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【坐禅作法92】孤独の作法

ちょっとはマシな坐禅作法 孤独の作法〜縁覚道の地図12〜

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〜縁覚道の地図12〜


水の試練の孤独

孤独には崇高な価値がある。

― 旅に出て もしも 自分よりもすぐれた者か
  または 自分にひとしい者に出会わなかったら
  むしろ きっぱりと独りで行け
  愚かな者を道伴れにしてはならぬ
 ―
(法句経[ダンマパダ] 61)

この法句経に残された言葉の価値を知るようになったのは38歳の出家体験以降のことだった。

それまでは家族や伴侶や友人たちはいつまでも人生を共に歩んでいくべき仲間と思い込んでいた節がある。 最終的に私の歩んでいる坐禅修行の仲間として彼らを引き入れることに成功すれば、万事うまくいくのではないか、と微(かす)かな期待を懐いていたことは否定できない。

たしかに今では、創造的知性と引き換えに世俗の義務に背を向けた道楽者にとって、それは彼岸のこととなったことは十分承知している。 とはいえ創造的知性を発現するために支払った多大な犠牲の代償として手に入れたものが、“孤独”であったことを受け入れるまでは、ずいぶんとささくれた気分になったものだ。

「コイツらは脳みそをどこかに落っことしてきてるんぢやないのか?」
「粉砂糖をたっぷりまぶしても喰えないヤツらばかりだ!」

胸のうちで何度 怒鳴り散らしたかワカラナイ。 けれども38歳の出家体験以降から私の住み始めた世界と彼らの住んでいる世界との違いを幾度となく痛感しているうちに、ようやく理解できるようになってきた。

<< 私が孤独から逃げ廻っていただけだった >>と。

己れのオツムの愚かさの幅の広さと奥行きの深さを知るには時間がしこたま必要だ。

運命の試練モデル(布施仁悟型)
図・布施仁悟(著作権フリー)


R・シュタイナーの説明によると、水の試練の次に待っている第三の風の試練では孤独の中を歩むことになるらしい。

第三の風の試練における孤独

最後のこの試練にはどんな目標も感じられない。 すべては彼自身の手に委ねられている。 何ものも彼を行為に駆り立てようとはしない。 そのような状況の中で、彼はまったく独りになって、自分で道を見出さねばならない。 どこへ向っていったらいいのか、自分自身の他には、自分の行くべき方向を示し、自分の必要とする力を与えてくれるような何ものも、何ぴとも存在しない。 自分自身の中に力を見出せないなら、彼はすぐにふたたび、もといたところに立ち戻ってしまうであろう。

(R・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』P.102「霊界参入の三段階」)


自分の歩むべき道をまったき孤独の中で見つける力を、第二の水の試練のさなかに身につけておかなければならないのだ。

38歳の秋、古本市で見つけたニーチェの『この人を見よ』を読んで気づいたことは、彼が第三の風の試練の前に打ちのめされたのは第二の水の試練の孤独に耐えきれなかったからだ、ということだった。

あまったれニーチェの孤独

孤独は七重の皮膚をもっている。 それはどうしても突き破れない。 人間のところへ行く、友人に挨拶する、新たな寂寥があるばかりだ。 だれの眼ももはや挨拶を返しはしない。 いちばんいい場合で、一種の反逆が返ってくることを、わたしは、程度の差はあるが、わたしに近しいほとんどすべての人から経験した。 突然、彼我の距離を思い知らせることほど人を傷つけることはないらしい。

(ニーチェ『この人を見よ』-「ツァラトゥストラ」第5節)


ニーチェは第二の水の試練の孤独に耐えきれなかったばかりに、『この人を見よ』を書いた44歳の頃になると、こんな主張までせざるを得なくなっていた。

『なぜわたしはこんなに賢明なのか』
『なぜわたしはこんなに利発なのか』
『なぜわたしはこんなによい本を書くのか』

たしかにニーチェは37から41歳にかけて代表作『ツァラトゥストラ』を見事に書き上げた。 ところが その偉業はなかなか世間に認めてもらえず、『この人を見よ』を書いた直後には、ついに発狂するに至ってしまう。 「せっかく己れの創造的知性の在り処を見つけたのに誰からも評価されない」という孤独な男の想いが、『この人を見よ』からは ひしひしと伝わってくるのだ。

矢印マーク この人を見よ (岩波文庫)


