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【坐禅作法75】妙法蓮華経とは何か

ちょっとはマシな坐禅作法 妙法蓮華経とは何か〜リトル仁悟はかく語りき4〜

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〜リトル仁悟はかく語りき4〜


『法華経』をとりまく誤解


心の中に潜んでいる小さな自分を見つけて統合する。

こうした“ほんとうの自分になるために坐る”という禅の基本を実践していくと聖典や経典に記録された言葉の真意がわかってくる。 その文言は、ある状況では、小さな自分をあぶり出すための助言として働き、また別の場面では、逃げ道を断つための警句となる。

そんな内的体験をすることだろう。

聖典や経典とその注釈書の作者たちは、みな一様に こうした内的体験を経ているため、ちょっとずつ方法論は違っているけれど、本質的には同じ智慧を語っているのである。 そうした内的体験から生まれた智慧の言葉を『法華経』では“妙法蓮華経”と呼ぶ。

したがって、この内的体験の重要性を知らずに、禅定(三昧[サマディ]の最初期にある見性段階)に到達して教えを説き始めてしまった導師は、『法華経』を読みこなすことができない。 われらが道元禅師も、生きることがそのまま法華経の現れであり、迷いも悟りも法華経の法輪が転じられるところにあると、わかったようなわからないような支離滅裂な言葉を残しているけれど、これは、見性体験で一瞥したものを“妙法蓮華経”の象徴するものと混同した誤解である。 このように、わが国・日本には『法華経』を正しく解釈できる正師のいた前例(ためし)がない。

とはいえ、過激な武装集団と化していた比叡山延暦寺や排他的傾向の強い日蓮系各派との聖戦(ジハード)を避けるため、その根本経典である『法華経』に面従腹背(めんじゅうふくはい)するというのが、わが国・大乗仏教界の伝統となっている。

なぜか法華経。 それが日本の仏教なのだ。 おそらく、それは怪我の功名であろうから、方便だらけの『法華経』を方便抜きに読み直してみよう。

矢印マーク 『図説 法華経大全―「妙法蓮華経全二十八品」現代語訳総解説』


妙法蓮華経は人類共通の故郷の言葉で説かれている。
だから『法華経』は、最後まで読みきっても、
「どうせ読んだってわからん」としか書いていない。
禅者諸君!故郷の言葉を思い出せ。
さすれば“妙法蓮華経”が聞こえてくるだろう。

赤雲水

法華経の譬喩

黒雲水

まず法華経は掟破りの推理小説である。

読者が最後まで読み通しても、妙法蓮華経とは一体何なのかは判らず終いで、まるで犯人が最後まで明かされることのない推理小説のようなのだ。 「読んだ時間を返してくれ!」と叫ぶ読者を想像しながら、ほくそ笑んでいる作者の姿が目に浮かぶ。

