る歌の影響


 歌ってのは、その人たちが成長する過程のなかで、なんとなく、しかし確実に影響を与えるものでしょう。 作詞家としては、いつもそのことを意識していたいと思いますね。

阿久悠『作詞入門』P.232 「僕の歌謡曲論」


ここで阿久悠が語っているように、歌は少年少女の成長過程に確実に影響を与える。 少年時代に本当の恋をうたう歌姫がいることは、とても大切なことなのだ。

天使のウインクの構造2〜 15-16歳の思春期直後のすれ違い 〜


 音符のように すれ違ってくのよ
 迷子になった彼の心の中
 助けて angel
 りんごをかじったら
 こんな苦しい気持ちになるの?

 I love you
 I love you
 だけどすねてみたり

 I don't know
 I don't know
 気のないふりをするのは何故?

 天使がウインク
 勇気を出して
 笑ってごらん
 それが君との約束だから

尾崎亜美『天使のウインク』(1985)より


『天使のウインク』の一番は、15-16歳の思春期直後に体験するツインレイの出会いの場面である。 三障の闇の十字架を背負うことを「りんごをかじる」と表現しているのが分かるだろうか。 ツインレイの彼女には、三障の闇に呑み込まれて迷子になった男の心模様が手に取るように見えている。

「助けて、エンジェル!」

彼女は、なんとか男を励まして喜ばせようとするのだけれど、うまく伝えられない。 男は男で鈍感すぎて彼女の呼び声にまったく気づかない。 でも、このときの「助けて、エンジェル!」という彼女の心の叫びが、後々になって男に愛を教えることになる。 それが愛のしるし「花の首飾り」なのだ。 愛を忘れた思い出なんかいくつあっても意味がない。 この作品は本当に楽しい。

悪魔と取引をすると、こういう思春期の貴重な体験をせずに青春時代を過ごしてしまう。 そんなもの、いくら才能があったって、不毛このうえない人生じゃないか?

天使のウインクの構造3〜 42歳の再会の日 〜


 笑わないでね 白いドレスのわけ
 あなたにだけはそっと教えたいの
 ないしょよ angel
 あなたのくれた羽
 愛のもとへと運んでくれる

 I love you
 I love you
 唇が照れてる

 I don't know
 I don't know
 涙が止まらないのは何故?

尾崎亜美『天使のウインク』(1985)より


『天使のウインク』の二番は、42歳の再会の日への「時空飛ばし」。 ツインレイの彼女は、シンデレラのように白いドレスを着て、カボチャの馬車に乗って舞踏会にやってくる。 まさしく、その通り。 今宵(こよい)、彼女はシンデレラガールだ。 彼女の巻き起こすこと全てに魔法がかかっている。

「内緒よ、エンジェル」

彼女は遠まわしに愛の秘密をそっと教えようとする。 そして男が、かつて彼女にかけてもらった「花の首飾り」の意味を知るとき、彼女は天使の羽―それはピカピカの才能の翼だ―を手渡してくれるのだ。 そのときツインレイの男女は、来たるべき運命の試練をくぐり抜けることで、二人の関係をより確かなものにしよう、という約束をかわして別れる。 こうして舞踏会の夜はあっという間に過ぎてゆき、時計の針が十二時をまわるとシンデレラの魔法はあっけなく解けてしまいましたとさ…

「涙が止まらないのは何故?」

この作品は本当に可愛らしい。 そして、この歌の最後は別れ際の約束で締めくくられる。

天使のウインクの構造4〜 別れ際の約束 〜


 天使がウインク
 僕には見える
 涙の影で揺れてる笑顔
 とても綺麗さ

 だいじな promise
 涙をふいて
 笑ってごらん
 それが僕との約束だから

尾崎亜美『天使のウインク』(1985)より


天使は天性の義務を遂行する約束を果たそうとする人だけにウインクしてくれる。

「天使がウインク/僕には見える」

これは実際に体験してみれば誰にでもわかることだ。 この歌は決しておとぎ話なんかじゃない。 才能の翼を手にする瞬間は武者ぶるいなんてものじゃないぞ。 己れの生涯を賭けて守るべきものが見つかる。 男の魂が興奮するんだ。

私が才能の翼を手にするまで、まるまる四十二年間にやってきたことは、誰が見ても遠まわりで馬鹿らしいことだとおもう。 普通の人なら、そんなことには時間をかけずに少しでも先を急ごうとするところだ。 しかしながら、そういう遠まわりで馬鹿らしいことに時間をかけなければ、解けないパズルが人生にはあった。 だから、「十年の成功が欲しければ四十二年の下積みが必要」というのが、私のゆるがせぬ持論である。

天使の羽と悪魔の羽は、捜査四課のマル暴刑事(まるぼうでか)と暴力団員のファッション感覚くらい相似している。 マル暴刑事と暴力団員が、どちらも同じく仁義を説くように、天使も悪魔も、どちらも同じく愛を説く。 その才能の翼は、まったく同じ天賦の才(てんぷのさい)であり、その質に違いがあるわけではないのだ。 ただ、その才能の翼を手にした人が愛に彷徨しているか否かに、違いがある。

私が15-16歳の思春期を迎えていたとき、才能の翼を手にすることは宇宙の果てを想像するようなものだった。 そのとき一緒に夢をみて走り出した相棒たちは、落ち武者のように行き場を失くしていった。 人間が魂を売る瞬間の悲愴な現実をいくつも目撃してきた。 でもツインレイの彼女から才能の翼を手渡された今、魂を死守するために払った犠牲のすべてが報われる僥倖(ぎょうこう)を目撃している。

ツインレイは自分の知らない半分だ。 でも、その知らない半分が愛を教えてくれる。 その半分が才能の翼を手渡してくれる。 その半分が羅針盤のように運命を導いている。 だから、その半分を失くしてしまったら、つたなく人生を送ることになる。 諸君に問いたい…愛に彷徨したまま一生を終えることを「本当の幸せ」と呼べるだろうか?

― 北斗は天の北極を…南十字は天の南極を指し示す。
 ともに天帝を指し示す星なれど、南十字は哀れよ。 北斗指し示すところには天帝の星あれど、南十字にはない…あるはただ暗き闇。
 南十字はその闇をただ孤独に廻るのみ。 守るべきものを探し…ただ…ただ…さまよう星よ。
 ―
(by 運命の爺 『蒼天の拳』―「第111話 目録の行方!!の巻」より)

矢印マーク Flamingo/TEENAGE RIOT(ティーンエイジ盤 初回限定)


 2018年10月作品

 天使の羽と悪魔の羽は、マル暴刑事と暴力団員のファッション感覚くらい相似している。 その区別がつかない大衆に、こんなものを聴かせてはイカンよ。 芸術家は自分の天性の義務をわきまえなくてはいけないとおもう。


さて次は、飛べる豚たちが27歳の絶頂期を迎えた後の運命を考察してみよう。 普通の男の27歳までの社会生活といえば、所帯を持つ前に「飲む打つ買う」の固め打ちをしておこうという時期だ。

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どのみち通過点にすぎない気がしているのは、誰でも同じではないだろうか。 これは悪魔の羽を手にした飛べる豚たちにしてみると、もっと深刻な問題になってくるらしい。 以下は谷村新司の「昇ったら降りる道理」のお話。

谷村新司の語る昇ったら降りる道理


 アーティストは理想とする高き山の頂きを目指して音楽を作っていますが、幸運にもいちばんてっぺんにたどり着いた瞬間、そこからまだ上へ昇ろうとする人もいれば、そこにしがみつこうとする人もいます。 その結果、実際はすでに頂点には立っていないのに、そしてまわりから客観的に見ると完全に頂きから降りている状況なのに、自分だけがてっぺんに立ち続けているかのような錯覚に陥ってしまうのです。

 でも私はアリスの絶頂期にあって、いかにこの頂きから自力で降りるかをつねに考えていました。 昇ったら必ず降りるのが道理だからです。 周囲から指摘されてしぶしぶ降りるのではなく、自分の意志で降りていくことが大事。 頂きに行くプロセスでそう感じていたので、つねに私はどうここから降りるかを考えていました。

 そして頂きから降りる直接のきっかけを作ってくれたのが『昴』という作品だったのです。

『谷村新司の不思議すぎる話』P.26-27 第1章 『昴』が教えてくれたこと


どうやら27歳の人気絶頂期を迎える以前から、いかにして降りるかを常に考えていたようだ。 谷村新司は、こういう人生哲学を持っていたせいか、27歳の運命のクロスロード以降に作風が変化している。

28歳―『遠くで汽笛を聞きながら』(1976)
30歳―『いい日旅立ち』(1978)
32歳―『昴』(1980)

すでに解説したように、これらの代表作は神隠しの世界の入口と出口の歌になっている。 おそらく谷村新司は、自分の天性の義務を模索しながら、27歳の運命のクロスロードまでの過程を走り抜けたのだとおもう。 飛べる豚たちの才能には「27歳8月まで有効」というような但書きがあり、それまでに自分の天性の義務を見つけることに失敗すると、更新できずに失効してしまうらしい。 才能は食料品と同じで、ほっとくと腐るのだ。

1984年から…とりわけ平成に入った1989年以降にデビューした飛べる豚たちの特徴は、27歳8月以降に作風が変化しないことだった。 すなわち、22歳の分かれ道で世の中に飛び出してきた人たちのほとんどが、自分の天性の義務を見つけることに失敗していたのである。

筋書きがあるのかないのか判らない運命の前に、たとえひとかけらでもいいから手掛かりを見つけようとして、息を飲み、食い入るように、本を読み、音楽を聴き、映画を観る。 そんなうるわしき大衆芸術の伝統が失われ、悲しいほどに殺菌消毒されたポップカルチャーの狂い咲きが始まったのは、そのためだった。

米津玄師が27歳8月以降に発表した『Flamingo』と『TEENAGE RIOT』は、彼が才能の更新に失敗したことを物語っていた。 きわめて惜しいことだけれど、彼の南斗鳳凰拳は『打上花火』と『Lemon』で聴き納めになってしまったらしい。 『北斗の拳』には、このことも予言されていて、聖帝サウザーには恐怖の暴凶星ラオウも手を出さないことが記されている。 すなわち、米津玄師に許されていたのは、2018年に復活したアンゴルモアの大王が活動を本格化する前の束の間の天下だったのだ。

― 聖帝よ、今のうちに走るがいい! おれはまた帰ってくる!!  ―
(by ラオウ 『北斗の拳』―「第83話 狂乱の南斗!の巻」より)

矢印マーク 作詞入門―阿久式ヒット・ソングの技法 (岩波現代文庫)


 阿久悠先生の作詞バイブル

 どんな分野の芸術家でも自分の師匠を深く知ることが基本。
― 誰かの作品が好きなら、その誰かが親しんできたものすべてに親しむこと。 これが大事だ。(by Bob Dylan) ―


ソウルメイト同士の対決には「相手の宿星を先に理解したほうが勝ち」という法則がある。 その対決を終えると自宅から遠く離れた場所にいる相手の言動に変化をもたらすことができるのだ。 それは「遠隔自我暗殺」と呼べるかもしれない。

この技法は北斗神拳の奥義としてケンシロウとサウザーの対戦で描かれている。 面白いので、ちょっと解説を加えておこう。 北斗神拳は一子相伝。 とはいえ、その正統伝承権は天に選ばれし者にのみ与えられる。 したがって北斗神拳は誰が学んでも構わない。 北斗神拳伝承者による奥義直伝講座といこうじゃないか。
ougi_nisisinkuha
これは『ちょっとはマシな坐禅作法』の【坐禅作法38】声聞道実践で解説した「応用心随観」のことで、北斗神拳の初歩的な奥義だ。

この奥義を実践するときには、いつどこにでも現れる“困ったちゃん”や“困った状況”を「困った」にしている原因は、あれこれとつまらない回想に精を出している自分の“困った自我”にあると気づかなくてはならない。 けれども、その洞察を起こして、困った自我の困った回想が浮かび上がってこなくなる頃には、その“困ったちゃん”の問題行動や“困った状況”自体が気にならなくなっていることだろう。

二指真空把は、自分に罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせてきた相手の言動を、心を空っぽにして受け止める奥義である。 成功すると、その自分に放たれた矢が180度回転して、矢を放った相手に返っていくのを見るだろう。

私は27歳になる以前に働いていた職場で二指真空把を身につけた。 気に入らない上司や同僚が、いつのまにか、どこかに飛ばされたり、辞めたりしたものである。 この奥義はすぐにでも実践できる。 便利だから是非とも身につけるといい。

― 北斗神拳の奥義には二指真空把がある。 矢を放った人間にその矢が返ってくるぞ。  ―
(by レイ 『北斗の拳』―「第71話 その秘孔縛を解け!の巻」より)

この二指真空把は、いわゆるザコキャラに対してのみ通用する奥義であり、自分と因縁の深いソウルメイトとの対決には使えない。 そのため北斗神拳には応用技が用意されている。 その技はコツをつかむのにズバ抜けたセンスが必要だ。 とても言葉で説明して伝えられるものではないから究極秘奥義と言われている。 別に秘密にしてるわけじゃないんだけどね。
ougi_tenhanokamae

なぜ構えが究極秘奥義なのかと言うと、遠隔自我暗殺の技を繰り出す前に、相手が自分と因縁の深いソウルメイトであると見抜く必要があるからだ。 でも相手の正体さえ分かってしまえば、後はこっちのものになる。 この技の呼吸は『かなりキワどい坐禅作法』の【坐禅作法105】宙船に解説してある。 中島みゆき禅師の「宙船のマントラ」がそれだ。

1 何の試験の時間なんだ?
2 何を裁く秤なんだ?
3 何を狙ってつき合うんだ?
4 何が船を動かすんだ?
(中島みゆき『宙船』(2006)より)

この宙船のマントラの実践が北斗神拳究極秘奥義「天破の構え」である。 自分の主要なソウルメイトが分かってくるのは、27歳の運命のクロスロードからだから、この秘奥義は27歳から学ぶことになる技法と言えるだろう。

― 天破の構え…北斗七星は天の守護神。 天乱れた時、天をも破るといわれる北斗神拳究極の秘奥義!!  ―
(by トキ 『北斗の拳』―「第96話 天砕く拳!!の巻」より)

そして…この天破の構えから繰り出される遠隔自我暗殺の技法がこれだ。
ougi_tenhakaxsatu
これはソウルメイトの宿星を見抜くことで、忠―どまんなかの心―に達する奥義。 そうして心からソウルメイトに対する憎しみや嫉妬などのわだかまりが落ちたとき、とどめの一撃は無意識無想に時空を超えて放たれる。 ボォン!

― 天破活殺の奥義は、ふれずして闘気をもって秘孔を突くことにあり!! 将星、堕ちるべし!!  ―
(by ケンシロウ 『北斗の拳』―「第96話 天砕く拳!!の巻」より)

これは、いわゆる“悪霊ばらい”みたいなものかもしれない。 自分の宿星を暴かれたソウルメイトの態度は急におとなしくなる。 米津玄師に憑(と)りついたサウザーだって、ここまで宿星を暴かれてしまったら、ひとたまりもなかろう。 たぶん。

― もはやきさまは、帝王という鎧をはがされた裸の常人!!  ―
(by ケンシロウ 『北斗の拳』―「第97話 愛深きゆえに堕つ!の巻」より)

南斗最強の男・米津玄師…その南斗鳳凰拳は、大衆の荒れすさんだ心を洗い落とすような真実の愛の歌だった。 それだけに、自分の天性の義務を果たす勇気を悪魔に売り飛ばしたことが、なおさら悔やまれる。 悪魔とは、愛にさまよう白痴の天使のことなのかもしれない。

― 哀しい男よ、だれよりも愛深きゆえに。  ―
(by ケンシロウ 『北斗の拳』―「第97話 愛深きゆえに堕つ!の巻」より)

矢印マーク 打上花火(通常盤)


 2017年8月作品

 将星サウザーの極星十字拳
 ― わが拳にあるのは制圧前進のみ!! ―


慈母星のユリア〜待ちつづける女〜

慈母星(じぼせい)のユリアは、仮面と甲冑(かっちゅう)に身を包んだ謎の将軍として描かれるシークレット・キャラクター。 これは、すでにおわかりのとおり、私のツインレイの彼女のことである。 42歳の再会当日まで、彼女が私の主要なソウルメイトの一人だとは気づかなかった。

― 南斗の将動けば、北斗動き、天また動く。 その南斗の将の宿命のままに!  ―
(by ユリア 『北斗の拳』―「第135話 血に染まる覇王!の巻」より)

社会の表舞台で活躍する男たちをあやつり、裏から時代を動かす南斗最後の将―それがユリアだ。 北斗神拳伝承者のケンシロウとて、所詮(しょせん)、彼女の鉄砲玉にすぎない。

サウザーのところで解説したように、米津玄師の『打上花火』はケンシロウである私の声であり、『Lemon』はユリアであるツインレイの彼女の声になっていた。 男の私としては、どちらも同等の傑作として認識されてほしかったのだけれど、大衆には『Lemon』のほうが圧倒的人気であり、時代がケンシロウよりもユリアの声を欲していることは明らかだった。 『北斗の拳』でもユリアはモテモテの女なのである。 女は強い。 男の創造性はどうあがいても女の母性にはかなわないのだ。

― 女の本性はその母性…。 そして南斗六聖拳・最期の将―ユリア様の星は慈母の星にございます!!  ―
(by トウ 『北斗の拳』―「第122話 はるかなる想い!の巻」より)

女は無理して社会進出なんかする必要がない。 たしかに1960年代のウーマン・リブ(女性解放運動)の理念は一定の効果をあげた。 そのおかげで、それまで侵害され続けていた女性の人権が認められることになったのだ。 ところが1980年代に入ると、止め処(とめど)を知らないフェミニストが必要以上に幅を利かせるようになり、創造性を捨てたオカマチキンの男と母性を捨てたスレッカラシの女に市民権を与える風潮が生まれた。 そんなものを社会的同意(コンセンサス)にしていたら、やがて男と女は互いに愛想をつかすだろう。 その行き着くところはゲイとレズの王国しかない。

すべての大和撫子(やまとなでしこ)はユリアを見倣(みなら)ってほしいものだ。 みずから動くことなく黙って待っているだけでも、優れた詩人たちが集合的無意識から声をすくい上げ、その愛を大衆に広めてくれる。 わが国の大和撫子たちは、そうやって社会の灯台の役目を果たしてきたのだ。

和尚の語る女性の果たす灯台の役目


 優れた詩人の背後には、いつも霊感を与えてくれる女性の影が見え隠れする。 女性たちみずからが偉大な詩人だったことはない―彼女たちにはその必要がない―だが、女性なくしては優れた詩は、けっして生まれない。 女性は灯台の役目を果たす。 男たちは偉大な詩人ではあったが、女性がいなければ詩はたちまち精彩を失い、しぼんでしまう。

和尚『黄金の華の秘密』P.549 第十五話 かわず飛び込む水の音


ユリアの声にできないでいる声は、米津玄師の『Lemon』に乗って、ちっぽけだけど小さな愛の光を時代に灯した。 彼女のメッセージは、大衆の心の中に生き続け、やがては時代を動かす大きな力になるだろう。

― ユリア様は永遠(とわ)に彼らの心の中に生きるであろう。 永遠に…  ―
(by リハク 『北斗の拳』―「第133話 宿命の岐路の巻」より)

Lemonの構造2〜 ツインレイの女が自分の宿星に気づく過程 〜


 暗闇であなたの背をなぞった
 その輪郭を鮮明に覚えている
 受け止めきれないものと出会うたび
 溢れてやまないのは涙だけ

 何をしていたの 何を見ていたの
 わたしの知らない横顔で

 どこかであなたが今 わたしと同じ様な
 涙にくれ淋しさの中にいるなら
 わたしのことなど どうか忘れてください
 そんなことを心から願うほどに
 今でもあなたはわたしの光

米津玄師『Lemon』(2018)より


この『Lemon』の二番は、ツインレイの女が自分の宿星に気づいていく過程を描いている。 母性を捨てたスレッカラシの女にはない“大和撫子のタフ”を読みとってほしい。

― 暗闇であなたの背をなぞった
  その輪郭を鮮明に覚えている ―
  (米津玄師『Lemon』(2018)より)

どうにも言葉にできないことを、人は後ろ姿によって語りかける。 だから女は目を閉じて、男の後ろ姿の輪郭をなぞりながら、男が残していった余韻の中に身をひたす。 そうやって男が正面から伝えることのできなかった何かを推しはかっているのだ。

― ユリアとは会えぬ!! ラオウある限り、ユリアに生はない! ならば、おれはラオウと戦うのみ!!  ―
(by ケンシロウ 『北斗の拳』―「第123話 その時はきた!の巻」より)

ツインレイの男と女は、再会した時点で、自分たちの運命が一つの巨大な渦の中に巻き込まれたことを直感する。 そういうときは、自分の望みよりも、天性の義務を優先させた方が最終的には幸福につながるものだ。 男には彼女に背を向けて「やるべきことの続き」を選ぶよりほかはない。 それが宿命ならば、いつか逢うべき時に、逢うべき場所で、ふたたびめぐり逢えるだろう。 その運命の旅をゆくだけだ。 それが背中で彼女に語りかけていた男の言葉である。

― 受け止めきれないものと出会うたび
  溢れてやまないのは涙だけ
  何をしていたの 何を見ていたの
  わたしの知らない横顔で ―
  (米津玄師『Lemon』(2018)より)

再会の日からしばらくの時期は、できることなら、もう一度会って、互いの存在を忘れていた空白の期間を取り戻してみたくなる。 そのまま神隠しの世界の迷宮から抜け出せなくてもかまわない。 心おきなく抱きあえたほうがよほど幸せではないかともおもえてくる。 でも、そんなことをしたら、引き返す価値のある俗世の場所を失なってしまうのだ。 このままどこかの出口にすんなりと抜けられたらいいのに…受け止めきれないものと出会うたび、そんなことを何度も考える。 でも、これが二人でかわした約束なのだ。 振り向いてちゃいけない。

― 「またどこかで会える?」
  「うん、きっと」
  「きっとよ」
  「きっと。さあ、行きな。振り向かないで」 ―
  (by千尋&ハク 『千と千尋の神隠し』より)

ここで体験する喪失感はストレスの限界をとうに越えている。 よほどタフでなければ、ただ呆然とするか、でなければ、耐え切れずに会いに行ってしまうだろう。 でも、ある種の決意を持って、それはやはり大事な約束を破ることだと洞察できたとき、自分の天性の義務がはっきりと見えてくるのだ。

― どこかであなたが今
  わたしと同じ様な涙にくれ
  淋しさの中にいるなら
  わたしのことなど
  どうか忘れてください ―
  (米津玄師『Lemon』(2018)より)

米津玄師の『Lemon』が私に教えてくれた。 彼女はきっと「待ちつづける女」―慈母星のユリアの宿星に気づいたのだと。

― わかりました。 わたしはここで待っています。 わたしは、あの人を待つために生きてきました。 待ちつづけるのが、わたしの宿命。 そしてケンとの約束!!
 ラオウとの戦いを終えて帰ってくるまで、待ちましょう、いつまでも。
 ―
(by ユリア 『北斗の拳』―「第123話 その時はきた!の巻」より)

心の友の構造1〜 再会の日のツインレイの女の声 〜


 あなたから苦しみを
 奪えた その時
 私にも生きてゆく
 勇気がわいてくる

 あなたと出会うまでは
 孤独なさすらい人
 その手のぬくもりを
 感じさせて

 愛はいつもララバイ
 旅に疲れた時
 ただ心の友と
 私を呼んで

五輪真弓『心の友』(1982)より


これは五輪真弓(いつわまゆみ)の『心の友』の一番。 1982年に発表された『潮騒』というアルバムの収録曲で、シングルカットはされていないから、日本国内ではあまり知られていないかもしれない。 ただインドネシアでは第二の国歌と呼ばれるほど有名で、現地の人たちは日本語でそのまま歌えるのだそうだ。 この一番は、再会の日におけるツインレイの女の心の声を歌っている。

再会の日の彼女は、しきりに、こう言っていた。

「こいつ、私しか高校に友達いなかったんだから」

たぶん彼女は「私はあなたのかけがえのない相棒なのよ」と伝えたかったのだとおもう。 その再会の儀式から二年が経ち、44歳で迎えた2018年8月。 たまたまテレビ放送で『心の友』を聴いたとき、この歌は以前に聴いたときとはまったく違う響き方をした。

心の友の構造2〜 再会の日から二年後のツインレイの女の声 〜


 信じあう心さえ
 どこかに忘れて
 人は何故 過ぎた日の
 幸せ追いかける

 静かにまぶた閉じて
 心のドアを開き
 私をつかんだら
 涙ふいて

 愛はいつもララバイ
 あなたが弱い時
 ただ心の友と
 私を呼んで

五輪真弓『心の友』(1982)より


『心の友』の二番は、再会の日から二年後のツインレイの女の心の声だ。

再会の儀式からの二年間。 それは、信じあうことを忘れたとき、人の心は過ぎた日の幸せを追いかけることを学んだ二年間だった。 たった数時間を共に過ごし、思い出を汲み尽くすだけのことが、私たちを唯一無二の「心の友」にしていた。 そのとき私たちは、来たるべき運命の試練に耐えられるだけのタフさを互いに確かめ合っていたのだ。 レイ、シュウ、ユダ、シン、サウザー…その誰よりも彼女は強い。 最も信頼に足る私の相棒(バディ)だ。 これで先に進めると思えたのは、この『心の友』の意味が私の中に立ち上がってきたときだった。

本物の歌は、歌詞のひとつひとつの言葉が、なにげなく通りすぎてきた人生の体験に居場所を見つけて、そこに意味を立ちあげる。 五輪真弓の『心の友』は、旋律も歌詞もシンプルなので、シングルカットするほどのものではないと判断されたのかもしれない。 でも本物には、余計なものが何も加えられていないものなのだ。

― わたしに与えられたのは限られた命。 ならば、なに事にも抗うことなく、天命の流れのままに生きようと思いました。  ―
(by ユリア 『北斗の拳』―「第135話 血に染まる覇王!の巻」より)

『北斗の拳』の設定では、ユリアも乱世に散る南斗六聖拳のひとりになっているから、2018年の『Lemon』が最初で最後の彼女の声になるのではないかとおもう。 2019年は、私たち団塊ジュニア世代の全員が45歳のミッドライフ・クライシスを迎えて、これまでの“社会のお客様”から“社会のお荷物”に変わる。 もうじき2019年5月1日の改元を迎えると、いよいよ世代交代してしまうのだ。 団塊ジュニア世代の中からは、ただ一人、ケンシロウが生き残って時代を見とどけることになっている。

そう考えると、『Lemon』のこの一節の意味がわかるだろう。

― 今でもあなたはわたしの光 ―
  (米津玄師『Lemon』(2018)より)

一応、米津玄師も南斗六星の帝王サウザーなので、南斗六聖拳を代表して相棒たちの声をこの部分に込めているのだ。 レイ、シュウ、ユダ、シン、サウザー、ユリア…相棒たちの果たせぬ想いを胸にケンシロウは世に出ていくのである。 北斗の拳語録で要約すると、こういうことになるだろうか。

― レイはおまえにすべての夢を託しているのだ。 男の心を無駄にしてはならぬ! おまえは生きて、この時代をみとどけねばならぬのだ!!  ―
(by トキ 『北斗の拳』―「第68話 血を呼ぶ宿命!の巻」より)

で、団塊ジュニア世代に代わる次のパワー世代といえば…種もみ世代しかいない。 『北斗の拳』では、リンバットが種もみ世代にいるツインレイの隠喩(メタファー)になっている。 とくにリンちゃんは、次世代のユリアになる女の子だから、いわば人間国宝みたいなものだ。 残念ながら、どんな女の子なのかは私にもまだ分からない。

― [ケンシロウ] リン…これは、ユリアからおまえにと。
 [バット] もらっておけ、リン。ユリアさんは自分にはできなかったことを、おまえに託したんだ。
 ―
(by ケンシロウ&バット 『北斗の拳』―「第140話 驚異のアイン!の巻」より)

というわけで、ユリアの…いや、私たち団塊ジュニアの果たせぬ願いは、まもなく種もみ世代に全託される。 そこで私の果たす役割は、リンとバットの恋物語を描くことになるのではないかとおもう。 なぜなら彼らの生きざまが種もみ世代以降の若者を指揮する旗艦(フラッグシップ)になるからだ。 なんだか北斗の旗を立てて戦うリンとバットの姿が目に浮かぶようである。

― ケンシロウさん、みていなさるか、北斗の旗を立てて戦うふたりを!!
 傷を負いながら、じっとあなたを待っているふたりを。 ケンさえいれば…その言葉を飲み込み、戦い続けるふたりの姿を。
 もし、この若者たちの心が聞こえるならば現れてくだされ!! 今、また、あなたの力が…乱世を斬る北斗の光が必要となったのです。
 ―
(by リハク 『北斗の拳』―「第137話 若き狼の叫び!の巻」より)

最新伝説の構造1〜 リュウケンの餞別 〜


 なつかしい歌よ友よ 最新伝説
 星が出る青い闇は  8万年の繰り返し
 恋人が歌う唄を 伝えて1000ジュゴン
 限りない夢とロマン より完全な星空に

井上陽水『最新伝説』(1998)より


これは先代、第63代北斗神拳伝承者リュウケンだった井上陽水の『最新伝説』。 1998年に発表されたアルバム『九段』に収録されていたもので、その頃、私は23-25歳の厄年を迎えていた。 25歳の厄年を過ぎると、いよいよ俗世を離れて神隠しの世界に迷い込む。 そのため、民族の指導霊は井上陽水を通じてギターやら何やら「やるべきことの続きのしるし」を持たせてくれたのだ。 この歌もその一つで、そうした“しるし”が「やるべきことの続き」を思い出す触媒の役割を果たした。 ここには、私が45歳のミッドライフ・クライシスで俗世に戻ってからの「やるべきことの続き」が歌われている。

「恋人が歌う唄を/伝えて1000ジュゴン」

井上陽水自身は、この部分について「ジュゴンが千匹という意味です」とインタビューで答えていたのだけれど、それはもちろんジョークだ。 これは「恋人たちの声にならない声を千の呪言(じゅごん)で伝えなさい」という指示になっている。 呪言とは、災いを祓(はら)うおまじないのこと。 米津玄師の『打上花火』と『Lemon』もそんな呪言の一つだったと言えるだろう。

そして、『最新伝説』の最後は、破壊と再生によってゼロスタートする予言で終わる。

最新伝説の構造2〜 破壊と再生の予言 〜


 愛し合う夢の果ては 情熱急行
 舞い上がる風を巻いて 最前線の鐘の音
 悲しみの青い夜に 完全新月
 滅び行く街の影は 海岸線の縁取りに

井上陽水『最新伝説』(1998)より


いよいよ、団塊世代→団塊ブリッジ世代→団塊ジュニア世代→種もみ世代へと連綿と受け継がれてきた民族的プロジェクトの最新伝説がはじまる(誰も乗り気じゃないけど)。 リンとバットの恋物語を千の呪言で描ききれば、そこに21世紀の人類が歩むべき新しいヴィジョンが浮かび上がってくるだろう。 これは実に楽しみだ。

種もみ世代以降の諸君! 君たちの味わってきた哀しみや時代に対する怒りが私にはよくわかる。 なぜなら私は、その哀しみや怒りが生じる原点の時代を幼い純粋な感性で体感してきたニュータイプだからだ。 たしかに今は、まるで寝ている虎を起こしてはいけないとでも思っているかのように、誰も声を上げない時代だ。 とはいえ、いつまでも甲羅干しをしている亀のように、苔がむすほどじっとしているわけにもいかないだろう。 誰かしらが勇を鼓(こ)して、種もみ世代以降の若者の生きざまこそ、21世紀を生きる日本男児と大和撫子の亀鑑(きかん)であると、時代の趨勢(すうせい)に直線一気の殴りこみをかけなければいけないと、かつてのジャンプ党の私は考えるのである。 一見すると、その昔、日本男児が持っていた「士魂(しこん)」という言葉や、日本女児が持っていた「ヤマトナデシコ」という言葉は、平成の大衆文化の中では死語になったように思える。 それでも私は、種もみ世代以降の若者の中に、私の愛した日本の昔日(せきじつ)のおもかげを探しているのだ。

諸君、北斗七星を旗印に戦うリンとバットに続け! 北斗神拳伝承者は、諸君の心の叫びに必ずや応えよう。

― 賞金稼ぎの娘は賞金稼ぎの娘でしかない。 奴隷の子も一生奴隷だ!!
 おれはそんなのいやだね。
 こんな時代だ。 生きてたって、死んだって、どっちみち同じだ。 おれたちはいずれ死ぬ。
 だったら、自分の好きなやつのために世の中をかえてやる。
 ―
(by バット 『北斗の拳』―「第143話 反逆の蒼き狼たち!の巻」より)

矢印マーク Lemon


 2018年2月作品

 将星サウザーの南斗鳳凰拳奥義・天翔十字鳳
 ― 退かぬ!媚びぬ!省みぬ!! ―


南斗五車星―バプテスマのヨハネたち

『北斗の拳』の南斗五車星(なんとごしゃせい)は、救世主のために小道を整えるバプテスマのヨハネを象徴している。 いわば時代の胎動を告げる洗礼者たちだ。 彼らは種もみ世代の若者に時節の到来を告げる役割を持っていた。 構成員は五人の男と一人の女の計六人。 一人の女は、ケンシロウと次世代のツインシャドウを結びつける役目を持っていたから、正確には南斗五車星ではないのだけれど、便宜上、ここに入れておく。

― 五車の星は風・雲・炎・山・海。 次に動くは山か炎か!!  ―
(by ラオウ 『北斗の拳』―「第101話 北斗を呼ぶ光の巻」より)

南斗五車星〜バプテスマのヨハネたち〜
図:布施仁悟(著作権フリー)


2005年に公開された映画『スター・ウォーズ/エピソード3』では、ジェダイの組織が壊滅状態になった後、生き残りであるオビ=ワン・ケノービとマスター・ヨーダが、反撃の時節の到来まで身を潜めることを描いている。 南斗五車星の男たちがやったのも、基本的にはそれと同じことだ。 ダース・ベイダー安倍晋三が登場した2006年に息を潜めて、2016年頃から再び動き出したのである。

これは乱世のたびに繰り返されていることらしく、中国、春秋戦国時代のジェダイマスター・老子の『道徳経』にも記述がある。

老子の語る乱世の掟


 これから続けざまに畳みかけようとするなら、まずは威張らせて調子づかせておくにかぎる。 いまにも勢いの弱まるときを待ちながら、しばらくは勢いづくにまかせておくのだ。 いまにも廃(すた)れるときを待ちながら、しばらくは流行(はや)るにまかせておき、いまにも零(こぼ)れおちてくるときを待ちながら、しばらくは味方となって加勢する。 これを微明(びめい)― 秘めたる智慧― という。 柔よく剛を制し、弱よく強を制す。 水中ふかく潜り込み、その淵に息をひそめている魚はそこでじっと機を待つものだ。 伝家の宝刀はむやみにちらつかせるものではない。

布施仁悟訳 『老子 道徳経―上篇』第三十六章より


南斗五車星は何のために再び動き出したのか。 それを説明するのは、ちょっと難しいのだけれど、種もみ世代の使命に係わる重要なことなので、一応やってみよう。

― きさまも知っていよう。 南斗北斗は表裏一体。 真の天下平定は両者一体となった時に初めて成就すると。  ―
(by シュレン 『北斗の拳』―「第101話 北斗を呼ぶ光の巻」より)

『北斗の拳』の南斗五車星は、南斗最後の将ユリアを守護する拳士たちで、ケンシロウとユリアの再会に合わせて動き出す宿星を持っている。 というのは、南斗と北斗、つまり、ユリアとケンシロウというツインレイが一体となったとき、この世に真の天下平定がもたらされるからだ。 そのため、2016年8月の私とツインレイの彼女の再会に合わせて、南斗五車星の連中も動き出したというわけである。

