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【坐禅作法38】声聞道実践

ちょっとはマシな坐禅作法 声聞道実践〜心随観のヒント 7〜

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〜心随観のヒント 7〜


ユング式声聞道

そこには約20年のハンデがあった。

ボクの興菩提心体験は33歳。一方で、ユングのそれは12歳。
星まわりに遵(したが)って42歳の覚醒へ至る縁覚道の軌道に乗るためには、
それは38歳から始まるものらしいので、残りのリミットは約5年間しかなかった。

12歳で因果律のカラクリに気づいたユングのセンスには脱帽するけれど、
その約5年間で成し遂げたボクの巻き返しも大したものだと今にして思う。

ここで、誤解されるとやっかいだから、はっきり断っておこう。
つまり、これは自負であり自慢である。
ボクはユングの約25年間の成長をたったの約5年間で駆け抜けてきた。

縁覚道以前の修行過程である声聞道は興菩提心から始まるのだけれど、
時代や国籍などの環境は違っても声聞道の過程自体は誰でも同じらしい。
ボクはこの事実を『ユング自伝機戮巴里辰拭「ユング、オマエもかっ!」

すなわちボクの選択してきた修行法と日常の出来事から得られた教訓は、
ユングの選択した特殊な職業とその人生で起こった事件から得られた教訓に
まったく一致していたのである。

したがってボクの解説する声聞道は“ユング式声聞道”と言ってもいい。
興菩提心を通過した禅者ならボクやユングと同じ足跡を辿ることになるだろう。

矢印マーク 『ユング自伝―思い出・夢・思想 (1) 』

「ユング、オマエもかっ!」
禅者なら体験できて当たり前。
悟境確認用に禅者の家に一冊いかが?


人生の各時期には課題がある。それを禅的に人生公案といってもいい。

とはいっても拳(こぶし)を固めて身構えるようなものではない。
「その嫉妬深い性格なんとかならんのかね?」
「そろそろ今の仕事に飽き飽きしてんじゃないの?」
「今さらフラれた女をどうこう言うなんて未練がましくてイヤだねえ」
みたいなお茶目なテーマを一つ一つクリアしたらよいだけなのだ。
ところが、これを難しく言うと“執着を捨てる”ということになる。

課題に気づいたらそれを克服して次の課題に移るまでの話なのだけれど、
常識、道徳、伝統、信仰、倫理を基礎とした社会の仕組みにたらし込まれて、
ほとんどの凡人はあえなく撃沈されているというわけである。

こうして無駄に歳を重ねて手に負えないほど山積みとなった課題は、
人のカルマを構成し、星回りにしたがって節目ごとに掃きだされる。
それは運命の打撃のように見えて、その実、気づきを促すカルマの鉄槌。
節目の歳に巻き込まれる事件に遭遇した時こそ運命変革のチャンスなのだ。
絶好の機会に適切な対応をとれば巻き返しは十分可能なのである。

しかし、これは最後の切り札みたいなものかもしれない。
ユングのようにセンスに恵まれている人は余裕を持って成長を遂げるのに、
凡人のボクは運命のショック療法によってギリギリ追いつくしかなかった。

とはいえボクは絶好の機会を適切にとらえる方法しか知らないので、
凡人出身のボクとしてはボクの歩いてきた声聞道を解説する次第である。

このニサルガダッタの言葉はその基本姿勢を適切に表現していると思う。

すべてが失敗したとき、人生が教えるのだ。 だが、人生の教訓は長い時を必要とする。 信頼し、服従することによって多大な遅延と困難が回避される。

(『アイ・アム・ザット 私は在る』-P.491「91 快楽と幸福」)


つまりボクの声聞道は内なる師の指導を信頼して服従するというものだけれど、
その内なる師の意図を推理洞察するためのそこばくのテクニックがある。

それを三つばかり紹介してみたい。

矢印マーク 『アイ・アム・ザット 私は在る』

結局このニサルガ・ヨーガに行き着いたのは驚きだ。
ニサルガダッタ・マハラジはあまりにクール。
そのため当初は冷徹な印象を受けたものである。
でも実はそれが本当の慈悲であり愛だった。
愛は神であり、神は愛である。
ゆえに愛はパラドックスである。

