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【坐禅作法89】自灯明 法灯明

ちょっとはマシな坐禅作法 自灯明 法灯明〜縁覚道の地図9〜

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〜縁覚道の地図9〜


体験の昇華ということ


「ここが君の新しい仕事場だ」
男は続けた。
「ワタシは君のことは別段好きなわけじゃないんだが、努力だけは認めよう。好きに使ってくれたまえ」
(矢印マーク 『ちょっとはマシな坐禅作法』【坐禅作法31】出家より)

33歳の“ぷっつん体験”のとき夢の中に現れた男に告げられた言葉が私に勇気をくれた。

「私は今ここから変わらなければならない」

たしかに私の人生は その瞬間から大きく変わっていった。 けれどもそれは、この当時の真剣かつ謙虚な態度を忘れることなく己れの愚かさと対峙し続けてきたからだ。 振り返ってみれば、その間に体験した運命の試練のカリキュラムは己れの愚かさと向き合うための機会を与えてくれたにすぎない。 そもそも私と同様の“ぷっつん体験”であれば誰の人生の上にも起こっている。 たとえば身近にいる誰かに英雄譚(えいゆうたん)を訊いてみたとしよう。 そのとき己れの人生航路の舵(かじ)を切り換えた勇気ある決断を語れない者は一人もいない。

重要なのは その決断の直後なのである。 その決断をもたらした体験は、己れの愚かさと対峙するきっかけを与えるものにすぎないため、そこで、逃げもせず、隠れもせず、勇気を振り絞って、愚かな自分に直面した者だけが運命の試練を透過できる。 私はぷっつん体験の直後にリトル仁悟と対峙したことで、幸運にも運命の試練の乗り越え方を知ることになった。 リトル仁悟との対峙により、私のぷっつん体験は真実のぷっつん体験に昇華したのだ。
(参考:「リトル仁悟」矢印マーク 『ちょっとはマシな坐禅作法』【坐禅作法74】自分探しの旅)

真実のぷっつん体験の事例〜布施仁悟の場合〜


転機が訪れたのは33歳の“ぷっつん体験”の直後である。 無益な努力を続けている原因が高校時代からの口癖となっている正論にあることに気づいたのだ。 そこで、まずは一切の努力をやめてみることにした。 仕事も何もしないで、連れの女に食わせてもらう甲斐性なしに成り下がり、日課といえばチベット体操と坐禅のみという毎日を過ごした。 軽蔑し、扱き下ろしてきた人たち以下の身分に甘んずることで、それまですがってきた正論を逃げ口上にできない状況に身をさらしたのである。

たったそれだけのことなのに、自分の存在価値を失くしてしまったようで、たまらなく辛(つら)かった。

けれども、こうして逃げ道を塞がれなければ、人の意識が己れの心に向かうことはない。 私の掲げてきた正論は、己れの愚かさを直視し、わめきながら地面を転げまわるほど恥にまみれなければ止められなかったのである。 実際、この頃の私は、力なく床にくずおれて「もう無理だ…普通の男の子に戻りたい」と毎日のように呟いていたものだ。

おそらく、ここは誰もが挫折するポイントなのだろう。

何事もなかったかのように働きに出て、どんな職業でもいいから、あくせく仕事をこなせば済むことだからだ。 たとえ歪んだ自尊心(プライド)だったとしても、そうやって満たしてやれば、元の普通の男の子に戻ることはできる。 簡単なことだ。

でも、私は、元に戻らなかった。 というのも、“ぷっつん体験”のとき、新しい人生が待っていることを夢の中で知らされていたからだ。 それを、たかが夢だ、と一笑に伏することは どうしてもできなかったし、そもそも、無益な努力を続ける毎日に心底疲れきってしまっていたのである。

そうして、“ぷっつん体験”から半年くらい経ってからだろうか。 私は己れの心の中をまじまじと観ることになる。 そして、そこに小さな自分を見つけた。

(矢印マーク 『ちょっとはマシな坐禅作法』【坐禅作法74】自分探しの旅)


