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【坐禅作法31】出家

ちょっとはマシな坐禅作法 出家〜Trial Impossible 7〜

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〜Trial Impossible 7〜


菩提心を興した禅者諸君へ

菩提心を興した禅者諸君。禅の正門へと続く参道の入口はもうすぐだ。

おそらく“増上慢”と“菩薩きどり”の深坑(じんごう)にどっぷりハマっていることだろう。
今回のミッションではそこを抜け出すキッカケを掴んでもらう。
ただし、その深坑を抜け出すのは残念ながらもっと先のことになるに違いない。

とはいえキッカケを掴むだけでも大した進歩なのだ。
そこに“ぷっつん体験”が待っているからである。
そのとき諸君を取り巻く環境が変わるだろう。

その新たな環境が諸君にとって最もふさわしい本格的修行道場となる。
たとえばそこは、ユングにとってのフロイト研究室。
あるいはミケランジェロにとってのシスティーナ礼拝堂に相当する。

その環境で必要な学習を終えるまで次の環境には移れないから覚悟しておけ。
たとえどんな環境に放り込まれようと尻込みせずにガンガン突き進むがいい!
禅の正門はその先に必ず見えてくるはずだ。

それでは今回のミッションを告げよう。

Mission 7 キーパーソンと折り合いをつけろ


白隠禅師は32歳から大悟徹底する42歳までを郷里の松蔭寺で過ごした。
それまでは昔の禅の修行者らしく修行三昧の諸国行脚をしていたので、
郷里の寺の住職に納まる気など毛頭なかったらしい。

にもかかわらず32歳で郷里に帰った理由は父親の重篤なのだそうだ。
父親の遺言(いごん)にしたがって荒れ果てていた松蔭寺を再興したのである。
この松蔭寺が白隠禅師にとっての本格的修行道場となった。

禅者を取り巻く環境が変わり、そこが本格的修行道場と化すとき。
その陰(かげ)に必ずキーパーソンが存在している。白隠禅師にとっては父親だ。
白隠と父親は折り合いが悪く、白隠は坐禅修行をよく思われていなかった。
その父親の死に立会い折り合いをつけた時から本格的修行は始まったのである。

矢印マーク 『白隠禅師―健康法と逸話』

坐禅と氣の関係を明かした本。
内観の秘法と軟酥の法は坐禅の基本。
白隠禅師の『夜船閑話』と『遠羅天釜』で
ちょっとはマシな坐禅をしよう。

赤雲水

“増上慢”と“菩薩きどり”の原因

黒雲水

それはたしかに死別のタイミングの場合が多いようだけれど、そうとも限らない。
ユングのケースではキーパーソンはとっくに亡くなっていたからだ。
すなわち、重要なのは死別することではなく、やはり心境の変化の方にある。

そのキーパーソンの果たしている役割をユングの自伝は教えてくれている。

矢印マーク 『ユング自伝―思い出・夢・思想 (1) 』

「ユング、オマエもかっ!」
禅者なら体験できて当たり前。
悟境確認用に禅者の家に一冊いかが?


ユングの興菩提心体験は12歳。
今の諸君と同じように“増上慢”と“菩薩きどり”の深坑にどっぷりハマった。
そのとき対立したキーパーソンが牧師を職業としていた父親である。

葬式仏教を生み出す社会病理は西洋も例外ではない。
牧師といえども学者坊主たちと同様。歪んだ教義によって盲目にされている。
興菩提心体験によって目覚めたユングはその父との対立を余儀なくされた。

われわれ禅者は興菩提心体験によって凡人たちの知りえない真実を知る。
しかし、それは凡人たちとの間に“鋼鉄の壁”を造ることに等しい。

それまでにも私は伝統という煉瓦壁にばかり出くわして来ていたが、 今や私は一般の人々の偏見と彼らが常識をこえた可能性を認めることが全くできない という鋼鉄の壁にぶつかったのだ。〜略〜私は、自分が世界のはしへと突き進んできたと感じた。 私に燃えるような興味を起こさせるものは 他人には無益で価値のないものであり、恐怖を起こさせるもとでさえあったのである。

(『ユング自伝機-P.151「 学生時代」)


