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【坐禅作法46】歌うも舞うも法の声

ちょっとはマシな坐禅作法 歌うも舞うも法の声〜ちょっとはマシな坐禅作法 7〜

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〜ちょっとはマシな坐禅作法 7〜


無念の念を念として

おしなべてギャンブルにもセックスにも禅に通じる道がある。

宗教的戒律が飲酒やギャンブルやセックスを禁止している理由は、
ただひとつ、凡人が世間の圧倒的多数を占めているためである。
それらはほとんどの人にとって身を持ち崩す原因になるからだ。

一方で、その空しさを体験しないかぎり克服することもまた出来ない。
下品で低劣な素性を持ちながら、それらに溺れる者を笑うことこそ笑止千万。
やはり戒律破りを冒してみずから溺れてみなければワカラナイこともある。

酒で自滅しギャンブルで散財するのは感情を制御できないからであり、
セックスで暴発するのは肉体を制御できる段階に達していないためである。
感情や肉体の制御を身につけて後、ようやくその空しさを痛感できるはずだ。

人間は世俗的快楽の空しさを体験して初めてその不必要性を達観する。
そうして感情と肉体の制御を失わずに禅の原理を応用できるようになれば、
生活の随所に妙法蓮華の世界を見聞できるようにもなる。

この道理を白隠禅師は坐禅和讃に詠みこんだ。

無念の念を念として
歌うも舞うも法(のり)の声

(『白隠禅師坐禅和讃』)


それでは無念の念を念として妙法蓮華経を聞きに行こう。

赤雲水

禅ウォーク

黒雲水

わが国・日本の精神文化は素晴らしい。何でも“道”にしてしまう。

それはときに“神風特攻隊”や“スポ根”に発展して悲劇を生み出してきたけれど、
それはそれで時の粛清をしっかり受けてきたのだから、それもありとしよう。
ただしボクら禅者まで精神論に陥って運命の粛清を待つ必要はないはずだ。

なにごとも禅の本質と禅の原理から外れたときから“筋道”を見失う。
その“筋道”さえ外さなければウォーキングもまた“道”となるのだ。
それは名づけて「禅ウォーク」。禅は苦行ではないのだから根性なんかいらないぜ。

「禅ウォーク」ではボクらはただ歩くだけでいい。
とはいえ歩く時間は大切だ。必ず連続60分以上歩く。90分歩けばなおよろしい。
それだけで禅者の身体になってくる。禅ウォーク90分は坐禅90分に匹敵するのだ。

もちろん禅の本質は“心随観”にあるのだから、
“心随観”をないがしろにしていたら何時まで経っても何の変化も起こらない。
ただし“心随観”を修していれば「禅ウォーク」の効果を身体で感じ取れるだろう。

またわが国のあらゆる稽古事は無念の念を念とすることで奥義に至る。
まさしく白隠禅師の言うように「歌うも舞うも法の声」となっているのだ。
そこで何かひとつ稽古事を続けることは創造性発現の稽古になるはずである。

もしも何もやってこなかった禅者がいるならボクは禅書道をおすすめしたい。

矢印マーク 『愛されてお金持ちになる魔法のカラダ』

Let's禅ウォーク!
これは『ウォーキングの教科書』。
この著者は気がわかってるね。たぶん。

禅書道

禅書道とは何かって?そんなものは聞いたこともない?たしかにそうだ。

まあ、リラックスして、そこに座って。ちょっと君、おっかないよ。
そんな怖い顔してたら君の中にいるミューズだって逃げ出すぜ。
まずは、あらゆる稽古事に共通する“稽古の本質”を知っておこう。
楽器演奏の練習について説かれた『解脱の真理』の一説がテキストだ。

矢印マーク 『解脱の真理 改訂版―ヒマラヤ大師の教え』

つまり、坐禅とはこれなのである。
稽古の本質もここにしっかり書かれている。
参考までに…定価:5250円TEL:03(3951)3407


まず稽古の最初に求められるのはお手本通りの正確性である。

まず演奏をできるだけ正確にすること。 それから次第にテンポを速めて緊張しなくても迅速かつ正確に弾けるようにする。 しかし速く弾けるようになるためにリズムと表現とが犠牲になってはならない。

(『解脱の真理』-第四章P.116)


その理由は心の性質にある。

心は前にやったことを繰り返すもので、従って一旦間違った習慣がつくとなかなか直しにくい。

(『解脱の真理』-第四章P.116)


稽古事というは心の性質を知るための稽古でもあるのだ。

一休みの後で、今まで難しかった曲譜がたやすく弾けるようになっているのに気付いたことがあるはずだ。 これは肉体の機構を休ましている間に心が調整をしていたからである。 一時分からなかった問題を解こうとするようなもので、 一旦寝て覚めてみると解決していたようなものである。 機会を与えてやったために心が解き明かしたのである。

(『解脱の真理』-第四章P.117)


つまり学習したことを消化するための時間を心に十分与えることも重要である。
よって練習のし過ぎもまたよくない。

もっとも練習過剰ということもある。新しく始めれば始める程動きはよくなるものだ。
〜 略 〜
休憩時間はそれまでに意識的に造り上げた動きを再調整する時間を心に与えてくれるよいものである。 そういうわけで正確さということが必要欠くべからざるものである。 実際には演奏をしていない時に演奏の勉強をしているのである。 というのは、心は、その機会さえ与えてやれば、 肉体は動いていなくても心がその仕事を引き受けてするものだからである。

(『解脱の真理』-第四章P.116-117)


