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【坐禅作法98】禅の科学

ちょっとはマシな坐禅作法 禅の科学〜縁覚道の地図18〜

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〜縁覚道の地図18〜


まず己れのオツムを疑え

禅者は科学者でなければならない。

ある実験室で実証された仮説は別の実験室における検証でも同様の結論に至ってはじめて証明される。 それが科学だ。

坐禅修行は、歴代の覚者たちが己れの身心を実験室として構築した理論を、修行者自身の身心をもって証明していく体験的科学実験である。 それだからこそ面白い。 したがって、もしも古来の文献に残された修行過程と己れの修行過程との間にいささかでも矛盾が存在するならば、その実体験は科学的に間違っていることの証拠となる。

己れの坐禅修行における実地体験を客観的に判断する科学者の視点。 私はそれを“センス”と呼ぼう。 これは坐禅修行において最も重要な“謙虚さ”の土台となるため、密教的行法の“素質”よりも遥かに重要な要素と考えられる。

― 身心を決択するにおのずから両般あり。参師聞法と功夫坐禅となり ―
(道元禅師『学道用心集』第十)

WWW(World Wide Web)時代における正師不在の禅寺では参師聞法の機会を容易には得られないようだ。 ならば自分と古来の文献との間に横たわる矛盾を冷徹な眼で疑う科学者の視点を磨く功夫のほかに修行の手がかりはないことになる。

― まず己れのオツムを疑え ―

いずれ縁覚道の入口に立とうとするとき、この言葉は千鈞の重み(せんきんのおもみ)を持つことになるだろう。

赤雲水

クンダリニー症候群とは

黒雲水

以前、コミュニケーション障害を発症していた精神分裂症患者の修行者に「まず己れのオツムを疑え」と忠告したところ、こんな回答をしてきたことがある。

精神分裂症患者たちの珍回答


オツムも何も全部あんたが吐いたことだからな、誰のオツムじゃい。 こっちは一貫してオツムはホントのバカだから腹脳だぞって言ってるのに。


この修行者は素質があったため32歳から縁覚道の軌道に突入した。 23歳から悟りの軌道に参入して、白隠と同じ運命を歩んできていたと考えられる。

悟りの軌道モデル(白隠型)
図・布施仁悟(著作権フリー)


そのため32歳からの頭脳分裂開始に伴って小周天の行を実践するようになったのだけれど、古来の文献を誤読している指導者の説く行法を一切疑うことなく信じ込んでしまい、まったく見性することなく35〜36歳を迎え、そのままクンダリニー覚醒の段階に至ってしまった。 つまり小悟の段階に到達して禅定や三昧を体験し、悟りの世界を一瞥できるようにはなったものの、ヘルダーリンやニーチェと同様に幻覚障害を発症することになった。 いわゆる発狂である。

三徳の関連図(修正版)
図・布施仁悟(著作権フリー)


そのため、わざわざ天台大師の『天台小止観』を引用したり、三徳の関連図を描いたりして、「止(サマタ)と観(ヴィパッサナ)の各々から得られる“解脱の徳”と“般若の徳”は別々の功徳で、“定力の修行”と“智慧の修業”は双修されなければならない」と説明してもさっぱり理解できなかった。 すでに「腹に脳みそがある」などという奇怪な妄想世界に住んでしまっていたため、その空想世界以外の事実を受け付けなくなっていたのだ。

たとえばこんな調子である。

精神分裂症患者の珍発言


布施さん、私はこの一年に4回ほど禅定だか三昧に入りましたよう。 その情景を説明させて貰いますね。

それは、形而下の頭脳智(自我)を形而上の臟識(自律神経)が凌駕した状態で必ず奇経八脈が開き、ビュウビュウと胎息に入りますよ。 恍惚の没我状態にて直ぐそこに神さまでもいるんじゃないかしらと思わすような幸せの真ん中にて、心中、大悲心陀羅尼など唱えておりますが、そのセンターは下丹田ですから、そこが形而上の諸縁の玄関だからこそ元神とか縁中と云われるんだと思いますよう。 なので、どうしても私には丹田を欠いた瞑想はフォークですくうスープのようなものに思えてしまいますよぅ。

私の体験では分裂というものは頭の中だけ、その頭をまるごと放下して自律神経(宇宙意識)が君臨した時に、己身の弥陀が出てくるんだと思いますよー。


コミュニケーション障害や幻覚障害を発症して社会生活が困難になっているのに、この調子なのである。 禅定だとか三昧だとか、そんなことを言ってる場合じゃないだろう。

こういう修行者は、まず31-33歳あたりで頭脳分裂がはじまると、その時点でコミュニケーション障害を発症する。 それは自分に都合の良い話ばかりを受け入れて、自分に都合の悪い話には耳を閉ざすという思考習慣の積み重ねによる障害で、ある意味、生活習慣病みたいなものだろうか。 己れのオツムを疑うことがなくなり、人の言うことを自分勝手に翻訳して解釈してしまうようになるから、意志の疎通が困難になる。

その後35-37歳くらいでクンダリニー覚醒にいたり、禅定や三昧を体験するようになるのだけれど、すでに己れのオツムを疑うことができなくなっているため、脳のみせてくる妄想や幻覚をそれと認識できなくなる幻覚障害を引き起こす。

ところが、その妄想や幻覚を禅定や三昧の証果だと思い込むものだから、修行者にとってその空想はよりリアルにみえている。 おかげで本人には自覚症状がまったくない。 その様子は傍(はた)から見れば発狂して廃人となっているだけなのだけれど、本人はいたって正気のつもりだったりするのだ。

