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【坐禅作法47】日曜日は教会へ

ちょっとはマシな坐禅作法 日曜日は教会へ〜ちょっとはマシな坐禅作法 8〜

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〜ちょっとはマシな坐禅作法 8〜


書道教室には通うな!

現代の禅道場に禅師がいないのと同様に書道教室にも師範はいない。

もしも本気で書道を志すなら早い段階でその事実に気づくだろう。
それに本当の師範なら手取り足取り教えるようなことは決してしない。
弟子の自立を促すためにいきなり弟子を突き放すはずである。

そうして弟子が自分自身と向き合い始めたところから本当の稽古が始まる。
いずれ求められることになる精神集中は心随観の延長線上にしかないからだ。
師範は心の活動にスイッチが入るように素質のある弟子ほどなおさら突き放す。

弓聖・阿波研造のもとで稽古を始めたヘリゲルもまた、突き放されたおかげで、
ほどなく自分自身と向き合う覚悟を決めることになった。

師範から子供のように手を取って指導される多くの弟子たちを、 今まで幾たび心秘かにうらやんだことだろう。 そのように遠慮なしに師範に教えてもらえれば、どんなにか楽しいだろう。 それによって弓道の本質に興味を失ったり、 精神性を損なったりするものではないのに、とよく思った。

(『無我と無私 禅の考え方に学ぶ』-P.56)


そうして師範に対する依存心の抜け落ちたとき自分に欠けていたものに気づく。

しかし、経験を通してしか知り得ないものを、なぜ前もってわかろうとするのだろうか。 不毛の議論を好む私の悪癖を捨て去るチャンスではないだろうか。

(『無我と無私 禅の考え方に学ぶ』-P.56)

奥義つまり禅の真髄を究めることができるようになる前に、 私はまず、自分の心の問題と向き合わなければならなかった。 私のあまりに批判的な心の持ち方を克服しなければならなかったのである。

(『無我と無私 禅の考え方に学ぶ』-P.17)


ゆえに書道の禅的稽古法の大前提はこういうことになる。

書道の禅的稽古法その1:書道教室には通うな!


禅書道(ぜんしょみち)の最初の目標は自分自身と向き合うことにある。

よって審美眼のない審査員しかいないコンクールに出品することもまた空しい。
誰かの評価に依存する心自体が最初に克服すべき課題なのである。
コンクールで与えられる段位に一体何の価値があるというのか?

もしも禅書道に段位があるとするなら、それは二つで十分だろう。
白か黒か。それしかないからだ。すなわち禅の奥義に至ったかどうかである。
したがって昇段をモチベーションとすることも目標を見誤っている証拠なのだ。

矢印マーク 『無我と無私 禅の考え方に学ぶ』


弓聖・阿波研造のもとで悟ったドイツ人哲学者の稽古記。
頭の固い現代日本人と合理主義のドイツ人は発想が同じ。
著者・ヘリゲルの迷いと疑問は現代日本の禅者にも通じるはず。
コチコチオツムのボクにとっても非常に参考になった。
この本の訳が一番読みやすいと思うんだけど絶版。
別の訳もあるみたい。
福村出版『弓と禅 改版』・岩波書店『日本の弓術』

赤雲水

達人から理合を学べ!

黒雲水

さて、次の段階は当然のごとく型稽古になる。それはいわば“技”の稽古だ。

“技(わざ)”から“業(わざ)”へ発展できるかどうかは型の学び方次第となる。
型が自分を解放するものになるのか、自分が型に囚われることになるのか。
その顛末(てんまつ)はこの段階で決まる。

書道では手本を臨書する段階なのだけれど、臨書とは手本をマネることではない。
手本にある理合(りあい)を読み取ることである。

臨書にあたっては学校の“お習字”の悲劇を再び繰り返してはいけない。

学校は為政者に都合のいい画一的国民を生産するための工場なのだから、
そこで習ったことは一切放下してしまったほうがいい。
再び型にハマるようなことでは稽古の意味がないからである。

この意味のわからない向きは書聖・王義之の書を臨書してみるといいだろう。
それは一言で言えば天衣無縫。自由奔放な筆跡はときに書き順さえも無視する。
臨書にあたって必要なのはそうした達人の呼吸を読み取ることなのである。

達人の書にはここだけは絶対に外せないという筋が一本ビシッと通っている。
筋を外さないから達人は自在でいられる。その筋を学び取るために臨書するのだ。
その筋のことをボクは理合と呼んでいる。

書道の禅的稽古法その2:達人から理合を学べ!


