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【坐禅作法90】ホグワーツ現象

ちょっとはマシな坐禅作法 ホグワーツ現象〜縁覚道の地図10〜

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〜縁覚道の地図10〜


バベル語の旋律

経典や聖典の真意は知的には理解されえない。

経典を一読したときに読み解いた意味や注釈書を読んでわかったつもりになっている意義なんて、たいがい的(まと)をはずしている。

しかしながら、経典や聖典を声に出して何度も繰り返し読んでいると、その真意は、あるとき突然、間歇泉(かんけつせん)のように飛沫(しぶき)をあげながら無意識の底から噴き出してくる。 その時節はいつなのか。 それは誰にも予測不可能だ。 経典を何度読んだか、聖典を何年読んできたか。 そんなことを数えあげたところで石ころほどの価値もない。

経典や聖典の真意を内的体験として透過したことがあるか

ただその一点だけが重要なのである。

バベル語の旋律(せんりつ)が初めて胸(ハート)に響いてくるとき。 修行者は、小躍(こおど)りして歓喜し、同時に、涙してその場にくずおれることだろう。 人にその瞬間を体験させんがために経典や聖典の言葉は生み出されている。 どうにも表現できないことをギリギリの言葉で伝えようとしたもの。 それが経典や聖典の文言なのだ。

このバベル語を体験できるようになったときの感じ方は人によって違うようだ。

「自分の中に表現されるのを待っている何かがある」
「このどうにも表現できないものは行動で示すしかない」
「どんな表現でも伝えようのないことだからいっそ沈黙してしまおう」

その後の進路はここから分かれるらしい。 おそらく この先における運命の試練のカリキュラムは形而上の学校における専門課程なのだ。 ときどき創造活動やインスピレーションについて何も語らない覚者がいるのは そのせいなのだろう。

私はR・シュタイナーと同じ表現者の道を選んだ。 他の20世紀における覚者でいえば和尚(バグワン・ラジニーシ・OSHO)が同じ系統に属する。 いずれも創造性を追求する道を唱えた覚者たちで、いわば…私と同じ学部の卒業生だ。 発想の仕方が非常に似ているから抜群に相性がいいのである。

逆に他の学部の卒業生となると性質(タイプ)が違いすぎるために理解できないことも多い。 透徹に過ぎている釈迦や捉(とら)えどころのない老子なんかは「アホぢやないかこいつ」などと本気で思うこともあった。 とはいえ彼らの般若(智慧)は間違いなく本物のような気がする…なんか気になる。 そんなとき、道元禅師が たとえ性質(タイプ)の違う覚者だとしても その般若と付き合えと言っていたことを知った。

般若を尊重するがゆえに

釈迦牟尼仏のいはく、無上菩提を演説する師にあはんには、種姓を観ずることなかれ、容顔をみることなかれ、非をきらふことなかれ、行(おこなひ)をかんがふることなかれ。 ただ般若を尊重するがゆえに、日日に百千両の金を食せしむべし。 天食をおくりて供養すべし、天華を散じて供養すべし。

(道元禅師『正法眼蔵』-「礼拝得髄」巻)


肝心なのは、その言動に理解できないところがあっても聞く耳を閉じてはイケナイということなのだ。 心に沸きあがる反論を鎮(しず)めて聞く耳をそばだてる。 すると単純に性質(タイプ)が違うだけで、それはそれで筋の通っていることがわかってくる。 こうした静謐(せいひつ)な受容性を育てるためには性質(タイプ)の違う覚者の言説にも触れてみるのがいい。

たしかに明晰な知性が発現してくると経典や聖典の文言を理解できるようになってくる。 しかしながら、謙虚な態度を忘れて受容性を失ってしまったら それを吸収することができない。 明晰な知性と静謐な受容性。 この二つもまた、止と観の関係と同じく車の両輪、鳥の両翼に喩えられるべきものなのだ。 バベルの試練とは この二つの徳性を身に着けるための試練であったのかもしれない。

赤雲水

バベルの試練から第二の水の試練へ

黒雲水
運命の試練モデル(布施仁悟型)
図:布施仁悟(著作権フリー)


バベルの試練とそれに続く第二の水の試練は密接な関係にあり、仮にバベル語の修得に失敗していた場合、第二の水の試練を透過することは不可能だろう。 私の実感としては創造的知性(ミューズ)の発現した35歳から第二の水の試練が始まっていたようにも思える。

バベルの試練と第二の水の試練の関係

さて、上述の段階に達した者には或る種の義務が課せられるが、その際には何も外的な誘因が存在しない。 彼は外的な状況によってではなく、「隠れた」言語が教えてくれるあの規準によってのみ、それらの義務を遂行しなければならない。 しかもこの第二の「試練」を通して、彼は役人が役所の職務を遂行するのと同じ確かさで、自分に課せられた義務を、この規準だけに従って遂行できなければならない。

(R・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』P.098「霊界参入の三段階」)