このように運命の試練は体験の昇華をもってはじめて完結する。
kansiketu
中途半端をゆるさずに己れの中に潜む小さな自分にとどめの一槌を決めるか、それとも、ただ漫然とやり過ごすかは、義務教育のカリキュラムと同じく、まったく修行者の自由意志に任せられている。 それが運命の試練の特徴なのだ。 本当の自由を得るためには、どちらの選択をするべきか、おのずから明白であろう。

とはいえ、リトル仁悟と対峙した後、34歳になった私は途方に暮れていた。 それまで自由を体験したことなんてなかったからだ。 見性するということは世間一般の常識に背を向けてその呪縛から逃れることでもある。 そのため見性の内的体験を透過した後は常識が壊れてしまっているから、もはや普通の生き方などできるわけがない。 新たな仕事場を与えられ、好きなようにやってくれ、と言われても、かえって何をしたらいいのかわからなくなるのだ。

33歳の“ぷっつん体験”のとき、私はそれまで追いすがってきた公認会計士試験のテキストを捨てた。 たしかに、そのままうまく世渡りできていたら、ほんの数年後にはきっと、首をくくりたくなっていたことだろう。 ところが、見性したら見性したで、もしかしたら自分は間違った引き出しを開けてしまったのかもしれない、などと葛藤することになったのだ。 まったく皮肉なものである。

おかげで、これから何処(どこ)に向かえばいいのか、さっぱりわからなかった。 まるで道路標識一本ない砂漠の真ん中でジリジリと太陽に灼(や)き焦こがされているような気分である。 しかしながら、そんな最中にあったとしても「何もしない」という選択肢を人生は許してくれない。 何らかの生活の糧(かて)が必要だ。 とにかく私は天職を模索しはじめることにした。 そこに指針を与えてくれたのは紛れもなくR・シュタイナーである。

赤雲水

正しい願望を持つということ

黒雲水
第一の火の試練モデル(布施仁悟型)
図:布施仁悟(著作権フリー)


当時の私の行の進捗に関して言えば、33歳の第二の結節解放時にクンダリニー活性現象を体験して以来、身体背面の督脈の気道が尾てい骨から頭頂に向かって少しずつ開いていた。 それにもかかわらず、何の予備知識もなかったことから、さまざまな文献に当たるようになったのだけれど、まともな解説を見つけることはついに叶わなかった。 結節についての詳細な記述は皆無に等しい状況だったのである。

まったく得体が知れない。 そのため、当然のように坐禅修行に伴う危険に考えが及ぶ。 そこに明確な答えを提示していたのがR・シュタイナーだったのだ。

R・シュタイナーの説く坐禅修行に伴う危険回避の方法

人間は霊界に関与し、その啓示を感覚界の中に持ち込むことができなければならない。 人間が地上を変革しうるのは、霊界から探知しえた事柄を、地上に移し入れることによってである。 この点にこそ、人間の使命がある。

創造的諸力が隠されているあの世界に関与することによってはじめて人間は地上で本当に有効な働きをすることができる。 それ故にこそ、霊界への参入を望むべきなのである。

このような考え方から神秘修行に向い、そしていかなる時にもその修行の道からはずれることがなければ、どのような危険も恐れる必要はない。

(R・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』P.217「神秘修行における人格の分裂」)


R・シュタイナーは それまで遁世的なイメージしかなかった覚者たちとは真逆のことを語っていた。 地上での使命を遂行しながら修行することに危険なく間違いのない道があると。

R・シュタイナーの説く人間の使命

どんな場合にも、人間の使命はこの地上に求められねばならない。 地上での使命を離れ、別の世界へ逃避しようとする人は、決して目標に到達しないであろう。

(R・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』P.217「神秘修行における人格の分裂」)


さらに、このR・シュタイナーの指し示している道の上にゴールがあることを教えてくれたのは老子だった。
kansiketu
この盈満の戒(えいまんのいましめ)として知られる老子『道徳経』第九章の言葉が34歳からの座右の銘となった。 使命を果たして才能が枯れたら潔(いさぎよ)く勇退する。 たしかに己れの引き際をわきまえていた歴史上の偉人たちはいつだって私の憧れだったから、この教えを受け入れるに当たってのためらいは一切なかった。