赤雲水

応用心随観

黒雲水

まずは基本となる応用心随観から解説してゆくのが筋道だろう。

声聞道実践技法その一:応用心随観


これは日常生活にあらわれる内なる師の声なき声を聞くためのテクニックで、
前回の記事で簡単にふれたこのフレーズから始めるといいと思う。

「また内なる師がそそのかしていやがる」


“困ったちゃん”や“困った状況”に出会ったときにこう考えてみることで、
周囲の環境ではなく自分の心の中に解決策を探ることになるからだ。

そうすると“困ったちゃん”や“困った状況”を“困った”にしている原因は、
あれこれとつまらない回想に精を出している“困った自我”にあるとわかる。

「いつもコイツのせいでとばっちり喰ってばかりだ」
「商売をやるなら誠実でなければならないのに、セコイね、ここの店員は」
「何か悪い予感がする。うまくいった前例(ためし)がないからなあ」

こうした何かとしつこい回想を何度も繰り返している自我に気づいたら、
その“困った自我”の作り出す困った回想を止めてしまえばいい。
そのときに使うボクのお気に入りのフレーズはこれ。

「それがどうした」


これで困った回想を止めたうえで言葉の処方箋によって止(とど)めを刺す。

要するに坐禅の最中や机上で記憶をたよりに実践してきた心随観を
日常生活の中にも応用して実践するわけである。

もしも同じ人物が何度も同じ失敗を繰り返したり、嫌な行動をとるようなら、
それが内なる師の声なき声だと思って間違いない。

そうして困った自我の困った回想が浮かび上がってこなくなる頃には、
その人物の問題行動が気にならなくなるだけでなくピタリと止むはずだ。

もちろん「それがどうした」というフレーズは別の表現にしてもいい。

「困ったことは起こらない」


これは『変な人が書いた成功法則』の著者・斎藤一人さんの方法論。

私がここ何年か長者番付で事業家の中でトップになるようになって、 週刊誌が「斎藤氏は親の面倒をいっさい見ない」といった類の、 いろいろな噂(うわさ)を書くようになりました。
でも、私はこれでも親の面倒は見ているつもりです。 それなのに、週刊誌にそんな記事が出るものですから、私の家の近所の人から、
「斎藤さん、親の面倒は見てあげたほうがいいよ」
と言われてしまうのです。
この言葉に、私は、一瞬ムッとしてしまいました。
「ふざけるな!」と思ってしまったのです。
でも、よく考えてみると、私が「親の面倒を見ない」と近所の人から思われることで、 私はいったい何に困るというのでしょうか。
そんなことを思われても、私は三度三度のご飯を食べることができますし、 仕事のほうもとても順調にいっています。
私の親だって、ちゃんとご飯は食べていますし、 旅行に行ったりして楽しく暮らしています。
私に困ったことは起きていないし、誰も困っていないのです。
そう思い直したら、いつのまにかくだらない噂も消えてなくなってしまいました。

(『変な人が書いた成功法則』-P.22「「困ったことは起こらない」と考えると」)


斎藤一人さんは「困ったことは起こらない」と考えるだけで成功してきたそうだ。
そして、これはこのフレーズの効用を説明したもの。

私が言いたいのは、そういうふうに考えると気持ちが楽になりますよ、ということではありません。
「困ったことは起こらない」と考えたときに、現実が変わるということを知っていただきたいのです。

(『変な人が書いた成功法則』-P.21「「困ったことは起こらない」と考えると」)


ボクもまったく同感である。

矢印マーク 『変な人が書いた成功法則』


読みやすいため理解は容易なのだけれど、
頭で理解するのと痛感するのとでは次元が違う。
一度読んだくらいでわかったと思ったら大間違いだ。
著者・斎藤一人さんは声聞道の大家なのである。
「声聞道って何よ」って言ったらコレなのよ。
『変な人が書いた驚くほどツイてる話』
と合わせて声聞道二部作ってとこかな。

矢印マーク 『変な人が書いた驚くほどツイてる話』

声聞道の本質はここにしっかり書かれてある。
しかも自分の言葉で説いてあるから読みやすい。
本当にわかってないとこういう風にはいかないよ。
『変な人が書いた成功法則』
と合わせて声聞道二部作だ。

