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【坐禅作法83】試練の意義

ちょっとはマシな坐禅作法 試練の意義〜縁覚道の地図3〜

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〜縁覚道の地図3〜


初心者と熟達者の智慧の違い

祖師の足跡こそが仏法を学ぶ修行者の道標(みちしるべ)となる。

しかしながら、祖師方は詳細な修行記や自伝を書き残そうとしなかったため、その足跡は雪原に迷ったペンギンの足跡のように心もとない。 多くの足跡は、古来あいまいな形式で語られ、書物に記されてきた。 たとえば『十牛図』のような画として、あるいは『法華経』にあるたとえ話のような物語として。

その理由の一つには初心者に説明したところで理解不能だからということがあるだろう。 体験的に得られた智慧をその体験を通過したことのない他人に説明するのは難しいものだからだ。

初心者と熟達者の知恵の違い

すでに行を積んだ人は、初心者が自分について語るのとはまったく別のところから、その進歩の状態を評価する材料を得ている。

(R・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』P.150「霊界参入が与える諸影響」)


禅の修行は二つの水源にはじまり、それがやがて合流する。 これを天台大師は三徳で表わしてみせた。

三徳の関連図(修正版)
図:布施仁悟(著作権フリー)


初心者は このうちの解脱の徳についてのみ語る。

丹田がどうしたとか、気がこうしたとか、禅定に入ったとか入らないとか…。

もちろん、解脱の徳の流れには そうした禅定の階梯もあるのだけれど、祖師方が修行の進捗状況を判断するために利用していたのは、そちらではない。 智慧の階梯、すなわち、般若の徳の方なのである。

― 仏にあらぬは仏の眼(まなこ)をそなへず ―
(道元『正法眼蔵』唯物与仏)

― しらねばすべて仏の路(みち)のあとをばたどりぬべし。このあと、もしめにみえば、仏にてあるやらんと、足のあとをもたくらぶべし ―
(道元『正法眼蔵』唯物与仏)

道元禅師が“仏の眼”と呼んでいたものが智慧であり、“仏の路のあと”と表現していたものが智慧の階梯のことなのである。 このことは初心者に説明してみたところで中々理解できないものらしく、こういうことがしばしば起こる。

初心者と熟達者の知恵の違い2

はじめて伝授を受けた人は、自分の体験内容をいくら打ち明けても、霊的修行を積んだ人があまりにわずかしかそのことに「好奇心」を示さないのに驚くのが普通である。

(R・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』P.150「霊界参入が与える諸影響」)


それは、あたかも、己れの体験した禅定の証果に対して、こんな素気(そっけ)ない言葉が返ってくるかのような感覚をおぼえるのだろう。

― そんなことが本当かどうかなんて大した問題じゃないんだよ ―

どうやら自尊心(プライド)を傷つけられたと勘違いするらしく、なかには逆ギレする者も少なくない。 私が大悟に至る禅の階梯を調べはじめた40歳の頃にも、運営していたブログのコメント欄で、そうした初心者たちから続けざまに罵声を浴びせられたことがある。

矢印マーク 『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』

坐禅修行のプロセスを正確に記述してある唯一の本。
(2011年1月現在・ボク調べ)
こういう本が市場に出回っている現在、
秘密にしておくことなんてもはや何もないはずである。
そろそろまともな禅書を誰かが出版しても
いいのではないだろうか?

赤雲水

精神分裂症の問題発覚

黒雲水

ある者は「私はヘソに脳味噌があるのだ」と豪語し、別のある者は「天台大師の三徳は大間違いで、そんなものを掲載するインターネットサイトは世の中の害毒である」とブログの閉鎖を迫ってきた。 さらには、他人が読んだら精神分裂症患者の書いたものと判断されても仕方のない文章を書いておきながら「普通のコミュニケーションはできる」などと言ってのけた者もいる。

当初は、そういう初心者を“禅定バカ”と揶揄(やゆ)する私の過激な発言が、火に油を注いだ形になり、逆上させてしまっただけかもしれないと思ったのだけれど、事態は予想以上に切迫していた。 そのうちの数人が、頭脳分裂の段階に突入して禅定を体験していたにもかかわらず、感情と意志と思考の制御がまったく利(き)いていなかったのだ。