― われらが将と会うのは、あなたの宿命!! 南斗最後の将に会った時こそ、あなたは最強の男となるでしょう!!
 そして、あなたの宿命の旅もそこで終止符が打たれるかもしれません!!
 ―
(by フドウ 『北斗の拳』―「第114話 翔べよ雲!」「第115話 湧きたつ雲!」より)

どうやらツインレイの男女が再会するのは、これまで不可能に近いことだったようで、2016年8月における私たちの再会は、言ってみれば1969年7月におけるアポロ11号の月面着陸みたいなものだったらしい。 すなわち、私と彼女はニール・アームストロング船長とバズ・オルドリン操縦士のように、人類に偉大な飛躍をもたらす最初の一歩を刻んだことになる。

― That's one small step for a man, one giant leap for mankind. ―
 (これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である)
 (by ニール・アームストロング船長)

私にとっては息をするのと同じくらい当たり前のことを、他のみんなは当たり前にできないみたいだし、やろうと思ってもうまくやれないのだと知ったのは、つい最近のことで、そんなに難しいことだとは思っていなかった。 そこには同じ人間でありながら、同じ知的生命体とはとても呼べないくらいの致命的な違いがある。 どうやら人類の大半は、釈迦の生まれた2500年前から、あまり進化していないオールドタイプであるらしいのだ。 そのためニュータイプの私と彼女が、人類の進化のため、「愛」という名の衛星に小さな一歩を踏む必要があった。

アポロの構造〜 日本版アポロ計画の概要 〜


 みんながチェック入れてる限定の君の腕時計は デジタル仕様
 それって僕のよりはやく進むって本当かい? ただ壊れてる

 空を覆う巨大な広告塔には
 ビジンが意味ありげなビショウ
 赤い赤い口紅でさぁ

 僕らの生まれてくるずっとずっと前にはもう
 アポロ11号は月に行ったっていうのに
 僕らはこの街がまだジャングルだった頃から
 変わらない愛のかたち探してる

 大統領の名前なんてさ 覚えてなくてもね いいけれど
 せめて自分の信じてた夢ぐらいは どうにか覚えていて

 地下を巡る情報に振りまわされるのは
 ビジョンが曖昧なんデショウ
 頭ん中バグっちゃってさぁ

 僕らの生まれてくるもっともっと前にはもう
 アポロ計画はスタートしていたんだろ?
 本気で月に行こうって考えたんだろうね
 なんだか愛の理想みたいだね

作詞:ハルイチ 作曲:AK.HOMMA『アポロ』(1999)より


これはポルノグラフィティというグループが1999年に発表した『アポロ』という作品。 その一番から二番にかけての部分である。 彼らは私と同じ団塊ジュニア世代で、この『アポロ』により、私のようなニュータイプの目指すべき希望的ヴィジョンを明確にしてくれた。

ニュータイプという概念の出どころは、『機動戦士ガンダム』(1979-1980)というロボットアニメで、2500年前から進化していない旧人類とは異なる新人類を意味する。 たとえばユングやニーチェのような、悟りの軌道に入った後、釈迦みたいに修羅の道に堕ちるのではなく、そのまま創造の病へと進む奇形(フリーク)たちのことだ。 その存在は二十世紀における心理学や精神医学の発展により知られるようになった。 彼らのようなニュータイプが出現するまでは、釈迦の悟りが人類の到達点の限界だと思い込んでいたため、人類がその先の愛に到達できるとは想像すらできなかったのだ。

やがて二十世紀末を迎えた1999年、日本のポルノグラフィティが『アポロ』をリリースしてきた。 彼らは釈迦みたいなオールドタイプのせいで人類が失くした想像力を、ふたたび喚起しようとしたのだ。 人類は僕らの生まれてくるずっと前に本気で月に行こうとしたじゃないか。 僕らはそろそろ変わらない愛のかたちを探す旅に出るべきじゃないのか。 それは『機動戦士ガンダム』に熱中したニュータイプ世代、すなわち団塊ジュニアだからこそ発信できた世代的意地のメッセージだった。

よくやったぞ、ポルノグラフィティ!お前たちは団塊ジュニアの誇りだ。

その昔、アポロ計画はジョン・F・ケネディ大統領が就任した1961年にアメリカでスタートした。 人間を月に着陸させ、安全に地球に帰還させるという計画で、それは実にアメリカ的ヴィジョンだった。 1620年にメイフラワー号で大西洋を渡った清教徒の子孫たちは、その開拓精神(フロンティア・スピリット)を地球の外にある月に向けたと言えるかもしれない。 アメリカの起ちあげたアポロ計画は人類の希望的ヴィジョンの象徴になった。

イスラム黄金時代やイタリアルネサンス時代といった尺度で世界史をみるなら、1961年からの二十世紀後半は、やはりアメリカ文明時代と言えるだろう。 世界の中心はアメリカにあり、アメリカが人類の希望的ヴィジョンを発信する役割を担っていた。 しかし、1969年に月面着陸の目標を達成して、1972年をもってアポロ計画を打ち切ったとき、アメリカの開拓精神は枯渇した。 アメリカが人間に活力を与えるヴィジョンを発信できなくなったのである。

一方、人類の意識革命の波も同時期のアメリカでうねりはじめていた。 OSHOの本のようなアンダーグラウンドの出版物を精神的バイブルとして熱狂的に読む人々が現れたのだ。 彼らはヒッピーとかフラワーチルドレンなどと呼ばれ、俗塵(ぞくじん)を離れた山中に共同生活体(コミューン)を組織し、愛と平和を叫んだ。 ところが、70年代後半になると、いくつもあったコミューンはあらかた解体し、すべてが徒花(あだばな)であったかのように宙ぶらりんになった。

この時代には、人類が愛に到達できることを説くOSHOのような覚者がいた。 けれども、OSHOは古代インドのタントラの文献を読み解いただけの覚者で、愛の道を歩みきった人物ではなかった。 おかげでフラワーチルドレンたちは誰ひとりとして愛を知ることができなかったのである。 せっかく生まれた意識革命の波も、人類の希望的ヴィジョンを永久運動的に生み続けるには至らなかった。

1960年代―それは空騒ぎのような時代だった。 この時代に産声をあげ、人類に希望をもたらすかに見えたアメリカ的ヴィジョンは、竹トンボで空を飛ぼうとするような狂信だけを残して消えた。 その後、人類はそれに代わるヴィジョンを見出せないまま、透明人間がくったくもなく笑っているような世紀末を迎えた。

「結局、最後に頼れるものは科学(サイエンス)しかないんじゃないかな」

人類は二十世紀後半に生まれた科学信仰の暴走を茫然(ぼうぜん)と見送ることしかできなかった。 テクノロジーだけが先走り、それを支えるヴィジョンは置いてきぼりを食っていた。 それでも、あの時代に人類の意識の内部に投げこまれた聖なる石のようなものは、水面の波紋が消えた今でも、水底で静かに光を放っている。

「こっちだ、こっちに来いよ、やっぱり最後は愛が勝つのさ」

それが『アポロ』が世紀末に投じたメッセージだった。 ニュータイプの男女を「愛」という名の衛星に着陸させ、無事に俗世に帰還させる。 それが僕らの探している「変わらない愛のかたち」の答えであり、それは「なんだか愛の理想みたい」じゃないか? それ以外に1960年代のアポロ計画に代わる人類の希望的ヴィジョンはないんじゃないのか? 『アポロ』は、そんな日本版アポロ計画の概要を歌っていたのだ。

日本版アポロ計画の経緯
図:布施仁悟(著作権フリー)


日本版アポロ計画は米国のアポロ計画が打ち切りになった1972年に産声を上げた。 当初、日本版アポロ第一計画の総指揮に当たったのが第63代北斗神拳伝承者・井上陽水である。

日本版アポロ第一計画(1972-1990)― 無人ミッション ―


1972年にメジャーデビューしてきた団塊世代の井上陽水が歌ったのは、ずばり「悟りの軌道」の存在だった。 日本版アポロ第一計画の概要は、団塊ジュニアの中から、ニュータイプの男女を募集し、彼らに特殊訓練を受けさせ、悟りの軌道に耐えられるだけのタフさを養成するというもの。 当初から打ち上げロケットは一発の予定で計画されていたらしい。 失敗は絶対にゆるされないミッションだったのだ。

いかにして俗世から旅立ち、いかにして悟りの軌道に乗り、いかにして「愛」という名の衛星に着陸し、いかにして俗世に帰還するのか。 日本版アポロ第一計画では、そのための詳細な地図が描かれた。

日本版アポロ第二計画(1991-2005)― 無人ミッション ―


1990年代に入ると、総指揮に当たっていた井上陽水の属する団塊世代が45歳のミッドライフ・クライシスを迎える時節になった。 その世代交代の時期に頭角を現してきたのが団塊ブリッジ世代の奥田民生である。 1992年、27歳の運命のクロスロードに立った彼が『雪が降る町』という作品を発表した。 その作風の変化を見逃さなかった井上陽水は奥田民生と接触。 やがて1994年に『愛のために』にをリリースしたとき、「そろそろ僕が…」と手を挙げてきたため、すかさず彼を日本版アポロ第二計画の総指揮に任命したらしい。

日本版アポロ第二計画の目標は、飛行士となるニュータイプの男女を選抜し、ロケットを打ち上げ、司令船を「愛」という名の衛星の周回軌道上に乗せることだった。 この計画に基づき、2006年、32歳の布施仁悟船長を乗せたロケットが悟りの軌道に向けて打ち上げられたのである。

日本版アポロ第三計画(2006-2016)― 有人ミッション ―


2007年、33歳後厄における布施仁悟船長のぷっつん体験により、「愛」という名の衛星の周回軌道上に司令船を乗せることに成功。 さらに2011年、37歳で創造の病に突入した布施仁悟船長は、司令船から着陸船に乗り換えて「愛」という名の衛星に向かった。 2016年8月11日、布施仁悟船長42歳のときに衛星への着陸に成功。 着陸地点周辺を探査した。

半年後の2017年2月になると、団塊ジュニアから種もみ世代への世代交代がはじまった。 日本版アポロ計画推進局より俗世への帰還命令が発せられ、2年後の2019年2月に着陸船を司令船に回収。 2019年3月、45歳になった布施仁悟船長は俗世への帰還を開始した。

日本版アポロ第四計画(2017-)― 応用ミッション ―


布施仁悟船長の俗世帰還後、2019年8月より、種もみ世代による日本版アポロ計画の応用ミッションが本格始動する。 この日本版アポロ第四計画の目標は、「愛」という名の衛星への航路開設。 第三計画により、「愛」という名の衛星への航路が判明したため、続く第四計画の課題は、より正確で安全な航路の開拓となった。 それは民間ロケットの永続的な就航を可能にするための応用ミッションである。

私は、人類誕生以来、誰も解明したことのなかった愛の道を手探りで歩んできた。 そのため、私の人生は無数の寄り道に満ちていて、次世代に伝えるべきことの骨子を筋道立て説明できたかどうかは、正直なところ自信が持てない。 しかし、私の歩んできた道の節々で起こった出来事のあらすじみたいなものは、ここに表現できているとおもう。

そもそも記憶というものは、いつまでも正しいかたちで留まっていることがない。 それに人生の渾沌を体験する時期が過ぎてしまうと、いちいち振り返る気力を失くしてしまうものだ。 だから自分の体験談をなるべく早い段階で書き留めておきたかった。 そのため、結論が二転三転して、奇想天外な仮説ばかりを並べることにもなり、中には明らかに間違っている仮説もあったことは否定できない。

とはいえ、そんな誰にも理解してもらえそうにない私の体験を信じてくれる若者がいるなら、日本版アポロ第四計画に参加してほしい。 私には井上陽水や奥田民生を中心とするソングライターたちの歌が幻想だとは思えなかった。 彼らの歌の風景が人生のどこかにあるはずだと信じてしまったのだ。 そしてそれをこの眼で見て、実際に体験してみたかった。 これはコロンブスが西まわり航海の可能性を信じて新大陸を発見したのと同じ動機ではないだろうか。

私はこの眼で見た。「愛」という名の新大陸は本当に存在する。

人類はそこに最初の一歩を刻んだ。 あとに残された仕事は、より正確で安全な航路の開拓だけだ。 南斗五車星は、その偉業に挑む種もみ世代のニュータイプに向かって語りかけている。 いまのところニュータイプは、まだまだ少数民族のようだ。 しかも、そのほとんどが自分がニュータイプであることすら忘れてしまっているらしい。 だから、もしも南斗五車星の声が聴こえた人がいるなら、こう思うといい。 君こそ、われわれ人類の待ち望んだニュータイプなのだと。


風のヒューイ〜 旅する男―小沢健二 〜

南斗五車星の風のヒューイは、「風の旅団」を統率する「旅する男」だ。 これはシンガーソングライターの小沢健二(おざわけんじ)にあたる。 彼は1998年にメディアから姿を消して世界放浪の旅に出たのだけれど、2017年2月に19年ぶりのシングル『流動体について』を発表してきた。

― 動いたのはケンシロウだけではない!! 南斗最後の将もまた動いた!
 あの雲は時代そのものの動きだったか!!
 ―
(by ラオウ 『北斗の拳』―「第110話 南斗ついに起つ!!の巻」より)

『北斗の拳』の風のヒューイは、南斗最後の将を守護する南斗五車星の中で、最も早く動き出す男として登場する。 そのため、風のヒューイである小沢健二の動きは、時代そのものの動きであり、2017年2月に発表された『流動体について』は、まさしく時代の胎動を告げるものだった。

それまでの大衆芸術は、団塊ジュニアの中にいるニュータイプのために創造される傾向があったのだけれど、この歌は明らかに次のパワー世代である種もみ世代をターゲットにした作品になっていたからである。

流動体についての構造1〜 故郷に帰る種もみ世代 〜


 羽田沖 街の灯が揺れる
 東京に着くことが告げられると
 甘美な曲が流れ
 僕たちは しばし窓の外を見る

 もしも 間違いに気がつくことがなかったのなら?
 並行する世界の僕は
 どこらへんで暮らしてるのかな
 広げた地下鉄の地図を隅まで見てみるけど

 神の手の中にあるのなら
 その時々にできることは
 宇宙の中で良いことを決意するくらい

小沢健二『流動体について』(2017)より


『流動体について』は、旅を終えた人が故郷の東京に帰ってくる場面からはじまる。

― 羽田沖 街の灯が揺れる
  東京に着くことが告げられると
  甘美な曲が流れ
  僕たちは しばし窓の外を見る ―
  (小沢健二『流動体について』(2017)より)

面白いのは、この作品の布石がずっと昔に打ってあったことだ。 それは『ぼくらが旅に出る理由』という作品で、初出は1994年の『LIFE』というアルバム。 1996年にシングルカットもされていた。

流動体についての構造2〜 2017年への布石 〜


 心がわりは何かのせい?
 あんまり乗り気じゃなかったのに
 東京タワーから続いてく道
 君は完全にはしゃいでるのさ

 人気のない秋の渚
 ぼくらだけにひらける空
 「元気でいて」とギュッと抱きしめて
 空港へ先を急ぐのさ

 遠くまで旅する恋人に あふれる幸せを祈るよ
 ぼくらの住むこの世界では太陽がいつものぼり
 喜びと悲しみが時に訪ねる

 遠くから届く宇宙の光
 街中でつづいてく暮らし
 ぼくらの住むこの世界では旅に出る理由があり
 誰もみな手をふってはしばし別れる

小沢健二『ぼくらが旅に出る理由』(1994)より


男は二度旅に出て、二度故郷に帰る。 それまであまり乗り気じゃなかったはずなのに、ふいに心がわりをしたように“さすらいの旅”に出てしまう。

一度目の旅の衝動は18-27歳の頃に起こる。 このさすらいの旅に理由はない。 ただ、ここで旅に出なければ、大事な何かが損なわれてしまうような気がするだけだ。 これは矢沢永吉の『トラベリン・バス』の一番の景色である。

― きつい旅だぜ お前にわかるかい
  あのトラベリン・バスに揺られて暮らすのは
  若いお前はロックン・ロールに憧れ
  生まれた町を出ると言うけど

  その日暮らしがどんなものなのか
  わかっているのかい? ―
  (作詞:西岡恭蔵 作曲:矢沢永吉『トラベリン・バス』(1976)より)

そして二度目の旅の衝動は45-54歳の頃に起こる。 今度は自分の天性の義務を果たすためのさすらいの旅だ。 この場面では、故郷にツインレイの彼女を残して旅立つ決意が求められる。 つまり、これが『トラベリン・バス』の二番の心象風景なのだ。

― 夜がふければ またいつもと同じさ
  町に残した女想って
  黙りこくるアイツのそばで
  カードで遊ぶ寂しい笑顔

  たまらないぜ あのトラベリン・バスに
  揺られて行くのは ―
  (作詞:西岡恭蔵 作曲:矢沢永吉『トラベリン・バス』(1976)より)

人間は少年少女時代を過ごした故郷に、ある程度、決定されてしまうところがある。 おそらくは、そこで出会うソウルメイトと運命が連動しているからだ。 そのため、時期がくると、それぞれの運命の課題の中に旅立ち、やがて円を描くように出発点のある故郷に帰ってくる。 そんなことを繰り返しているのかもしれない。

― ぼくらの住むこの世界では旅に出る理由があり
  誰もみな手をふってはしばし別れる ―
  (小沢健二『ぼくらが旅に出る理由』(1994)より)

人生には旅を続ける人々にしか見られない景色がある。 それが「ぼくらが旅に出る理由」だ。 これは中島みゆきの『時代』でもおなじみの運命の法則である。

― 旅を続ける人々は
  いつか故郷に出会う日を
  たとえ今夜は倒れても
  きっと信じてドアを出る ―
  (中島みゆき『時代』(1975)より)

で、『ぼくらが旅に出る理由』の続編とも言える『流動体について』は、一度目の旅を終えて、27歳の運命のクロスロードで故郷に帰る種もみ世代への助言になっていた。

― もしも 間違いに気がつくことがなかったのなら?
  並行する世界の僕は
  どこらへんで暮らしてるのかな
  広げた地下鉄の地図を隅まで見てみるけど ―
  (小沢健二『流動体について』(2017)より)

18歳の青年のときに旅に出るのは何かが間違っていると感じるからだ。 27歳で故郷に帰るのは間違いの出発点が故郷にあると気づくからだ。 故郷は、ゆっくりものごとを考えて体勢を立て直すための場所として、旅人の帰りを待っている。 そのとき、旅先でお世話になった人たちに挨拶でもしようと振り返ったら、ふるさと行きの列車のドアは無情な音を立てて閉まる。 故郷に帰る決心が鈍るからだ。 これは中島みゆきの『ホームにて』でもおなじみの運命の法則である。

― ふるさとへ向かう最終に
  乗れる人は急ぎなさいと
  やさしい やさしい声の駅長が
  街なかに叫ぶ

  振り向けば空色の汽車は
  いまドアが閉まりかけて
  灯りともる窓の中では
  帰りびとが笑う

  走り出せば間に合うだろう
  かざり荷物をふり捨てて
  街に 街に挨拶を
  振り向けばドアは閉まる ―
  (中島みゆき『ホームにて』(1977)より)

 そうして故郷に帰った男の課題が、こういうものになる。

― 神の手の中にあるのなら
  その時々にできることは
  宇宙の中で良いことを決意するくらい ―
  (小沢健二『流動体について』(2017)より)

流動体についての構造3〜 42歳への時空飛ばし 〜


 雨上がり 高速を降りる
 港区の日曜の夜は静か
 君の部屋の下通る
 映画的 詩的に 感情が振り子振る

 もしも 間違いに気がつくことがなかったのなら?
 並行する世界の毎日
 子どもたちも違う子たちか?
 ほの甘いカルピスの味が不思議を問いかける

 だけど意思は言葉を変え
 言葉は都市を変えてゆく
 躍動する流動体 数学的 美的に炸裂する蜃気楼
 彗星のように昇り 起きている君の部屋までも届く

 それが夜の芝生の上に舞い降りる時に
 誓いは消えかけてはないか?
 深い愛を抱けているか?
 ほの甘いカルピスの味が 現状を問いかける

小沢健二『流動体について』(2017)より


『流動体について』の二番は、種もみ世代が42歳を迎える頃への時空飛ばし。 悟りの軌道は、人間の進化を一気に加速させる高速道路のようなものだ。 そこから一般道に降りようとする雨上がりの季節を描いている。

― もしも 間違いに気がつくことがなかったのなら?
  並行する世界の毎日
  子どもたちも違う子たちか?
  ほの甘いカルピスの味が不思議を問いかける ―
  (小沢健二『流動体について』(2017)より)

ここでいう「ほの甘いカルピスの味」とは本当の恋の味のことだ。 42歳でツインレイと再会することで、人は本当の恋の味を知る。 恋のカラクリが運命の不思議を問いかけ、映画的、詩的に、感情が振り子を振りはじめるのだ。 恋のカラクリを洞察することは、現実と超現実の境界線を曖昧にして、高次の知識が啓示されるようにしてくれる。

たとえばこんな感じだ。

 …おそらく、20代の旅先で、ファム・ファタール―男を破滅させる運命の女―と恋に落ちることは避けられなかっただろう。 あのとき彼女と結婚する間違いを犯していたら、故郷には帰れなかったはずだ。 あれは運命の分岐点の一つだった。 もしも間違いに気づいて行動に移していなかったら、並行する世界で今を生きている私の毎日は、どんな感じのものだろう?

「青春の後ろ姿を/人はみな忘れてしまう」

それが大多数の人々の現実だとは42歳になるまで知らなかった。 けれども、ツインレイと再会できない人生は、どうやったら帳尻が合うものか、いまでは想像もできない。 なぜなら現在の私は、あらゆる人生の体験が最後にはぴたりと符合していく現象を見ているからだ。

― だけど意思は言葉を変え
  言葉は都市を変えてゆく
  躍動する流動体 数学的 美的に炸裂する蜃気楼
  彗星のように昇り 起きている君の部屋までも届く ―
  (小沢健二『流動体について』(2017)より)

恋のカラクリの洞察は、あらゆるものが一つの連続する流動体の一部として組み込まれていることを教えてくれる。 流動体は停滞するときもあれば、躍動するときもあるけれど、種もみ世代が42歳を迎える頃は、流動体が躍動し、意思が言葉を変え、言葉が都市を変えようとしていることだろう。 そこに自分の立脚点を見つけられたとき、自分の中に眠っていた創造性もまた、数学的、美的に炸裂して、やるべきことの続きを遠く見える蜃気楼のように映し出す。

― それが夜の芝生の上に舞い降りる時に
  誓いは消えかけてはないか?
  深い愛を抱けているか?
  ほの甘いカルピスの味が現状を問いかける ―
  (小沢健二『流動体について』(2017)より)

この歌は、これから悟りの軌道に乗り、「愛」という名の新大陸に向かう君たち、種もみ世代のニュータイプへの餞別の歌になっていることがわかるだろう。 だからこれは、諸君が将来直面する運命の課題を乗り越えるための助言だ。

流動体についての構造4〜 種もみ世代への未来の助言 〜


 そして意思は言葉を変え
 言葉は都市を変えてゆく
 躍動する流動体 文学的 素敵に炸裂する蜃気楼

 それが夜の芝生の上に舞い降りる時に
 無限の海は広く深く でもそれほどの怖さはない
 人気のない路地に確かな約束が見えるよ

 神の手の中にあるのなら
 その時々にできることは
 宇宙の中で良いことを決意するくらいだろう

 無限の海は広く深く
 でもそれほどの怖さはない
 宇宙の中で良いことを決意する時に

小沢健二『流動体について』(2017)より


恋のカラクリを洞察していくと、現実と超現実の境界線が薄れて、二つの世界がほとんど同じ重みを持って自分の中に同居するようになる。 そのとき世界は様相を変え、無限の海のように広く深いものに見えてくる。 それは、私がこの記事で書いているようなことを知ることになるということだ。 それまで世界に対して抱いてきた偏見や先入観を一切棄ててかからなければならなくなるだろう。 どんな事実を目にしても、それを気味悪がったり、相手にしなかったり、粗末にしたりしないこと。 ただし、頭がおかしくなったと思われるだけだから、あまり他言(たごん)しないようにしよう。

―  それが夜の芝生の上に舞い降りる時に
  無限の海は広く深く でもそれほどの怖さはない
  人気のない路地に確かな約束が見えるよ ―
  (小沢健二『流動体について』(2017)より)

そのうち自分の主旋律みたいなものが鳴り出したら、人気のない路地に確かな約束が見えてくるに違いない。 それが「やるべきことの続き」だ。 いつか、種もみ世代の君たちの意志が、人々の言葉を変え、都市を変えてゆく時代が来る。 おそらく諸君は、もう一度、さすらいの旅に出る決意をしなければならなくなるだろう。 そのとき、この歌はそっと背中を押してくれるはずだ。 それまで大事に持っておくといい。

矢印マーク 流動体について


 2017年2月作品

 風のヒューイの五車風裂拳!
 ― わが拳は風を友とし、風の中に真空を走らせる ―


炎のシュレン〜 燃える男―竹原ピストル 〜

南斗五車星の炎のシュレンは、炎のような執念をみせる「燃える男」だ。 これはシンガーソングライターの竹原ピストルのことである。 2009年まで野狐禅というフォークバンドをやっていたのだけれど、31-33歳の大厄のときに相棒が脱落して、その後はギター一本の弾き語りで、歌えるとこなら何処でも行くというドサまわりをしてきた。 2017年にようやくブレイクして第68回NHK紅白歌合戦にも出場を果たした執念の男である。

― シュレン…きさま、なぜこれほどの執念を。  ―
(by ラオウ 『北斗の拳』―「第112話 執念の炎!の巻」より)

相棒を失なう哀しみを背負った男にしか歌えない男唄がある。 その名のとおり、黒光りする拳銃のようないぶし銀の歌をつくる男だった。

「よー、そこの若いの」の構造〜 種もみ世代への助言 〜


 とかく忘れてしまいがちだけど
 とかく錯覚してしまいがちだけど
 例えば桜やらひまわりやらが
 特別あからさまなだけで
 季節を報せない花なんてないのさ

 よー、そこの若いの
 俺の言うことをきいてくれ
 「俺を含め、誰の言うことも聞くなよ。」

 よー、そこの若いの
 君だけの花の咲かせ方で
 君だけの花を咲かせたらいいさ

竹原ピストル『よー、そこの若いの』(2015)より


これは2017年にCMソングに起用されて、スマッシュヒットになった『よー、そこの若いの』の一番。 ブレイクのきっかになった作品なのだけれど、面白いのは、この逆説の部分だろう。

― よー、そこの若いの
  俺の言うことをきいてくれ
  「俺を含め、誰の言うことも聞くなよ。」 ―
  (竹原ピストル『よー、そこの若いの』(2015)より)

世の中の人たちは、そもそも他人の話なんか何も聞いちゃいないから、「誰の言うことも聞くなよ」なんて、いまさら言うまでもないことなのである。 けれども、炎のシュレンの宿星を背負った竹原ピストルが、2017年にブレイクして、この曲を歌ったことに特別な意味があった。 この作品もやはり、27歳の運命のクロスロードを迎えようとしていた種もみ世代への助言になっていたからだ。

たしかに27歳の運命のクロスロードには、誰の話も聞いちゃいけない場面が待っている。 27歳のときに「うらぎりの男」になった妖星のユダは、私から難色を示されたこともあり、公務員試験の受験に賛成してくれる人物を探して歩きまわった。 最後には大学時代の恩師とかいう馬の骨まで訪ねて、お墨付きをもらってきたくらいである。 でも、そういうことをすると、自分の人生のオプションの中には本来なかったはずの道を選んでしまうのだ。 つまり27歳の運命のクロスロードには、誰の言うことも聞かず、徹底して自分の胸に訊(たず)ねなくてはいけない試練が待っている。 たとえば、こんな風に。

ほんとは覚えてるだろ?

人生の答えはいつだって自分の中に見つかるものなのだ。 次に挙げる竹原ピストルの『カウント10』は、人生の勝負どきに自分の中から答えを引き出すための助言になっている。

カウント10の構造1〜 自分の中から答えを引き出すために1 〜


 全てを見尽くしたふりをして 全てを聞き尽くしたふりをして
 走り方を忘れたふりをして 叫び方を忘れたふりをして
 執着もできず 投げやりにも出来ず

 文字通り“適当”にうまいことやって
 茶化して無理に微笑んでみたところで
 そこに見えるのは ただひたすらに瞼(まぶた)の裏っ側であり
 明日じゃない、そんなのは明日じゃない

 ほんとは覚えてるだろう?
 ほんとは覚えてるだろう?

 ド派手に真っ向から立ち向かって
 しかし、ド派手に真っ向からブッ倒されて
 歪んで、霞んで、欠けた視界の先にある
 それこそが
 正真正銘、挑み続けるべき明日だってことを

(竹原ピストル『カウント10』(2014)より)


この『カウント10』は、2014年に発表された『BEST BOUT』というアルバムの収録曲だった。 そのまま「33歳大厄におけるぷっつん体験の乗り越え方」になっていて、これを最初に聴いたとき、私は嬉しくなった。 こんな歌を創れる男が日本にいたのかと。

人間関係の縁を大切にしていれば…というか、27歳の運命のクロスロードまでに「うらぎりの男」にならなければ、31-33歳の大厄まで共に走ってくれる相棒(バディ)がいるはずだ。 一緒にド派手に真っ向から立ち向かって、一緒にド派手に真っ向からブッ倒されてくれる親友である。 私にとっては義星のレイと仁星のシュウがそうだった。

彼らとワイワイやっていると、いつのまにか33歳夏になって、ド派手に真っ向からブッ倒されてしまうという筋書きになっている。 すると、歪んで、霞んで、欠けた視界の先に、「正真正銘、挑み続けるべき明日」が見えてくるのだ。 そのとき、「今日より明日」への限界突破の着想が、雲間にひょいと顔を出した月のように脳裏に浮かんでくることだろう。

義星のレイと仁星のシュウの失敗は、その時、どこかの馬の骨に耳を傾けてしまったことだ。 レイは職場の同僚、シュウは自分の父親…人生の勝負どきには、「正真正銘、挑み続けるべき明日」を選ばなくて済む方法を吹き込んでくる悪魔が必ず現れる。 「明日より今日を選べよ。そうすれば今すぐラクにしてやる」と。 そういうときは、誰の言うことも聞かず、徹底して自分の胸に訊(たず)ねなくてはいけない。 やっぱり、こんな風に。

ほんとは覚えてるだろ?

もしも悪魔に魂を売りそうになったら、この竹原ピストルの『カウント10』を引っ張り出してくるといい。 これを聴きながら自分の胸に何度も問いかけるんだ。 まぶたの裏に閉じこもるのは弱虫のやることじゃないかと。 正真正銘、挑み続けるべき明日から目を逸らすのは卑怯もののやることじゃないかと。

カウント10の構造2〜 自分の中から答えを引き出すために2 〜


 確かに、誰に頼んで鳴らしてもらったゴングじゃない
 例えば季節のように
 いつの間にか始まっていた戦いなのかもしれない

 しかも、運やら縁やら才能やらといったふわついた
 しかし、絶対的に強大な事柄がどこまでも付きまとう
 ちっともフェアじゃない戦いなのかもしれない

 だからと言って、ふてくされて、
 もがきもせず、あがきもせず、例えば季節のように、
 いつの間にか終わるのだけはまっぴらごめんなんだ

 誰かが言ってた
 人生に勝ち負けなんてないんだと
 確かにそうなのかもしれない
 しかし、人生との戦いにおける勝ち負け
 二アリーイコール
 自分との戦いにおける勝ち負けはやっぱりあると思う
 
 ぼくは絶対に負けたくないから
 どんなに打ちのめされようとも
 また立ち上がって、またどこまでも拳を伸ばす

 ちなみに話は変わらないようで変わりますが
 ぼくは“人生に勝ち負けなんてないんだ”という人の人生に
 心を動かされたことは、一度たりとも、無い

(竹原ピストル『カウント10』(2014)より)


たいていの人が勘違いしているのは、社会や環境に自分の将来を保障してもらおうとしていることだろう。 しかしながら、人間の証明は、自分の天性の義務を果たして、自分の将来を保障してもらう権利を、お天道さまに向かって堂々と主張することにある。 そうしなかったら、遅かれ早かれ、人間として「死ぬ」。 それは竹原ピストルが言うように、ちっともフェアじゃない戦いに見えなくもない。

― しかも、運やら縁やら才能やらといったふわついた
 しかし、絶対的に強大な事柄がどこまでも付きまとう
 ちっともフェアじゃない戦いなのかもしれない ―
  (竹原ピストル『カウント10』(2014)より)

人が運命を選ぶのではなく、むしろ、人は運命を選ばされている。 ゆえに運命が人を選ぶ…この運命のカラクリが大学で学んだギリシア哲学の世界観だった。 すなわち、しょぼい運命に捕まったら、どうあがいても、しょぼい運命にしかならないということだ。 それは場合によっては、救いようのない悲劇に見える。

「だったら…どうしろって言うんだよ?」

まだ若かった大学生の私は、もちろん途方に暮れた。 人生の救いを求めて学んだ哲学が救いようのない悲劇をもたらしたのだ。 けれども、そこに普遍的な希望を見出し、運命を変えていくことが、人間を証明する運命の挑戦だった。

― だからと言って、ふてくされて、
 もがきもせず、あがきもせず、例えば季節のように、
 いつの間にか終わるのだけはまっぴらごめんなんだ ―
  (竹原ピストル『カウント10』(2014)より)

運命に挑戦して、運命を変えていく人生というのは、右と左のどっちを向いても先のことなんか全然わからない。 そこで何が起こるのかは人知のほかだったのだ。 だから、まったく五里霧中で手さぐりするしかなかった。 正直に言うと、妖星のユダみたいに、社会に敷いてもらったレールにうまく乗った連中がうらやましかった。 あいつらは数十年先の人生までなんとなく分かってる。 先が知れてると言えばそれだけだけれど、少なくとも安心だ。 一方、こっちは泣き出したいくらい不安だらけだった。

でも運やら縁やら才能やらといったものは、運命に挑戦した人にのみ与えられる特権になっていた。 たしかに、レイ、シュウ、ユダ、シン、サウザー、ユリア…ソウルメイトたちと深い縁を結ぶ人生は、ぬくもりと同時に苦しみや哀しみを背負わなければならない人生だった。 けれども、それが私の運命を変え、私に才能をもたらしたのだ。

明るい社会の見本のような人生を歩むということは、実際には悪魔に魂を売って天命に背くことにほかならない。 そんなことをしたら、とてもお天道さまに顔向けできない後ろめたさを抱えながら生きることになるだろう。 一方、天使と取引する人生を歩むということは、公器の一端を汚しているだけのような気がしてこないでもない。 けれども天性の義務を捨てずにお天道さまとの約束を守ろうとしたら、ものごとの自然な帰結として、人一倍の運命の試練が課せられるだけの話なのだ。 そういう人生を歩むからこそ、「愛」を知ることもできる。 それは運やら縁やら才能やらといったふわついた、しかし、絶対的に強大な事柄に挑んだ人だけの特権なのだ。

― 誰かが言ってた
 人生に勝ち負けなんてないんだと
 確かにそうなのかもしれない
 しかし、人生との戦いにおける勝ち負け
 二アリーイコール
 自分との戦いにおける勝ち負けはやっぱりあると思う ―
  (竹原ピストル『カウント10』(2014)より)

自分との戦いにおける勝ち負けはやっぱりある。 私も、炎のシュレン・竹原ピストルに同感だ。

カウント10の構造3〜 自分の中から答えを引き出すために3 〜


 ダウン!から カウント、ワン・ツー・スリー
 4・5・6・7・8・9…までは、哀しいかな
 神様のたぐいに問答無用で
 数えられてしまうものなのかもしれない

 だけど、カウント10だけは
 自分の諦めが数えるものだ
 ぼくはどんなに打ちのめされようとも
 絶対にカウント10を数えない
 
 カウント、ワン・ツー・スリー・4・5・6・7・8・9…

 さあ、もう一度立ち上がろうぜ
 もう一度、どこまでも拳を伸ばそうぜ

 カウント、ワン・ツー・スリー・4・5・6・7・8・9…

 どんなに打ちのめされようとも
 絶対にカウント10を数えるな

(竹原ピストル『カウント10』(2014)より)


