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【坐禅作法99】般若の道

ちょっとはマシな坐禅作法 般若の道〜縁覚道の地図19〜

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〜縁覚道の地図19〜


禅の正道― 般若の道 ―

いつかのある日。

この“私”という存在さえもが、突然、そのリアリティを失う。 言葉は意味をなくし、印象は跡形もなく崩れ去る。 何もかもが滅び、沈黙に支配されたその先に、本当の了解(リアル)があるという。

“無”とか“空”などと呼ばれるその境地に至る道は、古来、二通りの方法で表現されてきた。

一つは、定力の階梯 ― 解脱の道 ―
もう一つは、智慧の階梯 ― 般若の道 ―

この二つの道は一本のトンネルへと続いている。

定慧一等の階梯 ― 法身のトンネル ―

三徳の関連図
図・布施仁悟(著作権フリー)


縁覚道の軌道に入ったときからはじまる頭脳分裂は、まず霊的身体であるエーテル体とアストラル体において完成し、それはやがて肉体にも及ぶ。 そのときに向き合うことになるのが“法身(ほっしん)”。 R・シュタイナーはそれを“境域の守護霊”と呼んでいる。

境域の守護霊

「境域の守護霊」との出会いは霊界へ参入する際の重要な体験である。 境域の守護霊は単一の存在ではなく、本質上「境域の小守護霊」と「境域の大守護霊」に分けられる。 霊妙な身体部分(エーテル体とアストラル体)の内部で、意志、思考、感情の間の結合帯が解けはじめたとき、人間は前者の守護霊と出会い、この結合帯の解消が身体の肉体的部分(特に頭脳)にまで及ぶとき、「境域の大守護霊」と向き合う。

(R・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』-P.227「境域の守護霊」)


R・シュタイナーによれば、“境域の守護霊”は「境域の小守護霊」と「境域の大守護霊」に区別され、そのうち「境域の小守護霊」は、それまでの修行の決算を映し出す鏡像として修行者の前にその形姿をあらわすそうだ。

それまで あまり徳を積んでこなかった修行者は、思わず怖気(おぞけ)立つような妖怪じみた存在に遭遇することになるため、そのときのためにもしっかり修行しておけとR・シュタイナーは警告している。

境域の小守護霊の特徴

たとえどれ程恐ろしい姿に見えようとも、この守護霊の姿は修行者自身の過去の生活の結果に過ぎない。 その姿は過去の生活が作り上げた修行者の性格である。 生活の結果が彼の外で独立した生存をいとなめるまでに覚醒されたのである。 そして、この覚醒は、意志と思考と感情が相互に分離しなければ惹き起されない。

(R・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』-P.234「境域の守護霊」)

修行者は今、どんな恐怖にも負けずに、この恐ろしい姿を直視できるように、そして出会いの瞬間に「守護霊」をもっと美しい存在にしようという要求を明瞭な意識と共に持ちうる力が十分感じられるように、心の準備を整えなければならない。

(R・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』-P.234「境域の守護霊」)


この法身との遭遇は運命の試練のカリキュラムの完結を意味する。 修行者を導いてきた運命の叡智は、もうその人生行路を照らしてくれることはない。 R・シュタイナーは、それをこんな物語形式で語る。

法身との遭遇の意味

これまでおまえは私の姿を見ることもなく、私をおまえ自身の中に担ってきた。 しかしそうしてきたことはおまえにとって幸いだった。 なぜならおまえの運命がおまえの眼から隠されていたからこそ、これまでも私の形姿の醜い汚点を消そうとして、運命の叡智はおまえの内部でひそかに仕事を続けてこられたのだから。 今、私がおまえの外へ出てきたことによって、この隠された叡智もまたおまえから離れる。 それはもはやおまえのことなど構おうとしないだろう。 そして仕事をおまえ自身の手に委ねるだろう。 しかしこれからも私が堕落するようなことは許されない。 私はますます完全な、偉大な存在にならねばならない。 もし私が堕落するようなことにでもなれば、おまえも私と一緒に暗い奈落に引きずり込まれるだろう。 ― そうされたくないのなら、おまえ自身の叡智を研(みが)き、おまえから去って行ったあの隠された叡智の課題を引き継がねばならない。

(R・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』-P.230「境域の守護霊」)


運命に翻弄されるあやつり人形ではなくなる一方で重責を担うことにもなる。 修行者の前には完全な闇がひろがる。

法身のトンネルの闇

さて境域の守護霊がこの最初の警告を語り終ると、その立っていた場所から、旋風が巻き起り、これまでの人生行路を照らしていた灯りを吹き消してしまう。 このことも単なる比喩と考えてはならない。 今や修行者の前に完全な闇が拡がる。

(R・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』-P.238「境域の守護霊」)


その闇を照らすのは智慧だ。

定力の階梯である解脱の道は、単に頭脳分裂を促進し、法身を生み出すための道にすぎない。 智慧の階梯である般若の道で身につけた智慧だけが、そこから先の拠りどころとなるのだ。 解脱の徳ばかりを追求し、般若の徳をないがしろにしてきた修行者は、法身のトンネルの闇にたちまち呑み込まれてしまうだろう。

公案禅の理論を大成した大慧宗杲(だいえそうこう)禅師は、自身の成功の秘訣をこんな言葉で表現している。

大慧宗杲の成功の秘訣


(意訳)なんにも知らないおバカちゃんたちは、定力を先に修して智慧を後まわしにしようとするから失敗する。 だから私は何よりも先に智慧を身につけることに努めた。 すると定力は後からついてきたのだ。


禅の正道は智慧の階梯 ― 般若の道 ―にある。

しかしながら その般若の道を示した仏教の理論は、歴史のいたずらにより、北伝仏教と南伝仏教のそれぞれに分かれて存在することになってしまった。 南北の両極に分かれたそれぞれの教えは、統合され、再びその価値を取り戻すことを待っている。 ここに失なわれた般若の道を再生(ルネサンス)してみようではないか。

私のルネサンスの騎士としての血がさわぐ。

矢印マーク 『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』

坐禅修行のプロセスを正確に記述してある唯一の本。
(2011年1月現在・ボク調べ)
こういう本が市場に出回っている現在、
秘密にしておくことなんてもはや何もないはずである。
そろそろまともな禅書を誰かが出版しても
いいのではないだろうか?