これが坐禅修行にともなう精神分裂症の末期症状。 俗にいう“クンダリニー症候群”である。

和尚の説く疑いの効用

疑いは役に立つ。 真理に到達するまで、疑いは助けになる。 疑いは信頼の友だ。 疑うというまさにそのプロセスが空想の餌食にならないように助けてくれる。 さもなければ、空想が好き放題に羽をのばす。

(和尚『黄金の華の秘密』-P.132「第四話 光を輪のように巡らせる」)


これから歩もうとしている縁覚道では、いよいよ頭脳分裂がはじまり、ほんの数年後にはクンダリニー覚醒に至る。 それに伴う禅定や三昧の証果は空想世界への扉ともなりうる諸刃の剣(もろはのつるぎ)なのだ。 とはいえ坐禅修行の当初から、己れのオツムを疑う客観的な科学者の視点、いわゆるセンスを磨きあげておけば、その危機を乗り越えていくこともできるだろう。

ここに挙げる古来の理論は坐禅修行における実体験を科学的に検証する基準となり得るものである。 それはいわばキノコ狩りのガイドのようなものだ。 ガイドを持たずに縁覚道の修行を続けるうちには、食べられるキノコとほとんど見分けのつかない毒キノコを食べて、地方紙の三面記事の一隅を飾るようなことにもなりかねない。 つまりは誰もが陥るかもしれない落とし穴に引っかからないためにも、縁覚道の入口でガイドを手にしておくことは大切なことだと私はおもうのだ。

矢印マーク 黄金の華の秘密

和尚は経典の解説をしているようでいて、実は心随観のコツを伝えている。 中国道教の真髄『太乙金華宗旨』で学ぶ心随観。 これは、いいね!


意識進化の三段階

もしも人が求道者として生まれついているならば蓮華の開発や気の制御を説いている密教に興味を持つ時節が必ずやってくるだろう。 それは箸の持ち方を身につけることのような通過儀礼であり、それができなければろくな食事にもありつけないという意味で、生き残るための前提条件とでも云うべきものだ。

パラマハンサ・ヨガナンダの『あるヨギの自叙伝』と『人間の永遠の探求』という本を読んだのは、そんな時節を迎えた32-33歳にかけてのことだった。 この印度のヨーガ行者の本は、肉体改造に成功し、ようやく精神の改造に乗り出した私にひとつの命題を突きつけていた。 「ただ坐っているだけで心を制御することなど絶対にできない」とあったのである。

クリヤ・ヨガの科学

内観あるいは単なる静坐によって心を感覚器官から分離しようとしても、これは科学的に無理な話である。 心と感覚器官とは生命力によって密接に結びつけられており、心がいかに神のもとへ帰ろうとしても、生命力が働いているかぎり、たえず感覚器官に引き戻されてしまうからである。 しかし、直接生命力を制御することによって心を制御するクリヤは、科学的にも合理的であり、神に近づくための最も容易で能率的な方法である。 また、神学によって神に近づこうとする方法は、いつ目的地に到着できるか全く見当も付かない牛車の旅のようなもので、これに比べればクリヤ・ヨガは、まさに飛行機による旅といえよう。

(パラマハンサ・ヨガナンダ『あるヨギの自叙伝』-P.249「クリヤ・ヨガの科学」第二十六章)


身心の統制を実現するには、まず生命力、すなわち、気(エーテル・プラーナ)を制御できなければならず、そのためには“クリヤ・ヨガ”という技法を用いることが科学的にも合理的だと説明されていた。

中国道教においても、その手順としては、まず第一に精力をつけることにより肉体の健康を回復し、次いで気の制御を学ぶ過程へと進む。 このことから内観あるいは単なる静坐によって心を制御することなど不可能であるという主張は真実であると考えられた。 何より胸の蓮華(アナハタ・チャクラ)が目覚めると願望実現の木(カルパブリクシャ)が発芽してくるという印度ヨーガの概念は、理性が吹き飛ぶほど魅惑的なものであり、もしや邪道ではないかと思いながらも、密教に惹(ひ)かれていく自分を否定できなかったのである。

また、32歳で『5つのチベット体操』を手にして実践しはじめたとき、延髄の辺りがジンジンと振動して、くらくらとめまいを覚える体験をしたのだけれど、それは“経穴”というものを意識しはじめるきっかけともなった。 ほどなくしてヨガナンダの『人間の永遠の探求』に延髄の経穴についての記述を見つけてしまったからだ。

延髄中枢について

「人はパンだけで生きているのではない。 神の口から出る一つ一つのことばによって生きている」(マタイ4-4)

神が人間に“ことば”(知性をもつ宇宙エネルギーの波動)という息を吹き込んでおられる所は、延髄にある超意識の中枢である。 このエネルギーは脳の中に蓄えられ、そこから脊髄を下って、そこに並ぶ五つの霊的中枢(チャクラ)に入る。 すると、それらの中枢がその生命エネルギーを身体の各部に配分するのである。

(パラマハンサ・ヨガナンダ『人間の永遠の探求』-P.103「講話十二 断食の肉体的および霊的効用」)


このパラマハンサ・ヨガナンダという印度のヨーガ行者は、七つの蓮華(チャクラ)について、一般的な解説とは異なる捉え方をしていた。 延髄を中心として蓮華の役割を上下に分けて考えるのである。

七つのチャクラと第三の結節(延髄中枢)の図

第三の結節(延髄中枢)以下にある蓮華は五つ。上に二つ。

図:布施仁悟(著作権フリー)


延髄より下にあるとされる蓮華は、喉頭部のヴィシュダ・チャクラ以下五つなのだけれど、それらに脊髄を通して気を送り込む中枢が延髄にあるというのだ。 そして、延髄よりも上に位置する眉間と頭頂の二つの蓮華は、魂の住み処(すみか)であり、また意識の進化段階を象徴するものと説明されていた。

