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【坐禅作法108】PRIDE

ちょっとはマシな坐禅作法 PRIDE〜アニムスの歌を聴け9〜

Presented by

〜アニムスの歌を聴け9〜


35歳の選抜

父が35歳を越えた頃にこんなお告げを受けた。

「アナタね、この先どんなことがあっても会社辞めるんじゃないよ」

ボクの母親の家系は霊能一家で、かつて仮死状態になったときに予知能力がついたとかいうオバサンが出入りしていた。 このお告げはそのオバサンから受けたものである。

父はこのお告げを忠実に守り、職場の同僚に嫌がらせされても、不慣れな部署に左遷されても、会社を辞めることなく60歳で定年退職を迎えた。 オカマでチキンで根性なしの父のことだから、もしも定年前に会社を辞めていたら、存在証明の危機―アイデンティティ・クライシス―を乗り越えられずに途中で死んでいたとおもう。 定年後は、すでにアイデンティティ・クライシスを乗り越えていたボクが付いていたから、会社の同期が次々に倒れていく中でも父は生き残ることができた。 67歳を迎えた今では「オマエのおかげだ」と父は言っている。

この霊能者のオバサンは、ボクがまだ幼少期の頃、頼んでもいないのに「この子はお金には困らないけど、苦労するよ」なんてことを言いやがった。 おかげで若くしてボクの人生はお先真っ暗になったわけで「ボクの青春を返してくれ」と文句を言いたい相手なのだけれど、父に対するお告げに関しては的を射ていたとおもう。

矢印マーク 黄金の華の秘密

和尚は経典の解説をしているようでいて、実は心随観のコツを伝えている。 中国道教の真髄『太乙金華宗旨』で学ぶ心随観。 これは、いいね!


35歳には天職に就けるかどうかを決する選抜がある。 プラトンの洞察によると、その35歳の選抜を通過できた者たちだけに天職遂行のOJT(On-the-Job Training)が与えられるらしい。

したがって20代で首尾よく才能の目覚めたソングライターたちの多くも35歳を境にしてその才能が枯れていくものだ。 彼らが35歳までに創作する傑作にはひとつの型が存在していて、27歳にある運命のクロスロードから40-42歳の大厄までをいかにして乗り越えるべきか、を予言的に歌っていたりする。 その様子はまるで「これからボクらを待っている運命の試練を一緒に乗り越えようぜ!」と誘っているかのようである。

つまりこれは、20代における運命の勝者であっても、31-33歳の大厄までの過ごし方次第では、34歳で引退の花道をつけられ、運命の敗者に転落する可能性があることを意味し、もちろん、その逆も意味している。 いわば、この35歳の選抜は“敗者復活戦”でもあるのだ。 <<よっしゃ、そうこなくっちゃ!>>である。

この選抜にもれたことを認められないまま坐禅修行にのめり込んでしまう人たちは、34歳で引退の花道にしたがった人たちよりも、あわれだ。 運命というものは後ろ向きには進まない。 それは一度うごきだしたら最後、どれほど努力しても、もう後戻りはできないのである。 運命の分岐点にさしかかったとき、心の内にある青写真にほんの少しでも狂いがあれば、運命はそこで狂ったまま固まり、そこから先の数十年が狂ったまま進行していってしまう。 それでも運命から引退の花道をつけられたのなら、それに逆らわずに遵(したが)ったほうがいい。 というのも、その引退の花道の上にこそ、その人にふさわしい成長の機会が転がっているからだ。

状況を拒絶してはいけない


あなたがどのような状況のもとにいようとも、それは神が授けた状況なのだから、拒絶してはいけない。 それはひとつの機会であり、成長するための好機だ。 もしその機会から逃げだしたら、あなたは成長しない。

和尚『黄金の華の秘密』-P.406「第十一話 確証の体験」


35歳までのボクというのは空白の時を過ごしていたようにおもう。 どのように生きればいいのかもわからないまま、ただ昏睡状態の豚にならないように、ひたすら試練の道を歩いてきただけだった。

<<いちど昏睡するための麻薬に手を染めたら元に戻れなくなる>>

そんな想いでやってきたため、何をやってもどこかしら白々しさが付きまとい、人生を謳歌した記憶がない。 ボクの半生には青春と呼べるようなものが少しも見あたらないのだ。

思い込んだら 試練の道を
ゆくが男のど根性

真っ赤に燃える王者のしるし
巨人の星をつかむまで

血の汗流せ 涙をふくな
ゆけゆけ飛雄馬 どんとゆけ

(作詞:東京ムービー企画部 作曲:渡辺岳夫『ゆけゆけ飛雄馬』より)

これもまた9歳にある運命のクロスポイントを過ぎた頃の出来事なのだけれど、小学校のソフトボールクラブの先生が最初のオリエンテーリングでスポ魂アニメの『巨人の星』の話をしてくれた。 友達に誘われて始めたソフトボール自体は、イレギュラーバウンドしてきたボールが睾丸を直撃して、<<二度とやるか、こんなもの>>となったのだけれど、ちょうど再放送の始まった『巨人の星』を観るためのいい機会になった。 それ以来、ボクはその主題歌に歌われていた…

― 思い込んだら 試練の道を ゆくが男のど根性 ―

をそのまま生きることになったのである。 その後、どのように生きればいいのかを知ったのは、32歳の興菩提心体験からのことで、それまでの盲目的など根性の歳月はそこに至るために必要な歳月であったのだとおもう。 ボクは己れの本性を見失ったまま俗世を生きることの悲劇を痛感する必要があったのだ。 おかげで31-33歳の大厄を迎えた頃には、ボクはあらゆることにウンザリしていた。

