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【坐禅作法117】エルの物語

ちょっとはマシな坐禅作法 エルの物語〜養心門8〜

Presented by

〜養心門8〜


15-16歳の十字架

人生の悲しみは背中に十字架を背負わされる15-16歳からはじまる。

その十字架は、昼下がりのマダムたちがハーブティーを片手に旦那の悪口を言いあっている、まさにその最中にも降りてきて、少年少女をながい午睡(シエスタ)へと誘っていく。 私が高校一年生として過ごした15-16歳というのは、少年時代の終わりを告げる回廊をひたすら歩かされているようだった。

私の周囲の13歳の厄年で精神年齢を止めた少年少女たちは、15歳の誕生日を迎えると「昏睡状態の豚合唱団」の入団準備をはじめた。 彼らの愛唱歌は『だってみんなそうやってるよ』だ。 ほぼ全員が16歳になる高校一年の三学期ともなれば、その唱和が耳をつんざくばかりに教室に響き渡るようになっていた。

「だってみんなそうやってるよ、じゃなくてさ、大切なのは自分がどうするかでしょう?」

そんな哲学を持っていた私は少数派の「覚醒しはじめた豚合唱団」の一員となった。 私の歌う『人生なめてんじゃねえぞ』や『おまえの母ちゃんは死んだネズミを育ててんのか』は、昏睡状態の豚合唱団の神経を逆なでするらしく、なにかと対立するようになってしまった。 おかげで16-17歳を過ごした高校二年の教室は、特殊な技術を学ぶための養成所のようになり、私はその頃から「昏睡状態の豚と上手につきあう処世術」みたいなものを身につけていった。

そのころ一番苦労したのは私と出席番号の並んでいた男との関係だった。 彼とは何かといえば隣あわせにさせられたから、理科の実験室や体育の武道場や修学旅行のバスの中で、ほんのささいなことで口論になったものだった。 それはもう何を言い合ったのか覚えてないくらいの些細なことだ。 13歳の厄年で精神年齢を止めた人たちとは、16歳を過ぎた時点で住んでいる世界自体が違ってくる。 彼らとの意思の疎通は、できの悪い犬に「おまわり」を教えるよりも困難になっていた。

私はそんなカラクリになっているとは知らなかったものだから、<<誰でも話せば分かりあえる>>と思って、その後何年も試行錯誤することになった。 「話をしたところで分かりあえない人もいる」という運命の課題を解く方程式を説明してもらったのは、ようやく30代に入って丸山健二の本を読んだときで…

― 運命の課題を解く方程式は過ちを通して学ぶべきことを学びきったときに明かされる ―

という法則がパラレルワールドにはあるらしい。 そのため…

<<砂糖を入れすぎたコーヒーみたいな、苦いんだか、甘いんだか、よくわからないものが答えだなんて嘘八百はよしてくれ!…いまここで何が起こっているのかを知りたいんだよ>>

そんな私の心の叫びに応えてくれる教師なんか一人もいなかった。 彼らもまた「だってみんなそうやってるよ合唱団」の指導員にすぎなかったのだから。 そういうわけで「どいつもこいつも一体どうしちまったんだ?」という怒りと困惑の中で生きざるをえなくなったのが15-16歳の頃からだった。

矢印マーク 十七歳の地図

○● 昏睡度テスト ●○

このアルバムを15-16歳で聴いたとき…
<<人生なめてんじゃねえぞ>>
と思ったティーンエイジャーの君!

『覚醒しはじめた豚合唱団』に入りなさい


尾崎豊というシンガーソングライターの『15の夜』に、この年頃の心情が巧みに表現されている。

盗んだバイクで走り出す 行き先も解らぬまま
暗い夜のとばりの中へ

覚えたての煙草をふかし 星空を見つめながら
自由を求め続けた 15の夜

誰にも縛られたくないと 逃げ込んだこの夜に
自由になれた気がした 15の夜

(尾崎豊『15の夜』より)

15-16歳というのは、「自分とは一体何なのか」「自由とは『ある牢獄を脱走したら、より大きな牢獄の中だった』というような入れ子細工ではないはずだ」と考えはじめる年齢だろう。 しかしながらほとんどの人は、誰かの乗り物を借用したり、大人のマネをしてみることしかできないものだ。 そのやり場のない叫びに応えて手引きをしてくれる大人は周囲に一人もいない。 かりに手引きをしてもらったところで、その手を振りほどいてしまうほど未熟な知性しか持ち合わせていなかったりする。 それがために、偽りの自由を自由と勘違いして現実逃避の味を覚えはじめていく。