魂の住み処

人間の魂(生命と聖なる意識)の住みかは、脳の中の三つの霊的中枢、すなわち、大脳の頂点にあって千枚の花びらをもつ蓮の花で象徴される宇宙意識の座・サハスララと、眉間にあるキリスト意識の座・クタスタと、クタスタと対極の位置にある超意識の座・延髄中枢である、とヨガは教えている。

(パラマハンサ・ヨガナンダ『人間の永遠の探求』-P.15「講話二 ヨガの普遍性」)


修行者の意識は、超意識→キリスト意識→宇宙意識へと三段階の進化を遂げるものであり、それに対応する霊的器官もまた延髄中枢→クタスタ(眉間[第三の眼])→サハスララ(頭頂)の順に覚醒していくと説いていたのである。

とくに重要なのは延髄中枢の超意識で、なぜならそこが覚者たちの意識の置き場所だからだという。

覚者たちの意識の置き場所

真のヨギは、自分の思想や意志や感情を肉体的欲望の干渉から切り離し、心を常に脊髄中枢の超意識のレベルに置いて、神の意図されたとおりの人間としてこの世を生きている。 彼は、過去のカルマに操られることもなければ、また、新たな因果の種子をまくこともない。 こうして至高の目標に達したヨギは、無限の至福の中に確固として安住するようになるのである。

(パラマハンサ・ヨガナンダ『あるヨギの自叙伝』-P.251「クリヤ・ヨガの科学」第二十六章)


人間の意識進化の第一段階としては、延髄中枢をまず最初に覚醒させなければならず、それは、そこに意識の置き場所があるからだというわけである。

意識進化の三段階
図・布施仁悟(著作権フリー)


R・シュタイナーが「気の流入口となる暫定的中心点は まず最初に頭部に形成されなければならない」と主張していたのはなぜか?

これでもうおわかりだろう。 「とにかく手始めに延髄中枢の超意識を目覚めさせよ」と云っていたのである。

矢印マーク 『あるヨギの自叙伝』

インドのヨガ行者の修行記。
悟境の深まりにつれてエピソードに込められた真意が立ちのぼる。
そのとき物語は警句となり教訓となって迫ってくる。
聖者独特のぶっ飛んだユーモアも楽しい。
よく書き残してくれたと思う。
聖典『バガヴァッド・ギーター』入門書としても最適。

矢印マーク 『人間の永遠の探求』

なんだかんだ言って、かなり影響を受けてるんだよなあ。
修行の心得はこの人とR・シュタイナーに学んだ。
心得って意外に大事なことだとおもう。

青雲水

クリヤ・ヨガを求めて

緑雲水

しかしながら、ただ延髄の経穴を活性化させただけで、そこに伏在している超意識が覚醒するものでもないらしい。 32歳の私はチベット体操の実践により延髄の経穴を活性化できたにもかかわらず気の感覚すらなかった。 延髄の経穴はいまだその中枢としての機能を発揮していなかったのである。

私はその状況に満足できなかった。 もしもパラマハンサ・ヨガナンダの著書にあるように、坐って内観しているだけでは先に進めないというのなら、クリヤ・ヨガとやらを是非ともやってみたいと思うようになっていった。 ところがヨガナンダの著書を読み終えてみたところで、その概要の説明はあったものの、肝心のクリヤ・ヨガの技法についての詳細な記述は見つからなかった。 それを知りたければアメリカの本部に連絡をとり、SRFとかいう団体に入会しなければならないことになっていたのである。

To be continued...

なんだか映画のエンドロールを観ながら、ポップコーンをほおばって途方に暮れている気分だった。

しかし「続きを知りたければ金を出せ」などと言われると「絶対その手には乗らねえ」と発奮するのが生来のあまのじゃくとしての私の面目である。 あれこれ調べたあげくの33歳の夏。 “ぷっつん体験”のきっかけとなった面接を受けた直後のこと。 ついに私はM・ベインの『神癒の原理』という本の中にクリヤ・ヨガとおぼしき技法をみつけた。 それが前作『ちょっとはマシな坐禅作法』でも紹介した“真実の呼吸法”の原型だったのである。
(参考:「真実の呼吸法」:矢印マーク 『ちょっとはマシな坐禅作法』【坐禅作法42】真実の呼吸法)

矢印マーク 『神癒の原理―ヒマラヤ大師の教え』

M・マクドナルド・ベイン。
ボクに師があるとすれば彼の著作だとおもう。 仲里誠桔氏の日本語訳したM.ベインの本は、ボクの知る限り四冊あり、そのすべてを熟読した。 珍しく実践的な行法を録してあるのがこの本。


とはいっても禅者きどりの私は、かたくなに只管打坐にこだわろうとする意固地を持ち合わせていたため、蓮華に精神集中する行程を含んだその行法をそのまま実践するのは、なんとなく抵抗があった。 そこで「身体前面の任脈上に位置する蓮華に一切触れないならば良しとする」という妥協策を案じて行法の実践に踏み切った。

すると、この行法のおかげだったのだろうか?

