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【坐禅作法81】祖師の足跡

かなりキワどい坐禅作法 祖師の足跡

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〜縁覚道の地図1〜


祖師の足跡を見つけることが「仏法を学ぶ」ということ


禅の道に正道を説く者あり、その横に邪道を説く者あり。

この正邪の判別は祖師の足跡を見つけた者にしかできない。 しかし、一度その足跡を見つけたなら、その時から迷いはなくなるだろう。 自分が正道を歩んでいることをはっきりと認識するからだ。 やがて、この道を行く者たちの悟境も見抜けるようになる。

かつて臨済禅師はこう豪語した。

― わしのところへやって来る者すべてを、あだに見過ごしはせぬ。必ずその者の境界を見抜いてしまう。こうやって来た者は、わしの前ではその立場を失ったも同然となり、 ああやって来た者は、縄もないのに自らを縛るはめになる。 ―
(入矢義高訳『臨済録』上堂)

臨済ほどの導師にならなくても、祖師の足跡というものは、その遥か以前の段階で見つけることができる。 この祖師の足跡を得ることが「仏法を学ぶ」ということである。

ここの消息を道元禅師はこう語っている。

悟ったものが悟境の段階を数える数え方というものがある

仏にあらざるをりは、いかにも知られざる事なり。 いかにしられざるぞという人もありぬべし。 仏のまなこにてそのあとをみるべきがゆゑに、仏にあらぬは仏の眼(まなこ)をそなへず。 仏のものかぞふるかずなり。

― (修行者の悟境というものは)悟りをひらいて成仏しないうちは、どうしたって知ることはできないものである。 「どうして知ることができないのか」と問う人もいるかもしれないが、仏の眼をもってその悟境を見抜くのであるから、悟らなければ悟境を見抜く眼力も備わることはない。 悟ったものが悟境の段階を数える数え方というものがあるのだ。 ―
(意訳-布施仁悟)

(道元『正法眼蔵』唯物与仏)


道元によると「悟らなければ修行者の悟境は見抜けない」ことになるけれど、「祖師の足跡から推測することは可能である」とも云っている。

祖師の足跡を見つけることが「仏法を学ぶ」ということ

しらねばすべて仏の路(みち)のあとをばたどりぬべし。 このあと、もしめにみえば、仏にてあるやらんと、足のあとをもたくらぶべし。 たくらぶる処に、仏のあともしられ、仏のあとの長短も浅深もしられ、わがあとのあきらめらるることは、仏のあとをはかるよりうるなり。 このあとをうるを、仏法とはいふなるべし。

― 悟境を見抜く仏の眼(まなこ)を持たないものは、すべからく祖師の足跡をたどれ。 もしも、その足跡が見えたなら「自分も仏の境涯に近づいた」と思って、己れの足跡と較べてみるがよい。 較べてみれば、祖師に近づく道筋も知られ、その足跡の長短も浅深もわかってくる。 自分の立ち位置を見失わないためには、祖師の足跡を推し量ることが必要だ。 この祖師の足跡を見つけることが「仏法を学ぶ」ということである。 ―
(意訳-布施仁悟)

(道元『正法眼蔵』唯物与仏)
矢印マーク 臨済録(岩波文庫)

道元禅師の『正法眼蔵』を読むくらいなら、
ボクは『臨済録』を読むね。
だって、こっちのほうが直感的なんだもの。

赤雲水

天台大師の三徳と三瞑想

黒雲水

この祖師の足跡とは幽体離脱や変性意識などの神秘体験のことではない。 また証果として得られる上・中・下丹田の気感や六神通のことでもない。 自我を観察する内的体験を通して獲得する“般若の智慧”のことである。

ひとくちに禅の“しゅぎょう”と言っても“定力の修行”と“智慧の修業”がある。 伝統仏教でもそれぞれを“止(サマタ)”と“観(ヴィパッサナ)”と呼び、集中力を養う“止”の修行と自我を観察する“観”の修業の双修を唱える。 なぜなら“止”と“観”の各々から得られる功徳は別物だからだ。