そのため達人の呼吸が聞こえたとき型稽古はむしろ自分を解放するものになる。

矢印マーク 『美しいペン字の書き方』


稽古の手順を示してあるテキストが一冊あると便利。
絶版なのだけれどボクはこのテキストに従っている。
通常は楷書を修得してから行書・草書に移るらしいけれど、
それではつまらないし効率も悪いのでボクの選択は楷行双修。
そっちのほうが技の上達は早い。

矢印マーク 『漢字書体字典―書体字典(漢字篇)』


ときに「それはないでしょう」という下手クソな手本もある。
そんなときに重宝するのがこの一冊。
書聖・王義之(おうぎし)はじめ多くの書家の手本を掲載。
五体(篆書・隷書・草書・行書・楷書)に加えて書き順もあり親切。
文字の大きさも見やすい。

矢印マーク 『書体字典 かな―付・名家作品集』


こちらは、ひらがな版。
行・草書は「ひらがな」を徹底的に稽古するのが近道。
しかし藤原行成の呼吸は絶品だね。

可能な限り目覚めていながら眠れ!

では理合を読み取るためのトレーニングメソッドを紹介しよう。

まず紹介したいのはブラインド・コンター・ドローイング。

このトレーニングでは手元を一切見ずに手本を凝視しながら文字を書く。
もちろん書きあがった文字の出来は全く気にしなくていい。
理想は線や点画を追ってゆく視線の動きと手の動きをぴったり合わせることだ。
したがって視線の先とまったく違う部分を書くようなことがあってはならない。

すると線の角度や一点一画の文字全体とのバランスを読み取る目を養える。
ただしこのメソッドの利点はそこだけに留まらないのが良いところ。
このトレーニングに熟練してゆくと不思議な感覚に出会う瞬間があるのだ。

それは意識の置き所を突然失ってしまう瞬間。
その瞬間を体験することがこのトレーニングメソッドの本当の眼目である。
そこは禅の奥義へ至る“パラドックス的入口”とでも言おうか。

このパラドックス的入口を天才画家・サルヴァドール=ダリ様はこう表現した。

書道の禅的稽古法その3:可能な限り目覚めていながら眠れ!


奇天烈ダリ様の言葉では不可解なのでヘリゲルに助け舟を出していただこう。

眠りにつく直前のまどろみに似た状態に徐々に入っていくのである。
完全に眠ってはいけない。ある種の精神集中により、眠らないですむようになる。 これは徹夜した人が生死を懸けた場に臨む時に服用する覚醒剤のようなものかもしれない。 たった一度でもうまくいけば何度でもうまくいくようになる。 この精神集中により、魂は魂の内部で自ら震え出すという状態になる。

(『無我と無私 禅の考え方に学ぶ』-P.61)


これが天才・達人たちの“持っている”業(わざ)の秘訣である。ただし…だ。
この体験を得たいと願うなら“正しい”精神集中に熟練していなければならない。

その“正しい”精神集中のためには心随観の修熟を必須条件とするし、
精神の成長に伴なう肉体変性のプロセスを経ている必要もある。
そう言われたら、いかにも、その道のりは長いと思うかもしれない。

しかし、近道をした人たちの行く末を知っているだろうか?
宮沢賢治は躁鬱状態を繰り返し、ゴッホは自らの左耳を切り落としたうえ自殺した。
さらには二人とも存命中には才能を認められることなく死んだのだ。
そんなノイローゼになって死んでゆくだけの才能にどんな幸せがあったのか。

たしかに精神集中の扉を開くだけなら禅とは別の道もあるのだろう。
その道をゆくことを否定する権利はボクにはない。ただ自問してみて欲しいのだ。
「それで一度でも本当の意味で心が晴れたことはあるのか」
「それは本当の幸せにつながるのか」と。
そこから先はボクの与り知らぬところであるから好き勝手にするがいい。

さて心随観を修めて肉体変性のプロセスもすでに乗り越えているものとしよう。
坐禅の伝統・随息観の威力を思い知るのは、いよいよこの段階からである。
精神集中にあたって呼吸のリズムへ没入する効果は絶大なのだ。

