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【坐禅作法33】21世紀の禅語

ちょっとはマシな坐禅作法 21世紀の禅語〜心随観のヒント 2〜

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〜心随観のヒント 2〜


今ここに21世紀の禅語を開陳せん

禅者の値打ちはその時代の言葉で禅の教えを伝えることにある。

古色蒼然とした祖師方の禅語録に頼ってばかりいることはまかりならぬ。
古きにかたよらず、新しきにおもねらず。今ここに21世紀の禅語を開陳せん。
人類みな禅類!?禅の新時代の幕開けだ。YAH!YAH!心躍らせてみせようぞ。

というわけでボクの坐禅修行で創ってきた言葉の処方箋を公開しようと思う。

とはいえ劣等感の形というのは人それぞれなので微妙なところではある。
当初オツムに入力された常識、道徳、伝統、信仰、倫理は、狡猾な心に欺かれ、
偏見、迷信、妄想、詭弁などの独断的ないし理念的信条に個性化しているからだ。

つまり言葉の処方箋を公開したところで誰にでも当てはまるものではないから、
やはり各人なりの工夫を要求されるわけで、そこが坐禅修業の醍醐味でもある。
もしかしたら公開しないほうが望ましいのかもしれない。

ただし“新たな心の契約”の概念を提唱してしまった以上、
隗(かい)より始めよとばかりにボクが創作例を公開せねばなるまいとも思うわけで、
これは言い出しっぺの宿命でもあるだろう。その是非の判断は各人に委ねたい。

仁悟式禅語帳

言葉の処方箋を本気で創作しはじめるなら、 ノートよりも差し替えの可能なメモ帳がいい。 納得いくものができるまで何度も書き直せるしね。
写真のメモ帳カバーはボクの自作。
かっこいいでしょ。 でも、おだてられたって作ってあげないよ。

写真:布施仁悟(著作権フリー)


そもそもボクが坐禅を始めた当初の工程は全30分。
そのうち10〜20分は言葉の処方箋を音読することに終始していた。

したがって実質的に坐っていた時間は10分程度にすぎないことになるけれど、
たしか“ぷっつん体験”をする頃までの1年間をそれで通したはずである。
オツムの固いボクは坐禅の効果自体をあまり信用していなかったのだ。

言葉の処方箋をまとめた『仁悟式禅語帳』に中村天風の言葉が残っているから、
おそらくそれをバカ正直に実践していたものと思われる。

言葉には人生を善くも悪くもする力がある。

(中村天風『運命を拓く-天風瞑想録』より)


坐禅の時間を増やしたのは、“ぷっつん体験”前後に身辺に起こった体験で、
アダム・スミスの言う“神の見えざる手”の存在を信じざるをえなくなってからだ。

おかげで悟境の進歩は修行ではなく修業によるという確信を得られたのだから、
オツムの固い体験至上主義も時には悪くない。

赤雲水

坐禅の目的と手段

黒雲水

今思えばその方法は偶然にも坐禅の目的と手段に合致するものだった。
巷間の坐禅の本で紹介されている行法はその目的と手段を履き違えている。
それは悟境の進歩どころか悟境の退歩を招き下手を踏めば再起不能となるものだ。

そんな地雷みたいな行法を踏まないように坐禅の目的と手段を確認しておこう。

おそらく坐禅や瞑想に入門する動機は人に自慢できるようなものではないと思う。

記憶力を取り戻したい。
ドツボにハマっている人生をなんとかしたい。
超能力を身につけたい。
幸運を引き寄せたい。

無論、それが坐禅に出会う契機となったのだからその動機を否定するつもりはない。
ボクもその一人だったし、坐禅はそのちんけな願いすら叶えてくれるだろう。
ただし条件がある。『坐禅の目的と手段を履き違えてはいけない』ということだ。

矢印マーク 『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』

坐禅修行のプロセスを正確に記述してある唯一の本。
(2011年1月現在・ボク調べ)
こういう本が市場に出回っている現在、
秘密にしておくことなんてもはや何もないはずである。
そろそろまともな禅書を誰かが出版しても
いいのではないだろうか?


