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【坐禅作法119】ハディルの条件

かなりキワどい坐禅作法 ハディルの条件〜養心門10〜

Presented by

〜養心門10〜


私の辞書では「祈り」と書いて「ぼやき」と読む

私の辞書では「祈り」と書いて「ぼやき」と読む。

誰もが青春の活力をもてあますかのように希望を呼吸するはずの42年間を、私はひとり置いてきぼりを喰ったような絶望のなかで過ごしてきた。 友人の数ばかりか髪の毛までもがどんどん細ってゆき、目前には無気味な歳月がただ脅(おびや)かすようにものうげに伸びていく。 もしも32歳から坐禅修行をはじめていなければ、五回ばかりの胃潰瘍の手術を必要としたことだろう。

それでも私は、求めればなんとか手に入るもので妥協するのではなく、求めたところで手に入らないようなものが欲しかった。 そんな掴みきれそうにないものを、みじめに絶望するまで手を伸ばし続けて求めてきたのだ。 それをひそかな誇りとして生きることは、ごく控え目に言って、普通の人のおおよそ三倍イカレテル。

そうして求めたところで手に入らないようなものを欲しがったら、時の緩慢な足どりに身をまかせなければならなくなった。 それはとてもぼやきなしにはやっていられないことだった。 かくして、ぼやきこそが私の祈りとなっていった。

「祈り」と書いて「ぼやき」と読む


祈りとは恋をすること。 <全体 whole>と恋をすることにほかならない。

ときには<全体>に腹を立てて、口もきかないこともあるだろう。 それはそれでビューティフルだ。 あなたはこう言う。

「口なんかきくもんか。 もう沢山だ。 ぼくの言うことなんかちっとも聞いてくれないじゃないか!」

ビューティフルな意思表示だ。 生きている。

ときにはまったく祈らなくなることもあるだろう。 一生懸命祈り続けているのに、神が耳を貸してくれないからだ。 それは深いかかわり合いをともなった恋愛関係のようなものなのだ。 あなたが腹を立てるのも無理はない。

ときにはとても気分のいいこともある。 ありがたみ、感謝の気持ちがこみあげて来る。 ときにはいや気もさすだろう。

だが、とにかくそれを生き生きとした関係にしておくこと。 そうすれば祈りは本物だ。

和尚『TAO 永遠の大河4』-P.106-107「第2話 Q&A マスターをしたたかに殴りつけよ」


私のロールモデルとなってくれた矢沢永吉は「常にコトコト、コトコト、自分で自分に通信してる」と語っていたのだけれど、そういうのも祈りのひとつの形態なのだとおもう。 人生の転機に現れるハディルに気づけるかどうかは、こうした祈りが本物であるかどうかで決まるらしい。 私の場合は、祈りというより、ぼやきだったけれど。

ハディルの存在は“胸さわぎ”とか“虫の知らせ”のような言葉で、私たちの生活にも溶け込んでいる。 そういうものを馬鹿にしている連中の前では、両手を上着の袖につっこんで、つんとすまし込んでしまう。 もともとハディルというのはそういうやつなのだ。 だからハディルはあまり親切なやつとは言えないのかもしれない。

黄昏てく…Fu 街よ
悔いはないか?今…

地平線に…Fu 残された
美しき空のはかなさ
誰かの背中みたいに見えるぜ

いつの日か
もう一度 逢おう
何も変わらぬ
二人のままで

いつ いつの日か
もう一度 逢おう
夢を見ていた
この場所で

(作詞:秋元康 作曲:矢沢永吉『いつの日か』より)

この『いつの日か』は、矢沢永吉が45歳のときに高校教師役で出演したドラマのエンディング曲で、いま振り返って聴くと、「45歳のミッドライフクライシスで、ふりだしに戻っちまったよ」と歌っていたことがわかる。 矢沢永吉ほどの勘のいい人物でも、“45歳のミッドライフクライシスのハディル”をつかまえることは難しかったらしい。

この後、矢沢永吉は35億円の横領被害の憂き目に遭っている。 信頼していた部下に裏切られていたことが発覚したのだけれど、気づいたときにはすでに遅く、借金のすべてを背負い込むことになってしまった。 この事件は、ファンのあいだで『オーストラリア事件』として知られている。

矢印マーク the NAME IS...

