トップ写真 ゆんフリー写真素材集

【坐禅作法91】正師は死んだ

ちょっとはマシな坐禅作法 正師は死んだ〜縁覚道の地図11〜

Presented by

〜縁覚道の地図11〜


正師(グル)は死んだ

禅師というのは愚直な生きものだ。

歴代の禅師たちの言葉は その正直さゆえに古びることなく現代でも胸を打つ。 私も道元禅師の『正法眼蔵』―現成公案―にある言葉に早い段階で触れていたからこそ、道を踏み外さずにやってこれたのだとおもう。

仏道をならふといふは…
(道元禅師『正法眼蔵』現成公案)


仏道を学ぶことは自己を学ぶことにほかならない。 「自己をならふ」ということは自我の働きを観察して自我を完成させることであり、「自己をわするる」というのは完成させた自我を放棄することにほかならず、しからば悟りは「万法に証せらるる」ようにしてやってくる。 道元禅師は己れの坐禅修行における内的体験を正直な言葉で残してくれていた。 このメッセージが入門時の私に示された簡潔な道しるべであったことは間違いない。

自己をならったか?
自己をわすれたか?
万法に証せられたか?

その答えはいつだって否(いな)だった。 こうなったら増上慢になんてなりようがない。 道元の言葉は私の胸に鋭く突き刺さった。

また、もっとも禅師らしからぬ禅師という矛盾を楽しんでいたのが一休禅師その人だろう。

ある夏の日、庭の草むしりに疲れた一休は寺の縁側で涼しい風にあたった。 その風があまりに気持ちよかったので、寺の仏壇から仏像を持ち出してきて外の柱にくくりつけて言った。

「さあ、あなたも涼むがいい!」

その風狂の逸話は愚直すぎる男の匂いがそのまま漂っていて、たいそう臭そうだ。 できれば故障したエレベーターに偶然乗り合わせたくはないタイプである。 おそらく動物園の檻の中に入れてみたら、きっとおあつらえ向きだろう。

檻の中の一休禅師

たぶん三時間くらいは見ていて飽きないだろうな。 その鋭すぎる言葉ゆえに、その呆れるほどの愚直さゆえに、入門時の私は禅師という存在に怯(おび)えた。
kansiketu
その心眼の鋭さは迅(はや)きこと流星のごとく、その智慧のはたらきは稲妻をも掣(せい)す(無門慧開禅師)。 コイツらにかかったらすべてを見透かされてしまう。 私は早々に“正師(しょうし・グル)”を探すのをあきらめてしまった。 これをニーチェの「神は死んだ」になぞらえて表現するとこうなるだろうか。

正師(グル)は死んだ。私は己れの臆病さゆえに正師を殺してしまったのだ。

赤雲水

内なる師(サット・グル)

黒雲水

こうして私は正師なきままに歩む道を模索することになった。 その道を照らしていたのは、またしてもR・シュタイナーである。

書物そのものが個人的伝授

「神秘道の修行者は個人的な伝授を必要とする」と書かれてはいるが、このことは書物そのものがこのような個人的伝授なのだという意味に解釈されねばならない。

(R・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』P.263「第八版あとがき」)


書物が正師からの個人的伝授の代わりに成り得るというのである。

また、わざわざ正師を探し求めなくても修行者が個人的伝授にふさわしい悟境に達したとき正師はおのずから現れる、とR・シュタイナーは説いていた。

正師はおのずから現れる

秘密知識の伝授を受けるには、それにふさわしい師を方々に探し求めなければならない、と多くの人が信じている。 しかし大切なのは次の二点である。 第一に、真剣になって超感覚的認識を求める人なら、自分を高次の秘密へ導いてくれる導師を見出すまで、どんな努力も、どんな障害もおそれてはいけないということ。 第二には、認識への正しい、まじめな努力が存在するときには、どんな状況の下にあっても、伝授する側がその人を必ず見つけ出してくれるということである。

(R・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』P.023「条件」)


さらにその正師との距離の取り方についてR・シュタイナーはいかにも西洋人らしい発想をしていて、1980年代には“新人類”などと揶揄(やゆ)されたニュータイプの日本人である私の性に合うものだった。

21世紀の覚者

霊的な修行においても、今後ますます師は、近代人の意識にふさわしく、他の学問分野における教師の在り方と同じような、単なる助言者としての地位に留まるようになるであろう。 師の権威、師への信頼は、霊的修行においても学問、生活上の何らかの他の分野におけると同じ役割を演じるべきなのである。