運命は自分のものでありながら、ほとんど自分の思いどおりにならない。 しかし、だからこそ、挑戦しがいもあるのだ。

― カウント、ワン・ツー・スリー・4・5・6・7・8・9…
 どんなに打ちのめされようとも
 絶対にカウント10を数えるな ―
  (竹原ピストル『カウント10』(2014)より)

いずれ種もみ世代の君たちには「普通の男の子に戻りたい」と思う瞬間が何度もやってくる。 打ちのめされて遠のいていく意識の中で、どこかで誰かが忌まわしいテンカウントを数える声が聞こえてくるだろう。 そのとき、この歌は諸君にもう一度立ち上がる勇気を与えてくれる。 だから小脇に抱えて大切に持っていくといい。

矢印マーク カウント10/収録アルバム『BEST BOUT』


 2014年10月作品

 炎のシュレンの五車炎情拳!
 ― わが身に触れるものは、怒りの炎に包まれる!! ―


雲のジュウザ〜 無頼の男―YO-KING 〜

南斗五車星の雲のジュウザは、雲のように自由きままに生きる「無頼(ぶらい)の男」だ。 これは真心ブラザーズのYO-KINGという男である。 2018年9月、種もみ世代の門出(かどで)を祝って、誰もが予想していなかった「動くはずのない男」が動いた。

― やはり雲のジュウザとは、きさまの事だったか!!
 だが、なぜ動いた。すでにこの世におのれの心を捨て去ったきさまがなぜ!!
 ―
(by ラオウ 『北斗の拳』―「第115話 湧きたつ雲!の巻」より)

2018年9月における真心ブラザーズのアルバム『INNER VOICE』の発売は、日本の文学史上最大の事件だった。 とはいえ、そんなことを言うのは、未来永劫、私だけだろう。 このアルバムのリード曲『メロディー』が、ほとんど注目されなかったことは、この時代の悲しき現実と言うほかはない。 雲のジュウザ・YO-KINGがこれほどの詩人だったとは誰にも読めなかったのではないだろうか。 おそらく彼は日本文学史上最強の自由詩人である。

― 我が拳は我流、我流は無型!!無型ゆえに誰にも読めぬ!!  ―
(by ジュウザ 『北斗の拳』―「第114話 翔べよ雲!の巻」より)

メロディーの構造1〜 ぷっつん体験後に飲む特効薬1 〜


 知ったかぶりのオウムたちが空を覆い隠し
 大地に木もれ陽が降り注がなくなる
 やりたいことなんか そんなに見つからなくて
 やるべきことと退屈で 時間は過ぎる

 でも いつも聴こえてくるのは あのメロディー
 誰の声だか知らないが 誰もが幼子(おさなご)のように従ってしまう
 そして へその奥から確かな力を感じるんだ

 それでも楽しく生きる覚悟を 矜持(きょうじ)を
 大丈夫 安心して みんな本当は退屈してるから
 退屈を怖がるな 退屈と共に在れ
 それでもなるべく聴きたい音楽を 読みたい本を
 身を置きたい 気持ちイイ場所を求めて

 でも いつも聴こえてくるのは あのメロディー
 誰の声だか知らないが 幼子のように従ってしまう
 そして へその奥から確かな力を感じるんだ

(YO-KING『メロディー』(2018)より)


『メロディー』の一番と二番は、33歳のぷっつん体験直後に飲む特効薬と言ったところだろうか。 ぷっつん体験は世界がひっくり返るような体験だから、なるべく早く新しい世界のルールに馴染まなければならない。 その33-34歳頃に身につける新しい生き方の基本が歌われている。

― 知ったかぶりのオウムたちが空を覆い隠し
  大地に木もれ陽が降り注がなくなる
  やりたいことなんか そんなに見つからなくて
  やるべきことと退屈で 時間は過ぎる ―
  (YO-KING『メロディー』(2018)より)

ここは誰もが勘違いするところだから覚えておくといい。 ぷっつん体験した直後は「自分のやりたいこと」なんか見つからない。 「やるべきことと退屈で時間は過ぎる」という寝覚めのよくない日々が待っているのだ。 手にとって確かめることのできる具体的な変化を欲しても、しかるべき時節をただ待つしかない時がある。 それが、まさしく、この時だ。

― それでも楽しく生きる覚悟を 矜持を
  大丈夫 安心して みんな本当は退屈してるから ―
  (YO-KING『メロディー』(2018)より)

ぷっつん体験したなら、自分の中から人生の答えを引き出せるようになっているはずだ。 しかしながら、その力はまだ目覚めたばかり。 それは経験とともに、少しずつ確かなものになっていく。 そんな状態で無理に動き出しても意味がないから、とにかく退屈するのである。

ただ退屈といっても二種類あるだろう。 一つは、退屈さをごまかすために意味のないことで忙しく動きまわる退屈。 これは、すでに人間として「死ぬ」選択をした人たちが体験する間違った退屈だ。 もう一つは、「やるべきことの続き」を探しながら、ものごとが動き出す時節を待っている退屈。 こちらは、人間として「生きる」選択をした人たちが体験する正しい退屈である。 そんな正しい退屈に身を置くことができたなら…

― 退屈を怖がるな 退屈と共に在れ ―
  (YO-KING『メロディー』(2018)より)

これは標語みたいなものだから、お習字して部屋の壁にでも貼っておくがよい。 とはいえ、どんなに退屈でも、駅のベンチに座って、列車を待つ時間を漫然とやり過ごすようなことをしてはいけない。

― それでもなるべく聴きたい音楽を 読みたい本を
  身を置きたい 気持ちイイ場所を求めて ―
  (YO-KING『メロディー』(2018)より)

この『メロディー』のような、種もみ世代をターゲットにした本や音楽や映画が、これからいくつも創造されるに違いない。 もしかしたら過去に創造されたものが重要な意味を持つことになるかもしれない。 そうした妙法蓮華経を手にするのだ。 それが突破口を開く鍵になるはずだから、見逃さないように目を凝らしておくがいい。 それは匿名的な警告を発する猫が、どこからともなく足早に駆け抜けるようにしてやってくるだろう。

― でも いつも聴こえてくるのは あのメロディー
  誰の声だか知らないが幼子(おさなご)のように従ってしまう
  そして へその奥から確かな力を感じるんだ ―
  (YO-KING『メロディー』(2018)より)

メロディーの構造2〜 ぷっつん体験後に飲む特効薬2 〜


 絵描きのフィンランド人は 午前はマンガを読み
 午後は空を見て暮らしているよ
 退屈だけどラクな日々
 お誘い 流れで 出かけたときは ついでに世界を満喫さ

 景色をずっと観る バスで行こうぜ 街を見よう
 まずはテーブルにつくことさ
 10分だけでイイ
 愛しくやかましい 7番線のプラットホームの中で

(YO-KING『メロディー』(2018)より)


この『メロディー』の三番は、ぷっつん体験直後から創造の病に入る時期までの助言。 それは創造の病に耐えられるだけの力を養成する期間になっている。 だいたい35-37歳くらいで身につけるべき芸術家としての基本だ。

― 絵描きのフィンランド人は 午前はマンガを読み
  午後は空を見て暮らしているよ
  退屈だけどラクな日々 ―
  (YO-KING『メロディー』(2018)より)

芸術作品には生まれるべき時節というものが決まっている。 そのため、材料を仕込んで寝かせるべき時期とそれを吐き出すべき時期の過ごし方を区別する必要があるのだ。 日々の生活の中で感じたことを整然とならべて、頭の抽斗(ひきだし)の奥に寝かせているあいだは、たしかに「退屈だけどラクな日々」と言えるかもしれない。 それは買ってきたばかりのノートのまっさらなページに何を書こうかといつも考えているような日々だ。

― お誘い 流れで 出かけたときは ついでに世界を満喫さ
  景色をずっと観る バスで行こうぜ 街を見よう ―
  (YO-KING『メロディー』(2018)より)

退屈だけどラクな日々といっても、自分の足で出かけていって、自分の目で見て事実を確かめてこなければ先に進ませてもらえない出来事も待っている。 運命を変えるのは人の縁だ。 人間関係の縁を大切にしていれば運命も変えられる。 お誘いがかかり、流れで出かけることになったら、ついでに世界を満喫してくるといい。 人がしてくれることはしてくれるがままにまかせよ、自分がなすべきことは自分でなせ。 そういう腹づもりが、なにごとによらず肝要なのだ。

― まずはテーブルにつくことさ
  10分だけでイイ
  愛しくやかましい 7番線のプラットホームの中で ―
  (YO-KING『メロディー』(2018)より)

やがて自分の中に深く沈み込んだものが、時宜(じぎ)を得て浮かび上がってこようとする。 創作を「はじめたい気分」と「はじめたくない気分」が三分おきにやってきて、せめぎ合いをはじめたら、おとなしくテーブルにつくことだ。 まずは10分だけでいい。 そこで手応えを感じたなら、創作に必要なものすべてが手元に集まってくるホグワーツ現象をみるだろう。 あとは成りゆきまかせの一瀉千里(いっしゃせんり)である。

メロディーの構造3〜 創造の病に入った後から飲む特効薬 〜


 大詩人のような歌詞でなくていい
 すぐにラクに書けるものを書けばいい
 それらは本来備わっているモノ
 それこそみんなが求めているモノ

 ほら聞えてくる
 簡単にできることをやるんだ だからうまくいく
 語りかける言葉 自分にとってのメモ
 生きていくうえで必要な知恵を
 幸福になるためのコツを

 それらを歌ってしまえ
 それらこそ歌われるべき言葉
 それこそ彼のコアなのだ
 ラクで楽しく生きる個性 真骨頂

 山奥に住む男の家賃は一万六千円
 働かない 稼がない よく眠る
 それは最強のプロテストなライフスタイルだと思っている
 モノを創ることはやめられるわけがない

(YO-KING『メロディー』(2018)より)


『メロディー』の四番と五番は、創造の病に入った後から飲む特効薬になっている。 38歳くらいからの指針となる己れの才能を磨くための言葉たちだ。

― 大詩人のような歌詞でなくていい
  すぐにラクに書けるものを書けばいい
  それらは本来備わっているモノ
  それこそみんなが求めているモノ ―
  (YO-KING『メロディー』(2018)より)

才能について知っておくべきことは、天賦の才(てんぷのさい)なくしては、どんな努力も無駄ということだ。 将星サウザー=米津玄師、風のヒューイ=小沢健二、炎のシュレン=竹原ピストル、雲のジュウザ=YO-KING…みんな己れの宿星にしたがって作品を生み出していることが分かるとおもう。

― 拳の強弱は、そもそも天賦の才!! 天賦の才なくして、おのれの拳はつかめぬ!! おそるべきはジュウザの才よ!!  ―
(by ラオウ 『北斗の拳』―「第114話 翔べよ雲!の巻」より)

与えられた天賦の才によって拳の強弱が決まるから、南斗最強の将星サウザーの宿星を持った米津玄師には、小沢健二と竹原ピストルとYO-KINGが束になっても敵(かな)わない。 それはヒットチャートを見ても一目瞭然なのである。 こればかりは仕方のないことなのだ。

だから、大詩人のような歌詞を目指すのではなく、すぐにラクに書けるものを書けばいい。 つまり、自分に本来備わっている天賦の才をいかに活かすかを考えればいいのだ。 それでこそ、みんなが求めている作品になる。

― ほら聞えてくる
  簡単にできることをやるんだ だからうまくいく
  語りかける言葉 自分にとってのメモ
  生きていくうえで必要な知恵を
  幸福になるためのコツを ―
  (YO-KING『メロディー』(2018)より)

智恵ある者にはそれを分かちあう義務がある。 語りかける言葉、自分にとってのメモ、生きていくうえで必要な知恵、幸福になるためのコツ。 人生経験のうちに養った智恵を分かちあう努力を通してこそ、自分の言葉を回復できる。 とはいえ人類の大半は、ニュータイプが持っている智恵の価値を認められるほど、進化を遂げてはいない。 おそらく誹謗中傷は避けられないだろう。 それでも、素人の手ほどきほど、素人に通じやすいものはないのだから、大いに奮闘していただきたいものである。

― それらを歌ってしまえ
  それらこそ歌われるべき言葉
  それこそ彼のコアなのだ
  ラクで楽しく生きる個性 真骨頂 ―
  (YO-KING『メロディー』(2018)より)

才能の覚醒にしたがって、自分のコアとして在る彼―すなわち内なる師(サットグル)の存在を信じざるを得なくなってくる。 その内なる師の導きに従おうとしないときに限って、自分に苦しい努力を課してしまうからだ。 とはいえ、これは納得するまでに、たいそう時間のかかる事だ。 創造の病に入った当初は、服従を強制されてるみたいな気がして、誰もが抵抗してしまうことだろう。

「才能のない分野に無理に留まって鳴かず飛ばずで終わるより、才能を生かす道を選んだ方がいいのでは?もっと言うなら、布施さんの内なる師は、今に至るまで小説のインスピレーションを授けてくれていないわけで。それが答えなのでは?」

芸術作品には生まれる時節があることを知らない人たちから、こういったヤジが飛んできた日には、内なる師によって自分の人生が握りつぶされているような気もしてくる。 とたんに時節を待つことを忘れて、すぐにでも行動に移ろうとしてしまうかもしれない。 けれども、そういうときは決まって自分ではない何かに成ろうとしているものだ。

― おれは雲! おれはおれの意志で動く。 ざまあみたかラオウ!! おれは最期の最期まで雲のジュウザ!!  ―
(by ジュウザ 『北斗の拳』―「第120話 流れ去る雲よ!の巻」より)

『北斗の拳』の雲のジュウザは、最期の最期まで自分以外の何かに成ろうとはしなかった。 それこそ君のコアなのだ。 誰かに惑わされそうになったときには、自分に本来備わっている天賦の才を活かしてこそ、みんなが求めている作品を創造できることを思い出してほしい。 内なる師の導きを信じて全託することが、最後の最後になって自分を活かすことになる。 そのとき、ラクで楽しく生きる個性が一層増大している真骨頂をみるだろう。

― 山奥に住む男の家賃は一万六千円
  働かない 稼がない よく眠る
  それは最強のプロテストなライフスタイルだと思っている
  モノを創ることはやめられるわけがない ―
  (YO-KING『メロディー』(2018)より)

なるべくなら「どうして働かないの?」とか「どうして稼ごうとしないの?」とか「いつも寝てばっかりで」などと言われないのが望ましい。 けれども、どうでもいいことに頭と身体を使うことしか知らない人たちに、芸術家の生き様なんか理解できるわけがない。 ただ、「モノを創ることはやめられるわけがない」と誰に言うともなく呟き、自分でうなずくことができれば上出来である。 こういうプロテストなライフスタイルほど贅沢なものはない。 これを「もっとも廉価(れんか)な地上の幸せ」と言う。

メロディーの構造4〜 創造の病を抜けるときに飲む特効薬 〜


 この歌はどこまでも広がって
 なんだかよくわからなくなってきた
 この歌の語り手は
 僕なのか 君なのか 彼なのか 誰なのか
 時間が決めてくれるだろう
 その半面テキトーな流れへ
 はぐれて自由になるのさ

(YO-KING『メロディー』(2018)より)


最後に創造の病の仕上げの稽古をしよう。 『メロディー』の最後は創造の病を抜けるときに飲む特効薬である。 だいたい43-44歳くらいの心象風景と考えておけばいい。

― この歌はどこまでも広がって
  なんだかよくわからなくなってきた
  この歌の語り手は
  僕なのか 君なのか 彼なのか 誰なのか
  時間が決めてくれるだろう ―
  (YO-KING『メロディー』(2018)より)

風のヒューイ、炎のシュレン、雲のジュウザ…みんな種もみ世代のために起ち上がったルネサンスの騎士たちだ。 それぞれに自分の担当分野を持っていて、不思議にその仕事が重複することはない。 これは別に、どこかで会議を開いて話し合ったうえでやっていることではないのだ。

さて、この歌の語り手は一体誰なのか?時間が決めてくれるだろう。

これは雲のジュウザ・YO-KINGからの公案である。 この公案を解けるようになる頃には、諸君はもはやガイドを必要としなくなっていることだろう。 どこかで自分を待っている誰かのために、東奔西走(とうほんせいそう)したくなっているに違いない。

― その半面テキトーな流れへ
  はぐれて自由になるのさ ―
  (YO-KING『メロディー』(2018)より)

この作品は、これ見よがしの派手さはなくとも、これだけは伝えておかなくてはならないという想いが、ひとりでに駆け出してしまったような歌だ。 それが言葉の意味を超えて心を揺さぶる。 この『メロディー』は、私の知るかぎり、創造の病について歌われた日本で最初の歌でもある。 雲のジュウザ・YO-KING…おそるべき天賦の才の持ち主だ。 できれば、こういうものをたくさん創ってほしいとおもう。 でも、雲のジュウザは雲ゆえに気まぐれで動くのだった。

― おれの拳は邪拳ゆえ、たね明かしは一回きりよ!!  ―
(by ジュウザ 『北斗の拳』―「第116話 妖気の邪拳!の巻」より)

まったく食えない男である。この男の拳の真髄、その胸に焼きつけておくがよい。

矢印マーク メロディー/収録アルバム『INNER VOICE』


 2018年9月作品

 雲のジュウザの撃壁背水掌(げきへきはいすいしょう)!
 ― おれは、あの雲の様に自由きままに生きる ―


山のフドウ〜 愛を叫ぶ男―山口隆 〜

南斗五車星の山のフドウは、子供たちに愛を教える「愛を叫ぶ男」だ。 これはサンボマスターの山口隆(やまぐちたかし)のことである。 サンボマスターが大衆に知られるようになったのは、『電車男(でんしゃおとこ)』というドラマのエンディングテーマになった『世界はそれを愛と呼ぶんだぜ』からだった。 2005年8月リリースの歌なのだけれど、それは当時まだ少年少女だった種もみ世代に向けた未来の約束の歌になっている。

― 心優しきフドウ様は、この世に捨てられた多くのこどもたちを、すべて養子として、自分の子として…  ―
(by フドウの兵 『北斗の拳』―「第117話 ただ愛のために!の巻」より)

山のフドウ・山口隆は、いわば“種もみ世代の父”とでも呼ぶべき存在だった。

世界はそれを愛と呼ぶんだぜの構造〜 少年少女時代の約束 〜


 涙の中にかすかな灯りがともったら
 君の目の前で あたためてたこと話すのさ
 それでも僕らの声が乾いてゆくだけなら
 朝が来るまで せめて誰かと歌いたいんだ

 昨日のあなたが偽(うそ)だと言うなら
 昨日の景色を捨てちまうだけだ

 新しい日々をつなぐのは 新しい君と僕なのさ
 僕らなぜか確かめ合う 世界じゃそれを愛と呼ぶんだぜ

 心の声をつなぐのが これほど怖いモノだとは
 君と僕が声を合わす
 今までの過去なんてなかったかのように歌い出すんだ

(山口隆『世界はそれを愛と呼ぶんだぜ』(2005)より)


忘れるほどの遠い昔に、気づかぬうちに結ばれていた約束が果たされたとき、人はそれが「愛」であったことに気づく。 この『世界はそれを愛と呼ぶんだぜ』は、そんなツインレイの彼女の「花の首飾り」のような効果を生む“愛のしるし”の歌になっていた。

― 涙の中にかすかな灯りがともったら
  君の目の前で あたためてたこと話すのさ ―
  (山口隆『世界はそれを愛と呼ぶんだぜ』(2005)より)

この歌はこんな感じで始まるのだけれど、冒頭一句の「涙の中にかすかな灯りがともったら」というのは、27歳の運命のクロスロードを意味している。 15-16歳の思春期を迎えると、少年少女は三障の闇の十字架を背負い、自分以外の何かになろうとする間違いを犯しはじめる。 27歳の運命のクロスロードは、その間違いに気づいた若者が、出発点に戻って、一から体勢を立て直そうとする時期なのだ。 そのため、こういう歌詞が途中で盛り込まれてくる。

― 昨日のあなたが偽(うそ)だと言うなら
  昨日の景色を捨てちまうだけだ ―
  (山口隆『世界はそれを愛と呼ぶんだぜ』(2005)より)

つまりこの歌は、種もみ世代の少年少女が27歳になったとき、「君の目の前であたためてたことを話そう」という未来の約束になっているのだ。

― 心の声をつなぐのが これほど怖いモノだとは
  君と僕が声を合わす
  今までの過去なんてなかったかのように歌い出すんだ ―
  (山口隆『世界はそれを愛と呼ぶんだぜ』(2005)より)

この歌が発売されたのは2005年のことだから、種もみ世代にとっては15-16歳の思春期を迎える直前の出来事だっただろう。 おそらく中学二年か三年生の頃だ。 そのとき山口隆は、種もみ世代の少年少女たちと未来の約束をかわして、心の声をつないでいた。 それが、この部分から読み取れる。

― 新しい日々をつなぐのは 新しい君と僕なのさ
  僕らなぜか確かめ合う 世界じゃそれを愛と呼ぶんだぜ  ―
  (山口隆『世界はそれを愛と呼ぶんだぜ』(2005)より)

こうして2005年に山口隆と心の声をつないだ少年少女たちは、まもなく三障の闇に呑み込まれていった。 三障の闇の十字架を背負っても、道を踏み違えることなく出発点に戻ってきてくれ…そんな願いをこめて創られたサーチライトソングが、『世界はそれを愛と呼ぶんだぜ』だったのだ。

その種もみ世代が、2018年、27歳の運命のクロスロードに立った。 すでに同世代の仲間の多くは、人間として「生きる」ことを辞めていることだろう。 生き残っている者たちも、心の痛みや哀しみを背負う生き方に疑問を抱き、愛することの切なさに少し疲れていることだろう。

― おれはここまで。 しかし、だれかが、だれかが愛を信じさせてやらねば!!  ―
(by フドウ 『北斗の拳』―「第117話 ただ愛のために!の巻」より)

そこで十三年前の約束を果たすべく、山口隆が満を持して発表してきたのが『輝きだして走ってく』だった。

輝きだして走ってくの構造1〜 十三年越しの約束 〜


 もしもキミが 心の中の悲しみだとか
 痛みを抱えきれなくなって
 自分自身を今 見失いそうになっても

 忘れないで この世には 痛みと悲しみを
 歯をくいしばって抱きしめるキミにだけ
 起こせる奇跡があるってことを

 ついにその時が来たんだよ
 心臓の音が合図だろ?
 誰のマネもしなくていいの
 キミだけの花よ咲け

 負けないで キミの心 輝いていて
 大丈夫 乗り越えられる
 くじけないで笑っておくれ 胸張っていけ
 キミこそ 僕の奇跡なんだから

(山口隆『輝きだして走ってく』(2018)より)


読んで字のごとく、聴いて旋律のごとく。 ある種の魂のほとばしりのようなものを直球で投げ込んできているから、もはや説明は不要だろう。

それらしく抽象的な言葉を使えば、詩のふりをしている作品を誰でもつくることができる。 プロとアマチュアの境界線がなくなって久しい現代は、そんな歌ばかりが氾濫している時代だ。 この『輝きだして走ってく』も他の陳腐な応援歌と一緒にされてしまっていることだろう。 しかし、この作品の次元はそんなものとは全然違う。

詩人は、思考回路を中継する手続きをパスして、たとえば大理石から女神を救い出す彫刻家のように、無意識から、そこに漂泊している言葉をつかみとる。 この作品はそうやって生まれてきたものだ。 それがよく分かるのが、この二番である。

輝きだして走ってくの構造2〜 相棒を失う哀しみのために 〜


 間違えんなよ 終わりの景色だとか
 時間は止まらないって 悲しいサダメと言うけど
 終わらないよ 一瞬が過ぎてくだけ
 ほら次の瞬間だぜ だから簡単に終わらせんなよ

 負けないで キミの心 輝いていて
 大丈夫 と声が聴こえる
 キミ自身をまもっておくれ 自分を責めないで
 キミこそ 待ち望んだ人だから

(山口隆『輝きだして走ってく』(2018)より)


この二番は、妖星のユダ、義星のレイ、仁星のシュウ…31-33歳の大厄に向かって一緒に走ってきた相棒たちを失った後、ひとりぼっちで35歳を迎えたときの助言になっている。 その頃になると、君たちの目の前には、こんな光景が広がっていることだろう。

 …文明の道路が終わり、緑が尽き、褐色の荒野が始まる。 ずっと向こうには空と大地がふれあう地平線が見える。 見渡すかぎり岩山と砂漠、それだけだ。 落ちていく夕陽が夜の訪れを告げ、もはや引き返す時と場所はないことを知らせる。 荒涼とした眺めだ。 相棒たちは骨ぬきにされ、完全に牙を抜かれてしまっている。 人間固有のスピリットを失わず、毅然(きぜん)としていることが、まるで禁忌(タブー)そのものであるかのように。

<< もしも、適切な助言をしてやれたなら、あるいは… >>
<< 胸ぐらを掴んで殴り倒してでも“喝”を入れてやればよかったか >>

自分を責めるような後悔は尽きない。この二番は、そんな心の痛みと哀しみを抱えた時にきく歌だ。

― 負けないで キミの心 輝いていて
  大丈夫 と声が聴こえる
  キミ自身をまもっておくれ 自分を責めないで
  キミこそ 待ち望んだ人だから ―
  (山口隆『輝きだして走ってく』(2018)より)

『北斗の拳』の南斗五車星は、次に挙げる海のリハクを除く全員が乱世に散る運命にある。 それは平成の終わりとともに才能の賞味期限切れが来るということだ。 風のヒューイ、炎のシュレン、雲のジュウザ、山のフドウ…残念ながら、彼らの活躍はここまでと決まっているらしい。

― ケンシロウさん。
 こ…これからは、その手でこの子供たちを、そしてこの時代を抱き包んでくだされ。
 そ…それが山のフドウの…本望…。
 ―
(by フドウ 『北斗の拳』―「第130話 肉体を越える魂!の巻」より)

この五車星の男たちの想いを私はどうしても伝えておきたかった。 種もみ世代の諸君。 山のフドウ・山口隆の心意気、その胸にしかと受け取ってやってくれ。 世界はそれを愛と呼ぶんだぜ。

矢印マーク 輝きだして走ってく(通常盤)


 2018年8月作品

 山のフドウの五車山峨斬(ごしゃさんがざん)!
 ― 哀しみを知らぬ男に勝利はないのだ!! ―


海のリハク&娘トウ〜 統べる男と女―宮崎駿&あいみょん 〜

南斗五車星の海のリハクは天才軍師。 あまたの兵を束ねる「統(す)べる男」である。

― 海のリハクか! 世が世なら万の軍勢を縦横に操る天才軍師よ。  ―
(by ラオウ 『北斗の拳』―「第123話 その時はきた!の巻」より)

これはアニメ映画監督の宮崎駿(みやざきはやお)氏のことだ。 2013年に長編アニメの製作からの引退宣言をして、しばらく沈黙していたのだけれど、2017年にいきなり撤回。 2020年公開を目指して長編アニメの製作を開始した。 それまでにも何度か引退宣言と撤回を繰り返していて、「海のリハク、一生の不覚!」という決めゼリフを地でいく男だった。

― す…すまぬケンシロウ様。 あなたの力を読めなかったばかりに余計なことを…海のリハク、一生の不覚!  ―
(by リハク 『北斗の拳』―「第126話 魔王への犠牲!の巻」より)

2001年公開の『千と千尋の神隠し』が世代を超えて愛される名作だったように、宮崎駿氏のつくる長編アニメ映画には人々を統べる力がある。 2017年に引退宣言を撤回したのも、氏が南斗五車星の海のリハクだからで、やはり天才軍師としては挙兵しなければ気がすまなかったのだろう。 次回作の公開予定になっている2020年は、すでに平成の時代が終わっているのだけれど、それも『北斗の拳』の予言どおりの想定内。 南斗五車星の中からは、海のリハクだけが生きのこり、次の時代のはじまりを見届けることになっている。 なかなか、しぶとい長老なのだ。

ただ宮崎駿氏の場合、悟りの軌道の抜け方を指南する作品は、すでに『千と千尋の神隠し』で発表済みである。 つまり、他の南斗五車星の連中と違って、種もみ世代に対しての義務は果たし終えているのだ。 そこで氏の次回作は、種もみ世代の次のパワー世代をターゲットにした作品になるのではないかとおもう。 この世代は、その中から第65代北斗神拳伝承者になる男―リュウが選ばれる大事な世代だ。 その新世代の子供たちがどの年代にいるのかを推定すると、こんな感じになるのではないかとおもう。

第65代北斗神拳伝承者推定図
図:布施仁悟(著作権フリー)


『北斗の拳』のリュウは、ラオウの忘れがたみという設定で、あれこれ教えなくても自分から道を探し当てる男の子として描かれる。 何といっても、日本の次世代に第65代北斗神拳伝承者になる子供がいるというのが頼もしい。 彼が45歳のミッドライフ・クライシスを迎えるまでは、どうにかして私も生きていたいとおもう。 どんな男に成長して世に出てくるのか見届けてみたいのだ。

― リュウ! おまえはその小さな体にすでに哀しみを知る心を刻みつけた。 おまえに教えることはもう何もない。 あとはラオウの血がおまえを進むべき道に導くであろう。  ―
(by ケンシロウ 『北斗の拳』―「第237話 愛すれど遠く…の巻」より)

種もみ世代がツインレイとの再会を果たす42歳の頃、今度はリュウの属する新世代の子供たちが、27歳の運命のクロスロードに立とうとするだろう。 そのとき、南斗五車星の男たちがやったように、彼らに悟りの軌道の道案内をするのが種もみ世代の使命になるはずだ。 そのための熟練したガイドになることが本来的な天賦の才の活かし方なのである。

以下は村上春樹がインタビュー集で語っていた「熟練したガイドとしての仕事」について。 こういう考え方を根本に持っていないと、ろくでもない作品を量産する薄っぺらな芸術屋になってしまうだろう。

(村上春樹の語る)熟練したガイドとしての仕事


 ときとして我々はたった一人で深い井戸の底に降りていくしかありません。 そこで自分自身の視点と、自分自身の言葉を回復するしかないのです。 もちろんそれは簡単にできることではありません。 そしてまた、ときとして危険を伴う行為でもあります。 我々小説家がやるべきことはおそらく、そういった「危険な旅」の熟練したガイドになることです。 そしてまたある場合には読者に、そのような自己探索作業を、物語の中で疑似体験させることです。

村上春樹『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』P.385「小説家にとって必要なのは個別の意見ではなく、その意見がしっかり拠って立つことのできる、個人的な作話システムなのです」より


また『北斗の拳』の予言によると、海のリハクには娘のトウがいる。 恐怖の暴凶星ラオウを慕うようになる変わった趣味の娘なのだけれど、ラオウに振られたあげく、父親のリハクを残して自害する悲運の女性として描かれる。 これはシンガーソングライターの「あいみょん」のことだ。

― このトウは…小さい時より今日まで一日も忘れることなく、あなたのことを想ってまいりました。  ―
(by トウ 『北斗の拳』―「第122話 はるかなる想い!の巻」より)

トウは父親の海のリハクと作戦を共にする人物で、あいみょんもまた、宮崎駿氏と同じくリュウの属している新世代を導く宿星を持っていた。 そんな行きがかりで発表されたのが2017年8月発売の『君はロックを聴かない』である。 リュウの属する新世代に向けられた日本初の大衆芸術ということになるだろうか。

君はロックを聴かない


 少し寂しそうな君に こんな歌を聴かせよう
 手を叩く合図 雑なサプライズ
 僕なりの精一杯
 埃まみれ ドーナツ盤には あの日の夢が踊る
 真面目に針を落とす 息を止めすぎたぜ
 さあ腰を下ろしてよ

 フツフツと鳴り出す青春の音
 乾いたメロディで踊ろうよ

 君は ロックなんか聴かないと 思いながら
 少しでも僕に 近づいてほしくて
 ロックなんか聴かないと 思うけれども
 僕は こんな歌で あんな歌で
 恋を乗り越えてきた

あいみょん『君はロックを聴かない』(2017)より


世の中には、自分の受け取ったインスピレーションの意味や価値がわからない鈍感なソングライターがいる。 あいみょんもそのタイプの詩人で、この歌は「好きな女の子への想いを募らせる男の子の青春の片思いの歌」というふれ込みだった。 このあたりは「海のリハク、一生の不覚!」という決めゼリフを地でいく父親ゆずりなのだとおもう。 そういうところが、とてもかわゆい女の子だった。

第64代北斗神拳伝承者ケンシロウと第65代北斗神拳伝承者リュウの絆を結ぶ歌を創ってきたため、彼女は北斗の女なのだと私はすっかり思い込んでしまった。 けれども『北斗の拳』を読み返したところ、海のリハクの娘トウであることが判明した次第である。 旋律に乗せる言葉を選ぶセンスが抜群で、これまでになかったタイプの才能だから注目していたのだけれど、彼女にも平成の終わりとともに才能の賞味期限切れが来るらしい。

いま、少年少女の繊細で無垢な心が時代の不条理によって暴力的に傷つけられている。 あいみょんの『君はロックを聴かない』は、子供たちに救世主の存在を知らせ、混沌の時代を生きる少年少女に希望を与えてくれた。 救世主のために小道を整えるバプテスマのヨハネとしては、彼女が一番の活躍をしたのではないかとおもう。 そこで彼女には、「おつかれさまでした」とひとことお礼を言っておきたいのである。

矢印マーク 君はロックを聴かない


 2017年8月作品

 海のリハクの娘トウの五車波砕拳!
 ― こうすれば…あなたの心の中に少しでもわたしのことが… ―

緑雲水

天狼のリュウガ〜 孤高の男―甲本ヒロト 〜

桃雲水

『北斗の拳』の天狼のリュウガは、どこにも属そうとしない孤高の男。 いわゆる一匹狼というやつだ。 これはザ・クロマニヨンズの甲本ヒロトのことである。

― 天狼星…狼の眼のごとく天空で最も強く輝き… すべての神にくみせず、あえて天駆ける孤狼となった孤高の星!!  ―
(by リュウガ 『北斗の拳』―「第105話 わが星は天狼の星!の巻」より)

平成のはじまった1989年前後にバンド・ブームというのがあって、アマチュアバンドのひどい音楽が世の中にあふれ出した時代がある。 その頃にプロとアマチュアの境界線が消え去って、それが現在まで続いているのだけれど、その時代に奇跡的に生まれた詩人が奥田民生と甲本ヒロトだった。 甲本ヒロトが詩人の才能を最初に爆発させたのが、27歳の運命のクロスロードで発表した『情熱の薔薇』(1990)ということになる。

彼もやはり、2017-2018年の乱世に立ち上がったルネサンスの騎士の一人なのだけれど、天狼のリュウガの宿星を背負った「孤高の男」なので、南斗五車星には与(くみ)していなかった。 そのため、悟りの軌道の抜け方指南というよりは、もっと根本的な美学の部分を歌ってくれている。 2018年8月リリースの『生きる』が、その作品だった。

生きるの構造1〜 まぶたの表側のアプローチ1 〜


 黄土色のサファリルック
 中南米あたりの探検家
 捕虫網と虫眼鏡とカメラ

 探しものがあるのではなく
 出会うものすべてを待っていた
 見たいものと見せたいものばかり

 謎のキノコをかじる
 三億年か四億年

 見えるものだけ それさえあれば
 たどり着けない答えは ないぜ
 ずっと ここには ずっと ここには
 時間なんか 無かった

甲本ヒロト『生きる』(2018)より


運命の探検家としての美学は、まぶたの裏側に閉じこもるのではなく、まぶたの表側の世界で起こるすべての出来事から肌身で学んでいくことにある。

― 探しものがあるのではなく
  出会うものすべてを待っていた
  見たいものと見せたいものばかり ―
  (甲本ヒロト『生きる』(2018)より)