1994年―矢沢永吉45歳のアルバム
『いつの日か』収録

赤雲水

四十九歳の厄年とは?

黒雲水

それがちょうど48-49歳の厄年の時節を迎えたときのことだった。

厄年の構造
図:布施仁悟(著作権フリー)


しかしながら、この事件に直面したときの矢沢永吉の気持ちの切り替え方が素晴らしかった。 それは四十九歳の厄年の意味を読み解くヒントにもなるとおもうので、是非ともここに紹介しておきたい。

以下は51歳のときに出版された『アー・ユー・ハッピー?』より。

四十九歳の厄年の気づき


オレは守られていると思う。 普通あれだけの事件に遭うと、飛び込み自殺するかもしれない。 一家心中するかもしれない。 ちょっとおかしくなって当り前だ。

実際、オレはおかしくならなかったんだよ。

事件が発覚したその年も、オレはステージをバリバリにこなしてた。 倒れなかった。 髪の毛はちょっと抜けたけど、すぐに止まった。 たくさん食べて栄養つけて。

そして、そうよ、オレは歌い続けた。

オレは運命に愛されていると思う。 だってそうじゃないか。 運命がオレを見限っていたら、きっとオレを殺しただろう。 精神を狂わせる。 ステージに立てないようにする。

負債と取り立て。 こいつは苦しい。 でも、オレは負けない。 何歳まで生きられるのか知らないけど、オレは役を与えられたんだ。 矢沢永吉という役を。

それをオレはオーストラリアの事件で発見した。 あまりに悔しくて、苦しくて、辛かったから。 死ぬってなんだ。 生きるってなんだ。 人生ってなんだと思った。 そして思った。

オレは矢沢永吉という役を与えられたんだと思うようにした。

「そうだよなー。ケツまくって生きるのもスジか」と思って。 でかい口あけて笑えるようになった。

矢沢永吉『アー・ユー・ハッピー?』-P.38「オーストラリア事件」


13・19・25・33・37・42・49・61歳―それぞれの厄年には、その時節にしか解けない運命の課題がある。 運命には過去に逆戻りできる装置なんかついていないから、その時節を取り逃したら、課題を取りこぼしたまま次の課題に取り組むことになってしまう。 それはかけ算の九九をろくに使いこなせなくても、高等数学の課程を詰め込まれる義務教育のようなものだ。

そしてどうやら四十九歳の厄年を迎えると、今生で自分に与えられた役柄をはっきり認識することになるらしい。 この雑然とした世の中がまわっていくためには様々な役柄が必要になるから、運命の課題を取りこぼして天性の義務を逸脱した人たちにも、それなりの役柄が与えられることだろう。 そうなったらケツをまくってでも、その役柄を生き切らなければならないのだ。

― 生きているかぎりは役柄がある。その役柄をちゃんと演じ続ける。それが生きるってことだ ―
(矢沢永吉『アー・ユー・ハッピー?』-P.151「オーストラリア事件が教えてくれたこと」)

星まわりの科学を探求しているとき、先輩たちが「ようやく自分のペースをつかめたのは50歳になってからだった」と語っているのをよくみかけた。 それは四十九歳の厄年を迎えたときに、自分の全体の中における役柄を認識したことで、やるべきことを見定めたからではないだろうか。 あたかも「五十にして天命を知る」と語っていた孔子のように。

そのとき「人々と分かちあえるものを何も持たない人間」にだけはなりたくないものである。

五十にして天命を知る


幸いなことにここまで来れて、いまこの年齢になってくると、「なんで人間は歌うんだろう」とか、「なぜ歌い続けるんだろうか」とか、「なんでステージに立つんだろう」ということがはっきりわかってくる。

オレには見せられるもの、表現できるもの、伝えられるものがある。 そういうことなんだ。 あるから、出す。 しぼり出すよ、そのたびに全部。

うらやましいだろう? オレだってある意味自分のことがうらやましいよ。

矢沢永吉『アー・ユー・ハッピー?』-P.199「音楽」
矢印マーク アー・ユー・ハッピー?