(R・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』P.017「第五版のまえがき」)


覚者たるもの…これからの時代は修行者に“喝”を入れるばかりでは納まりきらず、修行者からデコピンを喰らうことも覚悟しなければならないというわけだ。 これぞ文字通りの“覚者”である。

矢印マーク 『アイ・アム・ザット 私は在る』

結局このニサルガ・ヨーガに行き着いたのは驚きだ。
ニサルガダッタ・マハラジはあまりにクール。
そのため当初は冷徹な印象を受けたものである。
でも実はそれが本当の慈悲であり愛だった。
愛は神であり、神は愛である。
ゆえに愛はパラドックスである。


そしてこのR・シュタイナーの言葉をさらに深く理解させてくれる概念をニサルガダッタ・マハラジの『アイ・アム・ザット』に見つけた。 それが“内なる師(サット・グル)”という概念である。
(参考:「内なる師」矢印マーク 』【坐禅作法30】興菩提心)

メッセンジャーや指導者が必要なとき内なる真我が正師を送る

意識のなかで、ひとつの領域からより高い領域に上がっていくには助けが必要だ。 助けがつねに人間の形を取るとはかぎらない。 それは名状しがたい存在かもしれない。 あるいは直観のひらめきかもしれない。 しかし、助けは来なければならない。 内なる真我は息子が父親のもとに戻ってくるのを待っているのだ。 時節が調えば、彼は愛情深く、効果的にすべての手はずを整える。 メッセンジャーや指導者が必要なとき真我が必要を満たすためにグルを送るのだ。

(『アイ・アム・ザット』P.293「58 完成はすべてのものの宿命」)


ニサルガダッタは34歳で正師に出会ったのだけれど、師は「私は在るに沈潜しなさい」と告げただけで すぐに亡くなってしまう。 しかしながら その後も師の言葉を守り続けた彼は3年後の37歳で真我を実現するに到った。 これはそうした自身の経験から導き出された結論なのだろう。

ニサルガダッタの説く内なる師(サット・グル)とは道の最初に出会い道の最後に到達する内なる真我にほかならない。 正師にしたところで、その内なる真我にそそのかされるようにして現れる人生舞台の登場人物のひとりにすぎない、というのである。 この人生舞台に登場する人物すべてが内なる師にそそのかされるようにして行動しているという概念は、直観のひらめきを研ぎ澄ませるのに与(あずか)って力があった。 それは内なる師とひたすらモールス信号で交信を続けているようなものかもしれない。

トン・ツツー・トントン 〜 イマワタシガノリコエルベキカダイハナンデスカ 〜

矢印マーク 『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』

坐禅修行のプロセスを正確に記述してある唯一の本。
(2011年1月現在・ボク調べ)
こういう本が市場に出回っている現在、
秘密にしておくことなんてもはや何もないはずである。
そろそろまともな禅書を誰かが出版しても
いいのではないだろうか?


出家の真実

日常よくある風景にすぎない出来事が運命の筋書きにとっては何ごとか意味のある高度の儀式であり通過儀礼となっていることがある。 もちろん そこで何ら疑問を抱かずに通り過ぎても誰からも文句は言われない。 その結果は本人がみずから受け取るだけだからだ。 しかし日常に巻き起こる出来事のすべてに何らかの疑問を差し挟むなら、内なる師から与えられている運命の課題の存在に気づくことができる。

第二の水の試練の二つ目の課題は私が38歳の誕生日を迎えた直後に最終試験のような形ではじまった。 とはいえ私がその課題の存在に気づいたのは、そのずっと以前の33歳のぷっつん体験のときだったから、かれこれ4〜5年かけて取り組んでいたことになる。

輪廻観の事例(布施仁悟の場合)


もっとも、こうしたわかりやすい精神性疾患に限らず、人間の運命のすべてが自業自得だなんて、ボクだって信じきっていたわけじゃない。とくにインドのヒンズー教の聖典にこんな句を見つけたとき、ボクは釈然としなかった。

嫉妬心、羨望心が極めて強く、
他者に害毒を与える最低の人間どもを
神は繰り返し繰り返し、
物質界のつまらぬ者どもの胎内に投げ入れる

あの父と母のもとに生まれたことまでが自業自得だと言うのだからたまったものではない。 これでは、まるであやつり人形みたいだ、と思った。 でも、あの面接の一件のおかげでその意味が少しわかったと今では感じている。

(矢印マーク 『ちょっとはマシな坐禅作法』【坐禅作法31】出家)


