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【坐禅作法118】伝記

ちょっとはマシな坐禅作法 伝記〜養心門9〜

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〜養心門9〜


飛べる豚と飛べない豚

どうしたら村上春樹の文体の持つ透明感を出せるのか。 それはポケットいっぱいにプライドを詰め込んでいた15-16歳頃の私には見当もつかないことだった。

ゴシップ雑誌に載せるほどの価値しかない文章を書き散らすくらいなら、本なんかはじめから書かないほうがマシだ。 当時の私が作家へのあこがれを捨てたのはそういう理由からでもあったのだけれど、そうした優れた文体に圧倒されるだけの感性を持ち合わせていたことは幸運なことだったのかもしれない。 「創造がゆるされないのなら、せめて破壊くらいさせてもらおうか」と現実逃避の味を教える作家になるよりは、飛べない豚として燻(くす)ぶっていたほうがずっといい。

― もしもそれが一定の時間を必要としているなら時間を味方につけなくてはならない ―

天性の義務を正しく行えるようになるまでには、費やさなければならない努力と時間が一定量きまっているらしい。 それは私のような「飛べない豚」が飛べるようになるまでには、努力と時間をそれなりに要するということだ。 悔しかったのは、はじめから「飛べる豚」として生まれてくる子供たちがいることで、彼らはそうした努力と時間をあまり必要としていないように私にはみえた。

彼らを基準にしてしまうと「飛べない豚はただの豚」でしかないのである。

スタンドバイミーの構成メンバー


■ 1 ゴードン・ラチャンス ■
 後に作家になるエリート。カレッジコースに進んだ優等生

■ 2 クリス・チェンバーズ ■
 運命に抗ってカレッジコースに進むのだけれど落ちこぼれる

■ 3 バーン・テシオ ■
 職業訓練コースに進んだ落ちこぼれ

■ 4 テディ・デュシャン ■
 職業訓練コースに進んだ根っからの落ちこぼれ。一番のバカ


スティーヴン・キングの『スタンド・バイ・ミー』の構成メンバーでいうなら、13歳の厄年を迎えた時点で作家の片鱗をみせていたゴードン・ラチャンスは「飛べる豚」といえるだろう。 その時点で、すでに自分の天性の義務をはっきり見定めている子供は、わずかではあるけれど確かに存在しているものだ。 その才能は22歳になる頃には開花するから、23-25歳の厄年の頃になると世の中に出てきて、はやくも活躍しはじめる。

残念ながら私はクリス・チェンバーズだった。 指をくわえて空を眺めているしかない「飛べない豚」である。 13歳の厄年で精神年齢を止めることはなかったけれど、天性の義務を忘れないようにするだけで精一杯だった。 そんな飛べない豚が十代の頃にみる夢は、その可能性だけを仄(ほの)めかして瞬(またた)く。 私のあこがれは、夏の暑いさかりに道路の前方にあらわれる陽炎(かげろう)みたいに、決して手の届かない地平線上であざけるように揺れうごいていた。

矢印マーク 『スタンド・バイ・ミー―恐怖の四季 秋冬編 (新潮文庫)』

S・キングは自身の創造の秘密をここに綴じ込めたんだ。
これ、ただの小説じゃないよ。

赤雲水

カオナシと昏睡状態の豚

黒雲水

これと同様に13歳の厄年で精神年齢を止めた子供たちも二つに分類できる。

まずは他人様(ひとさま)の話を真剣に聞こうとしなかったために、9歳の運命のクロスポイントで精神年齢を止めた子供たち。 不可視の世界は現象世界の何がしかの存在を媒介して干渉してくるものだから、誰かのなにげない言葉が不可視の世界からの警告や助言となっていることもある。 そのため人の話を真剣に聞こうとしない子供たちは、大事な局面で運命の機会を取り逃がすことにもなりかねない。 そういうことを続けていれば、不可視の世界を洞察する知性自体が機能しなくなってしまうことは容易に想像できるだろう。