たしかにニーチェはワカッテる。
だけど、こいつは劣等感のカタマリなんだ。
自分の中にいるニーチェに気づけば、
発狂の危機を乗り越えられる。


ニーチェは私と同様に創造的知性の発現に成功していたにもかかわらず、44〜45歳頃には発狂して廃人になっていた。 この事実は衝撃的だった。

「コイツらは脳みそをどこかに落っことしてきてるんぢやないのか?」
「粉砂糖をたっぷりまぶしても喰えないヤツらばかりだ!」

この私の口癖(くちぐせ)をニーチェが表現すると『この人を見よ』という一冊の本が出来あがる。
こうした口癖は孤独に耐え切れない男の裏腹な葛藤にすぎないのだ。 つまり38歳の私はニーチェと同じ罠にハマっていたのである。 私の孤独との闘いが、そこから始まった。

矢印マーク ブッダの真理のことば・感興のことば

【己れのオツムを疑うための経典】

経典は疑団(気づき・わだかまり)を生むために存在する。 観察(ヴィパッサナ)はこの原始経典『ダンマパダ』を読み込むことで身につく。

赤雲水

ぷっつんメイト

黒雲水

38歳くらいから孤独を学び始める以前…33歳のぷっつん体験までは私にも仲間がいた。 他人のケースは知らない。 とにかく私にはぷっつんメイトとでも呼べるような仲間が存在したのだ。

ぷっつんメイトの事例(布施仁悟の場合)


 旧友・佐々木君から就職の誘いがあったのは、その頃だ。 彼は札幌でシステムエンジニアとして働いていた。 「前任者がノイローゼで入院したらしくてプログラマーを探してる人がいる。たいした仕事じゃないから面接を受けてみないか」ときた。 以前、プログラマーのアルバイトをしていた頃の人脈なのだそうだ。 ボクはスーツを引っ張り出してきて、ちょっと出掛けてみることにした。

(矢印マーク 『ちょっとはマシな坐禅作法』【坐禅作法31】出家)


進路選択の岐路に立ったときに何かとちょっかいを出してくるやつがいる。 そんなやつが思い当たるなら、きっとそいつはぷっつんメイトだ。

私のぷっつんメイトは最初に出会ったのが小学校の教室だから、もう数十年の付き合いになる。 そいつはとにかく不可思議な行動をしてくれる仲間で、バリバリの文系の私をコンピューターに触れさせてSEになる下地を作ってくれたのは彼だし、27歳のとき東京から札幌の実家に戻ろうと決めたのは 彼からしばらく途絶えていた年賀状が届いて懐かしくなったからだし、ぷっつん体験のきっかけとなった面接をセッティングしてくれたのも彼だった。 ついでに言うと、私と関わるべく存在していた女の子も、彼と遊びに行くと どういうわけかそこにいた。

おそらく私も彼の進路決定に一役買っている…とおもいたい。 少なくとも『成りあがり』を無理やり読ませて、彼を矢沢永吉ファンにしたのは私だ。 これは不滅の貢献である。

矢印マーク 『成りあがり How to be BIG―矢沢永吉激論集』

10代・20代を正しく歩むためのバイブル。
10代・20代の諸君。人生には時節というものがある。
おそらく「聖書」や「経典」を読むのはまだ早い。
まず、これを読んで来たるべきときに備えよう。
仏道修行の基本がココにある。


いわば私と彼とは33歳のぷっつん体験を共に乗り越えるための相棒(バディ)だったのだとおもう。 幼い頃から互いに影響を与え合いながら、ぷっつん体験へと向かって成長を遂げていく。 そういう仲間がぷっつんメイトなのだ。

しかしながら私が彼に代わって進路を選択するわけにはいかない。 34歳の崖っぷちで彼が迷走していたとき、「そんなところで手を打つのは早いんじゃないの?」と内心おもっていたにもかかわらず、何も言ってやれなかったことは今でも心のこりである。

凡人的ぷっつんの事例


ただしユングの云うようにレーベンスヴェンデ1期は誰にでもある。

今思えば35歳を目前にしたボクの周囲の人たちにも確かにあったようだ。 つまり、それは決まって34歳。 33歳で“ぷっつん”しなかった場合、 その人を取り巻く環境が壮絶に崩壊する。

ある人は酒の席で会社の同僚達から暴行を受けて退職。 また偏屈な上司のいる職場に配属されてノイローゼに陥った人もいれば、勤めている会社が倒産してしまった人もいる。 これみんな34歳だから面白い。

その後は、親のすすめにしたがって職業訓練を受けて転職したり、人事異動の季節を待ちわびたり、同じ職種で転社を繰り返したりした。

そして38歳。 レーベンスヴェンデの最終章はひっそりと幕を引く。

(矢印マーク 『ちょっとはマシな坐禅作法』【坐禅作法39】想像から創造へ)