赤雲水

愛、それはミューズ

黒雲水

もしも36歳から妙観察智が目覚めてこなかったら、こんなしち面倒くさいだけで一銭にもならない禅の講釈を並べるようなこともなかっただろう。

世の中にはもっとうまく世渡りしている連中がいくらでもいる。 大学教授なら『フンコロガシの生態研究』のような、およそ何の役に立つのかわからない論文を書いていたって研究費をせしめるのに、私の興味の対象といえば『坐禅と星まわりとストレッチ』。 脈絡がなさすぎて誰も研究費をくれたがらないものだった。

「君はいったい何をしたいのかね?」

私はまずそれを研究すべきだったのかもしれない。 人はしばしば私に尋ねた。

「いま何をしているんだい?」
「本を書いてるのさ」
「どんな?」
「秘密(シークレット)」

“秘密(シークレット)”とは「人にはとても言えないこと」という意味の常套句だ。 私は官能小説を書いている売れない作家とでも思われていたことだろう。 30代の私は社会から孤立し、孤独の中にいた。 けれども和尚は言う。

愛と孤独

愛、人とのかかわり、人間関係―

覚えておきなさい。 あなたは、どうやってひとりになるかを学んだとき、はじめて人とかかわることができる。 けっしてそれ以前じゃない。 二つの<個>だけがかかわることができる。 二つの<自由>だけが近づいてお互いに抱き合うことができる。 二つの<無>だけがお互いの中に貫通し合い、そしてお互いの中に溶け合うことができる。 もしあなたにひとりでいる力がなかったら、あなたの人間関係は嘘っぱちだ。

(和尚(バグワン・シュリ・ラジニーシ)『般若心経』-P.545「第10話 Q&A1 サンニャーシンの九つの特徴」)


― ひとりになることを学んだとき、はじめて人とかかわることができる。けっしてそれ以前じゃない ―

私は孤独の中で妙観察智を磨き、孤独を乗り越えたとき、私の中にも愛が宿っていたことを知った。

愛は起こる

愛もまた起こる。 あなたはそれについてどうすることもできない。 あなたは無力だ。

ある日、あなたは誰かと恋に落ちる。 あなたはそれについてどうすることもできない。 たとえ誰かと恋に落ちたくても、あなたにそれを操作することはできない。 それは不可能だ。

そして、あなたが誰かと恋に落ちてしまったら、たとえそれを望まなくても、たとえあなたが自分自身を引き戻そうとしても、それもまた難しいことのように思われる。

(和尚(バグワン・シュリ・ラジニーシ)『般若心経』-P.182-183「第4話 Q&A1 自殺考」)


愛 ― それは誕生や死と同じくひとつのハプニングだ。

瞳の奥の光に反応し、ひとめ惚れの起こった瞬間にそれは受胎し、長い年月を経て、私がひとりの味を知ったときにそれは生まれた。

人を愛するためには胸に孤独を秘めていなければならない。 さもなければ愛すべき人を隷属させ、その自由を奪うことになってしまう。 自我の完成により自立した<個>だけが誰かを愛する資格を持つに至るのだ。 つまり自我の完成から放棄へと向うとき、そこに愛は生まれる。

男と女、愛と夢

詩人が、背後に女性がついていて、自分を支えてくれていることを知っているなら、彼の詩は高く高く舞いあがることができる。 女性がいつもそばにいてくれることがわかると、男はじつに逞しくなる。 彼はどんな冒険にもおもむくことができる。 女性がそばにいてくれないと感じるやいなや、彼は気力を失ってしまう。 今や彼には夢しかない。 が、その夢は無力だ。 その夢にはもはやエネルギーがなく、実現されえない。

ものを実現させる力は女性にある。 夢見る力は男にある。

(和尚『黄金の華の秘密』-P.108-109「第三話 アニムスとアニマ」)


愛 ― それはミューズだ。

以前の私には実現するあてのない夢しかなかった。 そんな私にツインレイのからくりを教えてくれた女性の記憶は、人生の節目ごとのメッセージのように点在していた。 それはまったく無意識的なもので、もちろん彼女にそんなつもりはなかっただろう。 それでも私はそれを確かに受け取っていたのだ。

はじめは26歳。 彼女の最大の晴れ舞台からだった。 Exclusive!世界的事件のスクープ現場に彼女はいた。 そのとき私は公認会計士の受験生活に突入し、テレビのない環境で暮らしていたのだけれど、どこかの食堂で偶然それを目撃した。

次は29歳。 己れの心とガップリ取り組むため、私は修行期間に入らなければならなかった。 いつもNHKのニュース番組を観ていた父親が、その日だけは、どういうわけか彼女がキャスターをつとめる民放の報道番組にチャンネルを合わせた。 私はそこで彼女の結婚を知った。

それから12年間。消息はぷっつりと途絶えた。

そして41歳。 テレビ画面の向こうにいた彼女を見かけたとき。 以前は別世界の人だとばかり思っていたのになぜか身近な人のように感じられた。 きっと、かつて彼女に対して抱いていた嫉妬心が粉微塵に砕けていたからだ。