『成りあがり』の続編
これは人生のバイブルだ


四十になる直前のハディル

こういう風景を50歳になったときにみるために、矢沢永吉には乗り越えなければならない課題があった。 それを彼はこんな風に語っている。

幸せのレールは隣にあった


あるとき、もう虚勢を張らずに、相手の顔も見てあげようと思った。 相手が何を言いたいのか聞いてやろうよと思った。 もちろん、違うときは「違う」って言う。 認めるわけにはいかないときは「認めるわけにはいかない」って言う。 そのうえで「人っておもしろいよな」って見ることができるようになった。

どれも予定通りだった。 そう思うと人生ってムダがない。

オレが虚勢を張らなくてもいいやって思えたのは、幸せのレールは隣にあったんだと気がついて、その気がついたことに、あー、オレはラッキーだなって思った、そのころだった。

矢沢永吉『アー・ユー・ハッピー?』-P.226〜「カネと幸せ」


こういう心境の変化は40-42歳の大厄のときに起こるのだけれど、そのとき必ず“四十になる直前のハディル”が現れる。 矢沢永吉が39歳でレコード会社を移籍した1988年、移籍先のディレクターが、その四十になる直前のハディルとなってくれた。

以下はそのときのエピソードなのだけれど、これは「四十になる直前のハディルの現れ方」が描かれている貴重な場面だとおもう。

四十になる直前のハディルの現れ方


東芝に移ったときに、ディレクターがいいことを言った。

「ボス、はっきり言います。いまのボスはクルマでいうとロールスロイスなんです。これは業界も認めているし、世間も認めている。でもロールスロイスは一般庶民には乗れないんです」

突き刺さる言葉だ。 バチンときた。 ディレクターはさらに言葉を続けた。

「でも一般庶民がレコードを買ってるんです。一般庶民が聴いてるんです。だから、どうですか。ベンツになりませんか。といってもSクラスじゃない。われわれサラリーマンでもがんばったら乗れるかもしれないと思える―190Eのような小型ベンツになりませんか?」

その言葉がオレを揺さぶった。 逆に言えば、揺さぶられるくらい、オレも危機を感じてた。 ディレクターも、外からオレのその危機感を的確に見てたんだね。

「いまのボスは雲の上にいます。それは違うと思います」

矢沢永吉『アー・ユー・ハッピー?』-P.85〜「レコード会社移籍」


このディレクターに出会うまでの矢沢永吉を苦しめていたのは、ロールスロイスに乗っているボスのペルソナだった。

このペルソナは、アイデンティティ・クライシスの後、創造力を身につけはじめる頃に生まれてくるもので、病的なまでに才気ほとばしる危険な分身“ダーク・ハーフ”とでも呼べるものだ。 このダーク・ハーフが誕生すると人格に本質的な分裂が起こる。 するとダーク・ハーフの座っているシーソーの片方だけが一方的に上がっていき、自分はどこまでも落っこちていくような気分になってしまう。 創造力が目覚めれば目覚めるほど、逆さまに奈落の底に沈みこんでいくような息苦しさを覚えはじめるのだ。

それはこういうカラクリになっている。

アイデンティティ・クライシスを起こすためには、まず社会システムによって構築された道を踏み外さなければならない。 けれどもそのとき、社会システムに対抗できるだけの心の強さを持てなければ、逆に自分がつぶれてしまうことになる。 そこで虚勢を張って自分の弱くて柔らかいところを守るのだ。 つまり“自我の殻”を作ってその中に閉じこもる。 その自我の殻の中で社会システムに対抗する<個>を確立していくのである。

しかしながら、その自我の殻に依存する精神の一部が潜在意識層で分裂を起こす。 ダーク・ハーフは当初は自分を守ってくれるのだけれど、成長するにつれて次第に醜い本性を顕(あらわ)してくるのだ。

