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【坐禅作法32】禅の認知療法的アプローチ

ちょっとはマシな坐禅作法 禅の認知療法的アプローチ〜心随観のヒント 1〜

Presented by

〜心随観のヒント 1〜


種明かしをしておこう

かつてどんな禅僧も成し遂げられなかったことをボクはやろうとしている。
だから『Trial Impossible』を読んでさぞかし面喰らっていることだろう。
とくに心随観についてはどうしたらいいのかワカラナイかもしれない。

もちろん全てボクのオリジナルだから…と言いたいところだけれど、
残念ながらそういうワケでもない。ちゃんと元ネタがあるのである。
そこで、このままでは後ろめたいので種明かしをしておこうと思うのだ。

禅者諸君の中にはまだまだオツムの固い人も多いはずだから、
門戸を広げるためにも論理的な裏づけを書き付けておいた方がいいだろう。
場合によっては学術的アプローチの方が合理的であることも事実なのだ。

名づけて仁悟式心随観は認知再構成(CR:Cognitive Restructuring)の応用。
元は心理学者アーロン・ベックの認知療法(Cognitive Therapy)に行き着く。

ボクは今でこそ“俺様禅師キャラ”が板についてきたけれど、
もともとはオツムの調子のイマイチな“できない受験生”だったから、
坐禅や瞑想に興味を持った動機だって記憶力を取り戻すためだったのである。

そのころ手にした本に認知再構成(CR)が紹介されていたというわけ。
その名も『脳内復活』。できない受験生が手にとりそうなタイトルでしょ?

矢印マーク 『脳内復活-脳科学がたどりついた「幸福」の原点』

布施仁悟のおとーさんはオツム固いからね。
こういう理論的な本から坐禅に入門したわけよ。
たまにそっちが正解だったってこともあるから、
わからないもんだよね、これ。
しかーし!この本も絶版。なんでかね?


おかげで地橋秀雄氏の『ブッダの瞑想法』で心随観の解説を読んだとき、
その手法の要諦は認知再構成(以下CR)と同じであることに気づいた。

したがって仁悟式心随観は正確に言えば心随観じゃないのかもしれない。
とはいえ、その効果はボクの33歳からの経験とともにここにあるのだ。

しかし…坐禅や瞑想の本から入門しなかったことが功を奏したわけだから、
人生なにが正解になるかわからないもんだよね、これ。

矢印マーク 『ブッダの瞑想法―ヴィパッサナー瞑想の理論と実践』

坐禅の入門書としては最適な本。
というのは葬式仏教の坊主が嘘つきだってわかるから。
だけどね。
ここに書いてある心随観の解説も不十分なんだよ。
そこに気づいたら卒業というわけ。


では、早速、CRの解説に移ろう。

坐禅入門者はほとんど無意識的・自動的に思考の横滑りを始めるため、
暴走するプロセスに入ってしまっても気づくことすらできないでいる。

ために怒りなどの感情の爆発に向けて一気に突き進んでしまうわけで、
心随観の難しさは、そうした無意識思考・自動思考(NATという)の
初動と暴走の認識方法を学ぶ機会に恵まれなかったことにもある。
ちなみにNATとはNegative Automatic Thoughts(悲観的自動思考)の略。

これは心の傷から逃避しようとするオツムの調子の問題ではない
のだから、むしろ、テクニック的な問題と言っていい。

つまり簡単な解決策があるわけで、それがCRのテクニックなのである。

CRは問題を生み出している無意識思考・自動思考(以下NAT)を
紙に書き出して吟味することで心に形を与えてしまおうというのだ。

これは心随観をこれから試みようとする入門者にとって実に有効だと思う。
というのはボクだってはじめは紙に書き出してみたからである。
そうして三ヶ月も続ければ紙とペンなしでもできるようになるけれど、
入門者が頭の中だけでやろうとするとおそらく何年もかかってしまうだろうね。

さてガイダンスはこのくらいにして具体的な技法を説明するとしたい。
CRではCR日誌を付けストレスのかかった状況を自己分析するのだけれど、
その日誌には「状況、感情、NAT、再構成した思考」の四項目の属性がある。

といっても抽象的な話を始めてみたところでピンとこないと思うから、
『脳内復活』に具体的な例を挙げてあるので、そこに解説を付してみよう。

赤雲水

CRの具体例

黒雲水

被験者は女優のローレンさん。
舞台の直前と直後に眠れなくなるという問題を抱えていたそうだ。

状況

彼女はある夜、芝居が終わり、熱のこもった拍手喝采を受けたすぐあとに、 家族や友人と会い、そこでもみんなから称賛されました。 しかし家族の一人が自分を抑えきれずに、 ある場面で「もっといい演技ができたはずだ」と言ってしまった。