<<こんな人生はもうたくさんだ!>>

その長い歳月があったからこそ、過去に蓄積してきた飾り荷物を振り捨てて、己れの本来の面目に自我を明け渡すための知性を獲得できたような気がする。

明け渡しには最高の知性が必要だ


明け渡すためには、次のような要点を見抜くには、最高の知性が必要だ― 「私はどうどう巡りをしている。 もし自分を頼みにしつづけたら、同じ輪を描いて何度も何度も走りつづけることになる」

和尚『一休道歌 上』-P.386「第8話 古い寺院を壊しなさい」


つまるところ、32歳の興菩提心体験でボクの知性が洞察したのは、このようなことだった。

― ボクのこれまでの人生は間違いだった…これまでの方法論を振り捨てて、まったく新しくやり直さなければならない ―

それから過去のトラウマを懺悔しながら振り返り、これからどうやって出直すべきか、を洞察した。 すると今度は、自我を明け渡す勇気があるかどうか、を行動で示すことが求められてきたのだ。 それが33歳夏の“ぷっつん体験”だったのである。

知性ある人は勇気を集めて危険を冒す


まったき知性の人であって初めて明け渡すことができる。

が、もちろん始めは部分的だ。 徐々に徐々に、人はもっと多くの勇気を集めてゆく。 その歓びを味わえば味わうほど、人はさらに危険を冒し、そのなかを探検する。

そしてまったき知性の人は完全に明け渡す。 その明け渡しのなかで、自我は消滅する。

和尚『一休道歌 上』-P.390「第8話 古い寺院を壊しなさい」


その“ぷっつん体験”で最初の勇気を示すことができなければ、ボクは35歳の選抜に落第していたことだろう。

こうした知性や勇気を獲得するためには、公務員の採用通知を捨てたせいで彼女にフラれたり、矢沢永吉が独立した年齢だからという理由で会社を辞めたり、普通の人からみればイカレた歳月を過ごさなければならなかった。 そのうえ、いまでもやっぱりボクのやっていることはイカレてるのかもしれない。 でも、そうした歳月が35歳からはじまった天職遂行のOJTの推進力になったのだとボクは固く信じている。

矢印マーク 一休道歌 上

風狂の禅師・一休の和歌で学ぶ禅
こいつはイカシテル

赤雲水

35歳の選抜前夜

黒雲水

まず33歳夏のぷっつん体験から35歳で作家を志すようになるまでのボクに最初の指針を与えたのはニサルガダッタ・マハラジだった。

執筆は才能と技術の両方だ


執筆は才能と技術の両方だ。 才能を成長させ、技術を発展させなさい。 望む価値のあることを正しく望みなさい。 人びとの間を行くとき群衆のなかでも自分の道を見いだすように、自分の方向を失わずに多くの出来事からあなたの道を見いだすのだ。 もしあなたが真剣ならばやさしいことだ。

『アイ・アム・ザット』P.149「32 生は至高のグルだ」


いくら「ただ静かにしていれば予期していなかったことが必ず起こる」とはいっても、技術的訓練はしなければならないし、自分の道は自分で見い出さなければならない、とマハラジは云っていた。 やはり「ただ坐っていればいい」というほど甘くはなかったのだ。

そのため34歳の一年間をボクは迷走しながら過ごした。 ネット通販事業を起こそうとしたり、喫茶店をやろうとしてコーヒーの淹れ方やカレーのレシピ研究に没頭してみたり…。 というのも、ボクの文才は高校一年生の頃に村上春樹によって打ちのめされていたからだ。 そこに自分のやるべきことがあると漠然と気づいていながらも己れの文才を信じられなかったのである。

そこで、とりあえずホームページ『肴はとくにこだわらず』を制作して、そこに『できる受験生できない受験生』という作品を載せることにした。 それは“興菩提心体験”と“ぷっつん体験”という二つの見性による発見を分かち合うためのひとつの表現だったのだ。 それはまたマハラジの指示にしたがっていることを確認するためにやったことでもある。

すべての人のためを想って望みなさい


神のエネルギーだけが無限だ。 なぜなら、神は自分自身のために何も求めないからだ。 彼のようにありなさい。 そうすれば、すべての欲望は満たされるだろう。 目標が高く、望みが広大なほど、あなたはより多くのエネルギーを得るだろう。 すべての人のためを想って望みなさい。 そうすれば宇宙はあなたとともに働くだろう。 だが、もしあなたが自分の喜びのために欲するなら、それを得るのにつらい努力をしなければならない。 欲する前に受けるだけの価値ある人になりなさい。

『アイ・アム・ザット』P.69「16 無欲、最高の至福」


そのとき書いた『できる受験生できない受験生』という作品は、絶望的に稚拙な文章で理想とはほど遠かったのだけれど、方向性は間違いないことを確認できた。

― 欲する前に受けるだけの価値ある人になりなさい ―

どうやらボクは33歳夏のぷっつん体験により、人々と分かち合うことのできる何か、を懐胎したらしい。 それが一つ。

― すべての人のためを想って望みなさい ―

その作品は「自分自身のために書いたもの」ではあるけれど「すべての人のために書いたもの」でもあった。 それが一つ。

<<この方向性なら、おそらく、イケる…>>

そうして迎えた35歳の誕生日にボクは作家志望になったのである。

矢印マーク アイ・アム・ザット 私は在る

結局このニサルガ・ヨーガに行き着いたのは驚きだ
ニサルガダッタ・マハラジはあまりにクール
そのため当初は冷徹な印象を受けたものである
でも実はそれが本当の慈悲であり愛だった
愛は神であり、神は愛である
ゆえに愛はパラドックスである