人間は生まれるとすぐに両親から常識・道徳・伝統・信仰・倫理を叩き込まれる。 その両親の愛情を失うまいとして、ある者はそれに迎合し、また別の者はそれに反発する。 どちらにしろ両親から精神的に支配され束縛されていることに変わりはないのだけれど、そのことにはなかなか気づかない。 その支配や束縛から逃れようと試行錯誤してもがくほど、さらなる偏見・迷信・妄想・詭弁などの独断的ないし理念的信条を生み出すばかりで、収拾のつかなくなっているのが普通の人間なのである。

ところが その悪循環から脱け出す準備の調った求道者は悟りの軌道に入ることを許可される。 そこで最初に学ばされるのが輪廻転生の法則で、つまり、その両親のもとに生まれた宿命を受け入れ その支配と束縛から脱け出す道を探せ、と宣告されるのだ。 そのため地上における使命を啓示される前には、外側の世界に働きかけるのを一時中断し、両親と対決するため実家にちんまり納まるような運命をたどる求道者も少なくない。 私はそのケースだった。

すなわち水の試練の二つ目の課題とは、キーパーソンである両親と折り合いをつけて精神的に出家することである。
(参考:「キーパーソン」矢印マーク 』【坐禅作法31】出家)

各運命の試練とテーマの関連図
図・布施仁悟(著作権フリー)


第一の火の試練から第二の水の試練に通底している“自我の完成”という課題の意味もまた、両親から精神的に自立して出家することにより成熟した人間になることにほかならない。

このことについては、20世紀の覚者・和尚の『一休道歌』にわかりやすい記述がある。

出家の真実 〜 其の一 〜

私がたくさんのサニヤシンを観察してきたところによると、彼らは今なお自分たちの両親と絶えず闘っている。 彼らの根深い問題はこうだ―。 両親が彼らに何かをしてはいけないと言った。 彼らはそれをすると罪悪感を覚え、それをしないと自由ではないと感じる。 いずれにしても、彼らは罠にはまって闘いつづけている。
人は、もはや自分の両親に反動してはいないとき、両親の声が意識から消え去っているとき、それらがあれこれと影響を及ぼしていないとき、それらがもうあなたの内側に賛成も反対も創らないとき、そのとき初めて自由になる。 彼らをほとんど相手にしないでいられるとき、彼らに無関心でいられるとき、あなたは成熟した人になっている。

(『一休道歌 上』P.122「第3話 超論理という虚偽」)


私は この問題に33歳の“ぷっつん体験”のときに気づき、小さな自分―リトル仁悟―と対峙して、主として父親から刷り込まれた言葉が己れの自由を奪っていることを知った。

小さな自分―リトル仁悟―との対峙の事例


そうして“ぷっつん体験”から半年くらい経ってからだろうか。 私は己れの心の中をまじまじと観ることになる。 そして、そこに小さな自分を見つけた。

「ボクは勉強ができなくなったわけじゃない」

その小さな自分“リトル仁悟”は、たしかに、そう語っていたのだ。

要するに、こういうことだったのである。 私は高校に進学すると、あまり成績が揮(ふる)わなくなった。 そのとき父親からの期待を裏切ることになるのを虞(おそ)れて、その事実を認められなかったばかりに、『偏差値50から早慶を突破する法』なんて本を手にし、つまらない正論をでっちあげ、それにすがって身をやつしてきただけだったのである。

(矢印マーク 『ちょっとはマシな坐禅作法』【坐禅作法74】自分探しの旅)


ところが私の自由を奪ってきた元凶である父親は その事実に気づこうともしない。 そのため今度は逆に父親を憎む感情が激しく湧いてくるようになった。

とはいえ私はその感情を観察して鎮める方法を次第に身につけるようになっていく。 父親を憎んだところで何の解決にもならなかったからだ。

出家の真実 〜 其の二 〜

もしあなたが両親を憎んでいるとしたら、あなたはまだ離れていない、自由ではない。 “憎む”というのは、あなたが反抗しているという意味だ。 だとしたら、彼らはやはりあなたを支配している。 彼らは微妙な形で支配しようとする。 彼らが絶対して欲しくなかったことを、あなたはやりつづける。 なぜなら、彼らが憎いからだ。 両親が「たばこを吸ってはいけない」と言っていた。 すると、彼らが憎いがゆえに、あなたはたばこを吸いつづける。 このようにしてあなたは憎しみを表わす。 だが、あなたは執着している、まだつながりを持っている。 あなたはつながりを断つことができないでいる。 あなたはまだ鎖でつながれている。 あなたはまだ母親のエプロンの紐を握りしめている。 あなたはまだ子供っぽい。
愛でもなく憎しみでもなく―両親の声が消えねばならない。 あなたはそれが消えてゆくのをただ見守っていなければならない。