すなわち、ボクらの“話している言葉”はすでに凡人たちのものと違うのである。

しかし父との話では、私はそれ以上先へ進まず、 問題のありかに至ることさえなかったのである。 なぜなら、私はいつも心理学的でない知的な仕方で会話をはじめ、 情緒的な側面をさけるためにあらゆる努力をしたからだった。 この接近法は雄牛に対する赤い布切れに似て、 そのたびごとにわけのわからぬいら立ちを起こさせた。 全く理性的な議論がどうしてそのような情緒的な抵抗に出くわすのか、 私には理解できなかった。

(『ユング自伝機-P.141「 学生時代」)


今や凡人たちとの会話はユングのような“いら立ちと疲労感”をもたらしている。
そうじゃないかね?禅者諸君。

そして“いら立ちと疲労感”を特に覚える存在。そいつがキーパーソンだ。
諸君はそのキーパーソンを救ってあげたいと思っているはずである。

当時、父の言うことすべてについてもまた、深い疑念が生じてきた。 父が恩寵について説教するのをきくと、 私はいつも自身の体験のことを考えてみるのだった。 父の言うことは、それを噂で知っているだけで全く自信のない話のように、 陳腐でうつろに響いた。私は父を助けたいと思ったが、 それにはいったいどうすればよいのかがわからなかった。

(『ユング自伝機-P.70「 学童時代」)


実はそこに“増上慢”と“菩薩きどり”の原因がある。

諸君の体験してきた興菩提心を通過したところに本当の幸福は在る。
そこに至る道を諸君は知っているし、その方法論はまったく正しい。
それを合理的に伝えようとしているのにキーパーソンは聞く耳を一切持たない。

そのもどかしさに“いら立ちと疲労感”を覚えるばかりか、
怒りさえこみあげてくることもあるのではないだろうか。
「こんなおバカなことで生きてる価値などあるのか、コイツは?」てな感じに。

中にはこういう禅者もいるだろう。

興菩提心体験までの苦悩の原因は要らぬ偏見を吹き込んだキーパーソンにある。
その愚行をゆるし、つまらない偏見を捨てるための智慧を授けようとしているのに、
どうしていまだに偏見にしがみつくばかりで己れの愚かさを直視しないのか。

そのキーパーソンと家族関係にある自分の境遇を不憫に思い自問自答する。
「何だってこんな死んだも同然なヤツと関わらなきゃならんのだ?」
神だか仏だか知らんけど運命を操ってるヤツはどうかしてるぜ…てな具合に。

もちろん、どうかしているのは諸君のほうである。
キーパーソンを救おうなんて高慢チキなことを考えるから、
“増上慢”と“菩薩きどり”の深坑にハマってしまうのだ。

次に引用するのはユングがその深坑を抜け出した方法である。
ユングはキーパーソンを救おうとしなくなったことを読み取ってほしい。

その後数年たって、やっと、私は、気の毒な父は内的疑惑のためにやつれ果てていて、 敢えて考えようとはしないのだということを理解するようになった。 彼は自分自身から逃れ、その結果、盲目的な信仰を強調した。 彼は、夢中になって無理やり信仰をひき出しながら、 「努力によってそれを獲得したい」と望んでいたので、 恩寵として受けいれることはできなかったのであった。

(『ユング自伝機-P.113「 学童時代」)


ここにあるのは“寛大な理解”である。裏を返せば“見かぎり”と言ってもいい。

“寛大な理解”といえば「すべてを平等に愛せよ」と教えるキリスト教的であり、
“見かぎり”なら「誰も愛すな」と教える仏教的アプローチとなる。
どちらを選ぶかは好みの問題でしかなく、いずれも同じ結論に達するのだ。

「救わなければならない人など、この世に誰一人として存在しない」

禅者諸君、今こそ経典を使え

この発想はたしかにブッ飛んでいる。
しかし、ここでブッ飛ばなければ諸君は永久にそこから抜け出せない。
坐禅修行には常識をコペ転しなければならない時がときどきあり、
諸君にとっては、今がまさしくその“ときどきのとき”なのだ。

そんな常識から遊離し始めたときは心の置き所を失って宙に浮く。一方で、
凡人たちのするように妥協的な着地点に不時着してはイケナイとも知っている。
つまり、諸君は新たな着地点に薄々気づいているはずだ。
そこに裏づけを与えてくれるものを探しているのだろう?

