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【坐禅作法73】天職の見つけ方

ちょっとはマシな坐禅作法 天職の見つけ方〜リトル仁悟はかく語りき2〜

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〜リトル仁悟はかく語りき2〜


バベル語の修得過程

バベル語は、ほとんどの場合、まったく偶然に修得される。

したがって、それはケンタッキー・フライド・チキンにおける秘伝のスパイス11種のように限られた人だけがアクセスできる最高機密なんかではない。 誰でも学ぶことができる。

ところが、極めて初歩的な段階で偶然身につけてしまうものなので、その修得過程の記憶は年月とともに色あせていく。 したがって熟練すればするほど体系的に説明することが難しくなってくるのだ。 かつて印度に出現してまとめようとした人物なんかは、その文学的素養を遺憾なく発揮したため、あまりにトリッキーで誰も奥義に近づけない『法華経』の形にしてしまったことは、すでに述べたとおりである。

それにつけても、文学的素養のあるなしかかわらず、ものを書く行為を忘れた人生は人間という生き物には難しすぎる。 たいていの人間にとっては、ものを書かなければ“本当に考えるとは如何なることか”を知ることがないからだ。 そのため、書くことを極めていくと聖職者にも等しくなるらしい。

当代一流のもの書きの中には、バベル語の修得過程に気づいている人物さえいる。

矢印マーク 『図説 法華経大全―「妙法蓮華経全二十八品」現代語訳総解説』


妙法蓮華経は人類共通の故郷の言葉で説かれている。
だから『法華経』は、最後まで読みきっても、
「どうせ読んだってわからん」としか書いていない。
禅者諸君!故郷の言葉を思い出せ。
さすれば“妙法蓮華経”が聞こえてくるだろう。

赤雲水

バベル語体験〜レイ・ブラッドベリの場合〜

黒雲水

ついに見つけたと思ったのは二二歳のある午後のことだった。 私は第一ページに「みずうみ」という題を記した。 この短編は二時間で仕上がった。 二時間後の私は、日なたのベランダでタイプライターに向かって坐り、鼻の頭から涙をぽたぽた落として、首筋の毛を逆立てていた。

どうして毛が立って鼻に涙となるのか。

つまり、ようやく本当にいいものが書けたと思ったからだ。 十年がかりではじめてそうなった。 しかもよく書けたというだけでなく、雑種というか、ほとんど新種と言いたいものが書けた。

(『ブラッドベリがやってくる』-P.33「…古い精神に発する新しいお化け」)


米国のSF作家・レイ=ブラッドベリが初めてミューズと仕事をしたのは、短篇小説『みずうみ』を書いた二二歳のことらしいけれど、この最初の手ごたえをつかむ時というのは、バベル語を読み書きできるようになる瞬間でもある。

だから、この体験をしたら何でもいい。 手あたり次第に古典を読んでみることだ。

私はユングの学説を読んだ37歳のとき、自分がユングと同じ思考をしていて、同じ言葉を話し始めていることを知って驚いたものである。 それは、他の古典を読んでみたところで同じことだった。 奇妙に思われるかもしれないけれど、人類の遺産とも呼ぶべき古典は、同じ思考をして、同じ言葉を話す人物たちの手になるものだったのである。

本屋でエマーソンを立ち読みしていたときは、彼が俗世の無知に呆れかえっている本音を書き散らしてあったため、思わず吹き出して、こう呟いた。

「なんだ…オレたちは同郷の仲間だったのか」

天才たちはみな人類共通の故郷・バベルの出身者だったのだ。

この同郷者の発見は劇的でスリルがあるため、天才たちはその瞬間のことを鮮明に記憶しているはずだ。 たとえば、生涯の師や好敵手と出会うような場面である。 ところが、自分がどうやって故郷の言葉を思い出したのかについては、ほとんどの天才が気づいていない。

けれども、一流のもの書きは例外である。

文章というものは己れをいつわることができないからだ。 いつわった途端に、吸血ヒルのソテーとか三毛猫のヒゲのサラダみたいな得体の知れないゲテモノが出来あがる。 だから、勘のいいもの書きなら、すなわち、自分に嘘をつけないもの書きなら、己れの文章が変わった瞬間というのをはっきり憶えているものだ。

それは技術的なことじゃない。 何というか自分の中のあるものが次元を超えて変わるのである。

ブラッドベリの場合は『みずうみ』を二二歳で書きあげる数年前、高校生の頃のことだったらしい。

高校の最後の年になって、本当の創造する自分と、ばったり出くわすことになった。 その年に私は長い回想のようなものを書いてみた。 故郷にあった深い渓谷と、それが夜になったときの怖さについてである。 といってもただ渓谷を思い出しただけで、ストーリーが伴ったわけでもなく、したがって、将来の私が物書きとして源泉とするものを、数年後まで発見できなかった。

(『ブラッドベリがやってくる』-P.32「…古い精神に発する新しいお化け」)


ブラッドベリは、はじめてミューズと仕事をする遥か以前に“変化の前ぶれ”があったことに気づいていたのである。

その“変化の前ぶれ”とは何か?