人生の出来事には二つの味わい方がある。 何が起こっているのかに注意を払わず、まるで催眠術にでもかかっているかのように生きても、誰からも文句は言われないだろう。 だからといって、そんな風には生きられないのが運命の探検家である。 彼は捕虫網と虫眼鏡とカメラをしっかりと手に握り、どんな小さなことも見逃すまいとする。 出来事のつむぎだす雰囲気から、自分自身の心で、胸で、全身で、何かを学び取って生きていくのだ。

― 謎のキノコをかじる
  三億年か四億年 ―
  (甲本ヒロト『生きる』(2018)より)

先人によって、しっかりと踏み固められた道を歩むだけでは何も得られない。 ときには得体の知れない謎のキノコをかじるような勇気も求められるだろう。 そうやって真っ直ぐに生きていると、やがて永遠と束の間なるものが出会う交差点で時間旅行がはじまる。

― 見えるものだけ それさえあれば
  たどり着けない答えは ないぜ
  ずっと ここには ずっと ここには
  時間なんか 無かった ―
  (甲本ヒロト『生きる』(2018)より)

なんだかこの部分は、天狼のリュウガ・甲本ヒロトの挑発にも聴こえる。 時間の問題を解決できないかぎり、菩薩を名乗る資格はないからだ。

― ケンシロウがこのおれに倒れるようであれば…時代はやつを必要とせん。  ―
(by リュウガ 『北斗の拳』―「第108話 天狼の涙!の巻」より)

すなわち、「しっかり悟ってから世に出て来い」というケンシロウへの挑戦状にもなっているのだ。 私たち団塊ジュニア世代にとって、奥田民生と甲本ヒロトは兄貴的存在であり、この部分はあだやおろそかにしてはいけないお言葉になっている。

生きるの構造2〜 まぶたの表側のアプローチ2 〜


 いつか どこか わからないけど
 なにかを好きになるかもしれない
 その時まで 空っぽでもいいよ

 少しだけ わけてくれ
 三億年か四億年

 見えるものだけ それさえあれば
 たどり着けない答えは ないぜ
 ずっと ここには ずっと ここには
 時間なんか 無かった

甲本ヒロト『生きる』(2018)より


この二番冒頭の「いつか」とは、43歳になったときの「やるべきことの続き」が見えてくる場面のことだ。 「やるべきことの続き」は、それまで想い描いていた夢とは異なる驚天動地(きょうてんどうち)の忘れ物として再発見される。 おかげで、われわれは、それにほとんど徒手空拳(としゅくうけん)で挑まなければならない。

― いつか どこか わからないけど
  なにかを好きになるかもしれない
  その時まで 空っぽでもいいよ ―
  (甲本ヒロト『生きる』(2018)より)

何をいまさら…それが「やるべきことの続き」を見つけたときに最初に漏らす言葉になるだろう。 うっとうしい梅雨空のような時節を過ぎ、それに挑戦する勇気がコンコンと湧いてきて、ひとまず人心地(ひとごこち)がつくまでには、しばらく時間がかかる。 そのあいだは気息奄々(きそくえんえん)としてしまうに違いない。 とはいえ、「その時まで空っぽでもいいよ」というのは本当で、その時からでもなんとかなるものだ。 何によらず、やってくるものを選り好みせず、利口に処理するのが「生きる」ということなのである。

釈迦のように人間として「生きる」ことを辞めて悟る覚者たちは、まぶたの表側の世界で起こるすべての出来事から肌身で学ぶ方法を知らない。 彼らが人間として「死ぬ」のは、そうやってまぶたの裏側の世界に閉じこもっているからなのだ。 したがって、運命の探検家としての美学を経典や聖典から読み取ることは難しいだろう。 この『生きる』は、そんな死角になっている場所をすり抜けて伸びてくるストレートパンチだ。 一度、喰らってみると、それをひそかに求めていたような心地よい痛みが走る。

― 宿命、すべて天狼の宿命だ。 天狼は乱において、天帝の使者となりて北斗を戦場へ誘う!! この男もまた宿命に殉じたひとり!!  ―
(by トキ 『北斗の拳』―「第109話 天帝よりの使者!の巻」より)

天狼のリュウガ・甲本ヒロトは、北斗を挑発して戦場へ誘う天帝の使者の役割を担っていた。 そのため、この『生きる』が発売された2018年8月頃を最後に“壊れかけのRadio”は沈黙を決め込んでいる。 かくして時代は、第64代北斗神拳伝承者ケンシロウの登場を待つばかりとなったのである。

矢印マーク 生きる


 2018年8月作品

 天狼のリュウガの天狼凍牙拳(てんろうとうがけん)!
 ― あえて時代のために魔狼の悪名をかぶろう!! ―


コウリュウ〜 もう一つの北斗―吉田拓郎 〜

天賦の才にはポジション争いというものが付き物である。 かつて井上陽水と第63代北斗神拳伝承者の座を争った人物が吉田拓郎(よしだたくろう)だった。 『北斗の拳』では、その昔リュウケンと龍虎と並び称された男コウリュウとして登場してくる。 いわば彼は「もう一つの北斗」だ。

― 一子相伝の宿命により、リュウケンに伝承者の道をゆずり、自ら拳を封じた男。 その拳はリュウケンより上だったと聞く!!  ―
(by ラオウ 『北斗の拳』―「第98話 拳王は死なず!の巻」より)

せっかく天賦の才を与えられても、宿星によっては、あっという間に才能の賞味期限切れが来る人もいる。 そのとき、なかなか拳を捨てられないでいると往生際の悪いことになるだろう。 そこで、みずから拳を封じる美学があることも知っておいたほうがいい。 その点では、吉田拓郎の生き様がひとつのロールモデルになるとおもう。

落陽の構造〜 27歳の運命のクロスロードで出発点に戻る旅 〜


 しぼったばかりの夕陽の赤が
 水平線からもれている
 苫小牧発・仙台行きフェリー
 あのじいさんときたら
 わざわざ見送ってくれたよ
 おまけにテープをひろってね
 女の子みたいにさ

 女や酒よりサイコロ好きで
 すってんてんのあのじいさん
 あんたこそが正直ものさ
 この国ときたら
 賭けるものなどないさ
 だからこうして
 漂うだけ

 サイコロころがしあり金なくし
 フーテン暮らしのあのじいさん
 どこかで会おう 生きていてくれ
 ろくでなしの男たち
 身を持ちくずしちまった
 男の話を聞かせてよ
 サイコロころがして

 みやげにもらったサイコロふたつ
 手の中でふれば
 また振り出しに戻る旅に
 陽が沈んでゆく

作詞:岡本おさみ 作曲:吉田拓郎『落陽』(1973)より


吉田拓郎は、作詞家の岡本おさみと抜群に相性が良くて、このコンビは1973年の『落陽』と翌1974年の『襟裳岬』で、27-35歳くらいの心象風景を描いてみせている。

― みやげにもらったサイコロふたつ
  手の中でふれば
  また振り出しに戻る旅に
  陽が沈んでゆく ―
  (作詞:岡本おさみ 作曲:吉田拓郎『落陽』(1973)より)

27歳の運命のクロスロードに立った男が出発点に戻る旅をはじめようとしている。 そのとき、33歳の大厄で出たとこ勝負の賭けに出るためのサイコロをみやげにもらう。 『落陽』には、その時期のやけくそ気味な心象風景がよく描かれている。 そして、やがて落ち着く先の心象風景が『襟裳岬』で描かれている“35歳の何もない春”なのだ。

吉田拓郎と岡本おさみの『落陽』は、わが国に古くより伝わる27歳の運命のクロスロードの歌だ。 種もみ世代の諸君は、『落陽』と『襟裳岬』をセットにして、運命の旅の鞄に入れておくとよい。

ちなみに、コウリュウの二人の息子―アウス&ゼウスは、“振り出しに戻る旅”を歌った斉藤和義の『やさしくなりたい』(2011)と“やるべきことの続き”を歌った吉井和哉の『MY FOOLISH HEART』(2006)の寓意であると考えられる。

矢印マーク 落陽/収録アルバム『LIVE’73』


 1973年発表のライヴ・アルバム

 もう一つの北斗コウリュウの七星抹殺!
 ― 伝承者争いに敗れ、散っていった男たち。
   その男たち同様、ここで供養してやろう。 ―

赤雲水

双子の天帝リン&ルイ―対抗文化の開拓者たち

黒雲水

『北斗の拳』には、リンルイという二人の天帝の物語がある。 離ればなれになっていた双子の天帝が再会して、割れていた天が一つになるという予言だ。

― お…おう、天…天が!! 割れていた天がひとつになった!!  ―
(by リハク 『北斗の拳』―「第157話 やつらの血をぬぐえ!!の巻」より)

これは平成から年号が変わった後、2019年8月以降に起こる出来事を予言しているらしい。 ちょうどリンが修羅の国に連れ去られるまでのお話になっているから、おそらく種もみ世代が32歳になって悟りの軌道に入る直前までの出来事なのだろう。 だいたい2019-2022年くらいのお話だと考えておけばいいとおもう。

この一幕は世界史を下敷きにしたお話だから、最初におおまかな歴史を解説しておこう。 まず、『蒼天の拳』の設定では、北斗神拳が日本に伝来したのは平安時代で、806年に空海が中国・唐から持ち帰ったということになっている。

― 空海が唐の長安・青龍寺の恵果和尚(真言密教の第七祖)の弟子となったのは、その死の間際だった。 ところが恵果和尚は、まるで空海を待ちわびていたかのように一気に全ての秘法を伝授した。 なんと並み居る高弟たちを差し置き、一留学僧の空海に! しかもそれは、わずか半年という短期間の奇跡であった。  ―
(原哲夫 武論尊監修『蒼天の拳』―「第239話 北斗神拳伝播!!の巻」より)

こうして唐の精神的遺産は、空海によって日本に運ばれ、漢民族の手を離れて、大和民族に移譲されることになった。 その後、842年に武宗の会昌の廃仏(かいしょうのはいぶつ)という仏教弾圧事件が起こり、唐は精神的支柱を失うことになる。

また、空海が入唐する約五十年前、751年にタラス河畔の戦いがあった。 唐とアッバース朝が中央アジアの覇権をかけて争った天下分け目の戦いで、唐が壊滅的打撃を受けて敗退している。 このとき製紙法が西方に伝播して、これ以降、火薬・羅針盤・印刷術の中国三大発明が西方で改良されていく転機になった。 つまり、唐の物質的遺産もまた、漢民族の手を離れて、西方に移譲されていったことになる。

双子の天帝が二つに割れたのは、まさに、この時代だった。 かつて世界の中心だった唐には二人の天帝がいた。 一人は唐に精神的遺産をもたらした天帝リン。 彼女は、520年に禅宗の開祖・達磨がインドから中国に連れてきた。 そのとき達磨が中国に伝えた教義なんか、実はどうでもよくて、彼が天帝を連れてきたことが本当の祖師西来意(そしせいらいい)なのである。 その天帝リンの教えが、この『坐禅作法シリーズ』で説いてある「禅(ZEN)」なのだ。 で、その天帝リンを、今度は空海が中国から日本に連れて帰り、以来、北斗神拳伝承者が彼女を代々守護している。 そして、もう一人の唐に物質的遺産をもたらした天帝がルイ。 彼女は西方へ連れ去られて、世界の各地域を旅することになった。 こちらは元斗皇拳(げんとこうけん)の伝承者たちが代々守護してきている。 そのとき西方に旅した天帝ルイが世界一周旅行を終えてアジアに帰ってくる。 『北斗の拳』の双子の天帝の物語はそんな予言になっているのだ。

― 北斗神拳も元斗皇拳も本来は天帝守護の拳!!
 北斗神拳は内部からの破壊を真髄とするが、元斗皇拳は敵の滅殺を真髄とする拳!! すなわち、体内に充ちた闘気を刃とし、敵の体、細胞を瞬時に断ち、滅殺する!!
 元斗皇拳の奥義を極めし者たちは、光る手を持つ男たちと呼ばれ、かつては北斗神拳を凌駕するといわれた拳法だ!!
 ―
(by リハク 『北斗の拳』―「第148話 仮面は涙せず!!の巻」より)

双子の天帝リン&ルイ
図:布施仁悟(著作権フリー)


まず、ひとりめの天帝リンとは空海が日本に連れてきた精神文明をつかさどる女神の隠喩(メタファー)である。 そもそも平安時代に生まれた厄年モデルの発想の原点は、空海が唐から持ち帰った古代インドの宿曜占星術にある。 それが、カレーライスやラーメン同様、日本独自の発展を遂げて悟りの軌道の道しるべに昇華され、民間伝承されてきた。 いかなる宗教も文化に取り入れてしまう世界に例をみない精神性、原爆を二度も落とされるまで方向転換を英断できない遅鈍な神経… 古代インドや唐の精神的遺産を改良して伝承するには、われわれ大和民族ほど最適な民族はいなかった。

その伝承の中心にいたのが北斗神拳伝承者である。 『北斗の拳』で、北斗神拳が天帝を守護する拳法と説明されているのは、つまり、北斗神拳伝承者とは、精神文明をつかさどる女神―天帝リンの託宣を聞き伝える神官のことだからだ。

― 心配はいらぬ!!このオレがいるかぎりリンは死なん!!  ―
(by ケンシロウ 『北斗の拳』―「第160話 永遠なる父の魂!!の巻」より)

われわれ万物の霊長たるホモ・サピエンスは、シャーマンを媒介して神の声を聴こうとすることで、絶滅したネアンデルタール人のような運命をたどることを免れてきた。 しかしながら近代国家は古代ギリシアのアポロン神殿のような機関を持っていない。 そこで、楽器や絵筆を手にした詩人たちが、歌や物語の形式でデルフィの神託を告げているのである。 それが妙法蓮華経なのだ。

そう考えると、現代日本の空前絶後の愚かしさが分かるだろう。 天帝リン様がインドから中国を経て、はるばる日本にやってきているというのに、その声を無視して、2500年前の釈迦の亡霊や20世紀の科学信仰にとりつかれている。 そんな光景を目のあたりにするたび、「人類はネアンデルタール化している…」と呟かずにはいられないのである。

で、もうひとりの天帝ルイは物質文明をつかさどる女神の隠喩(メタファー)。 彼女の旅行先では決まって文化再生が起こる。 グーテンベルクの活版印刷術をはじめとして、中国三大発明の改良がヨーロッパで行われたとき(私の大好きなルネサンス時代だ)。 中世ヨーロッパの重苦しい閉塞状態を打ち破ろうとして、イタリアのボッティチェリが甦らせたのは、地中海の泡の中から現れる愛と美の女神だった。

『ヴィーナスの誕生』 〜 天帝ルイがやって来たヤァ!ヤァ!ヤァ! in 1480's 〜
サンドロ・ボッティチェリ『La Nascita di Venere』(1483) 図:ウィキペディアより


その『ヴィーナスの誕生』で描かれていたのは、天帝ルイ様がイタリア旅行されたときのお姿と考えておこう。

お次は1960年代、アメリカのジョン・F・ケネディ大統領がアポロ計画を起ちあげた頃。 イギリスのビートルズが、アメリカで一度死んだロックンロールを甦らせ、アメリカに逆輸入させた。 その音楽が世の中を席捲(せっけん)しはじめ、いわゆる対抗文化(カウンター・カルチャー)が古い世界観を根こそぎひっくり返したのだ。 そのとき、彼らの聞き伝えた天帝ルイ様の声が、こういうものだった。

Love Me Do 〜 天帝ルイがやって来たヤァ!ヤァ!ヤァ! in 1960's 〜


 Love,love me do
 You know I love you
 I`ll always be true
 So please,love me do
 Whoa,love me do

 私を愛してみてごらん
 私が愛していることを あなたはちゃんと知っている
 私はいつだって まっすぐに愛してる
 だから、ねえ、私を愛してみてごらん
 私を愛してみてごらん

 Someone to love
 Somebody new
 Someone to love
 Someone like you

 愛すべき誰かは
 再発見される誰か
 愛すべき誰かは
 あなたのような誰か

Paul Mccartney/John Lennon『Love Me Do』(1962)より


1962年のビートルズのデビュー曲『Love Me Do』は元祖ツインレイの歌だったのだ。 人類の常識を根こそぎひっくり返す美しい倒立は、いつの時代も愛によってもたらされてきたのである。 こうした対抗文化を巻き起こす天帝ルイ様は、文化再生の女神であり、愛と美の女神とも言えるのだ。

一方、天帝ルイ様のもうひとつのお家芸である三大発明は、この度のアメリカ旅行で、行き着くところまで行ってしまった感がある。 火薬は核兵器になり、羅針盤は人工衛星を使ったGPSになり、印刷術はインターネット通信を利用したワールド・ワイド・ウェブになった。 これらアメリカ三大発明のおかげで、ずいぶん便利になった半面、その弊害も生まれてきている。 そろそろ、そうした物質文明を支える精神文明の再生が必要な時期がきた。

そこで、いまアメリカにいる天帝ルイは、天帝リンと再会するため、まもなく日本にやってくる。 2019年現在の日本の国民なら、その意味するところがよくわかるはずだ。 天帝ルイ様の声は、すでに日本に届いているからである。

♪ C`mon,baby アメリカ 交差するルーツ タイムズスクエア
 (訳詞:shungo. DA PUMP『U.S.A.』(2018))

そのアメリカからやってくる天帝ルイ様を守護するのが元斗皇拳(げんとこうけん)伝承者・金色(こんじき)のファルコである。

― ファルコ…あなたがいるかぎり、わたしは死にません。 そうでしょう?  ―
(by ルイ 『北斗の拳』―「第159話 武人の涙!!の巻」より)

矢印マーク Please Please Me


 1963年3月作品

 先代元斗皇拳伝承者たちのファーストアルバム
 『Love Me Do』収録
 こういうのは元斗の彼らにしか創れない…


金色のファルコ〜 天帝ルイを守護する男―ISSA 〜

『北斗の拳』の金色のファルコは、代々天帝ルイを守護している元斗皇拳の伝承者で、その宿星は太極星。 太極星とは、天の北極に最も近い星の中国の呼び名である。 現在の太極星は、こぐま座α星のポラリスだけれど、かつては、こぐま座β星だったこともあり、二千年後にはケフェウス座γ星になるそうだ。 すなわち、時代とともに移転する星なのである。

そのため元斗皇拳は、北斗神拳と違って、ひとつの地域で何代も伝承されることがない。 元斗皇拳の伝承者たちは、ボッティチェリやビートルズみたいに、天帝ルイが逗留(とうりゅう)している世界の中心に突如出没して、その神託を聞き伝える。 今回、日本で起こるルネサンスでは、DA PUMP(だぱんぷ)のISSA(いっさ)が、元斗皇拳最強伝承者・金色のファルコの宿星を持っているらしい。

― 天空に輝くは、わが母星天帝。すなわち太極星のみ!! 北斗七星は天帝の戦車といわれ、天帝の一戦士にすぎん!  ―
(by ファルコ 『北斗の拳』―「第146話 黄金の刺客!の巻」より)

北斗神拳伝承者の宿星である北斗七星は、太極星を中心にして、その周囲をぐるぐる回っている星。 夜空のド真ん中に太極星が輝いていればこそ、北斗七星も輝く。 そんな関係性があるため、大衆に古い常識を疑わせるような心理的衝撃をもたらすとしたら、その中心に元斗皇拳伝承者がいなければならない。 というのも、ボッティチェリやビートルズのような古い世界観を根こそぎひっくり返す力は、北斗神拳や南斗聖拳にはないからだ。

― みごとだ…これが北斗神拳か。 だがファルコこそ、われらの心をふるわせる光。  ―
(by ソリア 『北斗の拳』―「第148話 仮面は涙せず!!の巻」より)

そこで『北斗の拳』では、元斗皇拳VS北斗神拳&南斗聖拳の対決が予言されていて、それは天帝ルイVS天帝リンの構図にもなっている。 DA PUMPの『U.S.A.』(2018)は、その人類史上まれにみる対決が、2019年8月以降の日本で展開されることを予言していたのだ。

♪ C`mon,baby アメリカ 憧れてたティーンネイジャーが 競合してく ジパングで
 (訳詞:shungo. DA PUMP『U.S.A.』(2018))

1960年代アメリカの残り香を吸収して10代を生きたのが、ISSAや私のような197X年生まれのオヤジたちだった。 生まれる直前にアメリカ文明の黄金時代が終わって、世界全体が人類に夢と希望をもたらすヴィジョンを失っていたため、かえって憧れの対象になったのである。 その世代の私たちが競い合うことで、時代に大きなうねりを生み出していく。 たぶん、日本の音楽界にとって、もう二度と来ないような幸せな時代がやってくるだろう。

『U.S.A.』の構造 〜 天帝ルイがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ! in 2010's 〜


 オールドムービー観たシネマ
 リーゼントヘア真似した
 FM聴いてた渚
 リズムが衝撃だった

 数十年でリレーションシップ
 だいぶ変化したようだ
 だけれど僕らは地球人
 同じふねの旅人さ

 C`mon,baby アメリカ
 ドリームの見方をinspired
 C`mon,baby アメリカ
 交差するルーツ タイムズスクエア
 C`mon,baby アメリカ
 憧れてたティーンネイジャーが
 C`mon,baby アメリカ
 競合してくジパングで

訳詞:shungo. DA PUMP『U.S.A.』(2018)より


2018年の日本で最も衝撃的だった社会現象が、このDA PUMPの『U.S.A.』だったとおもう。 いつのまにか「ダサかっこいい」という代名詞がついて、米津玄師の『Lemon』に次ぐヒット曲になった。 ユーロビートというかつて流行した音楽ジャンルに属するのだけれど、この作品の本質は「真実のロックンロール」だったのだ。

「真実のロックンロール」の意味は、阿久悠がこんな風に回想している。

阿久悠の語る「真実のロックンロール」


 僕は「心に滲(し)みる歌」ではなく、「叩く歌」を意図することが結構あります。 そう思った背景には、ビル・ヘイリーやエルヴィス・プレスリーなどの歌を聞いてショックを感じた経験もあるんだと思う。 歌のタッチではなく、存在のしかたです。
 彼らが登場するまで、世の中にうまく受け入れられる歌が一流で、よりよく受け入れられたものが大ヒット曲だったと思うんです。 ところが、ひんしゅくをかいながらも、ひかれていってしまうものも歌のなかにあるんだと思わされました。 少なくとも、それまでの常識とは違うという形で出てきたのは、ものすごい刺激だったですね。

阿久悠『作詞入門』P.224-225 「僕の歌謡曲論」


「なんだかよく分からないけど、生理的に無視できない」というヒト科の原点から揺さぶりをかける。 それが「真実のロックンロール」だ。 誰が言ったか知らないけれど、「ダサかっこいい」というのは、真実のロックンロールの愛称として、これ以上ふさわしいものはない。 まったく言い得て妙である。

2018年6月にDA PUMPの『U.S.A.』が出てきたことで、南斗聖拳最強のサウザー・米津玄師なしでも日本にルネサンスを起こせると思えてきた。 それまでは、ずいぶん遠くの的を狙って輪投げをしている気分だったのに、金色のファルコ・ISSA登場のおかげでルネサンスが現実的になってきたのだ。 ISSAの元斗皇拳には、北斗神拳や南斗聖拳とは打って変わった、人々の心をふるわせる光がある。 彼は最後まで私を失望させることのない最強の強敵(とも)になってくれるだろう。

― 似ている。 たしかに似ておるわ。 きさまにひかれて北斗の軍も動いたのであろう!! 我われもまたしかり!! 我らも金色の光に導かれて動いたのだ!!  ―
(by ソリア 『北斗の拳』―「第149話 涙枯れし猛将!の巻」より)

金色のファルコ・ISSAの面白いところは、彼自身はシンガーであり、ソングライターではないことだろう。 彼自身が絶対的将軍であるがゆえに、その周囲を軍師や猛将たちが固めているから、彼らに創造してもらえばいい立場にある。 そういう意味では、歴史上なかった新しいタイプの元斗皇拳伝承者かもしれない。

たとえば、斉藤由貴や薬師丸ひろ子のように、自分の宿星にふさわしい歌をソングライターたちに創らせるシンガーがいる。 ISSAは、そういうシンガーの中でも最強の将星を持っているのだ。 それがよく解かるのが、2000年に発表された『if…』ではないだろうか。

『if…』の構造 〜 ツインレイと再会する直前の心象風景 〜


 高鳴る鼓動は 夕暮れの
 君の姿にシンクする
 みせないプライドささやかな
 君の全てにスウィングする

 Do you know it?
 月の明かりを背負い
 絡んできた運命の糸を追う
 願い その答えは見えない
 じゃまな雲がかくすんだ その先は

 もしも君がひとりなら 迷わず飛んでいくさ
 (俺の行く末密かに暗示する人 Honey!)
 もしも誰かといた時は
 解けるのかな魔法は
 張り裂けそうな胸の痛みは…

作詞:m.c.A・T 作曲:AKIO TOGASHI DA PUMP『if…』(2000)より


この『if…』を作詞したm.c.A・T(エムシーエーティー)という人物も、『U.S.A.』の訳詞を手がけたshungo.(シュンゴ)という人物も、どちらも単体では詩人ではない。 ふだんは、とても詩とは呼べないものを書くのだけれど、ISSAが詩を引き寄せるとき、いきなり瞠目(どうもく)に価(あたい)するものを書いてしまうのである。

「あなた、そっちの才能もあるんじゃない?」

42歳の再会の日、ツインレイの彼女は、こんな感じで「やるべきことの続き」をほのめかしてくれる。 この『if…』の歌詞にある通り、ツインレイの彼女は「俺の行く末密かに暗示する人」なのだ。 したがって、ここで描かれているのは「42歳の再会直前の心象風景」と考えれば、すっと意味が通るとおもう。 ISSAには凡人を詩人に変えてしまう力があるのだ。

おしなべて、ISSAの持っている金色のファルコの宿星は、個人の能力の限界を越えてくる可能性を秘めている。 楽しみなのは、『北斗の拳』の予言によると、彼がまだ真の実力を見せていないことだ。 金色のファルコ・ISSAの秘奥義…それを見届けるのが、この時代を生きる日本人とケンシロウである私の役目なのである。

― [ファルコ] ケ…ケンシロウ。 見届けよ、これがオレの最後の元斗皇拳秘奥義・黄光刹斬(おうこうせつざん)!!
  [ケンシロウ] たしかに見届けた、ファルコ!!
 ―
(by ファルコ&ケンシロウ 『北斗の拳』―「第149話 誇りとともに!の巻」より)

矢印マーク U.S.A.


 2018年6月作品

 金色のファルコ率いる元斗皇拳の拳士たち!
 ― これよりは天帝の時代。元斗皇拳の時代なのだ!! ―


賞金稼ぎのアイン〜 天帝ルイ救出の鍵を握る男―大森元貴 〜

『北斗の拳』のアインは、賞金稼ぎとして登場してくる人物。 けれども、ケンシロウとの出会いで気が変わり、天帝ルイを救出する作戦に参加するようになる男だ。

― ついて来い。 このアインと一緒に賞金稼ぎという汚名を返上したい者はな!!  ―
(by アイン 『北斗の拳』―「第144話 あえて賞金首に!の巻」より)

どうやらケンシロウの私が世に出ていく2019年8月以降に本気を出す男らしいので、アインに相当する人物を特定するのには、ずいぶん時間がかかった。 おそらく賞金稼ぎのアインとは、Mrs. GREEN APPLE(ミセスグリーンアップル)の大森元貴(おおもりもとき)のことを指しているのではないかとおもう。

『StaRt』の構造 〜 とりあえずは賞金稼ぎっ! 〜


 やっとこさ 幕開けだ
 ほら 寄って集って!お手を拝借!
 スタートラインに立った今
 そう 武装と創と造で登場!!!!!

 ここは遊び心で満ちよう!
 敢えての策略なのら。ララララ♪
 一人でも多くのマヌケが居るなら
 正すことから始めましょう

 幸せな時間をどれだけ過ごせるかは…
 微々たるものでも愛に気づけるか
 さあ 試されよう

 パッパッパッ 晴れた町に
 チャプチャプチャプ 雨の心
 独りじゃないと否定出来るように
 僕は探すんだ

大森元貴『StaRt』(2015)より


これは彼のメジャーデビューアルバムの一曲目に収録されている『StaRt』。 「とりあえずは賞金稼ぎっ!」という歌になっていることが分かるとおもう。 賞金稼ぎのアイン・大森元貴が、その本分を発揮するのは、これからなのだ。

― ここは遊び心で満ちよう!
  敢えての策略なのら。ララララ♪
  一人でも多くのマヌケが居るなら
  正すことから始めましょう ―
  (大森元貴『StaRt』(2015)より)

かれこれ一年くらい彼を追いかけていたのだけれど、大森元貴の歌は、元斗皇拳、北斗神拳、南斗聖拳のどれでもない。 つまり、ロックンロールの破壊力というのでもないし、フォークの浸透力というのでもなかった。 それでいて永遠に古びない反時代的響きみたいなものがある。 それは既存の歌のどんな型にもはまっていなかったのだ。

― [ケンシロウ] ケンカ拳法か…。
  [アイン] それがどうした不服か!? おれは今まで、こいつで負けた事はねえ! 気にいらねえやつは、この拳でぶっ壊すだけだ。
 ―
(by ケンシロウ&アイン 『北斗の拳』―「第141話 不敵なる微笑!の巻」より)

『北斗の拳』の予言通りに取り次いでおくなら、大森元貴の歌は「ケンカ拳法」という部類に属するらしい。 また、ずいぶん風変わりな男が登場してきたものだとおもう。 どうやら彼が「天帝ルイ救出の鍵を握る男」であるようだ。

この時代、何が一番不当に粗末なあつかいを受けているかと言うと、それは天帝ルイ様だろう。 『北斗の拳』に登場する天帝ルイは、長いあいだ地底に閉じ込められていたため、目が見えなくなっている。 人類が天帝ルイ様にやらかしたことがそれだ。

― くっ…、む…無理もない!! ここは最下層の罪人が落とされる光も差し込まぬ地底の作業場!! ただ…ただモグラのように素手で地下水脈を掘るための!  ―
(by サイヤ 『北斗の拳』―「第156話 ふたりの天帝!の巻」より)

1972年をもってアポロ計画が打ち切られたとき、何かが死に絶え、時代の中に埋もれていった。 そのとき、胸をえぐるような無念と絶望の中で、人類に夢と希望をもたらすヴィジョンが潰えたのだ。 それは美しい夢だった。 それから人類は、天帝ルイ様の声に耳を傾けることをやめ、彼女を地底に幽閉した。 そして彼女のつかさどる三大発明の力だけを、利用しうるかぎり利用し尽くしたのである。

― 最初から天帝など生かす気は毛頭なかったわ。  ―
(by ジャコウ 『北斗の拳』―「第157話 やつらの血をぬぐえ!!の巻」より)

これが1973年以降の人類の本音だったような気がする。 蔦(つた)のからまる鐘楼が高くそびえる古城の地下に、対抗文化(カウンター・カルチャー)の女神が幽閉されている。 冬ごもりをしているリスのように小さくなって眠っている彼女を救い出すことが、ルネサンス最初の目標になるだろう。 その鍵を握る男が、賞金稼ぎのアイン・大森元貴だ。

― オ…オレは、必ずここからおまえたちをだしてみせる!!  ―
(by アイン 『北斗の拳』―「第157話 やつらの血をぬぐえ!!の巻」より)

この『北斗の拳』の予言が何を意味しているのか、それはまだ誰も知らない…。

矢印マーク StaRt/収録アルバム『Variety』


 2015年6月作品

 賞金稼ぎアインのケンカ拳法!
 ― たのむぜ、わが愛しのゲンコツよ!! ―


ハーン兄弟(バズ&ギル)〜 HIKAKIN&SEIKIN 〜

ハーン兄弟(バズ&ギル)は、首から下をコンクリート詰めにされた姿で登場する南斗双鷹拳(なんとそうようけん)の使い手だ。 これはYOUTUBER(ユーチューバー)のHIKAKIN&SEIKINのことらしい。 そう推定した理由は単純で、彼らは『雑草』というシングルを発表しているのだけれど、そのジャケットの構図がコンクリート詰めにされた漫画の構図と同じだったことによる。

こんな時代でも、自分に粗いヤスリをかけるように、人間存在を磨こうとしている少年少女が日本のどこかにいるはずだ。 2017年2月に風のヒューイ・小沢健二が時代の胎動を告げたとき、9歳の運命のクロスポイントを迎えたリュウの属する世代の子供たち。 いずれ彼らが日本の未来を創造するパワー世代になる。 このたびの日本のルネサンスは、ひとつには彼らのために起こるもので、15-16歳の思春期を迎える2023年までに、彼らの人生を支える大衆芸術を創造して持たせてあげなくてはならないからだ。 彼らを時代のうねりに巻き込むには、子供たちに人気のユーチューバー―HIKAKIN&SEIKINの力が必要だということなのかもしれない。

矢印マーク 雑草


 2017年10月作品

 ハーン兄弟の南斗双鷹拳!
 ― フッ…この役には帰り道なんかねえんだぜ!! ―


『北斗の拳』のハーン兄弟は、ケンシロウと出会った後から、南斗聖拳伝承者としての使命を果たすために立ち上がる。 そんな経緯があるので、HIKAKIN&SEIKINはまだバズ&ギルとしての本性を現していないようだ。 きっと何かやってくれると信じて、楽しみにしておくとしよう。

― 北斗の反逆の狼火(のろし)とともに南斗も動いた!!  ―
(by バズ 『北斗の拳』―「第147話 たちあがる南斗!!の巻」より)

2001-2006年の小泉内閣による構造改革の理念は、1960年代以降、はじめて明確に示された人類のヴィジョンであり、私たちの生に意味を与えてくれる夢と希望の矢印にみえた。 けれども、そこで配られたパスポートは、誰もが無条件に幸福な気分になれるディズニーランドのフリーパスみたいなものではなく、人生の哀しみや苦しみを耐え忍んだ者だけが、最後の最後に浮かびあがる本物の天国へのパスポートだった。 それは個々の人間に精神構造の改革を要求するものだったのである。 おかげで、構造改革の理念はたちまち風化し、現代社会は、その時代に生まれた格差社会の弊害に悩まされ続けることになった。

私は、その構造改革の時代に、あえて不安定な生活に飛び込み、挑戦と危機の中で生きることを決めた男である。 あの時代、種もみ爺さん・小泉純一郎が「今日より明日」に挑むことを唱えていなかったら、格差社会が生まれていなかったら、私はそうしていなかったかもしれない。 けれども構造改革の時代を生きたおかげで、私はいま、本物の天国へのパスポートを手にしている。 構造改革の理念とは、社会の逆風を利用して、個々の人間が飛躍的進化を遂げること。 それは人間の生への挑戦の理念だったのだ。 愛だの、天職だの、何だか、おとぎ話みたいな現実味のないことばっかり言ってないで…ということを勿体(もったい)ぶって申し述べる村夫子(そんぷうし)の言うことは一切聞くな。 種もみ爺さんの言うことを聞け。

私が種もみ世代を「日本の希望」と呼ぶのは、彼らが構造改革の時代の空気を知っている最後の世代だからだ。 構造改革の理念の本質を知る者が、きっと何人かはいることだろう。 彼らの心の叫びが、次の時代をつき動かすと信じている。

― 新しい日々の僕たちは 高鳴る予感がしてるのさ
  君と僕が夢を叫ぶ 世界はそれを待っているんだぜ ―
  (山のフドウ・山口隆 『世界はそれを愛と呼ぶんだぜ』(2005)より)

金色のファルコ、賞金稼ぎのアイン、ハーン兄弟バズ&ギル、そして、胸に七つの傷を持つ男ケンシロウ。 われわれが落とせるだけの稲妻を矢継ぎ早に時代に浴びせ、失われ続けてきた人類の道義を隅々まで糺(ただ)す。 そのルネサンスのうねりを世界に広げていくのが種もみ世代の役目だ。 なにより、天帝リン&ルイがひとつの地域に顔をそろえるのは、1200年ぶりの椿事(ちんじ)なのである。 われわれが聞き伝える彼女たちの声を聞き逃してはいけない。 ルネサンスの胎動を、その目と耳にしっかりと焼き付けるがいい。


