この修行者のたどった経緯を説明する概念が中国道教にある。
以下の図は比較可能なように、発狂した修行者のたどった32歳縁覚道突入モデルで図示してある。
中国道教にみる法身の受胎から旅立ちまでの過程
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図:布施仁悟(著作権フリー)
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求道者には縁覚道に入ると自然に密教的行法に興味を抱く傾向がある。
以下はブログに投稿されてきたコメントから。
縁覚道からの密教入門
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今年43歳になりますが、27歳から精神世界にのめり込み、今年に入ってから、神秘行なるものがあると知りました。
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この投稿者は、私と同様に32歳から悟りの軌道に入っていたのだけれど、声聞道九年間をもっぱら帰巣本能だけでやり抜いていた。
つまり、ばっちり見性していたにもかかわらず、密教的行法には手をつけていなかったし、自分が見性していることにもまったく気づいていなかったのである。
このことから、たいていの覚者もこのケースであることが推測される。
すなわち彼らが縁覚道から先のことばかりを説き、声聞道の過程について語ることがないのは、声聞道九年間を帰巣本能をたよりに通り抜けていたので、自分でも気づかないうちに見性してしまっていたからなのだろう。
こうしたカラクリが明らかにされてこなかったため、これまでは多くの修行者が己れの立ち位置を確認できずに迷走してきたのである。
声聞道九年間の次に待っている縁覚道九年間とは法身の受胎から旅立ちまでの期間。
いよいよ定力の階梯 ― 解脱の道 ―を駆けのぼらなければならないため、修行者を導く内なる師は密教的行法に興味を持つように促すし、ここから先は行法の成果がはっきり認識できる形で出てくる。
そのため、この段階から修行を開始したと勘違いしている覚者も多いのだ。
要するに彼らは単なる鈍チンだったというだけの話なのである。
さて、中国道教では密教的行法の開始から百日間で法身を受胎することになっていて、この時期のことを“百日立基”と呼ぶ。
これは仏教の色界、いわゆる霊界を生き抜くために必要な法身の妊娠を意味し、定力と呼ばれる集中力は、その胎児の知覚器官である蓮華を形成する手段なのだそうだ。
― 集中の行が形成する。徳性の習慣化が成熟させる ―
(R・シュタイナー)
法身の知覚器官である蓮華は坐法によって形成することができる。
ただし、それを成熟させ、正常に機能させるためには動中の工夫が不可欠というわけだ。
それにしても、さすがはR・シュタイナーである。
このあたりのことについては相変わらずうるさい。
法身の受胎から誕生までの期間は十ヶ月。
この時期は“十月養胎”などと呼ばれている。
これは要するに「魂が母親の子宮に宿り欲界(現象界)に肉体を持って誕生する」過程とまったく同じことで、修行者は、色界(霊界)に法身を持って誕生し、そこから先は色界を故郷として九年間の少年少女時代を過ごす。
それが縁覚道九年間なのだ。
だからこれはきっかり九年間と決まりきっている。
そうした法身の受胎は“光の放射”によって知ることになるそうだ。
法身の受胎と光の放射
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受胎が起こったことをあなたはどうして気づくのか?
