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【坐禅作法88】無意識の壁

ちょっとはマシな坐禅作法 無意識の壁〜縁覚道の地図8〜

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〜縁覚道の地図8〜


“普通”は意外に難しい

ここに美味なる“おはぎ”がある。

作ったのはとあるおばあちゃんだ。 このおはぎ名人に、どのようにして作ったのかを尋ねると、おばあちゃんは こんな風に答えてカラリと笑う。

「なんのことはないの。普通に作っただけなんだから」

これまで塩加減や小豆(あずき)ともち米の銘柄やその炊き方などの詳細なレシピを教わった人はいたけれど、その誰一人として、おばあちゃんの言っている“普通”の正体を突き止めることはできなかった。 このおはぎ名人のおはぎは、おばあちゃんの死後には誰も食べられなくなるだろう。 いや、もしかしたらレシピさえ残しておけば、“普通”の正体を暴き出し、おはぎ名人の味を復活させる者がいずれ現れるかもしれない…。

観察(ヴィパッサナ)の技法は このおはぎ名人のレシピみたいなものだ。 そこにはレシピだけでは伝えることのできない熟練者だけが知っている“普通”がある。 その“普通”の正体を体得できなければ見性することは難しい。 その見性を阻んでいるものが“無意識の壁”だ。

見性のテーマ


見性といっても求められていることはそれほど大それたことではない。 無意識の壁にしたところで、乗り越えてしまえば案外あっさりしたものである。 たとえるなら自転車の乗り方を覚えるようなものだろうか。 心に多少のすり傷を負うことを覚悟すればいい。 たった…それだけのことなのだ。

観察の技法を使って自我の動きを観察し、己れの醜さやこずるさや臆病な所などを見つけ、それまで築き上げてきた理想的な自己像―ペルソナ―を脱ぎ捨てることができれば、誰でも見性できる。 だから私は、火の試練の最中の32〜33歳の頃、自分が何をやっているのかを知るよしもなく、あっけなく見性してしまった。 たまたま観察の技法である心随観の存在を知って、実践してみたら、偶然にも理にかなった瞑想をしてしまったというだけのことなのだ。

それはあたかも、月面宙返り(ムーンサルト)をやってみたらいきなりできてしまった、というような特殊なケースなのに、 この一件のおかげで、心随観の存在さえ知れば誰でも“普通”に見性できる、と思い込むようになってしまったのである。

しかし、その“普通”が意外に難しいものだと知ったのは40歳になってからだった。

赤雲水

無意識の壁と精神分裂症

黒雲水

私が38歳のころ、30歳になるかならないかの若者に観察の技法である心随観の存在を教えた。 ちょっとばかり特異な素質を持っていた彼は、予想以上に真剣に技法を学んでいったため、早々に見性してしまうその日を私は心待ちにするようになったものである。

ところが見性しようとする気配がまるでない。 無意識の壁の前で立ち止まって、いつまで経っても己れの愚かさを直視しようとしないのだ。 ただ非常に真面目な修行者ではあったから、あれこれの本を熱心に読んでいて、着実に知識を蓄えながら、それなりに成果を挙げている様子ではある。 私の見性した32-33歳までは、もうしばらくの猶予があったこともあり、そういうものかもしれない、などと私は楽観視していた。

そうした小康状態が二年ばかり続いた後、突如として現れた彼は精神分裂症の初期症状に侵されていて私に噛みついてきた。 私と彼との関係を精神科医のフロイトとユングの関係になぞらえ、フロイトに訣別を告げたユングきどりで言いがかりをつけてきた彼は、そのとき32歳になろうとしていた。

青天の霹靂(せいてんのへきれき)だった。

これが悪戯(いたずら)に過ぎて飼い犬に噛まれたというのなら裏切られたという感覚はないだろう。 でも、このときの私は、彼が無意識の壁を乗り越えるその日を心待ちにしていただけなのに、何でこんな仕打ちを受けなければならないのか、さっぱり理解できなかった。

こういうときは不思議なもので、べつに腹が立つわけでもない。 ただ何をしたらいいのかわからなくなる。 しばらくして思いついたことと言えば、ただ寝ることだった。 目が覚めたとき、そこに事実として残っていたのは、私の最初の心随観の指導は精神分裂症患者を生み出して失敗に終わった、ということだった。