セピア色に古ぼけていた写真が、突然鮮やかな色彩を取り戻したかのように記憶が甦り、そこに埋め込まれていたタイムカプセルがはじけた。 私と彼女の背後に働いている運命のカラクリが透けてみえてきたのだ。

「なんてことだ。私には同じ道を供に歩んでいる伴侶がいたのか」

それまで私は、この世にたった独りで取り残されているものだとばかり思ってきたのに、そうではなかったのである。 それが私に夢を実現させる力を与えてくれた。 愛の力は偉大だ。 今や私はどんな冒険にもおもむくことができる。

「これで世に出ることができる」

そんな予感が生まれたのもそのときがはじめてだった。

矢印マーク 『般若心経』―バグワン・シュリ・ラジニネーシ、色即是空を語る

“無”・“空”の経典『般若心経』。
それは最後の扉をひらく究極の教え。
和尚の解説があれば雰囲気だけでも味わえる。

矢印マーク 黄金の華の秘密

和尚は経典の解説をしているようでいて、実は心随観のコツを伝えている。 中国道教の真髄『太乙金華宗旨』で学ぶ心随観。 これは、いいね!


四果と四智

北伝した大乗仏教の唯識論において、“妙観察智(みょうかんざっち)”は「存在の事実をあるがままに見聞覚知する智慧」と説明される。 言い換えれば知識にたよることのない「直覚する智慧」のことで、この智慧を磨くことは本心を観ることにも通じるため、妙観察智の覚醒により生まれ持った才能が目覚めてくる。

私のたどった経緯を振り返ってみると、才能を目覚めさせた次の課題は、孤独を乗り越え<個>として自立することだった。 自立した<個>だけが、人を愛する資格を持ち、愛から学び、愛から力を得て才能を活かすことができる。

「オマエの修行は完了した」

39歳の8月4日に聞こえてきた内なる声の意味を了解したのは、私が愛の萌芽に気づき、ツインレイのからくりが啓示されはじめた41歳のときだった。

第二の水の試練モデル(布施仁悟型)
図・布施仁悟(著作権フリー)


それは妙観察智を目覚めさせ、才能を磨く修行が一段落したことを意味し、その次の孤独を乗り越え、<個>として自立するための修行期間に入ったことを告げるものだったらしい。

また、自立した個だけが人と対等にかかわることができるとすれば、妙観察智の次に目覚めてくる智慧は何なのか。 それは唯識論によると“平等性智(びょうどうしょうち)”であることがわかる。 「自他を区別することなく平等に観る智慧」― 要するにそれは「愛する智慧」だ。

印度ヨーガにおいて、この愛する智慧― 平等性智 ―は胸の蓮華(アナハタ・チャクラ)に象徴される。 さらにR・シュタイナーによると眉間の蓮華(アジュナ・チャクラ)の覚醒は胸の蓮華の覚醒後の行程となっていた。 その意味するところを和尚はこのように語っている。

第三の眼の意味

肉目を通して、あなたはこの世界を知る。 そして目が二つあるために、世界は分割され二元的なものになっている。 あなたの両目が世界を分割させている。 世界そのものはひとつだが、あなたの見方が世界を二つに分けてしまう。

(和尚『黄金の華の秘密』-P.173「第五話 解放の機縁」)

外に流れるエネルギーが両目を通り抜けると、全存在は二つに分かれる。 逆転したエネルギーが両目を通過してひとつの目、眉間の中央にある第三の目に流れ込むと、突然すべてがひとつになる。 これがサマーディだ。 あなたは神とひとつになっている。

(和尚『黄金の華の秘密』-P.173-174「第五話 解放の機縁」)


眉間の蓮華(アジュナ・チャクラ)にあるとされる第三の眼は自他を区別する二元性を超越した成果として覚醒される。 この秘術を達成するとき奇跡が起こるそうだ。

第三の眼の覚醒

これは至上の秘術だ。 これを「秘術」と呼ぶのはなぜか? ひとたび高次のハートが働きはじめたら、魔法のような奇蹟が起こるからだ。 あなたの感覚にはまったく秩序がなかった。 あなたの心(マインド)はつねに混乱していた。 あなたはつねに「これをするべきか、それともあれをするべきか?生きるべきか、それとも死ぬべきか?」とためらっていた。 あなたは絶えず「どこへ行くべきか?何を選ぶべきか?」と緊張していた。 すると、突然、誰かが奇蹟を行なったかのようにいっさいの混乱が消え、明晰さが生まれ、生は透明になる。 あなたは為すべきことをただやる。 実際、ひとたび天上のハートが機能しはじめたら、あなたがすることはすべてよい。 あなたはあやまちを犯せない―それは不可能だ。

(和尚『黄金の華の秘密』-P.78「第二話 燃えあがる茂み」)


― あなたは為すべきことをただやる ―

これは「なすべきことを為すことなく成就する智慧」。 唯識論において“成所作智(じょうしょさち)”と呼ばれるものだ。 いわば「無為自然の智慧」である。 第三の眼の覚醒は成所作智の目覚めを意味する。

しかしながら、ここはまだ小悟であり、さらに大悟するときに得られる智慧があることを唯識論は教えている。 それが“大円鏡智(だいえんきょうち)”。 この段階に至ると、煩悩の種子が払拭され、清らかに磨きあげられた鏡のような状態になるそうだ。

以上のように北伝した唯識論によると、智慧の階梯 ― 般若の道 ―は、妙観察智→平等性智→成所作智→大円鏡智の四段階で“四智(しち)”を身につけてゆくものであるとわかる。