35歳になると、彼は東京で勤務するために旅立ち、私は地上における使命を啓示されて才能を育み始めた。 お互いに新天地で生きはじめることになったのだ。

とはいえ、それまでは離れて暮らしていても細い糸でつながっている感覚があったのに、それがぷっつりと切れてしまったようだった。 住んでいる場所が違うというより住んでいる世界が違ってきた気分である。 ユングの言っていたレーベンス・ヴェンデを1期と2期に分けたのは、この体験があったからにほかならない。

壮年期〜真理探究の29年〜
図・布施仁悟(著作権フリー)


だから38歳になったときに彼とまた会えることになった時は正直に嬉しかった。 まさか取りつく島もない別れになるとは夢にも思わなかったからである。

38歳の取りつく島もない別れの事例(布施仁悟の場合)


ある同朋とは彼が38歳の誕生日を迎えた頃に郷里に帰省したとき再会した。 34歳で会社が倒産して再就職したらいきなり東京勤務を言いつけられたのだ。 ボクに“ぷっつん体験”のきっかけを与えてくれた電話の主が彼である。

またある朋友はかつて留学していたアメリカに家族で旅行してきたと言った。 留学といっても語学試験に通らずに半年で帰国してしまった苦い過去がある。 公務員になって34歳頃に偏屈な上司のいる部署に配属され深刻な状況になった。 チベット体操の本を贈り、坐禅をすれば乗り越えられる、と勇気づけた記憶がある。

どちらにしろ誰もが現在の状況にはたいへん満足しているらしかった。 ともに大学受験の浪人時代を経験し、それから約20年経過した38歳だ。 ボクは坐禅修行によって勝ち取った自尊心に乾杯してウーロン茶を飲みほし、彼らは勤続年数や仕事の経験によって得られた自尊心に乾杯した。 ボクらは口々に「昔と違って今の自分には自信がある」と言い合ったものである。

ただしボクだけは気づいていた。 自尊心のベースにあるモノが違うことに。

矢沢永吉の言っていた30代でみえてくる“幸せのレール”は、 29歳頃から“凡人のレール”へと次第に近づいてきてくれる。 32歳〜34歳頃に最も寄り添って走っているからそこで飛び移らなければならない。 そうしないと35歳頃から少しずつ遠ざかっていってしまうからだ。

そこで飛び移らずに38歳の誕生日を迎えた人にはどんな忠告も通じない。 「それは違う」というボクの叫びは彼らの耳を左から右へとすり抜けていった。 いつのまにかボクは一人ぽつねんと“幸せのレール”の上を歩いていたのだ。 彼らの歩む“凡人のレール”はもう眼路の届かないところを走っていたのである。 “ぷっつん体験”をする数年前までボクたちは同じレールを歩いていたのに…。

(矢印マーク 『ちょっとはマシな坐禅作法』【坐禅作法21】人生29年周期説)


さらに私の孤独に追い討ちをかけてきたのは、長年の伴侶であるぷっつんレディ4号との間に溝ができてしまったことだった。


ぷっつんレディ

私の人生に花を添えているぷっつんレディたちは誰もが愛おしい。

ときに憎んだり嫉妬したりもしたけれど、その言動の裏にはたらいている法則に気づいた今では、彼女たちは私という子供を育てるために、聖母に成り代わってバトンリレーをしているように思えてくる。 そんなぷっつんレディたちの話をしよう。

ぷっつんレディ1号


ぷっつんレディ1号が現れたのは小学4年生くらいのことだろうか。

ぷっつんメイトの相棒(バディ)と親しくなったのは中学生になってからだから、当時は学校に気のあう相手が一人もいなくて退屈で仕方がなかった。 そこに現れたのがぷっつんレディ1号である。

最初の会話は今でも覚えてる。 「昨日、ボクの弟が生きたカタツムリをまるごと食べたんだ。変なヤツだろう」と私が言うと、彼女は「私の妹なんかレンガを食べるのよ。すごいでしょ」と返してきた。 イカシテルとおもった。 私のノリをわかる人が初めて眼前に現れたのである。

ぷっつんレディは聖母の化身である。 決まって“わざとらしい偶然”を巻き起こす。

あの最初の会話以来、何度席替えを繰り返しても、私と彼女は必ず隣り合わせになった。 何か細工をしてるんじゃないのかと勘繰ってきたやつもいたし、私と彼女の仲を妬んでからかってくるやつもいた。 私は彼女に会うために学校に通い、彼女に負けないように勉強するようになった。 たぶん彼女に出会ってなかったら、私は落ちこぼれていたとおもう。