禅者諸君、そういうときこそ経典を使え。そこに必ず応答(こたえ)がある。
経典はそうやって読みこなしていくものなのだ。

矢印マーク 『ブッダの真理のことば・感興のことば』

こなれた現代語で読める法句経。
私の仏教に対する誤解は この本で初めて解けました。


みずから救いを求め、みずから救われる。それが悟りへ至る道である。

われはすべてに打ち勝ち、すべてを知り、あらゆることがらに関して汚されていない。 すべてを捨てて、愛欲は尽きたので、こころは解脱している。 みずからさとったのであって、誰を師と呼ぼうか。

(法句経353「第24章 愛執」)


ゆえに「救わなければならない人など、この世に誰一人として存在しない」

みずから悪をなすならば、みずから汚れ、みずから悪をなさないならば、みずから浄(きよ)まる。 浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。人は他人を浄めることができない。

(法句経353「第12章 自己」)

子も救うことができない。 父も親戚もまた救うことができない。 死に捉えられた者を、親族も救い得る能力がない。

(法句経288「第20章 道」)


死んだも同然の凡人に同情することには何の価値もないのだ。

やはり聖書でも同じことを説いている。

私につき従え。死人は死人に葬らせておけ。

(マテオ8-21)


転落しなければわからない凡人は転落するがよろしく候(そうろう)。

矢印マーク 『聖書―旧約・新約』

イタリア人神父が粋に日本語訳した聖書。
イラスト・地図などの資料も豊富で、
旧約・新約、あまつさえ詩篇もついたお徳な一冊。
聖書は坐禅修行にも必ず役立つ。
かりそめにも軽んじてはならない。


無論、このブッ飛んだ発想をすぐに受け入れろなんて無茶なことは言わない。

この“寛大な理解”ないし“見かぎり”は本格的修行道場で学んでゆくことであり、
29年周期の法則やカーストといった因果律の観察や潜在意識の開発を通じて、
少しずつ納得してゆくしかないことだからである。

よって諸君はキーパーソンとの対立の中で“手がかり”さえ掴めればいい。

私は新しい考え、あるいは古い考えの見なれぬ側面でさえもが、 事実によってのみ伝えられることを理解するようになった。 事実は残り、無視しえない。遅かれ早かれ誰かが気づき、 何をみつけたかを知るだろう。 私は自身が何かもっとよいものがないから話しているだけであり、 本当は事実を提供せねばならないのにそれを全く欠いているのだとわかった。 私は自分の手中に具体的なものを何ら持ちあわせていなかったのである。 以前より以上に私は自身が経験主義へと駆り立てられているのを見出した。 私は哲学者たちが経験抜きですらすらと論じ、 事実を持って答えねばならぬ時に黙っていることについて非難しはじめた。 この点においては、彼らは皆いい加減な神学者たちと同様に思われた。 私はすでにダイヤモンドの谷をいくつか通り過ぎたと思ったが、 私が持ち帰った標本は単なる石ころではないかと、 誰も…より厳密にみると、私でさえも…確信がもてないのだった。

(『ユング自伝機-P.156「 学生時代」)


これはユングが“増上慢”を抜け出したときの“手がかり”である。

諸君が興菩提心体験から持ち帰ってきたものは何だ?
キーパーソンの前でいかに懸河の弁を揮おうとまったく無力だったぢやないか。
実は諸君は何もわかっちゃいないのかもしれないねえ…。

そうなのだ。諸君は何もわかっちゃいない。
他人にとって何が最適解なのか“ワカッテるつもり”になっていただけなのである。
この点に気づいた禅者は、より一層強く悟りを希求するようになる。

「神仏から直接答えを聞きたい。そのためには悟りを体験しなければならない」

こうした気づきは禅者に使命感を誕生させる。

私には自分が誰もついて来ることができず、 またそうしようとも思わないようなわき道に明らかに入り込んでしまったのがわかった。 しかし、私の決心は変わらず、しかもそれは宿命なのだということを悟ったのである。 何も、またどんな人も、私をこの目的から離れさせることはできなかったであろう。