(『一休道歌 上』P.123「第3話 超論理という虚偽」)


やがて私が38歳の誕生日を迎える頃になると父親に対する憎しみはほとんど消えかかってきた。 しかしながら、まだ顔をつきあわせて話をしていなかったので、そのままでは証明することができない。 そこに沸きあがってきたのが京都旅行の企画である。 両親が一緒に京都に行こうと言い出したのだ。 「これは通過儀礼だ」と私は直感した。

果たして、旅行の最中に父親と二人きりで話をして、私が父の肩をポンと叩いたとき、私の心に何のわだかまりも存在しなくなっていることを知った。 私の中から私の自由を奪ってきた父親の声は消えていたのだ。 私はそのとき出家することに成功したのである。

事実、2012年6月の京都旅行から帰ってすぐに、私は真の眠りを初体験し次の修行段階に移行した。 それは2012年7月14日のことである。

真の眠り


プラトンが『真の眠り』と呼んでいたものを知っているだろう。

「夜明け前の眠りから目覚める直前」

夢と現実の狭間の世界。実にインスピレーションの源泉はそこにある。

そこでは映像にあわせて言葉や音楽が同時に流れているんだ。 それはそのまま一篇の小説や歌であり、一幅の絵画として成立している。 そこにあるものをあるがままに現実世界に引き込んだものが芸術だ。

芸術の創造過程なんて、わかってしまえば実に単純なものなんだよ。

(矢印マーク 『ちょっとはマシな坐禅作法』』【坐禅作法63】38歳の君へ)


スペインの天才画家サルヴァドール・ダリ様の創造の源泉であり、プラトンに『真の眠り』と命名されていた夜明け前―目覚める直前の夢。 『宝島』や『ジキルとハイド』で有名なスティーブンソンが“夢の中のブラウニー”と呼んでいた存在が私の中でようやく動き始めた。 以前から書きたいと願ってきた文学が夢の中で啓示されたのである。
(参考:「夢の中のブラウニー」矢印マーク 』【坐禅作法19】『創造の病』の禅的解剖学)

ノーベル文学賞受賞作家のソール・ベローは「イメージが先に出てきて、そして言葉が生まれる」なんて言っていたそうだけれど、全くその通りだった。 とはいってもイメージ映像と言葉はほとんど同時だ。 まるでハリウッド映画の冒頭によくあるナレーション付きの映像を観ているような感じだった。

普通の夢は己れという主体があって覚醒時と同じように行動しているものだけれど、この『真の眠り』の中にはその主体がない。 ただ映像と言葉が流れていて己れは映画のスクリーンを眺める位置にいる。 その言葉を紙に書きとめればそのまま一編の小説になってしまう。 当然、今までの文章をひねる苦労は一体何だったのかと思った。

それは私が夢の中のブラウニーの作る物語の光栄ある最初の聞き手になった記念すべき朝だった。 起きてからすぐに原稿用紙に書き留めて、ブラウニーにその続きを願った。 ところが、その続きを知りたくて仕方がないのに、これがなかなか現れてはくれない。

結局「私にはまだ何かが足りない…」という課題だけが残った。 どうやらこの出来事は第二の水の試練の次の課題を啓示されたまでのことだったらしい。 『法華経』ではこれを化城(まぼろしの城)と呼んでいる。 内なる師(サット・グル)は次に到達する段階のまぼろしを見せて修行者を鼓舞(こぶ)するのだ。
(参考:「夢の中のブラウニー」矢印マーク 』【坐禅作法75】妙法蓮華経とは何か)

矢印マーク 一休道歌 上

風狂の禅師・一休の和歌で学ぶ禅。
こいつはイカシテル。

青雲水

当観時節因縁 時節若至

緑雲水
運命の試練モデル(布施仁悟型)
図・布施仁悟(著作権フリー)


どうやら第二の水の試練は二部構成のようである。 私の場合は38歳の誕生日直後の出家体験を境にして課題が高度になっていった。 そうした実感から“38歳の運命のクロスポイント”の発想は生まれている。

壮年期〜真理探究の29年〜
図・布施仁悟(著作権フリー)