坐禅の目的は正しい欲望を探求する過程でおのずから発見できるものである。
禅で“欲を捨てる”という場合の『欲』とはその“正しい欲望にふさわしくない欲”。
そして、ここで言う正しい欲望とは天職を遂行させていただくという大志のことだ。

どんな場合にも、人間の使命はこの地上に求められねばならない。 地上での使命を離れ、別の世界へ逃避しようとする人は、 決して目標に到達しないであろう。 …けれども感覚が知覚するものは世界の一部分に過ぎない。 そして霊界にも感覚的世界の諸現実の中で自己を表現する霊たちがいる。 人間は霊界に関与し、その啓示を感覚界の中に持ち込むことができなければならない。 人間が地上を変革しうるのは、霊界から探知しえた事柄を、 地上に移し入れることによってである。この点にこそ、人間の使命がある。 感覚的な地上世界は霊界に依存している。 創造的諸力が隠されているあの世界に関与することによってはじめて 人間は地上で本当に有効な働きをすることができる。 それ故にこそ、霊界への参入を望むべきなのである。

(R・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』P.217「神秘修行における人格の分裂」)


また坐禅の目的と手段を履き違えなければどんな危険も懼(おそ)れることはない。

本当の危険は、霊的経験に際して、修行者が忍耐を持たず、 あまりにも早くから自分を独立させ、 超感覚的法則を十分認識できるようになるまで謙遜な態度を 保ちえなかった時に生じるのである。 霊的体験の領域では謙虚とか謙遜とかいう言葉が 通常の生活におけるよりもはるかに現実的な意味をもっている。 これらの言葉の意味するものが本当に正しく修行者に受け入れられた場合、 霊界への参入は、健康や生命に関する危険を一切伴わずに必ず実現される。

(R・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』P.216-217「神秘修行における人格の分裂」)


行の世界には手段を履き違えたせいで廃人同然になった例もあると聞くけれど、
それは呼吸法や真言(マントラ)読誦その他の精神集中の修行だけで、
簡単に心を浄化できるなんて巧言に乗せられた悲惨な末路なのである。

もとより心というものは敵にもなれば味方にもなる。

憎む人が憎む人にたいし、怨む人が怨む人にたいして、 どのようなことをしようとも、 邪(よこしま)なことをめざしている心はそれよりもひどいことをする。

(法句経42-第3章『心』)

母も父もそのほか親族がしてくれるよりも さらに優(すぐ)れたことを、正しく向けられた心がしてくれる。

(法句経43-第3章『心』)


そして自我暴露・自我徹見以外に心を味方につける手段なんてないのである。

ゆえに今まさに知るべし。われらが禅に自我暴露より他の道はない、と。

それは劣等感と対峙することを意味するためつらい試練を経なければならない。
その代わり、心を味方につけることに成功したなら、R・シュタイナーの言う
『創造的諸力が隠されているあの世界に関与する』ことが誰にでも可能となる。

心が自分で勝手に造り上げた様々な虚構、信条、観念から解脱したとき、 時間を超越したある沈黙、自分と言う存在の実相を自覚するようになるある沈黙がやってくる。 この解脱の境地において、創造エネルギーが、凡人の窺(うかが)い知れぬある力、 意識し指示するある力によって放出される。
もろもろの大いなる業(わざ)、産業、美術、工芸、治病、演説を為すに当り、 解脱の境地においてこの大生命の創造的智慧に協力すれば、 それは天才の業(わざ) となり、 その成果に人々は挙(こぞ)って驚嘆の目(まなこ)を見張るであろう。 これが、神我以外の影響を受けていない心を通じて自由な表現を与えられた時の、 内なる創造の働きである。

(M・ベイン『解脱の真理』P.294-295「第十章 匿名大師の説く物質化・非物質化と解脱の真理(三)、リン・シ・ラへの旅」)


この坐禅の目的へ至る手段“自我暴露・自我徹見”とは心随観のことだけれど、
その心随観の目指しているゴールは心の饒舌(おしゃべり)を止めることにある。

心が心自身を変性させて真理に成ることなど、できるはずはなかったのである。 また、心が真理を発見することもできるはずはなかったのである。 真理を開示するには、心は静かでなければならない。 そうして初めて時間に属さない静けさ、強いられない、 あるいは強制されない静けさ、より来るところの静けさがあったのである。 心が饒舌(おしゃべり)をやめた時、その静けさの中に「実在するもの」 「知られざるもの」が現前したのであった。 これが創造性(creativeness)であったのだ。 わたしはもはや、結果を求める欲望はなくなった。 すべての行動はやみ、すべての思考はやんだ。 これが最高の形態の思考だったのだ。 なぜなら、今やそこには創造性があったからである。

(M・ベイン『キリストのヨーガ』P.47-48「第二章キリストのヨーガを求めて」)


