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【坐禅作法87】試練の課題

ちょっとはマシな坐禅作法 試練の課題〜縁覚道の地図7〜

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〜縁覚道の地図7〜


私はいま、未開の荒野を切り拓こうとしている

運命の試練は、ひたすら私を挑発し、揺り動かした。

そこにどんな課題や段階があるかなんて考える余地も無かった。 だから運命の試練を透過した者なら誰もが「とにかく夢中で生きてきただけなんだよ」と答えるしかないのだろう。 もう何がなんだかわからなかった…というのが乗り越えた後に残る印象なのだ。

たしかに運命の試練の概要については、R・シュタイナーの『いか超』に定義されているし、私もそれを早い段階で読んではいたけれど、その意味がわかってきたのは試練の始まった32歳から9年経った41歳になってからだった。 私は それと意識することなく運命の試練に取り組んでいたのだ。 もしもR・シュタイナーの定義がなかったら、こうして自分の来し方を振り返ることもなかったとおもう。

この運命の試練を乗り越える力は書物からは決して得られない。 それは伝書鳩の持つ帰巣本能のように己れの中から湧きあがってくる。 したがって、どんな正師であろうと力そのものを伝授することはできないだろう。 彼にできることと言えば、弟子みずからが帰巣本能を引き出す方法を教えることだけなのだ。

また、もっぱら天然の帰巣本能で悟った天才肌になると入門者に伝えるべき言葉を何ひとつ持たない場合がある。 彼らの運命の試練に対する無関心は、どうやって帰ってきたのかを尋ねても、目を白黒させるばかりの伝書鳩を想起させる。 一緒になって目を白黒させたところで何も得られないことは云うまでもない。

根源に帰還する道を定義する言葉は、悟後の修行(ごごのしゅぎょう)として学ばれ、時代や地域に合わせて発明され続けなければならないものなのだ。 しかしながら、釈迦の生誕以来2500年も経っているというのに、運命の試練を言葉によって定義する試みには、ほとんど手つかずの荒野が広がっている。 私はいま、その未開の荒野を切り拓こうとしているのだ。

それには一つの理由がある。

私が40歳を迎ようとしていた2014年の新春、あるインターネットサイトを発見した。

矢印マーク 鬼和尚の仏教勉強会

このサイトはインターネットの宝だ。
まさしくWWW時代の奇跡である。
時代の転換期を目撃せよ!


そこにあった文章を読み始めた途端に心底たまげてしまったため、そのとき息をしていたかどうか覚えていないほどだ。 鬼和尚と名乗るその書き手は、なんと真実、悟っていたのである。 行ったこともないどこかの国や遠い昔の記録の中にしかいなかった覚者が同時代の日本にいてインターネットで説法を展開している。 しかも、そればかりではない。

「悟りの道をできるだけ正確な言葉で定義して伝える」

それがその人物のライフワークだったのだ。 その先駆者といえば釈迦であり、その後、その点において釈迦を凌駕する人物は現れていない。 むしろ、釈迦に続いた者たちは、言葉で定義することをないがしろにしてきた、と言えるだろう。 たとえば、声聞道と縁覚道の違いや見性の意味は、その定義が当初から曖昧だったため、時代の変遷とともに誤解を生み出し、修行者を邪道に導く原因にもなってしまった。 ところが、その善知識は、生まれ変わった釈迦のごとく、誰も手をつけようとしなかった未開の荒野をたった独りでガンガン切り拓いていたのだ。 してみれば、この人物は2500年に一人の逸材ということになる。

そのとき私はインターネットという自由の象徴がもたらしたWWW(World Wide Web)時代の奇跡を目撃したのだ。 WWWの技術は特定の個人や組織によって独占されてはいない。 独自の開発や拡張も自由でどこかの団体に利用許可を求める必要も無い。 WWWの開発者たちは、そうした自由な環境がもたらす可能性に夢を託して、その技術を惜しげもなく無償公開したのである。 私が『肴はとくにこだわらず』というホームページを作成して、坐禅修行体験記を書き始めたのも、その心意気に呼応してのことだった。

「これこそ、われわれの待ち望んでいた奇跡だ!」

元システムエンジニアの私は興奮を隠せなかった。 おそらく、この出来事がなければ悟りを目指そうなどとは考えなかったとおもう。 なにしろ私は「大悟の実現可能性は果たして何パーセントあるのだろうか」などという発想をする人間であるからして、悟りの地図を手に入れないうちから歩み出すはずもなかったからだ。

私が善知識のインターネットサイトを参考に縁覚道の地図を描いていると、ほどなくして、この善知識に倣(なら)って己れの体験から定義を導き出し、禅体系の破壊と再構築をしてみたいと思うようになった。 きっと、それは…

― 人類の運命の結び目がその中に結びこめられているようなこと ―
(ニーチェ『この人を見よ』「ツァラトゥストラ」5)