矢印マーク 『ブラッドベリがやってくる―小説の愉快』


この本の白眉は『禅と小説 ― Zen in the Art of Writing』

小説家には二種類のタイプがいる。
プロットを立てないと気のすまない三島由紀夫タイプ。
あらかじめプロットを立てない川端康成タイプ。
天才は後者。そして天才とは禅者のこと。
これは天才作家の書く禅的小説作法なのだ。


バベル語体験〜スティーヴン・キングの場合〜

もう一つ例を挙げよう。 S・キングの小説『スタンド・バイ・ミー』から。

この作品は、作家のゴードン・ラチャンスが少年時代を振り返る、という形式で書かれたキングの自伝的小説といわれている。 映画化もされて、一般には少年の成長物語と誤解されているけれど、「私はいかにして才能の源泉を見つけたか」というのが主題である。 その証拠に、最終章はキングの才能を見抜けない文芸評論家への当てつけで終わるという痛快な作品なのだ。

そればかりか、習作時代の作品を掲載し、みずから後進のためにその批評をした一章まである。

これはわたしが書いたものの中で、自分の作品だと思える最初の小説だった ― 五年間の試行錯誤のあとで心から完全に自分のものだといえる最初の小説だった。 処女作というものはたとえ支柱を取り去ったとしても一本立ちしていられるものだろう。 醜悪だが生きている。 今、これを読み返し、みせかけだけのタフさと仰々しさに微笑を噛み殺しながらも、活字が並んだ一行一行の背後に潜んでいるゴードン・ラチャンスの顔が見える。

(『スタンド・バイ・ミー』- 第8章)

いや、これはいい作品とはいえない ― 作者が他の声にばかり熱心に耳をかたむけて、当然耳をかたむけるべき内なる声をおろそかにしているからだ。 だが、わたしがフィクションの中で自分の知っている場所を使い、自分の感じていることを書いたのは、この作品が初めてだった。

(『スタンド・バイ・ミー』- 第8章)


おわかりだろうか。

ブラッドベリが“物書きとして源泉とするもの”と表現し、キングが“当然耳をかたむけるべき内なる声”と説明しているものがミューズに他ならない。 そして二人とも、ミューズを発見する数年前に、自分の知っている場所を使い、自分の感じていることを書いたとき、独創の可能性にはじめて気づいたと云っているのである。

それが何故ミューズの発見につながるのだろう?

矢印マーク 『スタンド・バイ・ミー―恐怖の四季 秋冬編 (新潮文庫)』

S・キングは自身の創造の秘密をここに綴じ込めたんだ。
これ、ただの小説じゃないよ。

青雲水

バベル語体験〜布施仁悟の場合〜

緑雲水

私の体験から説明しよう。

私が初めてミューズと仕事をしたのは37歳のとき。 その夏、35歳の誕生日に作家を志して以来3作目の習作を書いていた。

『道東青春18きっぷの旅』

この『ちょっとはマシな坐禅作法』でも“ぷっつん体験”の解説で度々(たびたび)引用している作品だ。 全体としては失敗と言わざるを得ない出来だったけれど、“ぷっつん体験”について書いた一章に手ごたえを感じて、私は奮(ふる)えていた。

<<ついに自分の文体を見つけたぞ>>という気分である。

それは、純粋に自分の中にあって、誰の意見にも染まっていない本心を解き放つべく書いたら、こうならざるを得なかったという体のもの。 あまりに非常識な内容で作品自体が読むべき人を選ぶだろう反逆の文学だった。 けれども、ミケランジェロの『最後の審判』のような不滅の古典芸術は、すべて、そうやって産み落とされていたことを痛感して、私はあくまでも己れの本心に従う覚悟を決めたのである。

とはいえ<<この路線なら行ける!>>と思った私は青二才だった。

その軌道に乗って創造の扉を開けたら、どういうわけか『ちょっとはマシな坐禅作法』が飛び出してきたわけで、こんな商業ベースに乗りそうにもない作品をかれこれ3年がかりで書き続けて、一体どこへ行こうとしているのか、私自身にも見当がつかない。