矢印マーク 悟りの階梯―テーラワーダ仏教が明かす悟りの構造

よくまとまってるぞ…以上。


さらに、この智慧の階梯 ― 般若の道 ―は、悟りの軌道に参入したときから昇りはじめることを説明した理論が南伝仏教に存在している。 それが四向四果(しこうしか)とか四双八輩(しそうはっぱい)などと呼ばれるものだ。

四向四果(四双八輩)

四段階の悟りそれぞれに、その悟りに向って進む段階もあります。 悟りの四つの「果」に対して、それぞれの果に「向かう道」という意味で「向」とか「道」と呼ばれています。 預流向(預流道)、一来向(一来道)、不還向(不還道)、阿羅漢向(阿羅漢道)です。 悟りの四つの果と、そこに悟るための四つの「向かう道」とを合わせて「四向四果」とも呼びます。 預流、一来、不還、阿羅漢の四つの階梯に向・道と果とがそれぞれ一対ずつあるので「四双八輩」とも呼びます。

(藤本 晃『悟りの階梯―テーラワーダ仏教が明かす悟りの構造』-P.73-74「第二章 悟りの階梯は四段階」)


四向四果の概念では求道者が悟りの軌道に入ることを預流(よる)という。 その意味は「悟りへ至る流れに預かること」。 そこから預流の証果を得るまでの状態を預流向(よるこう)。 その証果を預流果(よるか)と呼び、預流果を得ることを「預流果に悟る」などと言うそうだ。

預流向→預流果と証果を得られたら、それ以降「一来向→一来果→不還向→不還果→阿羅漢向→阿羅漢果」と悟りに至るまでには四つの証果を得なければならない。 それぞれの段階で得られる「果」とは、つまるところ唯識論で説明されている四智のことである。

四果と四智
図・布施仁悟(著作権フリー)


しかしながら、この四果と四智を得るそれぞれの過程は必ずしも一致するものではない。

悟りの軌道は、R・シュタイナーの言う境域の守護霊、すなわち禅でいうところの法身を生み出す軌道であり、四果はその通過点を表わしている。 それは時節的なものにすぎないため、そこで与えられる運命の試練をないがしろにした場合、四智を得ることなく阿羅漢の段階に至ることもあり得る。 逆に禅定に熟達せずとも四智を得ることはできるので、たとえ四智を得ていたとしても、阿羅漢の具足するとされる六神通を持たない場合だってあり得る。

ここのところを南伝仏教ではこのように説明するそうだ。

心解脱 慧解脱 倶解脱

阿羅漢には、しかしながら、四回の悟りだけを「体験」して智慧が完全に現れたという意味の「慧解脱(えげだつ)者」と、その上、禅定にも通暁(つうぎょう)して(心解脱[しんげだつ])色界や無色界の梵天の世界にも親しんでいるというオプション付きの「倶解脱(くげだつ)者(慧解脱と心解脱の両方)」との二種類はあるようです。 どちらも悟りの智慧と般涅槃の仕方にまったく差はありませんが。
ちなみに、禅定の熟達=心解脱だけでは、通常とは違う特別に心地よい世界を知ってはいますが、それでも悟りとは何の関係もありません。 悟りには、真理を理解する智慧が必要なのです。

(藤本 晃『悟りの階梯―テーラワーダ仏教が明かす悟りの構造』-P.73「第二章 悟りの階梯は四段階」)


これは天台大師の三徳の関連図と同じことを語っていることがわかるだろうか。

天台大師の三徳と南伝仏教における三解脱の関連図
図・布施仁悟(著作権フリー)


どちらにしても、定力の階梯 ― 解脱の道 ―はオプション的な位置づけにあり、悟りとの直接的関係はないことを説明している。

青雲水

禅定バカのたどる定力の階梯

緑雲水

とはいえこれは、まったく智慧の目覚めていない禅定バカであっても、定力の階梯 ― 解脱の道 ―を昇ることならできることを意味している。

41歳を迎えて縁覚道に突入した私も、いよいよその定力の階梯を昇りはじめなければならなくなった。 さいわい38歳で発狂した修行者が縁覚道に入ってから法身に遭遇するまでの過程を私に教えてくれていたので、それが非常に参考になると考えられる。 彼が智慧の階梯 ― 般若の道 ―を一段も昇りはじめていなかったということは、余計な要素がそぎ落とされるため、これ以上の被験者はいない。 少し彼のたどった経緯を分析してみることにしよう。

禅定バカのたどる定力の階梯
図・布施仁悟(著作権フリー)


その修行者は、本来なら「念仏でも唱えながら後生を願って寝んねしてな」というくらいの下根機であったにもかかわらず、精力にだけはめぐまれていた。 運命のいたずらにより32歳のときに密教的行法に興味を持ってしまった彼は、行をはじめたところ、すぐに小周天の気道が開いてしまう。 そこからは運命の試練そっちのけで密教的行法にのめり込んでいったというお話だ。

発狂への疾走1

ザッと書きますと、4年前に習い始めた内家拳の練功を機に、まず気感を得る―肉食受け付けなくなる―立禅を始める―下腹に強烈な熱感を覚え坐禅にスイッチ。 その後すぐに小周天が廻り、現在までの約2年弱の間は毎日の様に廻し幽体離脱も4,5回体験したため貴ブログの内容を半ばなぞっているようなかんじなのです。


おそらく23歳から悟りの軌道に参入していたものの、鈍チン(にぶちん)すぎてそれに気づくこともなく、まったく見性せずに声聞道九年間を中途半端に過ごしてしまっていたのだろう。 そうすると運命はいつまで経っても開けてこない。 彼にとっての密教的行法は、そんなどん底の運命から脱け出すための起死回生の一手であり、そこに人生のすべてを賭けたのだとおもう。