そういう子供たちは、やがてペルソナにむさぼり尽くされて「カオナシ」とでも呼べる存在になる。 そうなったらもはや手遅れだ。 ホラー映画のゾンビみたいに人の足を引っ張ることしかしなくなってしまう。 テディ・デュシャンがそれにあたる。

そして最後に残ったバーン・テシオだけれども、彼は人の話を聞こうとしている子供だ。 ただし冬に川の薄氷を踏みわたるように注意深く聞くということが、どうしてもできない子供なのである。 9歳の運命のクロスポイントから13歳の厄年くらいまでに、運命の機会のうまみを搾り尽くそうとする姿勢を身につけなかった子供たちがバーン・テシオになる。

<生>の中に深く入っていくためのフツフツとした熱源みたいなものが不足しているから、不可視の世界を洞察するための知性がいまいち成熟してこない。 おかげでちょっとオツムが足りないため、カオナシの誘惑にそそのかされやすく、足を引っ張られて転落してしまうこともある。 そういう人たちが「昏睡状態の豚」になっていくのだけれど、それが普通といえば普通なのかもしれない。

こうした子供たちの性質を図解してみるとこんな感じになる。

(宮崎駿作品にみる)子供の性質の豚的考察
図:布施仁悟(著作権フリー)・参考:『紅の豚』『千と千尋の神隠し』


こうした分類の境い目は、パレットの上で混ぜ合わせた絵の具のように、23-25歳の厄年くらいまでは不鮮明になっている。 それまではまだ確定的なものではなく潜在的な性質としてまどろんでいるものらしいのだ。

しかしながら不可視の世界を洞察することなく31-33歳の大厄を迎えると、もはやその先の運命の試練には耐えられなくなってくる。 そこでプラトンが指摘していたように、35歳になると選抜試験に落第して引退の花道をつけられたようになり、はっきりと色分けされてしまうことになるようだ…おそらくは恩寵みたいなものとして。 こうしてほとんどの人が35歳になると昏睡状態の豚として厩舎に入れられるのである。


カオナシ誕生のカラクリ

問題は、おとなしく厩舎に入ろうとせずにゾンビみたいにうろつきまわるカオナシがいることで、そういう連中に足を引っぱられないためにも、その誕生のカラクリをあらかじめ理解しておくといいだろう。

意識層
図:布施仁悟(著作権フリー)


人間の意識には四つの層があるとされていて、その表層にある第一層の意識は“ペルソナの層”といえる。 人はこの意識層においてショーウィンドウに飾られたマネキンのような見せかけの自己イメージを形作っているのだけれど、そうしたペルソナは社会生活を円滑に営むうえでは非常に便利なものだ。 本来、何も害はない。 けれども、たいていの人々は、それと自己同一化しすぎて人格を抑圧してしまっているのが現実である。

そのため、その先にある第ニの潜在意識層には抑圧されて分裂した人格―リトルが閉じ込められている。 したがってその第ニ層は“リトルの層”といってもいいかもしれない。 リトルはペルソナを守るために押し殺してきた自分の一部であり、絶えず意識の表層に浮かびあがろうとしている。 そのため、リトルを抑圧しきれなくなると、ペルソナとリトルが拮抗する裏表の激しい性格になって、意志の疎通が困難になってきてしまう。 それがコミュニケーション障害―つまりは精神分裂症を発症するのである。

したがって、この第ニの潜在意識層を開発しようとするなら、まず抑圧したリトルを解放して、人格を統合しておかなければならない。 私の場合、リトルを抑圧から解放し、分裂していた人格を統合しはじめたのが31-33歳の大厄の頃からだった。 私のゲシュタルト―事物や事象の見え方―が転回しはじめたのは、そのときからである。

ゲシュタルト転回
図:布施仁悟(著作権フリー)