このシンガーソングライターは、そうした15-16歳の現実逃避を引きずったまま大きくなって、23-25歳の厄年を過ぎた頃に死んでしまった。 その後伝説の人物に祀り上げられたため、死後四半世紀経った現在ですら、カリスマ的な人気を誇っているという。 こんな風に世間の雑踏は現実逃避の味を教える教祖であふれ返っているのだ。 どんな本を読み、どんな音楽を聴き、どんな映画を観るのか…この年頃からは、そういうことも友人選びと同じくらい大切なことになってくる。

だいたい16歳になると成長ホルモンの分泌量がピークを迎えて、肉体の変化が成長の喜びだった時代は終わりを告げる。 こうした遺伝子プログラムの暴走としかおもえない現象もまた、いつのまにか背負わされた十字架の証しのように感じられるものだ。

赤雲水

三障の理論

黒雲水

この15-16歳で背負わされる十字架を、大乗仏教では“三障”と呼んでいる。

三障
業障


人生選択の岐路に立ったときに、友人・妻子の愛情や地位や名誉を失う怖れから本心に従った行動を妨げる障害。 結局、こうした人生選択の誤りが生死流転のカルマ(業)の原因となるため業障と呼ぶ。

煩悩障


過去の人生選択の誤りが心理的な引っかかりとして残り、そこから派生して生まれる思考パターンの障害。 色欲、利欲、憎愛、嫉妬のような形で噴出し、間違った欲望をみずから作り出す原因となることから煩悩障と呼ぶ。

報障


両親や社会的権威によって擦り込まれた思想、信条、主義、偏見などの知識に執着する障害。 こうした知識は、因果律にしたがい、過去に蒔いた因果の種子に応じて擦り込まれる果報であることから報障と呼ぶ。


そもそも人生というものは、誰もが等しく運命の課題を与えられ、その経験から知恵を獲得しながら年齢を重ねるようにプログラムされている。

ところがある年齢において運命の課題の透過に失敗していると、ものごとにオトシマエをつけられなかった負い目がいつまでも残り、業(カルマ)の種子となってしまう。 運命の青写真は、その業の種子にもとづいて形成されていくから、ひとつの負い目も残さないように生きることが望ましい。

また、その業の種子の発芽のタイミングは惑星の運行周期に規則的にしたがっている。 というのも惑星からの星の放射線が業の種子に発芽の機会を与えるからだ…

ここまでが仏教誕生以前から存在していた印度ヨーガの前提理論である。 そこから派生した大乗仏教の三障の理論は、これを基礎にしてこんな風に現象を説明する。

やっかいなのは、あやまって植えられた業の種子に発芽の機会が与えられると、本来歩むべき道を逸脱する障害をつくり出してしまうことだ。 その障害を分類してみると、業障・煩悩障・報障の三つに集約される…

これが三障の理論。 大乗仏教というのは、これら三障を生み出すカラクリを見破り、業の種子を植えつけなくなった者から覚者になる、ということを根本教義としているらしい。

で、この三障のカラクリが「15-16歳の少年少女たちに一体なにが起こったのか?」の回答となっている。 この年頃になると、三障のはたらきが分厚い無意識の壁を形成して、本心を覆い隠してしまうというのである。

とはいえ、やはりこういうのは抽象的な理論だけに難しいお話になってしまった。 卑近な例を挙げていこう。 まずは井上陽水の『TEENAGER』が理解の足がかりとして最適だとおもう。 そこには三障の作用がうまく表現されているからだ。

青春に 僕らは海の風
青空に ビーズをちりばめて

ひび割れた唇に 魅せられたシンドバッドは
あこがれを探し続けて

情熱に 群がる鳥の群れ
目の前の セールを飛び越えて

人々は学ばずに 過ちをくり返す
悲しみを拒み続けて

栄光のThirteen
未来のFourteen
世界はFifteen(輝きの中へ 呼び出しておくれ)
涙のSixteen(ときめきと共に 連れ出しておくれよ 今すぐ)
奇蹟のSeventeen(怖がりな僕を 抱きしめておくれ)
嘆きのEighteen,Nineteen(悲しみの外へ 連れ出しておくれよ 今すぐ)