(『ユング自伝機-P.163「 学生時代」)


この使命感の誕生が“ぷっつん体験”を準備するというわけだ。
要するに悟りを通して神仏から直接聞いた答えを世の中に移し入れ、
より多くの人の心に“わだかまり”を植え付ける仕事に着手するのである。

その目的は“興菩提心”をみずから直接体験させることだ。
そのため人間の才能は“ぷっつん体験”以降から発芽しはじめる。

そこで重要な役割を果たしているキーパーソンはたいてい家族の中にいる。
なぜなら人間は家族の中の誰かの愛情を最も欲しているものだからだ。
その理解を容易に得られないことで人間は成長を促されている。

これがこの世における家族のカラクリということであってみれば、
モノワカリのいい両親や配偶者や子供を欲することは実に馬鹿げている。
とくに現代人はくさいホームドラマの観すぎなのだ。

禅者諸君、キーパーソンを乗り越えたまえ!それが本当の“出家”である。
禅の本格的修行に入るためには本当の意味で出家しなければならない。
それは自分自身の愚かさを乗り越えることにも等しいのだ。

実は誰でもキーパーソンとまったく同じ矛盾を心に内包している。
ゆえにその乗り越え方はキーパーソンの教えてくれた方法論の中にはない。
そのためそれはキーパーソンの価値観を全面否定することにもなるため、
ガチンコ勝負で対決することも辞さない覚悟を決めて欲しい。

この道徳破りを冒す精神力を培(つちか)ってこれなかった者は、
残念ながら、ここで、おさらばだ。おそらく心の準備が調わなかったのだろう。
次の時節が巡ってくるまで時の粛清を耐え忍ぶがいい。

青雲水

キーパーソンとの折り合いの付け方

緑雲水

それではキーパーソンとの折り合いの付け方の例を二つほど挙げておこう。
まずは“寛大な理解”。「すべてを愛せよ」と説くキリスト教的アプローチから。

矢印マーク 『ポケットの中のダイヤモンド―あなたの真の輝きを発見する』

ボクは心随観の実践例をこの本でしか読んだことがない。
この著者はホンモノの瞑想を伝えようとしている。 ただし文才がまるでない。玉に瑕(きず)とはまさしくこのこと。
だから読者は読解力を必要とする。 それはもちろん学校の国語で要求されていた能力とは違うからね。


これから例にあげるガンガジのキーパーソンは母親である。

麻薬中毒で手に負えなくなっていた母親にガンガジは電話をかけてこう伝えた。
「私はママを愛しているの。とてもいいママだったと思うわ」

このときのガンガジの心境の変化に注目してほしい。

母親との関係の中で私が経験した問題が、 ようやく、私の人生を豊かなものにしました。 その意味で、たしかに彼女はいい母親だったのです。

(ガンガジ『ポケットの中のダイヤモンド』-45「許しの力」)


この電話によってガンガジは家族のカラクリを暴(あば)いたのである。

私たちの両親は完璧ではありませんでした。 意識的にしろ無意識にしろ、両親は私たちの害になることをしましたし、 祖父母もまた同様に、両親にとってためにならないことをしたのです。 恋人、子供、政府、敵部族も私たちを傷つけました。 そして今、彼らを許すべきときです。

(ガンガジ『ポケットの中のダイヤモンド』-45「許しの力」)


しかし、おそらくボクは口が裂けたってこんなことは言えない。
「ボクは母さんを愛しているんだ」
これは、あまりに、くさすぎる。想像しただけでも鳥肌が立つね。

だから、ボクのアプローチは“見かぎり”の方である。
ボクにとってはキーパーソンは母親であり、父親でもあった。

ここでは諸君の心に“わだかまり”を残すため、物語の力を借りよう。

舞台は北海道。主人公のボクは連れの玲子と普通列車の旅をしている。
“ぷっつん体験”のきっかけもたらした面接事件を回想中だ。
ちょっと長いのはご愛嬌ということで勘弁しておくれ。