北斗琉拳―暗琉天破VS蒼龍天羅

『北斗の拳』の修羅の国の物語は、悟りの軌道に入ったところに待っている神隠しの世界のお話だ。 この物語には、妙法蓮華経を聞く耳を持たないまま悟りの軌道に入った人たちが登場してくる。 天帝の声に耳を傾けることがホモ・サピエンスの本分なのに、彼らはそれを聞こうとしない。 そのため、道を踏み外して修羅の道に堕ちてしまうのである。 修羅の国の物語は、そんなネアンデルタール化したオールドタイプ―いわゆる旧人類のお話になっている。

現生人類の同胞に向かって、「ネアンデルタール化したオールドタイプ」などと勝手放題の奇ッ怪な言い廻しをして申し訳ないけれど、可哀想だなんて、つまらぬオセンチはよしたほうがいい。 修羅の道に堕ちた人たちは、自分に感応しやすい人間を惹きつけ、相手の潜在意識の奥に眠っている負の傾向を外に引きずり出す力を持つようになる。 こうした修羅たちの能力を『北斗の拳』では、こんな風に呼ぶ。
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この暗琉天破にかかると、悟りの軌道における自分の立ち位置を見失ない、修羅の道に引きずり込まれてしまうのだ。 この坐禅作法シリーズでも、「湯婆婆(ゆばーば)の豚になる」という表現で、暗琉天破の餌食になった修行者を何人か紹介してきた。 ネアンデルタール化したオールドタイプを警戒するのは、万物の霊長たるホモ・サピエンスの自衛的本能と考えてもらいたい。

― 暗琉天破は、圧倒的な魔闘気の流れが生む一瞬の無重力空間により、位置を見失わせる技!!  ―
(by ケンシロウ 『北斗の拳』―「第193話 凄血散る!の巻」より)

『北斗の拳』では、この暗琉天破の能力を身につけた(あるいは身につけつつある)者たちを北斗琉拳伝承者と呼ぶ。 いわゆる小乗の覚者とその出来損ないのことで、『北斗の拳』の修羅の国の物語には、私の運営していたブログのコメント欄にやってきた彼らが、そっくり北斗琉拳伝承者として描かれている。 彼らも、一応、私のソウルメイトなのだけれど、同じホモ・サピエンスとはとても呼べない、ややこしい相手でもあった。

― わしは時を同じくして、この地の三人の男子に北斗琉拳を教えた!! だが、それが過ちだった!! ハン、ヒョウ、カイオウ。 三人は北斗琉拳の凄絶さに魂を狂わせた!!  ―
(by ジュウケイ 『北斗の拳』―「第177話 燃えさかる宿命!の巻」より)

『かなりキワどい坐禅作法』は、そうした北斗琉拳伝承者たちの生態研究の成果を書き留めてきたもので、私の「悟りの軌道理論」の体系は、全部で六人の被験者との対話の上に築きあげられている。 『北斗の拳』によると、彼らは「ちょっとはマシな師匠グループ」と「かなりイカレた弟子グループ」に分けられるらしい。 彼らの存在意義は、仏教開祖の釈迦が生み出した東洋的諸矛盾を凝縮して体現していたことだろう。 『北斗の拳』に書かれている「北斗琉拳一門モデル」は、彼らの宿星をよく描写していて、小乗の覚者とその出来損ないの生態をうまく説明できる優れたモデルになっていた。

というわけで、これから「北斗琉拳一門モデル」の解説をはじめる。 なんだか、被験者たちを生きたまま釜ゆでにするみたいだけれど、失なわれた漸悟(ぜんご)の法灯を復活させるためには、名誉ある犠牲はやむをえまい。 人類の進化のため、愛と平和のため、それから夢と希望のヴィジョンの再生のために貢献してもらうことにする。 そもそも、ホモ・サピエンスとして生まれておきながら、ネアンデルタール化した彼らが悪いのだ。 これをもって、『かなりキワどい坐禅作法』、堂々完結の集大成としたい。

北斗琉拳一門モデル
図:布施仁悟(著作権フリー)


悟りの軌道に入ることは修羅の道に堕ちる危険をともなう行為である。 そこには、ある地点を越えてしまうと、帰り道がわからなくなって、二度と出てこられなくなる迷宮の門がある。 仏教開祖の釈迦が2500年前に発見した悟りの道は、その迷宮の門に入り込む袋小路(デッド・エンド)の発見であり、悟りの軌道本来の存在意義を伝えるものではなかった。

釈迦は、マガダ国とコーサラ国という強国にはさまれた地の釈迦族の王子として生まれている。 そう遠くないうちに攻め滅ぼされ、いずれ殺される運命にあるのは確実だった。 そこで、29歳になったとき、自分の前途にある一連の運命のプログラムからさっさと降りてしまう道を探しはじめた。 それが彼の探求の動機だったのだとおもう。

釈迦は誰よりも純粋だったがゆえに、運命のカラクリの皮肉に耐えられなかったのだろう。 そこで、運やら縁やら才能やらといったふわついた、しかし、絶対的に強大なことがらに挑むよりも、まぶたの裏側にある現実逃避の世界に身を潜めることにしたのだ。 もしも釈迦と同じ環境に生まれていたら、私だってそうしたかもしれない。

ここで私たちが認識すべきことは、釈迦は、はじめから袋小路(デッド・エンド)を発見するつもりだったということだ。 悟りの軌道を最後まで歩みきり、愛とロマンを手にして帰ってくるつもりなんか、毛筋ほどもなかったのである。

釈迦の開いた初期仏教に触れたとき、まず最初に気になる点は、ある種の諦観のようなものが全体にただよっていることだろう。 「わたしは完全なるものを手にした。しかし、とりあえず生きなくてはならないから、生きる真似事をしている」という投げやりな印象を受けずにはいられないのだ。 この世に追い求めるものを何も持たない寂寥感(せきりょうかん)ほど虚しいものはない。 私には、釈迦の悟りは運命の呪いとしか思えなかった。

北斗の各流派とゲシュタルト転回
図:布施仁悟(著作権フリー)


それでも 釈迦の開いた初期仏教(北斗宗家の拳)は、小乗という分野におけるひとつの達成だった。 その教えに従えば、少なくとも聖人の道から仏陀の道へのゲシュタルト転回を起こすことができる。 問題は、釈迦の教えには、仏陀の道から修羅の道に堕ちる北斗琉拳の側面も含まれていたことだ。 釈迦に続いた小乗の覚者たちは、自分が袋小路(デッド・エンド)にはまっていることもわきまえず、仏陀の道から修羅の道に堕ちるゲシュタルト転落を正道と定義してしまった。 おかげで、仏陀の道から菩薩の道へのゲシュタルト転回を起こす北斗神拳の存在が秘匿(ひとく)され続けてきたわけである。

― やはり、ここを渡ったか、ジャスク。 この世にたったひとつ残された、この死の海を。 この海を渡り、そして生きて帰った者は、いまだかつて一人もおらぬ。  ―
(by ファルコ 『北斗の拳』―「第161話 危険な獲物!の巻」より)

かくして、この2500年間、悟りの軌道を最後まで歩みきり、愛とロマンを説くために修羅の国から帰ってきた大乗の覚者は一人も現れなかった。 この状況を生み出した北斗琉拳伝承者たちは寄生虫みたいなものだ。 同じような潜在的傾向を持つ宿主を見つけ、その人物の未来に待っている愛とロマンを食いつぶしながら生き延びる。 その業(ごう)ゆえに、北斗琉拳は存在してはならぬ拳なのである。

― だが拳の優劣ではない!! その拳の業(ごう)ゆえに、北斗琉拳は存在してはならぬ拳なのだ!!  ―
(by ジュウケイ 『北斗の拳』―「第182話 震える魔気!の巻」より)

では、修羅の道に堕ちる危険をあえて冒してまで、われわれが修羅の国に渡る理由は何なのか? 『北斗の拳』では、ケンシロウが簡潔に答えている。

― 失ってはならぬもののために!!  ―
(by ケンシロウ 『北斗の拳』―「第161話 危険な獲物!の巻」より)

ケンシロウは、連れ去られた天帝の子―リンを追って修羅の国に渡る。 彼のいう「失ってはならぬもの」とは天帝リンの声のことだ。 悟りの軌道は、本来、天帝の声を聞き伝える天賦の才を獲得するために存在していて、悟りの軌道を歩みきり、天帝に仕える宿星を与えられたとき、ようやく人は愛とロマンを手にできる。 そのときになって、ようやく人生の意味を知るのだ。

ところが、悟りの軌道の途中で袋小路にはまってしまったら、その機会を失うばかりでなく、他人を修羅の道に引きずり込む屑星の宿星を背負うことになる。 小乗の覚者というのは、自分が屑星の宿星を背負わされたことにも気づかない鈍チンな連中で、「悟ったら運命のカラクリから自由になれる」などと言っているけれど、そんなことはない。 それはオゴリにすぎないことを、これからご覧に入れよう。

私が言っているのは、つまるところ、誰もが知っている当たり前の道理なのである。

「天竺(てんじく)には筋斗雲(きんとうん)に乗って行っては意味がないのですよ、悟空」

小乗の覚者とその出来損ないから構成される北斗琉拳一門の連中には、この子供でも理解できる『西遊記』のお話がどういうわけか通じなかった。 どうやら、『西遊記』の孫悟空というキャラクターは、小乗の覚者の生態の寓意(アレゴリー)になっているようだ。 それはつまり、悟ったところで如来の手のひらで踊っているだけだ、という現実を理解できない類人猿を意味しているのである。

そんな猿たちのおっしゃる通りの道をゆくと、頓悟(とんご)という成果がすぐに手に入る反面、その代償として愛とロマンを見失ない、人生の意味を知らずに終わることになる。 そのため、悟りの軌道の入門には、私の漸悟(ぜんご)の方法が一番よろしく、「お楽しみはこれからだ」と自分を鼓舞しながら、だんだんと深入りして、さまざまにやってみるのがよろしかろう。

― 北斗宗家の拳こそ北斗神拳と北斗琉拳の源流の拳!! そして、その血統者にのみ、琉拳を封じる秘拳をなせる天賦の才を持つものが生まれるのだ!! それがまさにケンシロウだ!!  ―
(by ジュウケイ 『北斗の拳』―「第183話 伝説の血脈!の巻」より)

『北斗の拳』によると、北斗琉拳伝承者たちの暗琉天破を封じる秘拳をなせるのは、第64代北斗神拳伝承者ケンシロウのみ、ということになっている。 そしてそれは他ならぬ私のことなのだ。 これから私が講釈するのは、その秘拳である。 小乗の覚者たちの生態の理解を通じて、暗琉天破封じの秘拳を是非とも身につけてもらいたい。


大老ジュウケイ〜 北斗琉拳先代伝承者 〜

『北斗の拳』の大老ジュウケイとは、正師・秀爺のことである。 彼は小乗の覚者にしては珍しいタイプで、大乗の教えであるカルマ・ヨーガの優位性をとりあえず認識していた。 そのため、お互いに人生を十二分に生き抜きたいと考えている同志だと信じていたのだけれど、結局のところ、さっさと近道して頓悟していた卑怯者だったのである。

覚者というのは人間の歩むべき道を知り尽くしていると誰もが信じていることだろう。 その智慧に従えば間違いないのだと。 私も当初はそう思い込んでいた。 そのため、正師・秀爺との対話を通じて、小乗の覚者のトンマな生態を洞察するまでは、ずいぶん悩まされたし、要らぬ苦労もさせられた。 特に彼の背負っていた大老ジュウケイとしての宿星が、話をややこしくしていたのである。

― いずれあの海を渡り、救世主がおとずれよう。 三人の羅将を倒して、この国を変える男が!!  ―
(by ジュウケイ 『北斗の拳』―「第174話 宿命の伝説!の巻」より)

『北斗の拳』の大老ジュウケイは、北斗琉拳伝承者の暗琉天破を封じる秘拳をなせる救世主の到来を待ちわびている。 正師・秀爺は、そのジュウケイの宿星にしたがって、このコメントを私に投げてきたのである。

正師・秀爺のジュウケイ的助言


JINGOよ、落ち着くのじゃ、そなたは、まだ俗世間には慣れておらんのじゃろ?

世の中にはまだまだ色々な人がおる。 今度はそなたがその目で会って確かめるのじゃ!

その先にそなたを待つものがおる。 ずっとそなたを待っておる。

迷わず進め、行けばわかるさ!!時はきた!!

2014年1月29日のコメント


これは私が第一の羅将カイオウに相当する人物の運営するサイトを見つけたときに、思いがけず投稿されてきたものだった。 カイオウに相当する人物は、未熟な小乗の覚者だったのだけれど、何しろ悟っていたものだから、私もずいぶん驚愕して弟子入り志願しようとしたものである。 そのとき正師・秀爺は、私の目指すべきはカイオウに相当する人物の境地ではないことを教えて、私を救ってくれたのだ。 それもこれも、彼の背負っていた大老ジュウケイの宿星がなせる業(わざ)だった。

― ラオウ…おまえはジュウケイの言っていることがわかるか? オレたちは北斗七星の惑星だという。 北斗七星に仕え、北斗七星のために死す惑星と…。
 だがオレには解らぬ!!
 ―
(by カイオウ 『北斗の拳』―「第202話 憎しみの傷跡!の巻」より)

この『北斗の拳』の台詞にある通り、カイオウに相当する人物は、修羅の道に堕ちた小乗の覚者の頓悟より、菩薩の道に進む大乗の覚者の漸悟の方が優れていることを認めようとしない人物で、北斗七星の宿星を背負っている私とは対立する宿星を持っていた。 一方、正師・秀爺は、北斗七星に仕えるというジュウケイの宿星にしたがって、いくつかの適切な助言を与えてくれた、ちょっとはマシな覚者だったのである。

こんな風に、覚者といえども自分の背負った宿星からは逃れられない。 「悟ったら運命のカラクリから自由になれる」というのは、まったくのデタラメで、それは小乗の覚者たちの幻想なのだ。 やはり、「運命のカラクリから自由になりたければ、それに挑まなければならない」というのが現実なのである。

さて、ちょっとはマシな宿星を背負っていたとはいえ、正師・秀爺が小乗の覚者であったことに変わりはない。 そのため、「他人を暗琉天破の餌食にしてしまう」という“北斗琉拳伝承者としての業(ごう)”からは逃れられなかった。 彼の暗琉天破が私を悩ませるようになったのは、この投稿をしてきたときからである。

正師・秀爺の暗琉天破1


その修行の過程をたどれば、本当に才能が開花して、世に出るつまり、出世できるのかのう? オタクがゴタクを並べるだけの集りに終始せぬよう気をつけないといけませんな。

2014年10月24日の投稿


これは私がまだ、小乗の覚者の生態も、暗琉天破の真相も知らなかった頃にぶつけられた投稿。 このとき私は40歳。 40-42歳の大厄に入ったこともあって、仏陀の道から菩薩の道へのゲシュタルト転回を起こそうとしていた。 ゲシュタルト転回の場面では、前の段階の常識を捨てて、次の段階に進まなければならない。 そこで、あえて仏陀の道の常識を否定する記事を書き始めたところ、正師・秀爺は、それに反対する意見を投稿してきたのである。

ゲシュタルト転回とゲシュタルト転落
図:布施仁悟(著作権フリー)


私は、正師・秀爺も当然、ゲシュタルト転回のカラクリを知っているものだとばかり思っていたから、彼のまるでトンチンカンな投稿の意味がさっぱり判らなかった。 要するに、正師・秀爺は仏陀の道から修羅の道にゲシュタルト転落した小乗の覚者にすぎなかったので、仏陀の道から菩薩の道へのゲシュタルト転回が存在すること自体、彼は知らなかったのである。 そこで、こういうコメントを寄せてきたわけだ。

正師・秀爺の暗琉天破2


悟りとはこうあるべき、こういう道をたどらなければならない。 自分をがんじがらめにすると、境界線だらけの人を寄せ付けない、魅力のない人間になりますぞ。

2015年3月1日の投稿


あきれるほど軟弱な短絡的理想論である。 これはまったくの間違いで、仏陀の道から菩薩の道へのゲシュタルト転回を起こすためには、「悟りとはこうあるべき、こういう道をたどらなければならない」という美学が最も重要な要素になるのだ。 けれども当時の私は、覚者の言うことは何がなんでも正しいと思い込んでいたから、正師・秀爺に私のやっていることが間違っていると指摘されたことで、日常を持ちこたえるために自分を支えてきたものが足もとから崩れ落ちていった。

これが北斗琉拳伝承者の暗琉天破である。 小乗の覚者たちは、自分の歩んできた道が絶対的に正しいと信じ込んでいるし、なにやら妖しげな霊能力も身につけている。 彼らの言葉に霊験あらたかな効能を期待してしまうのは当然であり、そこにはある種の催眠的効果があるのだ。 おかげで人々は、その言動を疑って受け流すこともせず、ただ幻惑されるままになってしまうのである。 このあたりのことを北斗の拳語録では、こう説明している。

― 北斗琉拳は、魔闘気により敵を幻惑し、敵の受け技を流すことを極意とした。  ―
(by ケンシロウ 『北斗の拳』―「第208話 戦場の凄拳!の巻」より)

この暗琉天破を封じる秘拳をなすには、やはり“経験”がものをいう。 正師・秀爺には、ジュウケイの宿星にしたがって助言を放つときと、単なる知識や経験にしたがってゴタクを並べるときがあった。 これは友人や恋人や両親といったソウルメイトの場合も同じことで、彼らの言動には“宿星による言葉”と“自我による言葉”の違いがある。 それをいかにして受け止めるかを経験によって学んでおけば、小乗の覚者たちの並べるゴタクを見抜いて受け流すこともできる。 それが、北斗神拳究極奥義…
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小乗の覚者から暗琉天破を喰らってみれば分かると思うけれど、覚者みたいな権威から自分の歩んでいる道が間違っていると指摘されると、一瞬、自分の立ち位置を見失って暗闇の中に落ちていくような感覚を抱く。 それを跳ね返して、自分の信じる美学を貫く力は、友人や恋人や両親といったソウルメイトたちを見限ったときの経験が育んでくれるのだ。

― 見渡すかぎりの闇の中、朋友(ポンヨウ)たちがオレの道を照らしてくれた。 前へ進めと。北斗神拳究極奥義・蒼龍天羅!  ―
(by 霞拳志郎 アニメ『蒼天の拳 REGENESIS』―「第24話 霞拳志郎と云う漢」より)

40歳の私は、人をみたら泥棒と思えの精神で、とりあえず正師・秀爺を疑ってかかることにした。 その後、44歳になって『北斗の拳』を読み返したとき、正師・秀爺がジュウケイの宿星を背負っていたことを知ったのだけれど、とりあえず彼を疑ってみたことで命びろいしたというのが真相である。 私は正師・秀爺の宿星を探る過程で、小乗の覚者の生態や暗琉天破を封じる秘拳を学んだ。 そういう意味で、彼は私にとっての正師だったのだけれど、その実態は運命の挑戦から逃げ出した弱卒―腐れ神に過ぎなかったというわけである。


従者・黒夜叉〜 ケンシロウの従者 〜

『北斗の拳』の従者・黒夜叉(くろやしゃ)は、宮崎駿氏のアニメ映画『千と千尋の神隠し』を観たことがないと語っていた男のことである。 ハンドルネームは「従者」ということにしておこう。 こういうタイプの人間が『千と千尋の神隠し』の「湯婆婆の豚」になるらしい。

日本映画のほとんどは暇つぶしに観るものばかりだけれど、南斗五車星の海のリハクの最高傑作を見逃したというのは、ネアンデルタール化したオールドタイプの典型としか言いようがない。 妙法蓮華経というのは、手にすべき者が手にする経典になっているから、従者には、はじめから妙法蓮華経を聞く耳がなかったと考えられる。

― なぜ修練場を逃げ出した。 この国の男ならば、12歳になると同時に修羅を目指さねばならぬ!!  ―
(by 修羅 『北斗の拳』―「第168話 修羅狩り序章の巻」より)

北斗琉拳一門の連中に共通している特徴は、13歳の厄年で精神年齢が止まっていたことで、彼らの語ることはまるきり小学生並みだった。 おそらく、『できれば見たくなかったものを見るために片目を少しひらくレッスン』を避け続けてきたために、人間としての<生>と<死>のはざまを見切ったことがなかったのだとおもう。

― おまえの友達はおまえの足を引っぱってる。 溺れかけた者がおまえの足にしがみつくみたいに。 おまえは彼らを救えない。 いっしょに溺れるだけだ。  ―
(スティーヴン・キング『スタンド・バイ・ミー』<第17節>)

この現象世界というのは、誰もが人間として生き残れるような甘いものではなく、「殺(や)らなければ殺られる」という法則に支配されている。 そのため、友人や恋人や両親に足を引っぱられ始めたら、間髪入れずに相手を刺し、スキを与えず横にねじり、一気にはらわたを引き裂いて、こう告げなければならない。

おまえはもう、死んでいる…。

自分の足にしがみついてきた者に情けをかけ続けていたら、自分もいっしょに溺れることになるからだ。 その<生>と<死>のはざまにある痛みや哀しみを背負って生きることが、人間として「生きる」ということでもある。 この現象世界の暴力的なカラクリに耐えられない者は、いっしょに溺れて「死ぬ」か、小乗の覚者たちのように、まぶたの裏側に閉じこもって「死ぬ」しかない。

― 闘いの修羅しか生まぬ国がある!! その国を統治するのは武の掟!!
 男子の生存率は1パーセント!! 15歳までに百回の死闘をくりかえし、生きのびた者にしか生を許さぬ恐るべき国だ!!
 ―
(by ファルコ 『北斗の拳』―「第161話 危険な獲物!の巻」より)

この修羅の国の掟は、12-13歳の厄年から15-16歳の思春期を迎える頃までに学ぶことで、いずれ修羅の道に堕ちるにしろ、菩薩の道に進むことになるにしろ、まずは修羅の国における仏陀の道の掟を学ぶことが共通のならわしになっている。 もしも、この時節に掟を学びはじめなければ、精神年齢がそこで止まってしまうことだろう。 つまり一番大事なことは、友人や恋人や両親に足を引っ張られることなく悟りの軌道に入ることで、彼らに「おまえはもう、死んでいる…」と告げる非情の剛の拳を身につけておかなければ、31-33歳大厄におけるぷっつん体験に失敗することになる。 そうなると、その上にどんな努力を重ねようと意味がなくなってしまうのだ。

― この国の男達の目的はひとつ。 それは戦いに勝つこと。 地上をうめつくす修羅たちは互いに命を喰らいあう。 どれだけ人を殺せるか、どれだけ自分が強いのか。 だけど何かが違う。何かを忘れてる。 それは何なのか、思い出せなかった。  ―
(by タオ 『北斗の拳』―「第169話 地上最凶拳!の巻」より)

それでも、ぷっつん体験の透過に成功したならば、愛とロマンを手つかずのまま護(まも)り抜こうと心に決めてかからねばならない。 それは、そのまま情愛を捨て去ってしまうのではなく、人間として生きることの痛みや哀しみに、歯を食いしばって耐える美学を持つということだ。 そういうタフな人間であればこそ、情愛の正しき発露としての柔の拳をものにすることができる。 それが、この世でもっとも崇高で、敬意を払われるべき生きざまではないだろうか。

従者の努力


 自分は今、36才なのですが、20才の大学生の頃からなんとなく心掛けていたのが、事態を客観的に見るとか、いやな状況でも積極的にいくとかです。 人間って事態を自身に都合よく解釈したくなるじゃないですか。 それが行き過ぎると、旧日本軍みたいになります。 ただ、すごい人はそうせずに、事態を客観的に見る、また、尻込みしたくなるような事態でも積極的に動く、そうなんじゃないかな、などと思って、それを心掛けるようにしてきました。 疑似心随観みたいな事をしていたんですね。 もちろん、完全にできていたわけではありません。

2015年9月の投稿


「ぷっつん体験したときに、どうやって精神的変性を遂げたのか、どんな人生の選択をしてきたのか、を具体的に語ってほしい」と言うと、ほとんどの修行者がこんな感じのことを答えてくる。 こうした従者の語るような努力をするのは結構なことだとおもうけれど、誰もが最も大事な点を見落としているのだ。

従者は、友人や恋人や両親が足を引っ張りはじめたとき、自分がどのように痛みや哀しみを背負ってきたのかについて、何も語ろうとしなかった。 おそらく彼は、非情の剛の拳を身につけることなく、31-33歳の大厄までの歳月をやり過ごしていたため、何を語ればいいのか分からなかったのだとおもう。

北斗神拳は人の心を救う拳だ。 けれども、心を開いて<生>と<死>のはざまにある痛みや哀しみを語る勇気のない人間を救うことはできない。 私は彼がいつそれを語り出してくれるかをずっと待っていたのに、従者は北斗神拳伝承者の私を前にしながら、小乗の覚者である正師・秀爺に相談するという間違いを犯してしまった。

従者の間違いのはじまり


 秀爺さんとお話がしてみたいので、コメントを書かせていただきます。 布施さん、申し訳ありませんが、この場をお借りします。

2015年9月の投稿


自分の主要なソウルメイトが誰であるかを認識するのは、『北斗の拳』では北斗神拳究極秘奥義・天破の構えとされている。 したがって、それはたしかに難しいことなのかもしれない。 けれども、愛とロマンを手にするための親書をたずさえた密使が目の前にいるのに、どうしてどいつもこいつも親書を受け取ろうとしないのだろうか。 おそらく従者は、友人や恋人や両親に足を引っ張られたまま一緒に溺れてきたせいで、自分の主要なソウルメイトを見抜くセンスがいまひとつ育っていなかったのだとおもう。

それでも彼は、27歳の運命のクロスロードに立ったとき、振り出しに戻ろうとする運命の旅を始めていたのだろう。 それは、友人や恋人や両親に足を引っ張られて、自分以外の何かになろうとする努力をはじめた原点―リトルを探す旅だ。 そのおかげで、思いがけず悟りの軌道に入ることになったに違いない。

従者の悟りの軌道入門


 元々は精神世界とかそうゆう事に興味があったわけではないのですが、これもこのブログのコメント欄に書きましたけど、気功とかヨガとか瞑想とかは一切やっていなかったんですけど、「寝ている時に目が覚めて、尾骨が震えて、その震えが背骨を登っていく」というクンダリーニ覚醒体験のようなものを経験しまして、精神世界に興味を持ち、その分野の本を読んだりして、この武禅ライフにたどりつきました。 ここでも、多くの事を学んでいます。
 なんか、書きたい事をただ書いているだけで、返答がしにくいと思いますが、もし、コメントできるような事がありましたら、秀爺さん、お願いします。

2015年9月の投稿


この坐禅作法シリーズは、27歳の運命のクロスロードから始まる「リトルを探す旅」について書かれた世界で唯一のテキストになっている。 そのため、読むべき者が、読むべき時にやってくるケースを、私はいくつも目撃してきた。 従者もまた、その一人だったのである。

けれども彼はリトルを探す旅に深く踏み込もうとせず、まったく見当違いのところを探し続けていた。 その原因を生み出していたのが、小乗の覚者たちが2500年間に渡って吹聴しまくった修羅の道の常識である。 そのため彼の耳には、私の説く大乗の教えよりも、小乗の覚者である正師・秀爺の説くことの方が正論のように響いたのだろう。

こうして従者は、正師・秀爺の暗琉天破の餌食になった。

正師・秀爺の暗琉天破3


 行き着くところ、今ここになってしまうのです。正確にはすこし過去になりますか。

 心はカラダより速く、あちこちと意識が飛ぶのです。

 この彷徨う心を見つめましょうという事です。

 放心を取り戻すという事です。 その時に、心身統一がなされ、フォレストガンプみたいな事も起こりうるのです。 ガンプは今に集中しているので、境界線がありません。

 そのためには、心構えしかり、体構えも必要です。 ユルユルの体です。

 従者さんはなんとなくわかっているように感じとれます。

2015年9月の投稿


これは実に小乗の覚者らしい回答だった。 このとき正師・秀爺は、密教的行法の究極奥義を従者に伝授してしまったのである。 従者が修羅の国に取り残されることが決定的になったのは、このときだった。

「従者さんはなんとなくわかっているように感じとれます」

従者はこの一文で、君はもうリトルを探す旅をしなくてもいい、というお墨付きをもらったのだと勘違いしてしまった。 このとき以来、彼の心には私の声が届かなくなったのである。 つまり、みずから聞く耳を閉じてしまったのだ。

以下は、約一年半後、37歳になった従者が修羅の国に取り残されたときのコメント。

従者の末路


 布施さんはブログのコメント欄で、「私がぷっつんしていない」って書いてましたよね。 一方で、先日送ったメールでは、カオナシの話で、秀爺さんが「行者はカオナシじゃない(注:他の北斗琉拳一門の連中とは違う)」って意味で言ったと書いたわけじゃないですか。
 あのときのコメントって、私が秀爺さんに無心について聞いて、秀爺さんがやり方を答えて、それで、「行者さんはなんとなく分かっているように感じ取れる」ってコメントしたわけじゃないですか。 どう受け取っても、カオナシの話とは関係がありませんよ。
 しかも、「体にまかせなさい」って話で、私が「全身に柔らかいものがあるといい感じだ」と書いたら、布施さんは「君には究極の奥義はまだ早い」と書いたじゃないですか。 しかし、あの「体にまかせなさい」って、秀爺さんが私に教えたもので、究極の奥義かどうか知りませんが、早いとかそうゆう話ではないでしょう。

2017年2月の投稿


要約すると、「正師・秀爺がお墨付きをくれたのに、どうしてアナタごときが文句をつけてくるのだ」と言っているのである。 私が彼に説き続けていたのは、友人や恋人や両親に足を引っ張られて、自分以外の何かになろうとする間違いを犯しはじめた原点を見つけろということで、それさえクリアできれば、うるさいことは何も言わない、後はどうにでも自分の好きにするといい、ということだった。 「彷徨う心を見つめる」とか「放心をとり戻す」とか「無心がどうの」という前に、まず自分自身として生きる基本を学びなさい、と言ってきたのである。

ところが従者は、そういう大事な土台のところをことごとく無視していた。 それもすべて「従者さんはなんとなくわかっているように感じとれます」という正師・秀爺の回答のせいだったというのだから、お気の毒としか言いようがない。

― 何も語らず、何も望まず、ただジュウケイに影の様に仕える男がなぜここに!!  ―
(by ヒョウ 『北斗の拳』―「第192話 琉拳の墓場!!の巻」より)

従者は、ジュウケイに影の様に仕える黒夜叉としての宿星を持っていた男で、ジュウケイの宿星を持っていた正師・秀爺とは主従関係にあった。 正師・秀爺は、その宿星にしたがって、このコメントを従者に投げていたのである。

正師・秀爺のジュウケイ的発言


 従者さんはなんとなくわかっているように感じとれます。

2015年9月の投稿


こういうソウルメイト同士の宿星的関係は、お互いになんとなく感じとっているもので、この言葉は単純に「君は他人のような気がしない」という程度の挨拶だったのだ。 つまり、そんなに深い意味はなかったのである。 それを私が指摘したところ、逆切れされてしまったというわけだ。

― お待ちしておりました、ケンシロウ様。 私は黒夜叉。 北斗宗家ケンシロウ様の永遠の従者として生誕時より遣わされた者!  ―
(by 黒夜叉 『北斗の拳』―「第193話 凄血散る!の巻」より)

また、『北斗の拳』の黒夜叉は、ジュウケイの従者であると同時に、第64代北斗神拳伝承者ケンシロウの従者でもある。 そこで従者には、私が坐禅作法シリーズを書き始めた頃に早速やってきたという経緯があり、「君は他人のような気がしない」という印象を私も抱くようになっていった。

また彼は、しばしば黒夜叉の宿星にしたがって、こんなコメントを寄せてきたこともある。

従者の黒夜叉的発言


 今までのコメント欄に考えが違うと思う事は書いてきましたが、そうであっても、総合的には精神世界の中では、すごいと思います。 「周囲の価値観との離別」「自我の完成」などの記述は、圧巻ですよね。 武禅ライフはこの系統のブログの中では、見るべきブログの一つでしょう。
 これは、自分の目で見て、自分で考えて出した答えです。
 武禅ライフを初めて見た時、「このブログは見た方が良いな」と直観的に感じましたから、そういう意味では、その時は勘は働いたかもしれません。
 いつか布施さんが活躍する事を期待してますよ。

2017年2月の投稿


正師・秀爺と従者に関して言えば、他の北斗琉拳一門の連中と違って、二人とも言葉の通じる相手だった。 そのため、もう少しなんとかしてあげたかったのだけれど、予言というのは実現されなければならないものだ。 なんぴとたりとも、そこから逃れることはできないのである。 やはりどうあがいても、「北斗琉拳一門の連中は修羅の国に取り残される」という『北斗の拳』の予言からは逃れられなかったような気がする。

『北斗の拳』の宿星の発想は、ドラマツルギーという考え方で、それはシェイクスピアの『お気に召すまま』の台詞に要約される。

― All the world’s a stage. And all the men and women merely players. They have their exits and their entrances. And one man in his time plays many parts. ―
 (世界は劇場なのさ。 男も女も、そこでは単なる役者にすぎない。 誰もが退場してみたり、登場してみたりしてね。 人間たるもの一生のうちに幾つもの役を演じるんだ。)
 (by シェイクスピア『お気に召すまま』第2幕第7場より)

誰もが自分独自の宿星を持ち、自分独自の役割を演じている。 ただし、その存在意義や存在価値というものは、人間存在そのものではなく、世界劇場という舞台の上での相関関係(かかわりあい)の中にのみ見出せる。 そういう発想をしていないとダマされてしまう現象が、この世界にはあるようだ。


羅刹シャチ〜 北斗琉拳入門者 〜

羅刹(らせつ)のシャチは、32歳で精神分裂を発症した修行者のことである。 彼はちょうど『千と千尋の神隠し』の「カオナシ」に相当していた。 ハンドルネームは「ボロ」ということにしておこう。

32歳というのは発狂する年齢としては、統計的にちょっと早かったのだけれど、これも『北斗の拳』の予言では想定内のことである。 シャチは早まった行動のために修羅の国に取り残される人物なのだ。

― とにかくオレの戦いは始まった。 待てなかったのだ…救世主と呼ばれる男を…  ―
(by シャチ 『北斗の拳』―「第174話 宿命の伝説!の巻」より)

なんでもボロは、20代の前半にラマナ・マハルシというインドの小乗の覚者の本を手にして、はるばるインドのアシュラムを訪ねたこともあったらしい。 彼が私の運営するブログにやってきた頃には、すでに小乗の覚者たちの思想に洗脳されてしまっていて、手の施しようがなかった。 彼の思考体系そのものが、小乗の覚者たちの教えを土台にして構築されていたので、私の大乗の教えが耳に入った瞬間に、すべて小乗風に変換されてしまうのである。 つまり『北斗の拳』のシャチ同様、ケンシロウが修羅の国にやってくる遥か以前に、すでに暗琉天破の餌食になっていたというわけだ。

― フフフ…オレは愚者の仮面をかぶり、この日がくるのを待ち続けていた!!  ―
(by シャチ 『北斗の拳』―「第166話 野望の仮面!の巻」より)

『北斗の拳』の設定では、ケンシロウが修羅の国で最初に出会う北斗琉拳伝承者が羅刹シャチということになっている。 たしかにボロは、私が修羅の国で遭遇した最初の精神分裂症患者だった。 幼少の頃から自閉的傾向を持っていることに悩んでいて、それを解消する方法を見つけようとしたことが、そもそもの探求の動機だったのだとおもう。 小乗の覚者というのは、現代社会においては自閉症と診断される人種なのに、どうして彼の探求の先にラマナ・マハルシがいたのかは謎である。

ボロのシャチ的発言1


 30歳の時に変性意識下に潜り込むことに成功しました。
 あなたが見性と定義するのはここでしょうね。おそらく。
 内的体験を伴う見性の階梯というのもこれでしょうね。
 成熟の過程でもありますから。

 32歳と言うのは見性の果てです。

2015年7月の投稿


ボロの場合、蓮華の開発を進める密教的行法で、ある程度の成果を得てしまったことが、悟りの軌道から道を踏みはずす決定的要因になった。 小乗の覚者たちがさんざんゴタクを並べてきたせいで、こういう勘違いが多くて困るのだけれど、蓮華の開発と運命の試練の進捗過程というのは、まったく別ものと考えた方がいい。 悟りの軌道に入った後は(それ以前もだけど)、もっぱら運命の試練をこなすことが眼目になり、そこにいくらか神秘的な味や色や匂いが加わるというだけのことなのだ。

そう認識しておかないと、密教的行法の成果を得た途端に増上慢になってしまうことだろう。 たとえば、この羅刹シャチのように。

― ハハハハハ!! この拳はもはや神をも凌(しの)ぐ!! このオレが望むものすべてを与えてくれよう、ハハハハ!!  ―
(by シャチ 『北斗の拳』―「第171話 君臨せる魔拳!の巻」より)

ボロのケースでは、30歳で蓮華(たしか喉頭部のヴィシュダ・チャクラだったとおもう)の開発に成功して、32歳を過ぎたくらいから、幻覚や幻聴に悩まされるようになったそうだ。 それで精神科にもお世話になって、ようやく回心したのだけれど、31-33歳の大厄という人生の勝負どきに、悟りの軌道から道を踏み外した代償は大きかったらしく、時すでに遅しだった。

ボロの回心


 また返す言葉も見つからない内容になっていなければいいのですけれど。 込み入った返事は求めていないですから、軽めの返事を頂けたら嬉しいです。
 たぶんメールするの迷惑ですよね?

