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【坐禅作法106】悲しみは雪のように

ちょっとはマシな坐禅作法 悲しみは雪のように〜アニムスの歌を聴け7〜

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〜アニムスの歌を聴け7〜


<生>の自覚

ボクと父親には奇妙に酷似している点がある。

あれは4-5歳頃のこと、ボクは公園の池に仰向けに落ちて溺れた。 ゆっくりと身体が沈んでゆき、水面から射し込んでくる光が次第に遠のいてゆくのが見えて、あっさり死を覚悟できた。 <<もう死んじゃうのか、このボクは…何だつまらん勝手にしてくれ>>。 おかげで何ら抵抗することもなく、池の主への手土産としてのキャンディを片手に握りしめながら、沈みゆく自分の様子を観察していたのを覚えている。

結局、父に引っ張りあげられて命びろいしたのだけれど、あのとき「溺れるものは藁(わら)をもつかむ」みたいな往生際の悪いことをやっていたら、32歳から坐ってみたところで たいした成果を挙げられなかったような気がする。 死を自覚したそのときから、ボクは十全に生き始めることになったからだ。

死を自覚した人間は生を自覚する


生において唯一確実なもの―それは死だ。 だから最初から死について語るほうがいい。

いにしえの文化では、子どもたちはみな死を自覚させられたものだ。 あなたのまさに基盤は死の自覚の上に築かれるべきだ。 死を自覚している人間は必ず生を自覚するようになるが、死を自覚していない人間は生に対しても無自覚でありつづける―なぜなら、生と死は同じコインの裏表だからだ。

和尚『黄金の華の秘密』-P.503「第十四話 空観、仮観、中観」


ボクの顕在意識の記憶は、そのときから始まっていて、あの出来事が<生>の基盤となっているらしい。 子供ながらに「生きるとは何か」という命題を考え始めたみたいなのだ。

それとちょうど同じ年頃に父も川で溺れて海まで流されている。 その頃に浜辺で拾った大黒と恵比寿の青銅のお守りを後生大事に祀っていて、妙に信心深いところがあり、もしもその時を境に「生きるとは何か」と考え始めたのだとしたら、まるで親子して何かに導かれているようだ。 もしかすると父も、坐るに申し分のない素質を持って生まれてきていたのかもしれない。

矢印マーク 黄金の華の秘密

和尚は経典の解説をしているようでいて、実は心随観のコツを伝えている。 中国道教の真髄『太乙金華宗旨』で学ぶ心随観。 これは、いいね!

赤雲水

キーパーソンとしての父親

黒雲水

そんなボクと父の生きざまにはっきりとした違いが生まれた分岐点は、25歳にあるような気がする。 ボクが船出の衝動に駆られて会社を辞めてしまったその齢に、父は電柱での作業中に感電して落下し地面に叩きつけられた。 おそらくそのとき“ふるさと行きの乗車券”が送られてきたのだろう。

ふるさとへ向かう最終に
乗れる人は急ぎなさいと
やさしいやさしい声の駅長が
街中に叫ぶ

(中島みゆき『ホームにて』より)

たぶん故郷の浄土へ向かう最終列車の汽笛が聞こえていたはずなのに、父には会社を辞めるだけの勇気が不足していた。 そうして父が人生に妥協した頃合いを見計らったように、このボクは生まれている。 それまで子供がなかなか授からなかったという話をよく聞かされたし、なんだか…負い目を抱えて性格の歪みはじめた父をこのボクがわざと選んで生まれてきたような按配なのだ。 しかもボクと父というのは性格もよく似ていて、まるで鏡写しのようなのである。

関係という鏡


他者は鏡にすぎない。 自分自身の問題を直接知ることはむずかしいが関係のなかでそれを知ることはとても易しい。 鏡が手に入る。 あなたは自分の顔を、その鏡で見ることができる。 そして、相手は自分の顔を、あなたの鏡で見ることができる。

ところが、二人とも腹を立てている。 なぜなら、二人とも醜い顔を見るからだ。 当然、二人はそろってどなり合う。 というのも彼らの自然な論理は「私がこんなに醜く見えるのは“おまえ”、この鏡のせいだ。そうでなかったら、私はとても美しい人間だ」となるからだ。