しかし、どんな努力も方向性を間違えるとロクなことにならない。 これは誰もが20代で学んでおくべきことである。

― 20代をしっかりがんばったやつだけが30代へのパスポートを手に入れられる ―
(矢沢永吉)

やがて彼は36歳で小周天を完成し、俗にクンダリニー覚醒とか大周天と呼ばれるイベントを体験した。

発狂への疾走2

先日今までにない強烈な体験がありまして、寝際に尾てい骨の先端に濃い気が集中し、そこから感覚的には野球のボール状のものが3〜4回発射され背骨を通り抜け、頭蓋骨の内側を強烈に弾きましたので慌てて頭頂に手をやってみると、頭皮がぶよぶよしており、なんと頭頂が開いておりました。


その後は中国道教で出神とか出胎と呼ばれる行法にハマっていくことになる。

発狂への疾走3

何度も幽体離脱してるうちに気付いたけど腹からはゴムみたいな糸が出てて、それが少しづつ伸縮性を拡張しながら、行動範囲も拡がっていったんだけど、公案って要するにそれ使って別次元から答えを引っ張ってくるもんかと思ってたんだけど。


この幽体離脱はいわゆる“陰神による出神”というやつで、あまりよろしくはない。 この点については、けしからん指導者である高藤聡一郎氏ですら注意を促しているもので、よい子のみんなは絶対にマネをしてはイケナイものである。

陰神による出神

陰神による出神(幽体離脱)とは、自分のもっているエネルギーを根こそぎ使って、自分の肉体から抜け出る一種の超能力パワーのことなのだ。 おそらくこのとき先天の気と呼ばれる生体をおおっているエネルギー場が一部あるいはそっくり肉体から抜け出していくのだろう。
このことから、精力にあふれている人(つまりエネルギーの多い人)はまだいいが体の弱い人がこんなことをしょっちゅうやっていると、やがて生体そのものを損なうことになるのがわかる。 現にそうなった人を、著者は何人も見かけているのである。

(高藤聡一郎『秘法!超能力仙道入門』-P.264「第6章 時間・空間を超越する仙道の秘術と極意」)


もしもこの段階で智慧や才能が目覚めてきていれば、こんな子供だましみたいな行法で公案を透過できるとは考えなかっただろう。 だいたいそんなものに熟達したところで世の中の何の役に立つというのか。 地に足がつかなくなったらもはやお終いである。

そして38歳。 ついに彼はそれまでの修行の総決算として己れの鏡像である法身― 境域の小守護霊 ―に遭遇する。 しかしながら彼の生み出した法身は実に醜い姿であった。

発狂への疾走4

先日私はクンダリニーであろうと思える物体を見ました。 黄金のタコ状の無脊椎動物に植物を足したような形を持ち触手の先の細かいヒダまでがイヤらしいほど活き活きと金粉を散らしながら動いていました。 肉眼で見る金色が霞む程の深度でビット数が違うんですよ。


にもかかわらず、それが己れの鏡像としての姿であるとも気づけないほど、オメデタイおつむの持ち主となってしまっていたのである。

発狂への疾走5

三昧だってね、妄想でもSFでもなくあなたの好きなバグワンの初三昧体験を拾い読みしたこと、それから名前はちょっと言えませんが、あまり世間には出回っていない、ある道士の大陸での記録、語録を通して確信したのです。 両者、異口同音。 私のした体験は同じなのですよ。 だから妄想かどうかはご自分でそこに溶けてから語りましょう。 あれが妄想だというあなたが妄想しか知らないのです。 ともかくも法、覚りの空売りは罪を生むだけですよ。


どうやらR・シュタイナーの時代にもこういう修行者は大勢いたようだ。

鏡像

修行者が霊的直観を獲得する以前に冷静な自己観察を通して、自分の性質をよく認識していたなら、自分の内面が外なる鏡像となって立ち現れてきた時にもまともにそれと向い合う勇気と力を持つことができるであろう。 静かな自己反省を通して自分の内部に精通しようとしなかった人は、このような鏡像を己れの姿であるとは認めたがらず、それを自分と異質な外的現実の一部分と見做すであろう。 またはそのような鏡像に接して不安に陥り、その姿が見るに耐えなくなり、それを根拠のない空想の産物であると思い込もうとするかも知れない。 そのいずれの場合にも、人は未成熟なまま、或る種の霊的開発に成功してしまったので、取り返しのつかぬ不幸な状態に陥っているのである。

(R・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』-P.181-182「霊界参入が与える諸影響」)


以って瞑すべし。

― 近道をしたやつは その近道につぶされる ―
(矢沢永吉)

こういうことは宗教以前にある男の美学の問題である。

矢印マーク 『秘法超能力仙道入門』

この本の記述は古い文献や自身の実体験に基づいている。 何かと参考になるので手元に置いておくといいかもしれない。

ただし、インチキ気功師になってはイケナイので、 かならず見性してから読むようにしましょう。


中国道教にみる法身の受胎から旅立ちまでの過程

この修行者のたどった経緯を説明する概念が中国道教にある。 以下の図は比較可能なように、発狂した修行者のたどった32歳縁覚道突入モデルで図示してある。

中国道教にみる法身の受胎から旅立ちまでの過程
図:布施仁悟(著作権フリー)


百日立基


求道者には縁覚道に入ると自然に密教的行法に興味を抱く傾向がある。 以下はブログに投稿されてきたコメントから。

縁覚道からの密教入門


今年43歳になりますが、27歳から精神世界にのめり込み、今年に入ってから、神秘行なるものがあると知りました。


この投稿者は、私と同様に32歳から悟りの軌道に入っていたのだけれど、声聞道九年間をもっぱら帰巣本能だけでやり抜いていた。 つまり、ばっちり見性していたにもかかわらず、密教的行法には手をつけていなかったし、自分が見性していることにもまったく気づいていなかったのである。