第二の水の試練は、バベル語の修得過程で学んだ規範に忠実に従えるか、という実践段階なのである。 すなわち第一の火の試練とバベルの試練は実践の基礎を築くための教養課程にすぎなかったのだ。 しかも運命の試練の非情なところは、その教養課程を等閑(なおざり)にしていたとしても、カリキュラム自体は着実に進行していくことにある。 そのため、たとえば私と同じ性質を持っている者なら、創造的知性(ミューズ)不在のまま芸術家きどりで何らかの努力を続けることになるだろう。 そういう哀れな修行者はその言動から容易に判定できるものだ。

― 地上における使命感の欠如 ―

それが彼らの共通項である。

第二の水の試練における使命感

この試練のために、志願者は修行を通して特定の課題の前に立たされていると感じる。

(R・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』P.098「霊界参入の三段階」)


これは創造性に関する課題にかぎっては、ニーチェが『ツァラトゥストラ』を書いているときに感じていたのと同じものを意味している。

― 人類の運命の結び目がその中に結びこめられているようなこと ―
(ニーチェ『この人を見よ』「ツァラトゥストラ」5)

これは決して大げさな表現ではなく、この実感がなければ嘘なのである。

矢印マーク 『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』

坐禅修行のプロセスを正確に記述してある唯一の本。
(2011年1月現在・ボク調べ)
こういう本が市場に出回っている現在、
秘密にしておくことなんてもはや何もないはずである。
そろそろまともな禅書を誰かが出版しても
いいのではないだろうか?


ホグワーツ現象

ときに拷問(ごうもん)のようにすら感じられる使命感は、私の場合、ホグワーツ現象によって育むことになった。 ホグワーツとは、ファンタジー小説『ハリー・ポッター』シリーズにおいて主人公たちの通う魔法学校の名称で、その校長先生の台詞にこういうものがある。

― ホグワーツでは、それを必要とする者にまさに必要なものが与えられる ―
(by ホグワーツ魔法学校校長ダンブルドア)

これがホグワーツ現象だ。

第二の水の試練のあいだ、私は形而上の学校における卒業制作のような課題を与えられ、それを中心に生活が回転するようになった。 それが前作『ちょっとはマシな坐禅作法』だったのである。 そのタイトルを思いついたのは36歳になったばかりの頃なのだけれど、ホグワーツ現象の始まったのは37歳になってからだった。

言葉の処方箋をなんらかの形にしたいと思うようになって、序章みたいなものをブログに書いたのが36歳。 やがて37歳になってから本格的に書き始めると、ぼちぼちコメントが寄せられるようになった。 周囲で起こる事象が作品にシンクロしていることに気づくようになったのは、この頃からである。 たとえば…記事の展開に悩んでいると誰かがコメントをしてくる。 そのコメントに誠実に返答していると記事の主題が明確になってくる。 それをもとに記事を書く。 そんなサイクルが頻発するようになったのだ。 たとえるなら、これから鍋を料理しようとしていると、いろんな人がより美味しくなるような組み合わせで、適切な瞬間に最適な食材を放り込んでくれるようなものだ。

さらに、才能とは その食べ頃を知ることである、と知ったのは「設計図」のインスピレーションを得たときだった。 これとまったく同じ体験が村上龍の『五分後の世界』という小説のあとがきに書いてある。

作家・村上龍の「設計図」のフロー体験

果たして自分は書くだろうか?と考えた。 「書けるだろうか?」とは考えない。 「書くだろうか?」だ。 「たぶん書くだろう」ということにして、始めた。 途中、今までにない体験があった。 それがあまりにスリリングだったので、 ワカマツの台詞として本文でも使った。 約半分まで進んだ時に、突然「物語の設計図」 とも言うべき三次元のパース画のようなものが出現した。 「作る」のではなく、それまで何もなかった湖から恐竜が現れるように、ずっと以前からあって単に見えなかっただけだという風に「設計図」が、頭の中ではなく、現前に、見えるものとして、出現した。 その後はマシンになって書いた。 間違えたり、余分なものや不足なものがある時は、「違うよ」と「設計図」から指摘された。 「物語の設計図」の奴隷になっていたわけでは もちろんない。 ただし、主人でもなかった。

(村上龍『五分後の世界』-「あとがき」より)


『ちょっとはマシな坐禅作法』の各記事は先頭から順番に書いていったわけではない。 まったくプロットを立てずに順不同で書いていって、どういうわけか最後には辻褄(つじつま)が合う、という奇妙な書き方をした。 書いたときの年月を各記事の末尾につけてあるから物好きな人は並べてみるといい。 これは「設計図」が浮かんできたからできた芸当で、設計図があるんだったら何処(どこ)から書いても一緒だろう、という推論から実験をしてみた結果なのである。 この体験をして以来、「設計図」のインスピレーションが降りてこないうちは本気の記事を書かないことに決めた。