和尚『一休道歌 下』-P.684「第13話 関係―最大の公案」


ボクにとっての父親というのは、ボクの心の問題を正確に反映する鏡のような存在だったのである。

父の人生というのは、ボクが昏睡状態の豚として生きる道を選んだ場合の末路だった。 だからこそ、若きボクはその生きざまに反発したし、父を反面教師とすることで“ぷっつん”し、人間として覚醒する道を選んできた。

また父の愛情表現というのは、より気持ちよく昏睡するための方程式をボクの脳裏に刷り込むことだった。 よい大学に入り、よい企業に就職し、エリートコースを歩むように教え、ボクを通して自分の果たせなかった願望を実現しようとした。 ところがボクの持って生まれた能力は、それには全く適さないものだったから、その期待に応えようとすればするほど、ボクは人格を抑圧しなければならなくなり、しだいに精神に分裂を起こして性格が歪んでいった。

たしかにそれは迷惑な話ではあったけれど、33歳の秋、ボクは抑圧されて分裂していた小さな自分―リトル仁悟―の声を心の中に見つけた。 すると父の心とボクの心が二重写しに透けて見えてしまったのだ。 なんと…父はボクであり、ボクは父だったのである。 プラス極とマイナス極、あるいは、S極とN極とでも謂(い)おうか。 それまで対立し反発し合うように見えていた両極の関係性が実は二つで一つの無極だったのだ。

こうしてボクは父親というキーパーソンを鏡にしてボク自身を知るに至り、それと同時に、両極的対立の二元性を超越する糸口は、他人のありようを丸ごと受け容れ、自他の人格を抑圧から解放し、精神の分裂を解消することにあると知った。 父を拒むことはボク自身を拒むことであり、父を受け容れることはボク自身を受け容れることであり、父をゆるすことはボク自身をゆるすことだったからだ。

それがボクの見性だったのである。

両極的対立と精神分裂


徐々に徐々に、私たちは極を、一方の極を強調し、他の極を完璧に抑圧してゆく。 これが精神分裂症のもとになる。 社会はいまだに人の実存を丸ごと受け容れることができないので、誰もが分裂症にかかっている。

和尚『黄金の華の秘密』-P.433「第十二話 六月に白い雪が舞う」


とはいえ、それまで反面教師としてきた存在が実は自分自身の鏡像だというのだから、この33歳の洞察を完全に消化するには時間がかかり、ボクと父の関係の最終的な雪どけは38歳の家族旅行を待たなければならなかった。

矢印マーク 一休道歌 下

風狂の禅師・一休の和歌で学ぶ禅
こいつはイカシテル


時には誰かをゆるすことも覚えて欲しい

これはほとんどの人にとって三十代における運命の課題となるもので、この辺りのことを29歳の浜田省吾が『悲しみは雪のように』という歌にしている。

君は怒りのなかで
子供の頃を生きてきたね
でも時には誰かを
ゆるすことも覚えて欲しい

(浜田省吾『悲しみは雪のように』より)

この歌は浜田省吾が29歳のときにアルバムに収録され、まもなくシングルカットされた。 その時点ではあまり注目されなかったのだけれど、40歳を迎えた頃にテレビドラマの主題歌に起用されて、約束されていたかのように大ヒットを記録した。

殊(こと)に不可思議なのは、40歳の彼が29歳の自分を諭(さと)す手紙のような歌詞で、普通なら29歳の男が書ける内容ではない、ということだ。 というのも、そこにあるのは三十代における運命の課題の解法だからである。

悲しみが雪のように積もる夜に…
(浜田省吾『悲しみは雪のように』より)

歌詞の最後に書かれた時期の署名がついているのだけれど、この筆者がまさに孤独を学んでいる時期にあり、ちょうど38歳くらいからの創造の病を体験していることがわかる。 つまりこの歌は、約十二年後の40歳の境地を先取りして書いたもので、少なくともこれが創られた空間は時空が歪んでいたとしか考えられない。 いわば“預言者の詩”なのだ。