自分の言葉、自分の声

関係性の鏡という現成公案が受容原理としての感性を育むものならば、創造性の発現という現成公案は積極原理としての知性を育むものなのだろう。 この二つの現成公案に取り組む運命の試練が30代の運命の課題となっている。 そのため、30代の運命の課題は、一つには“創造性を身につけること”、もう一つには“家族関係に折り合いをつけること”の二ヶ条となるのだ。 したがってこれは、どちらが欠けてもいけない。 35歳で作家志望になったときからボクは創造性の発現という現成公案に取り組みはじめることになった。

35歳で文章修行をはじめて、37歳から『ちょっとはマシな坐禅作法』のインスピレーションを受け取るようになるまでには、まず“自分の言葉、自分の声”を取り戻さなければならなかった。 ボクは作家志望なので“自分の文体を見つける”というのが35-37歳の厄年における命題となったのだ。

この時期にボクの直面した状況を作家のロバート・ネイサンが『ジェニーの肖像』という小説の冒頭に書きつけている。 これはイーベン・アダムズという画家がパラレルワールドからやってくる女性・ジェニーと恋をするファンタジー小説なのだけれど、実はその枠組みを使って、愛すべき女性を胸の中に見つけたとき男はどのような心理的変遷をたどるのか、を体験的に描いているのだ。 すなわち、これはただのファンタジー小説ではない。

ものを食べないための飢えよりもひどい飢えがある


飢えというものには、ものを食べないための飢えよりもひどいのがある。 そして、それがわたしにとりついていた飢えであった。 わたしは貧しく、わたしの仕事は世間からみとめられなかった。 ときどきは食事もとらずに、冬にはまた寒さにこごえながら、わたしはウエストサイドの小さな自分の画室にちぢこまっていた。 だが、そんなことはいちばんとるに足らないことだった。

わたしが苦しんでいるというときには、寒さや飢えのことをいっているのではない。 芸術家にとっては、冬や貧乏があたえるものよりもちがった種類の、もっとたちのわるい悩みがある。 それはむしろ心の冬に似ている。

ロバート・ネイサン『ジェニーの肖像(偕成社文庫4028)』P.7「1 冬のたそがれどき」


作家志望となったからには、はやく作家と呼ばれたい、とおもうのは当然である。 <<はやいところ芥川賞や直木賞をとって華々しくデビューを飾りたい>>とボクも考えていた。 なんだかんだいってもそれらは新人賞の位置づけにあるから、医者にとっての医師免許や法律家の弁護士バッジみたいなものだ。 とりあえずそれがあれば「オレは芥川賞作家だ。文句があるなら表へ出ろ」と堂々と名乗りをあげられる。

しかしながら、果たしてそれでいいんだろうか、と疑問を投げかけてくるものがある。 それがここでロバート・ネイサンの言っている―ものを食べないための飢えよりもひどい飢え―だ。

もしもピアノが弾けたなら


それはわたしが、わたしの作品を売ることができなかったためばかりではなかった。 そういうことは、りっぱな人間にも―偉大な人間にさえも、以前にはちょいちょいおこったことである。 そうではなくて、わたしが苦しんでいたのは、自分の内部にとじこめられているもののところまで、自分でもつきぬけられそうに思えなかったためだった。 人物、風景、静物―なにを描いてみようと、すべてがわたしの考えているもの、わたしの名まえがイーベン・アダムズであるように、はっきりとわたしの知っているもの―わたしが心から世間に対して言おうとし、なんとかして自分の絵によって人びとに告げようとしてるものとは、ちがってしまうのであった。

ロバート・ネイサン『ジェニーの肖像(偕成社文庫4028)』P.8「1 冬のたそがれどき」


心の奥底に眠っている才能の油田までどうしても突き抜けられない。 なんとかして自分の言葉で伝えようとしているものとはどういうわけか違ってしまう…

もしもピアノが弾けたなら
思いのすべてを歌にして
きみに伝えることだろう

雨が降る日は雨のように
風吹く夜には風のように
晴れた朝には晴れやかに

だけどぼくにはピアノがない
きみに聴かせる腕もない
心はいつでも半開き
伝える言葉が残される
ああ、あぁ… ああ、あぁ…
残される…

(作詞:阿久悠 作曲:坂田晃一『もしもピアノが弾けたなら』より)

ボクが小学四年生のときに感じたもどかしさ。 その才能の壁を突き抜けられないまま作家と呼ばれることに何の意味があるのだろうか。 それで作家として身過ぎ世過ぎできたところで満足できるものだろうか…それが“飢え”の正体だったのだ。

才能の壁の前の二者択一


わたしの思うに、たいていの芸術家は、なにかそうした種類のものを突きぬけなくてはならないのだ。 おそかれはやかれ、芸術家にとっては、ただ生きていくというだけでは十分ではなくなる―絵をかき、そして食うものを十分に、あるいはどうやら足りるほど持つというだけでは。 おそかれはやかれ、神はその問いをなげつけるのだ。