こうした作業は毎号パーツが付属してくる分冊出版の雑誌で大型模型をつくるのに似ている。 たとえ設計図はあっても着想は断片的にしか送られてこない。 もとより組み立て説明書なんてものもないため、手許にあるパーツを自分で組み合わせるより他に仕方がない。 ために、送られてきたパーツをあれこれひっくり返して格好をつけた頃に次のパーツを手渡されると思っておけば間違いない。 やがて、あるとき付属してきたパーツを組み込んだときに完成像が突然フラッシュバックする瞬間に出くわす。 そこからは一気に完成に持っていけばいい。 とてもかくても創造とは…忍耐の結晶なのだ。

このホグワーツ現象を繰り返し体験していると、何ごとも自我を介さずに成り行きまかせにした方がうまくいく、という感覚が生まれてくる。 これを作家・浅田次郎先生の傑作『蒼穹の昴』の一節で説明してみようか。

― 目に見えぬ巨大な力が自分に加担している
   自分は宿命の星に導かれているのだ
   はっきりとそう信じたとたん、
   すべての迷いは 嘘のように消え失せた
 ―
(浅田次郎『蒼穹の昴』第一章八)

矢印マーク 蒼穹の昴(1)

「この物語を書くために私は作家になった」
浅田次郎先生の才能開花宣言。宿命の一冊。


たとえ創造的知性(ミューズ)が覚醒してきたとしても己れの才能に対する疑心暗鬼を払拭することは難しい。 その後も不安とためらいは常につきまとう。 そこで私の取った行動は星まわりの科学を研究することだった。 29年周期で巡る運命の法則の存在を突き止め、過去の偉人たちの足跡に己れの宿命星を重ね合わせたのである。
(参考:「星まわりの科学」矢印マーク 』【坐禅作法21】人生29年周期説)
(参考:「星まわりの科学」矢印マーク 【坐禅作法70】星読みの酔狂)

これがどれほどのセラピー効果を挙げるかはホグワーツ現象を体験したことのない者にはわかるまい。 「目に見えぬ巨大な力が自分に加担している」という予感はホグワーツ現象を体験していく中で少しずつ育まれていく。 この予感がなければ星まわりの科学は逆に不安をあおるばかりだからだ。

32歳で精神分裂を起こした修行者も、私の唱える星まわりの科学にかなりの反感を抱いていたものである。 彼は運命の試練に一槌を決めることなく人生のすべてを中途半端に生きていたのだから無理もないことだろう。 そんな生き方をしていれば、いつまでも原罪意識がつきまとい、正しい心の使い方を学ぶこともままならない。 すると星まわりの科学を前にしても、自分はその軌道から外れているという実感しか得られないため、「自分は宿命の星に導かれているのだ」という予感が生まれないのも当たり前の話なのである。 星まわりの科学に異論を唱える者のほとんどは、そうした中途半端な連中なのだ。

星まわりの科学や悟りの軌道理論が真(まこと)かどうかなんてことは本当はどうでもいいことなのである。 重要なのは、それによって得られるセラピー効果が絶大だということなのだ。 星まわりの科学や悟りの軌道理論は「自分は正しい道の上を歩いている」という確信を修行者に与えてくれる。 もしかすると…それは嘘かもしれない。 それでもそれは修行の途上でとにかく役に立つ。 これが『法華経』に説かれている方便というものではないだろうか。

方便のテーマ
矢印マーク 五分後の世界(幻冬舎文庫)

村上龍42歳頃の作品
「設計図」のフローの記録

青雲水

水の試練の与える機会

緑雲水

また『ちょっとはマシな坐禅作法』を書き進めている最中に、自我が介入すると文章がちっともまとまらないことに気づくようになった。 とにかく何かがおかしくなるのである。 そこで極力自我を介入させずに書く方法を身につけるようになっていった。

これはまったくもの書きのセンスというやつで、どうにも伝えることは難しい。 けれども、どんな分野に進んだとしても同じようなセンスを身につけることになるのではないか、と私はおもう。

水の試練の与える機会

もしも試練の最中に何らかの個人的な願望や意見が混ざるようだと、その瞬間に、志願者の心は正しい認識から得た法則にではなく、恣意に従ってしまう。 そうすると生じるべきものとはまったく異なったものが生じてしまい、志願者は、行為の目標に通じる方向をたちまち見失い、混乱にまきこまれるであろう。 ―それ故人間はこの試練を通して、自制心を育成する無数の機会に出会う。

(R・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』P.099「霊界参入の三段階」)


R・シュタイナーの云うように、水の試練を通して自制心を育成する無数の機会に出会うからだ。 ここで得られる教訓は…おそらくこういうものだろう。

第二の水の試練のテーマ 〜 其の一 〜


創造活動にあたっては何ごとも成り行きまかせにした方がうまくいく―という感覚が自我を沈黙させる動機になっていくのである。 たぶん…これが第二の水の試練の課題の一つではないかとおもう。

さらに私の実感として、第二の水の試練にはもう一つ重要な課題があった。

(2015.4)


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