矢印マーク Born in 1952 - 愛の世代の前に

1981年―浜田省吾29歳のアルバム
『悲しみは雪のように』収録

青雲水

関係性の鏡という現成公案

緑雲水

33-38歳のあいだ、父とボクは仲良く喧嘩した。 傑作だったのは婆さんの葬式の直後に起こった法事事件だろう。

「あのよぉ、ババアの四十九日が○月○日にあるんだけど…」

そうやって電話をかけてきた父にボクはこう返事をした。
「あ、そう…でもオレは出ないよ」

これは予想外の返答だったらしく早くも父は困惑しはじめた。
「ん?どういうことだっ!」

「だってオレ葬式仏教徒じゃないから」
「そんなこと言ったってお前、俺の母親なんだぞ。お前の婆さんでもある」
「悪いんだけど、オレはそういう枠組みでは生きてないんだよ。 そもそも出席する意味がワカランと言っているんだ。 四十九日でも何でもやりたきゃ勝手にやればいいじゃないか。 誰もやるなとは言ってない」

少しの沈黙があり、最後の望みを訊ねる死刑執行人のように父は語りだした。
「わかった…それは縁を切るってことだな」

「アホかお前は、縁を切れるもんならやってみればいい」

こういう根(こん)くらべになったとき、昏睡状態の豚が覚醒しはじめた人間に勝てる見込みはない。 スジの通し方を履き違えているからである。 喧嘩はスジを通している方に軍配があがるようになっていて、母はそのことがよくわかっていたらしく、「アンタは馬鹿よ。 縁を切ると言ったらブチッと切っちゃうのはあの子の方なの。 このままだと二度と会えなくなるわよ」と父を説得して、翌日、菓子折りを持って遊びにきた。

本当のところ、法事には出席してもしなくてもどちらでも良かったのだけれど、それがボクの義務や責任みたいに扱われるのが嫌だったのだ。

責任とは何だろう?〜スジの通し方〜


責任とは何だろう? ふつうこの言葉の意味は間違ったものと結びつけられている。 真の責任は神への責任に他ならない。 あるいは真の責任は自分自身の本性への責任に他ならない。 あなたは社会や教会や国家に責任を負っているのではない。 あなたに家族や社会に対する責任はない。 あなたが責任を負わねばならないのはただひとつ、それはあなたの本来の顔、あなたの本来の実存だ。 その責任を取ることで、他のすべての責任はおのずと果たされる。

和尚『黄金の華の秘密』-P.362-363「第十話 結晶する黄金の華」


自分の本性にスジを通していれば他のすべての責任はおのずと果たされるものなのだ。

ボクはこうして、自分は何ものにも責任を負うものではなく自分の本性に従って生きている、ということを父に認めさせていった。 すると少しずつボクと父とは互いを尊重し容認しあうようになり、それと同時にボクは、よく笑い、よく泣くようにもなっていった。

泣いてもいい 恥じることなく
俺も一人 泣いたよ
誰もが泣いてる 涙を人には見せずに

(浜田省吾『悲しみは雪のように』より)

泣いてもいい恥じることなく…それは人格の抑圧を解放し、容認することを学ぶための処方箋なのだ。

容認と抑圧…そして泣き笑い


この現象を観察したことはないだろうか? 人は笑いすぎると、泣きだしはじめる。 なぜだろう? 笑いすぎると、どうして涙があふれてくるのだろう? 笑うということは、あなたが自分を容認しているということだからだ。 容認すればあなたはあらゆるものを受け入れてゆく。 ひとつのことだけを認め、あとは認めないなどということはできない。

ひとつのことを抑圧すれば、あなたはありとあらゆるものを抑圧せざるをえなくなる。 これは覚えておかねばならないとても基本的なことがらだ― ひとつのことを抑圧すると、それと同じ分だけ自分の全人格を抑圧しなければならなくなる。

泣くことができなければ、あなたは笑うこともできない。 笑うことができなければ、あなたは泣くこともできない。 怒ることができなければ、あなたは慈悲心をもつこともできない。 慈悲深くなることができなければ、あなたは怒ることもできない。

和尚『黄金の華の秘密』-P.432「第十ニ話 六月に白い雪が舞う」


ボクが人格の抑圧を解放し、自他を容認すればするほどボクと父の関係は改善されていった。 そのときの父の反応はボクの心の状態を映し出す鏡のように正確なものだったのだ。 そのためボクは父を通してボク自身の心の状態を知ることになったのである。