(井上陽水『TEENAGER』より)

ティーンエイジャーたちは、誰かから吹き込まれた人生の冒険にあこがれを抱き、手に入れられるだけの安っぽいビーズで青空いっぱいに情熱をえがく。 しかしながら、いざ冒険に旅立ってみると、運命の機会を精一杯に活用しようとすることなく、鳥が空から俯瞰するように眺めるばかり。 そもそも仮面(ペルソナ)を脱ぎ捨てる悲しみを拒み続けているがゆえに、人生から何も学ぶことなく、過ちを繰り返し続けてしまうのだ。

輝きの中へ 呼び出しておくれ
ときめきと共に 連れ出しておくれよ 今すぐ
怖がりな僕を 抱きしめておくれ
悲しみの外へ 連れ出しておくれよ 今すぐ

そんなティーンエイジャーたちの心の叫びが、ちょうど三障の闇におおわれはじめる15歳頃から聴こえてくる。 私もまた、こんな風に三障の闇に呑み込まれていった。

矢印マーク 九段

1998年―井上陽水50歳の作品
『TEENAGER』収録


三障の闇

私の内側に物語が眠っていることに気づいたのは小学校の三年生のときだった。

それは国語の課題を与えられたときのことである。 四コマの写真があって、それに物語をつけろという課題で、生まれてはじめて書くことに興奮を覚えたのがそのときだった。 先生に原稿用紙を追加してもらって何枚も書いたのを覚えている。 ぜんぜんうまく書けなかったけれど。

それでも私はそのときの興奮をずっと覚えていた。 中学生のときに村上春樹の『ノルウェイの森』を読んでからは、その透明感のある文体にあこがれを抱くようになった。 けれどもそういうティーンエイジャーのあこがれは、そんなに長くは続かない。 私が村上春樹を読んでいたのは高校一年生の16歳になるまでで、大学受験に専念しはじめてからは、いきなり手のひら返しをしてしまった。

<<村上春樹は単なる官能小説家だ。あんなものは読む価値なしである>>

それからは人生の方向性を一気に失っていった。 自分は何をしているのか、自分はどこにいて、どこに向かっているのか…そんなことも釈然としないまま努力を続けることになった。 それは、ありもしない神殿を探しあぐねて、終わりなき巡礼の旅を続けるようなものだろうか。 私は屍(しかばね)も同じだった。

「本気でやりたいことなら、どんなことがあろうと踏みとどまったんじゃないですか?」

百マイルほどのむこうから、そんな声が聞こえてきそうだ。 でも人生はそんなに甘いものじゃない。 たいていの場合は、“本気でやりたいこと”なんて当の本人がわからなくなっているものなのだ。 三障のつくりだす闇のせいで…その闇の中に浮かびあがる無意識の壁はそれほど分厚い。

「芸術?そんなものでメシが食えるか。現実的で堅実な道をしっかり歩むほうがいい」

これが半民半官の大企業に勤め続けていた父親の口癖だった。 23-25歳の厄年で“ふるさと行きの乗車券”を行使しなかった父は、私にモノゴコロついた頃にはすでに骨抜きにされてしまっていた。 こうした父の口癖は幼い頃から繰り返し私の耳に入ってきて、私自身の思い癖ともなった。 すなわち父の口癖は、夜陰にまぎれて偽装船が運んでくる武器弾薬のように私の潜在意識に持ち込まれ、業の種子を形成していたのである。

やがて高校一年生の15-16歳になったとき、いつのまにか私の潜在意識に持ち込まれていた武器弾薬が暴発した。 私は唐突に、芸術家として創造活動をする将来自体をあきらめてしまったのである。

<<もっと現実的で堅実な道を選ぶべきかもしれない…>>

ほどなくして大学受験の勉強に専念しはじめると、私の中に“リトル仁悟”という仮面(ペルソナ)が誕生した。 リトルは天井裏に巣食ったネズミのように増殖して、私の人格に分裂をもたらし、急速に精神が歪みはじめた。