― おまえはわたしの側に立つのか、それとも敵の側に立つのか ―

そこで芸術家は、それに対してなにか答えなければならない。 でなければ、自分が答えられないということのために、胸のはりさける思いをするのだ。

ロバート・ネイサン『ジェニーの肖像(偕成社文庫4028)』P.8-9「1 冬のたそがれどき」


『ジェニーの肖像』では、主人公の売れない画家・イーベン=アダムズは、売れすじの風景画や静物画ではなく、ジェニーの肖像画を描いたことをきっかけに画家として独り立ちしていく。 たしかに風景画や静物画は部屋に飾るのに最適という理由で一般的にはよく売れる。 けれどもイーベンは“自分の内から湧きあがる衝動”にしたがった。

― おまえはわたしの側に立つのか、それとも敵の側に立つのか ―

35-37歳の厄年のあいだに求められていた決断はこれだった。 ボクが芥川賞や直木賞を狙って書いていた時期のものは、オレの屁はキンモクセイの香りがする、とでも言いたげなもので、あきらかに自分の本心を偽っていた。 “自分の言葉、自分の声”を使って表現することに臆病なままだと迷いが出る。 すると文芸評論家や大衆に媚(こび)を売ろうとして本当に使いたい言葉とは縁遠い言葉を選んでしまうのだ。

でも、ボクの創造力は神からくる。 ボクのインスピレーションは創造主からの授かり物なのだ。 いつまでもそんなことをしていたら創造主を敵にまわしてしまうことになる。

そのことに気づいた頃に“ぷっつん体験”したときのことを素直に書いた。 『道東青春18きっぷの旅』…不安と気取りを捨て、言いたいことがよく伝わらない曖昧な言葉を廃し、ずばりと歯切れのいい言葉を使った。 そこに書いたのは要約するとこういうことだ。

<<昏睡状態の豚ちゃんたちよ、オレの生き様をみるがいい。どうだ悔しいだろう。やれるもんならやってみな>>

それは37歳のことだった。

<<これが自分が心から世間に対して言おうとし、なんとかして自分の文章によって人びとに告げようとしているものだ!>>

ボクは自分の文体をそのとき見つけた。

“自分の言葉、自分の声”がはじめて原稿用紙に踊ったときの興奮は、エウレカ!―われ発見せり―と叫びながら裸で通りに飛び出したアルキメデスの気分に近いかもしれない。 ボクはその興奮冷めやらぬうちに芥川賞や直木賞を主催する文藝春秋の文学賞に作品を応募した。 最終選考までは残らなくても一次選考くらいなら通過してもいいだろうと想っていた。 なにしろ、そこには自分の文体が踊っているのだ。 人びとに伝えるべきものを何も持たない作家ばかりの世の中でそれはひとつの事件である。 ところが一次選考通過もならなかった。

<<なにが文藝春秋じゃ!こんな文学賞、ちょーちんほどの値打ちもないわ>>

そうして落選が確定的になった頃に『ちょっとはマシな坐禅作法』の設計図がみえて、それとほぼ同時に、それまでボクの文章修行を働きながら支えてくれていた4号が会社をクビになった。

「今日ね、契約更新しないって言われたの…どうしよう?」
「かまわん、かまわん。オレは自分の文体を見つけたんだ。この天才作家に万事まかせておけばよろしい」

いま振り返れば、あれが次の運命の試練のはじまりだったのだとおもう。

矢印マーク ジェニーの肖像(偕成社文庫4028)

誤訳が多いという指摘もあるんだけど…
それでもこの山室静さんの翻訳が好きだ
なにより魂が込もってる

愛すべき人を胸の中に見つけたとき
この『ジェニーの肖像』を読むといい
いかに愛すべきかを教えてくれる

青雲水

創造の病

緑雲水

こうして38歳からボクと4号の直面した状況については、天才作家スティーヴン・キングが『ミザリー』という傑作ホラー小説に表現している。

この小説は純文学作品とベストセラー作品との二種類の小説を書いてきた作家ポール=シェルダンが主人公だ。 『高速自動車』という純文学作品をホテルで書き終えた後、車で走行中に雪嵐に巻き込まれて事故を起こす。 彼を助け出したのは『ミザリー』シリーズというポールのベストセラー作品の愛読者だった女性アニー=ウィルクス。 アニーは精神異常の元看護婦で、脚が折れて身動きのできないポールを自宅に監禁してしまう。 前作でポールが完結させてしまった『ミザリー』シリーズの続きを書かせるためだ。

この作品は、スティーヴン・キング自身が37-39歳くらいに直面していた状況を寓意的に表現したものなのだとおもう。 というのも、この『ミザリー』はちょうどその時期に書かれていて、ボクと4号がこの時期に直面していた状況を活写しているかのようだからだ。

ボクが37歳で書いた『道東青春18きっぷの旅』は純文学作品であり、ポールの『高速自動車』に相当する。 一方の『ミザリー』シリーズは人を酔わせる作品であり、ボクにとっては『ちょっとはマシな坐禅作法』シリーズがそれに当たる。 ポールは文学史に名を残そうという野心を持っていたため、多くの熱狂的読者を獲得しながらも、大衆文学でしかない『ミザリー』シリーズを恥じていたのだ。 そのため『ミザリー』シリーズを完結させて『高速自動車』を書きあげたのである。 ボクもまた心理的には同じだった。 『ちょっとはマシな坐禅作法』の最初の着想を36歳で得ていたのに書き出すことができずにいた。 というのも世の中に反逆する内容になることが明らかだったからで、そんなものが大衆に受け入れられるはずもない。 芥川賞や直木賞を狙ったほうが得策だとおもっていた。