運命の試練について書いた私の記事内容に反論してくるのだけれど、著(いちじる)しく誤読していて何一つ理解できていない。 書物から得られる知識と内的体験から得られる智慧の違いにすら気づいていないから、自分に都合の好い解釈を勝手にでっちあげてくる。 そのため、智慧の階梯の最初の一段目すら昇り始めていないことは明らかだった。

そのくせ彼らは、まるで頑是(がんぜ)ない子供がお誕生日プレゼントで手に入れたおもちゃを自慢するかのように、自分の体験した禅定の証果を認めてもらいたがった。 けれども私が彼らの中に認めたのは典型的な精神分裂症の症状だけだったのである。 その症状の一つ一つを暴露されればされるほど、烈しく逆上するばかりだった。

もはや手遅れである。

こうした症状が始まってしまった場合について、R・シュタイナーの『いか超』には「流産してしまった」とか「取り返しのつかない状況」としか書かれていない。 このうちの“流産”というのは最も適切な表現のように私には思われる。 それは、子宮の外で生きていくのに十分な力を持たなかった胎児が自然に失われること。 流産を医学的に防止する方法はそもそも存在しないため、喫煙や飲酒や薬の服用を控え、周囲の環境を調えて精神を正常に保つように努力するしかない。 母親は、祈るように、願うように、胎児が五体満足で生まれてくる瞬間を待つ。 それと同じように、もとより原始的な予防法しか存在しない世界なのだろう。

結局のところ、私は、彼らにかける言葉が見つからなくなってしまった。


書物がかつての個人的な伝授の代りをしなければならない

しかし、こんなことがあってよいものだろうか。

さだめし“精神分裂”や“発狂”という悲劇を目指して坐禅修行を始める者など一人もいるまい。 なのに、現代はこうした修行者が後を絶たないのである。

その点、往古(いにしえ)は良かった。

秘法は、互いに惹(ひ)かれあうようにして出会った正師と上根機(じょうこんき)の修行者との間で口伝され、奥義の書かれた書物は、厳重に保管されて秘伝となった。 まことに法灯は、師から弟子へ、心から心へと脈々と伝えられていったのだ。

こうした以心伝心の方法は、美しき伝統であったし、中・下根機の修行者を精神分裂や発狂の危険から守る手段でもあったのだろう。 そのため、祖師方はわざと己れの足跡を消してしまったし、暗号のような形でしか足跡を残さなかったのかもしれない。

とはいえ、現代は勝手が違う。

奥義書は公開され、秘法はインターネットで検索するだけで簡単に手に入る。 身の程知らずの中・下根機の修行者は、それが上根機の者に向けて説かれたものであることすら知らされないまま、気軽にそれを手にしてしまう。 もはや祖師方の伝統を踏襲(とうしゅう)するだけでは立ち行かない時代になってきたのである。

そういう意味では伝統はすでに臨界点に達している。 いまやメルトダウンを待つばかりだ。

書物がかつての個人的な伝授の代りをしなければならない

「神秘道の修行者は個人的な伝授を必要とする」と書かれてはいるが、このことは書物そのものがこのような個人的伝授なのだという意味に解釈されねばならない。 かつてはこのような個人的伝授が秘密の口伝であらねばならぬ理由があった。 今日では、時代そのものが霊学上の認識内容をかつてよりもはるかに広く普及させるべき意識段階に達している。 以前とはまったく異なり、秘伝の内容はすべての人にとって、手のとどくものでなければならない。 したがって書物がかつての個人的な伝授の代りをしなければならない。

(R・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』P.263「第八版あとがき」)


― 書物がかつての個人的な伝授の代りをしなければならない ―

私もこのR・シュタイナーの主張に賛同するものである。 なにしろ、私には正師がいなかった。 したがって、書物がなければ坐禅修行を始めていなかっただろうし、書物こそが祖師の足跡を知る手がかりとなってくれたからだ。