2016年11月の投稿


ボロが31-33歳の大厄を過ぎた頃、ようやく私の説く大乗の教えに従う決心をしてメールで相談に来てくれた。 けれども、やっぱり小乗の覚者たちの洗脳がきつく、満足な返答をすることはできなかった。 それでもボロは、こうして自分の醜態をさらして、曲がりなりにも回心する決意をしたのだ。 再起の可能性がいくらかは残っていてほしいものである。

一応、『北斗の拳』でも、この回心の場面が描かれていたりする。

― 今こそ確信した!! オレは…オレは、この男を待つために、この国で恋をし…この国にとどまっていたのだと!!  ―
(by シャチ 『北斗の拳』―「第188話 非情の再会!!の巻」より)

こんな時代だから、ボロのように自閉的傾向を持っていることに悩む人は多いとおもう。 これは私の個人的統計だから何も裏づけはないのだけれど、自閉的傾向を持つ子供が生まれる家庭には、その両親に共通するパターンが見られる。 私の家庭がそうだったから、たぶん、間違いない。 ちょっと考察してみよう。

(村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』にみる)家族のカラクリ〜父親の場合〜


 それは恐ろしいほどに浅薄で、一面的で傲慢な哲学だった。 この社会を本当の根幹で支えている名もなき人々に対する視点を欠いていたし、人間の内面性や、人生の意義といったものに対する省察を欠いていた。 想像力を欠き、懐疑というものを欠いていた。 でもこの男は心の底から自分が正しいと信じているし、何物をもってしても、この男の信念を動かすことはできないのだ。

村上春樹『ねじまき鳥クロニクル 第1部』―「6 岡田久美子はどのようにして生まれ、綿谷ノボルはどのようにして生まれたか」より


私が生まれた1974年は、1985年に男女雇用機会均等法が施行される以前の時代で、こういう浅薄で一面的で傲慢な哲学を持った男が多かった。 男の社会的地位が無条件に保障されていたため、男たちが何の根拠もなく威張っていた時代なのである。

そんな男たちは、自分に対抗できる意見も人格も持ちあわせていない女を見つけて結婚していた。 私の父親もそうだったのだけれど、そういう男にかぎって、自分に都合のいい女を見つける嗅覚を持っているものなのだ。 つまりは、こういう女である。

(村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』にみる)家族のカラクリ〜母親の場合〜


 母親の方は東京の山の手で何の不足もなく育った高級官僚の娘で、夫の意見に対抗できるような意見も人格も持ちあわせてはいなかった。 僕の見た限りでは、彼女は自分の目に見える範囲を越えた物事に対しては(実際に彼女はひどい近眼だったのだが)どのような意見も持っていなかった。 それ以上の広い世界に対して自分の意見を持つ必要がある折りには、彼女はいつも夫の意見を借用した。

 あるいはそれだけなら、彼女は誰に迷惑をかけることもなかったかもしれない。 しかし彼女の欠点は、そのようなタイプの女性が往々にしてそうであるように、どうしようもないほどの見栄っぱりであることだった。 自分の価値観というものを持たないから、他人の尺度や視点を借りてこないことには自分の立っている位置がうまくつかめないのだ。 その頭脳を支配しているのは「自分が他人の目にどのように映るか」という、ただそれだけなのだ。

 そのようにして、彼女は夫の省内での地位と、息子の学歴だけしか目に入らない狭量で神経質な女になった。 そしてその狭い視野に入ってこないものは、彼女にとっては何の意味も持たないものになってしまった。 彼女は息子に対して、最も有名な高校に行って、最も有名な大学に行くことを要求した。 息子が一人の人間としてどのような幸せな少年時代を送り、その過程でどのような人生観を身につけていくかというようなことは、想像力の遥か枠外にあった。 もし誰かがそのような点についていささかなりとも疑問をを呈したりしたら、彼女はおそらく真剣に腹を立てたことだろう。 それはおそらく、彼女の耳にはいわれのない個人的な侮辱のように響いたことだろう。

村上春樹『ねじまき鳥クロニクル 第1部』―「6 岡田久美子はどのようにして生まれ、綿谷ノボルはどのようにして生まれたか」より


私の母は父の顔色をうかがいながら生きていた人で、「そういうことをすると、お父さんが怒るよ」というのが口ぐせだった。 自分の意見というものがまるでないのである。 私の母というのは、自分の頭でものを考えられない女だったのだ。 父にとっては実に都合のいい女だったとおもう。

けれども、そういう女と別れることなく、そのまま結婚生活を続けていると、男は女に育てられる機会を失くしてしまう。 おかげで父は人生の勝負どきに賭けに出る機会を逃して、精神年齢が止まったままになり、人間として死んだあげくに性格が歪んだ。 人間として死んだ人間はゾンビみたいなものだ。 父は少年時代の私の足を引っ張りはじめ、家庭内に精神的緊張をもたらすようになった。 それが子供の自閉的傾向となって現れるのである。 現代は、男が何の根拠もなく威張れない時代になったため、男女の構図が逆転して「母親にとって都合のいい父親」のいる家庭も増えていることだろう。

ボロのシャチ的発言2


 25歳の時は入口ですよ。
 招待を受けたのですから。
 何を見性とするかは人により、まちまちでしょうけど。
 無駄にしたとか勝手に評価してくれますが、それなりに人生を謳歌していた時期ですよ。

2015年7月の投稿


ボロは25歳のときに神秘体験をしてから、運命の試練に挑戦することよりも、あっちの世界の探求に血道をあげるようになった。 しかしながら、自閉的傾向の解消という目的を達成したければ、30代で両親というキーパーソンの抱える問題に真向勝負を挑まなければならないし、そのためには、10-20代のうちに友人や恋人との人間関係から恋と喧嘩のルールを学んで、自立したタフな人間になっておく必要がある。 ところがボロには、目的を達成するための手段を履き違えていたくせに、歳月を無駄に過ごしているという感覚がなかったらしい。

何だか得体の知れない思惑に巻き込まれた誰かとしてではなく、まったくの自分自身として生きてみたい。 それは10-20代の誰もが望むことだろう。 そういう点に関しては小乗の覚者たちの並べるゴタクに効能を期待しても無駄である。 彼らは恋や喧嘩のルールを学ぶことから逃避する方法を教えているにすぎないからだ。 ましてや、蓮華の開発を進める密教的行法では何の解決にもならないだろう。

「甘酸っぱい恋の味をあまり知らない日本の男の子には、女の子の味加減はちょっと難しいかもしれないわね」と私の恋の指南役であるシャルロッテ嬢は言っていた。 歳末のスーパーに勢ぞろいして売られている、甘すぎて、黄色すぎて、まったく恰好だけの伊達巻のような日本のハナタレ男子諸君には、おじけずに恋と喧嘩のルールを肌身で学んで、ほんとうの伊達男になってほしいものである。


第三の羅将ハン〜 北斗孫家拳伝承者 〜

第三の羅将(らしょう)ハンは、黄金のタコの幻覚をみるようになった男のことだ。 そこで彼のハンドルネームは「金タコ(きんたこ)」ということにしておこう。 金タコもボロと同じく『千と千尋の神隠し』の「カオナシ」にあたる。

『北斗の拳』の第一、第二、第三の羅将については、続編の『蒼天の拳』で補足的な解説がなされていて、北斗孫家拳(ほくとそんかけん)伝承者の芒狂雲(ぼうきょううん)という登場人物が第三の羅将ハンに相当している。

― 知らぬわけではあるまい。 この国に三人の闘神とあがめられる羅将がいることを。  ―
(by カイゼル 『北斗の拳』―「第170話 白熱せる野望!の巻」より)

第一、第二、第三の羅将は、北斗琉拳伝承者の中でも、特に修羅の道に完全に堕ちて袋小路(デッド・エンド)にはまった人たちの隠喩(メタファー)になっている。 彼らは対話(コミュニケーション)できないわけではないのだけれど、すでに聞く耳を閉じてしまっているため、交感(コミュニオン)できない。 そんな没交渉(ぼっこうしょう)が特徴だ。 いわば“治療不可になった精神分裂症患者”とでも考えておけばいい。 そういう人たちには三つの類型があり、『蒼天の拳』では彼らの流儀をそれぞれ、北斗劉家拳、北斗曹家拳、北斗孫家拳に分け、あわせて北斗三家拳(ほくとさんかけん)と呼んでいる。

北斗神拳と北斗琉拳の源流図
図:布施仁悟(著作権フリー)


これら北斗三家拳の伝承者になる人たちには、運命の挑戦から生まれる痛みや哀しみのすべてを、手っとり早くまぬがれようという魂胆が見え隠している。 それはドラッグを利用して現実から遊離しようという薬物常用者の動機と何ら変わりはなく、運命のカラクリに対するシリアスな洞察力が欠落しているという点まで酷似している。 そのため、あえてドラッグの力を借りずに廃人になった人たち、と定義することもできるだろう。

― 確かに我らの拳は狂気を操る。 しかし、それ故に限界があるのだ。 よいか狂雲…言うなれば…我らの強さは所詮人間の強さ…だから狂気の力さえ借りねばならん。  ―
(by 芒狂雲の師 『蒼天の拳』―「第37話 魔道に落つ!!の巻」より)

ここで取り上げる第三の羅将ハンの北斗孫家拳は、とりわけ狂気によって修羅の道に堕ちていく人たちの流派を指す。 彼らには、厳冬の滝に打たれながら、「冷たくなんかなーいっ!」とヤセ我慢を叫ぶ修験者の荒行みたいなのが格好いいと思っているところがある。 すなわち北斗孫家拳とは、もっぱら密教的行法を頼りに悟りの軌道を走り抜けようとする禅定バカの流儀のことなのだ。 金タコの場合は、こんな感じだった。

金タコの修行感


 読経をしない日はないけども、それだって完全に意味を知って読んでる訳じゃなくて、ただそれに溶け込みたいだけで、読んでいる間に聴いてくれている天や仏がいる気がするし、坐って目を瞑ればすぐ目の前にお不動さんが笑っている気もする。 馬鹿と言われれば本当の馬鹿で間違いないんだけど、そうして点ではなく面で受け取るものも感じてる。

2014年10月の投稿


どうやら何らかの霊験を期待して行じるものが修行だと思っていたらしい。 『蒼天の拳』では、そんな彼らの流儀を北斗孫家拳と呼ぶのである。

金タコの32歳の体験


 ザッと書きますと、4年前に習い始めた内家拳の練功を機に、まず気感を得る―肉食受け付けなくなる―立禅を始める―下腹に強烈な熱感を覚え坐禅にスイッチ。 その後すぐに小周天が廻り、現在までの約2年弱の間は毎日の様に廻し、幽体離脱も4,5回体験したため貴ブログの内容を半ばなぞっているようなかんじなのです。

2014年2月の投稿


金タコのケースでは、32歳で密教的行法をはじめたところ、すぐに小周天ができるようになったそうだ。 私の場合はそういうことはなかったから、当初は体質的に気功の素質のある人がいるのだと考えていたこともある。 けれども、何人かの修行者とやりとりしているうちに、どうやらそういうことではないらしいことが判かってきた。

32歳で密教的行法をはじめると、気道の開拓(アストラル体の形成)が一気に進行する人たちがいる。 そんな彼らに共通していたのが、13歳の厄年で精神年齢が止まっていたことだった。 すなわち彼らは、10-20代で恋と喧嘩のルールを学ぶことなく大人になった人たちで、早くも少年少女時代に人間として生きることをやめていたのである。 幼にして、すでに人生の黄昏どきを迎えていたというわけだ。 そういう人たちが32歳になると、どういうわけか密教的行法に興味を持って実践しはじめる。 すると気道の開拓(アストラル体の形成)が急速に進行して、そのままクンダリニー覚醒に向かっていくのだった。

金タコの37歳の体験〜 クンダリニー覚醒体験 〜


 先日今までにない強烈な体験がありまして、寝際に尾てい骨の先端に濃い気が集中し、そこから感覚的には野球のボール状のものが3〜4回発射され背骨を通り抜け、頭蓋骨の内側を強烈に弾きましたので慌てて頭頂に手をやってみると、頭皮がぶよぶよしており、なんと頭頂が開いておりました。

2014年2月の投稿


32歳から密教的行法をはじめて、だいたい36-37歳頃になると、上記のようなクンダリニー覚醒を体験するというのが彼らの典型的なパターンである。 ここでアストラル体の形成がひとまず完了して、その蓮華回転の影響が肉体に波及しはじめていくらしい。 金タコのケースでは、この37歳のクンダリニー覚醒体験により、北斗孫家拳伝承者となって超感覚的世界に参入していった。

金タコの37歳の体験〜 超感覚的世界の参入体験 〜


 何度も幽体離脱してるうちに気付いたけど腹からはゴムみたいな糸が出てて、それが少しづつ伸縮性を拡張しながら、行動範囲も拡がっていったんだけど、公案って要するにそれ使って別次元から答えを引っ張ってくるもんかと思ってたんだけど。

2014年10月の投稿


この金タコのように、悟りの軌道を最後まで歩みきる前に超感覚的世界に参入するのは、まったく強制的に参加させられる死の行軍みたいなものだ。

― しかし、その会得には死を賭さねばならん…狂気以外にその恐怖に耐える術はない!  ―
(by ギーズ 『蒼天の拳』―「第36話 狂気の果てに!!の巻」より)

どうやら27歳の運命のクロスロードまでの予備段階でつちかわれた潜在的傾向により、32歳で悟りの軌道に入った後から入門する流派が決まるらしい。 たとえば、金タコのように何らかの霊験を期待して行じる密教に憧れる人たちの場合、狂気の人間として死に果てる北斗孫家拳に入門していく現象が見受けられる。

― ふぅー、納得いかないようだね〜。 なら、説明するけどな、孫家拳はいわば闘気を操る拳。 己の気を操り、気の道ともいえる経絡秘孔の位置も自在に変える事は、孫家拳の当然の奥義といえる。  ―
(by 霞拳志郎 『蒼天の拳』―「第38話 野望のための贈り物!!の巻」より)

北斗孫家拳は、北斗三家拳の中で最も気功術に長(た)けている流派で、実際に金タコもそうだった。 けれども、その会得には人間としての死を賭さねばならない。 38歳になった金タコは、息をのむような超感覚的世界に足を踏み入れた反面、愛とロマンを失って、この世を行き惑うことになった。

金タコの38歳の体験


 先日私はクンダリニーであろうと思える物体を見ました。 黄金のタコ状の無脊椎動物に植物を足したような形を持ち触手の先の細かいヒダまでがイヤらしいほど活き活きと金粉を散らしながら動いていました。 肉眼で見る金色が霞む程の深度でビット数が違うんですよ。

2015年9月の投稿


38歳になった金タコは、こういう幻覚をみることが修行の成果だと信じ込む狂気に陥っていたので、もはや私が何を言っても無駄だったのである。 北斗三家拳の伝承者になると、その瞬間に聞く耳を完全に閉じて没交渉になるため、交感(コミュニオン)不可能な精神分裂症患者になってしまうのだ。 どうやら人間の心と衣を捨て去ることが北斗琉拳を極める者たちの共通条件になっているらしい。

― ここでシャチは、人間の心と衣を捨てて、去ったのです。 あの北斗琉拳を極めた時から。  ―
(by レイア 『北斗の拳』―「第171話 君臨せる魔拳!の巻」より)

以下は羅刹シャチの宿星を持っていたボロが、北斗琉拳伝承者になって精神分裂症を発症したときの投稿。 ボロも流派としては北斗孫家拳に近い潜在的傾向を持っていたような気がする。

ボロの精神分裂的投稿


 honnto ni dasaiyo anta

 >『他人の私に責任転嫁したところで何にもならないんだ。』

 責任転嫁したんじゃない、切ったんだよ。 そんなこともわからないのか。 切ったんだよ、自分の中毒的な部分を。 だからあなたとの関係だってもう続けられるわけがない。 もう欺瞞でしかないからね。

 >『私に言われた言葉で、随分と動揺しているみたいですね。 でも、そいつが自我の正体なんです。』 『もし、ユングきどりを続けたいなら勝手にしたらいいでしょう。 ただし、その場合は、精神病院に入院するしかないと思います。』 『それが嫌なら、ちゃんと自我を観て人格を統合しなきゃいけないよ。』

 ユングきどり?ユングのやり方は甘い。

 どれもこれもアンタの言葉はもう何も響いてこない。 自分にご都合な言葉で夢見てろよ。

2014年5月の投稿


ボロの場合は、このとき30代前半で若かったせいなのか、まだ回心する機会が残されていた。 けれども、金タコのように35-37歳の厄年を迎えてから北斗三家拳の伝承者になると、もはや回心する道すら閉ざされてしまうようだ。 そうなったらもう取り付く島がない。 それは、この38歳になったときの金タコの投稿からも想像できるとおもう。

38歳金タコの精神分裂的投稿


 きみ自身が普通に普通の人なんですと言いたいのか。
 シュタイナーなんぞ舶来にいつまですがるか。

 精神の首座は肚だぞ、分裂は頭の中の話だぞ。

2015年2月の投稿


精神の首座が肚にあると主張するのだから、これは確かに狂気としか言いようがないだろう。 38歳の運命のクロスポイントを迎えると、それまでまどろんでいた潜在的傾向が、もはや誰の目にも明らかな決定的傾向になる。 つまり金タコは、みずからの狂気により自分が振りまわされ、なおかつ、他人をも振りまわす運命を歩むことになったということだ。 『蒼天の拳』では、こういう北斗孫家拳伝承者の狂気を狂神魂(きょうしんこん)と呼ぶ。

― 北斗孫家拳・狂神魂。 狂気こそ究極の闘気。 我が拳は己の経絡を操り…その狂気を究極に高めるのだ!!  ―
(by 芒狂雲 『蒼天の拳』―「第35話 狂気の拳!!の巻」より)

金タコをはじめ、北斗三家拳の伝承者たちが求めていたのは、運命のカラクリを解明して人生をまっとうすることではなく、自分の瞑想体験や思考体系に合致した結論であり、それ以外の考え方をまったく受け付けようとしなかった。 彼らの中に消え残る理性らしきものに、いくつかの質問を投げ与え、理屈を並べて説得を試み、倫理をもって訴えかけたところで、まったく不毛なことだった。 彼らが35-37歳の厄年を迎えた時点で、およそ対話をもって治療可能な時期はとうに過ぎていたのである。

― 哀れよのう。 霊王…いや北斗孫家拳の芒狂雲。 お前には…あれが見えるんじゃろ? 死兆星が。
 …命を削り、拳を磨き続けた男よ。 お前のために泣いてやれるのは、この儂(わし)だけじゃ。
 ―
(by 運命の爺 『蒼天の拳』―「第41話 運命の旅!!の巻」より)

もしも彼らが運命に挑戦する勇気を絶やさず、「愛とロマンのあるゴージャスな人生をまっとうしたい」という内在的な衝動に突き動かされていたなら、ちょっと手を差し伸べてやるだけで治療できたのかもしれない。 けれども彼らは、自分の頭の中で作りあげた神話体系のようなものから決して出てこようとはしなかった。

従者の丹田崇拝


 肚・下丹田の感覚を軽視しすぎと思います。
 金タコさんが色々とコメントされていますが、一番言いたい事って、肚・下丹田の事でしょう。 言い方が、結構、挑発的ですが、言いたい事は決して間違っているとは思えません。
 上達の手順って複数あると思うんですよ。 なので、下丹田は後からできてくるタイプの人もいると思います。 ただ、布施さんはすでに上級者でしょうから、そろそろ下丹田の感覚があった方がいいのではないでしょうか。 まして、下丹田から開発するのが安全であるという事は多く聞きますし。

2015年4月の投稿


これは従者が金タコについて評したコメントなのだけれど、彼には金タコの言うことが正論のように聞こえていたらしい。 北斗三家拳の伝承者たちは、東洋では覚者とか正師と呼ばれてきた人たちで、金タコはこれでも、そのレベルの人物たちに相当するのである。 東洋人は西洋人に比べて、こういう話に盲目的なところがあって、この従者のような勘違いをする人が多い。 これは丹田崇拝と言えばいいのだろうか。 こういう東洋の土着的感覚を持っている人にとっては、金タコが正師に見えるようなのである。

私の思考体系はギリシア哲学が土台になっているため、はじめから東洋思想をバカにしているところがある。 そのため、北斗三家拳の伝承者たちを前にしても、「アナタタチハバカデスカ」と疑ってかかれるのだけれど、純血の東洋人は彼らをもっぱら崇拝の対象にしてしまうようだから、プラトンでも読んでギリシア哲学の洗礼を受けておくといいかもしれない。


第二の羅将ヒョウ〜 北斗曹家拳伝承者 〜

第二の羅将ヒョウは、31-33歳の大厄のときにぷっつんする勇気のなかった男のことだ。 彼は『千と千尋の神隠し』における「カオナシ」、『蒼天の拳』では北斗曹家拳(ほくとそうかけん)伝承者の張太炎(ちょうたいえん)という登場人物に相当する。 彼はハンドルネームを「秀兄」と名乗った。 実はこの名前に宿星的由来がある。

― よいか、ヒョウよ! おまえとケンシロウは実の兄弟!
 そして北斗宗家の血をひく男たちなのだ!!
 ―
(by ジュウケイ 『北斗の拳』―「第183話 伝説の血脈!の巻」より)

彼の背負っていた第二の羅将ヒョウの宿星は「ケンシロウの兄」というものだった。 そこで、その宿星的関係を知らせるために「秀兄」と名乗る必要があったらしい。 秀兄の宿星的役割は、私に『北斗の拳』の予言を読み解くきっかけを与えることで、実際、彼のコメントのおかげで、私は『北斗の拳』を再読することになったのである。

秀兄のヒョウ的発言


 布施さんは悲劇の天才になりたいみたいやから、なったらええがな。 北斗の拳のアミバや、銀と金の中条を思い出すわ〜。

2016年1月の投稿


ケンシロウの私に向かってアミバというのは的外れではあったけれど、この投稿がきっかけになって、「秀兄はヒョウの宿星を背負っているのではないか」という仮説を立てることになった。 おそらく、その端緒(たんしょ)がなければ、『北斗の拳』の予言を読み解くことはできなかったとおもう。 私はその再読の過程で自分の背負っている北斗七星の宿星を知ることにもなった。

― [ヒョウ] オレの記憶に何が…何があるというのだ!!
 [ジュウケイ] カイオウを倒す唯一の道! 真の北斗の力を呼び醒ます封印を解く鍵よ!!
 ―
(by ヒョウ&ジュウケイ 『北斗の拳』―「第181話 狂える魔王!の巻」より)

秀兄はヒョウの宿星にしたがって、自分がかつて読んでいた『北斗の拳』の記憶を語り、北斗の封印を解く鍵を私に与えてくれた。 そして、その封印を解いたとき、私は自分のなすべきことが第一の羅将カイオウに相当する人物の宿星を暴くことだと知ったのである。

― どうやらカイオウの居場所を指し示しているようだな。 オレのなすべきことは、すでにみえた!  ―
(by ケンシロウ 『北斗の拳』―「第200話 眠れる愛!の巻」より)

第一の羅将カイオウに相当する人物は、ちょっとオツムに問題のある小乗の覚者で、自分の暗琉天破がどういう弊害を人にもたらすかを想像できない精神分裂症患者だった。 そういう人物がインターネットで説法をはじめたものだから、おバカな東洋の日本人たちが次々に暗琉天破の餌食になっていたのである。 彼の運営していたインターネットサイトの内容は、いわば「ダークサイドの思想書」とでも呼ぶべきものだった。

― 情に縛られ、愛に死す。 それが何になる。すべてはおのれを制し律するもの!! だが悪には一切の制限はない!! 悪こそこの世を制覇するのだ!!  ―
(by カイオウ 『北斗の拳』―「第196話 悪の妄獣!!の巻」より)

彼の教えは「悟った者は自在なのだ。そこに一切の制限はない」というもので、このカイオウの台詞どおり、情愛を捨て去るダークサイドの思想を展開していた。 その教えに対抗する「ライトサイドの思想書」として誕生したのが、この『電脳山 養心寺』の坐禅作法シリーズなのである。 そのため私のホームページやブログは彼のサイト創設後まもなく産声をあげていて、以来、彼の説く小乗の頓悟のアプローチに対抗する大乗の漸悟のアプローチを展開してきた。

ただし、漸悟の階梯は過去に誰も解明したことのないものだったから、私は2500年に渡って築き上げられてきた頓悟の階梯の牙城を切り崩せずにいた。 けれどもその切り札が『北斗の拳』に書かれていたのである。 そして、その切り札のありかを告げる宿星を秀兄が持っていたというわけだ。

― カイオウを倒せるのは、その秘拳のみ!! そして、その秘拳を呼びさますもののありかは…ヒョウ!おまえにのみ伝承されているのだ!!  ―
(by ジュウケイ 『北斗の拳』―「第183話 伝説の血脈!の巻」より)

しかしながら、私が秀兄から北斗の封印を解く鍵を手渡されたとき、彼は北斗曹家拳伝承者になって真の魔人と化してしまった。 それはまさに、以下の『北斗の拳』の予言どおりの展開だった。

― オレに勝てる可能性があるとすれば、ヒョウの記憶を甦らせ、北斗の封印を解いた時のみ!! しかし、ヒョウの破孔をついても、すべて徒労に終ろう!! いや、そのときこそヒョウは真の魔人となろう!!  ―
(by カイオウ 『北斗の拳』―「第185話 ジュウケイ無残!の巻」より)

哀れ秀兄!彼のために泣いてやれるのは、たぶん、この私だけだろう。

37歳秀兄、真の魔人となる


 布施さん、わかりやすい説明ありがとうございます〜。
 せやけど昨日、臍下丹田を見つけてしもたんでん。
 しばらくは邪道で行きますわ(笑)

2016年1月の投稿


秀兄のような北斗曹家拳に入門する人たちは、大乗の教えであるカルマ・ヨーガの優位性をとりあえず認識している。 最終的には修羅の道に堕ちていく人たちだから、情愛を捨て去る剛の拳に手を染めているのだけれど、そのまま袋小路(デッド・エンド)にはまることには躊躇(ちゅうちょ)しているからだ。 そこで曲がりなりにも菩薩の道を目指すので、柔の拳にもちょっぴり手をつけるのである。

― ふっ、なるほどな。 剛の曹家拳がよくぞここまで柔の秘術を磨いたものだ。  ―
(by 霞拳志郎 『蒼天の拳』―「第75話 憎しみの拳!!の巻」より)

北斗曹家拳の彼らは情愛を捨て切らない。 『北斗の拳』の第二の羅将ヒョウが、かつては人間として生きることの痛みや哀しみを背負って生きていた拳士として描かれるのは、そのためだ。

― かつては、あなたも戦うたびに心の中で涙を流していたのだ!!  ―
(by ナガト 『北斗の拳』―「第191話 涙枯れし兄弟!!の巻」より)

つまり、その発想自体はまともな連中なのである。 したがって北斗曹家拳の伝承者は、密教的行法に対する関心や執心が北斗孫家拳伝承者ほどには強くない。 そういう意味では北斗三家拳のなかで北斗神拳に最も近い流派と言えるだろう。 正師・秀爺と従者も、秀兄と同じ北斗曹家拳の門下生だったから、おそらく大乗仏教圏の日本では最大派閥なのだとおもう。

これから秀兄のコメント分析を通して、北斗曹家拳伝承者の特徴を明らかにしていくのだけれど、その前に北斗曹家拳および北斗神拳と北斗劉家拳の違いを整理しておいたほうがいいだろう。

北斗曹家拳および北斗神拳と北斗劉家拳
図:布施仁悟(著作権フリー)


まず、非情の剛の拳のみを徹底的にみがいて仏陀の道から修羅の道に迷うことなく堕ちていく―それが第一の羅将カイオウの北斗劉家拳(ほくとりゅうかけん)である。 一方、非情の剛の拳だけではなく、情愛の正しき発露としての柔の拳も身につけて菩薩の道に向かう―こちらがケンシロウの北斗神拳だ。

そして第二の羅将ヒョウの北斗曹家拳も、北斗神拳と同様、剛の拳と柔の拳をモノにして菩薩の道に進もうとする流派ではある。 けれども彼らは、そもそも聖人の道から仏陀の道へのゲシュタルト転回に失敗しているので、ろくに剛の拳を身につけられないまま修羅の道に堕ちていく。 すなわち、精神が脆弱(ぜいじゃく)で、中途半端な生き方しかできない半竹(はんちく)な連中が北斗曹家拳の門下生になるのである。

このヒョウの台詞は、そんな北斗曹家拳と北斗劉家拳の違いを如実に表現した北斗の拳語録になっている。

― なにゆえオレとカイオウは、この地に残されたのか…オレは脆弱さゆえに!! だがカイオウはちがう!! カイオウはそのあまりに激しき性情ゆえに残された!!  ―
(by ヒョウ 『北斗の拳』―「第209話 執念の業火果つ!の巻」より)

北斗曹家拳伝承者たちが、聖人の道から仏陀の道へのゲシュタルト転回に失敗しているというのは、友人や恋人や両親に足を引っ張られたまま一緒に溺れていることを意味する。 彼らには、ソウルメイトに「おまえはもう、死んでいる…」と告げる修羅場をくぐり抜けてきた経験がない。 そのため、仲良しこよしは何だかあやしい生き方をしていても、ちっとも疑問に思わない傾向がある。

37歳秀兄、仲良しこよしは何だかあやしい発言をする


 私は仕事もしている。生き甲斐もある。
 職場やその他の周りの人達との暖かい交流がある。

 あなたは無職で、家に引きこもっている40過ぎのただのオッサンです。

 人生を転落したことを認められないでいるのは、誰でしょうか???

2015年12月の投稿


大学の卒業証書みたいな紙切れ一枚が人間の証明であるわけがないように、「仕事をしている」とか「生き甲斐がある」とか「職場やその他の周りの人達との暖かい交流がある」ということが人間の証明にはなりえない。

私もかつては、この秀兄の言う世界に住んでいたことがある。 けれどもそこは、より洗練されたスマートなペルソナをいくつも積み重ねなければ生きていけない世界だった。 そういう世界の人生は、ある一線を越えると、空気が重くなり、息が苦しくなり、不思議に煮詰まってしまう。 私はその苦痛を27歳の運命のクロスロードまでにうんざりするほど味わっていた。 だから私は、ペルソナをかぶって自分以外の何かになろうとする間違いを犯し始めた原点を探しはじめた。

<< それが鬼畜の仮面となり果てる前に、すべてのペルソナを脱いでしまおう >>

私は、まったくの自分自身になって、その先に待っている世界で勝負がしたかった。 そのためには、友人や恋人や両親に足を引っ張られたまま一緒に溺れるわけにはいかなかったのである。

― 山奥に住む男の家賃は一万六千円
  働かない 稼がない よく眠る
  それは最強のプロテストなライフスタイルだと思っている
  モノを創ることはやめられるわけがない ―
  (雲のジュウザ・YO-KING『メロディー』(2018)より)

無職で、家に引きこもって、人知れず創造力を磨く。 そんな最もタフなライフスタイルが私の元いた世界に対する抗議(プロテスト)になった。 世間並みの幸せがあるとかないとか、そんなことはどうでもいい。 この先、私が自分自身として生きるためには、それまでかぶってきた偽(いつわ)りのペルソナと真向勝負しなければならなかった。 それは、あくまで自分自身に、負い目をつくらず、スジをとおして、自分なりのやり方でオトシマエをつけられるかどうかの問題だった。

一方、秀兄の精神はあまりに脆弱(ぜいじゃく)だったため、友人や恋人や両親に足を引っ張られたまま一緒に溺れてきてしまっていた。 おそらく31-33歳の大厄を迎えていた彼にも、こんな内なる声が聞こえていたはずだ。 「なあ、おまえだって本当は分かってるんだろう?それが鬼畜の仮面となり果てる前に、ペルソナを脱ぎ捨てるとしたら今しかないんだぜ」。 けれども秀兄には、その内なる声を信じて賭けに出る勇気がなかった。

かくして秀兄には「そのときドアは私の前にも開かれていた」という記憶だけが残った。

33歳秀兄、ペルソナを脱ぎ捨てる機会を逃す


 震災で福島原発事故が起きた時ですね。 私の連れは外国人なんですけど、当然日本から避難しました。 その時に私は真剣に考えた。

 (仕事も何もかも捨てて、一緒に逃げるべきか?)