私の場合でいえば“天才作家のペルソナ”がそれだった。 私は自分が天才と認めたほんのわずかな作家の存在だけを認め、それ以外の作家は強制収容所にでも送り込みそうな勢いだった。 ゲシュタポ作家―そのまま作家デビューしていたら、そうあだ名されていたことだろう。 おそらくニーチェが発狂したのは、45歳のミッドライフクライシスを迎えたとき、このダーク・ハーフに呑みこまれてしまったからなのだ。

すなわち、アイデンティティ・クライシスを起こした求道者は、はじめのうちダーク・ハーフを盟友のように思いなす。 ところがやがて、そのダーク・ハーフにとことん追い詰められていくのである。

ダーク・ハーフのもたらす苦しみ 〜 その一 〜


成長してゆくと自分が前よりも醜くなっているような気がするときが来るだろう。 自分を正しく見始めるからだ。

いままでは、ほかの人たちの中に醜さを見ていたが、今度は自分自身を見守り始めた。 過ちや醜さや落ち度を他人の中に見てきたのが、今度は自分の中に見始める。

生まれてはじめて、あなたは自分自身の存在を反映し始める。 なにもかもひっくりかえる。

渾沌だ―

こわくなって、あなたは逃げ出しかねない。 また仮面をつけかねない。

和尚『TAO 永遠の大河 4』-P.226「第4話 Q&A なぜ「どうやって?」ばかりきくのか」


このダーク・ハーフのもたらす苦しみについて、矢沢永吉はこう語っている。

― 何ものかがオレを守ってくれていたんだと思う。「ちょっと探せ」と言った。自分がなぜ苦しいのか、それを見つけてこいと言った ―
(矢沢永吉『アー・ユー・ハッピー?』-P.226「カネと幸せ」)

自分がなぜ苦しいのか…それを理解できたなら、その洞察によってダーク・ハーフの仮面は自然にはがれ落ちてゆく。 ただしその洞察を起こすためには、まず社会システムに対抗する<個>を確立できていなければならない。 そうなったら自我の殻は必要なくなるから、あとはその殻を脱ぎ捨てればいい。 その頃には苦しみの原因が表面化していることだろう。

<<どうやら盟友ダーク・ハーフがこの苦しみを生み出しているような気がする…>>

その頃に四十になる直前のハディルが現れて、こう指摘してくれるのだ。

「君の乗っているロールスロイスはただのガラクタにしか見えないんだがね」

この指摘に反発の感情を爆発させるのではなく、<<もう虚勢を張らなくてもいいんだ>>と歓迎することができれば、ダーク・ハーフはみずから死を選ぶことだろう。

ダーク・ハーフはひとりでに落ちる


もし本当にそういうものが執着だとわかれば、それらは落ちてゆく。 そうしたら、どうやってそれを捨てるかなどという問題はない。 「どうやって?」というのは、理解が熟していないときに出て来るものなのだ。

もし何かがガラクタだということを見ぬいたら、あなたはそれを捨てるだろう! あなたはただ単に捨てるだけだ。 それはあなたの側で努力することですらもない。

それは起こるのだ。

そんなものに用はないということがよくよくわかれば、それは落ちる。 私の言いたいのは、それはひとりでに落ちるということだ。 あなたが落とすんじゃない。 偽りが偽りとわかったとき、それは落ちる。 不真実が不真実とわかったとき、それは落ちる。

和尚『TAO 永遠の大河 4』-P.185-186「第4話 Q&A なぜ「どうやって?」ばかりきくのか」
矢印マーク TAO 永遠の大河4〜OSHO老子を語る〜

必要なのは真っ直ぐ生きることだけだ
ほかには何もいらない
それが道なのさ

青雲水

ダークハーフの苦しみの果て

緑雲水

幸運なことに私の邂逅(かいこう)した四十になる直前のハディルは、矢沢永吉の遭遇したディレクターよりも格上の存在だった。

― 正師・秀爺 ―

その実存を理解することが私のひとつの試練となっていたらしい。 けれども、それはまったく容易なことではなかった。 和尚の『TAO 永遠の大河』に、正師の生態が解説されていたからよかったものの、それを読むことがなかったら、今でも疑問だらけだったかもしれない。 それほどまでに、その行動様式は不可解きわまりないものだった。