また31-33歳の大厄でリトルを解放した後、40-42歳の大厄までの九年間を、私は中根機として過ごしてきた。 その間に、ゲシュタルト転回によって獲得した独自の視点を『坐禅作法』シリーズに書き残してきたのだけれど、この九年間はそうやって第ニ層の潜在意識を開発していた期間ともいえる。

すなわちゲシュタルト転回とは こういう意味でもあるのだ。

ゲシュタルト転回の意味
図:布施仁悟(著作権フリー)


私たちは自分の人格の一部―リトルを潜在意識の深層に閉じ込めて鍵をかけてしまっている。 けれども、そうした自分の人格の一部を解放して統合することに成功すると、昔はみえていたはずなのに今ではみえなくなっている視野を取り戻すことができる。 なぜなら、より広い視点でものごとを観察するようになるからだ。 それだからこそ、ゲシュタルト―事物や事象の見え方―が変わる。

さらに、この第二層の潜在意識は個人のみている夢を作りだしているのだけれど、ときおり第三層の無意識がその中に割り込んで語りかけてくることがある。 その第三層はユングに集合的無意識と名づけられた層で、そこでは民族や人類や自然などの宇宙全体のみている夢が作りだされ、それが第ニ層の個人のみている夢の中に入り込んでくるのだ。 すなわち、個人のみている夢は意識の深層で宇宙全体のみている夢とつながっているのである。

矢印マーク GOLDEN BEST

1999年―井上陽水51歳時点でのベストアルバム
『積み荷のない船』収録


そのため人間の意識が第ニ層の潜在意識を貫いて第三層の無意識に到達すると、個人のみている夢が全体のみている夢の中に溶けはじめる。 この現象は井上陽水の『積み荷のない船』で「夢と夢が重なる」と表現されているものだ。

魚の目で見る星空は 窓に丸い形
旅行き交う人々が 時を楽に過ごすため

サヨナラは 雨の歌になるから
気をつけて 夢と夢が重なるまで

(井上陽水『積み荷のない船』より)

俗世にサヨナラして孤独のなかで自分の内面を探求すると、やがて丸い窓枠を通してみているような個人の夢が破れ、個人の夢は全体の夢と重なりはじめる。 この『積み荷のない船』は俗世から孤立すればするほど存在全体とのつながりを取り戻すというパラドックスを歌っているのだ。

夢と夢が重なるまで


「自分は存在と別々だ」というその感覚はただの錯覚にすぎない。 それはリアリティーじゃない。

悟った人間は“自分”というものは、けっして前にも存在しなかったし、いまも存在してはいないし、将来も存在しないだろうというだけのことを了解するに至っているにすぎない。

<全体―Whole>は存在する。 自分じゃない。

あなたは自分が別々だと思っているかもしれない。 が、それはただの夢にすぎない。 その夢が溶けるだけだ。 ほかの何ものでもない。 その無知がなくなるだけだ。

和尚『TAO 永遠の大河2』-P.465「第10話 Q&A あらゆるブッダが宇宙を豊かにしている」


男性諸氏なら、なんとなくわかってもらえるとおもうのだけれど、男性が女性に対して求めているものは、人生のどこかで喪失し、あてもなく探し続けることになった何かだ。 それをずっと守り続けて待ってくれている女性に永遠に恋こがれていたりする。

私が40-42歳の大厄を迎えたときに、記憶の底に花の香りをつけてしまい込んだ恋のロマンスを引っ張り出してきて、身のほど知らずの求愛遊戯をはじめたのは、私の意識が第ニ層の潜在意識を貫いて第三層の無意識をひらきはじめたからだ。 そうして個人的にみている夢が全体のみている夢の中に溶けはじめると、そこにかつて喪失した探しものの記憶が見つかり出すのである。

探しものは何ですか
見つけにくいものですか
カバンの中も つくえの中も
探したけれど見つからないのに

まだまだ探す気ですか
それより僕と踊りませんか
夢の中へ 夢の中へ
行ってみたいと思いませんか

(井上陽水『夢の中へ』より)

