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【坐禅作法112】悪人正機

ちょっとはマシな坐禅作法 悪人正機〜養心門3〜

Presented by

〜養心門3〜


睾丸蹴りの屈辱

ぷっつん体験は根性なしにはむずかしい。

おそらくそれは、心ならずも犯してきた愚かな過ちを認め、それまで送ってきた歳月を全否定することになるからだろう。 揺るぎない地盤のうえに築きあげてきたはずの精神世界の落日は、あたかも最後の審判にあって咎(とが)められ罰せられているかのようで、自尊心の大幅な喪失をともなう。 まるで恋人に睾丸を蹴りあげられ世界の終わりをまざまざと見せつけられているかのようだ。

「どう、まいった?世界の終わりを見るがいいわ」
「もう嫌だ…普通の男の子に戻りたい。というか…女の子に生まれたかった」

そんな救いようもなく切ない無力感のなかで激しい鞭に打たれるような焦燥感にも見舞われる。

「ふんっ、あなたに戻る場所なんかもうないのよ」

ぷっつん体験に比すべき心の葛藤はない。

過去志向の下根機、未来志向の中根機、現在志向の上根機。 この三つの意識レベルの人間はそれぞれ異なるルールにしたがって生きている。 そのため意識レベルをひとつ上がるとき、その人のしたがうべきルールは逆説的に変わらざるをえない。 そのとき、それまでの善は悪となり、それまで正しかったことは誤りとなる。 もちろん周囲で巻き起こる事象はそれまでと何も変わらない。 ただ事物や事象の全体― ゲシュタルト ―の見え方が変わるのだ。 あたかも左右反転の法則で成り立つ鏡の世界に移行するかのように。

その新たな世界の門番はそれまで送ってきた歳月をためらうことなく咎(とが)め罰する。 容赦なく心の急所を突いてくるそのやり口は、いわば睾丸蹴り(たまけり)の屈辱に等しい。 しかしそれが歓待の洗礼なのだ。 そのときに起こる自尊心の大幅な喪失が新たな世界への入国許可証となる。 いざ挑戦と冒険と創造のフロンティアへ! ひとたび門(ゲート)をくぐると世界が違って見えてくる。

<<ルールが変わっている…>>

人は新たなルールにしたがって生きる術(すべ)を身につけなければならないことをさとる。

赤雲水

ゲシュタルト転回

黒雲水

ぷっつん体験を透過するとき…事物や事象の全体― ゲシュタルト ―の見え方がこのように転換する。 この現象には何か適当な名称が必要なようだ。 たとえば、こう命名してみたらどうだろう。

ゲシュタルト転回― 事物や事象をみる視座の転換 ―

ぷっつん体験とはこのゲシュタルト転回のことにほかならない。 そこでは上半身は前へ行こうとしているのに下半身がねじれて後ろに歩きはじめるようなことが起こる。 ここで下半身と言っているのは動物的な本能とでも説明しておこうか。 上半身の意識はそれまで慣れ親しんだ世界にしがみついているのに、下半身の本能が新たな世界を志向する。 それが心の葛藤を生むのだ。 上半身の意識に勝(まさ)った根性なしは、新たな世界に足を踏み入れてルールが変わっても、そのことに気づかないか、気づかないふりをして精神分…いや、これ以上はなにも言うまい。 根性なしにも五分の魂。 人にはそれぞれその意識レベルにふさわしい場所というものがある。

このゲシュタルト転回のプロセスはきっかり三年で完結するらしい。 厄年が前厄―本厄―後厄の三年間で構成されている所以(ゆえん)はそこにある。 私の場合、31-33歳の大厄と40-42歳の大厄のときにゲシュタルト転回が起こった。 すなわち…ぷっつん体験は少なくとも二度ある。

ゲシュタルト転回
図・布施仁悟(著作権フリー)


