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【坐禅作法82】解脱の徳と般若の徳

ちょっとはマシな坐禅作法 解脱の徳と般若の徳〜縁覚道の地図2〜

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〜縁覚道の地図2〜


38歳のニーチェショック

私がニーチェの『この人を見よ』を手にしたのは、38歳の秋、古本市でのことだった。

「なぜわたしはこんなに賢明なのか」
「なぜわたしはこんなに利発なのか」
「なぜわたしはこんなによい本を書くのか」

断末魔のごとく「俺の話を聞けえぇぇぇいっ!」と叫ぶその本を読んだとき、ずいぶん関心したものである。 ニーチェは、作家志望のくせにデビューの機会すら与えられずにいた私とまったく同じ発想をしていて、まるで代弁者を見つけたような気がしたからだ。

― もしわたしが今日すでに、わたしの真理をきく耳、そしてそれを受け取る手のあることを期待するとしたら、それは完全な自己矛盾だろう ―
(ニーチェ『この人を見よ』「なぜわたしはこんなによい本を書くのか」1)

― 今日誰もわたしのことばを聞かず、誰もわたしから受けとることができないのは、無理のないことであるばかりでなく、当然なこととさえわたしには思える ―
(ニーチェ『この人を見よ』「なぜわたしはこんなによい本を書くのか」1)

痛快だった。 いま読み返せば、ただの鼻持ちならないやつだから鼻クソでもくれてやるだろう。 しかし、当時はそれほど不快な気分にはならなかった。

― 他人の過失は見やすいけれど、自己の過失は見がたい ―
(法句経252)

それまでの私は肩にニーチェが乗っかっているという問題にまったく気づいていなかったのだ。 たとえるなら、ちょっと香水をつけすぎたくらいなものだろうか。 他人なら鼻につくのだろうけれど、本人はまったく関知しない。 飼い猫が胡散臭い目をして遠くから眺めるようになって、ようやく少しばかり気にかかってくるという程度のものだった。

<<まさしくその通りだよ、ニーチェ。ボクの天才を見抜けるのは君だけだろうし、君の天才はボクが保証しよう>>

ほとんどニーチェの崇拝者となって、古本市に集まった人々に向かい、「ここにつどいし凡人諸君、この人を見よ!」と宣言しそうになったとき。 私は本の表紙に書かれた文章を読んだ。

そこには、ニーチェはこの本を書いた直後に発狂した、とあったのである。

矢印マーク この人を見よ (岩波文庫)


たしかにニーチェはワカッテる。
だけど、こいつは劣等感のカタマリなんだ。
自分の中にいるニーチェに気づけば、
発狂の危機を乗り越えられる。


44歳からのことらしい。

ニーチェの代表作『ツァラトゥストラはかく語りき』は、ニーチェ37歳のときに着想を得ている。 当時の私が書き進めていた『ちょっとはマシな坐禅作法』という作品の着想も、同じく37歳のことだった。 自分が書いているというより、書かされているという不思議な感覚があって、ニーチェの言葉を借りるなら…

― 人類の運命の結び目がその中に結びこめられているようなこと ―
(ニーチェ『この人を見よ』「ツァラトゥストラ」5)

根拠もないのに、そうした確信を抱かずにはいられない体験をしていた。 そのため、ニーチェの発狂が他人事とは思えなかったのである。

<<似ている…あまりにも、似すぎている。私はこのままなら44歳になる頃に発狂してしまうに違いない>>

『ちょっとはマシな坐禅作法』という名の自費出版した作品を天高く突き上げ、「俺の話を聞けえぇぇぇいっ!」と街頭で叫んだ瞬間に、脳の血管がブチブチと音を立て、膝から崩れ落ちていく自分が見えた。 とにかく私は、その時から、肩に乗っかっているニーチェをどうやって振り落とそうかと真剣に考えるようになっていった。

44歳のニーチェに何があったのか。

ニーチェと同じ轍(わだち)を踏まないためには、それを知っておく必要がある。 そのヒントは、私が坐禅修行の規範としていたR・シュタイナーの『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』という本の中にあった。

矢印マーク 『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』

坐禅修行のプロセスを正確に記述してある唯一の本。
(2011年1月現在・ボク調べ)
こういう本が市場に出回っている現在、
秘密にしておくことなんてもはや何もないはずである。
そろそろまともな禅書を誰かが出版しても
いいのではないだろうか?

