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【坐禅作法64】末法時代の十牛図入門

ちょっとはマシな坐禅作法 末法時代の十牛図入門〜十牛図提唱1〜

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〜十牛図提唱1〜


十牛図の精神に立ち還れ

「正師に参じよ」

祖師・道元はそう書き残していらっしゃるようですが、私は端(はな)からそんなものは存在しないと決めつけておりました。

そもそも道元禅師の如きは少々大袈裟なところがありまして、その著書『正法眼蔵』を拝見しましても、ところどころに お茶目な仕種(しぐさ)の見え隠れしている人間味あふれる禅師なのでございます。

たとえば「袈裟功徳」の一節では、宋で修行していた折、袈裟を頂戴(ちょうだい)する作法をみて感激の涙を流した体験を熱く語り、袈裟を頭頂に戴(いただ)く儀式を日夜行えば殊勝最勝の功徳になると断言するばかりでなく、袈裟の種類や材料について、あるいは袈裟の着用の仕方、縫い方、洗い方に至るまで、こと細かに指図する始末。 私などは「どうして袈裟みて泣くかね」「そんなことで功徳を積めるなら誰も苦労しねえよ」などと思ってしまうのですが、禅師はいたって大真面目。 その証拠に「袈裟功徳」の巻は『正法眼蔵』の中でも出色(しゅっしょく)の長巻なのでございます。

そこで私は「正師に参じよ」もまた禅師の悪い冗談の一つと受け取らざるを得なかったのです。

とにかく、これを読んでご覧なさい。

正師を得ざれば学せざるに如かず。夫れ正師は、年老耆宿(きしゅく)を問わず、唯だ正法を明らめ、正師の印証を得るなり。文字を先とせず、解会(げえ)を先とせず、格外の力量有り、過節の志気(しいき)有り、我見に拘わらず、情識に滞らず、行解相応(ぎょうけそうおう)す、是れ乃ち正師なり。

(『学道用心集』第5則「参禅学道は正師を求むべき事」)

〜正師を得られなければ仏道を学ぶことはできない。正しい師であるための条件は年齢・学問など問うところではなく、正法を明らめて正師の印可証明を受けていることが第一である。経典の文句をなぞるだけで自分の言葉で説かない人物はいけない。頭で理解したつもりになっている勘違いもいけない。他人の意見などに決して流されない桁はずれの力量があり、仏道修行における階梯をよく知り抜いていて、独りよがりの見識から離れていて、非情さと優しさをふたつながらに合わせ持ち、その悟りの境涯にある言動は矛盾することなくピタリと一致している。これがとりもなおさず正師である。(意訳[布施仁悟])〜


ないものねだりでどうもいけません。これでは正師など何処(どこ)にもいないと云っているようなものでございます。一体、そのような人物を如何にして得よと云うのでしょう。

しかし正師とは、修行者の悟境を見極め、その行く末を指し示す存在でありますから、正師を欠いた坐禅修行は自分の立ち位置を見失う可能性が高い。 さりとて正師を得ることは甚だ困難ときています。 もしも「正師を得られなければ仏道を学ぶことはできない」のなら、もとより坐禅修行を始めるべきではないと云うことではありますまいか。

ブリ ハマチ 元はイナダの 出世魚

出世魚というものがありますが、イナダをハマチ、あるいは養殖ハマチを天然ブリと偽って売ろうものなら忽(たちま)ち詐欺罪に当たります。 ところが僧侶の世界は別の模様。親離れ子離れもロクにできていない僧侶でも、禅寺で数年間修行しただけで 出家の象徴としての袈裟をかけることを許される。 これなどはイナダとも呼べない幼魚が「俺はブリだ」と威張っているようなもので、ときには何処からみてもカンパチにくせにブリ然(ぜん)としているなんてこともありまして、見苦しいことこの上ない。 「凡人は恥を恥とも思わない」とは、お釈迦さまの説くところでありますから、まさしく仏教の精神に悖(もと)ると云わざるをえません。

そんな正師不在の末法の世におきましては、自分の立ち位置をみずから確認するためのモノサシが必要であります。 そのモノサシとなり得るものこそ、禅寺の蔵書に埋もれたままになっている十牛図であると私は主張したいのです。

この十牛図。もとは中国道教の祖・老子の発案とされる八牛図と伝えられていまして、そこに宋の禅僧・廓庵和尚とその弟子・慈遠が二枚の図を追加し、各々<頌>と<序>を附して完成させたもの。 詩と図という抽象的な形式であるがゆえに様々な解釈がなされ、今日(こんにち)ではすっかり価値の失われる仕儀にたち至りました。

かかるがゆえに、この十牛図提唱の眼目は「往古の十牛図の精神に立ち還(かえ)れ」と末法の世に一石を投じることにあるらくのみ。 正師不在の世の中に再び禅の礎(いしずえ)を築かんという生一本(きいっぽん)。別に他意はございません。

しかしながら斯様(かよう)に申しますと、十牛図に解釈をほどこすことは廓庵・慈遠両師の御心に背く邪道だと申される方があるかも知れません。 たしかに、現今の正師不在時代を迎える以前であれば、正師の口伝を受け、その人格に陶冶(とうや)されて、自然と真理を会得することがあったでありましょう。 しからば「曰く云い難し」と以心伝心を旨(むね)としても差し支えない。しかし、昔は知らず、現代の修行者にとって正師を得ることは難しい。 正師がいないなら坐禅修行を始めるべきではないとするならば、禅はもはや衰退の一途を辿るより他に無しとなりましょう。

ゆえに時代は、むしろ、十牛図の秘中の秘についても言葉を費やす機運に達しているのであります。 そういう時勢にありながら伝統を墨守(ぼくしゅ)し続けることは、卑怯であり、因循(いんじゅん)であり、不誠実ですらある。 ここはひとつ進取の精神を持ち込み、禅の修行者各人が禅の道程を歩み始める道しるべを示さねばなりますまい。 それが当今の急務であると私は考えるのであります。少なくとも、私の目の黒いうちは祖師方の語録に残る禅の息遣いを窒息させる訳にはいきません。

おしなべて私がこの十牛図提唱に懸ける意気は斯様なものであることを予めご承知願いたい。

(2014.2)

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