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【坐禅作法74】自分探しの旅

ちょっとはマシな坐禅作法 自分探しの旅〜リトル仁悟はかく語りき3〜

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〜リトル仁悟はかく語りき3〜


バベルのシンボル


ほんとうの自分になるために坐る

34歳の私は その意味を こう定義した。

― 他人が評価してくれなかったために無意識に心の奥に隠し込んでしまった自分の一部を見つけにゆくために坐る ―

創世記のバベル伝説は この真理の隠喩(メタファー)だ。 メタファーこそが物語の命。 それは独特の拡がりを持って、その物語を読む者の心にわだかまりを残し、やがて、薬となる。

バベルのシンボルを考えてみよう。

すべての地は同じことばと同じ言語を用いていた。 東の方から移動した人々は、シンアルの地の平原にいたり、そこに住みついた。 そして「さあ、れんがをつくろう。火で焼こう」と言い合った。 彼らは石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。 そして言った。 「さあ、われわれの町と塔をつくろう。塔の先が天に届くほどの。あらゆる地に散って消えることのないように、われわれのための名をあげよう」。

主は人の子らがつくろうとしていた町と塔を見ようとしてお下りになり、そして仰せられた。 「なるほど、彼らは一つの民で、同じことばを話している。 この業(わざ)は彼らの行いの始まりだが、おそらくこのこともやり遂げられないことはあるまい。 それならわれわれは下って、彼らのことばを乱してやろう。 彼らが互いに相手のことばを理解できなくなるように」。 主はそこからすべての地に人を散らされたので、彼らは町づくりをとりやめた。

そのためにこの町はバベルと名づけられた。

(『聖書』―創世の書 第11章1-9)


バベルの地に住みついた人の子らが「われわれのための名をあげよう」とスローガンを掲げたのは“偏見・迷信・妄想・詭弁などの独断的ないし理念的信条”を持つこと。 塔を建てる行為はそれらを積み上げていくことを象徴している。

そんなことを続けていれば、自分が本当に思っていることを話す言葉を忘れ、どこかで聞きかじった借りものの言説をしゃべるようになり、やがて、乱れた言葉を話すようになるのは明らかだ。

また、バベルの語源は“神の門”。 独断的ないし理念的信条を捨て、故郷バベルの地に帰らなければ その門をくぐることはできないことになる。 おそらく、その帰路は、ほんとうの自分になる道であり、本心を解き放つ道であり、自分探しの心の旅となるだろう。

矢印マーク 『聖書―旧約・新約』


イタリア人神父が粋に日本語訳した聖書。
イラスト・地図などの資料も豊富で、
旧約・新約、あまつさえ詩篇もついたお徳な一冊。
聖書は坐禅修行にも必ず役立つ。
かりそめにも軽んじてはならない。

赤雲水

自律神経失調症か、精神分裂症か

黒雲水

けれども、それが難しいのは、自分が本当に思っていることを話す言葉を忘れて、乱れた言葉を話していることに気づいていないため、心がいつのまにか奇妙に分裂し、誰もが精神分裂症を患うようになってしまったという人類共通の問題を認めようとしないことにある。

精神分裂症は、近頃、自律神経失調症などという意味の伝わりにくい病名に変わってしまったけれど、その理由は患者の心理的負担を考慮してのことなのだとか。 つまり、精神分裂症という衝撃的な名称だと、患者が深刻に受け止め過ぎてしまうので、自律神経失調症というソフトな病名に変えたのである。

しかしそれは、裏を返せば、「貴方は精神が分裂しているのではありません」などと甘い言葉で誘惑し、根本的な治療を施さず、死ぬまで医療費をむしり取ろってやろう、という目論みにほかならない。 要するに、己れの心に暗(や)みがあるのではなく、あたかも自律神経に病みがあるだけのような錯覚をもたらし、患者が自分の心と向き合う手助けをするのではなく、むしろ、自分の心を上手にだますための口実を与えているのだ。

こうした「自分の心を上手にだませる人間が誰よりも楽しく生きられる」というのが世間の常識なら、「己れの心の闇と真向勝負をする人間が本当の幸せ者」というのが禅の常識である。

