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【坐禅作法34】葬式仏教をぶっとばせ!

ちょっとはマシな坐禅作法 葬式仏教をぶっとばせ!〜心随観のヒント 3〜

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〜心随観のヒント 3〜


君に救いの確信はあるのかい?

縁なき衆生は度し難し…。

葬式仏教とは救われない衆生による救われない衆生のための教えである。
世の中には救われない人間と法縁あって救われる人間の別があるわけで、
ゆえに救われないうちは葬式仏教を信仰していればよろしい。

ところが坐禅修業により心の成熟を遂げ今まさに救われんとするとき、
葬式仏教は足かせとなる。つまり信仰心に進歩を邪魔されることになる。

そこでそうした信仰心の呪縛を解くための言葉の処方箋を考えてみたい。

たぶん冒頭のような衝撃的な真実を告げられたらこんな疑問を生じるだろう。

果たして自分は救われる側の人間なのか?

これに対する葬式仏教の解答はこうだ。
「どのみち救われなくても救われないものと達観して坐っておればよろしい」
「どうせ救われないから西方極楽浄土にいる阿弥陀仏を唱名念仏しなさい」
「まったく救われないと食うにも困るだろうから真言・題目を唱えておこう」

結局、どの宗派も「おらが修行でいずれ救われると信じろ」としか説いていない。
ボクらは救いの確信を今すぐに欲しいから疑問を発しているのに、
「いずれ救われると信じろ」と説かれても答えになっていないわけである。
よって救われない人間は未来永劫にわたって救われないことになる。

では、その救いの確信はどうしたら今すぐに得られるのか?
ボクは意外にもキリスト教・プロテスタントの思想から解答を得てきた。

矢印マーク 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』

ボクの天職思想の原典機
大学に通って役に立った講義はこれだけだった。
これが収穫といえば収穫だったのかな。

赤雲水

天職思想の原点

黒雲水

それはプロテスタントのなかでもカルヴァン派の『予定説』。
大学の講義でレポートを書かされた『プロ倫』でこの思想を知った。
『プロ倫』は正確には『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』。
マックス・ウェーバーの論文で社会学の古典的名著とされている。

カルヴァン派の『予定説』とはざっとこういうものだ。

1.神に選ばれている者と選ばれていない者は予め決まっている。
2.ただし神に選ばれているかどうかはどうせ人間にはわからない。
3.ならばボクら人間は神の栄化のために目前にある仕事を天職としよう。
4.それを疑うなんてやつはそもそも選ばれていない証拠である。

選びの確信のないものはそもそも選ばれていない証拠なのだから、
それを払拭するかのように目前にある天職に励めよという教義である。

その天職の遂行により得られる金銭にケチをつける道理はない。
そこで金銭を稼ぐことを不浄な行為としていたヨーロッパ中世の常識は、
この『予定説』によって覆えされ近世の資本主義を準備したというのが、
『プロ倫』におけるマックス・ウェーバーの主張だった。

日本では葬式仏教のせいで現代でも清貧を理想とする風潮があるため、
不労所得としての金銭に敵愾心を燃やす経済オンチの御仁が多くて困る。

ゼロ金利、不況下におけるインフレ、株式市場の大安売りを目前にしながら、
外国人投資家の介入によってお祭り状態になるまで市場には見向きもしない。
おかげで日本の株式市場の資金調達機能はマヒ状態である。

そのくせ経済オンチはいないことを前提としたケインズ経済学を信仰し、
借金を返す当てもない公共事業投棄だけは知っているから目にあまる。

たとえばせっかく2011年3月11日に未曾有の震災・津波被害に遭遇して、
歳出削減の絶好の口実を得たにもかからわず政府は増税論議を始める始末。
税収は消費税増税で減少するという事実を2度も突きつけられたのに、
資本主義の道理を学ぼうともせず自国経済の首を絞めようとしている。

たとえばここにマックス・ウェーバーの『プロ倫』の理論を当てはめると、
そうした経済オンチが闊歩する社会病理の元凶は葬式仏教にあるわけだ。
ああ、うらめしきかな葬式仏教。