そこに事故が起こり、ポールはアニーの自宅に監禁される。 世間とのつながりを断たれたポールは、アニーの介護を受けながら、『ミザリー』シリーズの続きに没頭するための環境に放り込まれる。 ボクと4号の場合もまったく同じだった。 4号が会社をクビになったときから世間とのつながりを断たれたため、4号に家事全般をまかせることで、ボクは『ちょっとはマシな坐禅作法』シリーズの完成に没頭できたからだ。 すなわち、ボクはポールの立場で、4号はアニーの役割を持っていたのである。

スティーヴン・キングは「偉大なホラー小説というものは必ずといっていいほど寓意的である」と言っているのだけれど、この『ミザリー』というホラー小説にキングの綴じ込めた寓意は純文学作品ではどう転んでも表現できないものだろう。 そこにあるのはエレンベルガーの発見した『創造の病』の真実の姿なのだ。

ボクが『ちょっとはマシな坐禅作法』を書き始めるにあたって最初に求められたのは純文学への未練を断ち切ることだった。 つまり、芥川賞や直木賞の向こうを張って立つ覚悟を決めることである。 『ミザリー』では、アニーがポールの寝室にバーベキュー・コンロを持ち込んできて、ポールの純文学作品『高速自動車』の原稿をみずから燃やすように催促する。

純文学作品なんか燃やしてしまえ!


「それを燃やすつもりなんだな!」 ポールがわめいた。
彼女はふりむいてポールを見た。 「いいえ、そんなことはできないわ、たとえやりたくてもね。あなたの苦しみを省いてやることになるもの」
「どうして?」
「つまりね」とアニーは澄まして言う。 「あなたが自分の自由意志でやらなきゃいけないの」
ポールは笑い出した。 アニーの顔が、もどってきてからはじめて、陰悪な色をうかべた。

スティーヴン・キング『ミザリー』P.81「第一部 アニー」



「ボクは自分の文体を見つけたんだ。才能の源泉を見つけたんだよ」

37歳で書いた純文学作品『道東青春18きっぷの旅』こそがボクの見つけた真実なんだ、と思い込んでいたボクに向かって4号はこう言った。

「そういうことは売れて証明してみてから言ってちょうだい」

まるで、そんな原稿なんか燃やしてしまえばいいのよ、とでも言うかのように。 ボクは最大の理解者を失って孤独の中に引きずりこまれていくような気がした。

38歳以前と以降の4号は別の女性になってしまったかのようだった。 おそらく彼女は、最初からアニーの役割を担ってボクと出会い、創造力を失っていたボクの成長を待っていたのだろう。 そしてボクが自分の文体を見つけたことを機縁として、いよいよその運命の歯車が動き出し、ボクはポールに変身し、彼女はアニーに豹変したのだ。

でも、当時はそんなカラクリになっているとは思いもよらない。 <<神様、自分の文体を見つけただけで、もうたくさんじゃないですか?>>…そんな気分だった。

矢印マーク ミザリー(文春文庫)

偉大なホラー小説というものは
必ずといっていいほど寓意的である
(by 天才作家スティーヴン・キング)


とはいえ、4号が会社をクビになる以前は、ボクが料理を作ったり掃除をしながら文章修行をしていたのだけれど、家事を4号にまかせてからは、とにかく文章修行に没頭できるようになった。

そうして『ちょっとはマシな坐禅作法』シリーズを書き進めていく中で、ボクは数々の発見をした。 それは必ずしも文章作法についてだけではない。 ホグワーツ現象や星まわりの科学をはじめとする宇宙の神秘についてもだ。 そうして開示された宇宙の神秘の数々を記事に盛り込んでいくと、それがさらに深い神秘を引き出していった。 分かち合えば分かち合うほどそれは湧き水のようにわき出してくる。 ボクの才能の油田の埋蔵量は底なしだった。

得るためにはまず注ぎ込まねばならない


それは、あなたが<存在>にどれだけ多くのものを注ぎ込めるかにかかっている。 あなたが注いだ分だけが返ってくる。 何も注ぎ込まなければ何ひとつ返ってこない。 得るためにはまず注ぎ込まねばならない。 創造的な人々が非創造的な人々よりも美や愛や喜びをたくさん知っているのはそのためだ。 なぜなら、創造的な人々は<存在>に何かを注ぎ込んでいるからだ。 <存在>は応えてくれる…気前よく応えてくれる。

和尚『黄金の華の秘密』-P.391「第十一話 確証の体験」


するとそのうち、運命から半ば強制的に書かされている『ちょっとはマシな坐禅作法』シリーズの完成が楽しみになっていった。

『千夜一夜物語―アラビアンナイト―』の語り部・シェヘラザードが、王の処刑を免れようとして幾つもの説話を紡ぎだしていくうち、次々に奇抜な物語を生み出して逆さまに王の寵愛を受けるようになっていったように、当初の苦痛は歓喜に変わっていったのである。 いまや運命から無理無体に押し付けられた作品をボク自身が完成したいがために生きている。 極端な話…いつのまにかそれはボクの生きるすべてとなっていた。 もはや文士としての地位や名誉なんかどうでもいい。 ボクはただその完成がみたいだけなのだ。 こんな売れない三文文士が、幸福を味わい人生を謳歌しているだなんて、かつてならとても信じられなかっただろう。