たしかに、このゴールそのものは巷間の坐禅や瞑想の本による行法も同じ。
ただし、その解決策があまりにも専制的なのだ。
心の気持ちを無視しているから却(かえ)って悟境の退歩を招くのである。

一方、言葉の処方箋を使った行法は心の気持ちを考慮した民主的な解決策。
禅の十牛図では心を牛にたとえるけれど、まさしく、心にも心があるのだ。
つまり自我にも心があるのだからその気持ちを汲んであげなければいけない。

矢印マーク 『解脱の真理 改訂版―ヒマラヤ大師の教え』


つまり心随観の入門書がコレなのである。
霞ヶ関書房の本はAmazonで絶版扱いになっていても
大型書店で注文すれば取り寄せてもらえるはず。
いざとなれば出版社に直接注文するといい。
送料はかかるけどマーケットプレイスでカモられるより、
ずっといい。
参考までに…定価:5250円TEL:03(3951)3407

矢印マーク 『キリストのヨーガ―解脱の真理 完結編』

解脱の真理の続編。前作の内容をさらに掘り下げている。
心随観のより実践的な内容でありがたい一冊。
続編なのに出版社が違うのはどういわけだ?
参考までに…定価:3360円TEL:03(3439)0705


たとえば刑務所を出所した犯罪者が犯罪を繰返し続ける理由を考えるといい。
答えは実に簡単だ。刑罰なんかに効果はないからである。

窃盗罪を犯した受刑者に「盗みはいけない」と説教したところで、
それを承知のうえで罪を犯しているのだから何の意味もないのである。
「盗みをはたらく必要なんかない」と達観するまで盗みを続けるものなのだ。

これは成長するにつれて子供の頃に執着していた玩具を手放すことに等しい。
まず「こんな玩具で遊んでいてもつまらない」と飽きる。
そして「こんな玩具で遊んでいてもしょうがない」と気づく。
最後に「こんな玩具で遊ぶ必要なんかない」と達観する。

つまり玩具に執着しているうちは手放すなんて発想自体を持てないわけで、
もしも無理やり玩具を取りあげようものなら却(かえ)って逆効果。
以前にも増して取りあげられた玩具に執着することになるだろう。

にもかかわらず一般的な坐禅や瞑想はそれと同じことをしているのである。
不安や怒りを心に認めることは誰にでもできるはずだ。
そのとき「不安はいけない」「怒りはいけない」とピシャリと打つ。
それが一般的な坐禅や瞑想の方法なのである。

そんな専制的な手段では一時的な効果しか挙げられない。
自我は依然として納得していないから再び頭をもたげてくるに決まってる。
さらには時の経過とともに不安や怒りを蓄積してゆくばかりだ。

一方、言葉の処方箋を使った行法は自我と民主的な対話を図る。
時間をかけてじっくりと対話をして自我に納得してもらうのだ。
すると自我は本音を暴露してくる。すなわちトラウマを吐き出すのである。

その効果は微妙なものなのですぐにはわからないかもしれない。
それでも自分の生活態度に現れている効果に気づく瞬間はいずれ必ず訪れる。

神秘学徒はこのような方向を歩み進むことによって、 外界の印象が彼に与える影響の範囲を次第に自分で規定できるようになる。 たとえば誰かが彼を傷つけたり怒らせたりしようとして語った言葉が耳に入ったとしよう。 修行以前の彼ならそれを聞いて、傷ついたり怒ったりしたかも知れない。 神秘学徒としての道を歩き始めた今では、その言葉が心の中へ入る以前に、 心を傷つけ怒らせる毒針をその言葉から抜き取る術(すべ)を彼はわきまえている。

(R・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』P.044「内的平静」)

別の例を上げよう。待たされると、すぐにいらいらしてきた人が神秘学徒としての道を歩み始めた。 彼は内的平静の瞬間にいらいらすることのむなしさを感情として集中的に体験した結果、 焦燥感を体験する度にすぐこの感情が意識されるようになる。 すでに現れ始めたいらいらが消え、焦燥感と共にむなしく失われた筈の待たされている時間を、 彼は有益な観察に費すようになる。

(R・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』P.044「内的平静」)


こうして自我に心の饒舌(おしゃべり)をやめさせる専制的な手段ではなく、
おのずから心の饒舌をやめていただく民主的な対話を続けることで、
天職を遂行するための創造力を発揮できるようになってゆくのである。