この何物にも煩わされない自己没入の状態は残念ながら長続きしない。 心の内からかき乱される恐れがある。 無から湧き出てくるように、気分や感情、望みや心配、そしてさまざまな考えが、 やたらに意味もなく雑然と浮かんでくる。 それらが荒唐無稽のものであればあるほど、また意識にのぼっていたものと関係がなければないほど、 ますます頭にこびり付いて離れなくなる。 精神集中により普通なら到達できない領域にまで踏み込んでしまった、 ということにあたかも復讐しているかのようである。 心を攪乱させないためには次のような手立てしかない。 呼吸を静かに淡々と行ない、意識にのぼってくるものに和やかに応じ、 それに慣れ、静かに眺め、しまいには眺めることに飽きてくるといった具合である。

(『無我と無私 禅の考え方に学ぶ』-P.60〜61)


この体験へと導くブラインド・コンター・ドローイングはもともと絵画の訓練手法。
絵画芸術の世界にはもうひとつ効果の高い手法があるのでそれを紹介しよう。
その手法に呼び名をつけるなら「ダ・ヴィンチ・メソッド」がふさわしい。

レオナルド・ダ・ヴィンチは膨大な手稿を残したことで知られているけれど、
未だに謎とされていることがある。その全てを「鏡文字」で書いたことだ。
ちょうど鏡に映したときに正しく読めるような小細工を施したのである。

その理由は鏡文字を実際に書いてみるとわかる。
左右逆さまに書かれた文字は書き手に何の意味も訴えかけてこない。
そこに書かれたものは単なる記号でしかないのだ。

単なる記号の前では思考が沈黙してしまうことに気づくだろう。
これが天才・レオナルド=ダ=ヴィンチの狙いである。
鏡文字は「思考しないで考える」というパラドックスを実現する手段だったのだ。

同時代の巨匠・ラファエロ=サンティも同じ極意を語っていた。
ここはダリ様の解説に耳を傾けよう。

よく知られていることだが、考える画家は上手くない画家である。 ついでに言うと、同じことは考えすぎる哲学者にも言える。 いちばん惨(みじ)めな典型がロダンの『考える人』だ。 どういうことかというと、予(あらかじ)め何か考えていると自覚しているときの頭のなかには、 実は何もないのである。「絵を描いているときは、いつだって別のことを考えている」 と言ったのはラファエロだ。この真実はまるで神殿のようにそびえ立っている。

(『ダリ・私の50の秘伝―画家を志す者よ、ただ絵を描きたまえ!』-P.43)

この「別のことを考える」は、もうひとつのラファエロの原理「ある種の考えのもとに絵を描く」とともに、 一種の君主制のようなものを成している。それはいわば、ラファエロの絵画に描かれた祭壇の上、 天使が飛ぶ丸天井のはるか頭上に君臨しているのだ。 「別のことを考えながら絵を描く」「ある種の考えのもとに絵を描く」 というラファエロのこの二つの至言(しげん)は、どっちつかずに思えるけれども、 その実、放心と自律性を定量ずつ据(す)えつけ、 どのような絵画作品の実現にも幸せをもたらすに違いないのである。

(『ダリ・私の50の秘伝―画家を志す者よ、ただ絵を描きたまえ!』-P.43)

矢印マーク 『ダリ・私の50の秘伝―画家を志す者よ、ただ絵を描きたまえ! 』


これほどの秘伝を自覚し公開した天才が他にいるだろうか?
救世主ダリ様!
あなたの公開してくださった秘伝を試そうともしない
哀れなわれわれ凡人をおゆるしください。
ああ、私もダリになりたい…。

青雲水

困ったときはミューズに聞け!

緑雲水

またダ・ヴィンチの手稿にはいたるところにこんな記述がある。

「教えてくれ!」

さすがはダ・ヴィンチ。これは書道の禅的稽古法の一つなのだ。

書道の禅的稽古法その4:困ったときはミューズに聞け!