このことから、たいていの覚者もこのケースであることが推測される。 すなわち彼らが縁覚道から先のことばかりを説き、声聞道の過程について語ることがないのは、声聞道九年間を帰巣本能をたよりに通り抜けていたので、自分でも気づかないうちに見性してしまっていたからなのだろう。 こうしたカラクリが明らかにされてこなかったため、これまでは多くの修行者が己れの立ち位置を確認できずに迷走してきたのである。

声聞道九年間の次に待っている縁覚道九年間とは法身の受胎から旅立ちまでの期間。 いよいよ定力の階梯 ― 解脱の道 ―を駆けのぼらなければならないため、修行者を導く内なる師は密教的行法に興味を持つように促すし、ここから先は行法の成果がはっきり認識できる形で出てくる。 そのため、この段階から修行を開始したと勘違いしている覚者も多いのだ。 要するに彼らは単なる鈍チンだったというだけの話なのである。

さて、中国道教では密教的行法の開始から百日間で法身を受胎することになっていて、この時期のことを“百日立基”と呼ぶ。 これは仏教の色界、いわゆる霊界を生き抜くために必要な法身の妊娠を意味し、定力と呼ばれる集中力は、その胎児の知覚器官である蓮華を形成する手段なのだそうだ。

― 集中の行が形成する。徳性の習慣化が成熟させる ―
(R・シュタイナー)

法身の知覚器官である蓮華は坐法によって形成することができる。 ただし、それを成熟させ、正常に機能させるためには動中の工夫が不可欠というわけだ。 それにしても、さすがはR・シュタイナーである。 このあたりのことについては相変わらずうるさい。

十月養胎


法身の受胎から誕生までの期間は十ヶ月。 この時期は“十月養胎”などと呼ばれている。 これは要するに「魂が母親の子宮に宿り欲界(現象界)に肉体を持って誕生する」過程とまったく同じことで、修行者は、色界(霊界)に法身を持って誕生し、そこから先は色界を故郷として九年間の少年少女時代を過ごす。 それが縁覚道九年間なのだ。 だからこれはきっかり九年間と決まりきっている。

そうした法身の受胎は“光の放射”によって知ることになるそうだ。

法身の受胎と光の放射

受胎が起こったことをあなたはどうして気づくのか? あなたは内なる輝きを見るようになる。 目を閉じるたびに、闇ではなく光の放射が見えてくる。 それを見るのはあなただけではなく、あなたを愛している人々―彼らもまたあなたのまわりに霊光(オーラ)を見るようになる。

(和尚『黄金の華の秘密』-P.149「第四話 光を輪のように巡らせる」)


これはちょうど頭部に形成された気の流れの中心点が喉頭部に移動する頃に起こることをR・シュタイナーは指摘している。

R・シュタイナーの説く法身の受胎

頭部に作られたこの中心点がふさわしい確かさを獲得したなら、それはもっと下方に、つまり喉頭部の辺りに移される。 このことは集中の行をさらに続けることによって達成される。 その場合エーテル体の流れはこの部分から輝き出る。 その流れは人間の周囲の魂的空間を照らし出す。

(R・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』-P.171「霊界参入が与える諸影響」)


さらにその法身が誕生するとき、眉間の二弁の蓮華にあるクタスタが活性化するそうだ。

R・シュタイナーの説く法身の誕生

行がさらに進むと、修行者は、エーテル体の在り方そのものを規定することができるようになる。 それまでこの在り方は外界から来る諸力と肉体に由来する諸力とに依存していた。 しかしこの行によって、修行者はエーテル体をあらゆる方向へ向けることができるようになる。 この能力を可能にする流れは、ほぼ両手に沿って進む流れであり、両眼の間にある二弁の蓮華にその中心点を持つ流れである。 このことはすべて喉頭部の中心点から出てくる流れが丸い形を作ることによって実現される。 これらの丸い形をした流れの特定数が、二弁の蓮華に到り、そこから波状をなして両手に沿った道をとって流れるのである。

(R・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』-P.171-172「霊界参入が与える諸影響」)


しっかり運命の試練を乗り越えていれば、ここで第二段階の一来果の悟りに至るらしい。 一来(いちらい)とは「もう一度生まれ変われば悟れる」というほどの意味。 修行者はここで二度目の悟り体験をすることになるのだけれど、この時点ではまだ禅定に熟達していないので、普通は夢の中で“光の爆発”を体験することになる。 たとえばこれは白隠禅師が33歳で一来果に悟ったときの体験。

白隠禅師33歳における一来果の悟り体験

三十二歳の時、この破れ寺(松蔭寺)に住職した。 ある夜、夢に母が現われ紫衣を自分にくれた。 もちあげて見ると二つの袖がたいへん重いと感じた。 この袖を探るとそれぞれ一つの古鏡が入っていた。 直径五、六寸ばかりで、右手のは光り輝き、その光は心の中まで透徹し、自分の心も山河大地もすべて清冽に澄んだ淵の底がないようであり、左手の鏡は全面に少しの光輝もなく、その表面は新しい鍋がまだ火気に触れないもののようだ。 すると突然に左の鏡の光輝が右の鏡よりも、百千億倍に輝くように感じた。 これ以降、万物を見ること、自己の面(おもて)を見るようになった。 ここで初めて如来が目に仏性を見るということが分った。

(鎌田茂雄『日本の禅語録十九 白隠』講談社 P.256「遠羅天釜 巻の下」より)


つまるところ「眉間にある二弁の蓮華にその中心点を持ち両手に沿って進む気の流れ」が完成したとき、一来果に悟り、夢の中で“光の爆発”を見た、と言っているのである。

この時点から愛する智慧である平等性智が発現し、修行者は妙観察智を磨くことで獲得した才能を世に出て活かしていくようになる。 白隠の場合は33歳のこのときから故郷の松蔭寺で経典の講釈をするようになった。