あなたは内なる輝きを見るようになる。
目を閉じるたびに、闇ではなく光の放射が見えてくる。
それを見るのはあなただけではなく、あなたを愛している人々―彼らもまたあなたのまわりに霊光(オーラ)を見るようになる。
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(和尚『黄金の華の秘密』-P.149「第四話 光を輪のように巡らせる」)
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これはちょうど頭部に形成された気の流れの中心点が喉頭部に移動する頃に起こることをR・シュタイナーは指摘している。
R・シュタイナーの説く法身の受胎
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頭部に作られたこの中心点がふさわしい確かさを獲得したなら、それはもっと下方に、つまり喉頭部の辺りに移される。
このことは集中の行をさらに続けることによって達成される。
その場合エーテル体の流れはこの部分から輝き出る。
その流れは人間の周囲の魂的空間を照らし出す。
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(R・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』-P.171「霊界参入が与える諸影響」)
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さらにその法身が誕生するとき、眉間の二弁の蓮華にあるクタスタが活性化するそうだ。
R・シュタイナーの説く法身の誕生
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行がさらに進むと、修行者は、エーテル体の在り方そのものを規定することができるようになる。
それまでこの在り方は外界から来る諸力と肉体に由来する諸力とに依存していた。
しかしこの行によって、修行者はエーテル体をあらゆる方向へ向けることができるようになる。
この能力を可能にする流れは、ほぼ両手に沿って進む流れであり、両眼の間にある二弁の蓮華にその中心点を持つ流れである。
このことはすべて喉頭部の中心点から出てくる流れが丸い形を作ることによって実現される。
これらの丸い形をした流れの特定数が、二弁の蓮華に到り、そこから波状をなして両手に沿った道をとって流れるのである。
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(R・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』-P.171-172「霊界参入が与える諸影響」)
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しっかり運命の試練を乗り越えていれば、ここで第二段階の一来果の悟りに至るらしい。
一来(いちらい)とは「もう一度生まれ変われば悟れる」というほどの意味。
修行者はここで二度目の悟り体験をすることになるのだけれど、この時点ではまだ禅定に熟達していないので、普通は夢の中で“光の爆発”を体験することになる。
たとえばこれは白隠禅師が33歳で一来果に悟ったときの体験。
白隠禅師33歳における一来果の悟り体験
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三十二歳の時、この破れ寺(松蔭寺)に住職した。
ある夜、夢に母が現われ紫衣を自分にくれた。
もちあげて見ると二つの袖がたいへん重いと感じた。
この袖を探るとそれぞれ一つの古鏡が入っていた。
直径五、六寸ばかりで、右手のは光り輝き、その光は心の中まで透徹し、自分の心も山河大地もすべて清冽に澄んだ淵の底がないようであり、左手の鏡は全面に少しの光輝もなく、その表面は新しい鍋がまだ火気に触れないもののようだ。
すると突然に左の鏡の光輝が右の鏡よりも、百千億倍に輝くように感じた。
これ以降、万物を見ること、自己の面(おもて)を見るようになった。
ここで初めて如来が目に仏性を見るということが分った。
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(鎌田茂雄『日本の禅語録十九 白隠』講談社 P.256「遠羅天釜 巻の下」より)
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つまるところ「眉間にある二弁の蓮華にその中心点を持ち両手に沿って進む気の流れ」が完成したとき、一来果に悟り、夢の中で“光の爆発”を見た、と言っているのである。
この時点から愛する智慧である平等性智が発現し、修行者は妙観察智を磨くことで獲得した才能を世に出て活かしていくようになる。