赤雲水

頭脳分裂と運命の試練

黒雲水

人間は この三つの状態を繰り返して生きている。

1.覚醒
2.夢を伴う浅い眠り
3.夢のない深い眠り

通常は、夢を伴う浅い眠りと夢のない深い眠りを覚醒時のように知覚することは困難だけれど、修行が進むにつれて、それまで意識を喪失していた眠りの状態を少しずつ意識的に体験できるようになってくるらしい。

この段階は坐禅修行の道標詩・三祖『信心銘』にも詠(うた)われている。

三祖『信心銘』十二

眼若不睡 諸夢自除 心若不異 万法一如

〜 眼(まなこ)にもし睡(すい)あらざれば、諸夢(しょむ)おのずから除(のぞ)かれん。心にもし異(い)あらざれば、万法(まんぼう)一(いつ)のごとし 〜

(意訳) 睡魔にわずらわされないほどに心眼がひらけてきたなら、もろもろの夢はおのずから除かれていく。 さらに心から異なるものを認める分別がなくなれば、あらゆるものごとは一つであると認識されるだろう。

(三祖『信心銘』)


この『信心銘』にある諸夢自除が始まる頃に起こる現象を頭脳分裂というのだそうである。

R・シュタイナーの説く頭脳分裂

人間が高度な霊的発達を遂げると、実際にたとえば頭脳は互に区別された三つの部分に分かれる。 勿論この分離は通常の感覚的な観察によっては認めることができず、どんな精巧な観察器械を使用しても証明できない。 しかしこの分離は、実際に生じる。 そして見者はそれを観察する手段を持っている。 優れた見者の頭脳はそれぞれ独立した働きを持つ三つの部分、すなわち思考頭脳、感情頭脳、意志頭脳に分れている。

(R・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』P.219「神秘修行における人格の分裂」)


この感情、意志、思考の各能力が独立して機能するようになる頭脳分裂は、エーテル体などと呼ばれる肉体よりも精妙な霊的身体で始まり、やがては肉体にも及んでくると云う。 この頭脳分裂によって、いわゆる不動心を得られるのだけれど副作用を生むこともあるらしい。

1.感情
2.意志
3.思考

R・シュタイナーによると、この三つの働きを制御できるようになるための運命の試練があり、その試練を通過することによって、感情・意志・思考が独立して機能するようになっても相互の均衡と調和を保つ能力を獲得できる。 したがって、その試練は、この頭脳分裂の現象が起こる以前に通過しておかなければならない。 というのも、その能力の獲得に失敗していた場合―高次の魂は流産してしまう―からだと説明してあった。

R・シュタイナーの説く頭脳分裂の弊害

なぜなら一度邪道に踏み入り、優勢な魂の力が無拘束状態に陥るなら高次の魂は流産してしまうからである。 その時には無拘束的な単一の力が人間の人格全体を支配する。 そしてふたたび均衡と調和を取り戻すことが長い間到底考えられなくなる。 神秘道を修行する以前には無邪気な性質と思われていたものが神秘修行者の場合、人生にとって必要な普遍的人間性をまったく失うまでに高められる。

(R・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』P.224「神秘修行における人格の分裂」)


要約してみよう。

独立して機能するようになった感情・意志・思考の各機構が、相互の調和と均衡を失い、どれかの働きが暴走状態に陥るなら高次の魂は流産してしまう…つまり、精神に異常を来たす。

それは無拘束的な単一の力が人間の人格全体を支配するから… たとえば、感情に支配されると、己れの意志力や思考力を見失い、精神世界の夢物語への依存性を高める。 一方、意志が暴走すると、感情と思考の働きを失うため、無感動になって冷静な判断力を損(そこ)なう。 きっとそんな人物がひとたびイデオロギーに突き動かされればテロリストにだってなるだろう。

また、思考が圧倒的な地位を占めると、感情と意志の機能が麻痺(まひ)して、日常の現実に無感動になり創造活動の意欲を失う。 そうなれば諸行無常に耽溺(たんでき)して自己閉鎖的な隠遁生活を始めるよりほかはなくなる。

つまり、本人は正気を保っているつもりでも、傍(はた)から見れば精神異常と判断されるような行動を繰り返すようになるのだ。

R・シュタイナーの説く頭脳分裂による精神異常

外から見ると、あるいはまた唯物論的な医学の立場からしても、このような邪道に陥った人間の姿は程度の差はあっても治療を必要とする精神病患者、あるいは重度の「神経症」患者と見做されてしまうであろう。

(R・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』P.223「神秘修行における人格の分裂」)


やがてはニーチェのように発狂する可能性もなきにしもあらずだ。

もしも『信心銘』にある諸夢自除の段階を抜けて万法一如の悟りの世界に入ったとき、感情・意志・思考の均衡と調和を保つ能力を身に着けていないければ、悟りの世界と現実世界の区別がつかなくなって発狂する。