しかし、法華経の作者は、ちゃんと犯人を知る手がかりを書き残してあるのだ。 作品中に散りばめた譬喩(ひゆ)にそのヒントを忍ばせたのである。

良医治子(ろういじし)の譬喩

医師に多くの子がいたとしましょう。 年若い子が十人、二十人、あるいは百人もいたとします。 あるとき、医師は所用があって遠い他国に行きました。
その後、子らは誤って毒薬を飲み、その薬の毒が現れて悶え苦しみ、地に転げまわりました。 そこへ父が遠くから帰宅します。
毒を飲んだ子らは、ある者は正気を失い、ある者は正気をたもっていました。 その子らは、父が戻って来たのを見て、みな大いに喜び、父にひざまずいて言いました。
「よくお帰りなさいました。わたしたちは何も知らず、愚かにも毒薬を飲んでしまいました」
父は子らの苦しむのを見て、いろいろな医学書によって色と香りと味のよい薬草を調合し、子らに言いました。
「これは効き目があり、色と香りと味がよい薬です。飲めばすぐに苦しみは去り、もう患(わずら)うことはありません」
子らのなかで正気を失っていない者は、すぐに薬を飲みました。 しかし、正気を失っている者は、その薬を飲みません。 毒気が深く入って本心を失っているために、色と香りのよい薬を見ても、苦くて飲めないと思ってしまったのです。
そのとき、父はこのように思いました。
「哀れな子らよ。この子らは毒におかされて、心が顛倒(てんどう)してしまった。わたしを見て喜び、治療を求めているのに薬を飲もうとはしない。ならば方便を用いて、この薬を飲ませよう」
父は子らに言いました。
「よく聞きなさい。わたしは年老いて衰え、もう死期がせまっています。この薬は、味のよい良薬です。ここに置いておくから、おまえたちは飲みなさい。何も心配することはありません」
父は、そのように諭(さと)してから、また他国へ行き、使いを送って「父は死んだ」と告げさせました。
そのとき子らは、父が自分たちを捨てて死んだと思い、嘆き悲しんで思いました。
「もし父がいませば、我らを慈(いつく)しんで救い護ってくださるのに、我らを捨てて、遠い他国でみまかりたもうた」
かれらは、もはや頼るもののない孤児であると思い、深く悲しみを感じて、ついにその心は目覚めました。 すなわち、この薬の色と香りと味のよいことを知り、それを飲んだのです。 すると、毒の病いはことごとく癒(い)えました。
父は子らが苦しみから逃れたのを知って家に戻り、皆にその姿を見せました。

(大角修『法華経大全』P.186-189「如来の永遠<如来寿量品第十六>」)


この譬喩の中には、逃げ道を断たれた修行者が、やむにやまれず自分の心の中を観ると、妙法蓮華経を知ることができるというメタファーが埋め込まれている。

私は星まわりの科学という風変わりな法則を持ち出して、自分の歩んできた禅の道を説いているのだけれど、これは一般人にとっては受け入れがたいものだ。 というのも、逃げ道を断たれるからである。

人間なら誰しも星まわりの法則に支配されていて、求道者の星まわりから外れたら、それほど良い人生にはならない。

私がそんなことを説明するものだから、それを聞いた人たちの不安な胸中は察してあまりある。 ある人は「私を洗脳しようとするな」と抗議してきたし、「私は貴方に束縛されているみたいだ」と言いがかりをつけてきた人もいるし、「私は地獄に落ちてしまうのでしょうか」と泣きついてきた人もいる。 しかし、これらは私の提示しているメソッドが有効に機能している証拠で、彼らの逃げ道を奪うことに成功しているのである。

ところが残念なことに、たった一度でも心の中を観る勇気を奮い起こせば、彼らの抱いている不安の解決策が分かるのに、女々しい意気地なしの彼らにはその勇気が不足している。 法華経において、女は一度男に生まれ変わらなければ悟れない、と説かれているのは、こうしたオカマ根性を批判したものに他ならないのだ。


法華三乗の道と陶酔の道

中には、輪廻やカーストや星占いみたいな法則は俗世の迷信である、と説くどこぞの覚者の理論を持ち出して反論してくる修行者もいたけれど、そういう手合いは、治療を施すために保護したゴリラが動物園の檻から逃げ出したようなもので、もう手の施しようがない。

私なんかは「君は類人猿なみの知能しか持ち合わせていないようだから、おとなしく精神病院にでも入院しとけ」と匙(さじ)を投げてしまうのに、そういう修行者に対しても、優しい法華経の作者はこの譬喩で答えている。