私も含めて普通の人の書く文章には自我が投影されている。 39歳頃の私は、その自我のありようをある程度読み取れるところまで修練を積んでいた。 だから文章に投影されている自我によって、その文章を書いた人物の悟境を判断していたのである。 けれども正師・秀爺の書く文章には自我がなかった。 あるにはあるようなのだけれど無色透明なのである。 とらえどころがない…私は困惑してしまった。

悟りをひらいた人間の行動様式


悟りを開いた人間に邂逅すれば、その感じがわかるかもしれない。

彼はあなたを見ても、あなたを見ていない。 彼は見て、しかも見ない。 彼の目は空っぽの鏡のようだ。 彼は無関心なのではないし、かといって興味があるわけでもない。 彼は聞いて、しかも聞かない。 もし途中で言葉を切っても、彼は残りの半分に好奇心などない。 たとえもし文章の途中であなたが話をやめても、彼にとってはそれでピリオドだ。 おしまい!

彼には好奇心などない。 もう心(マインド)は集積をやめている。

和尚『TAO 永遠の大河 3』-P.214-215「第5話 <一なるもの>のエクスタシー」


正師・秀爺は、ものごとについて何か判断を加えようとすることはなく、好悪の感情を抱いているようでもなかった。 ただそこに映るものを捉えるだけのビデオカメラのように出来事を眺めているようだった。

そんな正師・秀爺と邂逅した頃、ダーク・ハーフである天才作家のペルソナを盟友としていた私は理想に燃えていた。 文士の正統を守る最後の砦にたった一人で立ち尽くし、己れの熱弁に上気しながら、ノーベル文学賞でももらうつもりでがんばっていたような気がする。 ところがそうなると…

<<自分は適切な文章を書けたかどうか?>>

そんな心のこりがあるために、いつまでも過去を回顧しなければならなくなる。

<<自分は適切な文章を書けるかどうか?>>

そんな不安があるために、いつまでも未来を下稽古しなければならなくなる。 自分の中に息づくミューズが覚醒し、才能が目覚めれば目覚めるほど、かえって私は息苦しくなってしまった。

ダークハーフのもたらす苦しみ 〜 その二 〜


理想をつくらないこと。

いったん理想をつくってしまったら、あなたはつねに困難を抱えることになる。 というのも、あなたはいつも、“べき”や“ねばならない”という観点でものを考えるだろうから。

こうしなければいけない
あれをやるのが本当だ
こうするべきだ―

そして、あなたはいつも、罪人のような罪悪感を抱くに違いない。 あなたはいつも気分がすぐれないだろう。 けっして自分自身を受けいれることができない。 けっして自分を愛することができない。

和尚『TAO 永遠の大河 4』-P.213「第4話 Q&A なぜ「どうやって?」ばかりきくのか」


正師・秀爺の投げてくる言葉には、自分でも気づかないうちに抱え込んでしまったもの―ダーク・ハーフの醜さ―を見据えられているような視線と息づかいがあった。

それは私に思いがけない過ちを犯しているような罪悪感を与え、いくぶん居心地の悪い気分にさせた。 そのため私の瞳の奥に攻撃的な不容認の光がキラリと灯ってしまう。 闇夜にひかる猫の目のように。

そんな自分がたまらなく恥ずかしかった。

正師という触媒 〜 その一 〜


もしひとりの聖人を認識できたなら、まさにその認識において、あなたは大きな一歩を踏み出している。

なぜならば、まさにその認識自体、あなたの中の何かが感応したことをあらわしているからだ。

ひとつの自我(エゴ)が傷ついてしまったのだ。

和尚『TAO 永遠の大河 4』-P.176「第3話 理解こそ実践」


また正師・秀爺は、それまで私の知らなかった特別な種類の美しさを具えていた。

何につけ判断をさしはさむことなく、解析をつけ加えず、ものごとの善し悪しを分別する衝動を見張り、あらゆる可能性に対して十全にニュートラルであり続けることの美、過去の心のこりと未来の不安から解放されて、<いまここ>にくつろいでいることの美、あらゆる論理が破綻したところの神秘を信頼していることの美だ。