私の場合、夢の中へ入っていって最初に見つけた探しものは、ぷっつんレディ2号にまつわるわざとらしい偶然の記憶だった。

矢印マーク 夢の中へ

2017年2月発売のリマスターシングル
『夢の中へ』収録


そうして、わざとらしい偶然によってつくりだされた記憶のトリックに引っかかってみると、点在していたなにがしの記憶が一本の線でしっかりとつながっていた。 そこには直接的には何の関係もない複数人の手によって囲碁の布石のようなものが着実に置かれていたのだ。 ただの偶然の成り行きなのか…それとも何らかの筋書きが前もって用意されていたのか…私はわけがわからなくなってしまった。

<<宇宙全体のあらゆる存在は思いもよらないところでまめやかに繋がっているらしい…>>

折り目正しく整然とした秩序を保っていたはずの私的な世界が微かにほころび、そのほころびから宇宙全体という視点が私の中に持ち込まれてきた。 夢の中へ入っていってミセスに恋するロマンスは、私を宇宙全体に目覚めさせたのである。

矢印マーク UNITED COVER

2001年―井上陽水53歳のカバーアルバム
『コーヒー・ルンバ』収録


そういう意味で『コーヒー・ルンバ』という歌はなかなか興味深い。

昔アラブの偉いお坊さんが
恋を忘れたあわれな男に
しびれるような 香りいっぱいの
こはく色した飲み物を教えてあげました

やがて心うきうき
とっても不思議 このムード
たちまち男は若い娘に恋をした

コンガ マラカス
楽しいルンバのリズム
南の国の情熱のアロマ

それは素敵な飲み物
コーヒー モカマタリ

みんな陽気に飲んで踊ろう
愛のコーヒー・ルンバ

(訳詞:中沢清二 J.M.Perroni『コーヒー・ルンバ』より)

アラブの偉いお坊さんが恋を忘れた男にコーヒーを飲むように勧める。 すると男はたちまち若い娘に恋をして陽気に踊り出すという歌なのだけれど、お坊さんがコーヒーを勧めて恋を教えるなんておかしな展開だとおもうかもしれない。 しかしながら人を恋へと誘うコーヒーは覚醒のシンボルなのだ。

ただし感覚的には「若い娘に恋をする」というよりも「宇宙全体に恋をする」というほうが近しい。 夢の中へ入っていって恋に落ちるとき、人は宇宙全体と別々ではないと気づきはじめる。 愛の何たるかを人が知るのはそのときなのだ。

愛は恋に落ちることによってしかわからない


愛する者のまわりにはひとつの新しい世界が生まれる。

彼はほかのみんなには盲目に見える。 が、彼自身の中では盲目どころではない。 実際には、生まれて初めて彼は、眼を、視力を、洞察を得ているのだ。

愛は恋に落ちることによってしかわからない。

和尚『TAO 永遠の大河3』-P.200-201「第5話 <一なるもの>のエクスタシー」


このとき問題になってくるのは、現象世界と不可視の世界の境い目がうまくつかめなくなってしまうことだ。 「みんな宇宙のお友だち」という感覚で他人に近づいていったら、変人あつかいされるのが落ちだろう。

「ああ、ついにアナタはそれでなくとも乏しい理性を完全に失ってしまったようですね」

まったく、てやんでえだ。 とくに第ニ層の潜在意識を曇らせたまま第三層の無意識をあばいてしまった場合、潜在意識の作りだす幻覚を幻覚であると認識できなくなってしまうことがある。 そうして幻覚障害を発症するときにカオナシが誕生してくるのだ。 つまりカオナシが誕生してくるときは、まず予兆としてコミュニケーション障害があり、続いて幻覚障害がやってくる。 それは第ニ層の潜在意識に人格を抑圧したまま、第三層の無意識を開発してしまうからなのだ。