とはいえ、私には使命を果たして枯れる以前に才能すらなかったため、己れの才能を見つける必要があった。 そこでR・シュタイナーが指示していたのは、その才能を発現させるためには“正しい願望の持ち方”を学ばなければならないということだった。

正しい願望を持つということ

神秘修行の完成には特に願望の在り方の教育が必要である。 人は決して満ち足りてしまってはならない。 なぜならわれわれが達成すべき事柄はすべてわれわれの願望の対象であるべきだからである。 そしてもし願望の背後に或る特別の力が働いているなら、その願望は常に成就されるであろう。

(R・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』P.113「実践的観点」)


― 成就させるにふさわしい正しい願望の背後には特別な力が働いている。 その特別な力に導かれるようにして幾多(あまた)の願望を達成していけば最終的に己れの純粋な本性を知るという願望だけが残る。 その最終的な願望を達成するまで人は決して満ち足りてはいけない ―

というわけだ。 このR・シュタイナーの方法論には抹香(まっこう)臭いところは一つもない。 むしろ、地に足が着いていると言っていい。 現代的だ。 21世紀にふさわしい方法論だと思った。

R・シュタイナーの説く禅の道

確かに誰でも生れる以前の自分の存在について知ることができればと願うであろう。 しかしこのような願望は、もしその人が霊学研究を通して永遠なる存在の法則を、しかもその法則のこの上なく微妙で内密な性格に到るまで、認識することができていなければ、まったく無意味であり、何の結果も生ぜしめない。 しかしもしその人がこの認識を獲得し、その上でさらにその先へ進もうとするのなら、彼は自分の高められ、純化された願望を通してそれを達成するであろう。

(R・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』P.114「実践的観点」)


禅においてよく言われる父母未生以前(ぶもみしょういぜん)の本心・本性を悟るという極めて純粋な願望は、まずこの世の法則を知り、人間として地上における使命を果たすための正しい願望を持ち、その願望を成就していった先にはじめて生じてくると云うのだ。

― 賢者はまず世の中のさまざまな法則を学ぶ。その上に立ってこそ願望が実現の力になる ―
(R・シュタイナー)

かくして、経典や聖典を読み込み、法(ダルマ)や道(タオ)のつかさどる法則を学び、天職― 己れの地上での使命 ―を模索し、願望実現に向けて歩を進めたとき、そこでもやはり、R・シュタイナーの言葉が私の羅針盤となったようである。

― 何が正しいのかを認識する以前には、どのような願望ももち得ない ―
(R・シュタイナー)

そのとき、まず最初に法(ダルマ)や道(タオ)のつかさどる法則にあわせて己れのオツムの歪んだ認識を正しく書き換えていく必要性を感じた。 そこで経典や聖典を繰り返し読むようになった。 法や道についての正しい認識を持つようになれば、やがては成就するにふさわしい願望を啓示され、特別な力に導かれる瞬間が訪れるだろうと仮定したからである。

― 特に注意すべきことは、霊的な体験と日常の出来事や要求との間に不調和な関係を作らないことである ―
(R・シュタイナー)

また、学び知った法則と日常における言動を矛盾なく調和させる必要もあった。 そこで、学び得たことを言葉の処方箋という形で自分の言葉にまとめ、それを毎日繰り返し読んだ。 そうしなければ学んだことを何一つ自分のものにできなかったからである。
(参考:「言葉の処方箋」矢印マーク 『ちょっとはマシな坐禅作法』【坐禅作法33】21世紀の禅語)

そのとき生じた問題は読むべき経典や聖典をよく吟味しなければならないことだった。 R・シュタイナーの方法論は、まず己れの創造力を引き出して天職を遂行しながら悟りを目指すもので、よく語られるような「悟った後から菩薩道」という方法論ではない。 最初から法の伝道師として菩薩道を歩むのである。 したがって涅槃(ニルヴァーナ)第一主義の抹香臭い経典や聖典のほとんどは何の役にも立たない代物だった。