正師・秀爺は、私と違って、天才作家のような何ものかになろうとして奮闘などしていなかった。 そのくせ“ただならないまでのただ者”だったのである。

正師という触媒 〜 その二 〜


もしあなたが“ただならないまでのただ者”を見つけることができたならば、ただ彼の実存があなたの実存の中に浸み込んでくるのを許すがいい。 受け手になるのだ。

そうすれば、それが何であるのかという感覚がつかめるだろう。 それは世にある最大の実存のダイヤモンドだ。

和尚『TAO 永遠の大河 2』-P.481「第10話 Q&A あらゆるブッダが宇宙を豊かにしている」


正師というのは、その存在自体が教えなのだ。 その存在自体が変容の触媒となってくれる。

もしかすると私はその実存に惚れ込んでしまっていたのかもしれない。 正師・秀爺という存在は、私の中に疑団(気づき・わだかまり)をもたらし、ダーク・ハーフを手放す勇気を与えてくれた。

そうして正師・秀爺の二度に渡る鉄槌を利用して、ダーク・ハーフを手放したとき、それまで抱いていた理想が落ちた。 自分が醜さを抱えていることの罪悪感も薄らいだ。 それと同時に私は、自分自身を愛することができるようになっていた。

私の第三層の無意識がひらきはじめて、ぷっつんレディ2号にまつわるわざとらしい偶然の記憶を見つけたのは、そのときなのである。 正師・秀爺は、恋を忘れたあわれな私に、夜明けのコーヒーを飲ませてくれたようなものだった。

ダークハーフの苦しみの果て


もろもろの既成事実のすべてにかかわらず自分自身を愛すること…それがあなたに土台を与えてくれるのだ。

その土台の上に立ってはじめて、あなたはほかの人たちを愛することができる。

和尚『TAO 永遠の大河 4』-P.213「第4話 Q&A なぜ「どうやって?」ばかりきくのか」


こうしてダーク・ハーフのもたらす苦しみの果てに、ついに私も矢沢永吉と同じ境地に立つことができた。

― あるとき、もう虚勢を張らずに、相手の顔も見てあげようと思った。相手が何を言いたいのか聞いてやろうよと思った ―
(矢沢永吉『アー・ユー・ハッピー?』-P.226「カネと幸せ」)

すると私の運営していたブログのコメント欄に、『縁覚道の地図』で例を挙げたような「カオナシ」や「カオナシに足を引っ張られそうになっている昏睡状態の豚」が何人もやってくるようになった。 とはいえ精神年齢が十三歳で止まっている彼らとは住んでいる世界がそもそも違うから、まったく言葉が通じない。 おかげでよく水掛け論を投げ合ったものだった。

けれどもそれは、私にとって「ほかの人たちを愛することができるか?」という運命の試練だったのだとおもう。 私は彼らの生態を理解することを通して、彼らをゆるし愛することを学ぶようになったからだ。

― ああ 心に愛がなければ スーパーヒーローじゃないのさ ―
(作詞:森雪之丞 作曲:芹澤廣明『キン肉マンGo Fight!』より)

小中学生の頃に読む少年漫画に福音があるとすれば、この言葉に尽きるだろう。 ただし…

― 人生には「ここからあとには引けない」という決意のまなざしを投げ返すべきときがある ―

人を不愉快にさせたくないからといって真相を隠し続けるのには限界がある。 その限界を超えれば危険な状態を招くからだ。 そこで私は相手の精神分裂症の症状を比較的早い段階で指摘することがあったのだけれど、そんな私の老婆心は理解してもらえないことのほうが多かった。