その年の秋には尾てい骨に位置する第二の結節(ブラフマ・グランティ)が解放され、私は身体背面の督脈上に熱感を生むことになった。 つまり定説において小周天の出発点として熱感を発生させる場所は、身体前面の任脈上に位置するどこかの蓮華となっているのだけれど、私の小周天はその逆の背中側から出発することになったのである。

こうしてようやく気感を備えた私は尾てい骨を出発点に下から上に向って督脈を開発していくことになった。 やがてその終点の水溝に到達したとき、延髄に位置する第三の結節(ルドラ・グランティ)が解放された。 それは第二の結節(ブラフマ・グランティ)の解放から約3年経過した36歳の秋のことであった。

督脈図

第二の結節解放後に督脈はひらく。
尾てい骨から水溝へと気は昇る。
図の各経穴でみごとに立ち往生したボク。
ふむ、坐禅修行は忍耐と根気なのさ。

図:布施仁悟(著作権フリー)


36歳のその頃までは、真実の呼吸法や真言の読誦などの密教的行法を熱心に続けていたのだけれど、結局、私はその伝家の宝刀を封印してしまった。 というのも私の中に明晰な知性が目覚め、潜在能力を活かす道が開けてきたからで、私はそれを機に密教的行法自体に興味を失ってしまったからである。 たとえるなら、恋人ができたために友人とのつきあいが悪くなってしまったようなものだろうか。

そこで目覚めてきた明晰な知性というのは驚くべきものだった。

オツムに蓄積している知識を介在させることなく、ものごとを直感したままに理解し、言葉にして表現している自分がそこにいた。 これにより、まったく独創的な芸術作品を生み出すことも不可能ではなくなってきたのである。 パスカル、ダ・ヴィンチ、シェイクスピア、エマーソン…etc。 それからしばらくは過去の天才たちの文章を片っ端から読み耽(ふけ)った。

「わかる、わかるぞ!君たちはこの境地からものごとを観ていたのかっ!」

それはまさしく天才の覚醒だったのである。 また、オツムに蓄積している知識に捉われなくなってきたことから、コミュニケーションの仕方が従来とは明らかに異なってきた。 何であれ直感したままを伝えるなら間違いはなく、常識その他の知識として貯め込んでいるものを参照して伝えるときにのみ間違いが起こる。 直感に基づく智慧と借り物の知識。 その両者の違いがわかるようになってきたのだ。

何が正しく、何が間違いなのか。 それは直感に基づく智慧が教えてくれる。 おかげで道徳律や戒律などの束縛から自由になり、必要とあらば非道徳とか品性がないと判断されるようなことも辞さない無頼漢(ぶらいかん)になった。 もちろん調子の乗りすぎには注意しなければならない。 直感に基づく智慧はそういうときにはすぐさま不快感という形で警告してくるものなのだ。

これは発狂してしまった修行者のエピソードなのだけれど、「頭脳分裂が始まるときに自我が完成していないと抑圧していた人格が表面に出てきて人格が豹変する。そのため精神分裂症の修行者はいやらしい性格の人物になってしまうのだ」と指摘されたときに、私の品性や徳を問うてきた。

精神分裂症患者たちの珍回答2


そこまで品性を犠牲にする必要はどこにもないでしょう。 徳を失えばそれだけ行果は遠のきますよ。 何度も言いますが私は願以此功徳〜ですから、多少あなたのプライドを逆撫でしようが愛嬌です。

あなたが人に対してしていることと同じ。 ですが私はこれでもあなたの友人のつもりですよ。


友人選びはとても重要だ。 こういう品性や徳の意味を履き違えているいやらしい性格の人物とは付き合いたくないものである。 直感に基づく智慧の発現してこないうちは、背伸びをして無頼の真似などせずに、道徳律や戒律に従っておいたほうが無難だとおもう。

ただし困ったことも起こった。 凡人たちとの間に境界線ができてしまったことである。 凡人はいつだって知識によりかかってものを考えているから、オツムの固い彼らとのコミュニケーションは平行線をたどるばかりで、どこにも接点がなかった。 凡人は相手の話などまったく聞いちゃいない。 凡人の聞く耳は閉じているも同然なのである。

凡人のコミュニケーション

知識は人々を盲目にする。 彼らの目は知識で一杯になりすぎて、見ることができない。 あなたが質問をする前から、彼らは既成の答えをもっている。 彼らはいつでも答える用意がある。 彼らはあなたの質問など聞いていない。 彼らは質問者に耳を傾けていない。 彼らは質問者の実存になど耳を傾けない。 彼らは質問者のなかをのぞき込み、相手が本当に何を言おうとしているのかを見ようとはしない。 彼らは既成の答えをもっている。

(和尚『黄金の華の秘密』-P.183「第五話 解放の機縁」)


しかしながら、凡人は時節の到来するまで凡人であり続けなければならないのが法則だから、凡人は凡人同士で凡人らしいコミュニケーションをしていればよろしい。 問題は坐禅修行者が凡人のまま縁覚道の軌道に突入するときに生じる。 聞く耳を閉じたままだと、いつまで経っても明晰な知性は発現してこないからだ。

誰が正しい道を説き、誰が邪道を説いているのか。 直感に基づく智慧が鈍っているから、そういう大事なことも見抜けない。 そのためインチキな指導者にまんまとだまされて、空想世界の住人となってしまう。 そして、それが精神分裂症の発症原因ともなる。

これはそんな空想世界の住人となった精神分裂症患者がその症状を指摘されたときの言葉である。

精神分裂症患者たちの珍回答3


ちがうよ〜。

あなたの一評価だけを鵜呑みにしてられないんですよ。
何かわからないところがあるならちゃんと聞いてくださいね。


明晰な知性の発現してきた禅者は、相手の心の中に何が渦巻いているのかを見ている。 相手の抱えている心の問題を直感に基づく智慧で見抜いているのだ。 ところが凡人にはそれがわからない。 自分の心の動きを観察する習慣がないため、自分のことすらわかっていないからだ。

明晰な知性

スリ・ユクテスワの直覚は、相手の心を鋭く見抜いた。 彼はしばしば、相手が口にしている言葉とは別の、心の中で思っている事に対して直接答えた。 人はまま、言葉とはうらはらの事を考えていることがある。 先生は言われた「心を静めて、複雑な言葉使いの背後にある真意を感じ取るように努めなさい」
しかしながら、この神のような洞察力によって心の中をあばき出されることは、ともすると世俗的な耳には痛すぎた。 そのため先生は、浅薄な気持でやって来る生徒たちには人気がなかった。 しかし、賢い生徒は―それはいつも少数だったが―深く彼を尊敬した。