(グレッグ・D・ジェイコブス『脳内復活』-P.139「第六章 害のある考えをコントロールする」)

感情

それでたちまち、その日の演技全体に対する見方が変わってしまいました。

(グレッグ・D・ジェイコブス『脳内復活』-P.139「第六章 害のある考えをコントロールする」)


「家族の発言のせいでブルーになった」
というわけだけれど、因果観・輪廻観を行じているボクたち禅者は、
ここでその家族に責任転嫁するようなマネはできないはずだ。
ブルーになる原因は自分の心にあることを知ってしまったからである。

つまり環境を変えたって根本的な解決にならないことを承知している。
そこで「その家族には無視を決め込む、縁を切る」てな発想はもちろんしない。
禅者たるもの自分の心を分析して思考を再構築することで解決をはかるのだ。

ところが世間の心理分析家の多くはこんなことを言う。
「悪いのは思いやりに欠けていたアナタの家庭環境にある」
「だから私の指示通りに環境を変えればありのままのアナタになれる」
これはとても耳ざわりのいい言葉だから多くの人にとって受け入れやすい。

すなわち儲けの種になる。

だけど心理分析家なんて体(てい)のいい新興宗教の教祖みたいなものだ。
「悪いのは思いやりに欠けていたアナタで、もっともその元凶は先祖にある」
「だからこのツボを買って環境を浄化すればありのままのアナタになれる」
ロジックはまったくもって一緒である。
たぶん心理分析家は宗教家に転身するといい。がっぽり儲けられるぞ!

かくしてほとんどの人は安易な解決策で妥協してしまうのだけれど、
同じ心理学の分野にありながらCRはそんな逃避を許さないのである。

環境を変えるためではなく心を変えるための心理分析を教えるのだ。
そう、CRと禅の根本的な発想は同じなのである。

NAT(悲観的自動思考)

ローレンはその夜、自分を不安な気持にさせた悲観的な自動思考をCR日誌に書きとめました。

「芝居のできは、自分が思ったほどよくなかった」
「私は女優として進歩していない」
「ほかにどんな失敗をしたのだろう」

自分の悲観的な思考を書き出し、一歩下がってそれを見てみると、 それがどれほど非現実的であるかがわかってきました。


(グレッグ・D・ジェイコブス『脳内復活』-P.139-140「第六章 害のある考えをコントロールする」)


こうしてNATを書き出してみるCRの手法は21世紀の禅にも取り入れるといい。
『脳内復活』の著者・グレッグ=D=ジェイコブスはその効用をこう述べている。

どんなストレスのかかる状況があったか、その状況にともなってどんな感情が生じたか、 どんな自動思考が心に浸透してその感情を喚起したかを詳細に書きとめると、 通常は意識のすみに存在している、つかのまの、 しかししつこい自動思考を、意識の中央にもってくることになります。 そして、自分がどれくらい頻繁に自動思考にかかわっているかということにも気がつきます。 そうすると、そのような思考を客観的に吟味できるようになり、 それがゆがみや不正確さを生みだし、ネガティヴな感情を持続させていることもわかってきます。

(グレッグ・D・ジェイコブス『脳内復活』-P.134「第六章 害のある考えをコントロールする」)


つまりNATを書き出すことで“心はどう彷徨うのか?”“心はどう欺くのか?”
といった心の性質を知ることができるようになってくるのだ。

ただし、この女優のローレンさんはまだ正直になれないでいる様子。
そこはやはり禅というか宗教の方に分のある点で心理療法の限界でもあるだろう。

経典や聖典や喩話などで“心のわだかまり”を沢山仕込んでおけばこそ、
もっと心の底にたまっているドロドロとした感情を書き出せるというものなのだ。

たとえばローレンさんの胸にはこんな感情が湧きあがっていたかもしれない。

「私の芝居にケチをつけるよりタプタプした下腹をなんとかなさったらどうなの」
「今度はあのクソ生意気な家族のサンドイッチにマスタードをたっぷり塗ってやる」

ところがこのような正誤善悪の判断に基づいて沸き起こる嫌悪感は、
常識的尺度で言えば“ごもっともな”感情なので心理学ではあまり問題にされない。

一方で“もっともらしいことをもっとも疑う”のが禅であり本当の宗教なのである。
そういう嫌悪感を克服したところにホンモノの心の解放はあるという教えなのだ。

多くの心理学者は象牙の塔にこもり常識的学問の研究者になり下がったため、
心理学の持つ人間解放の可能性の芽をせっせと摘み取っているのである。

しかし、もしもローレンさんがこの聖書の一節を心読していたら、
先の嫌悪感も自分の持っている悲観的な感情として書き出したに違いない。

ペテロは尋ねた。
「私に対して兄弟の犯した罪を何度赦せばいいでしょうか。七度までですか」
イエスは答えた。
「七度の七十度(たび)赦せ。それは永遠の赦しを意味する」