42歳の厄年以降から― 人生転落組になるか人生飛躍組になるか ―は、38歳の誕生日直後にある“38歳の運命のクロスポイント”で決まってしまう。 その後、42歳までの4年間をかけて人生後半戦の準備期間に入るのだけれど、私はそこで“SBM 〜 スタンド・バイ・ミー現象 〜”が起こることを観察している。 それまで親しかった友人達との関係が次第に疎遠になっていってしまうのだ。 やがて42歳を迎えると新たな友人達と付き合い始める。 転落するにせよ飛躍するにせよ、その精神性にふさわしい相手のところに誰もが落ち着くというわけである。 その判定基準は― 成熟した人間であるかどうか ―という一点にあるようだから、その公正さには納得せざるをえない。
(参考:「人生38歳の意味」矢印マーク 』【坐禅作法21】人生29年周期説)
(参考:「運命のクロスポイント」「スタンド・バイ・ミー現象」矢印マーク 』【坐禅作法68】スタンド・バイ・ミー現象)

私は星まわりの科学を研究していたおかげで、運命のクロスポイントの存在をあらかじめ知っていたから、いきおい直観が研ぎ澄まされ、それがために出家に成功できたともいえる。 ただしその直観の基礎にあったのは内なる師との交信の習慣だったことは強調しておきたい。 その習慣が時節因縁を観じる態度を養ってくれたのは疑いようのない事実だからである。

当観時節因縁 時節若至
(『涅槃経』)


師の亡き後、どのように修行すべきかを説いた『涅槃経』には「自灯明法灯明(じとうみょうほうとうみょう)」のほかにも「当観時節因縁(とうかんじせついんねん)」「時節若至(じせつにゃくし)」という重要な文言がある。 そこでは「まさに時節因縁を観じていれば、時節の到来にしたがって、仏性が現れるだろう」と説かれる。 内なる師との交信は この『涅槃経』の教えに通じるものなのだ。

やっかいなのは、この『涅槃経』の「当観時節因縁」「時節若至」の教えに噛みつく困った禅師がいることである。 愚直一番・道元禅師なんかがその筆頭なのだけれど、彼らは「時節なんてものはない」と言い切ってしまうのだ。 おかげで禅の世界では お釈迦さまの最期の教えが蹂躙(じゅうりん)されてきたという歴史がある。

悟った彼らは、古今未来、時間の区切りのない世界がみえているから、道元をはじめとする愚直な禅師は「時節なんてものはない」と正直に見たままを説いてしまうのだけれど、修行者にとってこれほど迷惑なことはない。 時節因縁を観じることは修行の途上においては方便として必要なことなのである。 禅の修行者は こうした方便の意味を履き違えている禅師たちの罠によくよく注意しなければならない。 修行者を導くのは、あくまでも内なる師であることを見失ってはイケナイのである。

禅の修行者諸君におかれましては、道元には私からきつくデコピンしておくので、よしなに赦してやってくれたまえ。

(2015.5)


肴はとくにこだわらず厳選情報

HPランキング参加中!

凡人たちにも本物のスピリチュアルを!

ワンクリック運動に参加しませんか?

ブッダの瞑想法―ヴィパッサナー瞑想の理論と実践

坐禅入門の決定版!

心の欠陥を克服する唯一最善の方法は坐禅・瞑想を実践することです。そして、この本以上の坐禅・瞑想の入門書を私は知りません。

聖書―旧約・新約

伝道の情熱を読みとれる貴重な一冊

イタリア人神父が丁寧に日本語訳した聖書。聖書は坐禅修行にも必ず役立つ。かりそめにも軽んじてはならない。

ブッダの真理のことば・感興のことば

こなれた現代語で読める法句経

私の仏教に対する誤解は この本で初めて解けました。

白隠禅師―健康法と逸話

坐禅と気の関係を明かした本

内観の秘法と軟酥の法は坐禅の基本。白隠禅師の『夜船閑話』と『遠羅天釜』で ちょっとはマシな坐禅をしよう。

5つのチベット体操-若さの泉・決定版

これはエクササイズの革命だ!

たった5つの体操を毎日続けるだけで体調は良くなるわ、痩せるわで驚きの効果が・・・!?食事に関するアドバイスも実に簡潔で的を得たもの。これはエクササイズの革命だ!

決定版 真向法

チベット体操と併せてどうぞ。

たった4つの体操を毎日続けるだけで怪我を予防するための柔軟な筋肉を作れます。チベット体操と併せてどうぞ。

魂をゆさぶる禅の名言

何にもならない坐禅はやめよう!

坐禅は単なる心の慰めではありません。坐禅を人生に役立てるための智慧がここにあります。救いのある仏教の入門書。