(パラマハンサ・ヨガナンダ『あるヨギの自叙伝』-P.126「第十二章 わが師のもとで)


ヨガナンダの師・スリ=ユクテスワのような容赦のない洞察を受けると、精神分裂症患者は、自分の描いている空想世界と違う現実を突きつけられるものだから、「ちがうよ〜」などと反論するのだけれど、それこそ聞く耳が閉じていることの証拠にほかならない。

その洞察は時に非道徳で非情にも映るものだろう。 しかしながら精神分裂症の原因が聞く耳を閉じたまま明晰な知性が発現しないうちに縁覚道の軌道に突入することにある事実を知っていれば、それが優しさであることもわかるのではないだろうか。 私はスリ=ユクテスワの厳しさを支持する。


妙観察智と三つの結節

こうした明晰な知性は、仏教の唯識論において“妙観察智(みょうかんざっち)”と呼ばれる。 ものごとをあるがままにみる智慧のことなのだけれど、次に私がこの智慧を獲得するまでの過程を時系列でまとめてみよう。

妙観察智の発現過程
図:布施仁悟(著作権フリー)


まず明らかにわかることは、32歳の延髄の経穴活性から妙観察智の発現しはじめた36歳の延髄の結節解放まで4年かかっていることである。 つまり延髄に宿るとされる超意識は、その活性から覚醒までに一定期間を必要とし、さらに通過しておかなければならない関所もいくつかあるらしいことがわかる。

おそらく印度ヨーガで説明されている三つの結節というのがその関所で、その関所を通過しておかなければ延髄の超意識は覚醒せず、機能することもないと考えられる。 この結論は三つの根拠を総合して導かれるものだ。 まず第一に、精神分裂症を発症した修行者たちは共通して三つの結節の解放体験を持っていなかったこと。 第二に、妙観察智は三つの結節解放後の超意識の覚醒によって発現してくるらしいこと。 そして第三に、妙観察智が目覚めていないこともまた精神分裂症患者たちの共通点であったことである。

私が坐禅修行を始めた当初、クンダリニー覚醒したと発言している人たちがインターネット上に何人もいたのだけれど、背中の途中で上昇が止まったとか、喉頭部で途切れたとか、眉間を抜けたけれど「これ以上は進むな」と警告されたとか、そんな報告ばかりで、もちろん三つの結節について語る者もいなかった。 だいたい彼らの語ることは、経典や聖典の言葉と照らし合わせるとかなりおかしくて、とても智慧のある人物とは思えなかったものである。

そもそもヨーガの文献には、クンダリニー覚醒に至る以前には三つの結節を解放できていなければならないとあるのだけれど、くだんの発狂した修行者なんかは、三つの結節は心臓と尾てい骨と眉間にあるというヨーガの文献の記述をまったく無視して、こんな勝手な解釈に一人ごちて頷(うなず)くのだった。

精神分裂症患者たちの珍回答4


思うに布施さんの言う結節とは督脈の三関のことではありませんかね?

そう考えれば頷けます。今、任脈がどうのならば、それが自然な順序でしょう。

また眉間の活性について、私が下丹田を自覚した際、まず眉間から冷たい液体が滴々と流れ落ち、任脈を抜けて滝壺でその飛沫が熱を持ちました。 督脈はその後でしたが、初めて背中の三関を抜けた時、着ていたシャツが浮かび上がったのを覚えています。


また、クンダリニー覚醒時には身体中央を走るスシュムナ管を突き抜けるらしいのだけれど、発狂した修行者の36歳におけるクンダリニー覚醒の体験談は明らかにそれとは異なるものだった。

発狂した修行者のクンダリニー覚醒未遂事件


ザッと書きますと、4年前に習い始めた内家拳の練功を機に、まず気感を得る―肉食受け付けなくなる―立禅を始める―下腹に強烈な熱感を覚え坐禅にスイッチ。 その後すぐに小周天が廻り、現在までの約2年弱の間は毎日の様に廻し幽体離脱も4,5回体験したため貴ブログの内容を半ばなぞっているようなかんじなのですが、先日今までにない強烈な体験がありまして、寝際に尾てい骨の先端に濃い気が集中し、そこから感覚的には野球のボール状のものが3〜4回発射され背骨を通り抜け、頭蓋骨の内側を強烈に弾きましたので慌てて頭頂に手をやってみると、頭皮がぶよぶよしており、なんと頭頂が開いておりました。

非常に怖い体験でありましたが、その現象の以前には背骨の中に柔らかい風が吹いている感覚があり、体験以後の一週間は脳にコンセントを繋がれているような状態でよく眠れず絶不調でありましたが、現在は嘘のように体調は良いです。


私は当初、この体験を延髄にある第三の結節の解放現象と判定したのだけれど、よく考えてみれば結節解放時に体験するはずの激痛についての記述はなく、この修行者の精神異常は、この後からひときわ目立つようになっていった。 彼がこの現象を体験した36歳という年齢は時節的にもヘルダーリンの発狂した年齢に一致している。 以上のことから、この体験はクンダリニー覚醒未遂事件と判定するのが妥当ではないかと私はおもう。

上記の考察から「三つの結節を解放することなく、クンダリニーを覚醒をさせた修行者は、智慧を発現する代わりに精神分裂症を発症して発狂する」という事実もまた判明してくるのである。

しかしながら三つの結節についての文献が皆無であるにもかかわらず、クンダリニー神話の横行している現在の状況は、正師不在のWWW時代においてますます被害者の拡大を予想させるものであり、その解説を施すことは急務の使命と考えられる。 ということで、その困難な使命に挑んでみるとしよう。