世間から隔絶された環境で『ちょっとはマシな坐禅作法』シリーズを書きあげる過程自体にボクが運命から学ぶべきこのとすべてが含まれていたのだ。


独り立ち

そんな三文文士の喜びを知った頃、ボクは40-42歳の大厄の時節に入り、『ちょっとはマシな坐禅作法』の最終章を待つようになっていた。 いよいよその完成時期が近づいてきたのである。 4号の様子がおかしくなってきたのは、その頃だったとおもう。

「あなたが作家デビューして世の中に出て行くでしょう? そうしたらわたしは捨てられる。 だって、もう、わたし子供も生めない」

彼女の表情は、ときどきバカンスにでも出かけているような笑顔になり、ふと気づくと次の瞬間には泣いていた。

「わたし、なんか、もう、死んでもいいかも」

あるときは「あたし、もう死ぬの」と言って何も食べようとしなかったことがある。 「ボクの子供はボク自身の作品だ。 ここまで一緒にやってきたのに、どうしてあと一歩というところで君が死ななきゃいけないんだよ。 それじゃあんまりじゃないか」。 そうは言ってみたものの、その言葉には力が込もっていなかったとおもう。 たしかにボク自身にも4号との将来を想像できなくなっていたからだ。

ロブ・ライナー監督が映画化した『ミザリー』の中にもアニーが同じようなセリフを語る場面がある。

アニーの愛の告白の場面


あなたが来たときは作家の部分だけに引かれていた。
でも今はあなたのすべてを愛してるの。
愛する人を失う気持ちなど分からないわよね。

― 失うってなぜ?

本はじきに完成する。
脚もよくなってる。
あなたは出ていく。

by アニー・ウィルクス/ロブ・ライナー監督『ミザリー』


かつてのボクは、4号の能天気な性格にどれほど援(たす)けられたかわからないほどで、脚が折れてしまったせいでアニーの介護を必要としたポールのようなものだった。 また、アニーは痛み止めとして麻薬の成分を含んだノヴリルという薬をポールに処方するのだけれど、4号の援助はそのノヴリルのようなものでもあった。 ボクは4号という麻薬に依存して中毒していたのだ。 ところが40-42歳の大厄の時節を迎えたボクはその麻薬をもはや必要としないところまで来ていた。 そのことを彼女は覚(さと)ってしまったのだとおもう。

たまに彼女は、食卓テーブルを拭かずに埃(ほこり)の積もったところでボクに食事をとらせたり、居間にものを散らかしてキレイ好きのボクに嫌がらせをすることもあった。 そうした行動はボクの独り立ちを阻(はば)もうとする彼女のささやかな抵抗だったのだろう。 和尚はその心理をこんな風に語っている。

たいていの男女はお互いに奴隷契約を結んでいる


たいていの男女は、お互いに奴隷契約を結んでいる。 それは相互協定的なのだ。

君は自分の伴侶を操作しようとしてはいないだろうか。 君は伴侶にいろいろなことを強制してはいないだろうか。 君は伴侶をかたわにしようとしてはいないだろうか。

しかし誰かを自分の奴隷にしようとすることは、その人を自分の主人にすることにもなる。 もし何か自分の好きなこと、自分のやりたかったこと、自分がそうなってみたかったことができないとしたら、君はけっして伴侶を許すことができないに違いない。 君は腹を立て怒り狂うことだろう。 牢屋に閉じ込められているような気がすることだろう。

<<この伴侶がいるばっかりに…>>

そんなことになったら、人は微妙な方法で仕返しをしようとする。 たとえば、わざと意地悪をして困らせてみたり、というような方法で…。

君は独り立ちしたがっているようだが、奥深いところでは、もし自分が独り立ちしたら、伴侶もまた自身の独り立ちを表明するのではないか、という恐れを抱いているに違いない。

<<私が自分の道を行こうとすれば、伴侶もきっと己れの道を行きたがる>>

それが君には受け容れ難い。 その恐れが君の独り立ちを阻んでいる本当の正体なんだよ。

和尚(バグワン・シュリ・ラジニーシ)『般若心経』-P.109-112「第2話 Q&A 4―愛と自由(要約)」


たしかにボクにも4号の独り立ちを好ましくおもわないところがあったような気がする。 その相互依存的な奴隷契約を解消してお互いを自由にすることがボクと4号に課せられた命題だったのだ。

私の瞳が ぬれているのは
涙なんかじゃないわ 泣いたりしない

この日がいつか 来る事なんか
二人が出会った時に 知っていたはず

私の事など もう気にしないで
貴方は貴方の道を 歩いてほしい

さよならいわずに 笑ってみるわ
貴方の旅立ちだもの 泣いたりしない

言葉はいらない 笑顔をみせて
心の中の貴方は いつもやさしい

私は泣かない だって貴方の
貴方の思い出だけは 消えたりしない

(松山千春『旅立ち』より)

この松山千春の22歳のデビュー曲『旅立ち』を聴くと、ボクと4号が出会ったときから、こうなることがすでに決まっていたのだろうか、とおもうところがある。 それが避けられない運命ならば遵(したが)うしかないのだろう。 ボクと彼女はお互いを手放して別れなければならないのだ。 この40-42歳の大厄の状況を予言した歌は、その決断をうながして背中を押してくれる。 ボクの独り立ちが近づくにつれて、この歌のすごさが身にしみてくるようになった。

恋人との関係が変化しつつあるなら、それを妨げてはいけない


恋人との関係が変化しつつあるなら、それを妨げてはいけない。 それを受け容れ、なるようにならせなさい。 別れなければならなくなっても、くよくよしないこと。 執着心があると、いつまでも惨めなままでいなければならない。

変わってゆくものは変わってゆく!