こうして“技(わざ)”を身につけたときから“業(わざ)”の稽古に入れる。
まずは“精神集中”の訓練を。

演奏する際は聞いたり感じたりすると同時に音楽の中に没入しなければならない。 自我意識は肉体の働きを拒んでしまう。 心は一時に一つのことしかできないもので、自分のことを考え、 それからまた音楽のことを考えたりすると、前へ行ったり後ろに行ったり、 一つのことから他のことへと行ったり来たりすることになる。 こんな習慣に打ち克つ方法はリズムの中に没入して我を忘れることである。 この二つの心の意識的な動きの間にある心理的な空隙をリズムが埋め、 内なる心が自由自在に仕事を始めることに間もなく君は気づくはずだ。 そこからこそ人は本当に演奏をするのである。

(『解脱の真理』-第四章P.117)


かつて合気道開祖・植芝盛平は言った。「技は覚えて忘れろ」。
技は覚えて忘れたときに業となってあらわれる。
そこにあるのは心技体の持つ機構(メカニズム)に対する絶対的な信頼だ。

魂が受け取り、心と脳とは機構(メカニズム)を動かす。 機構に欠陥があると心の中で思っておれば、その思いが表現されがちである。 そのため完全な表現を得ようとすればする程、その逆の思いが余計に働くようになる。 多くの失敗がくり返されてきたのはこの道理による。

(『解脱の真理』-第四章P.124)


業の発現をいつ知るのか?
それは自分の中のミューズが教えてくれるんだ。

無理に音を出すものではない。音の出方が正しいかどうかは、自分の中のあるものが教えてくれる。

(『解脱の真理』-第四章P.116)


だから稽古事の師匠というのは実は自分の中にいる。

この「自分の中のあるもの」を『それ』と表現した人物が阿波研造(あわけんぞう)。
弓聖と呼ばれた弓道の達人で彼に師事したオイゲン・ヘリゲルの稽古記が面白い。

矢印マーク 『無我と無私 禅の考え方に学ぶ』


弓聖・阿波研造のもとで悟ったドイツ人哲学者の稽古記。
頭の固い現代日本人と合理主義のドイツ人は発想が同じ。
著者・ヘリゲルの迷いと疑問は現代日本の禅者にも通じるはず。
コチコチオツムのボクにとっても非常に参考になった。
この本の訳が一番読みやすいと思うんだけど絶版。
別の訳もあるみたい。
福村出版『弓と禅 改版』・岩波書店『日本の弓術』

青雲水

自分の中のあるもの

緑雲水

ヘリゲルは阿波から弓をいっぱいに引き絞ってジッと待つように指導される。
「しばらくすると手が自然に離れて『それ』が矢を射るのだ」と阿波は言う。
日本人のボクらなら「はい、そうですか」と言われた通りにしそうだけれど、
ドイツ人のヘリゲルは違った。「意味がワカラナイ」と詰問するのである。

ある日私は師範に尋ねた。「『私』が矢を射ないのなら、いったいどのようにして矢を射ることができるのですか」
「『それ』が射るのです」と師範は答えた。
「師範がそうおっしゃるのを前にも何回か聞いたことがあります。 では別な方向から伺いましょう。『私』がそこに存在していないのなら、 いったいどのようにして自分を忘れて離れを待つことができるのでしょうか」
「いっぱいに引き絞られた所で『それ』が待っているのです」
「では『それ』とはいったい誰ですか、いや何ですか?」
「ひとたびそのことがわかったら、あなたはもはや私を必要としなくなるでしょう。 あなたが経験を通してわかるようになるのを待たずに、私があなたに手がかりを与えようとするなら、 私は最悪の教師となり、解雇に値するでしょう!ですからその話はやめて、けいこしましょう」

(『無我と無私 禅の考え方に学ぶ』-P.87〜88)


稽古事の師匠は弟子が自分の中にいるミューズと出会うのをただ待っている。
ひたすら、そうするしかないからだ。そこは不立文字の世界なのである。
よって、いかな禅師といえども「つべこべ言わんと坐ってみい」としか言えない。

弟子もまたミューズとの出会いを通して師の言葉の真実を追体験するしかない。
これはヘリゲルが『それ』を知ったときの回想。

自分は何もしていないのにひとりでに放たれるということがどうして起こるのか。 またどうして私の固く閉じられた右手が突然開いて跳ね返るようになるのか。 その当時も今も説明できない。ただそのようなことが起きたという事実は確かである。 そしてそのことだけが重要である。 少なくとも正射(せいしゃ)と失射(しっしゃ)の峻別ができるまでになった。 両者の質的な違いはあまりにも大きいので、一度、経験すると必ずわかるものである。

(『無我と無私 禅の考え方に学ぶ』-P.90)


またヘリゲルは「覚えて忘れろ」についても『不動智神妙録』を引用して説明する。
それは、たくあん漬けで有名な沢庵禅師が剣術の奥義について説いた書物だ。

沢庵は言う。 「弟子は敵やその剣さばきから目をそらすことができない。 敵が隙(すき)を見せる瞬間を待って、どのように敵を打とうかと、 ずっと考えている。つまり、弟子はどんな時も自分の技や知識に頼っている。 そうなると『精神存在』を失うのである。 決定的な一撃を加えるにはいつも遅すぎ、 『敵の剣が敵自身に向かうように』することはできない。 熟考したり、自分の技を意識的に使ったり、 戦いの経験や戦術に頼って見事に剣を操ろうとすればするほど、 自由な『心の働き』が妨げられるようになる」

(『無我と無私 禅の考え方に学ぶ』-P.121)


ボクの提唱する“禅書道”は自由な『心の働き』を妨げない書道である。
そのためのトレーニング・メソッドを包含したもので目指すのは禅の奥義だ。
そこにはそのへんの書道教室では決して教えちゃくれない書の“道”がある。

(2012.12)


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