夢観

次に声聞道実践技法の二つめとしてボクは夢観(ゆめかん)をおすすめしたい。

声聞道実践技法その二:夢観


夢観は具体的な修行法として挙げられることはあまりないようだけれど、
日本の仏教界では明恵上人が夢日記を付けていたことで有名である。

32歳からの一時期。『夢分析』を著したフロイトに師事していたユングもまた、
夢分析によって心の中を探求し内なる師との対話を成し遂げていた。
彼の創造性の発現はこの時期に学んだ夢分析によって加速したはずである。

後に決別したもののユングはフロイトの『夢分析』の功績をこう称(たた)えている。

彼が我々の文明に与えた衝撃は、彼の無意識への道の発見から出ている。 夢を無意識過程にかんする最も重要な情報源とみなすことによって、 彼は取り返しのつかないまでに失ったかのように思われる道具を 人類の手許に取り返したのである。

(『ユング自伝機-P.242「ジクムント・フロイト」)


そして、これは『夢学(ユメオロジー)』よりパトリシア・ガーフィールドの言葉。

夢のもつ意味はあなたの考え方ひとつで決まる。
…夢には深い意味があると考えれば、 あなたは深い意味のある夢をみてそれを覚えていることだろう。

(パトリシア・ガーフィールド『夢学(ユメオロジー)』-P.244「第九章 夢をコントロールする力を伸ばす方法」)


とりとめのない夢に大した価値のあるわけもなくナンセンスな話だと思えば、
まさしくナンセンスな夢しか見れない。夢とはそういうものなのである。

夢観とは夢の価値を認めて夢を分析してみるだけという単純なものなのに、
内なる師の指導の意図を推理洞察する能力を磨ける。その効果は計り知れない。
夢の価値を認めた禅者なら絶好の機会を見逃すことはないとボクは信じている。

それではボクの夢観体験から具体的な例をいくつか挙げてみよう。

トラウマ提示型の夢


まずは“体育ジャージと水泳パンツの夢”。
学校の体育ジャージや水泳パンツを忘れるという夢をボクは何度も見ていた。
忘れモノをした言い訳や体育の授業をサボる口実を考えている夢である。

ボクは泳げないわけでもないのに小学校の水泳の授業が嫌いだった。
というのも小学校に入学する前に公園の池で溺れた経験があったからだ。
そのときは大事に至る前に父親に引き上げられて助かったのだけれど、
父はどういうわけかボクの濡れたパンツを車の屋根に放置したまま発車。
ボクのちょっぴりウンコのついたパンツは帰り道で晒しものになったわけで、
そのときに感じた恥辱が水に対するトラウマになっていたに違いない。
水泳パンツをわざと忘れたりして水泳の授業をサボることがしばしばあった。

今度はその時に感じていた罪悪感が新たなトラウマを生み出して、
“体育ジャージと水泳パンツの夢”をボクに見せていたのだと思う。
過ぎたことに罪悪感を感じなくていいと気づいたらこの夢を見なくなった。

こうした“トラウマ提示型の夢”に気づいている人は多いのではないだろうか。

教訓提示型の夢


次に挙げるのは別パターン。“教訓提示型の夢”である。

これは自分の考えることは物事の一側面にすぎなくて、
そこから導かれる判断は独断にすぎないと気づきはじめた頃に見た夢。

周りにいる知人たちが何やら楽しそうに何かの作業をしていた。
ボクもそのメンバーの一人だったのでボクは周囲に訊いてまわった。
「ねえ、何やってんの?」「何か手伝うことはないか?」
ところが、返ってくる答えはひとしなみに決まっている。
「ん〜ん、内緒、内緒」
「いいの、いいの、君はみてるだけでいいんだよ」
「ここにはないな。他を当たってみてよ」
それで夢の最後に訊(き)いたやつはこう答えた。
「君には教えられねえな」
頭にきたボクはそいつの鼻っ柱を殴った。
すると、そいつは机の角に頭をぶつけて倒れ、辺りは血の海と化した。
その瞬間、ボクの後ろにいた女性の声が響いてきた。
「なんてことしたの?みんなでアナタの誕生日パーティの準備をしてたのに」