(マテオ18-21.22)

矢印マーク 『聖書―旧約・新約』

イタリア人神父が粋に日本語訳した聖書。
イラスト・地図などの資料も豊富で、
旧約・新約、あまつさえ詩篇もついたお徳な一冊。
聖書は坐禅修行にも必ず役立つ。
かりそめにも軽んじてはならない。


経典や聖典や喩話などで提示されている戒律は、いわゆる“道徳律”ではない。

それは読む者の心の問題点を炙りだすための警句になっていて、
一般に考えられている道徳律とは別の視点から創られているものである。
とりわけ聖書に残っているイエスの放った戒律は傑作ぞろいだ。

たとえどんな善い事をしたにせよ、 トランペットを鳴らさんばかりにぷうぷう吹聴してはならぬ。

(マテオ6-2)


歪んだ自尊心からはじめるボランティアほど無益なものはないわけで、
たいていは他人の評価を過剰に意識して行われる偽善行為でしかない。
さもなくば神仏からの見返りを期待してなされる寄付行為なんてものまである。
これは自分の心の奥の劣等感の存在に気づかせてくれる警句と言えよう。

お次は言い得て妙。痛快無比の感のある傑作中の傑作。

犬畜生に聖なる話はやめておけ。 豚に真珠を投げ与えるな。 どうせ彼らは向き直り噛みつきかかってくるだろう。

(マテオ7-6)


心が開けてくると自尊心・矜持(きょうじ)・自由・尊厳を禅者は取り戻しはじめる。
ところが、こうした禅者の心に起こる変化など知るよしもない凡人は、
あいも変わらずつまらない常識的な忠告をしてくるものなのだ。
そこで、つい言い返して諭(さと)してやりたくなるものだけれど、
その衝動の底には“傷つくまい”として“傷つけよう”とする劣等感がある。
これは聞く耳を持たざるものを放っておけないのも劣等感の表れと教える警句。

もちろん宗教的戒律が世間の標準になることほど理想的なことはない。
しかし、残念ながら、そんなことは絶対にありえないことなのである。
このことはお釈迦さまのいた2500年前から続く普遍の真理でもありそうだ。

愚かな者は生涯賢者に仕えても、真理を知ることが無い。匙が汁の味を知ることができないように。

(法句経63-第5章『愚かな人』)

アトゥラよ。これは昔にも言うことであり、いまに始まることでもない。
沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、すこしく語る者も非難される。 世に非難されない者はいない。

(法句経227-第17章『怒り』)

ただ誹(そし)られる人、またただ褒められるだけの人は、過去にもいなかったし、 未来にもいないであろう。現在にもいない。

(法句経228-第17章『怒り』)


だから周囲の環境を宗教的戒律に合わせて変えようとするよりも、
自分のより深い心の問題点を炙りだすためにそれらの戒律を活用するといい。

つまり、宗教的戒律を周囲の凡人(あるいは犬、豚?)に当てはめるのではなく、
真っ先に自分の心に適用するようになった人から進歩しはじめるのである。
また、経典、聖典、喩話から“心のわだかまり”をどれだけ仕込んでおくかによって、
進歩の仕方は全然違ってくるものであることも、これでおわかりだろう。

他人の過失を見るなかれ。
他人のしたこととしなかったことを見るな。
ただ自分のしたこととしなかったこととだけを見よ。

(法句経50-第4章『花にちなんで』)

再構成した思考

そこで次に、10の質問を利用して、再構成した内容を日誌に書きました。

「私は、一人の人が言った一つのコメントを重視しすぎた」
「私は飛躍した結論にとびついた。ある場面のできがあまりよくなかったとしても、 そのほかの演技がみんなだめだということにはならない」
「完璧な演技などありえない」
「私の演技がそれほどひどかったはずはない。 拍手はなかなか鳴りやまなかったし、お祝いも言われたし、 ほかの人はみんなほめてくれたのだから」