誰もが患っている精神分裂症を根本的に治療する方法はたった一つしかない。 己れの心の闇から逃げ出す退路を断つことである。 そうすると、ほんとうの自分から分裂して、偏見・迷信・妄想・詭弁をぶつくさと呟いている小さな自分を心の中に見つけて、そいつと統合することができる。 それが、無意識に心の奥に隠し込んでしまった自分の一部を見つけにゆくために坐る、ということである。

それはどういうことかを私の体験から例示しよう。


リトル仁悟はかく語りき

高校一年の三学期に私は一冊の本を手にした。

矢印マーク 『偏差値50から早慶を突破する法―秀才を逆転する“傾斜配分勉強術”』


良くも悪くも、この本を手にしなければ、
禅の本質を知ることはなかっただろう。
だから、非道徳のすすめ。
トラウマになってもボクは知らない。


ここには画期的なことが書かれてあるように当時の私には思われた。

― 私立大学の早稲田・慶応なら三つの受験科目を学ぶだけでいいので、公立大学を受験するより遥かに効率の良い学習が可能である ―
― 受験科目に該当しない科目や教え方の下手くそな教師の授業に参加するくらいなら、その時間を居眠りや内職に当てたほうがいい ―

そんなことをすれば担当科目の教師との衝突は避けられないから、普通の高校生なら仲間を募って実践するだろう。 しかし、私は誰かとつるむことを潔(いさぎよ)しとしない性格なので、単独で敢行することにした。

とはいえ、教師との口論に勝つのは簡単なことなのだ。

たいていの教師は自分が何をしたいのかもわからないまま給与所得のために働いているので<<自分は教師に向いているのだろうか>>という職業選択の疑問を常に持っている。 私はそこを突いたのである。 「ボクは担当の教師を選ぶ権利のない生徒の身分にあるが、だからといって下手くそな授業を聞かされるのは御免である」

また、裏工作も忘れなかった。

<<自分は教師に向いているのだろうか>>という疑問を払拭するかのように一生懸命努力をしている教師もいて、彼らは当たりまえのサービスを求めていた私の利害に合致する授業をしてくれる。 そういう教師は、すでに努力をやめてしまった職場の同僚に不満を持っているものだから、お気に入りになっておいたのである。 私の行動が職員室で問題にならなかったのは、もっぱら、この裏工作のおかげだと思っている。

しかしながら、これはうまいやり方ではなかった。

ものの道理に反していたからである。 もちろん、道徳的に間違っていたからということではなく、問題は正論を持ち出して努力の足りない教師たちを扱(こ)き下(お)ろしたことにあった。 そうすると、その正論を維持するために自分が人一倍の努力をしなければならなくなるのだ。

この高校の教室の記憶は、何度でも浮かび上がってきて、その度に、あんな努力不足の連中にバカにされるようではいけない、みたいなことを思わなければならないから、中途半端な生き様をさらすわけにはいかない、という心理的圧力が常にかかっている状況に置かれる。 そのため私は、いつでも能力以上の努力義務を自分に課すようになってしまったのである。

大学を卒業して就職してからも、上司、先輩、後輩、誰でもかまうことなく衝突して扱き下ろした。 自分の正しさを仕事で証明するのは“してやったり”ではあるけれど、その見返りとしてのしかかってくるプレッシャーは相当なもので、結局、25歳頃にバーンアウトして会社を辞め、公認会計士受験生になった。

そんな私を嘲笑するかのように、高校の教室や会社のオフィスの記憶は浮かびあがってきた。 そうなると理由(わけ)のわからない怒りがこみあげてきて、そういうときの解決策としては、お決まりの正論をぶつくさと繰り返すことしか知らなかった。

「努力不足のアイツらがおかしい」

それは一時的には気を楽にしてくれるけれど、すぐに正体不明の喪失感に襲われるから、一日中何か意義のあることをしていなければ気がすまなくなる。 それは何の解決ももたらさないことを思い知らせるだけのために、その記憶は浮かびあがってくるようだった。