第ニ層の潜在意識は慎重にゆっくりと開発されなければならない。

潜在意識に気をつけて


私はそれに完全な自由を許せと言っているんじゃない。 あなたはおかしくなるか、犯罪者になり、つかまって牢屋にいれられてしまうだろう。

まずそれに気づきなさい。

そうして、あなたが十分成熟したら、だんだんとそれにより以上の自由を与えてもいい。 そうした自由ならあなたを無政府状態に導きはしないだろう。

そうして、だんだんとあなたが最初の二つの層に醒めてゆくと、あなたの意識は3番目の層―無意識―を貫くだけの強烈さをもつようになるだろう。

和尚『TAO 永遠の大河2』-P.374「第8話 Q&A 存在の中に問いなどというものはない」


そうして第三層の無意識に到達して、夢と夢が重なりはじめると、宇宙全体の見る夢を自分の夢として全体とともに生きるようになる。 なぜなら宇宙全体とともに生きることが自分の幸福につながることを了解するからで、人間はそのときはじめて人間らしくなる。 40-42歳の大厄以降は、そうやって無意識層を開発しながら“自分”というものを落としていくのだ。

その行き着く先には第四の意識層―空―が待っている。

矢印マーク TAO 永遠の大河2〜OSHO老子を語る〜

必要なのは真っ直ぐ生きることだけだ
ほかには何もいらない
それが道なのさ

青雲水

ロールモデルとソウルモデル

緑雲水

そもそも私は飛べない豚として生まれついてしまったものだから、自分よりもちょっと上の段階にいる飛べる豚のマネをすることで進歩してきた。 いきなり最高峰の村上春樹に挑みかかるのではなく、それよりも自分に近い作家を目標にして一歩ずつ近づいていったのである。 人は自分で自分にゆるした変容の分だけしか進歩できないものだから、自分よりもちょっと上の段階にいる人をロールモデルにするほうが無理なく変容できるのではないだろうか。

作家やソングライターという職業は、役者とならんで社会的に認められている数少ない霊媒的職業で、不可視の世界にあるていど精通している人が就く(のが望ましい)。 そのレベルもさまざまだから自分に近しい作家やソングライターを見つけることができたなら、その人が一段階先に進むための触媒となってくれるはずだ。

矢印マーク 人生をいかに生きるか 下

この本の白眉は第十一章「教養の楽しみ」
とにかく多くの示唆に富んでいる


こうしたロールモデルの考え方については、林語堂という中国の文筆家の記述が参考になるとおもうので紹介しておきたい。

必読の書


万人必読の書などはこの世にない。

あるのはただ、ある人が、あるとき、あるところで、ある与えられた事情のもとで、生涯のある時期に、読まねばならぬ書物だけである。

私はむしろ思う。 読書は結婚と同じく運命とか因縁によって決定されるものである。

林語堂『人生をいかに生きるか 下』-P.224「第十一章 教養の楽しみ」


矢沢永吉の『成りあがり』ばかり読んでいた大学生の頃、アルバイトをしていた先の出版社の社長にこう教示していただいた。

「若いうちはいろいろ読んでおいたほうがいい。 そのときはわからなくても、何を言っているのかわかるときが来るから」

今になってみれば、この社長の箴言はまったくの真実だったと言える。 大学時代に読んだ本の著者たちをロールモデルとして、彼らの足跡をなぞることで私は変容を遂げてきたからだ。

けれども正直なところ、どんな本から読みはじめたらいいのか、当時の私にはさっぱりわからなかった。 そんなときに大学の講師がベンジャミン・フランクリンについて語っているのをたまたま聞いて、興味もって手にした本が『フランクリン自伝』だった。 現在でもそこに書かれていた行動指針がそのまま私の行動指針となっているほどで、フランクリンはまことに立派な人物だった。 その講師の講義はとにかくつまらなかったため、『フランクリン自伝』を手にしたあとは出席しなくなったのだけれど、おそらく「必読の書」をつかむために、ちょこっと顔を出す必要があったのだとおもう。