この“教訓提示型の夢”は“気づき”の深まってくる頃にダメ押しの形で見る。
目覚めたら汗びっしょりなこと請け合いだ。心臓発作を起こさないようご注意を。

問題解決型の夢


最後に挙げておきたいのは“問題解決型の夢”だ。

たとえば『詳説ぷっつん体験』で紹介したような時節の到来を知らせる夢などで、
このタイプの夢は智慧や明らかなメッセージ性を帯びているのが特徴。

ボクは夢の中に出てきた爺さんにストレッチを教えてもらったことがある。
その爺さんの教えの一つに「足首を回すといい」というものがあった。
もちろんはじめは半信半疑だったのだけれどヨガの本などを読み返すと、
足首というのは全身の神経の集中する部位なので念入りにまわせとあった。

記憶の片隅にあったものが夢の形になったのか、それとも叡智の囁きなのか。
ボクは“叡智の囁き”だと思いたい。だって、その方が夢があるではないか。

もう一度繰り返すけれど夢が意味を持つのは夢の価値を認める時だけである。
しかもその解釈は他の誰にも委ねることはできない。

夢はあなたの最も個人的な表現であるかもしれない。 あなた以外の誰も、あなたの夢が意味するものを言い当てることはできない。

(パトリシア・ガーフィールド『夢学(ユメオロジー)』-P.237「第八章 夢日記のつけ方」)

夢に適切な連想を働かせることのできる人物は、あなたをおいてほかにいないのだ。 夢のシンボルに連想を働かせながら、あなたの夢のいくつかをまるごと別の形に移し替えてごらんなさい。 そうすれば、あなたは自分自身について多くのことを学ぶことができる。

(パトリシア・ガーフィールド『夢学(ユメオロジー)』-P.237「第八章 夢日記のつけ方」)


内なる師の指導の意図を推理洞察する能力は夢観で効率的に磨けるため、
坐禅などの行をしていないユングでも悟境の格段の進歩を得られたのである。

矢印マーク 『夢学(ユメオロジー)―創造的な夢の見方と活用法』

夢は創造性の扉。
夢を制する者は人生を制する。


さらにユングの選択した精神科医という職業も悟境の進歩に一役買ったはずだ。
次の声聞道実践技法は黙聞観(もくもんかん)。精神科医なら必須の技術だろう。

青雲水

黙聞観

緑雲水
声聞道実践技法その三:黙聞観


黙聞観の重要性はD・カーネギー『人を動かす』にまつわる出来事で気づいた。
『人を動かす』は人間関係を好転させるコツを余蘊(ようん)なく書きとめた名著。
言わずと知れた自己啓発書の王様である。

大学一年のときに矢沢永吉『成りあがり』のエピソードでこの本を知ったボクは、
普通は逆なんだろうけど、帰省した際に46歳サラリーマンの父にプレゼントした。

母いわく「若い連中の考えてることがわかった気がすると言ってた」そうだから、
とりあえず職場でこの本にある処世術の方法論を実践してみたらしい。

ところが50代を迎えた父は出世街道から見事に外れ犬とキャンプに入れあげた。
約10年の歳月を無駄に過ごして54歳転落組になってしまったわけである。

50代も後半になる頃には焼酎をあおったついでにこう呟くようになっていた。
「オレはいつも出世の邪魔をされてきた」
なんでもそれは、偏屈な上司への付け届けを怠ったことに始まり、
同僚に悪い噂を流されたことで決定的となり、
時には母の器量の悪さも手伝って、こうなってしまった次第であると結論づけた。

こんな風に悪果の原因を自分の心以外の事象に責任転嫁しているかぎり、
「自分がこれだけ親切にしているのに…」などの感情を拭(ぬぐ)えない。
それは相手にも確実に伝わるからどんな処世術も恩着せがましくなるのだ。

やはり『人を動かす』の方法論はうまくいかなかったらしく、父の本棚には
『上司が「鬼」とならねば部下は動かず』という本がいつしか並んでいた。

『人を動かす』の効果について著者D・カーネギーはこう述べている。

重ねていう。 本書の原則は、それが心の底から出る場合にかぎって効果をあげる。 小手先の社交術を説いているのではない。 新しい人生のあり方を述べているのである。

(D・カーネギー『人を動かす』-P.300「PART4−人を変える九原則」)