矢印マーク 『ブッダの真理のことば・感興のことば』

こなれた現代語で読める法句経。
私の仏教に対する誤解は この本で初めて解けました。

天職への一歩を踏み出すための言葉の処方箋

そしてこれまでの坐禅修業でボクが自我と対話するために使ってきたツール。
それがこれから紹介する言葉の処方箋というわけなのだ。

とは言っても、ただ羅列するだけならつまらないのでケース・バイ・ケースでいこう。
まず最初はこの主題がふさわしいと思う。

青年よ、大志を抱け!いわんや、中年をや。

Case1 天職への一歩を踏み出すための言葉の処方箋


ボクらは実のところ自分に課せられた天職を心の底で知っている。そして、
その使命に忠実に生涯を歩み出すモーツァルトやラファエロのような天才がいる。
けれど、多くの人にとってそれは望むべくもない。彼らと同じ人間なのにね。

他人や社会の尺度に遵(したが)うかぎり天職は手の届かないところにあり続ける。
そこでボクらは天職への道から外れてしまっているがゆえにその違和感に苦しむ。
その苦しみから抜け出し本来あるべき道へ軌道修正するのが坐禅修行である。
だから坐禅修行は他人や社会の尺度である常識を捨てることから始まるのだ。

ついんじて禅者は坐禅修行によって天才の能力を授かる大器となるのである。
すなわち、天才のなりぞこないが秀才であり、秀才のなりぞこないを凡人と呼ぶ。
そして天才への道程を確信を持って歩む秀才と凡人を“禅者”と言うのだ。

ここでもう一つ別の非難に答えておきたい。 それは魂(プシケー)の体験を幾分かもっている人が発すると思われる非難である。 ここで述べてきたすべての行法を通過せずとも、 出生と死の現象を自分の直観を通して知ることができるような、 もっと簡単な近道があるということは争いようのない事実である。 わずかな刺戟を受けただけで開発されるような優れた魂の素質が考えられる。 しかしそのような素質にめぐまれているのは例外的な人たちである。 一方本書が述べる道は普遍的な、確実な道である。 たとえば人は化学上の若干の知識を例外的な道の上でも獲得できる。 しかし化学者になろうとするなら、普遍的で確実な道を行かねばならない。

(R・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』P.081「霊界参入の三段階」)


モーツァルトやラファエロの芸術作品や白隠禅師の禅画にある天衣無縫の境地は、
芸術を物すなどという気負いを見せない親近感の裏に圧倒的な神業を秘蔵する。
それは自我退行の賜物。天才の業績は心の饒舌を止めたときのご褒美である。

また人生の岐路に立つときの選択も心の饒舌の止め方いかんにかかってくる。

「この仕事なら親からも友人からも陰口をたたかれなくて済む」
「ここで会社をやめたらカッコ悪い」
「収入が減ったら困る」
「いま自分が辞めたら逆に同僚たちが路頭に迷ってしまうだろう」

こうした偏見、迷信、妄想、詭弁などの心の饒舌を放っておくから、
次第に自我がのさばり、そこから抜け出す機会すら見い出せなくなってくる。
人の天職の遂行を妨げ、判断を誤らせる元凶がこの自我増長なのである。

だから天職への道程は自我退行を目指すことから始めなければならない。
そこで、まずは自我増長を止め、はじめの一歩を踏み出す覚悟を決めよう。

覚悟が決まれば努力は自然に現れる
(布施仁悟)


つまり「これで本当にいいのだろうか」その心の声に正直にしたがうのである。

自分にウソをつき続けると人生のどこかで破綻する
(布施仁悟)


衆生本来仏也。一切衆生悉有仏性。才能は誰にでも等しく備わっている。

自分の中にある力ほどたのもしいものはない
(布施仁悟)

誰にも等しく未来を切り拓く力がある
(布施仁悟)

世に優れたものをもたらすのに自分のふさわしさを疑うのはおかしい
(布施仁悟)

限界を生み出すのはいつも自分の心
(布施仁悟)


どうせ常識にしたがってきた今までの人生なんてろくなもんじゃなかったのだ。

安心を求めるほどに得られるものが欠乏
(布施仁悟)


これは時間はかかるけれど確実で着実な道。ゆめゆめ疑ってはならない。

どん底にいればこそこっそり力をつけられる
(布施仁悟)

思いと行動が一致していなければ、ゆっくり出直す勇気が必要
(布施仁悟)

時には一番の遠回りが一番の近道となる
(布施仁悟)


終局、誰も頼りにならない。自分の中にある仏性を信じるしかないのだ。

ひとりでがんばってるときに、それでもついてくる人が人脈
(布施仁悟)


そんな自分を粗末に扱っては絶対にいけない。

自分を粗末にすると誰からでも粗末にされる
(布施仁悟)


不安に襲われたならチベット体操で培(つちか)った身体の変化を思い出そう!