そんな感じで人生の必読書は運命とか因縁によって手にすることになるものらしい。

魂の親和


好きな作家の発見は自分の知的発展途上のもっとも深刻な出来事だと私は思う。

こういう際には魂の親和というようなものが現れる。 だから古今の作家のうちで、その魂が自分の魂と近い人をわれわれは発見しなければならない。 かくしてこそ真に善いものが得られるのである。

私淑(ししゅく)すべき師をさがすのには、人にたよらず自己の力にたよらなければならない。

誰に傾倒できるかは他人の知るところではない。 おそらく自分自身にもわからないであろう。 いわば一目惚れのようなものであって、誰それを愛せよと他人からいわれる筋のものではなく、一種の本能の力でわかるのである。

林語堂『人生をいかに生きるか 下』-P.226「第十一章 教養の楽しみ」


私にとって矢沢永吉やベンジャミン・フランクリンというのは自分を一段階上に導いてくれるロールモデルだったのだけれど、それよりも深い魂の親和性を感じる作家やソングライターもいる。

私にとっては村上春樹と井上陽水がそうだった。 それぞれ十代と二十代の一時期に狂ったように傾倒したのだけれど、27歳の運命のクロスロードを過ぎた頃、彼らは美術館の倉庫で埋もれている傑作のように忘れ去られ、私の意識が第ニ層の潜在意識を貫いて第三層の無意識をひらきはじめた40-42歳の大厄の頃に再発見された。 そのときには私自身がようやく彼らの作品から滋養を吸収できる地点に達していたのである。

こういう魂の親和力を持っている存在は、むしろ、ソウルモデルと呼ぶべきなのかもしれない。

ロールモデルからソウルモデルへ


もともと精神的親和力で結びついているのであるから、すべてを吸収し、すべてをわけなく消化する。

作家が呪文を唱えると読者は喜んで呪縛にかかり、ときによると、声も、しぐさも、笑い方も、話し方も、作家そっくりになることがある。 かくして文藻(ぶんそう)上の恋人に溺れ、その書物から自分の魂の滋養物を惜しみなく奪ってしまう。

数年して呪縛がとけ、多少いやけがさしてくると、また新しい恋人を求める。 三、四度恋人をとりかえて、あますところなく食べてしまうと、今度は自分が著者として現れる。

林語堂『人生をいかに生きるか 下』-P.228「第十一章 教養の楽しみ」


ロールモデルやソウルモデルとなりうる作家やソングライターの作品は自伝的な要素を多分に含んでいる。 そこには作者の精神の変性過程が克明に記録されているのだ。 したがってその作品を追いかけることは作者の成長とともに変容を遂げることにつながる。

ただロールモデルのなかには、27・37・47歳あたりで成熟のピークを迎えて変容を止める人もいるので、そのときには新しいロールモデルを探さなければならない。 そうしてロールモデルを何人かとりかえて最終的にソウルモデルを再発見するとき…自分の才能が炸裂する日も近くなっていることを知るだろう。

矢印マーク 『フランクリン自伝』

ボクの天職思想の原典
フランクリンは救世主


電脳山養心寺公案集 養心門 第十一則 伝記


― 人生の転機になると出現する不可視の徴(しるし)がある ―

ロールモデルやソウルモデルは、いつその徴が現れ、そのときどう考えて、どう行動したのかを作品に残してくれている。 とくに彼らの作品から読み取るべきは、その不可視の徴なのだ。 イスラムのスーフィズムでは、その徴をハディルと呼んでいるのだけれど、そのハディルの役割を教える物語をここに紹介しておこう。

電脳山養心寺公案集 養心門 第十一則 伝記


 ムジュードという下級役人がいた。 ある日のこと、彼の前に緑の微光を放つハディルが現れてこう言った。

「ただちにいまの仕事を辞めて、三日後に川のほとりにやってこい」

そう告げるとハディルの姿は消えてしまった。

 ムジュードは不安を抱えながらも、翌日、やさぐれ気分で上司に辞職願いを提出し、三日後、川のほとりに行くとハディルが待っていた。

「服を脱いで川に飛び込め。おまえを助けてくれる者が現れるだろう」

 ムジュードはすてばちになって川に飛び込んだ。 なんとか泳ぐことはできたものの思いのほか流れは速く、はるか下方まで流されたところで漁師に救われることになった。

「こんな流れの速い川でいったい何をしようとしていたんだ、おまえは」
「それが私にもよくわからないのです」
「どうやら炎天下で遊びすぎて脳がフライになっちまったようだな。頭を冷やすにしちゃあ、これはやりすぎたぜ」