そんな救いようのない葬式仏教徒の話は涯(はて)がないからさておいて。

果たして自分は救われる側の人間なのかという問題であるけれど、
カルヴァン派の『予定説』というのもやはり答えになっていなかった。

大学時代に掴んだ『プロ倫』を片手に世の中に飛び出していったボクは、
結局25歳の頃にバーンアウトした。張り切りすぎて燃え尽きたのである。

救いの確信もないのに目前の仕事を天職とするわけにはいかないもので、
どんなに頑張っても疑いを払拭できるものではなかったのだ。
気づいたら高尚な理念とは裏腹な自分の人格、境遇すべてに嫌気を差していた。

そこでひとまず人生をリセットするために公認会計士の受験勉強を始めてみた。
ついでに合格までの数年間で次の人生戦略を見つけるつもりで仕事も辞めた。

そんなボクが20代を通じて得た教訓は惨めなものである。

努力も方向性を間違うとロクなことにはならない。
(布施仁悟)


こういう教訓は肌身で感じ取らなければならないのが辛いところだ。

天職思想の原点


そうして努力の方向性を模索していたときに読んだ本が『フランクリン自伝』。

矢印マーク 『フランクリン自伝』

ボクの天職思想の原典供
フランクリンは救世主。


これは『プロ倫』で度々引き合いに出されていたため大学時代に一度読んでいた。
その後もどういうわけか手放せず本棚の一隅を飾り続けていたのである。
時宜(じぎ)を得た29歳。『フランクリン自伝』を再び読み返してみることになる。

彼はアメリカ資本主義の父と呼ばれ100ドル紙幣の肖像でも有名な人物。
フランクリンを成功に導いたのもプロテスタント的発想であったから、
20代のボクとフランクリンの発想の違いを突きとめる必要性を感じたのだ。

そもそもフランクリンは宗教の本質を見つめようとしていた人物なので、
特定の宗派には属さなかった。したがって純粋なプロテスタントとはいえない。

とはいえその発想は極めてプロテスタント的なのである。

確実に、不変に、つねに正道を踏んで違わぬという自信を少しでもうるためには、 まずそれに反する習慣を打破し、良い習慣を作ってこれをしっかり身につけねばならない…。

(『フランクリン自伝』岩波文庫-P.136「十三徳樹立」)


ここで言う“つねに正道を踏んで違わぬという自信”は救いの確信に他ならない。
その救いの確信は自発的に習慣を変えれば得られると説いているのである。

しかもフランクリンは具体的な方法論まで書き残してくれていた。
それが23歳頃に樹立したという『十三徳』。
これは自分にとって欠けていると思われる徳を十三にまとめた戒律である。

『フランクリンの十三徳』

○節制…飽くほど食うなかれ。酔うまで飲むなかれ。
○沈黙…自他に益なきことを語るなかれ。駄弁を弄(ろう)するなかれ。
○規律…物はすべて所を定めて置くべし。仕事はすべて時を定めてなすべし。
○決断…なすべきをなさんと決心すべし。決心したることは必ず実行すべし。
○節約…自他に益なきことに金銭を費やすなかれ。すなわち、浪費するなかれ。
○勤勉…時間を空費するなかれ。つねに何か益あることに従うべし。無用の行いはすべて断つべし。
○誠実…詐(いつわ)りを用いて人を害するなかれ。心事は無邪気に公正に保つべし。口に出だすこともまた然るべし。
○正義…他人の利益を傷つけ、あるいは与うべきを与えずして人に損害を及ぼすべからず。
○中庸…極端を避くべし。たとえ不法を受け、憤りに値すと思うとも、激怒を慎むべし。
○清潔…身体、衣服、住居に不潔を黙認すべからず。
○平静…小事、日常茶飯事、または避けがたき出来事に平静を失うなかれ。
○純潔…性交はもっぱら健康ないし子孫のためにのみ行い、これに耽(ふけ)りて頭脳を鈍らせ、身体を弱め、または自他の平安ないし信用を傷つけるがごときことあるべからず。
○謙譲…イエスおよびソクラテスに見習うべし。