ローレンは悲観的な自動思考を構成しなおしたあと、 自分の気分が変わったのを感じました。 不安が和らいで仕事に対して楽観的になり、翌日の夜の公演が楽しみになったのです。 そしてうれしいことに、その夜はぐっすり眠れるだろうということもわかりました。


(グレッグ・D・ジェイコブス『脳内復活』-P.140「第六章 害のある考えをコントロールする」)


この具体例から推測するに、『再構成した思考』の属性に書き込むのは、
NATを踏まえて再構築した前向きな考え方といったところだろうか。

ところがほとんど無意識的に立ち上がる長年の思考習慣を構成し直すには
何らかの手引きを必要とするはずで、CRでは三つの方法論を用意している。

これは、その一つ。『10の質問リスト』

1.この考えは本当に事実どおりだろうか?
2.この状況のネガティヴな面をおおげさにとらえていないだろうか?
3.この状況で起こりうる最悪の事態はなんだろうか?
4.この状況に関して、何かポジティヴなところはないだろうか?
5.ささいなことをおおげさにとらえ、ものごとを実際よりも悪く考え、結論にとびついて、ネガティヴな結果になると決めつけていないだろうか?
6.この状況が、自分の恐れているとおりの結果になると、どうしてわかるのか?
7.この状況を別の見方で見ることはできないだろうか?
8.来週になったら、あるいは来月、来年になったら、この問題はどれほど重要だろうか?
9.もしあと一ヶ月の命だとしたら、これはどれくらい重要だろうか?
10.自分は状況を言いあらわすのに、「全然ない」「いつも」「最悪」「すごく」「ひどく」といった言葉を使う傾向がないだろうか?

(グレッグ・D・ジェイコブス『脳内復活』-P.136「第六章 害のある考えをコントロールする」)


これは長年の自分の思考習慣に疑問を投げかけるよいガイドになるはずだ。
こういう初歩のテクニックについてはCRが大いに参考になると思う。

ボクはもうこの段階を卒業しているのだけれど、それはある意味、
“禅者の健忘症”と呼べるような避けられない記憶障害を患うことでもある。

悟境の深まるにつれて、その入門の段階で抱えていた心の問題や、
それをどう克服したのかなんてことを思い出せなくなってくるものなのだ。

もし君が想念の上って来るつど、ひとつひとつの偏見を持たずに、 恐れもせずに、あるいは決めつけもせずに、 それを観察することができるならば、あるいはそれにこだわらずに観察し、 それに抵抗しないならば、そしてまた、 それを押しやらずにその意味を明るみに出すならば、 それらの想念は二度とは上って来ないであろう。 つまり、それとの縁は切れてしまうのである。

(M・ベイン『キリストのヨーガ』-P.74「第四章 「サタン」の正体は「自我」である」)


その後の禅者の心にはまだ克服していない未解決の問題だけが残ることになる。

さらに、その心の問題を克服するほどに解決策はより単純なものになってゆく。
言ってみれば釈迦やイエスや老子や道元禅師や白隠禅師その他の祖師方は、
自身の経験・体験から導き出した究極のところの解決策を示しているのだ。

もちろん心の問題をほとんど克服した段階からさらに進歩するための行法もあって、
そこで、たとえば道元禅師なんかは『只管打坐』を提唱されたわけである。

つまり坐禅の修行には夫々(それぞれ)の段階にふさわしい行法があるので、
いきなり道元の『只管打坐』に挑戦するのは無謀どころか百害あって進歩なし。
『只管打坐』は心の掃除を終えてから、おもむろに始めたほうが近道なのである。

いわば坐禅入門者にとっての道元禅師は“記憶喪失にかかったおっさん”。
長年つき添って阿吽の呼吸を身につけて初めてその言葉を理解できるのだ。

したがって残り二つのCRのテクニックをなおざりにしてはいけない。

矢印マーク 『フィーリングGoodハンドブック』

断っておくけれどボクは読んでません。
『脳内復活』の巻末で紹介されていたもの。
デビッド・D・バーンズの認知療法の本らしい。


それでデビッド・D・バーンズの考案した『ダブルスタンダード法』が二つめの方法論。

どうやら人は自分のストレス状況を解釈するにあたって、
友人の陥っている同じ状況よりも大げさに解釈してしまうものらしい。
そこで他の誰かに対して与えるのと同程度の励ましを自分に与えるという発想。

親友がこれと同じ問題をかかえていたら、 自分はこれと同じことを言うだろうか? もし違うとしたら、どう言うだろうか?