漁師の小屋で暖をとりながら話をしているうちに、寝食を提供する換わりに読み書きを教えてくれないか、と漁師が持ちかけてきた。

 こうして漁師の手伝いをするようになって二、三ヶ月たったある夜のこと。 ムジュードの枕元にふたたびハディルが現れた。

「いますぐ起きて、ここを立ち去れ。こんどは別の男がおまえを助けてくれるだろう」

 ムジュードは漁師の格好をしたまま外に飛び出した。 夜道をとぼとぼ歩いていると、明け方にロバにまたがった農夫が通りかかって声をかけてきた。

「おい仕事をしないか?これから市場へゆくのだが、荷運びの手伝いをしてくれる人を探してたところなんだ」

 ムジュードはその後二年近くこの農夫のもとで働き、農業に関すること以外はほとんど何も学ばなかった。 そんなある日の午後、ふたたびハディルが現れて言った。

「モースルの街へ行け。そこでこれまでに貯めた金を使って革職人になるのだ」

 モースルの街では、わずか三年ほどのあいだに、ムジュードは腕のいい革職人として知られるようになった。 たっぷり蓄えたお金で家を買う計画を立てていたとき、またハディルが現れて「その金をよこしなさい」と言った。

「おまえはこれからサマルカンドに行きタバコ屋を営むのだ」

 やがてムジュードはタバコ屋を営む神秘家のオヤジとして知られるようになり、その評判を聞いた求道者たちがサマルカンドの彼のもとに集まってくるようになった。

 ある日、伝記作家がやってきてムジュードに質問した。 「あなたの歩んでこられた人生についてお聞かせください」

 「私はただの下級役人だった。 あるとき辞職願いを提出して川に飛び込み漁師の世話になった。 そしてある夜のこと、その漁師の小屋を飛び出して農夫に拾われた。 ところが突然気が変わってモースルの街へ行くことにした。 そこで革職人になってしこたま金を貯め込んだが、結局それを手放し、サマルカンドでタバコ屋を営みはじめた。 そしていまは、ここでこうしている」

「なんとも不可解な行動だ…」と伝記作家は言った。
「たしかにそうかもしれん…」とムジュードは言った。 「まあ、コーヒーでも一杯どうかね」

 その後、伝記作家はムジュードの人生を刺激的で驚異的な冒険譚に仕立てて一冊の伝記を書きあげたが、ハディルのことはそこに一言も触れられていなかった。

参考:イドリース・シャー『スーフィーの物語』59-不可解な人生を歩んだ男


ハディルはそれまでしたがってきた手法や手順が通用しなくなったとき、どこからともなく“変容の触媒”としてやってくる。

「そろそろ貴重な教訓を学んでおこうじゃないか、君」

なんとも理解にくるしむ不敵な笑みを浮かべながら…

「カーニヴァルへようこそ!これは決して忘れられない体験になるだろうよ」

人は将来にとってきわめて大切な機会を前にしたとしても、必ずしもそれを活かせるとはかぎらない。 こういうときは、<<とりあえず面白そうだからのっかってみる>>という好奇心が、まだしもまともな選択なのかもしれない。

(2017.5)

矢印マーク スーフィーの物語―ダルヴィーシュの伝承

これは、いわばイスラムの公案集
声聞道用の公案集は今のところコレしかない

桃雲水

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坐禅は単なる心の慰めではありません。坐禅を人生に役立てるための智慧がここにあります。救いのある仏教の入門書。