一筆入魂!一筆絶命!一筆爆発!あとはひたすら書くだけだ。
一筆一筆に全てを集中して書きまくるがいい。

どこで止めたらいいのかなんてボクらの知ったことではない。
ミューズが「よし!」というまで書きまくる。
その一瞬に繰り出した一点一画には完璧な満足感を覚えるはずである。

もちろんそれはお手本どおりの線や点画ではないことの方が多いけれど、
それがどうした。自分という存在はどうしようもないほど自分なのだ。
作家が独自の文体を創出するように自分独自の書体があってもいいはずである。

ここではダリ様の言葉に勇気をもらうとしよう。

ラファエロに倣(なら)いたくてアングルはため息をつき、 アングルとしての作品しか創らなかった。 ラファエロは古代文明に倣いたくてため息をつき、それを追い越せた。 白状するが、私はときどき真剣に思う。 「アングルに倣いたい」、するとブグロー風になる! にもかかわらず私はどうしようもないほどダリである。 このことはすでに途方もなく大きなことである。

(『ダリ・私の50の秘伝―画家を志す者よ、ただ絵を描きたまえ!』-P.18)


たとえ筆法についてわからないことがあっても気にすることはない。
そのうち必ずミューズが教えてくれる。

その回答は失筆した瞬間に偶然出くわすかもしれない。
翌朝突然閃くこともあるし、単に技法書に書かれていたなんてこともある。
ミューズってやつは神出鬼没だから油断をするな。


日曜日は教会へ!

とにもかくにも道から外れたことをしていたら禅の奥義には至れない。
ゆえに、これが書道の禅的稽古法における基本中の基本となる。

書道の禅的稽古法その5:日曜日は教会へ!


人間、死ぬまで修行中。死んでもやっぱり修行中。

したがって修行者は完全にオツムの調子を取り戻しているわけではないから、
周囲の環境から思いもよらない悪影響を受けてしまうものである。
それは正道を歩んで違わぬという確信の裏づけを周囲の同意に求めるからで、
そんなことでは凡人オツムに逆戻りしてしまうことになるだろう。

それからあまり自分のオツムを過信してもいけない。
ボクたち人間は自分の思いたがっているほどには賢くないものだからである。

そこで誰の同意も求めずに経典や聖典から確信を得てゆく姿勢が大切である。
あくまでも経典や聖典の指し示す道から外れなければよいからだ。

だからボクは日曜日は教会へ行く。
とはいっても部屋のドアを閉めただけの自宅の教会だ。
そこでお気に入りの経典や聖典を声を出して繰り返し読んできたのである。

もちろん誰だって最初は経典や聖典を誤読してしまう。
ところが何度も読んでいると心に引っかかる部分が次第に明確になってきて、
その“わだかまり”をほどく度にその真意を痛感することになるのである。

こうして真意を痛感できたとき自分が正道を歩んでいると確信できるのだ。

ただし、読んで効果のある経典や聖典というのはそれほど多くはない。

たとえば普及版聖書の新共同訳というのはひどいもので、
自分たちに都合のよいことだけを語ってくれるまあるいイエス像を作り上げている。
そんな聖書を読んでいたらいつまで経っても進歩できるわけがない。

イエスというのは「聞く耳のあるものは聞け!」と怒鳴り散らし、
気に入らない商人のちゃぶ台をひっくり返し、
凡人を犬豚呼ばわりするようなツンツンとがったツッパリ野郎である。
おそらくリーゼントと特攻服がよく似合う。いや、マワシとマゲの方かもしれない。

そこでボクの読んできたのがコレ。

矢印マーク 『心身の神癒―主、再び語り給う』

これはおそらく真実の聖書である。


聖書の真実義はここに書かれてあるとおりなのである。
聖書を読む前にコレを読みこんでおかないと誤読は必至となるだろう。

参考までに印象的なフレーズをいくつか紹介しておこうか。

苦悩に陥った時父なる神に見捨てられたと思ってはならない。 神はあなたを一層完全と成らしめ給いつつあるのであり、 神御自身の創造力を現しうるより完全なる器となし給いつつあるのである。

(『心身の神癒―主、再び語り給う』第一話-97)

この真理を悟れば、常に実存しているところのものをあなたたちの生活に 実現させることができる。あなたたちの裡にあって、 又あなたたちを通じて働く創造力の大いなる力がある。… しかしあなたたちはそれに気付いていない。 この力は元来外に顕現するものであり、しかもあなたたちを通じて 顕現しなければならないのである。何故ならば、 その為にこそあなたたちは特別に創造られているからである。

(『心身の神癒―主、再び語り給う』第二話-18)

これまであなたたちは、自分の尺度で悪いことをしたと決め込んだ 人々に対して愛を出し控えたことがどんなに度々あったことか。 そのような断定はあなたたちの関知することではさらさらないのである。 それはすべて父なる神とその子との間のことがらである。 このことをよくよく銘記するならば、あなたたちは他を批判することがなくなり、 批判という武器はむしろまず第一に自分自身に対して向けるようになるであろう。