このように悟り体験の一要素として“光の爆発”があり、この体験を経た後から智慧が発現してくる。 ちなみに以下は私が36歳で預流果に悟ったときの“光の爆発”体験。 妙観察智はこの夢をみた後から目覚めてきたのである。

布施仁悟36歳における預流果の悟り体験

私と十牛図のなれ初(そ)めは、今から約3年前、36歳のこと。 第三の結節が解ける直前に観ていた夢に始まります。

雪の降りしきる夜、目的地までランニング・ウェアを着て走っていた私は、先を急ごうとタクシーを止め、その後部座席に乗り込みました。 そこへタクシーのドアを叩く男が一人。

「なかなかタクシーがつかまらなくてさ。悪いんだけど一緒に乗せて行ってくれないか」

私の座席の反対側のドアから図々しく乗り込んできた男を見て、背筋が凍りつくという恐怖を生まれて初めて知りました。 私と同じランニング・ウェアを着た何から何まで鏡うつしのドッペルゲンガーがそこにいたのです。 それは“死の予兆”とされている怪奇現象と聞いていた私は思わず知らず叫んでいました。

「オマエは誰だ!」

するとドッペルゲンガーも言い返します。

「オマエこそ誰だ!」

「オマエの名前を聞いてるんだ、答えろ」
「というか…オマエ、オレのランニングウェア盗んだなあ」
「嘘をつけ、盗んだとしたらオマエぢやねえか。勝手に変な色に染めやがって、高かったんだぞ、どうしてくれるんだ」
「なんだとコノヤロウ」

自分の身に着ているランニングウェアを盗んだとか盗まないとか言うのですから、落語の粗忽(そこつ)ものみたいな滑稽話ですが、本人は必死なのです。 笑い話どころではなく、もう、わけがわからない。 しかし、私がこの数日後に死なないためには、このドッペルゲンガーを捕まえて、何らかの方法で融合しなければならないと咄嗟に考えたのです。

「とりあえず、こっちに来い」

私が彼の腕を把(とら)えようとしたとき、ドッペルゲンガーはタクシーから飛び降りて駆け出しました。 私もすぐに後を追ったものの脚がもつれて捕らえ損ね、彼が塀を飛び越えようと高く跳躍したとき、まばゆい閃光が彼の全身を包み込むがはやいか、そのまぶしさに眼が眩(くら)んだ私は、その場にしゃがみ込まざるをえませんでした。 その直後に仙道で云うところの小薬が発生し、全身をめぐり始めたことで夢から醒め、第三の結節解放を体験したのでございます。

矢印マーク 『ちょっとはマシな坐禅作法』【坐禅作法65】ドッペルゲンガー遭遇


三年乳哺


誕生した乳児が哺乳(ほにゅう)や離乳食を卒業し、言葉を話したり、歩いたりできるようになる頃から行動範囲は広がっていく。 それまでには約三年かかるものだけれど、法身の誕生から色界年齢三歳くらいまでのこの時期は“三年乳哺”と名づけられている。 基本的な身体機能が備わるまでの三年間だ。 色界(霊界)では、さらにそこから先が“出神”とか“出胎”と呼ばれる段階となる。

発狂した修行者のケースでは、まさしくこの時期に小周天を完成させているのだけれど、一方の私は、声聞道九年間を通して身体背面の督脈の気道を開発できただけで、身体前面の任脈の気道はついに開くことはなかった。 声聞道九年間で小周天を完成させることはできなかったのである。

しかしながら私の声聞道九年間の経緯と縁覚道九年間における法身の成長過程を並べて図示してみると面白いことがわかってくる。

声聞道九年間と縁覚道九年間の比較
図・布施仁悟(著作権フリー)


声聞道と縁覚道はまったく同じ構造をしているのである。

私が督脈の気道を開発したのは、尾てい骨にある第二の結節を解放した33歳から延髄に位置する第三の結節を解放した36歳までの三年間なのだけれど、それはちょうど縁覚道における“三年乳哺”の期間にピタリと重なる。 つまり小周天というのは「声聞道において督脈を開発し、縁覚道において任脈を開発する」― そういう手順を踏むものだったのだ。

ここから声聞道九年間と縁覚道九年間のそれぞれの意味もまた明らかになってくる。

一般的小周天と結節の位置関係


第一の結節(ヴィシュヌ・グランティ)
…アナハタ・チャクラ(胸[心臓])

第二の結節(ブラフマ・グランティ)
…ムーラダーラ・チャクラ(尾てい骨)

第三の結節(ルドラ・グランティ)
…アジュナ・チャクラ(眉間・延髄)

→眉間の奥の点が延髄中枢―超意識
→眉間の青い点がクタスタ―キリスト意識

図・布施仁悟(著作権フリー)


それは、声聞道九年間は、延髄中枢に宿る超意識の活性→覚醒→成熟の過程であり、縁覚道九年間は、眉間のクタスタに宿るキリスト意識の活性→覚醒→成熟の過程であるということである。

六年温養


私の延髄の経穴は32歳でチベット体操を始めた直後に活性化したのだけれど、延髄中枢に宿る超意識の覚醒により妙観察智が目覚めてくるまでには、約四年後の36歳を待たなければならなかった。

また縁覚道の軌道に入った41歳の2015年8月20日。 あたかも眉間に埋まっているコルク栓がシャンペンボトルから弾け飛ぶかのように抜けていき、私は眉間に位置する第三の眼― クタスタ ―の結節解放を体験することになった。 とはいえ、第三の眼(クタスタ)に宿るキリスト意識が覚醒する際に起こるとされる性エネルギーの上昇 ― いわゆるクンダリニー覚醒は、このとき起こらなかったのである。