白隠の場合は33歳のこのときから故郷の松蔭寺で経典の講釈をするようになった。
このように悟り体験の一要素として“光の爆発”があり、この体験を経た後から智慧が発現してくる。
ちなみに以下は私が36歳で預流果に悟ったときの“光の爆発”体験。
妙観察智はこの夢をみた後から目覚めてきたのである。
布施仁悟36歳における預流果の悟り体験
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私と十牛図のなれ初(そ)めは、今から約3年前、36歳のこと。
第三の結節が解ける直前に観ていた夢に始まります。
雪の降りしきる夜、目的地までランニング・ウェアを着て走っていた私は、先を急ごうとタクシーを止め、その後部座席に乗り込みました。
そこへタクシーのドアを叩く男が一人。
「なかなかタクシーがつかまらなくてさ。悪いんだけど一緒に乗せて行ってくれないか」
私の座席の反対側のドアから図々しく乗り込んできた男を見て、背筋が凍りつくという恐怖を生まれて初めて知りました。
私と同じランニング・ウェアを着た何から何まで鏡うつしのドッペルゲンガーがそこにいたのです。
それは“死の予兆”とされている怪奇現象と聞いていた私は思わず知らず叫んでいました。
「オマエは誰だ!」
するとドッペルゲンガーも言い返します。
「オマエこそ誰だ!」
「オマエの名前を聞いてるんだ、答えろ」
「というか…オマエ、オレのランニングウェア盗んだなあ」
「嘘をつけ、盗んだとしたらオマエぢやねえか。勝手に変な色に染めやがって、高かったんだぞ、どうしてくれるんだ」
「なんだとコノヤロウ」
自分の身に着ているランニングウェアを盗んだとか盗まないとか言うのですから、落語の粗忽(そこつ)ものみたいな滑稽話ですが、本人は必死なのです。
笑い話どころではなく、もう、わけがわからない。
しかし、私がこの数日後に死なないためには、このドッペルゲンガーを捕まえて、何らかの方法で融合しなければならないと咄嗟に考えたのです。
「とりあえず、こっちに来い」
私が彼の腕を把(とら)えようとしたとき、ドッペルゲンガーはタクシーから飛び降りて駆け出しました。
私もすぐに後を追ったものの脚がもつれて捕らえ損ね、彼が塀を飛び越えようと高く跳躍したとき、まばゆい閃光が彼の全身を包み込むがはやいか、そのまぶしさに眼が眩(くら)んだ私は、その場にしゃがみ込まざるをえませんでした。
その直後に仙道で云うところの小薬が発生し、全身をめぐり始めたことで夢から醒め、第三の結節解放を体験したのでございます。
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『ちょっとはマシな坐禅作法』【坐禅作法65】ドッペルゲンガー遭遇
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誕生した乳児が哺乳(ほにゅう)や離乳食を卒業し、言葉を話したり、歩いたりできるようになる頃から行動範囲は広がっていく。
それまでには約三年かかるものだけれど、法身の誕生から色界年齢三歳くらいまでのこの時期は“三年乳哺”と名づけられている。
基本的な身体機能が備わるまでの三年間だ。
色界(霊界)では、さらにそこから先が“出神”とか“出胎”と呼ばれる段階となる。
発狂した修行者のケースでは、まさしくこの時期に小周天を完成させているのだけれど、一方の私は、声聞道九年間を通して身体背面の督脈の気道を開発できただけで、身体前面の任脈の気道はついに開くことはなかった。
声聞道九年間で小周天を完成させることはできなかったのである。
しかしながら私の声聞道九年間の経緯と縁覚道九年間における法身の成長過程を並べて図示してみると面白いことがわかってくる。
声聞道九年間と縁覚道九年間の比較
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図・布施仁悟(著作権フリー)
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声聞道と縁覚道はまったく同じ構造をしているのである。
私が督脈の気道を開発したのは、尾てい骨にある第二の結節を解放した33歳から延髄に位置する第三の結節を解放した36歳までの三年間なのだけれど、それはちょうど縁覚道における“三年乳哺”の期間にピタリと重なる。
つまり小周天というのは「声聞道において督脈を開発し、縁覚道において任脈を開発する」― そういう手順を踏むものだったのだ。
ここから声聞道九年間と縁覚道九年間のそれぞれの意味もまた明らかになってくる。
一般的小周天と結節の位置関係
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第一の結節(ヴィシュヌ・グランティ)
…アナハタ・チャクラ(胸[心臓])
第二の結節(ブラフマ・グランティ)
…ムーラダーラ・チャクラ(尾てい骨)
第三の結節(ルドラ・グランティ)
…アジュナ・チャクラ(眉間・延髄)