関係性の鏡という現成公案


存在する最良の公案は愛だ、関係だ。

―関係は手がかりのない謎だ。 いかにあなたがそれを操ろうとしても、それを操ることはけっしてできない。 それを操ることができた者はひとりもいない。 それはただ当惑させつづけるように仕組まれている。 あなたがその神秘を解こうとすればするほど、それはますます神秘的になる。 あなたがそれを理解しようとすればするほど、それはますますとらえがたくなる。

それは禅マスターが弟子に与えるどの公案よりも深遠な公案だ。

和尚『一休道歌 下』-P.680「第13話 関係―最大の公案」


この関係性の鏡という現成公案(げんじょうこうあん)の解き方を学ぶことがボクの坐禅修行だった。

矢印マーク 一休道歌 上

風狂の禅師・一休の和歌で学ぶ禅
こいつはイカシテル


青写真を焼き尽くせ

関係性の鏡の相手の前では、経典や聖典の言葉を引用して説得してみたことろで馬耳東風であり、怒鳴りつけてみたところで自縄自縛となる。 そういう外界の環境を変えようとするやり方では必ず当惑させられるような仕組みになっているのだ。 この関係性の鏡はまさしく内なる師の挑戦状なのである。

この公案を解く方法はこれしかない。

関係性の鏡の解き方


それよりもその機会を使いなさい。 この挑戦に満ちた世間、この外界の絶えざる混乱を使わなければいけない。

あなたはその目撃者でいなければいけない。 それを見守りなさい。 どうすればそれに影響されないでいられるか。 それを学びなさい。 水中の蓮の葉のように、その影響を受けず、触れられないでいるコツを学びなさい。

そうなったら感謝の気持ちが湧いてくるだろう。

和尚『黄金の華の秘密』-P.407-408「第十一話 確証の体験」


鏡の相手を前にしたとき、その目撃者でいようとすれば、相手をあるがままに容認することを拒ませている常識、道徳、伝統、信仰、倫理、それから、偏見、迷信、妄想、詭弁などの独断的ないし理念的信条を心の中に見つけて、それらの影響を受けずにいられる中心に止まっていなければならないことがわかってくる。 もしもそれができたなら関係性はおのずと変わっていくものなのだ。

青写真を焼き尽くせ


生をそうたやすく、そう手軽に変えることはできない。

あなたはたんにまわりの環境を変えるだけで、奥深くでは青写真をもち歩いている。 まわりの環境は青写真によってつくられる。 青写真が再びそれをつくりだす。

それは種子に似ている。 あなたは樹を倒したが種子をもち歩いている。 種子が再び地面に落ちると樹がまた必ず生えてくる。 種子を焼いてしまわなければならない。

和尚『黄金の華の秘密』-P.479「第十三話 霊的な仙薬」


ものごとは、心にもとづき、心を主とし、心によって作り出される
(法句経1)

この心の内側の青写真を焼き尽くして外側の環境を変えるという気の遠くなるような心随観の修業を進めていくうちに自然に身についた中心がある。 それが瞑想のセンターだった。 ボクは関係性の鏡という現成公案を通して、坐禅を、瞑想を、学んできたのである。 それがまやかしではない真実の成長ではないだろうか。

二種類の沈黙


沈黙には二種類ある。 ひとつは修養して身につけるものであり、もうひとつは訪れてくるものだ。

修養して身につけた沈黙は抑圧された騒音にすぎない。 黙って坐ることはできるし、長期にわたって坐りつづけ、何か月も何年も訓練を続けてゆけば、しだいに内側の騒音をすべて抑圧できるようになってゆく。 だが、あなたは依然として火山の上に坐っている―それはいつ噴火するともかぎらない、ちょっとしたきっかけがあれば充分だ。 それはほんとうの沈黙ではなく、強いられた沈黙にすぎない。

これが世界中で起こっていることだ。 瞑想しようとしている人々、静かになろうとしている人々は、ただ自分に静けさを強いているだけだ。 強いることはできる。 自分の周囲に何層もの静けさを張りめぐらせることはできるが、それは自分自身をだますことに他ならない。 そんな皮相なものでは役に立たない。

和尚『黄金の華の秘密』-P.464「第十三話 霊的な仙薬」


そして父との関係性を解決したあと、4号との関係性から自由と孤独を学んだとき、心の底から誰かを愛することができるようになっていた。

君の肩に悲しみが
雪のように積もる夜には
心の底から誰かを
愛することができるはず

(浜田省吾『悲しみは雪のように』より)