(『フランクリン自伝』岩波文庫-P.137-138「十三徳樹立」)


これを毎日検査するという単純な方法論である。
この『十三徳』の効験をフランクリンはこう述べている。

大体から言えば、私は自分が心から願った道徳的完成の域に達することはもちろん、 その近くに至ることさえできなかったが、それでも努力したおかげで、 かような試みをやらなかった場合に比べて、人間もよくなり幸福にもなった。 ちょうど法帖(ほうじょう)を手本として完全な筆法を会得しようとする者が、 手本通りの理想的な筆蹟になることはできなくても、 骨折っただけ筆蹟がよくなり、きれいに明瞭に書いてさえあれば、 相当見られるようになるのと同様である。

(『フランクリン自伝』岩波文庫-P.147「十三徳樹立」)

この物語を書いている数え年で七十九歳になる今日まで 私がたえず幸福にして来られたのは、 神のみ恵(めぐみ)のほかに、このささやかな工夫をなしたためである。

(『フランクリン自伝』岩波文庫-P.147「十三徳樹立」)

久しい間健康を保ちつづけ、今もなお強健な体格を持っていられるのは、 節制の徳のおかげである。若くして窮乏を免(まぬが)れ、 財産を作り、さまざまの知識をえて有用な市民となり、 学識ある人々の間にある程度名を知られるようになったのは、 勤勉と倹約の徳のおかげである。 国民の信頼をえて名誉ある任務を託されたのは、 誠実と正義の徳のおかげである。またつねに気分の平静を保ち、 人と語るさいには快活を失わず、そのために今日も親しみ近づこうとする人が多く、 若い知人からも好感を持たれているのは、 不完全にしか身につけることができないでしまったものの、 右にあげた十三の徳が全体として持っている力によるのである。

(『フランクリン自伝』岩波文庫-P.148「十三徳樹立」)

それで私は、子孫の中から私の例に倣(なら)って利益を収めようとする者が出て来ることを希望するのである。

(『フランクリン自伝』岩波文庫-P.148「十三徳樹立」)


思えば大学生の頃は若気の至りで実践しようとまでは考えなかったわけで、
29歳を迎えていたボクはその切実さゆえに謙虚になっていたのだろう。
その歳になってようやく『十三徳』を真似てみることにした。

当然、最初は戒律の遵守ばかりに気をとられていたので何もなかったけれど、
どういう考え方をしたら戒律を遵守できるかを考え始めた頃から効果は現れた。

自分の周囲の環境が変わるのである。

青雲水

困ったちゃんと折り合いをつけるための言葉の処方箋

緑雲水

たとえば偏見に基づいた知ったかぶりを聞かされると言い返したくなるものだ。
その状況に『十三徳』のうちの沈黙の徳で対処してみたとしよう。

沈黙…自他に益なきことを語るなかれ。駄弁を弄(ろう)するなかれ。

そこで言い訳も何も一切しない。ただ黙ってその状況を耐え忍んだとする。
ただし沈黙しただけではその状況に何の変化も起こらない。
そのやっかいな“困ったちゃん”はいつまでもつきまとってくる。

というのも『十三徳』はあくまでも戒律なのでその真価を発揮するためには、
そのときの心の状態を観察する必要があるからである。

そこで心の中を観察してみると何ともこざかしい思考が渦巻いているものだ。
「オツムが逝ってることを自ら証明してるだけだってワカンナイのかね?」
「もしもこいつを回心させてやるとしたら何と言ったらいいだろう?」
「いやいや、縁なき衆生は度し難し…。沈黙したほうが得策だ」

こうした困ったちゃんとの状況を打破する答えは実にパラドックスである。
状況に手を加えるのではなく思考の一切を止める考え方を考えるといい。

Case2 困ったちゃんと折り合いをつけるための言葉の処方箋


今世では救われず、来世、再来世ではじめて救われる衆生もいる。

人間として生きているかぎり愚かさの犠牲はつきまとう。
(アインシュタイン)