桃雲水

三つの結節の解放

赤雲水
一般的小周天と結節の位置関係


第一の結節(ヴィシュヌ・グランティ)
…アナハタ・チャクラ(胸[心臓])

第二の結節(ブラフマ・グランティ)
…ムーラダーラ・チャクラ(尾てい骨)

第三の結節(ルドラ・グランティ)
…アジュナ・チャクラ(眉間・延髄)

図・布施仁悟(著作権フリー)
第一の結節(ヴィシュヌ・グランティ)…心臓


胸のアナハタ・チャクラにあるとされる第一の結節の解放体験は懺悔の行をしている最中に突然おこった。

第一の結節解放体験


第一の結節が解放されたのはその懺悔の最中だった。

飛び出るかと思うほど強い力で心臓が引っ張られる感覚と同時に激痛が走り、あげくに呼吸も苦しくなってきたので、身をよじってしばらく耐えていたら、心臓から何かがスポンと引っ剥(ぱ)がされる感覚とともに激痛が治(おさ)まった。

ボクは小学生の頃から、ときおり狭心症の症状が現れることがあり、心臓の痛みと呼吸困難を体験していたけれど、この時のものは最後にして最大。 “最後”というのは、このとき以降、狭心症におさらばしたからである。

矢印マーク 『ちょっとはマシな坐禅作法』【坐禅作法13】クンダリニー覚醒と小周天


私はこのとき「心臓にとりついていた悪霊を退散させた」などとオカルトしてしまったものだから、これが結節の解放体験だったと気づいたのは数年後のことだった。

この体験を第一の結節解放と考えた理由はいくつかあるのだけれど、なかでも最大の根拠はスリ・ユクテスワの解説による。

生命力の心臓からの開放

いにしえのヨギたちは、宇宙意識の秘密が、呼吸の制御と密接な関係にあることを発見した。 これは、インドが人類の知識のうえにもたらした不滅の貢献である。 ヨギは、呼吸を不必要にする独特の技法によって、ふだん心臓の鼓動を維持するために消費されている生命力を心臓から解放し、この解放された生命力を、霊的進化の促進というより高い目的のために利用するのである。

(パラマハンサ・ヨガナンダ『あるヨギの自叙伝』-P.246「第二十六章 クリヤ・ヨガの科学)


まず最初に心臓で浪費されている気のエネルギーを解放しなければ何もはじまらないというわけだ。

そして、これは間もなく悟りの軌道に参入しようとしていた22歳の求道者からの投稿。

心臓の結節の証明


逆複式呼吸法で心臓付近に負担をかけたのかズキンズキンと痛むことがあります。 肺が圧迫されて心臓付近の筋肉が硬くなったのかなと思いますがアイアンガーなどの無理なポーズとか呼吸法はめっちゃ危険だと体感しました。

布施先生はこういった経験や失敗はありますか?


結節の解放現象とは、言ってしまえば、各結節の部位に一時的な激痛が走ることである。 かなりの激痛であるから、私は悪霊のせいにし、この求道者の場合は、アイアンガーというヨーガ指導者に八つ当たりしたことになる。 人間は責任の所在をどこかに求めるものであるから、今日も誰かが何処かで結節解放現象のとばっちりを喰っているに違いない。

この投稿からわかることは、悟りの軌道に参入するとき、求道者は何らかの方法で生命エネルギーを心臓から解放するということである。 第一の結節の解放は そのために起こる現象なのだ。 やはり呼吸法などの行法ではなく、私のように懺悔の行で解放するのが正攻法であろう。

第二の結節(ブラフマ・グランティ)…尾てい骨


次の行程は、心臓から解放した生命エネルギーを用いて督脈に熱感を発生させることなのだけれど、私の場合はヨガナンダにそそのかされたため、呼吸法を使って尾てい骨のムーラダーラ・チャクラを刺激するというやんちゃをやらかした。

そのため、まったく偉そうなことは言えない。

というわけで、この行程については「正攻法はコレだ!」と宣言することができないのだけれど、“真実の呼吸法”を実践する時節には注意したほうがいいとおもう。 私は“ぷっつん体験”を透過して見性した後に“真実の呼吸法”を知り、行法の実践に踏み切ったのであって、それ以前だったらどうなっていたか予想もできないのだ。

第三の結節(ルドラ・グランティ)…眉間・延髄


私が第三の結節と呼んでいるルドラ・グランティは眉間のアジュナ・チャクラにあるとされる。 ところが、私の36歳における第三の結節解放体験は眉間ではなく延髄で起こってしまった。 そうなのだ。 そのときヨーガの文献とは違う現象が生じていたのである。

しかし、どうやらアジュナ・チャクラという言葉で象徴されているものは、ヨガナンダの説明にもあったように、延髄の脊髄中枢と眉間のクタスタが対になった有機的構造体のようで、やはり延髄とは別に眉間にも結節が存在していた。 その眉間のクタスタの結節が解放されたのは、41歳で迎えた2015年8月20日の早朝5時頃のことだったのだけれど、その考察は後ほど展開するとして、ここでは延髄の脊髄中枢に存在する結節を解放するための正攻法を解説したい。

その正攻法は“真実の呼吸法”の種本『神癒の原理』を書いたM・ベインの別の著作に見つけた。 それは幸運中の幸運であったとおもう。 もしその本を手にしていなければ私は邪道に踏み入っていたことは間違いないだろう。

矢印マーク 『解脱の真理 改訂版―ヒマラヤ大師の教え』


つまり心随観の入門書がコレなのである。
霞ヶ関書房の本はAmazonで絶版扱いになっていても
大型書店で注文すれば取り寄せてもらえるはず。
いざとなれば出版社に直接注文するといい。
送料はかかるけどマーケットプレイスでカモられるより、
ずっといい。
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矢印マーク 『キリストのヨーガ―解脱の真理 完結編』