その性エネルギーの上昇 ― クンダリニー覚醒 ―について、和尚はこのように語っている。

性エネルギーの上昇― クンダリニー覚醒 ―

人の性エネルギーのなかには、黄金の華の種子が含まれている。 だが、そのエネルギーが上昇すべきであって、あなたがそれを上にあげることはできない。 それを上昇させようと努力する人々がいるが、彼らは性的倒錯者になる他はない。 直接上昇させることはできないが、間接的に行なうことはできる。 ひとたびあなたの第三の目、あなたの霊的ハートが働きだしたら、エネルギーはひとりでに動きはじめる。 あなたが第三の目をつくりだすと、エネルギーはまるで磁石に引きつけられるようにそれに向かってゆく。

(和尚『黄金の華の秘密』-P.80「第二話 燃えあがる茂み」)


この和尚の講話によると、私の41歳2015年8月20日における体験が第三の眼― クタスタ ―に宿るキリスト意識の覚醒であれば、眉間の第三の眼に向かって性エネルギーが上昇していなければおかしい。 けれどもそれが起こらなかったということは、私の体験は単に第三の眼― クタスタ ―が活性化したにすぎないことになる。

以上の考察から、延髄中枢の超意識にしろ、眉間のクタスタに宿るキリスト意識にしろ、その活性と覚醒にはタイムラグのあることがわかる。

意識進化の三段階
図:布施仁悟(著作権フリー)


そしておそらく、延髄中枢の超意識の覚醒により妙観察智が目覚めた後、その智慧を磨きながら超意識を成熟させてきたように、眉間のクタスタに宿るキリスト意識もまた、覚醒から成熟へと意識進化を遂げなければならないことが推測される。 それが“六年温養”の期間なのだろう。

したがって三段目の悟りである不還果の悟り体験とは、第三の眼― クタスタ ―の覚醒により性エネルギーが上昇するクンダリニー覚醒のことであり、その後はそこで目覚めてくる無為自然の智慧である成所作智を磨くことで、キリスト意識を成熟させなければならないと考えられる。 “不還(ふげん)”とは「もはや欲界に還ることはない」という意味。 欲界への執着がなくなるため、もはや欲界に転生することはなく、すでに執着がなくなっていることから、為すべきことをただ為すことができるというわけだ。

その途中で修行により誕生させた己れの法身と遭遇することになるのだろう。 そこからはサハスララに宿る宇宙意識の活性準備期間に入ると推測される。 禅ではこの六年にわたる法身の温養期間を“聖胎長養”と呼ぶこともあるのだけれど、これはまた、よく言ったものだとおもう。

それでは、わたくし布施仁悟の歩もうとしている悟りの軌道十八年モデルを図示してみようか。 歴代の禅師では至道無難禅師が私と同じモデルで大悟している。 そのため人生観が非常に似通っているから相性抜群で、いわば禅師は私のマブダチなのだ。

悟りの軌道十八年モデル 〜 至道無難型 〜
図:布施仁悟(著作権フリー)
桃雲水

悟後の修行

赤雲水
果行格


白隠禅師は世寿八十四歳。 四十二歳で大悟したのだけれど、四十二歳までを“因行格”、大悟からの四十二年間を“果行格”としていた。 「死ぬまで修行、それが菩薩道」という勢いだったのである。 白隠禅師の偉業はそうした“悟後の修行”を強調していたことにあるだろう。 たしかに白隠は日本の禅史上最悪の鈍チンだったかもしれない。 けれどもその点では、やはり五百年に一人の逸材だったのだ。

R・シュタイナーもまた、阿羅漢の境地に至り、大円鏡智を得ようとするとき、境域の大守護霊が現れ、解脱した修行者に菩薩道を歩むように促すと説明する。 菩薩とは、すでにこの世を超越した仏陀の本性を持ちながら、一切の衆生を彼岸へ渡すために時間と空間の世界に踏みとどまっている者のことである。

境域の大守護霊のお説教

すでに解脱した者として、おまえはすぐ今日にも超感覚的世界の人になりたいであろう。 しかしそうしたらおまえはまだ救われざる地上の存在たちのためには、ただ高いところから見下すことしか為しえない。 それはおまえの運命を彼らの運命から切り離してしまうことを意味する。 しかしおまえたちはすべて、互に結ばれ合って生きてきた。 おまえたちはすべて、感覚世界の中へ降りていっては、そこから高次の世界へ向う力を取り出してきた。 もしおまえが彼らから自分を切り離してしまうなら、彼らとの共同体の中で育成することができたその力を、おまえは自分のためだけに乱用することになる。 彼らが感覚世界の中へ降りていなかったら、おまえもそうすることはできなかった筈である。 彼らがいなければ、超感覚的存在となりうる力をおまえは獲得できなかったであろう。 おまえが彼らと共に獲得したこの力を、おまえは彼らにも分け与えねばならない。 だからおまえが身につけたすべての力をおまえの同胞たちの救済のために使い果たさぬ限りは、超感覚的世界における至高の諸領域へおまえを参入させる訳にはいかない。

(R・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』-P.251「生と死」)


果行格を菩薩として何ができるか。

妙観察智はそれを知るための智慧であり、平等性智はそれに力を与える智慧であり、成所作智はそれを実践する智慧であり、大円鏡智はそれらすべての土台となる智慧なのだろう。 こうした四智を得てゆく般若の道は、歩むに悪くない道であるばかりか、それ以外に道はないようにも思えてくる。

以上、これが40-41歳にかけて私の描いた『縁覚道の地図』である。

(2015.10)


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