そんな衆生でも聞く耳を持っているなんて期待するからおかしなことになる。

聞く耳を持たざるものに、かける言葉はみつからない。
(布施仁悟)

人はみずから気づいたことしか信じない。だから、お説教はいらない。
(布施仁悟)

心に準備のない限り、どんな忠告も効果はない。
(布施仁悟)


この世はまさに玉石混交。救われない衆生のあら探しなんてやめとこう。

世の中に欠点ばかり見えるのは自分の欠点。
(布施仁悟)

世間の無知はやたらと分析しない方がいい。
(布施仁悟)

どんなに高尚な理念もおよそ雑念の域を出ない。
(布施仁悟)


聞く耳を持たない彼らに理解してもらうおうとするのは自尊心のない証拠。

自分以外の誰かにわかってもらおうと思う心はこざかしい。
(布施仁悟)

中身の乏しい連中に評価されてもしょうがない。
(布施仁悟)


因果律こそ彼らの師。禅者の出る幕はない。時節の到来まで放っておけ!

好きなように思わせておくのが一番。何事も反論の余地はない。
(布施仁悟)

時には何も言わないことが最も必要な忠告を与える。
(布施仁悟)


もちろん理不尽な仕打ちに出くわすことも偶(たま)にはある。

世間の人たちは理不尽な思いをぶつけて自分の価値を確かめたがる。
(布施仁悟)


そんなときこそ彼らの無智に理解を示せ。救われない衆生にも五分の魂。

心の病気の子供を非難してはいけない。
(ジョセフ・マーフィー)

世間の人たちは自らの無知をあからさまに粉砕されることをあまり好まない。
(パドリ・マハサヤ)

自分にもそういう時期があったとわかれば自然にゆるせる。
(布施仁悟)

人は傷つくまいとする度に心の重荷をひとつ増やし、
傷つけまいとする度に心の重荷をひとつ減らす。
(布施仁悟)


こうして知ったかぶり屋にまつわる思考の一切を忘却してしまう頃。
その困ったちゃんの言動が変わるか、あるいは縁が切れるようになっている。
これが宇宙の摂理ともされる因果律のカラクリなのである。

またこのときに導いた教訓を言葉の処方箋としてストックしてゆくと、
様々な状況に対処するための智慧を蓄積してゆくことにもなる。
仏法を学ぶとは経典を読むことではなくこうした地道な作業の積み重ねなのだ。

おそらくフランクリンを成功に導いたのは『十三徳』の戒律そのものではない。
むしろ、『十三徳』の実践を通じて因果律のカラクリを暴いたことにある。
自分の心を変えたら環境も変わったという体験は自信をもたらすからだ。

だからこの一連の作業を続けてゆくだけで救いの確信は自然にやってくる。
どんな境遇にあろうと“つねに正道を踏んで違わぬという自信”さえあれば、
目前にある仕事が何であろうと疑いなく天職になるという道理なのである。

よって知るべし!戒律などの教義は舞台の書き割りに描かれた月ではない。
それを義務的に視認するばかりで教条的に解釈しているうちは、
心を明るく照らすことはなく、却って暗雲立ち込めるものなのである。

これで日本の仏教界が葬式仏教と揶揄されて然るべき理由もわかると思う。
仏教教義を教条的に解釈しているがゆえに自信の回復を伴わないから、
誰も救いの確信を得られない。この教条的解釈こそ葬式仏教の教義であり、
そこに生じる心の隙に先祖供養、戒名、墓、仏壇などの形式信仰は忍びこむ。

ボクは禅者だけれど念仏も題目も日本の仏教界におけるひとつの沃野だと思う。
その教義自体に問題があるのではなく問題は衆生のオツムの方にあるからだ。
葬式仏教を蔓延らせるのはオツムの調子のイマイチな日本人社会なのである。

とはいえ葬式仏教を支えている仏教教義の教条的解釈の根は深い。
弊害をもたらす教条的カルマ論が三つ子の魂に刻み込まれているからだ。

そこでまずは葬式仏教徒にありがちな教条的カルマ論の誤解を解いておこう。

(2012.3)

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