三障はこんな風に無意識の壁を形成して、本心を覆い隠してしまうのである。

青雲水

遠くへ行きたい…

緑雲水

『バガヴァッド・ギーター』はこう教えている。

自分の義務が完全にできなくても
他人の義務を完全に行うより善い
天性によって定められた仕事をしていれば
人は罪を犯さないでいられる

どの仕事にも短所や欠点がある
ちょうど火に煙がつきもののように
ゆえにアルジュナよ 自分の天職を捨てるな
たとえその仕事が欠点だらけだとしても

(『バガヴァッド・ギーター』18-47・48)

三障のつくりだす闇に蔽(おお)われると、人は自分の天性の義務をすっかり忘れ、他人の義務を遂行しようとしてしまう。 私の場合は、父親から長年吹き込まれてきた「現実的で堅実な道」とやらを歩みはじめてしまった。 おそらくその15-16歳のときから、私は自分の本性に対して罪を犯すことになったのだろう。

けれどもそれを「若い過ち」と呼んでしまうのは少しばかり違うとおもう。

― 人生には遠まわりしてでも踏まなければならない幾つかの心理的段階がある ―

大体にして私たちは何が最良かをいつも心得ているわけではないはずだ。 パラレルワールドのルールの中には遠まわりして一皮むけなければ理解できないものが幾つもあった。 その場合には、あらゆる意味合いにおいて遠まわりが正解だったのである。 現在の私はただ「あの当時はそうしなくてはならなかった」としか言いようがない。

そこで三障の闇に蔽われはじめた15-16歳からの私は、はじめは毒薬のように苦しくても、終いには甘露になるような大道を選ぶようにしてきた。

はじめは毒薬のように苦しくても
終(しま)いには甘露となるような
大道を歩む清純な喜びは
サットヴァの幸福である

はじめは甘露のようで
終いには毒薬のようになるのは
感覚がその対象に触れたときの喜びで
ラジャスの幸福である

自己の本性について全く関心なく
始めから終わりまで妄想であり
惰眠と怠惰と幻想から生ずる喜び
それはタマスの幸福である

(『バガヴァッド・ギーター』18-37・38・39)

世の中の人々の運命を観察して、よくよく考えてみてもらいたい。 彼らが45歳のミッドライフクライシスや人生の果実を受けとる54歳の収穫期に入ったとき、彼らの人生は「はじめは甘露のようで終いには毒薬」のようになってはいないだろうか。 彼らの語る幸福は「始めから終わりまで惰眠と怠惰と幻想から生ずる妄想」ではないだろうか。

私はわずかでも父と同じ道をたどったら、自分の天性の義務を完全に忘れ切ってしまうことがわかっていた。 私は父の口癖によって、15-16歳までにほとんど骨抜きにされてしまっていたからだ。 そのため「父の歩んだ道は人間の歩むべき道ではない」という哲学を持ち、父の歩んだ人生とは正反対の道に旅立たなければならなかった。

そこで私は19歳の後厄で札幌を旅立ち、25歳の後厄までに東京で勇気をひろいあつめ、27歳の運命のクロスロードにさしかかったとき、父親とタイマンで勝負するために再び札幌に舞い戻った。 この『遠くへ行きたい』は、17-19歳の厄年のときに起こる旅立ちの衝動をよく表現しているとおもう。

知らない街を 歩いてみたい
どこか遠くへ行きたい
知らない海を 眺めてみたい
どこか遠くへ行きたい

遠い街 遠い海
夢はるか一人旅

愛する人と めぐり逢いたい
どこか遠くへ行きたい

愛し合い 信じあい
いつの日か 幸せを

愛する人と めぐり逢いたい
どこか遠くへ行きたい

(作詞:永六輔 作曲:中村八大『遠くへ行きたい』より)

わかるだろうか…求道者は19歳の後厄になると故郷を旅立つ。 けれどもどれほど遠いところへ旅立とうと、いつかはオトシマエをつけるために戻ってこなくてはならない。 両親の待っている故郷はそんな遠心力を持っている。

故郷は出発点のあるところだ。 そこはオトシマエをつけられなかったすべての負い目の故郷でもある。 なぜならそこは15-16歳の頃に最初の仮面(ペルソナ)―リトルが誕生したところだからだ。 人格に分裂を起こしはじめた原因は両親の待っている故郷にある。

そして、ここに25歳の後厄を過ぎた頃に故郷へ帰ろうとする男の歌がある。 『いきものがかり』というグループの水野良樹がちょうどその年齢で創作したものだ。 この歌は彼の最高傑作だと私はおもっている。