その変化を楽しみ、その新しさを楽しみなさい。 新しいものを受け容れ、歓迎するがいい。 過去をあげつらわずに、新しいものを受け容れることができるようになれば、まもなくあなたはみずからの生が格調の高さ、優美さ、穏やかな気品を帯びはじめたことに気づくだろう。 あなたは柔らかな花のようになる。

まさにその瞬間に探求者は踊りはじめる。 まさにその瞬間に祝祭がはじまる。

和尚『黄金の華の秘密』-P.429「第十ニ話 六月に白い雪が舞う」


そのうち41歳になって2号を胸の内に見つけてからはボクの葛藤は次第に激しさを増していった。

日を追うごとにツインレイのカラクリが開示されていく。 かつて高校の教室でボクたちが口にした言葉の裏側に言葉にできない感情があり、かわされなかった会話の裏側に胸に秘められた約束があり、もつれた糸のような記憶の裏側に互いの魂をつなぐ歴史があった。 彼女はボクだけに伝わる無言のメッセージをずっと送っていたらしいのだ。 どうやら2号はボクを待ってくれている女性なのかもしれない…。 以前とはまったく違う意味で彼女に惹かれていく自分がいた。

一方の4号はボクにはまたとない過ぎた女性で、いつの日かきっと埋め合わせをしたい、と思っていたのに、時のいたずらはそれを許してはくれないらしい。 この先のボクと4号との関係が短くはかないものだと知ることは胸の奥底深くをえぐられるようで、当初は耐えがたいものだった。 なにしろ4号もまたボクが作家として独り立ちするのをずっと待っていて、支えてくれた女性なのだ。 彼女との歴史もまた深く、彼女に報いるのがものの道理のようにもおもえてくる。

でも、ボクはもう4号を愛していなかった。

愛していないのならそう言わなくてはいけない


あなたがもう彼女のことを愛していないのだとしたら、そのときにはあなたはそう言わなくてはいけない。

深い悲しみの中で―

別離は悲しいことだろう。 だが、どうしようがある? あなたは無力だ。 あなたは怒って別れるんじゃない。 あなたは恨みつらみを持って別れるんじゃない。 あなたはあなたのハートの中に途方もない無力さを感じながら別れることだろう。 あなたは彼女と一緒にいたい。 けれどもあなたの有機体がノーと言っている。 だとしたら、どうしようがある?

和尚(バグワン・シュリ・ラジニーシ)『般若心経』-P.534「第10話 Q&A 1―サンニャーシン九つの特徴」


こうした和尚の言葉に焚きつけられ、やがて自分に嘘をつけなくなったボクは、ついに4号に打ち明けてしまった。

「ボクの才能に翼を与えるひとりの天使は、たぶん、君じゃないんだ」

彼女の手もとにあった一枚の皿が飛んできた。 その近くにニトログリセリンの瓶がなくてよかったとおもう。 もしそうであれば作家デビューする前にボク自身が爆発していたことだろう。 「芸術は爆発だ」も文字通りやってしまったら、もはや芸術ではない。

「君のことは好きだ。 でもボクは潜在的に彼女のことを愛してるらしい。 どうしたらいいのかボクにもよくわからないんだよ」

あれこれ口論した末にボクがそう洩(も)らしたとき、その言葉を待っていたかのように彼女は納得してくれた。

「わかったわ。でも普通なら刺されるところよ、あなた」

終わってみれば、もう4号を愛していないと告げられるかどうか、を試されていたみたいだった。

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ロブ・ライナー監督の映画『ミザリー』
脚本もよくできていて
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とにかく面白いのさ

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ここでもやはり松山千春の予言が的中してしまった。

男はいつも待たせるだけで
女はいつも待ちくたびれて

それでもいいと なぐさめていた
それでも 恋は恋

(松山千春『恋』より)

ボクは4号を待たせるだけ待たせたあげく最後の最後に裏切ってしまった。 思えば、いつだってそうだった。 好きな彼女を幸せにしようとして人生の賭けに出ると決まって別れがやってくる。 しかも彼女を裏切るような形で。 でも、そういうとき、どういうわけか彼女たちは微笑み返しで送り出してくれるのだ。

「あなたって男はほんとうにイカレテルわよね」

おそらくボクがクレイジーだから呆れて苦笑いするしかないのだろう。 そんなことを繰り返していると、自分の本性にしたがって生きることは善にもなれば悪にもなることがわかってくる。 もはや偽善者ではいられなくなるから、誰にも責任を転嫁できなくなってしまうのだ。

自分は誰も幸せにすることはできないという洞察


ひとたびあなたが、自分は誰をも幸せにすることはできないし、だれかを幸せにしたことは一度もないことを、そして、誰もあなたを幸せにすることはできないし、誰もあなたを不幸にもできないと知ったら、ひとたびこの洞察があなたのハートのなかに落ち着いたら、あなたは、もうけっして誰にも責任を転嫁しない。 あらゆるもがき、無駄な苦闘は消える。