転機が訪れたのは33歳の“ぷっつん体験”の直後である。 無益な努力を続けている原因が高校時代からの口癖となっている正論にあることに気づいたのだ。 そこで、まずは一切の努力をやめてみることにした。 仕事も何もしないで、連れの女に食わせてもらう甲斐性なしに成り下がり、日課といえばチベット体操と坐禅のみという毎日を過ごした。 軽蔑し、扱き下ろしてきた人たち以下の身分に甘んずることで、それまですがってきた正論を逃げ口上にできない状況に身をさらしたのである。

たったそれだけのことなのに、自分の存在価値を失くしてしまったようで、たまらなく辛(つら)かった。

けれども、こうして逃げ道を塞がれなければ、人の意識が己れの心に向かうことはない。 私の掲げてきた正論は、己れの愚かさを直視し、わめきながら地面を転げまわるほど恥にまみれなければ止められなかったのである。 実際、この頃の私は、力なく床にくずおれて「もう無理だ…普通の男の子に戻りたい」と毎日のように呟いていたものだ。

おそらく、ここは誰もが挫折するポイントなのだろう。

何事もなかったかのように働きに出て、どんな職業でもいいから、あくせく仕事をこなせば済むことだからだ。 たとえ歪んだ自尊心(プライド)だったとしても、そうやって満たしてやれば、元の普通の男の子に戻ることはできる。 簡単なことだ。

でも、私は、元に戻らなかった。 というのも、“ぷっつん体験”のとき、新しい人生が待っていることを夢の中で知らされていたからだ。 それを、たかが夢だ、と一笑に伏することは どうしてもできなかったし、そもそも、無益な努力を続ける毎日に心底疲れきってしまっていたのである。

そうして、“ぷっつん体験”から半年くらい経ってからだろうか。 私は己れの心の中をまじまじと観ることになる。 そして、そこに小さな自分を見つけた。

「ボクは勉強ができなくなったわけじゃない」

その小さな自分“リトル仁悟”は、たしかに、そう語っていたのだ。

要するに、こういうことだったのである。 私は高校に進学すると、あまり成績が揮(ふる)わなくなった。 そのとき父親からの期待を裏切ることになるのを虞(おそ)れて、その事実を認められなかったばかりに、『偏差値50から早慶を突破する法』なんて本を手にし、つまらない正論をでっちあげ、それにすがって身をやつしてきただけだったのである。

「何だオマエ、そんなことで…。いつまでも身構えてんじゃねえよ、バカ」

私は、そのリトル仁悟をなだめ、分裂していた己れの人格を統合した。 正論をかざして人の心の弱さを責めるより、正論で身を鎧(よろ)った己れの高慢を知るほうがずっといい。

青雲水

禅にはすべての進路相談の答えがある

緑雲水

とはいっても、リトル仁悟は他に何人も心の中に潜んでいた。 会社のオフィスで分裂したやつは「オマエなんかこの…」と拳を固めて叫んでいたし、会計士試験に不合格になったときに分裂したやつは「努力をしないやつは人生の最後にツケを払って死んでいくのさ」なんて哲学者みたいな御託を並べていた。 しかしながら、最初に見つけたリトル仁悟は親玉みたいなやつだったから、こいつらは手下のようなものである。 こういう雑魚(ざこ)を一人ひとり見つけて統合するのが、坐禅の目的となり、楽しみとなっていった。

こうして禅の基本を知った34歳のときに書いたのが『できる受験生できない受験生』で、このときに出した結論が、

― 他人が評価してくれなかったために無意識に心の奥に隠し込んでしまった自分の一部を見つけにゆくために坐る ―

なのである。

やがて37歳のとき、ユングが自分の人格を統合していった内的体験を心理学の体系としてまとめ上げていたことを知った。 私が古典を手当たり次第に読み始めたのは、すべての人類の古典はこの人格統合の過程で生まれているのではないか、と仮定したからで、エレンベルガーの『創造の病』の学説は その仮説を裏付けるものだったのである。

天才たちのすべての業(わざ)は心の中の小さな自分と対峙することで生まれている…

私はこの真実を知ったとき、ほとんどすべての進路相談の答えも知ったのだ。

(2014.6)


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