解脱の真理の続編。前作の内容をさらに掘り下げている。
心随観のより実践的な内容でありがたい一冊。
続編なのに出版社が違うのはどういわけだ?
参考までに…定価:3360円TEL:03(3439)0705


心随観開眼

そのM・ベインの『解脱の真理』と続編『キリストのヨーガ』は逆説(パラドックス)だった。

― 瞑想をするには いかなる行法も流儀も要らない ―
(M・ベイン『キリストのヨーガ』P.77「第四章 「サタン」の正体は「自我」である」)

― 本当の瞑想とは自我を暴露する過程である。自我暴露でない瞑想は瞑想ではない ―
(M・ベイン『キリストのヨーガ』P.44「第二章 キリストのヨーガを求めて」)

― 心が静まることを無理強いされなくなった時、摩擦はなくなり、自我と心は静まる ―
(M・ベイン『キリストのヨーガ』P.75「第四章 「サタン」の正体は「自我」である」)

精神集中、呼吸法、真言の読誦などで心を静めてみたところで、そんなものは瞑想ではないというのである。 自我を知ることが唯一の道であり、自我の働きの一部始終を洞察したとき、自我はおのずから沈黙し、そこに実在が現前するというのだ。

とくに33歳の私の心を鷲(わし)づかみにしたのは、そこで現前してくる実在には創造性があるという記述だった。

実在の創造性

心が勝手に造り上げた様々な虚構、信条、観念から解脱したとき、時間を超越したある沈黙、自分という存在の実相を自覚するようになるある沈黙がやってくる。 この解脱の境地において、創造エネルギーが、凡人の窺(うかが)い知れぬある力、意識し指示するある力によって放出される。

もろもろの大いなる業(わざ)、産業、美術、工芸、治病、演説を為すに当り、解脱の境地においてこの大生命の創造的智慧に協力すれば、それは天才の業(わざ)となり、その成果に人々は挙(こぞ)って驚嘆の目(まなこ)を見張るであろう。 これが、神我以外の影響を受けていない心を通じて自由な表現を与えられた時の内なる創造の働きである。

(M・ベイン『解脱の真理』-P.294-295「第十章 匿名大師の説く物質化・非物質化と解脱の真理(三)」)


はっきり言って禅定や三昧や悟りなんてものは、作家志望の私にとってどうでもいいことだったのである。 だいたい釈迦やイエスは、絵も描かなければ、歌も作ってないし、本だって書き残していやしない。 そんな人物に涅槃だとか天国だなんて言われても、なんの価値があるのか私にはさっぱりわからなかったのだ。

そこに「解脱の境地において創造的智慧に協力する」という坐禅修行の目的が与えられた。 これは人生の目標と言ってもいい。 私はここに命を賭けられるものを見つけたのである。 その手段が自我暴露だというのだから、それを実践しない手はないだろう。

また、これらの本を手にした“ぷっつん体験”直後という時節も良かった。 “ぷっつん体験”までは、一般に“心理分析”とか“精神分析”などと呼ばれる手法で到達できる。 けれどもそれらの手法にはおのずから限界があるもので、『解脱の真理』と『キリストのヨーガ』はその限界を突破する方法を説いていたのだ。

“ぷっつん体験”までの課題というのはこういうものだった。 社会常識に合わせて生きる人生の無意味を見抜いて、社会常識の押しつけてくる屈辱を跳ね返し、まったくつまらないことと知りながら妥協してきた己れの心の弱さを反省し、そのために張り巡らせてきた己れの思考パターンの愚かさを徹見する。 ここまでは“心理分析”とか“精神分析”でなんとかやってこれた。

しかしながら、そこから先は宗教の出番だった。 いよいよ経典や聖典の真意をつかみとっていかなければならなくなってきたのだ。 そこで手にした『解脱の真理』と『キリストのヨーガ』は、聖書の聖句を題材にその道筋を詳細に説いている本だったのである。

この本を読んでからというもの私の経典や聖典の読み方が変わった。 経典や聖典の文言は戒律や修身論を説いているものではない。 「自我をいかにしてあぶりだすか」のヒントなっていたのだ。

心はいかに彷徨うのか?
心はいかに欺くのか?
心をいかに鎮めたらいいのか?

(参考:「心の性質」矢印マーク 『ちょっとはマシな坐禅作法』【坐禅作法29】雲水のための心随観講座)

この私が心随観で用いてきた自我暴露の方法論は『解脱の真理』と『キリストのヨーガ』に説かれていた自我の観察技法を応用したものである。 こうした観察の技法を学び自我暴露の視点を手に入れると、経典から学ぶのではなく、経典を生きるようになってくる。 なぜなら、不意に上ってくる想念に対して、経典や聖典の文言をどのように応用したらよいのかを知れば、その効果は日常生活に必ずあらわれてくるからだ。

心随観の効果
〜 其の一 〜

もし君が想念の上って来るつど、ひとつひとつ偏見を持たずに、恐れもせずに、あるいは決めつけもせずに、それを観察することができるならば、あるいはそれにこだわらずに観察し、それに抵抗しないならば、そしてまた、それを押しやらずにその意味を明るみに出すならば、それらの想念は二度とは上って来ないであろう。 つまり、それとの縁は切れてしまうのである。

(M・ベイン『キリストのヨーガ』P.74「第四章 「サタン」の正体は「自我」である」)
〜 其の二 〜


さて、自分自身を知るためには、あらゆる瞬間ごとに、強制することなく、駄目だと決めつけることなく、あるいはまた、正当化することなく、絶えず(自分の心の状態)に気づいていなければならない。 ものごとをあるがままに見る一種の受け身の警戒状態にあらねばならない。 そうすれば、問題はなくなる。 すなわち、問題が存在しなくなったのである。

