ここでルールと呼んでいるものは、不変の法則のことであり、法(ダルマ)とか道(タオ)と呼ばれることもある。
けれども法や道の本質に本当の意味で触れられるとしたら、それは上根機だけだろう。
上根機になるまでは、たとえば大乗経典の『般若心経』や老子の『道徳経』のような経典は本当には読みこなせない仕組みになっている。
そこに書かれているのは中根機のしたがっているルールの逆説(パラドックス)だからだ。
法や道というものは中根機時代にしたがうべきルールを逆説的に否定することによって明らかとなっていく。
したがって、もしもそれを理解したければ、まず何によらず中根機のルールを身につけておかないかぎり、「オタクじゃ話にならない」と門前払いされてしまうのだ。
それは上根機にいたるゲシュタルト転回の入口では、中根機時代にしたがっていたルールを放下(ほうげ)しはじめなければならないことを意味する。
中根機時代に“善”だと信じていたことは“悪”であり、それまで“正”だと思い込んでいたことは“誤”だったと知らされるのだ。
そこではこのテーゼが絶対的となる。
― 逆説(パラドックス)が常に正しい ―
このテーゼは中根機と下根機の関係においても絶対的だ。
つまり中根機にいたるゲシュタルト転回の入口では、下根機時代にしたがっていたルールを手放さなければならない。
31-33歳でゲシュタルト転回を起こしてから40-42歳を迎えるまでの私は中根機だった。
そのため31-33歳の大厄を迎えるまでの下根機時代にしたがっていたルールの逆説(パラドックス)…それが私のルールとなってきたのだ。
30代を通じて、下根機時代の“悪”は私の“善”であり、下根機時代の“誤”は私の“正”だった。
したがって、下根機としての生きざまに反逆し、そのルールを否定することがそれまでの私の美学だった。
― われ反逆す、ゆえに我あり ―
これを逆に言えば、世の中の圧倒的多数を占める下根機にとって私は悪人だったし、上根機のルールに照らしてみると私は過ちを犯してきた罪人ということになる。
ここまで説明すればこの公案の意味がわかってくるだろう。
電脳山養心寺公案集 養心門 第五則 悪人正機
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善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや
親鸞の逆説や如何に?
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『歎異抄』第三章
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この教科書でもおなじみの親鸞の逆説を和尚はこう語っている。
かつて罪人でなかった聖人などいたためしはない
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あらゆる聖人たちはみなかつて罪人だったことがある。
かつて罪人でなかった聖人などいたためしはない。
さもなければ、どうやってその人は聖人になる?
彼は旅をし、過ちを犯し、道を踏みはずし、何百万回も転んではまた起き上がった。
そうやってたどり着いたのだ。
その旅の間、ずっと彼はひとりの罪人だった。
もう彼は学ぶものを学び、これ以上過ちは起こらない。
彼は罪を犯すことを通じて、過ちを通じて賢くなったのだ。
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和尚『TAO 永遠の大河 3』-P.359「第8話 Q&A 愛と責任」
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ご存知のとおり。
親鸞は肉食妻帯という鎌倉時代の仏教者の禁忌を犯した反逆者だった。
はたして彼は悪人だったのだろうか?
そうだとも言えるし、そうでないとも言えるだろう。
道を踏み外したことのない連中は単なる臆病者だ
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世の中には愚かな聖人というのもいる。
私に言わせれば、彼らなど聖人のうちにはいらない。
彼らはただ単に怯えた連中、臆病者にすぎない。
彼らは一度も罪を犯したことがない。
一度も道を踏みはずしたことがない。
彼らはいつも正道にしがみついてきた。
よく踏み固められた道に。
社会が彼らに与えたイデオロギーに。
宗教が彼らのマインドに無理矢理押しつけた概念に。
たまたま生まれついた条件づけに。
彼らはしっかりとしがみついてきた。
彼らは一度として道を踏みはずしたことがない。
彼らは臆病者だ。
何ひとつ学んでやしない。
私にとっては彼らの価値などゼロに等しい。
彼らはいい連中かもしれない。
しかし、そのよさには塩けがない。
それには何の風味もない。
それは少々どんよりとして死んでいる。
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和尚『TAO 永遠の大河 3』-P.360-361「第8話 Q&A 愛と責任」
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いちども道を踏み外したことのない連中は単なる臆病者だ。
道を踏み外し過ちを犯すには勇気と根性がいる。
しかしながらそうした美学を持った悪人や罪人こそ、いずれ善人や聖人となりうる。
とはいえ親鸞に限っていえば、善人と呼ぶにも悪人と呼ぶにもふさわしくはなく、罪人とも聖人とも呼べないだろう。
私なら親鸞を“あまのじゃく”と呼びたい。
彼は他人が触れたら痺(しび)れてしまうような毒を自分の中に持っている。
彼の人間性には適度の塩気や甘辛さがある。
人間たるものあまのじゃくの風味がスパイスとして不可欠なのだ。
私たちは、子供の頃から、何を読み、何を為すべきかを社会から押し付けられ、自分で考えて行動する習慣を忘れてしまっている。
だから、まず一度“あまのじゃく”となって、社会の外に出るのだ。
そうして自分のオツムで考える習慣を取り戻さなければならない。
そのときはじめて、自分がいかにして常識、道徳、伝統、信仰、倫理を社会から押しつけられるままにされてきたかを追究できるようになる。
まずは勇気を出して罪人や悪人として生きる美学を持つといい。
きっとそこから誰のものでもない自分の人生が拓けてくることだろう。
(2016.11)
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