悟りの軌道理論の発見は、その後に精神分裂症のリスクを回避するための禅体系を模索する中で、偶然ひらめいた副産物みたいなものでもある。 もしもこの理論を公開する試みが成功裏(せいこうり)に終わるなら、私も少しは救われるだろう…ということだ。


坐禅指導の本質

それ以降、心随観の指導方針を変えることにした。そのヒントを天台大師の『天台小止観』に見つけて。

矢印マーク 現代語訳 天台小止観


坐禅指南書の横綱。 ここから入れば間違いなし。


天台大師は、涅槃(さとり)に至る道を行こうとするなら、“止”―禅定による解脱の徳―と“観”―観察にもとづく般若(智慧)の徳―をどのみち身につけることになると説く。

止観礼讃

涅槃(さとり)へ至る方法には、種々多様な入口があるけれど、その肝心かなめの筋道をたどれば、止観の二法に行きつかない法はない。

(『天台小止観』序)


これは禅史にのこる名句であろう。 入門時にこの言葉に触れた私は、覚えるつもりもないのに自然に思い出されてくるため、何の苦もなく暗記してしまった。

さらに『天台小止観』では止観の双修も強調されている。

止観双修

まさに知るべし。 この止観の二法は、車の両輪、鳥の両翼のごとき関係にある。 どちらかにでも偏(かたよ)って修習(しゅじゅう)すれば邪見、邪倒に堕ちることは間違いない。 そこで仏の教えには、ひたすら禅定の至福ばかりを求めて般若(智慧)を学ぼうとしないものは、これを名づけて“愚か者”と言い、 ひとえに般若ばかりを求めて禅定の至福を味わおうとしないものは、これを名づけて“狂人”と呼ぶ。

(『天台小止観』序)


ところが天台大師の『天台小止観』のおもしろいところは、“止の技法”― つまり禅定に入る技術ならば詳細に記述してあるのに、“観の技法”― すなわち心随観の技法については一言も触れていない。 観察については、その技法ではなく、その種類であるとか、その効果であるとか、そんなことばかりを説いている。 観察の技法を求めて読むと、いきなり肩すかしを喰らってしまうテキストなのだ。

それはなぜか?

私が最初の心随観の指導に失敗した理由は観察の技法の存在さえ知れば誰でも見性できると思い込んでいたことにある。 つまり…

― 私が心随観の技法を知る以前に“普通”に身につけてしまっていた何か ―

それが無意識の壁に風穴を空ける要因であったのに、観察の技法そのものが突破口を開くと勘違いしていたところに盲点があった。

その“普通”の身についていないうちに観察の技法を知って実践してみたところで、どこをどう観察したら、無意識の壁に風穴を空け、自我を暴露し、見性に至ることになるかは一向にわからない。 かえって技法に信頼を置いて依存すればするほど見性は遠ざかるばかりだ。 ところが“普通”を身につけてさえいれば、あえて観察の技法を教わらなくとも見性に至ることは十分可能になる。 修行者の中に目覚めた根源への帰巣本能が技法の知識の欠落を補ってくれるからだ。

すなわち、坐禅指導の本質は、眠っている帰巣本能を目覚めさせることになければならない。

青雲水

懺悔の鉄則

緑雲水

その点で、天台大師の指導法は大胆不敵だった。 “普通”の身につけ方だけを教えていたのである。 その方法論は『天台小止観』はじまりの第一章「修止観法門 具縁第一」にいきなり登場してくる。 この構成は見事としか言いようがない。

懺悔の鉄則
(『天台小止観』 修止観法門 具縁第一)


“普通”を身につける鍵は“観察の技法”ではなく“懺悔”にあったのだ。

これは完全に見落としていた。 たしかに、33歳で“ぷっつん体験”に至る以前の32歳の頃、私は徹底して懺悔の行をやっていたのである。 それこそアリを一匹踏みつぶしたことに至るまで、とにかく過去のトラウマになっていることを思いつくかぎり懺悔しまくった。 そこには正しいも間違ってるも善いも悪いも関係ない。 ただトラウマを退治したい…その一心で懺悔した。