ここを明確に説き明かした人物は天台大師をおいて他にいないだろう。

解脱と般若と法身の徳

○止は即(すなわ)ちこれ断にして、断は解脱に通ず。
観は即ちこれ智にして、智は般若に通ず。
止と観と等しきものを名づけて捨相(しゃそう)となす。
捨相は即ちこれ法身に通ず。

○解脱は止に通じ、般若は観に通じ、法身は非止非観に通ず。

(関口真大校注・天台大師『摩訶止観 上』P.130-131 第二章 止観の名義)


止は解脱の徳に通じ、観は般若の徳に通じ、非止非観は法身の徳に通じる。 解脱は禅定の徳で般若は智慧の徳。また法身とは法を身に顕すこと。 修行者が法身の徳を体現するときのことを“頓悟(とんご)”と呼ぶ。

天台大師は、これらをあわせて三徳と云っていた。

ただし並列ではない。 非止非観は「止に非ず観に非ず」で、止と観の両方の習熟が前提のため、当然、法を身に顕す法身の徳は解脱・般若の徳を修めて後の徳となる。

三徳の関連図
図:布施仁悟(著作権フリー)


この天台大師の三徳は、いきなり法身の徳に至ることのできない凡人でも、解脱と般若の徳を、忍耐強く、少しずつ、漸々(ぜんぜん)と修めてゆくなら、やがて頓悟できることを表している。

“漸悟”か“頓悟”か?

その論争は天台大師の開漸顕頓(かいぜんけんどん)に終止符を打つだろう。

天台大師の開漸顕頓〜漸修頓悟の道〜

仏もし宗を会し、漸(ぜん)を開して頓を顕わせば、ことごとくみな通入す。 即頓にあらずといえどもしかもこれ漸頓なり。

― 本来本法性(ほんらいほんぽっしょう)、天然自性身(てんねんじしょうしん)。 人間は生まれながらにして仏性を有しているのであるから、その身そのままで仏となれる。 その本旨を知り、少しずつでも悟道を開いて頓悟できたならば誰でも悟れる。 確かにそれは一気に悟る頓悟ではなく、漸々と悟りに至るものであるけれども、やはり頓悟なのである。 ―
(意訳-布施仁悟)

(関口真大校注・天台大師『摩訶止観 上』P.183 第五章 止観に偏と円あり)


いきなり頓悟する“即頓”ではなくとも、少しずつ頓悟に至る“漸頓”の道がある。 私の解説する漸悟の道は、この漸修頓悟の道なのである。

さらに天台大師は三徳に関連する瞑想法をそれぞれ区別している。

天台大師の三瞑想

止は即ち奢摩他(シャマタ)、観は即ち毘婆舎那(ビパシャナ)なり。 他・那等しきがゆえに即ち憂畢叉(ウビシャ)なり。

(関口真大校注・天台大師『摩訶止観 上』P.130 第二章 止観の名義)


つまり、集中力の止(奢摩他)瞑想、観察の観(毘婆舎那)瞑想のさらに上がある。

三瞑想の関連図
図:布施仁悟(著作権フリー)


止のなかに観があり、観のなかに止がある。非止非観の憂畢叉瞑想である。 この法身の段階におけるウビシャ瞑想に至るには、止だけを修めても、観だけを修めてもいけない。 両方そろってこそ非止非観となる。

これが禅や天台教義で“定慧一等”や“止観双運”を唱える所以(ゆえん)なのである。

矢印マーク 摩訶止観 上―禅の思想原理

禅には二大潮流がある。
一は達磨、二には天台。
「合流点に布施仁悟あり」
なんちゃって。


主流は般若の徳

さて、くだんの祖師の足跡であるけれど、これは般若の徳に関連するため、集中力の止(奢摩他)瞑想だけを修めている修行者には絶対に見えてこない。

すなわち、解脱の徳は支流、主流は般若の徳の方にあることになる。

三徳の関連図(修正版)
図:布施仁悟(著作権フリー)


では、解脱の徳、般若の徳とは何か?

それを解き明かしていこう。

(2014.10)

青雲水

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