この大厄における三年間のゲシュタルト転回のプロセスは体験的に振り返るとこんな感じだった。

31・40歳(前厄)…意識変革の兆し(自尊心の喪失)が起こる
32・41歳(本厄)…意識変革を起こすためのツールを手に入れる
33・42歳(後厄)…意識変革の動機を与える出来事(ぷっつん体験)が起こる

この三年間のプロセスを通過して新たなルールにしたがって生きる覚悟を決めるとゲシュタルト転回の意識変革は完了する。 まもなくこういうことになるだろう。

34・43歳(大厄以降)…現象世界の環境自体が変わる

最も重要なのは本厄にはいる直前の半年間くらいでゲシュタルト転回はそこから起こりはじめる。 たとえば私の場合なら正師・秀爺の鉄槌を利用して天才作家の自己イメージを落としたのが40歳。 そこで起こった自尊心の大幅な喪失をきっかけに、星まわりの科学やぷっつんレディ4号との依存関係など、それまですがってきた古いルールを手放しはじめた。

もしもこの時節に自尊心を喪失しないまま41歳の本厄に入っていたら、『縁覚道の地図』や『アニムスの歌を聴け』を書くことはなかっただろう。 作家志望の私にとって、それらを書くこと自体が新たなルールに適応するための意識変革のツールになっていたからだ。 私は書くことによって古いルールを整理して新たなルールに適応するための下地をつくりあげてきたのである。

とくに後厄の時節に書いた『アニムスの歌を聴け』は42歳8月の高校の同窓会という大団円に向かって書くことになった。 執筆期間は41歳12月から42歳9月まで。 一ヶ月に一章ずつ書いていった。 最終章を書くひと月前に同窓会が開催されるなんて知らなかったのだけれど、不思議なことにちょうどその時期に書き終わることだけは何となくわかっていた。 どうしてそんな芸当ができたのか自分でもよくわからない。 その高校の同窓会が意識変革の動機を与える“ぷっつん体験”だったのである。

<<やられた…すべてが巧妙に仕組まれた逆説―パラドックス―だったのか…>>

この洞察が起こるまでの一連の体験によって、私のすがってきた古いルールは崩壊した。 さらにひとりの天使の存在を知ったことが新たなルールにしたがって生きる覚悟を私にもたらしたのである。


電脳山養心寺公案集 養心門 第五則 悪人正機

ここでルールと呼んでいるものは、不変の法則のことであり、法(ダルマ)とか道(タオ)と呼ばれることもある。 けれども法や道の本質に本当の意味で触れられるとしたら、それは上根機だけだろう。 上根機になるまでは、たとえば大乗経典の『般若心経』や老子の『道徳経』のような経典は本当には読みこなせない仕組みになっている。

そこに書かれているのは中根機のしたがっているルールの逆説(パラドックス)だからだ。 法や道というものは中根機時代にしたがうべきルールを逆説的に否定することによって明らかとなっていく。 したがって、もしもそれを理解したければ、まず何によらず中根機のルールを身につけておかないかぎり、「オタクじゃ話にならない」と門前払いされてしまうのだ。

それは上根機にいたるゲシュタルト転回の入口では、中根機時代にしたがっていたルールを放下(ほうげ)しはじめなければならないことを意味する。 中根機時代に“善”だと信じていたことは“悪”であり、それまで“正”だと思い込んでいたことは“誤”だったと知らされるのだ。 そこではこのテーゼが絶対的となる。

― 逆説(パラドックス)が常に正しい ―

このテーゼは中根機と下根機の関係においても絶対的だ。 つまり中根機にいたるゲシュタルト転回の入口では、下根機時代にしたがっていたルールを手放さなければならない。

31-33歳でゲシュタルト転回を起こしてから40-42歳を迎えるまでの私は中根機だった。 そのため31-33歳の大厄を迎えるまでの下根機時代にしたがっていたルールの逆説(パラドックス)…それが私のルールとなってきたのだ。 30代を通じて、下根機時代の“悪”は私の“善”であり、下根機時代の“誤”は私の“正”だった。 したがって、下根機としての生きざまに反逆し、そのルールを否定することがそれまでの私の美学だった。

― われ反逆す、ゆえに我あり ―

これを逆に言えば、世の中の圧倒的多数を占める下根機にとって私は悪人だったし、上根機のルールに照らしてみると私は過ちを犯してきた罪人ということになる。 ここまで説明すればこの公案の意味がわかってくるだろう。

電脳山養心寺公案集 養心門 第五則 悪人正機


善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや

親鸞の逆説や如何に?