自然に訪れてくる沈黙によって、心の中を空っぽのグラスのようにしておけば、そこは愛で満たされ、やがてあふれ出してくるのだ。

孤独で君のからっぽの
そのグラスを満たさないで

(浜田省吾『悲しみは雪のように』より)

孤独な禅者だけが愛を生きる


ひとたびあなたが独りで生きるすべを学んだら、ひとたびあなたがいっさい何の理由もなく、自分の単純な存在を楽しむすべを学んだら、そのときには、二人が共に在るという第二のもっと複雑な問題を解く可能性がある。

和尚『一休道歌 下』-P.683-684「第13話 関係―最大の公案」
桃雲水

時間よ止まれ

赤雲水

その自由と孤独を学んだとき、それと気づかずにその前を通り過ぎてきた愛する女性が胸の奥底に見つかるのだ。

誰もが愛する人の前を
気づかずに通り過ぎてく

(浜田省吾『悲しみは雪のように』より)

わが家に帰ったときに目にする窓辺にともる灯(あか)りのように、彼女はずっとそこで待っている。 ただし、ここは夢幻の世界だ。 彼女は夏の避暑地で出会う恋人のような幻想(まぼろし)の相手にすぎないのかもしれない。

君の幻想(ゆめ)
時の中で
壊れるまで
抱きしめるがいい

(浜田省吾『悲しみは雪のように』より)

それでも、すべてを賭けて彼女を抱きしめるとき、自我は消え、時間は止まるらしい。 そういうことなら、彼女に賭けてみるだけの価値はあるだろう。

これは矢沢永吉最大のヒットナンバー『時間よ止まれ』。

罪なやつさ Ah…Pacific
碧く燃える海
どうやら おれの負けだぜ
まぶた閉じよう

(作詞:山川啓介 作曲:矢沢永吉『時間よ止まれ』より)

碧く燃える大海原を前にしたときのように、実在の前では自分という存在はちっぽけなものだ、と自我の敗北に気づいたとき。 時間の止まる可能性が生まれる。

夏の日の恋なんて
まぼろしと笑いながら
この女(ひと)に賭ける

汗をかいたグラスの
冷えたジンより
光る肌の香りが
おれを酔わせる

まぼろしでかまわない
時間よ止まれ
いのちの目眩(めまい)の中で

罪なやつさ Ah…Pacific
都会(まち)のにおいを
忘れかけた このおれ
ただの男さ

想い出になる恋と
西風が笑うけれど
この女(ひと)に賭ける

Mm- Stop The World

(作詞:山川啓介 作曲:矢沢永吉『時間よ止まれ』より)

そんな彼女を抱きしめるとき、人は『夜明けのスキャット』を歌うのだろう。

愛しあう そのときに
この世は 止まるの
時のない 世界に
ふたりは 行くのよ

夜は流れず
星も消えない
愛の唄 ひびくだけ

愛しあう ふたりの
時計は 止まるのよ
時計は 止まるの

(作詞:山上路夫 作曲:いずみたく『夜明けのスキャット』より)

恋人たちは時間から無時間へと移る


深い愛のなかで自我は生滅する。 あなたはそれを見出せない。 だから愛を交わしてるあいだはいつも忘れずに、少なくとも一度は自分が絶頂に達しつつある瞬間を見つめなさい、のぞき込みなさい、と私はしきりに言う。 少しでも自我があるだろうか? その体験はひとつのサトリになりうる。

―恋人たちは時間から無時間へと移る。 観察してごらん。 絶頂(ピーク)が起こると、時間は消える。 一瞬、時が止まる。 全世界が止まる。 あらゆる活動が停止する。

和尚『一休道歌 上』-P.67「第2話 炎に飛び込む蛾」

餞別の万年筆

以上のような父親を関係性の鏡とした公案に取り組みはじめたのは、33歳の秋にリトル仁悟と対峙してからだった。

その直後に「ジジイとババアを家に呼ぶから出て行ってくれ」と父に言われたので、ボクは市営住宅の抽選に申し込んだ。 運よく当選できて実家を出るとき、父は餞別に万年筆を贈ってくれた。 ボクはいまその万年筆を使って原稿を書いている。

環境が大きく変わった33歳のそのとき…あるかなきかのほんの微かな追い風が吹き始めた気がした。

(2016.6)

黒雲水

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