(グレッグ・D・ジェイコブス『脳内復活』-P.138「第六章 害のある考えをコントロールする」)


次の三つ目の方法論にタイトルをつけるなら『過去参照法』と言ったところだろう。

まず目下のストレス状況を過去の経験に照らし合わせてみる。
すると思っていたほど心配している状況は起こりえないものだし、
起こったとしてもそれほど困ったことにはならないとわかるものなのだ。

過去にこれと同じようなことがなかっただろうか? あったとしたら、そのときはどんな結果になったのか。

(グレッグ・D・ジェイコブス『脳内復活』-P.138「第六章 害のある考えをコントロールする」)


どちらにしろ自分を客観的に眺めるコツを掴まなければならないようである。

矢印マーク 『うつと不安の認知療法練習帳』

こちらもボクは読んでません。
『脳内復活』の巻末で紹介されていたもの。
CRのくわしいワークブックなんだとか。


ところでこうしたCRのテクニックをなおざりにするなと言っておきながら何である。

かくいうボクはCRの細かな手法をハナから無視していきなり紙に向かった。
ある本を29歳の頃から愛読していたので、坐禅を始めた32歳の頃には、
CRのテクニックの基本をすべて頭に叩き込んでいたからである。

矢印マーク 『道は開ける 新装版』

矢沢永吉の『成りあがり』を読んだのは大学に入学した19歳。 そこに愛読書として紹介されていたD・カーネギー『人を動かす』。 同じ著者の『道は開ける』をその流れで読んでいた。
あの頃はこの本の価値なんてわからなかった記憶がある。
苦悩を抱えこんだ29歳。解決策をココに見つけた。
これ自己啓発書なんだけど元祖CRではなかろうか。


それは名著『人を動かす』で有名なD・カーネギーの『道は開ける』。
ボクは矢沢永吉『成りあがり』のエピソードで『人を動かす』を知ってから、
カーネギーの著作を愛読していたのである。実はこれ、CRのテクニック本なのだ。

ボクは“凡人”とか“オツムの調子がイマイチ”だとか“逝ってる”なんてことを
きっぱり書いているのだけれど、それは客観的事実にすぎないからである。
ただキリスト信者ではないから犬豚扱いなんて不届きなことをしないだけで、
おそらくそれがボクの禅者としての矜持なのだと思う。一切衆生悉有仏性。

ともかく現代人はほとんどパニック障害すれすれのところで生活しているもので、
その状態をわずかながらでも抜け出して、オツムの調子を揺り戻さなければ、
そもそも坐禅はおろか社会生活すらままならないものである。

そこで、ここに紹介したCRのテクニック本や『道は開ける』を利用して、
坐禅入門の準備を調えていかなければならない参禅者も多いとボクは思うのだ。

そうしてなんとか客観的な立場で自分を眺められるようになったなら、
ローレンさんの『再構成した思考』にも欠点のあることに気づくに違いない。

さて、ここから先は凡人と禅者を分ける仁悟式心随観の独壇場である。

矢印マーク 『ブッダの真理のことば・感興のことば』

こなれた現代語で読める法句経。
私の仏教に対する誤解は この本で初めて解けました。

矢印マーク 『解脱の真理 改訂版―ヒマラヤ大師の教え』


つまり心随観の入門書がコレなのである。
霞ヶ関書房の本はAmazonで絶版扱いになっていても
大型書店で注文すれば取り寄せてもらえるはず。
いざとなれば出版社に直接注文するといい。
送料はかかるけどマーケットプレイスでカモられるより、
ずっといい。
参考までに…定価:5250円TEL:03(3951)3407

矢印マーク 『キリストのヨーガ―解脱の真理 完結編』

解脱の真理の続編。前作の内容をさらに掘り下げている。
心随観のより実践的な内容でありがたい一冊。
続編なのに出版社が違うのはどういわけだ?
参考までに…定価:3360円TEL:03(3439)0705

心随観的CR

(ここからはボクの創作)

心理分析

ところがその後のローレンはぐっすり眠れる夜もあればそうでない夜もあった。
そこでおそらく未解決の心の問題があるに違いないと思い立ち、 過去に書きためてきたCR日誌を読み返してみることにした。
そうして自分の出してきた結論に重大な欠陥のあることに気づいたローレンは、 CR日誌に『心理分析』の属性を付け加えてこう書き出してみた。