しかしそうなると祖師方が秘伝や奥義という伝統形式で回避しようとした“修行に伴う危険”に対して十分な配慮が必要になってくる。 その配慮として、R・シュタイナーは『いか超』に“運命の試練”を書き残してくれていた。 それは上根機の修行者が秘伝や奥義を伝授される以前に自力で通過していた修行の階梯。 すなわち、従来の伝統的な奥義書や秘伝に欠落している前段階的基本プロセスなのである。

R・シュタイナーの説く運命の試練についての情報不足

「試練」については、しばしば書物の中でも語られている。 けれども概して正しい観念を与える書物は少ない。

(R・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』P.092「霊界参入の三段階」)


20世紀初頭にR・シュタイナーが『いか超』で成し遂げた成果は、残念ながら、この百年もの間、誰もそれを敷衍(ふえん)して体系化しようとしなかった。 20世紀に覚者と呼ばれた指導者たちにしても、“運命の試練”には軽く触れるだけで、相変わらず秘伝や奥義の伝授に終始していた。 そのため、多くの入門者は“運命の試練”の存在に首をかしげることだろう。

それでも、というか、それだからこそ、運命の試練が存在する理由を一度考察してみるべきだとおもう。 おそらく、涅槃に至る道には二つの手法があることは薄々気づいているに違いない。

一、輪廻転生すること
二、坐禅修行すること

輪廻転生の道をゆく人は、何度も転生して人生経験を重ねながら、秘伝や奥義を授かる段階にふさわしい智慧を獲得するべく成熟を遂げる。 これを時の流れに乗ってゆく悠久の手法とするなら、坐禅修行は未確認飛行物体に乗ってワープホールを抜けようなどという狡猾(こうかつ)の手法である。 ずる賢く急速な進化を遂げようとするのであるから、当然のごとく、通常なら輪廻の先に待ち受けている人生の諸経験を何らかの形で代替することが求められる。

それが運命の試練なのである。

そのため、輪廻転生の道をゆく人たちよりも苛刻(かこく)な季節を一定期間すごさなければならない。 秘伝や奥義書においては、最初から禅定に入ることが求められているけれど、それは上根機の修行者に向けて説かれているもので、彼らにしても、その前段階としてこの苛刻な運命の試練を必ず通過していたのである。

R・シュタイナーの説く運命の試練の意義

もし今日、誰かに霊界参入が許されるとすれば、輪廻転生の中で、秘密の伝授を受けるにふさわしいところにまで進化するために積まねばならぬ諸経験をその人は通過しないで済ますことになる。 それ故霊界参入の門前で、そのような未来の諸経験が何か別の仕方で代償される必要がある。 したがって霊界参入を志す者への最初の指導は、未来の諸経験をいかに代償しうるかである。 いわゆる「試練」がこれに当たる。 志願者はこの試練を通過せねばならない。 それはこれまで本書が述べてきた修行を正しく続けてきた者にとっては、当然の結果として現れてくる。

(R・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』P.091-092「霊界参入の三段階」)


とすると…運命の試練によって智慧の階梯を昇る般若の徳は、頭脳分裂の進行によって禅定の階梯を昇る解脱の徳のはるか以前に身につけ始めなければならないことになる。

天台大師の三徳をちょっと修正してみよう。

三徳の関連図(修正第二版)
図:布施仁悟(著作権フリー)


禅定の前段階としてまず智慧を身につけることを求められているのであってみれば、智慧が身についていないうちに密教的行法によって禅定に入れるようになったところで、そんなものは免罪符にならない。 入門者がいきなり最初から禅定を目指すことは、精神分裂や発狂の悲劇につながることにもなりかねない危険を孕(はら)んでいるのだ。

― そんなことが本当かどうかなんて大した問題じゃないんだよ ―

熟達者がしばしばみせる素気ない返答の意味が今こそわかっただろうか。

まず運命の試練を受けて立つことが入門者にとって安全確実な正道となる。 これは「横断歩道は青信号で渡れば怖くない」というほどの真理なのだ。

(2015.2)

青雲水

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