(M・ベイン『キリストのヨーガ』P.77「第四章 「サタン」の正体は「自我」である」)


そして、この“キリストのヨーガ”として紹介されていた観察の技法は、釈迦の説いていた秘法“サマサティ〜 真実の気づき 〜”と同じものだった。 つまり、真理に至るものは誰もが同じ手法に拠(よ)っているものなのだ。

その事実を知ったのは、和尚の『黄金の華の秘密』を読んでいたときである。

サマサティ〜 真実の気づき 〜

これがその秘法だ。 仏陀も同じ秘法を使っていた。 実際、秘法というのはほとんど同じものだ。 人間が…鍵穴が同じだからだ。 だとすれば鍵も同じにならざるをえない。

これがその秘法だ。 仏陀はそれを「サマサティ」―正しい想起―と呼んでいた。 ただ想起すること…思考がやって来ても、敵意を抱かず、正当化をせず、非難をせずに、そのありのままの姿を見る。 科学者が客観的になるように、ただ客観的になる。 それがどこにあるか、どこからやって来るか、どこへ去ってゆくかを見る。 それがやって来るのを見、とどまるのを見、去ってゆくのを見る。 思考がそこにとどまり、思考が去ってゆくのをただ見守っていればいい。 闘ったりしないこと、後を追いかけたりしないこと、ただ静かに観察していればいい。 するとあなたは驚くだろう…観察がしっかりしたものになればなるほど、やって来る思考は減ってゆく。 観察が完璧になると、思考は消え失せてしまう。 後にはすきまが、間合いだけが残る。

だが、もうひとつのポイントを覚えておきなさい。 心が再び策を弄しかねないからだ。

(和尚『黄金の華の秘密』P.220「第六話 風景の焦点を変える」)


この観察の技法を要約すれば「何の分別もせずにただありのままを観よ」ということになるのだけれど、やってみると非常に難しいことがわかるとおもう。 心は修行者の意志に反してあっさり分別をはじめてしまうものだからだ。つまり…

― 心が再び策を弄しかねない ―

そのため心が弄する策のパターンを知り尽くすことが出発点となる。 その点においては、私の見つけた三つの問いが心の弄する策を見つけ出すのに非常に役に立った。 以下の三つ問いの観点から聖典や経典の文言を読み込んでいくのだ。 するとその文言は心が弄する策のパターンを看破するための武器となる。

心はいかに彷徨うのか?
心はいかに欺くのか?
心をいかに鎮めたらいいのか?

(参考:「心の性質」矢印マーク 『ちょっとはマシな坐禅作法』【坐禅作法29】雲水のための心随観講座)

保証しよう。これは効果がある。 このキリストのヨーガ ― サマサティ〜 真実の気づき 〜 ― いわゆる“心随観”によって、私は第三の結節を解放し、妙観察智を手に入れたのだ。

とはいえ、この「何の分別もせずにただありのままを観る」という心随観は非常に難しい。 そのため多くの修行者は、ただ分別をしなければいいと思って、精神集中、呼吸法、真言の読誦を用いて分別を一時的に止め、それを瞑想と呼んでいる。 しかしながらそれでは自我がみずから沈黙したことにはならない。 定力がつけばつくほど、かえって自我を肥大させてしまうことにもなるのである。

この発狂した修行者のお粗末な見解を読んで反面教師としたいところだ。

精神分裂症患者たちの珍回答5


言葉はどうでもいいんです。 止でも観でも空でも、名前が付いたらそれは俗智。 頭の中で振り分けられた証拠で束縛されている。 如来とは特徴がないのが特徴でしょう。

さて観とは定の中でオートマチックに展開される世界をただ観ることなんじゃないでしょうか。 目の前に小窓ができて、それがスーッと動けばパーっと知らない世界がよく観える。 それを長時間保持するのは至難の業ですが、定力ってそういうものでしょう。

先日私はクンダリニーであろうと思える物体を見ました。 黄金のタコ状の無脊椎動物に植物を足したような形を持ち触手の先の細かいヒダまでがイヤらしいほど活き活きと金粉を散らしながら動いていました。 肉眼で見る金色が霞む程の深度でビット数が違うんですよ。


妄想や幻覚をそれであると認めることができなくなったら、もはやオシマイである。 決してこのような空想世界の住人になってはいけない。 禅者たるもの心随観による自我暴露を旨(むね)とすべし。

黒雲水

私の足跡に続け!

青雲水

かつて私はぷっつんレディたちに恋をした。
しかし当時の私には彼女たちを幸せにできるような力が何ひとつなかった。
だから彼女たちにふさわしい男になりたいと思ってきた。
私はそんなただの男だ。

私は手探りでその力を身につける方法を探して挑んだ。
しかしそのどれもが満足できる結果をもたらしてはくれなかった。
そのうち恋をした記憶も遠のいてゆき単なる思い出となった。
私は生きるに値しない人生しか描けなくなっていった。

自分の生を自分なりに精一杯生きたかった。
機械仕掛けのロボットみたいに生きるのは御免だった。
この生に命を賭けて挑めるものが欲しかった。

妙観察智はその可能性をひらいてくれる。
この智慧が目覚めれば人生は挑戦と冒険と創造の連続になるんだ。
だから私はいま、心随観を説いている。

妙観察智が目覚めた後、私は運命から一つの課題を与えられた。
前作『ちょっとはマシな坐禅作法』の最初の着想を得たのだ。
それを書き始めたときの気分。君たちにわかるかい?

私はついに突破口を開いた!禅者諸君、私の足跡に続け!

(2015.9)


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