37歳で最初の着想を得た前作『ちょっとはマシな坐禅作法』と40歳の秋に最初の着想を得た今作『かなりキワどい坐禅作法』は、ある抵抗しがたい特別な力に突き動かされるようにして書いている。 ろくな地図も存在しない道を帰巣本能だけをたよりに歩むしかなかった時代が、ここから大きく変わるのだろう。 この時代の転換期に生まれ、ささやかな文才を授けられたことを光栄におもう。 ただ「禅体系の破壊と再構築」という重厚な主題だけに、もしかすると面白がっているのは私だけなのかもしれない…。

矢印マーク この人を見よ (岩波文庫)


たしかにニーチェはワカッテる。
だけど、こいつは劣等感のカタマリなんだ。
自分の中にいるニーチェに気づけば、
発狂の危機を乗り越えられる。

赤雲水

見性の定義

黒雲水

まあ、それもいいだろう。 本題である運命の試練の課題について少しずつ明らかにしていこうか。

運命の試練モデル(布施仁悟型)
図:布施仁悟(著作権フリー)


まず、火、水、風の各試練にはそれぞれを貫くテーマがある。 それは善知識の定義した言葉のなかにあった。

運命の試練のテーマ


己れの行いの原因と結果をあるがままに受け入れる覚悟を決めると、己れの心のありように責任を持つようになり、やがては自我の完成に至る。 さらに、その完成された自我の放棄に乗り出すなら、悟りの最初の段階へ突入する。 すなわち、自我は修行者によって完成され放棄されるために存在している、ということだった。

この自我の完成と放棄の過程をそれぞれ運命の試練に当てはめるとこういうことになる。

各運命の試練とテーマの関連図
図:布施仁悟(著作権フリー)


声聞道における試練は、自我の完成過程にあたり、縁覚道における試練は、自我放棄の過程にあたるのだ。 このことから縁覚道の入口にある頭脳分裂開始以降に一部の修行者が精神分裂症を起こす理由を推測できる。 おそらく、いまだ自我を完成していないのに、禅定によって無理やり自我を放棄しようとするからなのだろう。 一般の坐禅堂で「神経症の人は症状が悪化することもあるため坐禅はおすすめできない」とされるのも、このせいなのかもしれない。

さらに、これら運命の試練の最中に必ず透過しておかなければならない課題として見性(けんしょう)というものがある。

― 禅は第一悟を先にして、悟にまかせ修行すれば、日々夜々安楽なり ―
(至道無難禅師『即心記』)

江戸時代の名僧・至道無難禅師は、悟りは修行のゴールではなく、最初に得ておくべきものだと語っていた。 その最初に得ておくべき悟りが見性なのである。 禅の歴史において、この見性という言葉が最初に登場したのは中国唐代・六祖慧能の語録『六祖壇経』なのだけれど、 その意味するところは時代とともに忘れ去られ、現代では単なる変性意識状態を指す言葉になってしまっている。

その元凶は誰かといえば、ずばり、江戸時代の名僧・白隠禅師であろう。 24歳のときに体験した単なる変性意識状態を見性と勘違いした白隠は、幸か不幸か、そののち見事に大悟して500年に一人の逸材と呼ばれるまでになった。 禅師は、至道無難の弟子にあたる正受老人に会ったときに、その見性が勘違いであることを指摘されたにもかかわらず、晩年になっても「私は24歳で見性した」と言い張ったのだ。 この耄碌(もうろく)ジジイのおかげで、わが国の禅界では、このときの禅師の勘違いが そのまま見性の典型例として語り草になってしまっている。 白隠禅師のカリスマ性ゆえに、その誤解の根は極めて深い。

やはりこの見性という言葉は再定義されなければならないだろう。 21世紀の正統の禅の入門者は、以下の善知識による定義を最初から噛みしめておくといい。 というか…暗記しちゃいなさい。

見性のテーマ


また、この見性には、いくつかの段階があり、それを表現したものが悟りの階梯を絵にした十牛図(じゅうぎゅうず)なのである。

つまり、悟りの階梯とは見性の階梯であり、しかも、その階梯は実際に見性の内的体験を透過してきたものにしかわからない。 別言すると、見性した者は見性の階梯の昇り方をみずからの内的体験を通して知っているため、見性している者と見性していない者の区別がつくようになる。 すなわち、相手の悟境を見抜く般若(智慧)が自然に身についてくるのだ。 悟りの階梯を知るのであるから祖師の足跡も見性すればみえてくる。

三徳の関連図(修正第二版)
図:布施仁悟(著作権フリー)


この天台大師の三徳の関連図で、悟りのメインロードは観察による般若の徳の方にあるとしたのには、そうした理由がある。 見性とは己れの自我を観察した結果にほかならず、また、見性しなければ般若(智慧)は発現してこないからだ。

それから、もうひとつ。 頭脳分裂開始以降から集中による解脱の徳(禅定)を体験できるようになったとき、精神分裂症を引き起こす修行者がいる。 彼らの共通点は、見性の階梯を一段も昇り始めていなかったことにある、とつけ加えておこう。

さてさて、第一の火の試練で私が体験したのは、まさしく、その見性であった。

(2015.4)


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