化城宝処(けじょうほうしょ)の譬喩

たとえば行程五百日の険しい道があったとしましょう。 はるかに人里は絶えて毒蟲・悪獣が多く、恐ろしく危険な場所もあります。 しかし、この道を通りぬけたところに宝の地があるというので、多くの人が宝を求めて歩きはじめました。
この人々の集団に、一人の導師がいたとします。 かれが人々を導いて難所にさしかかると、人々はすっかり疲れているうえに、あきらめにとらわれて、このようにいいます。
「わたしらは疲れきってしまいました。こんな恐ろしい道はとても進めません。先はまだまだ遠いし、もう引き返したいと思います」
そのとき導師は、このように思いました。
「あわれな人々よ。大きな宝を得られるのに、どうして引き返したいと望むのか」
そこで導師は方便の力をもって、途中の行程三百日のところに美しい城を出現させました。
「さあ、恐れることなく行きましょう。あの城まで行けば休めます。それから宝の地に進めば、望みの宝を得て戻ることができるでしょう」
人々は「こんな険しい道に城があるとは、ありがたい」と喜び、みずから進んで城に入りました。
その城内には美しい楼閣が数多くあって男女でにぎわい、園林の小川には涼しげに水が流れ、沐浴(もくよく)の池は清らかでした。 その城で人々は思いのままに過ごして、心は喜びに満ち、もう目的は果たしたと思います。 そこで導師は、人々がじゅうぶんに休息したことを見極めて、城を消し去り、人々に告げました。
「宝の地は近くにあります。わたしが城を現したのは、あなたがたの疲れを癒すためでした。城はまぼろしです。仮の安息を離れて先に進みましょう」

(大角修『法華経大全』P.094-096「まぼろしの城<化城喩品第七>」)


法華経では、修行には声聞・縁覚・菩薩道の三段階があり、どの階梯にいるのかによって見える景色が違うと説く。

菩薩道を行く修行者は、もはや法則の影響を受けない境涯にいるから、法則なんてものはないと説くし、縁覚道を行く修行者は、法則に囚われることは、むしろ雑念となるから、法則なんてものは無視したほうがいいと云う。 けれども、声聞の道を行く修行者は、法則を受け入れ、逃げ道を断たれなければ己れの心を観ないため、敢えて法則を学ばなければならないのである。

修行の段階をあがると、前段階における修行の常識は方便だった、ということになるのだ。 しかし、己れの心を観ることができないと、修行にそうした階梯があるということも、自分がどの段階にいて、何をすべきかもわからなくなる。

とはいえ、そういう修行者でも、行により禅定に至る“陶酔の道”を行くことはできてしまうもので、彼らは悟りの途中に用意されている“化城”を一瞥した段階で引き返し、その体験を語り出すだろう。 しかし、そこで語られることは中身のない宗教哲学とならざるを得ないのだ。

法華経は、妙法蓮華経の一偈一句でも聞くことができれば、諸仏諸尊に守護され、現世と未来の幸福を約束されると説き、現世利益をはっきりと打ち出しているけれど、それはすでに述べたように、分裂ぎみの人格を統合してほんとうの自分になるからであり、陶酔の道をいくら究めたところで、誰一人として幸福になることはできないし、誰一人として幸福に導くこともできない。 すべてが徒労に終わるのだ。

そういう中身の乏しい連中を“小乗”と揶揄(やゆ)したことから、大乗仏教が生まれてきたことは、容易に想像できるのではないだろうか。

青雲水

大乗経典としての法華経

緑雲水

さらに、法華経は永遠に未完の果てしない物語(ネバー・エンディング・ストーリー)である。

法華経では、妙法蓮華経は声聞・縁覚の道を行く修行者にも説かれているもので、それを聞くことのできる者は、すぐにでも教え諭(さと)せと説かれている。 つまり、心の中を観てほんとうの自分を取り戻した体験を伝えて行くがいい、という経典なのだ。

かつて、悟りに至る個人的体験を集積して、誰でも実践可能な方法論を構築しようとした人々がいた。 それが仏教の大乗運動であり、その大乗理論は、すでに完成をみている。 したがって、後世を生きるわれわれ禅者は、大乗理論の実践体験を時代の言葉で語り、悟りの道を指し示し続けなければならないはずだ。 理論を実践した体験的注釈があって、はじめて、大乗経典は立体的な完成をみる。

すなわち、大乗経典『法華経』の続きは後進の私たちに託されているのである。

如是我聞 〜我は法華経の教えを是の如く聞いた〜

さて、ここに法華経を再生した。誰か私に続くルネサンスの騎士はいないか?

もしかすると天才きどりの私の語ったことは、桃源郷のありさまを説いているように思えて仕方がないかもしれない。

ならば、坐って見届けよ。 桃源郷は、あるのか、ないのか。

妙法蓮華経はつまびらかにするだろう。

(2014.6)


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