『歎異抄』第三章


この教科書でもおなじみの親鸞の逆説を和尚はこう語っている。

かつて罪人でなかった聖人などいたためしはない


あらゆる聖人たちはみなかつて罪人だったことがある。 かつて罪人でなかった聖人などいたためしはない。 さもなければ、どうやってその人は聖人になる?

彼は旅をし、過ちを犯し、道を踏みはずし、何百万回も転んではまた起き上がった。 そうやってたどり着いたのだ。 その旅の間、ずっと彼はひとりの罪人だった。 もう彼は学ぶものを学び、これ以上過ちは起こらない。 彼は罪を犯すことを通じて、過ちを通じて賢くなったのだ。

和尚『TAO 永遠の大河 3』-P.359「第8話 Q&A 愛と責任」


ご存知のとおり。 親鸞は肉食妻帯という鎌倉時代の仏教者の禁忌を犯した反逆者だった。

はたして彼は悪人だったのだろうか?

そうだとも言えるし、そうでないとも言えるだろう。

道を踏み外したことのない連中は単なる臆病者だ


世の中には愚かな聖人というのもいる。 私に言わせれば、彼らなど聖人のうちにはいらない。 彼らはただ単に怯えた連中、臆病者にすぎない。 彼らは一度も罪を犯したことがない。 一度も道を踏みはずしたことがない。 彼らはいつも正道にしがみついてきた。

よく踏み固められた道に。
社会が彼らに与えたイデオロギーに。
宗教が彼らのマインドに無理矢理押しつけた概念に。
たまたま生まれついた条件づけに。

彼らはしっかりとしがみついてきた。 彼らは一度として道を踏みはずしたことがない。 彼らは臆病者だ。 何ひとつ学んでやしない。

私にとっては彼らの価値などゼロに等しい。 彼らはいい連中かもしれない。 しかし、そのよさには塩けがない。 それには何の風味もない。 それは少々どんよりとして死んでいる。

和尚『TAO 永遠の大河 3』-P.360-361「第8話 Q&A 愛と責任」


いちども道を踏み外したことのない連中は単なる臆病者だ。 道を踏み外し過ちを犯すには勇気と根性がいる。 しかしながらそうした美学を持った悪人や罪人こそ、いずれ善人や聖人となりうる。

とはいえ親鸞に限っていえば、善人と呼ぶにも悪人と呼ぶにもふさわしくはなく、罪人とも聖人とも呼べないだろう。 私なら親鸞を“あまのじゃく”と呼びたい。 彼は他人が触れたら痺(しび)れてしまうような毒を自分の中に持っている。 彼の人間性には適度の塩気や甘辛さがある。 人間たるものあまのじゃくの風味がスパイスとして不可欠なのだ。

私たちは、子供の頃から、何を読み、何を為すべきかを社会から押し付けられ、自分で考えて行動する習慣を忘れてしまっている。 だから、まず一度“あまのじゃく”となって、社会の外に出るのだ。 そうして自分のオツムで考える習慣を取り戻さなければならない。 そのときはじめて、自分がいかにして常識、道徳、伝統、信仰、倫理を社会から押しつけられるままにされてきたかを追究できるようになる。

まずは勇気を出して罪人や悪人として生きる美学を持つといい。 きっとそこから誰のものでもない自分の人生が拓けてくることだろう。

(2016.11)

矢印マーク TAO 永遠の大河 3〜OSHO老子を語る〜


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ほかには何もいらない
それが道なのさ

青雲水

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