「私ったら、どうして他人の評価ばかり気にしているの?」

そう気づいたときから自分を悩ませてきた思考習慣が続々と明るみに出てきた。


心随観は認知療法の限界を突破する方法である。

すなわちCRのその先へゆくのだけれど、ココから先はセンスを問われる。
そのセンスは真剣さ乃至(ないし)は切実さによって引き出されるもので、
ほとんどの人にとっては29〜32歳がそのターニングポイントになるはずである。
その頃に起こる人生の出来事に人の価値観は激しく揺さぶられるからだ。

どうしてそうなっているのかなんて野暮なことを聞いてはいけない。
いわゆる“星回り”というやつでボクも統計的に認識しているにすぎないのだ。

そして、その後の運勢は“劣等感にどれだけ気づけるか”にかかってくる。
ローレンさんの気づいた“他人の評価を過剰に気にする性癖”も劣等感の一種。

とりあえず成長したローレンさんの解決法を見てみよう。

そこでローレンは自分のコメントを詳細に分析してみることにした。

○『私は、一人の人が言った一つのコメントを重視しすぎた』
…誰が何と言おうとそれはその誰かの偏見を通した意見であって、 ありのままの私の評価として妥当であるかどうかは疑わしい。

○『私は飛躍した結論にとびついた。 ある場面のできがあまりよくなかったとしても、 そのほかの演技がみんなだめだということにはならない』
…たとえ演技がみんなダメだったとしても次から直せばいいわけで、 失敗したらいけないなんて思い上がり。勘違いも甚だしい。

○『完璧な演技などありえない』
…その通り。 いつでも完璧であろうとしたら、たとえ一万回生まれ変わったって足りないくらいだ。

○『私の演技がそれほどひどかったはずはない。 拍手はなかなか鳴りやまなかったし、 お祝いも言われたし、ほかの人はみんなほめてくれたのだから』
…ひどかったはずはない? たしかに演技はひどかったのだ。 でも、そんなことはどうでもいい。出直せばいいんだから。
…拍手?お祝いの言葉?誰かの賞賛? そんなものに振り回されてたら、いつまで経っても自分の演技なんかできやしない。 私は私。古今無双の天才女優なんだから。

ここで自分の根本にある心理的な問題に気づいてしまったローレンは、 CR日誌に赤ペンでこう書いてみた。

「どうせコロコロ変わって信頼のおけない誰かの意見に頼って私は生きてきた。 そのために自分の生きる軸を見失い、誰からも好かれようとして傷つくまいと身構えてきたらしい」
「結局、今までは依存心ばかりで自尊心がなかった。というか劣等感の塊?」


こうした自分の心の中にある劣等感に気づくには、
“傷つくまいとする心”と“誰かを傷つけようとする心”を探せばいい。

これはボクの実践してきた“禅の極意”でもある。しかも、イエスのお墨付き。
ちょっと論証してみようか。

珍しくオツムの調子のよい学者坊主がイエスに質問を投げた場面が聖書にある。
「すべての掟(おきて)の中で第一のものは何か」と。
当時の学者坊主はご丁寧にも613条もの律法を掲げて守ろうとしていたらしい。

ところがイエスは「第一のものは何か?」と問われただけにもかかわらず、
親切にも二つの律法を示して、それが究極のおきてと答えているのだ。

第一のおきてはこれである。
われわれの父なる神は唯一絶対の主。
心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、そのすべての力をあげて、汝の主なる神を愛せよ。
また第二のおきても教えよう。
隣人を汝自身のごとくに愛せよ。
これ以上のおきてはない。

(マルコ12-28・31)


イエスは613条をたった2条にまとめたばかりかその順位まで親切に示している。
したがって、この二つの律法を要約するとこういうことになるだろう。

汝の主なる神を愛せよ。
而(しこう)して、隣人を汝自身のごとくに愛せよ。


ただし、その辺の学者坊主のようにこの律法を守ろうとしたら進歩はない。

進歩を続けるボクたち禅者はこう疑問を投げかけるべきだ。
「どうしたらこの律法を成就できるのか?」
その答えが他ならぬ“劣等感の克服”なのである。
すなわち、ここから先が“禅の極意”の出番なんだな。

では、その謎解きをしていこう。

『汝の主なる神を愛せよ』
これは「神仏への絶対的な信頼」と置き換えて考えるといい。
劣等感を克服するとその代わりに自尊心を回復できるものだけれど、
その時に沸き起こる感情が「神仏への絶対的な信頼感」なのである。

それはこの世の運命の必勝パターンを知るほどに育まれるものなので、
神仏への絶対的な信頼はこの世の運命の法則を熟知すればこそ生まれる。
要するにこの世の法則から逸脱して生きてるから自尊心を失うのだ。