 でも私は死ぬ事を決意してしまったのです。

 (被曝しようがガンで死のうが、まあ仕方がない)と。

 正に天狗芸術論の(生きるは生きるに任せ、死ぬは死ぬに任せる)という心境です。

2015年12月の投稿


こうしてペルソナを脱ぎ捨てる機会を逃したとき、秀兄はペルソナをかぶり続けて生きなければならなくなった。 内なる声を無視した彼は、修羅の国の掟を破ってしまったのである。

悟りの軌道に入ったところに広がっている修羅の国は、道から外れてはいけないという掟を守っているかぎり危険はない。 多少やんちゃをしても見逃してもらえる。 しかし、いったん掟を破った者は修羅の道に堕ちていくしかなくなるのだ。 そのときから気道の開拓(アストラル体の形成)は急速に進行していく。

34歳秀兄、修羅の道に堕ちていく


 酷いめまいなどの体調不良は、そのあと始まり、36才で遂に死の直前まで追い込まれてしまいました。

 ずっと変だと思ってたんですよね。 悟りの階悌があまりにも簡単すぎるし、適切すぎる。 常に最短ルートを走り抜けてる感覚でした。 あと、人に言えない経験が多過ぎるし。

2015年12月の投稿


内なる声を無視するということは、自分の中から人生の答えを引き出す力を眠らせたままにすることを意味する。 彼はそのせいで、ものごとをよく考えることもせず、思いつくままにバタバタと行動してきてしまったのだろう。 あたかも春先のさかりのついた猫のように。

― おまえの拳は、剛と見せ柔を放つ奇襲の拳…  ―
(by 霞拳志郎 『蒼天の拳』―「第77話 忘れ得ぬ痛み!!の巻」より)

そういう歳月は床にこぼしたコーヒーと同じで、38歳の運命のクロスポイントを迎える頃には、どんなに手を尽くしても、もとどおりにはできなくなっているものだ。 そこには剛の拳も柔の拳もろく身につけられなかった半竹な男が立っていた。 それが北斗曹家拳伝承者・秀兄誕生の瞬間であった。

― ただ、惜しいな…憎しみの拳では、北斗神拳を越えることはできない。  ―
(by 霞拳志郎 『蒼天の拳』―「第75話 憎しみの拳!!の巻」より)

秀兄のかぶり続けたペルソナは、いつしか彼の本当の顔になっていた。 空気が重くなり、息が苦しくなり、不思議に煮詰まってしまう…そんな運命の越えてはならない一線をいつのまにか越えてしまっていたのだ。 おかげで秀兄の性格は歪み、自分のあるべきはずだった人生を歩んでいる相手に、憎しみや嫉妬をぶつけることしかできない男になっていた。

38歳秀兄、性格が歪む


 布施さんもちょっとはましになったかなと、励ましにきただけなんだがな〜。 やっぱり相変わらず、口先だけか。 布施さんは

 (早稲田を出たけど、落ちぶれてしまった。まわりの人達みたいに人並みの幸せな生活ができていない、現在も)

 結局、この客観的事実は認められない訳だ。

2016年8月の投稿


ペルソナに顔を乗っ取られた秀兄は、いまや自分以外の何かとして生きることしかできない。 そのため、ペルソナを脱ぎ捨てて自分自身として堂々と生きている相手を前にすると、劣等感を刺激されてしまうのである。 そうなると薬物常用者のように情緒不安定になるから、しつこいくらい反目(はんもく)することをやめられない。 それが「まわりの人達みたいに人並みの幸せな生活」なのだと彼は言った。

― 俺の拳は汚れすぎたか…。 復讐のために鬼畜の仮面をかぶったつもりが…いつしかそれが本当の顔となり果てたか…  ―
(by 張太炎 『蒼天の拳』―「第77話 忘れ得ぬ痛み!!の巻」より)

彼のペルソナは、ついに鬼畜の仮面と成り果てた。 つまるところ、愛とロマンのある人生に対する秘められた憧憬をひた隠し、にこやかに微笑んでみているだけだから、「ヤッホー!本当の幸せ教えてよ」と呼びかけてみれば、矛盾を含んだ遠いこだまが返ってくる。

37歳秀兄、矛盾を含んだ遠いこだまを返す


 実は今でも精神世界とかそれほど興味がないんですよ。 体をなんとかしたくてヨーガとか始めた訳で、(クンダリニーって何ぞや?)って調べたらここに来た。

 臍下丹田が活性化して健康になればそれで充分。 運勢が良い悪いなんて、知ったこっちゃないんです!

 今現在で全てが足りている。 過不足なし。 問題があってもそれはそれで良し!なんです。

 でも天職の事になると、ついつい夢みちゃうよね〜(笑)

2016年1月の投稿


この秀兄のコメントは北斗三家拳を伝承している者たちの詭弁(きべん)を集約していると言えるだろう。

「臍下丹田が活性化して健康になればそれで充分」
「運勢が良い悪いなんて、知ったこっちゃないんです! 」
「今現在で全てが足りている。過不足なし。問題があってもそれはそれで良し!」

愛とロマンに彷徨している彼らは、こう考えることで自分が幸せであると納得するしかないのである。 これこそ、小乗の覚者たちが2500年間に渡って退廃的な教義を生み出してきた動機なのだ。

従者・黒夜叉の遊昇凄舞


 秀兄さん、1点だけ。

 (早稲田を出たけど、落ちぶれてしまった。まわりの人達みたいに人並みの幸せな生活ができていない、現在も)

 とありますが、禅者・求道者とは、まさに、この「普通の道筋」を捨てて、「自身の道筋」に向かうというのものです。 これは武禅ライフで布施さん自身の言葉、他者からの引用でたくさん言っている事です。

 布施さんにとって、そのような事は、どうでもいいことなんですよ。

2016年8月の投稿


これは従者が秀兄を諭(さと)したときの投稿。 ちょうど『北斗の拳』の黒夜叉が使った遊昇凄舞(ゆうしょうせいぶ)という秘拳にあたるもので、これがまさしく、北斗琉拳伝承者の暗琉天破をやぶる秘術なのだ。

― 暗琉天破の及ぶ範囲は狭い! ゆえに空間を乱れ飛び、実体を滅し、敵を砕破(さいは)するわが秘拳には無効の奥義よ。  ―
(by 黒夜叉 『北斗の拳』―「第193話 凄血散る!の巻」より)

北斗琉拳の伝承者たちは、自分と同じ潜在的傾向を持っている人間を惹きつけて暗琉天破の餌食にする。 そのため、暗琉天破の影響力は特定の個人にしか及ばない。 つまり、そもそも秀兄と違う潜在的傾向を持っていた従者には、秀兄の暗琉天破は通じなかったというわけである。

― 北斗琉拳の伝承者たちは、おまえなどに力を与えない! 北斗琉拳は滅亡すべき拳なのだ!!  ―
(by 黒夜叉 『北斗の拳』―「第192話 琉拳の墓場!!の巻」より)

少なくとも従者は「ペルソナを脱いで自分自身として堂々と生きること」の価値を知っていた。 そういう意味で彼は、秀兄と同じ北斗曹家拳の門下生でありながらも特殊な位置にいたのだ。 このとき従者は、ペルソナを脱ぎ捨てた私の道を「自身の道筋」と呼び、ペルソナを脱ぎ捨てなかった秀兄の「普通の道筋」と区別してみせた。

― 魔界に入りし北斗宗家の血を断つのがわたしの役目。 そしてジュウケイ様との盟約!!
 ではお見せしましょう。 暗琉天破を破る秘拳を!!
 ―
(by 黒夜叉 『北斗の拳』―「第193話 凄血散る!の巻」より)

『北斗の拳』の予言よると、従者は修羅の道に堕ちた同門の秀兄に引導を渡す役割を持っていたらしい。 上記の遊昇凄舞のコメントは、その宿星にしたがって投稿してきたものだったのである。 この引導に対する秀兄の返答がこういうものだった。

38歳秀兄の現実逃避宣言


 布施さんの場合は「普通の道筋」から逃避しているのが問題なんですよ。

 「あの時のボクは正しかったんだ」っていう自分を慰める言葉ばかりでしょ。 他人の経典や歌を引き合いにだして、「やっぱりボクは正しいんだ」と。

 そんな事しなくたって自分はいつでも正しいさ、現実を直視できていれば。

2016年8月の投稿


このとき秀兄は、従者から引導を渡されたことにも気づかず、ペルソナをかぶって自分以外の何かになろうとしてきた現実を直視しようともしなかった。 これはあまりに長い年月、「仕事をしている」とか「生き甲斐がある」とか「職場やその他の周りの人達との暖かい交流がある」などの言い訳を並べて、自分の中途半端な生き様を慰めてきたせいだ。 すなわちこれは「僕のまぶたの裏側にある幸せを邪魔しないでくれる?」という現実逃避の最終宣言だったのである。

― しかし、オレはその時…すべてが手遅れだと悟った…。 今まで、とりかえしのつかぬことをしていたと…  ―
(by ヒョウ 『北斗の拳』―「第196話 悪の妄獣!!の巻」より)

トウモロコシやタケノコみたいなものは、もぎたてや掘りたてをその場で調理してかぶりつくのが絶好で、そうしなければガタガタに味が落ちる。 人生の味わいも、それと同じことだ。 そのとき、毛の先ほどしかない絶好の好機を見分けるためには、よほど肝が据わってなければいけない。 秀兄のような小心翼々(しょうしんよくよく)たる性格では、人生の勝機をつかむことなど、できるわけがないのだ。


第一の羅将カイオウ〜 北斗劉家拳伝承者 〜

第一の羅将カイオウは、仮面と鎧に身を包んだ魔神として登場してくる修羅の国の黒幕。 こうした『北斗の拳』の覆面キャラクターには、ほかに北斗四兄弟の三男ジャギや慈母星のユリアがいるのだけれど、いずれも正体を知るまでに少し時間のかかるソウルメイトになっていた。 やはりカイオウに相当する人物も、そんなシークレット・キャラクターの一人だったのである。 彼は修羅の魔道に堕ちた小乗の覚者だったので、ハンドルネームは「魔羅和尚(まらおしょう)」にしておこう。

第一の羅将カイオウは、『蒼天の拳』では北斗劉家拳(ほくとりゅうかけん)伝承者の劉宗武(りゅうそうぶ)という登場人物に相当する。 非情の剛の拳のみを徹底的にみがく北斗劉家拳は、仏陀たちが歩む修羅の道の隠喩(メタファー)だ。 すくなくとも半竹な男では極めることができないから、北斗孫家拳や北斗曹家拳よりは少しばかり上等な流儀といえる。 そのため『蒼天の拳』では、この流派が北斗琉拳の本家という設定になっていた。

― 北斗劉家拳は、別名を北斗琉拳と呼んだ。  ―
(原哲夫 武論尊監修『蒼天の拳』―「第138話 北斗の門の掟!!の巻」より)

魔羅和尚の運営するインターネットサイトを発見したのは、40歳を迎ようとしていた2014年の新春のこと。 彼は、正真正銘、悟りをひらいた仏陀だった。 仏陀の頓悟も菩薩の漸悟も、愛に彷徨しているか否かの違いがあるだけで、どちらも同じ悟りである。 そもそも当時の私は小乗の覚者である仏陀と大乗の覚者である菩薩の区別もつかなかった。 そのため、そこにあった文章を読み始めた途端、心底たまげて弟子入り志願のコメントまで書き込んだものである。

けれどもその後、一年くらいかけて読み込んでいくうちに、斜めに傾いた壁掛け時計を眺めるような違和感を覚えるようになっていった。 魔羅和尚は、「覚醒に至るまでのカリキュラムは厳密に定められている」という私の立場とは正反対で、そんなものはないと言い切るのである。 おかげで私は小乗の覚者の頓悟と大乗の覚者の漸悟の相違を意識せざるをえなくなっていった。

とりあえず37歳から迷い込んだ創造の病の出口を探していた私にとって、魔羅和尚の説法はまったく役に立たなかった。 彼は悟りの軌道の途中で頓悟して袋小路(デッド・エンド)にはまった人物なので、その先にある創造の病を体験したことがなく、そもそも悟りの軌道の存在すら認識していなかったからである。 それでも魔羅和尚の語録を一年間精読したおかげで、小乗の覚者たちは、大乗の覚者の歩む漸悟の階梯をまったく理解しえないことを知った。

私はこうした頓悟の階梯と漸悟の階梯の違いを、各家庭に各家庭の流儀のカレーライスの味とレシピが確立されているようなものだと思っていた。 だいたい隣の家のカレーライスの味に文句をつけるやつはいない。 それは単なる流儀の違いで、カレーライスはカレーライス、悟りは悟りじゃないか、というわけだ。 それにその時点では、魔羅和尚が私の家のカレーライスの味に喧嘩を売ってくることもなかった。 そこには情状酌量の余地があったのだ。 私は御赦免(ごしゃめん)という我が国のうるわしき伝統にしたがい、「この一件、かまいなし」という大岡裁きをしておくことにした。

悟りをひらいた魔羅和尚がそんな調子だったため、大乗の漸悟の階梯を説く覚者なんか何処にもいないのだとおもった。 以来、私は師の助言を求めて探しまわることをやめた。 わが師は内なる師、ガイドは妙法蓮華経―たった一人で大乗の漸悟の階梯を解明することが私の生きる道と決めた。 誰ひとり先達がいないとあれば、霊安室のようにそれらしく沈鬱(ちんうつ)なところでちんまり坐っていたほうが、それなりに居心地がよかったりする。 そこに荘厳なミサ曲でも流れていればなおよい…。

しかし、2017年2月、その静寂を破る男が現れた。

魔羅和尚の部下ギョウコ登場


 ボクは布施さんのブログを、とても興味を持って観ていました。

 だけど、なにかコメントをしてみるの、怖かったんです。 「精神異常」でしたっけ? なんか、軌道をはずれると、キチOOになるとか、ニーチェですか。 とても敷居が高かかったんです。 怖くてね。

 で、魔羅和尚サマに、このブログはどうなのでしょうか、とメールしたんです。 そのご返事を従者さんにだけは、お伝えしたくて、おじゃましたんです。

 ワタシの意見では、ないんです。 魔羅和尚サマのワタシにたいする返事だけなんですよ。 それを従者さんに伝えただけなんです。

 ワタシは、いまも布施さんが正しいのか、わからないんです。 軌道に乗っているのかもわからないんです。

 従者さんに書いたのも、43歳でファンタジーですか、小説ですか、をお書きになるというので、43歳、今年の3月ですね。 それまでは、静観しましょう、ということだけだったのです。 「否定的意見」ではないのです。

 ワタシはわからないのです。

2017年2月の投稿


この投稿のあった2017年2月は、42歳の私が神隠しの世界の最終試験を透過したとき。 それは暗琉天破の餌食になって修羅の国に取り残されることに決まった修行者たちに、「おまえはもう、死んでいる…」と引導を渡す試練だった。 その最終試験を透過すると、いよいよ神隠しの世界から元の世界に戻るトンネルの前に立つことになる。 彼はそのとき引導を渡したうちの一人だった。

この投稿者は『北斗の拳』におけるギョウコという登場人物で、カイオウの指示に絶対的に従っているわけではないのだけれど、カイオウに与(くみ)したためにケンシロウの怒りを買う男として描かれる。 彼は魔羅和尚なんかにメール相談したせいで、暗琉天破の餌食になって帰ってきたのだ。 私が坐禅作法シリーズを書きはじめた頃からの読者で、ずいぶん長いあいだ励まし続けてきたのに、最後の最後になって魔羅和尚に寝返ったというわけである。 しかも従者まで道伴(づ)れにしようとした。 とにかく頭にきた私は、ほとんど乱心状態で「おまえは発達障害だ!」と支離滅裂な罵倒をしてしまった。 それもどうやら、『北斗の拳』の予言では想定内の展開だったらしい。

― オレは今日まで、きさまらは降りかかる火の粉だと思って払ってきた。 だが…これからはちがう。 カイオウに与(くみ)する者は、このオレみずから戦いほうむってやる!!
 ブタヤロウ!!
 ―
(by ケンシロウ 『北斗の拳』―「第190話 両雄たつ!の巻」より)

こんな感じでケンシロウ様もご乱心あそばすのである。 そもそも彼は「2017年3月まで静観しましょう」などと悠長なことを言っていられる時節にはなく、この数ヶ月前に「そろそろ回心しないと取り返しのつかないことになっちゃうぞ」と私から最終警告を受けていた。

死神の子の最終警告


 いま回心を起こさなかったら、また30代と同じように時節を取り逃がしちゃうよ。

 なんか口うるさくて申し訳ないんだけど、私は31-33歳の大厄のとき、バディたちにこういうことを何も言ってやれなくてね、心のこりになってるの。

 悪いんだけど、どうか、そんな思い察してほしい。

2016年10月の投稿


北斗神拳伝承者は死神の子だ。 そのため、相手に人間としての“死の時節”が近づいていることが分かってしまう。 それで、ときどきこういう最終警告を言い渡すことがあるのだ。 というのも、そのまま死の時節を迎えてしまったら、「おまえの人生の宝物は永遠に埋もれてしまった」と告げなければならなくなるからだ。 死神の子がここまで語ることは滅多にないことで、これはもう情報提供というより、むしろ、督促状のようなものだった。

けれどもこうした最終警告は、ほとんどの場合、反故(ほご)にされてしまう。 そのあと決まって、正師・秀爺や秀兄や魔羅和尚といった北斗琉拳伝承者の暗琉天破の餌食になっていくのだ。 そんな修行者たちに引導を渡したのが、2017年2月における神隠しの世界の最終試験だった。

やりきれなかった。 とりわけ魔羅和尚については私の方で用心して手加減しておいた人物である。 そいつが肝心なところでギョウコの脚を引っ張りやがったのだ。 こんなことになる前に、万物の霊長たるホモ・サピエンスの尊厳にかけて、魔羅和尚は圧倒的偏見を持って論破しておくべきだったのかもしれない。 とはいえ、玲瓏(れいろう)玉のごとき人格者きどりの私としては、そもそも喧嘩を売られていなかった以上、荒事(あらごと)に及ぶ理由がなかった。

従者の告白


 申し上げにくいんですけど、あのメッセージって、

 「布施さんを信用するな、あの人は大したことはない」

 というニュアンスのもので、それに対する私の回答は、

 「全面肯定はできないが、やっぱりすごいと思う」

 というものだったんですけど。

2017年2月の投稿


けれども従者が教えてくれていた。 魔羅和尚は、私の北斗神拳を評して、「大したことはない」とギョウコに返答していたらしい。 き…きさま、小乗の覚者の分際(ぶんざい)で…

― 誰に文句言ってんだ? 北斗神拳の文句は俺に言ええっ!!  ―
(by 霞拳志郎 『蒼天の拳』―「第73話 執念の秘拳!!の巻」より)

これは、いわゆる道場破りというやつだ。 ギョウコの一件に関しては、自分のところの舎弟を鉄砲玉にされて、逆さまに命を狙われたようなものである。 話はまったく穏やかじゃない。 それに北斗神拳をずいぶん安く見てくれたものだとおもう。 ここでオトシマエをつけておかなければ、シメシがつかないだろう。 それは荒事に及ぶには十分な理由だった。

― 許さぬぞ、カイオウ!!  ―
(by ケンシロウ 『北斗の拳』―「第201話 哀しき聖塔!の巻」より)

以上が、これから魔羅和尚を論破する大義名分である。 そもそも最初に喧嘩をふっかけてきたのはアチラだから、これで“おあいこ”なのだ。 あいにく売られた喧嘩を買わないというしきたりは、わが北斗神拳の道場にはなかった。 あとはコチラの好きなようにさせてもらおう。

『北斗の拳』シリーズでは、魔羅和尚は北斗劉家拳伝承者ということになるのだけれど、それは正真正銘の仏陀のことだ。 仏陀の代表である釈迦の悟りは、東洋ではアインシュタインのE=mc2みたいに神秘化され、盲目的に信仰されてきた。 そのため魔羅和尚のような北斗劉家拳伝承者の暗琉天破が最もタチが悪く、ギョウコのように簡単に餌食になる修行者が後を絶たない。 そうならないためにも、仏陀たちのトンマな生態をよく理解しておくといいだろう。

結論から言うと、魔羅和尚は『千と千尋の神隠し』の「湯婆婆(ゆばーば)」に相当する人物だった。 すなわち彼は、私が神隠しの世界から元の世界に戻るにあたって、最後に立ちはだかる“ラスト・ボス”だったのである。

― 私は湯婆婆と話をつけて弟子をやめる。 平気さ、本当の名を取り戻したから。 元の世界に私も戻るよ。  ―
(by ハク 海のリハク・宮崎駿『千と千尋の神隠し』より)

この『千と千尋の神隠し』のハクの台詞は、神隠しの世界から元の世界に戻るトンネルの前に立ったときに、満たさなければならない二つの条件を教えていた。

神隠しの世界(修羅の国)脱出の条件
図:布施仁悟(著作権フリー)


私は2017年2月に神隠しの世界の最終試験を終えて、翌月に43歳の誕生日を迎えたあたりから、この二つの条件を満たす方法を探しはじめた。

そして44歳で迎えた2018年10月、その答えが『北斗の拳』と『蒼天の拳』に書かれていることを知った。 そのとき、私の「本当の名」はケンシロウであり、魔羅和尚が「湯婆婆」だと判明したのである。 さらに「話をつけて弟子をやめる」とは、魔羅和尚に「おまえはもう、死んでいる…」と告げて引導を渡す儀式を通過することだとも知った。 『蒼天の拳』において、その儀式はこう呼ばれている。
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私が真の北斗神拳伝承者となるには、この天授の儀を果たさなければならない。 そのときはじめて天賦の才を授けられるということだった。 これが、私が魔羅和尚を論破しようとしているもう一つの理由である。

― 北斗神拳の伝承者は、北斗劉家拳の伝承者と聖母像の御前で闘い、それに勝利せねば真の伝承者と呼ばれない。
 その時、聖母像は、北斗神拳の秘奥義を伝授する。 そう言い伝えられておるからじゃ。
 ―
(by 胡潤 『蒼天の拳』―「第202話 天授の儀!!の巻」より)

神隠しの世界―すなわち悟りの軌道を抜けて元の世界に戻る出口に、どうして天授の儀などというものが待ち受けているのか。 それは少し説明が必要だろう。

― かつて、この国が滅亡の危機にみまわれた時には、おそるべき救世主があらわれたという!! その力は一瞬にして悪鬼どもを焼きつくし、その様は、まさに神のみがなせる奇跡以外にはなく、人々はその男を神とあがめた!! その男たちこそ、まさに北斗神拳の伝承者であったのだ!!  ―
(by カイオウ 『北斗の拳』―「第181話 狂える魔王!の巻」より)

そもそも人類がホモ・サピエンスの本分を忘れずに天帝の声にしたがっている時代は、仏陀の道から菩薩の道へのゲシュタルト転回を起こす北斗神拳は秘匿(ひとく)され続ける。 わざわざ大乗の覚者である菩薩が世に出るまでもないからだ。 そういう時代は、将星サウザー・米津玄師のように悪魔と取引して天賦の才を手にする南斗聖拳の伝承者たちが天帝の声を聞き伝えればよい。

けれども現代のように、人類がネアンデルタール化して天帝の声を聞こうとしない時代になると、南斗聖拳の伝承者たちが27歳の運命のクロスロードを乗り越えようとしなくなる。 すると、南斗乱れるとき北斗現る…というわけで、北斗神拳の奥義書が妙法蓮華経として編纂されはじめる。 そこに書かれている天帝の声を聴いたホモ・サピエンスの子供の中から北斗神拳伝承者が選ばれ、愛を説くために世に出てくるというわけだ。 それが大乗の覚者―菩薩である。

また、あらゆるものごとには反証となる存在がつきものだ。 たとえば善の証明には反証的存在としての悪の証明が必要であるように、大乗の覚者である菩薩の証明には、小乗の覚者である仏陀の証明を反証として必要とする。 したがって菩薩が大乗の教えを説きはじめるとき、その優位性を立証するためには、小乗の教えを説く仏陀も存在しなければならない。 このあたりのことを蒼天の拳語録で要約すると、こういう感じになる。

― 北斗は北斗を呼び、相争いてその拳を錬磨す…。 これは乱世来るたびに繰り返される逃れ得ぬ宿命!!  ―
(原哲夫 武論尊監修『蒼天の拳』―「第74話 蒼き北斗の星!!の巻」より)

そこで、私が北斗神拳伝承者になる大乗の道を説きはじめたとき、ほぼ時を同じくして、魔羅和尚が北斗琉拳≒北斗劉家拳の伝承者になる小乗の道を説きはじめたというわけである。

北斗の各流派とゲシュタルト転回
図:布施仁悟(著作権フリー)


そもそも小乗の覚者の仏陀たちは、悟りの軌道の途中で頓悟して修羅の道に堕ちた連中なので、悟りの軌道を歩みきった大乗の覚者の菩薩と較べると、とても導師とは呼べない段階にいる。 しかしながら、菩薩だって当初は仏陀の道を歩むことになるわけで、聖人の道から仏陀の道へのゲシュタルト転回を起こす北斗宗家の拳の伝授にかぎれば、仏陀にも指導的役割を果たせなくはない。 つまり菩薩なき時代の埋め草としてなら仏陀も活躍することができるのだ。

この仏陀と菩薩の関係性を、蒼天の拳語録ではこう説明している。

― 北斗神拳に伝承者出ずば北斗劉家拳からこれを出す。それが北斗の掟!  ―
(by 運命の爺 『蒼天の拳』―「第131話 最強への執念!!の巻」より)

そういうわけで仏陀は菩薩の前にひれ伏すことが宿命づけられているのだ。 もとより悲しき屑星(くずぼし)の宿星を背負っているのである。 すなわち彼らは、天授の儀において菩薩から引導を渡され、愛を説く大乗の覚者にとってかわられるためにのみ存在している。

こうした仏陀たちの宿命を表現している北斗の拳語録が、このユリアの台詞だろう。

― ラオウは自分が愛を持つ者に倒され、とってかわられる事を願っていたのでは…わたしには、そんな気がしてなりません。  ―
(by ユリア 『北斗の拳』―「第136話 さらば強敵よ!の巻」より)

問題は、こうした屑星の宿星をわきまえずに暴走する仏陀が存在することだ。 いわば“屑のなかの屑”としか言いようのない仏陀たちである。 『北斗の拳』では、第一の羅将カイオウがそんな屑のなかの屑で、北斗の長兄ラオウとは対称的な兄弟として描かれていた。

この対称関係は『千と千尋の神隠し』の銭婆(ぜにーば)と湯婆婆(ゆばーば)の姉妹関係にも踏襲(とうしゅう)されていて、姉の銭婆の方は、ツインレイの男女が神隠しの世界で再会して愛を知ったところで身を引く魔女として描かれる。

― 白竜、あなたのしたことはもう咎めません。 そのかわり、その子をしっかり守るんだよ。  ―
(by 銭婆 海のリハク・宮崎駿『千と千尋の神隠し』より)

一方、引き際をわきまえず、神隠しの世界から元の世界に戻れないように意地悪するのが妹の湯婆婆だ。

― [ハク] 湯婆婆様、約束です! 千尋と両親を人間の世界に戻してください!
 [湯婆婆] フン! そう簡単にはいかないよ、世の中には決まりというものがあるんだ!
 ―
(by ハク&湯婆婆 海のリハク・宮崎駿『千と千尋の神隠し』より)

この対称的兄弟(姉妹)関係を図示するとこんな感じになるだろうか。

仏陀の屑星度比較
図:布施仁悟(著作権フリー)


カイオウや湯婆婆のような意地のわるい仏陀には、桜の花びらのように、儚(はかな)く、美しく、艶(あで)やかに散る潔(いさぎよ)さがない。 そういう引き際の美学を知らない無粋(ぶすい)な仏陀が魔羅和尚だったというわけである。

以下のQ&Aは、そんな無粋な仏陀の生態がよくわかる対話になっている。

無粋な仏陀の生態研究1〜 仏陀と菩薩の関係性についての対話 〜


[生態研究者の質問]

 「菩薩の誓願」のような大乗の仏教説話では、究極の涅槃の戸口に達した修行者が、あえてその戸口をまたごうとせず、菩薩道を歩むために俗世に戻ってしまいます。 どうやら大乗では…

 「悟りをひらく力がありながら、あえて衆生救済の道を選んだ者」

 が菩薩とされ、そのような遠回りをすることが正道ということになっているようです。

 そうしますと…最初に菩薩の誓願を起こさずに、究極の涅槃の戸口をまたいで悟る―という近道を選んだ者は菩薩ということにはなりませんから、こういう図式が成り立ちます。

 あえて衆生救済の道を選んだ者=菩薩
 究極の涅槃の戸口をまたいで悟ってしまった者=仏陀

 仏陀は菩薩として衆生救済の道をゆくことができるものなのでしょうか?


[魔羅和尚の回答]

 できるのじゃ。
 菩薩もいずれは悟るものじゃ。
 誓願がかなう状況になれば仏陀になるのじゃ。
 衆生も済度できるのじゃ。

2018年11月の対話


この対話からは、魔羅和尚が「菩薩の道の最後に仏陀の悟りがある」と勘違いしていることがわかる。 すなわち、仏陀と菩薩の優劣を逆さまに認識して己れの器を過大評価しているのだ。

これは悟りの軌道の途中で頓悟してしまったことから生じる勘違いで、仏陀の道から菩薩の道へのゲシュタルト転回の存在自体を知らないために起こるものだ。 修羅の道に堕ちたところにある仏陀の悟りがゴールだと思い込んでいるため、愛とロマンを失なって彷徨しているにもかかわらず、「運命の挑戦よりも悟りが先決」というゴタクを並べてしまう。 彼らが引き際の美学を解さない根本原因は、こうしたところにあるようだ。

そのため菩薩の道をゆく私からみれば、魔羅和尚というのは、仏陀の悟りの優位性を立証するために躍起になっているデマゴーグ(煽動的指導者)としてしか映らなかったのである。 その様子はまるきり、このカイオウのようだった。

― だが同等の力を持ちながら、北斗琉拳はその歴史から抹殺されてきた。 一八〇〇年の長きにわたり、魔道と虐(しいた)げられてきたのだ!!
 しかし、その屈辱の歴史もわが代で終わる!! よいか!この北斗琉拳のカイオウこそ、新世紀の創造主となろう!!
 ―
(by カイオウ 『北斗の拳』―「第181話 狂える魔王!の巻」より)

おまけに魔羅和尚は「まだ神が残っているかぎり大悟徹底ではないのだ」と主張するまでになっていた。 つまり、以下のカイオウの台詞そのままに、天帝や自分より格上の菩薩に向かって唾を吐くことも厭(いと)わなくなっていたのである。

― リン!天帝の子よ! 北斗神拳の死を見届けよ!!  ―
(by カイオウ 『北斗の拳』―「第181話 狂える魔王!の巻」より)

釈迦もそうだったようだけれど、修羅の道に堕ちた仏陀たちは、誰の意見も聞き入れようとしない没交渉がその性質になる。 自分が最高の境地に達したと勘違いしているため、狭量で非寛容な人間になるからだ。 仏陀の悟りは彼らに救いようのない無感覚をもたらし、自分の暗琉天破がどのような暴力的影響を他人に及ぼすかを想像することすらできなくなる。

彼らはやがて神をも喰らう魔神となって暴走をはじめる。 しかもその暴走をみずから止めることもできなくなっていくのだ。 たとえば、ケンシロウがラオウについて語ったこの台詞のように。

― 拳ではオレをしのぐラオウすら、神を超えることはできなかったのだ。
 ラオウは知っていたのだ。 最後に人を救うものは、暴力ではなく愛であることを。 そして…もはや、おのれの暴走をとめることができぬことも!!
 だ…だから、その暴走をとめるために、やつはこの拳の前にみずから倒れることを望んだのだ!!
 ―
(by ケンシロウ 『北斗の拳』―「第234話 覇王の影!の巻」より)

それはもう“ネアンデルタール化の極致(きょくち)”と言っていいものだろう。 まったくのところ、魔羅和尚は人類―ホモ・サピエンスとして生きることをやめてしまっていたのである。 そんな自分の宿命の意味も知らず、虚無に彷徨っていた北斗三家拳の伝承者たち(金タコ、秀兄、魔羅和尚)の暴走を諫(いさ)めること。 それが北斗神拳伝承者である私の使命だった。

― 狂雲…太炎…宗武…皆、あなたと闘うことが誇り。 あなたこそが救いの光なのです。
 さぁ、その光で強く抱くのです。 彷徨う北斗の宿命たちを!
 ―
(by 美福庵主 『蒼天の拳』―「第223話 幼子の魂へ…!!の巻」より)

これが天授の儀の存在理由であり、私がどうしても魔羅和尚を論破しなければならない理由でもある。

矢印マーク アルケミスト 夢を旅した少年 (角川文庫)


 1988年作品

 27歳の運命のクロスロードの旅立ちに!
 ― 自分の運命を実現することは人間の唯一の責任なのだ ―


魔羅和尚が北斗劉家拳に入門することになった理由は、北斗孫家拳の金タコや北斗曹家拳の秀兄とまったく同じ。 自分の天命に背を向けたまま、悟りの軌道に入ったからである。

― ここでは仕事を持たない者は湯婆婆に動物にされてしまう。 嫌だとか帰りたいとか言わせるように仕向けてくるけど「働きたい」とだけ言うんだ。 つらくても耐えて機会を待つんだよ。 そうすれば湯婆婆も手が出せない。  ―
(by ハク 海のリハク・宮崎駿『千と千尋の神隠し』より)

神隠しの世界―すなわち修羅の国のたったひとつの掟は、元の世界で手にしてきたすべてをふり捨てて、何の技能も手づるもないくせに、「天命を果たしたい!」とアホみたいに叫び続けることだ。 この掟を守っているかぎり危険はない。 しかし、ひとたび掟を破ると、引き返す価値のある俗世の場所―やるべきことの続き―を見失ない、碇(いかり)をなくした幽霊船のように帰る港を探して彷徨い出す。 金タコや秀兄や魔羅和尚のような北斗三家拳の伝承者たちが、修羅の道に堕ちる軌道に乗ったのは、その時なのだ。

とりわけ魔羅和尚みたいに北斗劉家拳の門下に入る人たちは、北斗孫家拳や北斗曹家拳の門下生と違って、天命に対する未練がまったくない。 なので誰よりも真っ直ぐに天命から逃げ出す。 やがて天命から逃げ出した先に、世界にたったひとつの身を隠せる場所―袋小路(デッド・エンド)を見つけて、そこにとどまる。 彼らは、そうやって愛とロマンを下草のあいだで腐らせることに迷いはないのだ。 すなわち仏陀たちが説いてきたのは、「自分の天命に背を向けて、<生>への執着を捨て去れ」ということだったのである。

― だが生への執着を捨てたおまえの拳は、どこか投げやりな隙があった。  ―
(by ヤサカ 『蒼天の拳』―「第209話 怨讐の先に…!!の巻」より)

それゆえ、自分の天命から逃げ出さなかった人なら、彼らの言動の中に「どこか投げやりな隙(すき)」を見つけられるはずだ。 その隙が見えたとき、仏陀の智慧は案外底が浅い、ということに気づくだろう。 それはすなわち、自分の天命から逃げ出そうとしなければ、彼らの暗琉天破に打ち勝てるということだ。

(『アルケミスト』にみる)暗琉天破を破る秘拳


 自分の運命を実現することは人間の唯一の責任なのだ。

パウロ・コエーリョ『アルケミスト』P.29 アルケミスト1


これは『アルケミスト』(1988)という小説にある暗琉天破を破る秘拳。 著者のパウロ・コエーリョは1947年生まれで、村上春樹やスティーヴン・キングと同世代の天才作家だ。 『アルケミスト』はスーフィーの物語のような小説で、私はそこに書かれてある通りに生きてきた男である。 ここから先は、この小説をテキストにして話を進めてみようとおもう。

『アルケミスト』にある通り、自分の運命を実現することが人間の唯一の責任である。 けれども人の心は、15-16歳の思春期で三障の闇に呑み込まれた途端に、自分の運命から逃げ出しはじめてしまう。 魔羅和尚のような仏陀たちの教えは、そうした人の心の弱さを餌食にして、2500年に渡り生き延びてきた。 すなわち彼らの教えの実態は、この破孔(はこう)を突くことにあったのである。
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これは、あらゆる人に青春の後ろ姿を忘れさせ、自分が誰を愛し、何をなすべきかを思い出せなくさせる破孔だ。

― 北斗琉拳・死環白!!
 フ…この破孔を突かれし人間は、その目の光とともに、一切の情愛を失うのだ!! フフフ…そして、その目が再び開かれたとき、最初に目の前に立つ人間に、その情愛のすべてを捧げるであろう!! たとえそれがどんな小悪党、汚れきった下郎であってもだ!!
 フフフ!!わかったかリンよ!
 いかに愛が愚かで脆いものか!! 悪こそが情愛を支配翻弄できるのだ!!
 ―
(by カイオウ 『北斗の拳』―「第200話 眠れる愛!の巻」より)

悟りの軌道本来の存在理由は、誰かに本当に愛されたり、求められたりした記憶を取り戻すことにある。 自分のやるべきことの続きもそこに見つかるものだ。 つまり、それは愛とロマンを手にして元の世界に帰還するために存在するのであり、人間として生きようとしている人々の脚を引っ張る修羅になるために存在するのではない。

魔羅和尚のような仏陀たちの教えがひとり歩きして暴走をはじめたために、東洋のあちこちに変てこな歪(ひず)みが生まれてきた。 そして今日のような狂乱の時代がやってきたのである。 いろんなものごとを、あるべきかたちに戻すべき時がきているのだろう。

見届けよ、禅者諸君。 これが暗琉天破をやぶる死神の子の秘拳…北斗神拳究極奥義・蒼龍天羅だ!