そこで、あれこれ探して試したあげく、以下の四点に落ち着き、40歳を迎えるくらいまで繰り返し読み込むことになったのである。

布施仁悟的声聞道四大経典
矢印マーク 心身の神癒―主、再び語り給う

【創造性第一主義の聖典】

この聖典がなければ己れの中に目覚めた創造的知性(ミューズ)を信じきることは不可能だっただろう。 勇気と根性を奮い立たせてくれる聖典。

矢印マーク 神の詩―バガヴァッド・ギーター

【輪廻や因果などの法則を知るための聖典】

修行はまず法則を知り、受け入れることから始まる。

矢印マーク ブッダの真理のことば・感興のことば

【己れのオツムを疑うための経典】

経典は疑団(気づき・わだかまり)を生むために存在する。 観察(ヴィパッサナ)はこの原始経典『ダンマパダ』を読み込むことで身につく。

矢印マーク 図説 法華経大全―「妙法蓮華経全二十八品」現代語訳総解説

【修行と伝道の指針について書かれた経典】

声聞道、縁覚道の修行の最中に菩薩道を歩む方法は法華経に詳しい。 すべての修行者と伝道師のための経典。

(参考:経典の紹介矢印マーク 『ちょっとはマシな坐禅作法』【坐禅作法47】日曜日は教会へ)


さらに、34歳の私が今すぐできる菩薩道は何かを考えたら“興菩提心”や“ぷっつん体験”から学んだことを伝えることしか思いつかなかった。 そこで早速、ホームページ『肴はとくにこだわらず』を作成し、『できる受験生できない受験生』という小品を書き始めることにした。 それを書き終えた頃に迎えた35歳の誕生日の朝、待ち望んでいた啓示がやってきたのである。 それは私の中に創造的知性(ミューズ)が目覚めはじめた瞬間だった。
(参考:『できる受験生できない受験生』矢印マーク HP『肴はとくにこだわらず』仁悟のホビールーム)

創造的知性(ミューズ)発現の事例〜布施仁悟の場合〜


35歳の誕生日の朝。突然、ボクはひらめいた。

「現代の法華経を創造してみたい」

法華経というのは実に意味深い寓意(ぐうい)に満ちた経典で、悟境の深まるほどにその真意を理解できるように編まれている。

世の中の小説や映画は悟境の深まりにつれて空しく感じられてくるけれど、もしも寓意を含んだエンターテイメント性あふれる作品があれば、悟境のすすんだ人もそうじゃない大衆も一緒に楽しめるはずなのだ。

面白くてためになる。 そんな作品は少ないけれど、たしかにある。 映画『マトリックス』や『スター・ウォーズ』は興行的にも大成功しているし、世界中で時の風雪に耐えてきたシェイクスピアの戯曲はその最たるものだ。 「もしもそんな作品を創造できたら」と考えただけで武者ぶるいがしてきた。

(矢印マーク 『ちょっとはマシな坐禅作法』【坐禅作法18】詳説ぷっつん体験)


その後は、潜在意識の活用法について書かれた本を読みあさり、それを実践しながら、一方で言葉の処方箋の編集と読誦を続けた。 やがて言葉の処方箋が完成をみた36歳の秋…第三の結節解放現象を体験することになる。 そのときの私には経典の文言と自分の言動を矛盾することなく調和させる方法が思いがけず身についていた。
(参考:「第三の結節」矢印マーク 『ちょっとはマシな坐禅作法』【坐禅作法13】クンダリニー覚醒と小周天)


バベルの試練

さて、ここで私のバベルの試練を図示してみるとこんな感じになるだろうか。

バベルの試練モデル(布施仁悟型)
図:布施仁悟(著作権フリー)


以上を踏まえて この疑問の解答を分析してみよう。

なぜ私は地上における使命を啓示され創造的知性を目覚めさせることになったのか?