ゆえに「神仏への絶対的な信頼」を得れば劣等感を克服できる。

お次は『而(しこう)して、隣人を汝自身のごとくに愛せよ』だけれど、
これは「隣人への公平無私な慈悲」とでも言おうか。
「神仏への絶対的な信頼感」を得てゆくにつれて、
禅者は自尊心・矜持・自由・尊厳を取り戻すことに成功する。
そこで周囲を見廻してみると、誰もがかつての自分と同じように、
劣等感に苦しんでいることに気づいて何とかしてあげたいと思うものだ。

それにもかかわらず凡人たちは聞く耳をまったく持たない。
そのとき、かつては自分自身もそうだったことを思い出す。
おバカなことを飽きるまで繰り返してようやく目覚めることになったからだ。

であればこそ凡人たちの言動にも“寛大な理解”を示すことができる。
よって「隣人への公平無私な慈悲」は劣等感を克服しなければありえない。

とはいえ心に欺かれている人間は劣等感の存在にすら気づかないものなので、
戒律の話でも触れたようにイエスは劣等感の在り処を示そうとしていたわけ。

さらに“傷つくまいとする心”と“誰かを傷つけようとする心”を探れば、
劣等感を簡単に見つけられると発見したのがボク・布施仁悟なのである。

ともあれ、これは発見というほどのことでもなく極めて単純明快な話なのだ。
人は傷つくまいとして劣等感を心に植えつけ自尊心を失う。
不安、後悔、不満、逡巡(しゅんじゅん)、それから自己憐憫(れんびん)。
それがために誰かを傷つけようとしたりもする。
恨(うら)み、妬(ねた)み、嫉(そね)み、辛(つら)み、怒(いか)り。

だから劣等感の巣喰っているところには、決まって“傷つくまいとする心”と
“誰かを傷つけようとする心”があるため、劣等感は必ずそこに潜(ひそ)んでいる。
その劣等感に気づきさえすれば克服法も同時に見つかるものなのだ。

そもそも不安も怒りも自己憐憫も劣等感から派生しているのであるから、
劣等感を克服して自尊心を取り戻さないかぎり制御できるわけがない。
ここに禅知識をどれだけオツムに詰め込んでも進歩できない理由がある。

“そんな感情はいけない”くらい学者坊主に指摘されるまでもないはずだ。
けれども、いかんせん劣等感の克服法を知らないから救われないのである。
なにより心に劣等感の巣喰っている事実にも気づいていなければ救いようもない。

“禅の極意”なんて実に合理的で単純なのにね。

そして、ここからさらにもう一歩踏み込むところが仁悟式心随観のいいところ。
もちろん、自画自賛であるけれど、これで画龍点睛である。

新たな心の契約

それからローレンはもう二度とこうしたストレスに左右されないためには、どうしたらいいのかを検討しはじめた。
今度は青ペンを持ち出し、小鼻をふくらませ、ふんふん言いながら、こんなことを書きつけてみた。

○<<誰が何と言おうとそれはその誰かの偏見を通した意見であって、ありのままの私の評価として妥当であるかどうかは疑わしい>>
…『人の心なんてきまぐれに移ろっているもの。アテにはならない』

○<<たとえ演技がみんなダメだったとしても次から直せばいいわけで、失敗したらいけないなんて思い上がり。勘違いも甚だしい>>
…『ベストを尽くすとはベスト以上でもベスト以下でもないこと』

○<<いつでも完璧であろうとしたら、たとえ一万回生まれ変わったって足りないくらいだ>>
…『失敗は再び繰り返すときにのみ過ちとなる』

○<<ひどかったはずはない?たしかに演技はひどかったのだ。でも、そんなことはどうでもいい。出直せばいいんだから>>
…『自分に嘘をツキ続けると人生がどこかで破綻する』

○<<拍手?お祝いの言葉?誰かの賞賛?そんなものに振り回されてたら、いつまで経っても自分の演技なんかできやしない。私は私。古今無双の天才女優なんだから>>
…『人それぞれにふさわしい役割がある』

そうしてローレンは新たに覚えておきたい警句を作り、同じようなストレス状況に直面するたびに思い返すようにしましたとさ。


“新たな心の契約”はストレス状況にさらされたときに心を鎮める言葉の処方箋。
そのまま放っておくと、いつのまにか彷徨い欺く心の動きをジリジリと追い詰め、
遂には心の饒舌(おしゃべり)を黙らせることをその効能とするものだ。