『人を動かす』は小手先の処世術を述べたものではなかったのである。

誰でも運命の分かれ道にはそれを乗り越えるためのヒントを与えられるもので、
父もこの本の真意に気づいていたら54歳転落組にはならなかっただろう。

思い出のD・カーネギー『人を動かす』は父の本棚に今でも眠っている…。

矢印マーク 『人を動かす 新装版』

小手先の処世術だと思ったらしっぺ返しを喰らうだろう。
化けの皮は剥がれるものと相場が決まっている。
この本を活かすにはもうひと越え必要なのだ。


『人を動かす』は有名なので向上心のある人なら一度は読んでいるはずである。
ところが、そのほとんどの人において読書の効果を持続できていないと思う。

どんな処世術を駆使してもちょっと付き合えば心の中を見透かされるものなので、
化けの皮はそう遠くないうちに剥がれると相場が決まっているからだ。

そうなるのも“禅者の謙虚さ”を身に付ける努力を怠っているためである。


汝の内なる師の導きを信頼して頭(こうべ)をたれ、
而(しこう)して、隣人の内なる師の導きも信頼し耳を傾けよ。
(布施仁悟)


とりわけこの認識に欠けているならどんな処世術にも効果はない。

問題を解決する能力は誰の中にも眠っている。
(布施仁悟)


たぶん声聞道を実践して“禅者の謙虚さ”を身に付けはじめたならば、
「人を動かせる人は、人を動かそうとしていない」という逆説に気づくだろう。

精神科医のユングは患者との対話の中でこの逆説に到達したらしい。

実は治療は患者の中から自然に芽生えてくるべきものである。

(『ユング自伝機-P.191「 精神医学的活動」)

私は患者を何かに変えようとは決してしなかったし、何らの強制も行わなかった。 私にとっていちばん重大なのは、患者が物事について彼自身の見解をうることである。

(『ユング自伝機-P.201「 精神医学的活動」)


どうやらユングは、その過程で“見限り”も学んでいたようである。

私はもし患者が彼に示されている道を進みたがらず、 その結果に責任をもちたがらないならば、その点を決して無理強いはしない。

(『ユング自伝機-P.205「 精神医学的活動」)

抵抗は、ことにそれが頑強なときには注目に価する。 なぜなら、抵抗はしばしば看過されてはならない警告だからである。 治療は必ずしもすべての人が手に入れられるとは限らない。 それは毒薬かもしれず、あるいはまたそれが禁忌である場合には、 致命的なことが立証される手術なのかもしれない。
最奥の体験へ、また人格の核へ達しようとするところではどこでも、 たいていの人々は恐怖に打ち負かされ、多くは逃げ去るものである。

(『ユング自伝機-P.205「 精神医学的活動」)


このときユングが患者との対話で用いていた技法こそ黙聞観なのだ。

これはボクの言う黙聞観の技法に焦点を当てた本である。

矢印マーク 『愛と癒しのコミュニオン』

これが『人を動かす』処世術の基礎となる。
黙聞観は小手先の対話術ではないから、
自分の心を観察してこそ効果がある。


この本では黙聞観を『アクティブ・リスニング』という名称で紹介している。
いわゆる“聞き上手”になるための方法論でその対話の基本原則は5つ。

『アクティブ・リスニング』

「批判しない」
「同情しない」
「教えようとしない」
「評価しない」
「ほめようとしない」


参考:『愛と癒しのコミュニオン』


要するに対話の相手を無理に変えようとする言葉を極力使わない対話術で、
その禁句の類型をアメリカの心理学者のトマス・ゴードンが十二にまとめている。

『トマス・ゴードンの十二の禁句』

○命令、指示
「これ、がんばってみたら」
○注意、脅迫
「あとで後悔しても知らないよ」
○訓戒、説教
「やめておいたほうが身のためだと思うよ」
○忠告、解決策などの提案
「私なら、こうしてみるけど」
○講義、講釈、論理の展開
「まだ分からないとおもうけど、そういうものなのよ」
○判断、評価、批判、反対、非難
「そんな考え方には賛成できないな」
○賞賛、同意
「さすがだね。その通りだと思うよ」
○悪口をいう、ばかにする、辱(はずかし)める
「それでよく恥ずかしくないね」
○解釈、分析、診断
「君の不徳のいたすところだな」
○激励、理解、同情
「ちゃんとうまくいくから、大丈夫だって」
○探る、質問、尋問
「それで君は、何をしたいの?」
○中止、撤退、注意をほかへそらす。笑いにまぎらす。
「こんな話をしてもラチがあかない。まずは行動しなくちゃ」