→眉間の奥の点が延髄中枢―超意識
→眉間の青い点がクタスタ―キリスト意識
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図・布施仁悟(著作権フリー)
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それは、声聞道九年間は、延髄中枢に宿る超意識の活性→覚醒→成熟の過程であり、縁覚道九年間は、眉間のクタスタに宿るキリスト意識の活性→覚醒→成熟の過程であるということである。
私の延髄の経穴は32歳でチベット体操を始めた直後に活性化したのだけれど、延髄中枢に宿る超意識の覚醒により妙観察智が目覚めてくるまでには、約四年後の36歳を待たなければならなかった。
また縁覚道の軌道に入った41歳の2015年8月20日。
あたかも眉間に埋まっているコルク栓がシャンペンボトルから弾け飛ぶかのように抜けていき、私は眉間に位置する第三の眼― クタスタ ―の結節解放を体験することになった。
とはいえ、第三の眼(クタスタ)に宿るキリスト意識が覚醒する際に起こるとされる性エネルギーの上昇 ― いわゆるクンダリニー覚醒は、このとき起こらなかったのである。
その性エネルギーの上昇 ― クンダリニー覚醒 ―について、和尚はこのように語っている。
性エネルギーの上昇― クンダリニー覚醒 ―
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人の性エネルギーのなかには、黄金の華の種子が含まれている。
だが、そのエネルギーが上昇すべきであって、あなたがそれを上にあげることはできない。
それを上昇させようと努力する人々がいるが、彼らは性的倒錯者になる他はない。
直接上昇させることはできないが、間接的に行なうことはできる。
ひとたびあなたの第三の目、あなたの霊的ハートが働きだしたら、エネルギーはひとりでに動きはじめる。
あなたが第三の目をつくりだすと、エネルギーはまるで磁石に引きつけられるようにそれに向かってゆく。
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(和尚『黄金の華の秘密』-P.80「第二話 燃えあがる茂み」)
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この和尚の講話によると、私の41歳2015年8月20日における体験が第三の眼― クタスタ ―に宿るキリスト意識の覚醒であれば、眉間の第三の眼に向かって性エネルギーが上昇していなければおかしい。
けれどもそれが起こらなかったということは、私の体験は単に第三の眼― クタスタ ―が活性化したにすぎないことになる。
以上の考察から、延髄中枢の超意識にしろ、眉間のクタスタに宿るキリスト意識にしろ、その活性と覚醒にはタイムラグのあることがわかる。
意識進化の三段階
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図:布施仁悟(著作権フリー)
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そしておそらく、延髄中枢の超意識の覚醒により妙観察智が目覚めた後、その智慧を磨きながら超意識を成熟させてきたように、眉間のクタスタに宿るキリスト意識もまた、覚醒から成熟へと意識進化を遂げなければならないことが推測される。
それが“六年温養”の期間なのだろう。
したがって三段目の悟りである不還果の悟り体験とは、第三の眼― クタスタ ―の覚醒により性エネルギーが上昇するクンダリニー覚醒のことであり、その後はそこで目覚めてくる無為自然の智慧である成所作智を磨くことで、キリスト意識を成熟させなければならないと考えられる。
“不還(ふげん)”とは「もはや欲界に還ることはない」という意味。
欲界への執着がなくなるため、もはや欲界に転生することはなく、すでに執着がなくなっていることから、為すべきことをただ為すことができるというわけだ。
その途中で修行により誕生させた己れの法身と遭遇することになるのだろう。
そこからはサハスララに宿る宇宙意識の活性準備期間に入ると推測される。
禅ではこの六年にわたる法身の温養期間を“聖胎長養”と呼ぶこともあるのだけれど、これはまた、よく言ったものだとおもう。
それでは、わたくし布施仁悟の歩もうとしている悟りの軌道十八年モデルを図示してみようか。
歴代の禅師では至道無難禅師が私と同じモデルで大悟している。
そのため人生観が非常に似通っているから相性抜群で、いわば禅師は私のマブダチなのだ。
悟りの軌道十八年モデル 〜 至道無難型 〜
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図:布施仁悟(著作権フリー)
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