そうして“新たな心の契約”を心底浸透させてゆくうちに劣等感は駆逐され、
当初たくさんあったはずの言葉の処方箋も究極的に集約されてくる。
それが「汝の主なる神を愛せよ」「隣人を汝自身のごとくに愛せよ」。

これだけで心の饒舌を一刀両断できるようになってしまうのである。
十字架に磔にされはしたけれどイエスは決して嘘つきじゃなかったのだ。
だから、禅者たるもの聖書をかりそめにも軽んじてはならない。

それで、この『新たな心の契約』のアイデアを得たのがこの本。

矢印マーク 『決定版 禅の名言 (双葉文庫)』

『魂をゆさぶる禅の名言』
『心が奮い立つ禅の名言』
2冊の本を合わせたお得な文庫本。
仏教の教えや禅の思想は
単なる心の慰めではないことを説く一冊。
生きている禅がここにある!


著者の高田明和氏は若い頃に劣等感に悩みウツの症状にも苦しんだそうだ。
その症状を克服するにあたって禅語を用いて言葉の処方箋としたらしい。

この本はそうしたみずからの体験から生まれたものなので、これは禅語版CR。
そのため葬式仏教の学者坊主の解釈による禅語の本とは一線を画している。
つまり、この本で紹介されている禅語はすべて生きているのだ。

これは『魂をゆさぶる禅の名言』のまえがきにあった言葉。

言葉が強い感情を引き起こす時、つまり「すばらしい」、 「ああなりたい」という気持ちを起こさせる時には、 言葉とその意味するところが自分のものになります。 すると、この言葉を聞くと元気になったり、意欲的になったり、 くよくよしなくなったりするのです。この前向きな変化によって、 ますますその言葉を思い出したり、口ずさんだりしたくなるし、 本を開いてはその言葉を繰り返し読みたくなります。 これが続くと、しだいに自分が、言葉が意味するような人間に変わってくるのです。
とくに長い間日本人の精神的支柱であった禅の言葉の多くは、 私たちを奮い立たせるような意味を持っています。 それを読んだり口にだすと、沈んでいる自分が元気になり、 過去のことでくよくよするのがばからしくなり、 もっと本来の自分の力、魅力を発揮しようというような気持ちにさせられるのです。 この本はそのような言葉を集めたものです。

(P.31-32)


ボクはこの本で禅語を使って“新たな心の契約”を結ぶ方法を学び、
それから心の成長のために必要な禅語を自分で創ってストックしはじめた。

何かこう禅語というか言葉の処方箋をひらめくときはミステリアスな感じである。
そこに何ら矛盾のないことがズバリとわかる。そんな愛おしい瞬間があるのだ。

さてさて、苦悩に沈んでいたローレンさんは急に開眼してしまったようだけれど、
その秘密は彼女の寝室にありそうだから、ちょっと覗いてみよう。

ローレンさんの秘密の寝室

いつの頃からかローレンは以前処方されていた睡眠薬も寝酒も一切やめていた。それは一冊の本との出会いからのことだそうだ。
その本をベッドの中で毎夜5章ずつ読んで寝るようしてから、睡眠薬よりも寝酒よりもぐっすり寝られることを知ったそうである。

スヤスヤと眠っているローレンの枕元にある本のタイトルは、
『52 Things You Can Do to Raise Your Self Esteem』
著者の名前はJerry A. Minchinton…


なんだ?これ日本語に翻訳されているじゃないか。

矢印マーク 『うまくいっている人の考え方』

これは著者の冒頭での告白。
「私自身、困難な教訓ほど直視したくなかった。 しかしだからといって、それが真理ではないということにはならず、 結局、私はその教訓を学びとるまで何度も苦しみつづけなければならなかった」
こういう体験から生まれた本には人の人生を変える力がある。
心の中に巣喰う劣等感を浮き彫りにしたければ、 自尊心を高めるような考え方をぶつければいい。 この本はそのための恰好のテキストである。 坐禅入門者、とくに声聞道を正しく歩む者は、 こういう考え方が自然に身についてくるものなのだ。
なんとAmazonマーケットプレイスなら1円から買える。 送料は別だけど…。


えっ?まだ読み始めてないだって!…あっ、そう。勝手にしやがれ!

以上が仁悟式心随観の具体的方法と論拠である。
とはいえ実践しなければ価値を知ることはないだろうから、三ヶ月間紙に向かって、
心に巣喰う劣等感に真正面から対峙し心の無意識の壁に風穴を空けてみて欲しい。

たった一度でいいんだ。そうすれば後は悟りに向かって一瀉(いっしゃ)千里である。

(2012.2)

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