(『心身の神癒―主、再び語り給う』第二話-98)

認識や悟りは忽然(こつねん)としてやってくるものではない。 それは次第に自分の中で生長して行く〔ものであり、その生長の〕 様子にあなたたちは気付く筈である。

(『心身の神癒―主、再び語り給う』第四話-7)

成就(じょうじゅ)の秘訣は一切の物事を云い争わず疑わずに為すことである。 これが成就する創造力を発動する。
成就というこの大いなる業(わざ)をあなたたちは地上においてのみ 為すことができる。

(『心身の神癒―主、再び語り給う』第四話-84,85)

これまでのあなたたちの心は外からの誤った考えを詰め込まれ、 かくて聖なる内奥、即、唯一の実在を閉ざしていたのである。 あなたたちが他人の云うことを闇雲に信じたり、 他人の信じていることを丸呑みすれば、 模倣者にはなっても考える人にはなれない、 従ってあなたたちは束縛されているのである。

(『心身の神癒―主、再び語り給う』第九話-46,47)

在るべきでないと思っている様相(すがた)を自然が呈しているからといって 暗い気持になってはいけない、なぜならすべては一切皆善の方向に働きつつあるからである。

(『心身の神癒―主、再び語り給う』第九話-88)

すぐには結果が出てこないからといって落胆してはいけない。 〔結果を生ずる〕働きはあなたたちの想念に順応してなされつつあるのである。
あなたたちの意識を覆うているように見える闇は、 結局は為になるものであることが分るであろう。

(『心身の神癒―主、再び語り給う』第十一話-79,80)

幕を貫通するのには何も難しいことはない。わたしはそれを保証する。 それは簡単である。あなたたちの心からあらゆる制約、あらゆる信仰、 あらゆる理論を除き去ることである。

(『心身の神癒―主、再び語り給う』第十二話-25)

この瞑想を真剣にすぐ始めるがよい。 この為すべき瞑想をなすならば、必ずやあなたたちはその効果を 生命、生活の中に見出すであろう。

(『心身の神癒―主、再び語り給う』第十二話-122)


この真実の聖書にいくたび救われ、どれだけ勇気をもらったことだろう。
そしてキリスト教も仏教もまったく同じ真理を語っていることを知った。

だから宗教宗派の違いを知ろうなんてことは実にくだらない。
そこで指し示している真理に違いはないはずだから、
共通点を見出だしたほうがよほど近道ではないだろうか。

したがってボクはこの聖典もお気に入り。

矢印マーク 『神の詩―バガヴァッド・ギーター』

世界中で聖書の次に読まれているという聖典。
仏教とキリスト教をつなぐ架け橋となる。


インドのヒンズー教の聖典・バガヴァッド=ギーターである。

インドは地理的にもイスラム圏と仏教圏を中継する地域にあり、
イギリス植民地時代のキリスト圏の文化をまるごと飲み込む器量持ちである。
そのインドの聖典にはキリスト教とイスラム教と仏教の架け橋があるのだ。

そして日本人ならやっぱり最後はお釈迦さまに行き着くのではなかろうか。
日本に生まれついたというのも何かの因縁でこればかりは仕方がないと思う。

西洋合理主義は筋の通らないことでも損得勘定で合理的と判断するのに対し、
われわれ日本人の本来の行き方は違う。いわば理合主義(りあいしゅぎ)なのだ。
お天道様の道理に照らして筋の通ったことを理合と呼んできたではないか。

お釈迦さまの提示した方法論も理合的で一切無駄がないゆえに極めて単純。
それを複雑にしている責任は葬式仏教を生み出した日本人のオツムのほうにある。
だからボクは原点に帰る意味で原始仏典を読んできた。

仏教の経典は膨大な巻に及ぶけれど原典には全ての基本があるのだから、
この『法句経』だけを読みこんでおけば十分である。

矢印マーク 『ブッダの真理のことば・感興のことば』

こなれた現代語で読める法句経。
私の仏教に対する誤解は この本で初めて解けました。


要するにいろいろ手を出してみたところで、結局、最後は基本に戻ってくるのだ。
オツムの逝っている禅者諸君!道を外れない範囲でバカやってみなはれや。

(2012.12)

桃雲水
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