参考:鈴木秀子『愛と癒しのコミュニオン』-P.41-44


これらは相手に「自分は受け入れられていない」という感覚を抱かせるそうだ。
ただし四角四面に受け取ると賞賛や激励や質問の言葉もイケナイわけだから、
あいづち以外は何もできないことになる。

もちろん決してそういうことではなく、この対話術の極意は、
自分の心に浮かんでくる賛成・反対意見の一切を静めることにあるのだ。

矢印マーク 『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』

坐禅修行のプロセスを正確に記述してある唯一の本。
(2011年1月現在・ボク調べ)
こういう本が市場に出回っている現在、
秘密にしておくことなんてもはや何もないはずである。
そろそろまともな禅書を誰かが出版しても
いいのではないだろうか?


このあたりことはR・シュタイナーの『いか超』に詳しい。

特別の重要さをもつのは、他の人間の語る言葉に耳を傾ける仕方である。 この修行のためには、自分自身の内なるものを完全に沈黙させる習慣をつける必要がある。 誰かが意見を述べ、他の人がそれに耳を傾けるとき、通常は後者の心の中に賛成、 反対のいずれかが反応として現れる。その場合多くの人はすぐさま、 賛成、特に反対の意見を外に表したくなる。 しかし神秘学徒は賛成、反対のいずれの意見をも沈黙させねばならない。

(R・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』-P.062-063「霊界参入の三段階」)


つまり黙聞観は処世的な対話術ではない。自分の心との対話なのである。

一切の合理的な判断を沈黙させるだけでなく、拒否や反感または賛同の気持をも沈黙させることが大切である。 特に細心の注意を払って観察せねばならないのは、意識の表面に現れて来ない、 魂の奥底にひそむ感情の動きである。たとえば何らかの意味で自分より劣ると思われる人の発言に耳を傾けながら、 あらゆる種類の優越感や知ったかぶりを抑制することが必要なのである。

(R・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』-P.062-063「霊界参入の三段階」)


黙って相手の話を聞き自分の心の動きを観察するから黙聞観。

黙聞観を習慣にしてゆくと対話の相手は本音を語り出すものである。

自分とは正反対の意見が述べられるときにも、 「見当はずれな意見」がまかり通るときにも、 没批判的に傾聴する修行を積み重ねていく人は、次第に相手の本質的部分と融合し、 同化することができるようになる。 相手の言葉を聴く行為を通して相手の魂の中へ自己を移し入れる。

(R・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』-P.063-064「霊界参入の三段階」)


意志疎通を成し遂げられるのは相手を変えようとしないときだけで、
相手との信頼関係もそうした心境にあるときにのみ確立できる。
これは誰でも経験的に気づいていることではないだろうか。

ただし常に黙聞観をやろうとしたら疲れるだけなので計画的に実践するといい。

とはいえ、自分の生活態度を一変させて、このような徹底した内的沈黙を守り通すべきだというのではない。 自分で立てた予定に従って、選ばれた個々の場合にこの行を実践すればよい。 そうすれば時とともに、自然な仕方で、傾聴という新しい態度が習慣化されるようになる。

(R・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』-P.063「霊界参入の三段階」)


以上の応用心随観・夢観・黙聞観といった声聞道実践技法を行じていれば、
節目の歳に遭遇する絶好の機会に選択を間違うことはないはずである。

それはボクの観察では32歳から38歳までの間に遭遇するもので、
42歳以降の天職遂行へと通じる“ぷっつん体験”に関する機会と選択のことだ。

その時期に“ぷっつん体験”を成し遂げた禅者は、天職を模索しつつ、
潜在能力を目覚めさせる行を並行して実践することになる。

それは想像から創造への飛翔。オツムの使い方をコペ転しなければならない。
では『心随観のヒント』の最後に潜在能力の覚醒テクニックを書き残しておこう。

(2012.4)

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