R・シュタイナーは それは“オカルト文字”を学んだからだと説明している。 ちなみに私は、以前からオカルト文字と同じものを“バベル語”と呼んできたのだけれど、そちらの方がより適切だと思うので、かたくなにバベル語という名称を推奨したい。
(参考:「バベル語」矢印マーク 【坐禅作法72】21世紀のルネサンス宣言)

R・シュタイナーの説くバベル語の学習

火の試練を通過したあと、神秘修行をさらに続けようとするなら、今度は、神秘修行と結びついている文字体系を解読しなければならない。 この文字体系の中で、本来の神秘教義が開示される。 本当に「隠れた(オカルト的)」なものは、直接通常の言語で語ることも、通常の文字で表記することもできない。 勿論導師から学んだ神秘教義はできる限り通常の言語に翻訳されねばならない。 しかし霊的知覚を獲得したとき、常にオカルト文字が魂に直接語りかけてくる。

(R・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』P.094「霊界参入の三段階」)


ここでR・シュタイナーがまず語っているのは、真理は言葉で語ることも文字で表わすこともできないものだから、経典に書かれている言葉は真理そのものではないということである。 しかし、そこに秘(かく)された真理を読み取る知覚を獲得したときには、バベル語が魂に直接響いてくると云っているのだ。 『法華経』では、このバベル語のことを“妙法蓮華経”と呼んでいる。

さらに『法華経』では、妙法蓮華経が聴こえてきた者は すぐにでも伝道を始めよ、と説くのだけれど、その理由をR・シュタイナーはこう解説している。

R・シュタイナーの説くバベル語習得の効果

神秘学徒はこの記号法を通して生活上の特定の規準をも学ぶ。 これまで知らなかった或る種の義務に気づくようになる。 そしてこの生活上の規準を知ったとき、未参入者の行為の中にはまったく含まれていないような意味を持つ事柄を遂行できるようになる。 彼は高次の世界の立場から行為する。 このような行為の指針は上述した秘密文字の中にのみ見出されうる。

(R・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』P.096「霊界参入の三段階」)


経典や聖典を繰り返し読み込み、経典の文言と自分の言動を矛盾することなく調和させる努力を続けていくと、正しい生活上の規範を知ることになる。 その規範は法律や世間一般の道徳規範から伺(うかが)い知ることは決してできないものだ。 なぜならそれは魂に直接響いてくるバベル語によってのみ認識できるものだからである。

だからバベル語を学ぶと言っても、それは経典や聖典から学べるものではない。 ただ魂に直接響いてきたバベル語が経典や聖典にも書かれていることを確認できるだけなのだ。 そのバベル語が聞こえてくると、やがて― 彼は高次の世界の立場から行為する ―ようになる。 つまり、地上での使命を啓示され、正しい願望を抱くようになる。
kansiketu
「師の亡き後どのように修行したらよいのか」と問う弟子・アーナンダに、釈迦の示した最後の教えは「まず自らを拠りどころとし、しかる後に、法を拠りどころとせよ」というものだったらしい。 私がやったのも、まさしくそれである。 まず、第一の火の試練の見性により、みずからに明かりを灯(とも)し、次に、バベルの試練でバベル語を学び、法の明かりを灯した。

バベルの試練のテーマを定義してみよう。

バベルの試練のテーマ


バベル語が聞こえてくるようになったら、凡人とバベル語の使い手を見分けられるようになるに違いない。 道徳規範の延長線上でしか経典の教えを読み取ることのできない者が凡人である。 しかも、そのことに気づいてもいない者が凡人なのである。

世にばべる語なるものあり。愚痴なるものには読めず聞こえず、いとあさまし。

(2015.4)

矢印マーク 『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』

坐禅修行のプロセスを正確に記述してある唯一の本。
(2011年1月現在・ボク調べ)
こういう本が市場に出回っている現在、
秘密にしておくことなんてもはや何もないはずである。
そろそろまともな禅書を誰かが出版しても
いいのではないだろうか?

青雲水

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