心の穴を埋めたいから 優しいフリして笑った
出会いと別れがせわしく 僕の肩を駆けていくよ

ダメな自分が悔しいほど わかってしまうから損だ
強くはなりきれないから ただ目をつぶって耐えてた

ほら 見えてくるよ

帰りたくなったよ 君が待つ街へ
大きく手を振ってくれたら 何度でも振り返すから
帰りたくなったよ 君が待つ家に
聞いて欲しい話があるよ 笑ってくれたら嬉しいな

(水野良樹『帰りたくなったよ』より)

求道者はひとまず故郷を旅立ち、やがて円をえがくように故郷に舞い戻る。 天職への扉の前に立ちはだかっている“キーパーソン”と対決するために。 最初の人格分裂をもたらしたペルソナ―リトルと対決するために。 すなわち三障の闇に蔽われはじめた15-16歳の自分と対決するために。

そしてその先には…再会を約束した愛すべき人が待っている。

矢印マーク 『神の詩―バガヴァッド・ギーター』

世界中で聖書の次に読まれているという聖典
仏教とキリスト教をつなぐ架け橋となる


キーパーソンとの対決

故郷の札幌に帰ってからキーパーソンである父親と対決した私の手法は、仏教とギリシア哲学の折衷型のアプローチだった。 ここにその手法を書き残しておこう。 そのうちの仏教的アプローチについては、和尚が『一休道歌 上』で説明しているので、それにしたがって解説したい。

この手法を学ぶにあたっては、まず精神分析の限界に気づいておく必要がある。

精神分析の限界


フロイトはそれを養育のせいにする。

幼児期にあなたは間違った育てられ方をした―どうしようもない。 それはすでに起こってしまった。 今となってはやり直す道はない。 せいぜいそれを受け容れ、それを生きることしかできない。 あるいは不必要に闘いつづけることもできる―が、希望はない。

フロイトは最大の悲観論者のひとりだ。 彼は人間に希望はないと言う。 なぜなら幼児期にパターンが定着してしまうからだ―永久に定着する。 その後、あなたはそのパターンをくり返しつづける。

ふたたび責任は転嫁されていく。 責任はあなたの母親にあり―母親は「私だってどうにもならないのよ」と彼女の母親に責任があると考え…そしてこれがどこまでも続く。

和尚『一休道歌 上』-P.578「第12話 責任を負うのは“あなた”だ」


精神分析家の説く手法は三障の闇を作り出した原因を両親に責任転嫁するように教える。 しかしながらそれでは精神科医から盗んだバイクで走りまわって「オレは自由だ!」と叫んでいるようなものだ。 そんなものは現実逃避によって心の慰めを得ているにすぎない。

たいていの人々の心は誰かに責任転嫁することで自尊心を保つようにはたらいているから、精神分析家の言うことは受け容れやすい。 たとえフロイトの理論を学んだことがなくても、誰もが精神分析家の素質を持っている。

しかし、天職を捨てるつもりがないのなら、愛をあきらめたくないのなら、気づかなければいけない。 その精神分析には限界があるのだと。

すべての責任を自分が引き受ける


ひとたびあなたが「まさに自分だ。自分が自分を損なっているのだ」と理解したら、そのときには扉が開く。 そうなったら希望がある。 そのときにはたしかに何かが可能だ。

革命は責任を―個的な責任を経てこそ可能だ。

あなたは転換しうる。 あなたはこれらの古いパターンを落とすことができる。 それらはあなたの宿命ではない。 が、もしそれらを自分の宿命だと認めてしまったら、それらは実際にあなたの宿命になる。

それはひとえに、それらに力を貸すか否かの問題だ。

そしていいかね、私は両親があなたに何もしなかったと言っているのではない。 私は、社会があなたに何もしなかったと言っているのではない。 私はそんなことを言っているのではない。 社会は多くのことをした。 両親は多くのことをした。 教育者や僧侶たち、彼らは多くのことをした。

だが、依然として究極の鍵はあなたの手のなかにある。

和尚『一休道歌 上』-P.578-579「第12話 責任を負うのは“あなた”だ」


三障の闇を作り出した原因を両親に責任転嫁する精神分析をやめれば、そこに天職への扉がひらく。 すべての責任が自分自身にあることに気づけば、手の中に天職への扉の鍵があらわれるのだ。