健康でなければ健全な心も育たない
(布施仁悟)

天才は健全な肉体にのみ宿る
(布施仁悟)


そのすべての根拠は釈迦やイエスの説いていた心の法則にある。

人生は人の心の状態にまかせて忠実に設計されてゆく
(布施仁悟)


要するに自我増長を止める基本は自尊心を取り戻すことなのである。
この自尊心をもって心に巣喰う劣等感と対峙しそれを克服することで、
更に自尊心を回復してゆくという好循環を生み出すことが最初の目標だ。

とはいえ並大抵の自尊心では心に巣喰う劣等感との対決なんてできやしない。
だから、そのための言葉の処方箋は次回から公開するとしよう。
自尊心のカケラもない劣等感のカタマリのままでは返り討ちに遭うからね。

上記の処方箋は劣等感と対峙する勇気を獲得するのに役立つはずである。

青雲水

言葉の処方箋の使い方

緑雲水

この言葉の処方箋の使い方はCRのテクニックを参考にするといいだろう。
それは『ストップ・呼吸・再構成法』というものだ。

矢印マーク 『脳内復活-脳科学がたどりついた「幸福」の原点』

布施仁悟のおとーさんはオツム固いからね。
こういう理論的な本から坐禅に入門したわけよ。
たまにそっちが正解だったってこともあるから、
わからないもんだよね、これ。
しかーし!この本も絶版。なんでかね?


天職への道を歩みはじめた禅者には現在の仕事を辞す宿命が待っている。
きっと不安や焦りが襲ってくるに違いない。その感情に「ストップ」をかけるのだ。

ストレスのかかる状況に遭遇したら、すぐ自分の自動思考に注意を向け、 自動思考がエスカレートする前に「ストップ」と自分に言います。 ただ「ストップ」と言うだけですが、その断固とした行為が、 自動思考とそれに続く望ましくない情動反応の悪循環を断つのに役立ちます。

(グレッグ・D・ジェイコブス『脳内復活』P.141「第6章 害のある考えをコントロールする」)


そうして思考の横滑りをとめたら自分の呼吸に意識を向ける。
われらが禅における「随息観」を日常においても実践するのである。

「ストップ」と言ったあと、深呼吸をします。 これはリラクセーションを助け、<考える心>の思考の流れから気をそらす効果があり、 究極的には、悲観的な自動思考と情動の悪循環を断つのに役立ちます。

(グレッグ・D・ジェイコブス『脳内復活』P.142「第6章 害のある考えをコントロールする」)


さらに、進歩できるかどうかは次の最後の仕上げをするかどうかにかかってくる。

言葉の処方箋で思考を再構築し“心の契約のデータベース”を更新するのだ。
これで『ストップ・呼吸・再構成法』の作業は完了である。

ただしコツを掴むまでしばらくの猶予を必要とすることは覚悟せねばならない。

悲観的な自動思考はあまりにも自動的かつ習慣的なので、 ストップ・呼吸・再構成をマスターするのはちょっと時間がかかります。 しかし練習をすれば、いつどこでもこの方法を使って ネガティヴなストレスを通すフィルターのスイッチを切り、 自動思考をとらえて再構成し、 ストレスに対する精神的な反応を制御できるようになります。

(グレッグ・D・ジェイコブス『脳内復活』P.144「第6章 害のある考えをコントロールする」)


薄々気づいていると思うけれど、ものごとを習得するまでの期間には法則がある。

まずコツを掴むまでは3日間。
それから意識して努めなければならない期間が21日。つまり3週間。
その後は真剣さと切実さによってその期間の幅は伸縮するけれど、
別段の意識を要しない習慣的な行動に変化するまでは3ヶ月。

これをボクは『3習慣の法則』と呼んでいる。
こればかりは物理的な脳の問題なので焦っても仕方のないことだから、
真剣さと切実さを維持しながら気長に取り組んでみるしかないと思う。

というわけで、この記事の続きは頃合をみて読むと良いわけである。

(2012.2)

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