R・シュタイナーの説く精神異常発生のタイミング

この事情は修行者が睡眠状態での霊的体験を日常の覚醒生活にまで持ち込む能力を獲得するようになった時、はじめて本当に深刻な事態を生ぜしめる。

(R・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』P.224「神秘修行における人格の分裂」)


この記述は発狂後のニーチェが知人に送りつけた奇妙な手紙の意味内容と符合している。

― 私が人間であるというのは偏見です…私はインドに居たころは仏陀でしたし、ギリシアではディオニュソスでした…アレクサンドロス大王とカエサルは私の化身ですし、ヴォルテールとナポレオンだったこともあります…リヒャルト・ヴァーグナーだったことがあるような気もしないではありません…十字架にかけられたこともあります。 愛しのアリアドネへ、ディオニュソスより ―

私はこうしてニーチェの発狂の原因は頭脳分裂にあることを突き止めた。 さらに発狂を避けるためには、R・シュタイナーの説く運命の試練とやらを通過して、感情・意志・思考の働き相互の均衡と調和を保てるようになれば良いことも明らかになったのである。

矢印マーク 『ブッダの真理のことば・感興のことば』

こなれた現代語で読める法句経。
私の仏教に対する誤解は この本で初めて解けました。


解脱の徳と般若の徳

さて、ずいぶん長い前置きになってしまったけれど、いよいよ解脱の徳と般若の徳の解説に移ろう。 われわれ修行者は一体何から解脱するのか。 R・シュタイナーはこう説明している。

― 人間は魂のいとなみを無意識的に行っている。しかし、修行者はこれを意識化する ―

R・シュタイナーの説く魂のいとなみの意識化

意識化することによって、彼の人生そのものを別のものにする。 魂は霊的意味で見えるようにならぬ限りは自分より上級の霊的存在たちによって導かれている。 そして、手術で目が見えるようになった人がこれまでのように手を引いてくれる人を必要としなくなるように神秘修行によって修行者の生活にも変化が生じる。 彼はもはや他者の指導を必要としなくなり、自分の生き方に自分で責任を負わねばならなくなる。

(R・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』P.214-215「神秘修行における人格の分裂」)


この意識化の入口が頭脳分裂にほかならない。

感情・意志・思考の三つの力が頭脳分裂によって独立する以前であれば、人間は自分より上級の霊的存在によって導かれている。 すなわち、この世の秩序を司(つかさど)る存在によって、感情・意志・思考相互の均衡と調和が保たれるわけだ。 しかしながら、それがために人間の感情と意志と思考はまったく無意識的な状態に置かれ続けてもいる。 あたかも小さな箱の世界の中で踊(おど)らされているあやつり人形のように…。

この世の秩序を司るはたらきは、法(ダルマ)や道(タオ)など様々な名称で呼ばれているけれど、自我が人間を小さな箱の世界に閉じ込めてしまっている。 したがって、とにもかくにも、自我の造り出す小さな箱の世界のカラクリを暴かないかぎり、人間は夢遊病者のごとく生きざるをえない。

そのカラクリを暴く手段が坐禅ということになる。 坐禅修行によって自我の造りだすカラクリを解けば、その状況から脱け出して、意識的に生きることが可能になってくるというわけだ。

かかるがゆえに解脱。 この解脱門の入口に位置する現象が頭脳分裂なのである。

だからといって、感情・意志・思考という三つの能力の調和と均衡を勝手にかき乱すことは許されない。 解脱者には、その調和と均衡にみずから責任を負うための智慧が求められてくる。

それこそが般若の徳。 法や道の司る秩序を乱すことなく、みずからの責任で感情・意志・思考を働かせるための智慧が般若なのである。

それでは、もう一度、天台大師の三徳の関連図をみてみよう。

三徳の関連図(修正版)
図:布施仁悟(著作権フリー)


ニーチェは44歳のとき、たしかに、法身の徳を身につけた。 万法一如の悟りの世界を一瞥(いちべつ)して“法身の門”をくぐったのである。 しかし、それは頭脳分裂の進行によって禅定の階梯を昇る“解脱の門”を通り抜けただけの不完全なものであった。 ニーチェは、運命の試練をないがしろにした結果、智慧の完成に至る“般若の門”を通り抜けることに失敗していたのである。

38歳の秋にニーチェと決別することにした私は、やがて40歳になったとき、大悟するまで坐禅修行を続けようとしていた。 これからここに書き残すのは、その40-41歳頃に描いた大悟までの青写真である。

(2015.2)

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