それでも、ミケランジェロがシスティーナ礼拝堂での仕事中、「絵はいつ完成するのかね」と訊ねるローマ教皇に「私が完成したと言ったときだ」と答えて怒りを買った、というエピソードの真意を私は知っている。 その質問の答えはミケランジェロのミューズしか知らなかったのだ。

この37歳の体験をさかのぼること3年。 “変化の前ぶれ”は34歳のときにあった。

その年齢のとき、私は『できる受験生できない受験生』という記事をホームページに掲載している。 これは、私のペルソナがどのように形成され、その克服のきっかけをどう握(つか)んだのかを書いたもので、自分の知っている場所を使い、自分の感じていることを書いた人生最初の文章だった。

小学生の頃、『将来、何になりたいか』という作文の課題を出されたときのことを嫌(いや)になるほど憶えている。

「人の命を救うお医者さんになりたい」とか「尊敬するお父さんみたいになりたい」など、そんなものちっともなりたくないのに、大人の顔色をうかがって こましゃくれた作文を書く少年の一人が私だった。 同じ教室に「日本で一番偉い人は誰かと訊いたら、天皇陛下だと言われたので、ボクは天皇陛下になりたいです」と書いたやつがいて、<<アホかこいつは…>>と嘲笑しながらも、素直な彼の感性に畏(おそ)れを抱いて苦笑したものである。

これは37歳くらいから分かってきたのだけれど、本心を隠して自分を偽りながら生きている人の書く文章は、肉眼では見えない紗がかかっていて、透き通るような心のハリを感じることができない。 わが国・日本ではノーベル文学賞受賞者までもがそのような文章を書く。 大人の顔色をうかがいながら作文を書いた少年のまま、誰もが長じて大人になってしまっているのだ。 もちろん、私もそうだった。 ところが、34歳になって、ようやく自分の本心を書けたのが『できる受験生できない受験生』だったのである。

その最終章に私はこう書きつけた。

瞑想システムの一つである坐禅では、「ほんとうの自分になるために坐る」とよく言います。

このことは、「さとり」などの宗教的意義を抜きに考えると 「他人が評価してくれなかったために無意識に心の奥に隠し込んでしまった自分の一部を見つけにゆくために坐る」と言いかえることができます。

矢印マーク できる受験生できない受験生:「【おわりに】やっぱり坐禅でしょ!?」


私は、自分のありのままの姿を書いた34歳のときから、ほんとうの自分になり始めたのだ。


内的体験を通過せよ

ブラッドベリもキングも私も、それぞれ表現は違うけれど、本質的に同じ内的体験をしていることがわかるだろう。 自分のありのままの姿を書く訓練を続けることによって、自分の本心を解き放っていった結果、創造の源泉(ミューズ)を発見したのである。

そして、自分を自由に表現するフィールドも見つけた。 文芸評論家にウケのいい“文学”の斯界(しかい)に背を向けて、ブラッドベリはSFの、キングはホラーの分野の重鎮となっている。

それは、すなわち、こういうことだ。

自分の本心を解き放つほどに、やりたくもないのに無理して続けていたことをあきらめられる。 そうすると、やりたくて仕方がないのに躊躇(ためら)っていたことをできるようになってくる。 そこに見つかるのが天職なのである。 だから、自分の本心を偽って生きている人間に、自分を活かすフィールドを見つけることなんか出来るわけがない。

また、“バベル語”というのは、何か神秘的な言葉が霊感として聞こえてくるとか、そういうことじゃない。 本心を解き放つという内的体験をしたもの同士にしかわからない表現があるということなのである。

この本心を解き放つ内的体験をせずに、聖典や経典をはじめとする人類の古典を読むことは、盲人が象に触れるようなものである。 ある者は耳に触って「ざらざらした平べったい生き物」と説明するだろう。 鼻に触ったある者は「管のような身体の危険な動きをするやつだ」と答えるだろう。 脚に触れた者は言う「太い柱のような生き物である」。

それらは いずれも象の本質を説明するものではない。

これはイスラムのスーフィズムに伝わる『盲人と象』という公案のたとえ話だけれど、そこには、こうも記してある。

「通常の知性に基づく学び方に真理を知る道はない」

(2014.6)

矢印マーク 『スーフィーの物語―ダルヴィーシュの伝承』


これは、いわばイスラムの公案集。
第三の結節解放を通過できたら読み込むといい。

読み方は、小話一篇に二日間かけて、
二回ずつ、じっくり読んでいくこと。
一日目に読んでワカラナイことでも、
自分の中のミューズが二日目に教えてくれる。

それでも分からなかったら?
まだ理解できる時節じゃないということさ。

桃雲水

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