やがて小学校卒業と同時に彼女は埼玉に引越してしまったのだけれど、中学三年になったとき、彼女は札幌に戻ってきて再び同じクラスになった。 ただ今度は様子が違っていた。 相変わらず私のノリをわかる人ではあったけれど何かが違っていたのだ。 思春期特有の照れもあって、お互いにそっけない態度をみせることもしばしばあった。 そのうち別々の高校に進学することになったのだけれど、高校一年の夏休みに街中でばったり出くわすことになる。

えてして女の子はおしゃべりだ。 給湯室のあけすけなおしゃべりの延長をされたら本音の会話は成り立たない。 もしも本音で語りたかったら目で会話をしなくちゃいけない。 それは、つまり、こういうことだ。

見つめあえば ただそれだけで わかる
(作詞:相澤行夫・作曲:矢沢永吉『アイ・ラブ・ユー・OK』)

ぷっつんレディたちの目の奥には共通する独特の光がある。 1号は私にその目を教えてくれた最初の女の子だったのだ。 普通ではない特別な関係性をお互いになんとなく感じている。 きっとそれが目に表れるのだろう。

だから、私は彼女の目を見つめてみた。 彼女の目からは光が消えていて何か怯えているような様子だった。 そのとき彼女の目はこんな風に語っていたのだ。

人ごみに流されて 変わってゆく私を あなたはときどき 遠くでしかって
(荒井由実『卒業写真』)

単純に悲しかった。 <<どうしちゃったんだよ>>とおもった。 何も話しかけずに帰った。 私の初恋はそのとき終わった。

ぷっつんレディ2号


ぷっつんレディ2号は私の進学した高校にいた。

たった一度会話を交わしただけの相手なのだけれど圧倒されてしまった女の子だ。 要するに器(うつわ)の違う人である。

ぷっつんレディ1号が別の方向を歩みはじめたことは高校入学当初の私に喪失感をもたらした。 彼女は私と同じ道を歩んでいる求道者だとばかり思っていたし、彼女が脱落するなんて信じられなかったからだ。

「もう二度とあの目をした人には出会えないかもしれない」

高校の教室に彼女と同じ目をした女の子を探したのだけれど見つからなかった。 ところが別のクラスにいたことが判明したのは三年生になってからだ。

高校一年の三学期に早稲田・慶応を目指すことに決めてからというもの、私は高校生活のすべてを犠牲にして大学受験の勉強に打ち込んでいた。 早稲田・慶応のような世に一流と呼ばれる私大を目指したのは、自分に自信を持てなかったからで、もし合格できれば自分に自信を持てるようになるのではないかと思い込んでいた。

そんな私にとって三年生のときに選択しなければならなくなった地理の単位は受験に関係のない科目だった。 担当の教師もそうした事情を考慮して、興味のない者は後ろの方の席で内職するなり好きなように過ごしたまえ、という立場を取ってくれた。 そこで、ちょうど私の後ろの席に座ることになったのがぷっつんレディ2号である。

教師公認で内職できる地理の時間は天国だった。 私は英語の辞書と首っ引きになって、寸暇があるなら単語を一個覚えろ、という受験の格言を実践していた。 彼女はそんな私のシャツの背中を後ろから引っ張って、振り向いた私に彼女はこう言った。

「ねえ、昨日、髪切ってきたんだけど似合うかしら」
「なんか、ココ、気に入らないんだけど、どう?」
「やっぱり変だったら、今日、また切りに行こうとおもうの」

髪を切りに行く暇があったら私は単語を一個覚える男である。 何言ってんだこの女とおもった。

彼女は、いうなれば美人である。 修学旅行に同行したカメラマンなんかは、彼女が一人で奈良公園の鹿とたわむれる写真を一枚撮って、どうだと言わんばかりに張り出したくらいの画になる美人なのである。 「美人だからって どんな男でもちやほやすると思ってんじゃねえぞ」という勢いで、私は彼女の目をみた。

純粋(ピュア)だった。

よくある美人の発散しがちな鼻持ちならない雰囲気を感じさせない透き通ってすっきりした人だとわかった。 ところが、なんだか、こんな風に言われているような気もした。

坊や いったい何を教わってきたの
(作詞:阿木燿子・作曲:宇崎竜童『プレイバック Part2』)