この運命の課題に取り組んでいた31-33歳の大厄のとき、私の実践した方法は「釈迦が輪廻転生の法則を説いていたのは何故か」を洞察することだった。

釈迦が輪廻転生の法則を説いていたのは何故か


仏陀はさらに深く入っていった。 彼は言う。

「もしあなたがある種の両親を選んだのであれば、それもまたあなたの選択だ」

要点を見るがいい。

あなたの魂が生まれようとしてさまよっていたとき、何百万もの愚かな人々が愛を交わしていた。 だが、それでもあなたはあるカップルを選んだ。

なぜか?

あなたには特定の観念があるに違いない。 それはあなたの選択だ。 それなのにあなたは「両親が私に悪影響を及ぼした」と言う。

そもそも、あなたはなぜ彼らを選んだのか?

和尚『一休道歌 上』-P.581-582「第12話 責任を負うのは“あなた”だ」


27歳の運命のクロスロードで札幌の実家に帰ると、父親と自分の共通点をいやでも観察することになった。 それから数年経過するうちに、父の心の弱さと私の心の弱さには同じ性質があることに気づいた。 やがてその性質を克服するためには、自分自身の心の弱さを認めなければいけないことにも気づいていった。

<<釈迦が輪廻転生の法則を説いていたのはこのためではないのか…>>

私は、生まれる以前から具わっていた自分の潜在的な性質に、三障の闇を作りだした原因があったことを認めた。 おそらく私は、その性質を乗り越えるために、あえてこの父を選んだのだ。 ついに私は父に責任転嫁することをやめた。

<<三障の闇を生み出した責任は父にはない>>

そうして父に対する怒りのせいで固くにぎられていた拳の力が抜けたとき、自然にひらかれた手のひらに天職への扉の鍵があらわれたのだ。

あなた以外の誰にも責任はない


あなた以外の誰にも責任はない。

これは認めるのがもっともつらい真実のひとつだ。 だが、ひとたびそれを受け容れたら、それは大いなる自由をもたらす。 それは広大なスペースを創りだす。 なぜならそれと共に、もうひとつの可能性がただちに開くからだ。

「もし責任が私にあるなら、私は変えることができる。 もし私に責任がなかったら、変えることはできない。 私が自分自身にそれを為しているとしたら、それは痛みはするが、新しい可能性をもたらしてくれる―私は自分自身を傷つけるのをやめることができる。 私は惨めであることをやめることができる」

和尚『一休道歌 上』-P.583「第12話 責任を負うのは“あなた”だ」
矢印マーク 一休道歌 上

風狂の禅師・一休の和歌で学ぶ禅
こいつはイカシテル

桃雲水

電脳山養心寺公案集 養心門 第十則 エルの物語

赤雲水

この輪廻転生説のアプローチと同じ洞察を起こすための物語をプラトンが用意している。

以下は、その主著『国家』の最終章に書き残されている『エルの物語』だ。 あの世で人間の魂がいかにして運命を選択するかを見てきた男のお話で、プラトンは物語の最後をこう締めくくっている。

「もしわれわれがこのエルの物語を信じるなら、つねに向上の道をはずれることなく、何ごとにつけても思慮深く歩み続けるようになるであろう。 そうすることによって、優れた競技者が幾多の優勝杯を集めてまわるような時節がやって来たとしても、その幸運に自分を見失うことなく、神々と親しい友であり続けることができるであろう」

電脳山養心寺公案集 養心門 第十則 エルの物語


 戦士エルは戦場で最期をとげた。

 しかし彼の屍体だけは腐ることがなく、いよいよ埋葬されようとしていた十二日目に生き返った。 それからの彼は、あの世で見てきた光景を伝え歩いてその生涯を過ごした。

 「私は、お前には死後の世界のことを報告する義務があるから、ここで行われることのすべてをよく見聞きしておけ、と言われたのです」

 これは運命選択の神殿で繰り広げられた光景のお話である。

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 運命選択の神殿に到着すると、死後の世界の魂たちは神官の前にきちんと整列させられた。 神官はいくつもの生涯の見本を地上に並べ、壇上から籤(くじ)を掲げて言った。