― この世を生きることを愛する者の邪魔はさせない。 遊ぶのなら、あの世で遊べってことだ。  ―
(by 霞拳志郎 『蒼天の拳』―「第150話 屈辱の掟!!の巻」より)

無粋な仏陀の生態研究2〜 引導を渡す前の最終警告をめぐる対話 〜


[生態研究者の質問]

 おいらは羊男。 札幌の「いるかホテル」に住んでる最強の菩薩一族の末弟なのさ。 魔羅和尚さんみたいな仏陀が暴走を始める前に引導を渡すのが家業なんだ。 おかげで、いつしか「仏陀キラー」の称号を与えられるようになっちゃった。 おいらとしては「死神ファミリー」とでも呼んで欲しいんだけどね。

 ― 仏陀は菩薩を呼び、相争いてその智慧を練磨す… ―

 これは乱世来るたびに繰り返されてる逃れえぬ宿命なんだ。

 なぜだか分かるかい?

 自分に衆生を導く力がつくまで悟らないと誓った菩薩が世に出て行こうとするとき、 仏陀と智慧競べをする試練が待ってる。 菩薩はその勝負に打ち勝ったときにようやく悟れるんだ。 でも、この勝負で菩薩が仏陀に負けたことはない。

 魔羅和尚さんみたいな仏陀は、みんな大きな勘違いをしてるんだ。

 菩薩道を経て悟った者の衆生を導く力と菩薩道を歩まずに悟った者の衆生を導く力には、圧倒的な差がある。 それは智慧の差じゃない。 経験の差なんだ。 それに、この経験は悟った後からじゃ取り戻せない。 だから大乗の教えが生まれたんだよ。

 魔羅和尚さんは登校拒否をしていただけなのに中学校の卒業証書をもらったようなものでね。 仏陀の道について書かれた小乗の経典は完璧に読みこなしてるんだけど、菩薩の道について書かれた大乗の経典はさっぱり読めてない。

 それにね、真実の大乗の経典というのは「妙法蓮華経」と言ってね。 文字になってないんだ。 それは聴こえる人にしか聴こえない経典になってる。 魔羅和尚さんはその経典を聴く耳を持ってなかったから菩薩の道から外れちゃったんだよ。

 そういう人たちが仏陀の道に入る。

 そのうち、おいらにも魔羅和尚さんに引導を渡さなきゃいけない時がやって来る。 おいらね、魔羅和尚さんの説法大好きなんだ。 だから本当はやりたくないんだけど、宿命には逆らえないんだよね。 まったく因果な一族の下に生まれちまったもんだと思うよ。

 ― 智慧競べに敗れても、ただ、その巡り逢いを天に謝する ―

 それが仏陀と菩薩の智慧競べの掟さ。

 魔羅和尚さんのこの仕事は次の時代の夜明けがくるまでだ。 後はおいらが引き受けてやるから、そのときに引導を渡しにいくよ。 それまで悔いのないようにやるといい。 おいらは魔羅和尚さんみたいな骨のある仏陀と智慧競べできたことを光栄に思ってるのさ。

 それでは、いずれ、また。


[魔羅和尚の回答]

 ハルキストじゃな。
 妄想に耽っていないで実践するのじゃ。
 実践がすべてなのじゃ。

2018年11月の対話


いきなり引導を渡すのではなく、事前に最終警告を申し渡しておく。 それが死神の子の作法だ。 これはギョウコの場合と同じく、魔羅和尚に督促状を送ったときの対話である。 私が彼のソウルメイトであること、これから天授の儀をはじめる旨、彼には妙法蓮華経を読む能力が欠落していること、彼の背負っている仏陀の宿命…そうしたことが懇切丁寧に説明されていたのに、魔羅和尚はまともに取り合おうとしなかった。

私が彼に伝えたことは、机上の空論でも、ヘリクツでもなく、もちろん、妄想でもない。 あまり一般には知られていないことだけれど、すべて妙法蓮華経に書かれていたことだ。 こうしたことはイスラムでは、こう呼ばれている。

(『アルケミスト』にみる) マクタブ [またはメクトゥブ]


 「マクタブ」と商人が最後に言った。

 「それは、どういう意味ですか?」

 「これがわかるためには、アラブ人に生れなければならないよ」と彼が答えた。 「しかし、おまえの国の言葉でいえば、『それは書かれている』というような意味さ」

パウロ・コエーリョ『アルケミスト』P.72 アルケミスト2


マクタブ…それは書かれている。 イスラムでは、個人の生涯から世界の歴史に至るまでのすべてが書かれた「アラーの書」なるものが存在すると信じられている。 ときどきそれを読む責任のある人たちが理解できるように、『北斗の拳』のような預言書がスピンオフされて広まっていくこともあるのだ。 それが妙法蓮華経である。

それを読み解くためには、かつては誰もが理解できたのに、今はもう忘れられてしまった『宇宙のことば』を学ばなければならない。

(『アルケミスト』にみる) 宇宙のことば―バベル語


 「人生に起こるすべてが前兆なんだよ」とイギリス人は読んでいた雑誌を閉じながら言った。 「誰もが理解できたのに、今はもう忘れられてしまった『宇宙のことば』があるんだ。 僕はその『宇宙のことば』を探しているんだよ。 僕がここにいるのはそのためだ。 僕は『宇宙のことば』を知っている人をみつけなければならないんだ。 錬金術師をね」

パウロ・コエーリョ『アルケミスト』P.85 アルケミスト2


ここで語られている『宇宙のことば』とは、坐禅作法シリーズでバベル語と呼んできたものだ。 それは<全体>と交感(コミュニオン)するための言葉で、妙法蓮華経もこのバベル語で書かれているし、運命の前兆もバベル語で説かれている。 魔羅和尚はバベル語を学んだことがなかったので、私の言っていることが妄想としか思えなかったのだ。 おかげで彼は、せっかく目の前に現れた“前兆”を見逃すことになったのである。

私が魔羅和尚に対して投げた最終警告は、まもなく宿星を終えるソウルメイトと真剣勝負の喧嘩をはじめる前の果たし状。 『北斗の拳』ではこう呼ばれている。
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私は魔羅和尚に引導を渡せば、それで釈放(パイ)だった。 あとは快哉(かいさい)を叫んでアカンベエするだけでよかったのである。 けれども彼は、私に引導を渡された時点でカイオウとしての宿星を終えることが決まっていたから、それではあまりに無粋だと思えてきたのだ。 そこで、もしも彼が知らなければ取り返しのつかないことになるアラーの書の予言を詰め込んで果たし状を送った。 そこに、こんな意味を込めて。

「なあ、魔羅和尚。どうせやるなら、フェアにやろうぜ!」

たとえ喧嘩に敗れても、ただ、その巡り逢いを天に謝する…北斗天帰掌は宿星にしたがって対決するソウルメイト同士の誓いの儀式なのだ。 それは男同士の喧嘩のルールでもある。

― 北斗天帰掌。 もしあやまって相手の拳に倒れようとも、相手を怨(うら)まず、悔いを残さず、天に帰るという誓いの儀礼!  ―
(by ゼンギョウ 『北斗の拳』―「第99話 捨てえぬ心の巻」より)

この北斗天帰掌に対する魔羅和尚の返礼は、情けないほど無粋なものだった。 相手が自分の宿星に関わることを語っているのか、それとも自分の宿星から遠くはなれたことを語っているのか。 そうしたソウルメイトのもたらすサインを感知するためには、<全体>と交感(コミュニオン)する言葉を知らなければならない。 ところが魔羅和尚は、運命の前兆や人間関係の縁から逃げ出して、<全体>と交感しようとしてこなかった。 そのため、運命のサインを認識するセンスが磨かれていなかったのである。

それがよくわかる対話を挙げておこう。

無粋な仏陀の生態研究3〜 ソウルメイトの認識をめぐる対話 〜


[生態研究者の質問]

 魔羅和尚さまが、悟りの道を志す以前に、相棒といいますか、朋友といいますか、自分と同じ道を歩もうとしていると考えられる親友みたいな存在はいましたか? どうやら私には、そういう存在がいるように思えてならないのです。


[魔羅和尚の回答]

 そのような者はいなかったのじゃ。

2018年11月の対話


私には義星のレイをはじめとする南斗六星のソウルメイトやぷっつんレディたちがいた。 彼らが道案内の役割を果たして、私を悟りの軌道に導いてくれたのである。 その出口に差しかかるところには、私のツインレイである慈母星のユリアも待っていて、彼女が愛を教えてくれた。 ところが魔羅和尚には、そうしたソウルメイトを認識する能力自体が欠落していたのである。

これはおそらく、「運命の爺(うんめいのじい)」との遭遇に失敗していたからだろう。

(『アルケミスト』にみる) 運命の爺との遭遇


 「わしはセイラムの王様さ」とその老人は言っていた。

 「どうして王様が羊飼いの僕と話をするのですか?」と、少年は当惑しながらたずねた。

 「いくつかの理由がある。しかし一番重要なのは、おまえが自分の運命を発見したということだ」

 少年は人の「運命」がどういうものかわからなかった。

 「おまえがいつもやりとげたいと思ってきたことだよ。 誰でも若い時は自分の運命を知っているものなのだ」

パウロ・コエーリョ『アルケミスト』P.28 アルケミスト1


運命の爺は自分の運命を発見したときに、こんな感じで現れる。 時節としては「19になる直前の勇気」を試されたあと、自分の運命をとり戻そうとした人たちが19歳のときに遭遇するのだ。 『蒼天の拳』に描かれている運命の爺の場合は、こんな風に登場してきた。

― お主(ぬし)…何とも不思議な相だわい。 読めぬ…お主の運命が。
 よいかの、確かに世の宿命というものは…変えられん。 じゃが、人の運命は変えられる…いささかの術を知っておればのホホホッ。
 そしてお前は自在に運命を変えていく相をしておる…だから読めんと言うておるのだ。
 ―
(by 運命の爺 『蒼天の拳』―「第29話 龍に問え!!の巻」より)

人は15-16歳の思春期を迎えると、三障の闇に呑まれて自分以外の何かになろうとしはじめる。 そこから自分の運命をとり戻す挑戦をはじめるのが17-19歳の厄年なのだ。 この時節を、三障の闇に抵抗してもがきながら過ごした人は、三年目の19歳後厄を迎える直前に最初の勇気を試される。 そこで自分の運命に挑戦する意志を見せると、運命の歯車が切り替わりはじめるわけだ。 運命の爺はそのときにやってくる。

(『アルケミスト』にみる) 運命の爺の役割


 「まだ若い頃は、すべてがはっきりしていて、すべてが可能だ。 夢を見ることも、自分の人生に起こってほしいすべてのことにあこがれることも、恐れない。 ところが、時がたつうちに、不思議な力が、自分の運命を実現することは不可能だと、彼らに思い込ませ始めるのだ。
 その力は否定的なもののように見えるが、実際は、運命をどのように実現すべきかおまえに示してくれる。 そしておまえの魂と意志を準備させる」

パウロ・コエーリョ『アルケミスト』P.28-29 アルケミスト1


運命の爺は、自分の運命をどのように実現すべきかを示して、来たるべき時のために魂と意志を準備させてくれる。 イスラムのスーフィーの物語では、彼は緑色の魔人ハディルとして擬人化されているけれど、それがどんな形で現れるかは時と場合で違ってくる。 その存在があまり知られていないのはそのためだろう。

(『アルケミスト』にみる) 運命の爺の姿


 「あなたはなぜこのようなことを僕に話すのですか?」

 「それは、おまえが運命を実現しようとしているからだよ。 それに、今、もう少しですべてをあきらめようとしているからだ」

 「あなたはそういう時にいつも現れるのですか?」

 「いつもこうだとは限らないが、わしは必ずいろいろな形で現れるのだ。 時には一つの解決法とか、良い考えとなって現れることもある。 別の時には、危機一髪という時に、ものごとを起こりやすくしてあげることもある。 もっと他のこともいろいろとしているが、ほとんどの場合、人はわしがやってあげたということに気がつかないのだよ」

パウロ・コエーリョ『アルケミスト』P.30-31 アルケミスト1


その運命の爺が19歳のときに与えてくれる贈り物は、『蒼天の拳』ではこう呼ばれている。
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それは運命のサインを読めなくなったときに羅針盤の役割を果たすもの。 運命の分かれ道に立ったとき、どちらに行くべきかを自分で決める力は、運命の爺から羅龍盤を授かった人だけが持っている。

― ホヤ、ホヤッ。 そんな途方に暮れた顔をするな。 これを持っていけ。
 羅龍盤じゃ。
 道に迷う時、この龍に是非で問え!! 是なら表、非なら裏が出る。
 ―
(by 運命の爺 『蒼天の拳』―「第29話 龍に問え!!の巻」より)

この羅龍盤は、『アルケミスト』でウリムとトムミムという水晶石で象徴されているのと同じものだ。

(『アルケミスト』にみる) 羅龍盤―ウリムとトムミム


 「これを持っていきなさい」と老人は胸あての中央にうめこまれていた、白い石と黒い石をさし出して言った。 「これはウリムとトムミムと呼ばれるものだ。 黒は『はい』を意味し、白は『いいえ』を意味する。 おまえが前兆を読めなくなった時、この石が助けてくれる。 いつも『はい』と『いいえ』で答えられる質問をするようにしなさい。
 しかし、できれば自分で決めるように努力しなさい」

パウロ・コエーリョ『アルケミスト』P.38 アルケミスト1


この羅龍盤―ウリムとトムミムは、私にとっては矢沢永吉激論集『成りあがり』だった。 人生にあらわれる運命のサインを読めなくなった時、20代の私はいつも『成りあがり』に是非を訊ねてきた。 矢沢永吉は、20代の自分がどのように運命の前兆を見つけて、どのような選択をしてきたかを詳細に語っていたからだ。

彼は自分の背中でこういうことを教えてくれていたのである。

(『アルケミスト』にみる) 矢沢の教え1〜 前兆に従うこと 〜


 「宝物を見つけるためには、前兆に従って行かなくてはならない。 神様は誰にでも行く道を用意していて下さるものだ。 神様がおまえのために残してくれた前兆を、読んでゆくだけでいいのだ」

パウロ・コエーリョ『アルケミスト』P.37 アルケミスト1


この運命の前兆を見つけることは、真っ白な雪原にカラスを見つけるくらい簡単なことだ。 そのため運命の前兆を見つけた経験を尋ねれば、誰でも語ることができる。 しかしながら、どうやって運命の前兆に応えたのかを語れる人は、滅多にいない。

それは誰もが羅龍盤を持っているわけではないからだ。 運命の爺が現れるのは運命の歯車が切り替わったとき。 そのとき彼は、自分の運命を実現しようとしている人の前にのみ現れて、羅龍盤を授ける。 そのため、運命の爺に遭遇したことのない人たちは羅龍盤を持っていない。 そもそも彼らは、運命の歯車が切り替わっていないので、運命の前兆を見つけても、それに応えることができないのだ。

しかし、矢沢永吉というのは羅龍盤を持ってる男だった。 だから私は、運命の前兆に応える方法を『成りあがり』から学ぶことができたのである。

(『アルケミスト』にみる) 矢沢の教え2〜 前兆に応えること 〜


 「幸運が自分の側にある時は、それを利用しなくてはいけません。 そして、それが私たちを助けてくれるうちに、できるだけのことをしなくてはなりません。 それを幸運の原則と呼びます。 あるいは初心者のつきとも言います」

パウロ・コエーリョ『アルケミスト』P.65-66 アルケミスト2


私はその『成りあがり』に運命の爺からの二つめの贈り物を見つけた。 矢沢永吉が愛読書として挙げていたデール・カーネギーの『人を動かす』である。 これは人間の生態研究の本で、人間の精神構造を分析して、人間関係の仕組みを理解するためのテキストだった。 この贈り物は、『蒼天の拳』では、こんな風に描かれている。

― よいかの、運命を変えるのは縁じゃ。 強く念じれば良き縁と出会うのじゃ。
 わしもずっと念じておった。 北斗の者と出会う縁を。
 北斗の者よ、良き運命の旅を。
 ―
(by 運命の爺 『蒼天の拳』―「第29話 龍に問え!の巻」より)

「運命の前兆を読み、人間関係の縁を活かすのじゃ」…それが運命の爺の教えだったのである。 この二つの贈り物をバイブルにして、私は20代を駆け抜けた。

『十九歳の地図』 〜 運命の爺からの贈り物 〜
矢印マーク 『成りあがり How to be BIG―矢沢永吉激論集』


[社会的アイデンティティの喪失のために]

10代・20代を正しく歩むためのバイブル
10代・20代の諸君!
人生には時節というものがある
おそらく「聖書」や「経典」を読むのはまだ早い
まず これを読んで来たるべきときに備えよう

矢印マーク 『人を動かす 新装版』


[人間関係の仕組みの理解のために]

小手先の処世術だと思ったらしっぺ返しを喰らうだろう
化けの皮は剥がれるものと相場が決まっている
この本を活かすにはもうひと越え必要なのだ


運命の前兆を読み、人間関係の縁を活かす…振り返れば、基本的にそれしかやってこなかったような気がする。 それが密かに私の歩みの大筋になっていた意味を、ここで言い添えておく必要があるだろう。

まず運命の前兆を読むことは、<全体>と交感(コミュニオン)する言葉を学ぶことだった。 運命の前兆は<全体>のメッセージを運んできてくれる。 そのため、運命の前兆に応えていけばいくほど、<全体>と交感するための言葉が磨かれていくのだ。

(『アルケミスト』にみる) <全体>と交感するための言葉


 しかし、羊はもっと重要なことを彼に教えてくれた。 それはこの世には、誰もが理解する一つのことばがあるということだった。 少年が店でものごとをもっとよくしようと思った時、ずっと使っていたことばだった。 それは熱中するということばであり、愛と目的をもってものごとを達成するということばであり、信じていることや、望んでいることを追求するということばでもあった。

パウロ・コエーリョ『アルケミスト』P.76 アルケミスト2


この<全体>と交感する言葉を知らなかったために、高校生の私はツインレイの彼女と出会っても、それを愛と認めることができなかった。 けれども42歳になって再会したときには、「愛」という言葉をひとことも発しなくても、それを愛だと確信できるようになっていた。 それは<全体>と交感する言葉を互いに話すようになっていたからだ。

<< 世の中にボクと同じ言葉を話す人がいる… >>

そんな印象を私に抱かせたのは彼女がはじめてだったのである。 しかもその言葉は、<全体>のメッセージを運んでくる運命の前兆と同じ言葉で成り立っていた。

「あなた同窓会なんかに出てくるタイプじゃないでしょ。で、どうして来たわけ?」
「あなたに、絶対出てくるのよ、って言われたからですよ。ボクはあなたに呼ばれたから来たんです」

こんな何気ない会話を交わすときにも、愛はこう語りかけていたのだ。

「思い出してごらんなさい。 だって私はそこにいたのよ。 私はあなたたちのとなりにいて、あなたたちをずっと見ていた」

愛は乾いた心の肌に、いくつもの風紋のようなぬくもりを残している。 そんな運命の前兆の集積が愛を確信するための証拠となるのだ。 愛は<全体>からやってくる。

(『アルケミスト』にみる) 運命の前兆と<全体>の愛


 僕は夢を見た。 そして王様に出会った。 クリスタルを売って、砂漠を横断した。 そして、部族同士が戦争を始めたので、僕は錬金術師を探しに井戸へ行った。 こうして全宇宙が共謀して、僕を助けて君に会わせたのだ。 だから、僕は君を愛している。

パウロ・コエーリョ『アルケミスト』P.147 アルケミスト2


だから、運命の前兆を読んで応えていかないと、<全体>と交感(コミュニオン)する言葉を認識する能力が欠落し、愛を知ることもできなくなってしまうのだ。 魔羅和尚が妙法蓮華経の意味を知らなかったのも同じ理由である。

また人間関係の縁を活かすことは、自分自身を知ることだった。 <全体>は個人の潜在的傾向から宿星を決定して人間関係を構築している。 そこにはドラマツルギーの原理があるので、自分の存在意義や存在価値というものも、人間同士の相関関係(かかわりあい)の中に浮かび上がってくるものなのだ。 そのため、自他の潜在的傾向やめぐり逢いの宿星的意味を理解して呑み込んだとき、自分自身を知ることにもなる。

この仕組みをドイツの哲学者ヘーゲルは「自己意識の確立」と呼んでいた。

― 人間は、ただ単に自己と客体を離ればなれに認識するだけではなく、媒介としての客体に自己を投射することによって、行為的に、自己をより深く理解することができる。  ―
(ヘーゲルの自己意識の確立)

この定義だけを読むと難しく感じるかもしれない。 けれども、言っていることは、そんな大それたことではないのだ。

たとえば、将星サウザー・米津玄師は典型的な“飛べる豚”だった。 そのため“飛べない豚”として運命の挑戦をはじめた私とは正反対の潜在的傾向を持っていた人物といえる。 しかも、彼が伝承したフォークの帝王・阿久悠の才能の油田は、私が伝承しているニューミュージックの帝王・井上陽水の才能の油田とは対極にある。 すなわち私が逆立ちしてもできないことを彼はやれるのだ。 そういう宿星を持った人物に、嫉妬や羨望などの諸々の感情を抱かないわけがない。

そのため、私が彼の潜在的傾向と宿星を理解しようとしたら、私の中にある嫉妬や羨望と向き合わなければならなくなる。 けれども、そういう作業をするからこそ、自分の潜在的傾向や宿星をより深く理解することにもなるのだ。 これがヘーゲルの言う「媒介としての客体に自己を投射する」ということである。 そして自他の潜在的傾向やめぐり逢いの宿星的意味を理解して呑みこんだら、心は静まっていく。 嫉妬や羨望を生み出すカラクリを暴かれてしまったら、心は静まるしかないからだ。 それが「行為的に、自己をより深く理解する」ことの意義である。

このヘーゲルの「自己意識の確立」は、坐禅作法シリーズで自我暴露と呼んできたのと同じものだ。 このあたりのことを、北斗の拳語録ではこう説明している。

― 北斗神拳は一戦した敵の実体はすべて体得してしまう拳法!!  ―
(by リン 『北斗の拳』―「第194話 よみがえる凄血!の巻」より)

私の心随観の真髄は、ソウルメイトの実体のすべて―すなわち相手の潜在的傾向や宿星を理解し、自我暴露を通して自己意識を確立することにあった。 とくに米津玄師や魔羅和尚といった自分と対極に位置するソウルメイトは最強の強敵(とも)だった。 なぜなら彼らは、私の心が最も激しく嫉妬や羨望を生み出す相手だからだ。 けれども、その実体を理解して体得すると、自分の心が嫉妬や羨望を生み出すカラクリがわかる。 そのとき、自分の心に不意の反逆を起こされることはなくなるのだ。

(『アルケミスト』にみる) 心随観の真髄〜 心の不意の反逆への対処 〜


 「なぜ、僕の心に耳を傾けなくてはならないのですか?」

 「なぜならば、心を黙らせることはできないからだ。 たとえおまえが心の言うことを聞かなかった振りをしても、それはおまえの中にいつもいて、おまえが人生や世界をどう考えているか、くり返し言い続けるものだ」

 「たとえ、ぼくに反逆したとしても、聞かねばならないのですか?」

 「反逆とは、思いがけずやって来るものだ。 もしおまえが自分の心をよく知っていれば、心はおまえに反逆することはできない。 なぜならば、おまえは心の夢と望みを知り、それにどう対処すればいいか、知っているからだ。
 おまえは自分の心から、決して逃げることはできない。 だから、心が言わねばならないことを聞いた方がいい。 そうすれば、不意の反逆を恐れずにすむ」

パウロ・コエーリョ『アルケミスト』P.155-156 アルケミスト2


自分の最大の敵は自分の心である。 けれども、自分の心が不意の反逆をしなくなったとき、心は最大の味方になってくれる。 そのためには、自分と対極に位置する最強の強敵(とも)と巡り逢い、その縁を活用しなければならない。 以下のケンシロウとカイオウの台詞は、このカラクリを物語っている。

― [ケンシロウ] 惜しむらくは今日までのおまえは井の中の蛙(かわず)!! おのれより強い男と戦ったことがなかった! だがオレは、オレより強い男達の戦場を生き抜いて来た!!
 [カイオウ] フ…強き男達の戦場…。 うぬぬ、ほ…北斗神拳であるがゆえに、その男達を凌駕したというのか!!
 ―
(by ケンシロウ&カイオウ 『北斗の拳』―「第208話 戦場の凄拳!の巻」より)

魔羅和尚は、ギョウコから私のサイトを紹介されていたにもかかわらず、自分と対極の道をゆく私の実体を理解しようとしなかった。 そればかりか、「大したことはない」と一蹴して拒絶することを選択した。 彼は<全体>と交感(コミュニオン)する言葉を学んでこなかったので、ギョウコの運んだ<全体>のメッセージを読み取れなかったのである。

― カイオウの下(もと)へつれて帰れ。 そして伝えるのだ。 このオレに二度の敗北はないと!!  ―
(by ケンシロウ 『北斗の拳』―「第190話 両雄たつ!の巻」より)

ギョウコは、こういう<全体>のメッセージを魔羅和尚に運んでいたのだ。 別の見方をすれば、彼は私と魔羅和尚のあいだに喧嘩の火種をもたらす宿星を持っていたといえる。 魔羅和尚は、その運命の前兆を読んで応えることをしなかったため、私に先を越されてしまったのである。

― [カイオウ] 教えてくれ。 も…もし、オレが北斗神拳を身につけていたら…
 [ケンシロウ] オレがこの場に倒れていたかもしれぬ。
 ―
(by カイオウ&ケンシロウ 『北斗の拳』―「第210話 さらば愛しき者たちよ!の巻」より)

以下は、私と魔羅和尚の心随観の違いがよく分かる対話になっている。

無粋な仏陀の生態研究4〜 心随観をめぐる対話 〜


[生態研究者の質問]

 観察についての質問です。

 親友たちを観察して彼らが投げてくる感情や言動の原因を理解できるようにするのがよいのか、それとも、親友たちに対する愛着は自分の孤独や不安から起こるものであり逃避に過ぎないものだと自己完結する観察がよいのか?

 親友たちが投げてくる感情や言動を受け止めるのは、なかなか骨が折れます。何か言ってあげたいと思っても言葉が出てこなかったりして立ち往生することもしばしばで。 そういう「何か言ってあげたい」というのも親友たちに対する愛着なんだろうか…なんて考えたりもします。


[魔羅和尚の回答]

 観察とは全てありのままに観ることなのじゃ。

 他人の言動は見なくてよいのじゃ。自らの心をありのままに観てそれが愛着であり、逃避であると気付いたならば捨てるがよいのじゃ。
 お釈迦様もよい友とだけ付き合うようにといっているのじゃ。 悪い友は捨ててよいのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

2018年11月の対話


「他人の言動は見なくてよいのじゃ」と語っていることから、魔羅和尚が自己意識を確立できていない理由が分かる。 彼は人間関係の縁を活かしてこなかったため、自我を暴露したことがないのだ。 彼の言っている観察は、とても「観」と呼べるようなものではなく、まぶた裏側に閉じこもる「止」の域を出ていない。 単なるサマタ瞑想なのである。 そんなことを続けていたら、自分の存在意義や存在価値が判るようになるわけがない。 そのため、自分の仏陀としての宿命もわきまえず虚無に彷徨ってしまう。 それが北斗劉家拳伝承者の特徴だ。

― 師父よ、許せ!! 宿命の意味も知らず、虚無に彷徨ったこの俺を!!  ―
(by 劉宗武 『蒼天の拳』―「第204話 伝承者の素顔!!の巻」より)

では、なぜ彼はこんな無粋な男になってしまったのか。 それはすべて「17-19歳の厄年のときに自分の運命を実現しようとしなかったから」という点に帰する。 彼にとって人間として生きる歳月はあまり重要な要素ではなく、「大人になりたくない」と言っていた少年時代のまま永遠に留まっていることが重要だったのかもしれない。 愛とロマンの待っている自分の運命を実現しようとして、挑戦と危機と不安定の中に飛び込むことは、心が最も苦しむことだからだ。

(『アルケミスト』にみる) 愛とロマンと心の苦しみ


 「なぜ、人の心は夢を追い続けろと言わないのですか?」と少年は錬金術師にたずねた。

 「それが心を最も苦しませることだからだ。 そして心は苦しみたくないのだ」

パウロ・コエーリョ『アルケミスト』P.158 アルケミスト2


北斗劉家拳伝承者たちは「世の中は苦しみだらけだ」と思っている。 釈迦もやはり、「四苦八苦」などと言って、世の中は苦しみばかりだと説いていた。 彼らにしてみれば、愛とロマンを追い求めることは、心を苦しめるだけの愚かな行為であり、ありえないことなのである。

その理由は、『アルケミスト』でこのように説明されている。

(『アルケミスト』にみる) 釈迦はなぜ四苦八苦を説いたのか?


 「地球上のすべての人にはその人を待っている宝物があるのです」と彼の心は言った。

 「私たち人の心は、こうした宝物については、めったに語りません。 人はもはや、宝物を探しに行きたがらないからです。 私たちは子供たちにだけ、その宝物のことを話します。 そのあと、私たちは、人生をそれ自身の方向へ、それ自身の宿命へと、進んでゆかせます。
 しかし不幸なことに、ごくわずかの人しか、彼らのために用意された道―彼らの運命と幸せへの道を進もうとしません。 ほとんどの人は、世界を恐ろしい場所だと思っています。 そして、そう思うことによって、世界は本当に恐ろしい場所に変わってしまうのです。
 ですから、私たち人の心は、ますます小声でささやくようになります。 私たちは決して沈黙することはありませんが、私たちの言葉が聞こえないように望み始めるのです。 自分の心に従わないばかりに、人々が苦しむのを、私達は見たくないからです」

パウロ・コエーリョ『アルケミスト』P.158 アルケミスト2


もしも心の声を聴き続けたなら、天が仕掛けた罠と言おうか、たとえただでは終わらせてくれない結末が待っていようと、<< 愛とロマンを追いかけるように求められている >>という予感なり、感触なりを、振るい落とすことはどうしてもできなくなる。 北斗劉家拳の伝承者たちは、その心の声が永遠に聴こえない世界を求めて旅に出た人たちなのだ。 それが彼らの説く「この世から苦しみをなくす方法」なのである。 彼らは心の声が聴こえない世界を安らぎと呼び、どこにも通じていない曲がりくねった回廊を延々と歩き続ける後日談のような人生を福楽と言ってきた。

魔羅和尚もやはり、不公平や不運、それから誤解と無理解、そして傷つけあうことの痛みと哀しみ…そうしたことに直面することを避けられない<生>の苦しみに怯えている傾向があり、それを巧妙にひた隠していた。 以下の対話からは、顔面にかすかな筋肉のひきつりが浮かぶのを自制心で押し殺しているのが見受けられるだろう。

無粋な仏陀の生態研究5〜 四苦八苦をめぐる対話 〜


[生態研究者の質問]

 私は愛する人と離れなければならない愛別離苦(あいべつりく)であれ、憎む人と会わなければならない怨憎会苦(おんぞうえく)であれ、どちらの体験からも背を向けたことがありません。

 いつでも真向勝負なのであります。

 「愛する人と会うな」「愛する人をつくるな」と言われても、人と会って付き合わなきゃいけない状況だってありますから、いつのまにか愛着を持ってることもありますでしょう?

 もちろん、喧嘩したり、憎んだり、嫌われたりもしました。

 でも、不思議なもので、いつでも真向勝負してると、いつのまにか人間関係うまくまわっていくもんです。 なので、よい友だちとだけ付き合うつもりもなかったし、悪い友だちを捨てるようなこともなく過ごしてきたんですよね。

 自然に近づいて、自然に離れて…という感じでしょうか。

 おかげで、それが「苦」だという感覚がさっぱり分かりません。 なんだか、お釈迦様の言ってたことって、現実から目を背けているだけのような気がして。 なんて言うのかな…「子供っぽい」んですよね。


[魔羅和尚の回答]

 修行のためにならない友と離れると善いのじゃ。
 悪に染まっている友と離れるのじゃ。
 福楽と悟りを求める者のための教えなのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

2018年12月の対話


北斗神拳伝承者の強敵(とも)には、修行のためにならない友も、悪に染まっている友もない。 自分の心を最大の味方にするために、その心を拾い刻まねばならぬ相手だから強敵(とも)なのだ。 こらっ、魔羅和尚、人生なめてんじゃねえぞ。

― [カイオウ] もはや拾おうとしてもオレの心は拾えぬ!!
 [ケンシロウ] だが…だが拾わねばならぬ!!
 ―
(by カイオウ&ケンシロウ 『北斗の拳』―「第204話 覇王の遺言!の巻」より)

心の声を捨てて生きている仏陀たちの流儀にしたがうと、罪無くして配所の月を眺めるような人生を風流などと呼ぶようになる。 そういうオツな人生には、けっして流行りすたりはないだろうから、釈迦みたいな放浪のプリンスきどりで、深山幽谷(しんざんゆうこく)に遊んでいるつもりになってみるのもよろしかろう。 これくらい脅かしておけば、あとは諸君の勝手である。

― フフ…心を捨てた男と、心を刻んだ男か!! どちらの拳がまさっているか。 血ヘドの中で知るがいいわ!!  ―
(by カイオウ 『北斗の拳』―「第203話 訣別の鮮血!の巻」より)

青雲水

『愛をとりもどせ!』を聴きながら

緑雲水

少年時代…私は何になりたいのか分からなかった。

十五歳のとき…私は私になりたいと考え、それが宿願となった。

そして四十五歳…私は第64代北斗神拳伝承者ケンシロウになった!?

漫画の中から飛び出してきたような奇怪千万な人生を歩んだ結果、最後になって、このようなありうべからざる体験談を語ることになってしまった。 この『北斗の拳』の解読にあたっては、精神錯乱的な連想と解釈を展開しなければならなかったわけで、一体、誰のために何のために書いているのか、途中で自分でもよく分からなくなった。 もしも読んでいる人がいるなら、これは「神秘主義的態度に裏打ちされた科学的発見」または「偏執狂的批判メソッドに基づく体系的客観化」とでも考えてもらいたい。 とはいえ、この『北斗の拳』の解読は、シャンポリオンの古代エジプト象形文字の解読のように偉大な達成とみなされることは絶対ないとおもう。

私は第64代北斗神拳伝承者ケンシロウである…というのは、自分でも書いててバカらしくなってくるのだけれど、おそらくこれを読むべき人が日本のどこかにいるはずだと信じて書いてきた。 我こそは…と思い当たる方は、いつかどこかで会うときのために、『大乗南拳奥義秘書』を覚えておくといい。 「北斗とは死を司る星。北斗あらわれし時、哀しみを語るがよい、心を開くがよい。北斗蒼くふるえる時、道は開かれる」。 北斗神拳伝承者に、黙秘権を行使するダンマリや、論陣を張るゴネは通用しない。 なるべく神妙な顔つきで、素直に自白(うた)うゲロが正解である。 北斗神拳伝承者は神の子だ(死神だけど…)。 心を開いて哀しみを語る者には運命の道が開かれるだろう(たぶん…)。

ここで注意点をひとつ。 私の体験談で勘違いしてはいけないのは、眼の前の夢を全力で達成しようとせず、いきなり本当の夢を見つけようとすることだ。 それから、眼の前の女を幸せにしようとして全力を尽くさず、いきなりツインレイの女を見つけようとすることだ。 たしかに、眼の前の夢が一分ごとに重要さを失っていったり、眼の前の女を愛せなくなるときが、いずれ来る。 でも、それが本当の夢ではなく、本当の女ではないとわかるためには、今、この瞬間を、より懸命に生きようとしなければならないのだ。 それだけは忘れないでくれたまえ。

さて、現代吟遊詩人が持てる二つの大きな幸運とは…

第一に、197X年の日本に生まれていること。
第二に、本当の名前がケンシロウであること。

謙虚に告白させていただくと、私はそのどちらの幸運も手にしているサルヴァドール(救世主)である。 それゆえに混乱と空虚のただなかにある現代にルネサンスを起こす責務も負っている。 この記事は、そんな私のマニフェストであり、天才吟遊詩人としての真剣な名乗りだ。

この記事を、これからはじめる聖なる闘いと、まだ見ぬルネサンスの騎士たちに捧ぐ。

2019年3月31日 新元号発表前日の自宅にて サルヴァドール・ケンシロウ

(2018.12‐2019.3)


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