彼女は、私のように将来得られるであろう何かのために現在を犠牲にするようなマネはしない人だった。 どうやったら、そんな風に生きられるのかわからなかったから、私は彼女のような人に嫉妬していたのかもしれない。 そんな私の心を見透かされているような感じがしたのだ。 それは私の心の中に土足であがりこんできて、整然と並べようとしていたものを一瞬でひっかき廻すだけの力があった。

また彼女の言葉は、まるで公案のようでもあった。 どうして、彼氏でもなく、仲の良い女ともだちでもなく、それまで一言も話をしたことのない私にあんなことを聞いたのか。 そもそも美人というものはそういうものなのか、それともなにか深い意味があったのか。 私はこの疑問をずっと引きずった。

私が27歳になって東京から札幌に帰ってきたとき、高校時代の友人から彼女が地元のテレビ局でアナウンサーをやっていると聞いた。 それで早速、テレビを観てみたのだけれど、ぷくぷく太って別人のようにみえた。 「無理してストレスを溜め込んで食い気にでも走ってるんだろう」などと思った。 まだ未熟だった私は依然として彼女に嫉妬していたようである。

そして41歳の誕生日を迎えたとき、私は再びテレビで彼女を見かけた。 見事にダイエットに成功して、透き通ってすっきりした人に戻っていた。 しばらく見かけていなかったのは29歳で寿退社をして引っ込んでいたかららしい。 たぶん、そうした時節を考えると私と同じ求道者なのかもしれない。 30代を中途半端をせずに生きてきたのだろう。 とすると<<いまや彼女は本物の美人だな>>とようやく今度は嫉妬をまじえずに思えた。

ぷっつんレディ3号・4号


おそらく高校三年生の私はぷっつんレディ2号に一目惚れしてはいたのだとおもう。

せっかく探し求めていた純粋(ピュア)な人に話しかけられたのだから、次の地理の授業の時間までにジョークをひねって彼女に近づこうとするのが作法というものだろう。 しかし2号というのは、ため息さえもためらうほどに別次元の住人に思えた。 私は東京の大学に進学しようとしているのに、いまさら高校の女の子に熱をあげてどうしようというのか、などとも思えてくる。 どう考えても重なり合わない感じがしてきて、私は口説き文句を理性で飲み込んだ。 なんだか自分が意気地なしのような気がした。

海よ 笑ってくれ いのち賭けた人を 奪っていけない 弱い俺を
(作詞:山川啓介・作曲:矢沢永吉『ひき潮』)

その後、私は一浪して早稲田大学に入学することになった。 しかしながら高校生活を犠牲にして追い求めてきた一流大学の肩書きは、最も欲しかった自信を与えてくれるものではなかったし、もとより相棒(バディ)とはすでに出会っていたわけだから、やはり親友と呼べる存在を得るでもなかった。

そんな、くだらないとは言わないまでも、たいして重要だとも思えない四年間をテニスサークルに所属して、大まじめな馬鹿騒ぎをしながら過ごし、そこでぷっつんレディ3号とつきあった。

3号は求道者ではなく極めて普通の人である。 1号と2号があまりに強烈な個性を持っていたから、そういう女の子は私の人生には二度と現れないだろうと思っていた。

<<こういう普通の女と結婚して どうでもいい生活を送るのが人生というものなのだろう>>

ちょっと頽廃的(たいはいてき)な思想にからめとられていたのかもしれない。

そのうち、ろくに就職活動をするでもなく大学を卒業して、なかばヤケクソ気味に就職した中小企業のシステム会社にぷっつんレディ4号はいた。 彼女と目を合わせた瞬間に私は動揺してしまった。 1号と同じ目をしていたからだ。 <<やばい、二股かけなきゃならん>>と思った。

ところが私の心配は杞憂(きゆう)だった。 3号が「あなたがわからなくなったの」「もう少し離れて過ごす時間が私たちには必要だとおもう」などとワケのわからないことを突然言い出したからだ。 私はてっきりフラレタものだと思って4号と正々堂々と付き合いはじめることにした。

焦ったのは しばらくして3号から電話があった時だ。 どうやら「もう少し離れて過ごす時間が私たちには必要だとおもう」というのは言葉どおりだったらしく、私は再びデートに誘われてしまった。

「どう、アタシともう一度付き合ってみる気ある?」

私が言葉に窮しているいると、どうやらその気はないみたいね、と彼女は言った。 勘のいい女の子で助かったとおもう。

さて、こうした私に巻き起こった一連の出来事を合理的に説明している概念があり、私は孤独を乗り越えるためにその概念を方便として活用した。 それが精神世界(スピリチュアル)でよくいわれるソウルメイトの概念である。

(2015.5)

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