それでも「人っておもしろいよな」と思えるようになったのは、ひとえに“四十になる直前のハディル”のおかげではないだろうか。

もし人々に力を貸すつもりなら…


もし人々に力を貸すつもりなら、彼らの夢を破り、その信条を粉砕しなければならない。

彼らが反抗するのは当然だ。 それに気を悪くするべきではない。 その反抗は単純で自然なものだ。

彼らは敵にまわる。 その敵対心は防衛機構以外の何ものでもない。 彼らは自分を守るのだ。

和尚『TAO 永遠の大河 4』-P.183「第4話 Q&A なぜ「どうやって?」ばかりきくのか」
矢印マーク TAO 永遠の大河2〜OSHO老子を語る〜

必要なのは真っ直ぐ生きることだけだ
ほかには何もいらない
それが道なのさ


電脳山養心寺公案集 養心門 第十二則 ハディルの条件

以下に紹介するのは、ハディルに遭遇する条件についてまとめられたスーフィーの物語である。

ハディルは、現象世界と不可視の世界を連結する存在として、切実に道を求める求道者が苦しみを訴えたとき、その祈り(ぼやき)に応えて必ず現れてくれるのだ。

電脳山養心寺公案集 養心門 第十二則 ハディルの条件


 ある夜、トルキスタンの王がハディルについてスーフィーの導師に尋ねた。
「ハディルは必要に応じてやってきます」と導師は答えた。 「ハディルが現れたなら、その服を掴むのです。そうすれば、あらゆる知恵があなたのものになるでしょう」
「そのようなことは誰にでも起こりうることなのか?」
「誰にでも可能です」と導師は答えた。
「しかし私以上にその可能性のある者など一体どこにいるというのだ」
王のその言葉に導師は何も答えなかったが、翌日、王は国中に声明を公布した。

 『私の前に不可視の世界からハディルを連れて来た者に褒美を与える』

 するとバフティアルという男が王のもとにやってきて、四十日以内にハディルを連れてくることを約束する、と言った。 それに対して王はこのような条件をつけた。
「もしハディルを連れてこられなかったら、おまえの命はないものと思え。王をないがしろにした者への罰として、処刑してやるからな」
バフティアルはこの条件を受け入れ、家に引き返すと、四十日のあいだ瞑想に専念した。

 四十日目になったとき、彼は宮殿に出向いて行って言った。
「王さま、『ハディルは強欲な態度に応えて現れることはない』と言われています。お金の力で呼び寄せようなどというのは強欲な態度だとお思いになりませんか」
 王は怒り狂った。
「よくもわしの熱意をもてあそんでくれたな。おまえの命は無いものと思え!」
 それにもめげず、バフティアルはさらに語り続けた。
「『ハディルとの出会いは正当な条件がそろった場合にのみ実り豊かなものになる』と伝承されています。 また『ハディルの訪れは人間の性質に応じて程度と時節が定められている』とも言われています。 われわれにどうこうできる事柄ではないのではないでしょうか」
「言いわけなんか、たくさんだ!」と王は言った。 「『王をないがしろにしたものには戒めを与えよ』というのが王家の伝承だ。 おまえが何を言ってみたところで命を長引かせることはできないぞ」

 このとき、ひとりの年老いた行者が部屋に入ってきて言った。
「『ハディルはその人間が得るにふさわしい恩恵を与える』」
「誰だおまえは?」と王が問うと行者は答えた。
「このことも覚えておくがいい。 『ハディルはその人間の切実な祈りに応えて現れる』とな。 このバフティアルという男は、死に直面して切実な状況にあった。 それゆえに私はやってきたのだ」

 そう言い終えると、年老いた行者は彼らの前から忽然と姿を消した。

参考:イドリース・シャー『スーフィーの物語』73-必要性の増大


ハディルにジョークは通じない。

「これはカッコつきの祈りで、べつに本気でやっているわけではないんですよ」

なんてあかるい建前(たてまえ)は通用しないのだ。

(2017.6)

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声聞道用の公案集は今のところコレしかない

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