 「命はかなき魂たちよ! 死すべき族(やから)たちのいまひとたびの周期がここにはじまる。
 これより諸君は、みずからの生涯を籤引きによって順番に選ぶ。 汝らの運命の守護霊―ダイモーン―をみずから引き当てるがよい。 ひとたび選んだらその後の変更は許されない。 その生涯に一生縛りつけられ離れられなくなるから覚悟しておけ。
 どのような生涯を選んだとしても、その善し悪しは、徳を尊ぶか、ないがしろにするかによって決まる。 その生涯にわたって得られる徳の質と量は、選択した生涯に左右されることはない。 同じ生涯でも、より多くの徳をわがものにする者もいれば、より少ない徳をわがものにする者もいるであろう。
 すべての責任はその生涯を選んだ者の生きざまにあることを忘れるな。 運命の守護霊―ダイモーン―にはいかなる責任もないことを覚えておけ」

 神官はそう言い終えると居並ぶ魂たちに籤を投げ与えた。 自分のところに落ちてきた籤を拾いあげた魂たちは自分が第何番目の順番を引き当てたかを知った。

 そこに並べられていた生涯の見本は、容貌の美しい者―醜い者、健康な者―病める者、富める者―貧乏な者、男―女、それから動物…ありとあらゆる生涯の見本があった。 たとえば僭主として生まれる生涯ならば、一生栄華のつづくものもあれば、途中で亡びるものもあり、追放にあって乞食になり果てるものもある、といった具合である。

 全員が籤を手にしたところで神官は言った。

 「真剣で謙虚な態度でその生涯を選択するかぎり、どの生涯も満ち足りた生涯になるであろう。 ゆえに順番が最後になったからといって落胆することはない。 よく心して選ぶがいい。 最初に選ぶことになった者も決しておろそかに選んではならぬ」

 神官がこのように言い終わるや、第一番目の籤を引き当てた魂が、ただちに進みでて最大の独裁者の生涯を選んだ。 しかし時間をかけて調べ直したあと、その魂は地面を叩いて自分の選択を嘆いた。 そこには自分の子供たちの肉を食らうことや、その他もろもろのわざわいが含まれていることに気づかなかったからである。

 エルは「それぞれの魂がみずからの生涯を選んだ過程は見ておくに値する光景でした」と語っている。 たしかにそこでは、憐れみをおぼえるような、笑い出したくなるような見世物が展開されていた。 けれどもそのほとんどの選択は、前世における精神的習慣に左右されていることがはっきりしていたからである。

 あまり苦悩することなく前世を終えてきた魂は、浅はかに生涯を選び、苦悩から何かを学びながら前世を終えてきた魂は、あだやおろそかに生涯を選ぶことはなかった。 苦悩から学んできた魂たちは、己れの先天的な性質が、身体の強弱や地位名誉の有無や人間関係といった後天的な諸要素と結びつくとき、どのような結果を生み出すかを考えて慎重に選んだ。 そうした事情により、多くの魂にとって<幸運な生涯>と<不幸な生涯>とが入れ替わることになったのである。

 とりわけ一番最後の順番になった魂は、前世における数々の苦悩が身にしみて、もはや名声を求める野心も枯れはてていた。 そこで、ひっそりとした一私人の生涯を探し求めた。 そしてやっとのことで、そういう生涯が他の魂たちから顧みられることなく片隅に残っているのを発見して叫んだ。

 「かりに一番目の籤を引き当てていたとしても私はこの生涯を選んだだろう!」

 こうしてすべての魂が生涯を選び終えると、女神ラシケシによって、各魂と運命の守護霊―ダイモーン―が結びつけられた。 その後、放念の河―アメレース―のほとりに連れて行かれて忘却の水を飲まされると、魂たちは死後の世界で起こったいっさいのことを忘れてしまった。

 やがて雷鳴がとどろき、大地がゆらぎ…それぞれの魂は新たな誕生のために流星のごとく各地へ飛んでいった。

参考:プラトン『国家』第十巻614-620


― 自分の運命の選択にさからうと便秘がちになる ―

この法則はもうしばらく検討しなくてはならないけれど…あながち間違ってはいないだろう。

(2017.5)

矢印マーク 『国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8) 』

人類最初のSF小説にして哲学の真髄
下巻の第6〜第7巻は必読に価する
『エルの物語』は最終第十巻に収録


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