『スタンド・バイ・ミー』には12歳の四人の子供たちが登場する。
その子供たちが夏休みに死体探しの冒険に出るお話で、どうしてアメリカの子供たちは「死体を見つけたら英雄になれる」という発想をするのか、私は未だによくわからないのだけれど、とにかく長く印象に残る物語だった。
『スタンド・バイ・ミー』に登場する四人の子供のうち、ひとりゴードン・ラチャンスのみが将来作家になる才能の片鱗をすでに見せている。
それ以外の三人はただの落ちこぼれという設定なのだけれど、それでも“それ以外”のうちのクリス・チェンバーズだけは、そこから何とか這い上がろうとしている。
そんな物語なのだ。
スタンドバイミーの構成メンバー
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■ 1 ゴードン・ラチャンス ■
後に作家になるエリート。カレッジコースに進んだ優等生
■ 2 クリス・チェンバーズ ■
運命に抗ってカレッジコースに進むのだけれど落ちこぼれる
■ 3 バーン・テシオ ■
職業訓練コースに進んだ落ちこぼれ
■ 4 テディ・デュシャン ■
職業訓練コースに進んだ根っからの落ちこぼれ。一番のバカ
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『スタンド・バイ・ミー』の中で最も印象的だったのは、クリスがゴードンに向かって放つこのセリフだった。
― おまえの友達はおまえの足を引っぱってる。
溺れかけた者がおまえの足にしがみつくみたいに。
おまえは彼らを救えない。いっしょに溺れるだけだ ―
(スティーヴン・キング『スタンド・バイ・ミー』<第17節>)
このゴードンの足を引っぱっている友達の中には残念ながらクリス自身も入っている。
でもクリスはそんな自分の悲しい運命を受け入れているのだ。
しかも残りの二人― バーン・テシオとテディ・デュシャン ―が溺れはじめている現実を理解したうえで、彼らと一定の距離を保って生きる術も身につけている。
当時の私はどうやら自分はクリス・チェンバーズのようだと思った。
ゴードンのような才能の片鱗なんてまるでなかったし、他の落ちこぼれどもに脚を引っぱられて溺れないように生きていた。
そんな自分の境遇とクリス・チェンバーズの境遇を重ね合わせたとき。
私は漠然とではあるけれど教室で喧嘩になった二人の男の境遇を理解した。
<<溺れかけている彼らはボクを仲間に引きずり込もうとしているだけだ…>>
<<ボクは彼らに情けをかける必要もなければ、嫌悪するまでもない…>>
<<どのみち彼らを救うことはできないのだから…>>
その洞察が起こった頃から他のグループの忘れ物の総計が私たちのグループを上まわってきた。
そうして私たちは床みがきの罰ゲーム地獄からようやく解放されたのである。
事態の解決策は、問題の二人の男を教え諭(さと)すことでも、同情することでも、喧嘩をすることでもなかった。
その解決策は、私が二人の男の境遇を理解し、なおかつ、それにまつわる思考に執(とら)われないでいる方法を知ることにあったのである。
すべてがまるでひとつのゲームのようにみえてきた。
私がそのゲームのルールを理解して課題を解いたとき、事態は自然に解消されてしまうみたいだった。
― あらゆる出来事はゲームである。
事態を解決するためにはまずそのルールを学ばなければならない ―
こうしてゲームのルールを理解しはじめた中学一年のときに漠然と感じたのは、<<この現象世界に浸透している不可視の世界があるらしい>>ということだった。
後に私はその不可視の世界をパラレルワールドと呼ぶようになったのだけれど、おそらく、そのパラレルワールドを支配している法則が天のルールなのだろう。
こうして私は天のルールを学びはじめた。
もう二度と戻りたくはないけれど、中学一年の教室には運命の課題の基礎が詰まっていたのかもしれない。
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