これによって、それまでの常識の殻が破れて常識に凝り固まった己れのオツムを疑うための心構えが出来てきた。 それは周囲に起こる出来事すべての原因と結果の責任をみずからの心の有様(ありよう)に求める覚悟でもあった。

<<もしかしたら自分が間違っているかもしれない…>>

この疑問を発して己れのオツムを疑う心構えは、懺悔の行を徹底してやらなければ身につかないだろう。 これが見性の土台となるのだ。 さらには各運命の試練を乗り越えるための推進力ともなる。

したがって第一の火の試練のテーマはこういうことになるだろう。

第一の火の試練のテーマ


また私の第一の火の試練の過程を時系列で図示すると以下のようになるのだけれど、このうち興菩提心体験ぷっつん体験は32歳の懺悔の成果として昇り始めた見性の階梯を意味している。

第一の火の試練モデル(布施仁悟型)
図:布施仁悟(著作権フリー)


また、私の場合は延髄の経穴活性第一、第二の結節解放といったクンダリニー活性現象の体験が見性の内的体験の進捗と完全にリンクしていた。 しかしながら、修行者のなかには見性の内的体験を経ることなくクンダリニー活性現象だけを経験する者がいる。 たとえば白隠禅師の24歳の変性意識体験はそのケースに相当したため、正受老人は白隠を叱責したのだ。
(参考:「延髄の経穴活性」「第一の結節」「第二の結節」矢印マーク 【坐禅作法13】クンダリニー覚醒と小周天)

この事実は、くだんの32歳で精神分裂を起こした修行者が白隠と同じ年頃に変性意識体験をしていたことから判明したなのだれど、そのおかげで、私とは別の悟りの軌道の存在が明らかになってきた。 その推理の真相は後ほど解説することにしたい。

とにかく興菩提心体験とぷっつん体験という二段階の見性を内的に体験したことで、私の中からトラウマが消えた。 それはどうやっても払いのけることのできなかった人生の暗雲― 原罪意識 ―みたいなものである。 それが無くなったことこそ見性の最大の成果だった。

もっぱら懺悔に心して 犯すところの重き罪
           滅する姿をとらえたら そこではじめて止めてよし

(天台大師『天台小止観』 修止観法門 具縁第一)

天台大師の云うとおりで、それまで自分を苦しめていた原罪意識の原因が自分の心の有様(ありよう)にあったと気づけば、後は心の使い方を変えればいいだけだ。 興菩提心体験とぷっつん体験の内的体験を経れば、その正しい心の使い方がわかってくる。 ここから自分の人生航路をきり拓く発想が次々に生まれてくるのである。 人生を暗く覆っていた闇が次第に晴れて来るのである。

第一の火の試練の効果

「火の試練」のあと、志願者はそこから立ち戻り、物的な面でも、魂的な面でも、力強さを得て、人生を継続する。 霊界参入の過程は来世においてはじめて継続されることもある。 しかし現世においては以前よりも、もっと有用な社会の一員となる。 どんな状況においても、何ものにも惑わされぬ彼の見識、周囲の人へのよき感化力、ゆるぎない決断力を彼は今まで以上に示す。

(R・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』P.094「霊界参入の三段階」)


― 「火の試練」のあと、志願者はそこから立ち戻り、物的な面でも、魂的な面でも、力強さを得て、人生を継続する ―
(R・シュタイナー)

この第一の火の試練の効果は、懺悔によって無意識の壁に風穴を空けた内的体験を持たないうちは、逆立(さかだ)ちしたってわからないだろう。

こうして第一の火の試練を通過してほどなくすると、ある種の知性が発現してくる。 すると自分の話す言葉が変わる。 それがバベル語だ。 それは見性した者同士にしか話すことのできない言語である。 禅者はバベル語の熟練度で相手の悟境を量るのだ。
(参考:「バベル語」矢印マーク 【坐禅作法72】21世紀のルネサンス宣言)

(2015.4)

矢印マーク 『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』

坐禅修行のプロセスを正確に記述してある唯一の本。
(2011年1月現在・ボク調べ)
こういう本が市場に出回っている現在、
秘密にしておくことなんてもはや何もないはずである。
そろそろまともな禅書を誰かが出版しても
いいのではないだろうか?


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