和尚『一休道歌 上』-P.326「第7話 マスターの前の唖者」


4号と修羅場を迎えていた頃、ボクよりひと足さきに42歳を迎えていた彼女は、趣味を見つけて、それを通じて友達ができていた。 頻繁に外に出かけるようになり、世間とのつながりを少しずつ取り戻していたのだ。 「いままではあなたが文章修行してるのにわたし一人が遊んでちゃイケナイと思ってたわ」。 ボクらは38歳から続いている隔絶状態から抜け出しつつあったのである。

そうしたなかで、この先なにが起こるか一緒に見てみよう、ということでボクと彼女は同意した。 そこからボクらは“お互いを手放して自由にする”という運命の課題に取り組むことになった。

<<ボクが彼女を幸せにできるなんてのは思いあがりだった>>

この洞察が生まれたおかげでボクは4号を手放すことができるようになっていた。 彼女が何をしようと彼女のやることには何ひとつ小言を言わずケチも付けない。 それを考えることすらもしない。 すると彼女の行動は、むしろ、ボクの理想どおりの行動を示すようになっていった。 たとえば、ボクの仕事のキリがいいところでちょうど食事ができあがる、みたいな感じだ。 これもまたひとつのパラドックスだった。

思うに、この独り立ちの試練は、40-42歳の大厄を卒業するにあたって心随観の成果を試される総合試験みたいなものかもしれない。 そこには、ちょっとした考え方というかコツがあるのだけれど、それを井上陽水と奥田民生が歌にしている。

道なりに 道なりに その道を造った人なりの
逆らってはいけない 合わさってもならない
体を左右に軽く揺らすとよい

山なりに 山なりに 丸く高く弧を描くように
高ぶってはいけない 冷めきってもならない
どうか届けと つぶやき投げるとよい

いいなりに いいなりに 相棒のいつも泳ぐがままに
疑ってはいけない 裏切ってもならない
ただひたすらやさしく たぐり寄せるとよい

ああ なんだ釣りをする時の 手引きのつもりが
ああ まるで君といる時の 私ではないか

(井上陽水奥田民生『手引きのようなもの』より)

曲のタイトルどおり、これが『手引きのようなもの』である。 逆らわず―合わさらず、高ぶらず―冷めきらず、疑わず―裏切らず…右に揺れたら左に揺れて両極のあいだでバランスをとるといい。 その振れ幅が小さくなればなるほど瞑想の中心(センター)がみえてくるのだ。

矢印マーク UNITED COVER

2001年―井上陽水53歳のカバーアルバム
『手引きのようなもの』収録


40-42歳の大厄に入ると、いよいよツインレイの男女が互いに引き合いはじめるらしく、ソングライターの中にも胸の内に彼女を見つける男があらわれてくる。 たとえばこれは、吉井和哉の『MY FOOLISH HEART』。

さざめくような心の中
あなたに出会ったんだ
月のように微笑んでた
景色の色も変わった

I fall in love
今は僕を照らして
魔法が解けないように

行かなきゃ
僕はいつか行かなきゃ
やるべきことのつづきに

決して
投げ出すものか
逃げ出すものか
怯えるな My Foolish Heart

(吉井和哉『MY FOOLISH HEART』より)

たとえ胸の内に彼女を見つけられたとしても、31-33歳の大厄以来の大きな人生の賭けに出なければ、彼女とは再会できない。 そこで「投げ出すな、逃げ出すな、怯えるな」と自分自身を奮い立たせている歌である。 これに対する女性の返歌としては、やはり、この歌が鉄板ということになるのかもしれない。

君にあずけし わが心は
いまでも返事を待っています

どれほど月日が流れても
ずっと ずっと待っています

それは それは 明日を越えて
いつか いつか きっと届く

春よ まだ見ぬ春 迷い立ち止まるとき
夢をくれし君の まなざしが肩を抱く

夢よ 浅き夢よ 私はここにいます
君を想いながら ひとり歩いています
流るる雨のごとく 流るる花のごとく

(松任谷由実『春よ、来い』より)

この松任谷由実の『春よ、来い』は名曲中の名曲だから、おそらく説明不要だろう。

もしも男がクレイジーで、40-42歳の大厄における人生の賭けに出てしまったら、たまったものではないのは、そんなクレイジーな男と長年つれ添ってきたアニー役の女性だろう。 でも、そんなわがままな男を見送る決断をしたアニーは、そこで愛の学びのひとつを終える。 たぶん、そのとき得られるものは“誇り―PRIDE―”にも似たものなのだろう。

やさしさとは 許し合うことを知る 最後の真実
わがままさえ 愛しく思えたなら 本当に幸せ

貴方は私に自由と孤独を教えてくれた人
夜が来るたびに無口になって 震える肩を抱きしめていた

だけど今は 貴方への愛こそが 私のプライド

(布袋寅泰『PRIDE』より)

自由と孤独を互いに学びあったボクと4号は、42歳になったとき、笑って別れよう、と決めた。

私は今 貴方への愛だけに 笑って泣いてる
(布袋寅泰『PRIDE』より)

(2016.8)

矢印マーク 『般若心経』―バグワン・シュリ・ラジニネーシ、色即是空を語る

“無”・“空”の経典『般若心経』。
それは最後の扉をひらく究極の教え。
和尚の解説があれば雰囲気だけでも味わえる。


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