 旧友・佐々木君から就職の誘いがあったのは、その頃だ。彼は札幌でシステムエンジニアとして働いていた。「前任者がノイローゼで入院したらしくてプログラマーを探してる人がいる。たいした仕事じゃないから面接を受けてみないか」ときた。以前、プログラマーのアルバイトをしていた頃の人脈なのだそうだ。ボクはスーツを引っ張り出してきて、ちょっと出掛けてみることにした。ところが運悪く革靴を磨いているところを母に見られた。
「あんた何してんの?」
「うん、ちょっと面接」
すると、何の仕事なのか、ちゃんとした会社なのか、とうるさいから、
「居酒屋のバイト」
と応えておいた。
 その日も今日みたいな夏の盛りだった。まだ午前中というのにすでに暑く、シャツやズボンが肌に張りついてくる。陽射しのしみ入るような黒いスーツを選んだことを後悔した。蝉時雨の中を索ねてゆくと街なかに佇む神社の樹木が涼しげな日陰をつくっていたので、お邪魔して手をあわせてみた。そうして、佐々木君に紹介してもらったシステム管理部長との面談が始まった。
「ウチの会社はあまり規模は大きくないけどね。いちおう全道に何ヵ所か拠点があって、あそこの二台のサーバーに全部のデータが集まってくるわけね。で、これを運用管理するのが主な仕事です」
「はい」
「それで、まぁ、残業になることもあるけど、大丈夫?」
「それは大丈夫です。以前も同じ運用の仕事でしたから」
「あっ、そう。だったらわかると思うけど、一日中サーバーの管理をしているわけじゃなくて、空いてる時間があるから、その間にプログラムを組んでもらいたいのね。前任者のコがよくやってくれてたんだけど入院してしまって、作りかけのプログラムが何本かあるんです。まずはそれを作ってもらうことになるかな。プログラムは組める自信ある?」
「組めるとおもいますけど」
「ちょっとブランクがあるのが心配なんだよね。前の会社を辞めてから随分たってるけど」
「プログラムなんて基礎があればすべて一緒ですから。問題ないと思います」
「そりゃそうだけどなあ。まずは見習いとうことで三ヶ月くらいやってもらって様子を見てから正式に採用させてもらうことになるかも」
「はい、よろしくお願いします」
 よろしくお願いします、と言いながら何だか嫌になってきた。
以前の職場の上司と同じ臭いを感じたからだ。この業界にはこういう人間がよくいた。旧式のコンピューター畑の出身ですでに知識も通用しなくなっているから、新たなシステムを構築するノウハウも意欲も持ち合わせていない。おそらくこの男は、前任者にすべての仕事を押しつけて発狂させてしまったのだろう。そのせいで現在この会社のシステム部には部長の彼一人しかいないのである。ボクだって、あのまま以前の会社にいたら目の前にいるこの男のようになっていたに違いない。それが嫌で会社を辞めたはずなのに、この暑い最中にのこのこと何しに来たのかわからなくなった。そして、帰りぎわにシステム管理部長が言った。
「今日の結果はどちらにしろ連絡しますから」
「結果が出るまでにどれくらいかかるものでしょうか」
「適性テストの結果が出てからだから一週間くらいかかるかな」
会社の建屋から外に出ると陽が高く昇りジリジリとした熱線を照りつけていた。ボクはたまらずワイシャツを脱ぎ、Tシャツ姿となって家路についた。
 それからキッチンの食卓でレトルトカレーを食べていると母が何やらこうるさい。
「面接どうだったの」
「何だかしっくりこなかった」
「そこって正社員にはなれるの」
「まぁ、そうらいしけど」
「正社員にしてもらえるんだったらさ。どこでも就職しちゃいなさいよ。アンタももう三十越えて若くないんだからね。三十五歳越えたら、ホラ、面接だって受けられないみたいだし」
新聞の求人広告欄がボクの眼前に広げられた。
「そんなものには興味ないんだ」
ボクがその新聞をゴミ箱へ投げ捨てると母は言った。
「こんなに心配してるのにどうしてわかってくれないの」
「他人の心配をするような奴にロクな人間はいない」
「アンタはね、アタシの息子なのよ。お胎を痛めたアタシから生まれたの。そして育ててもらったんでしょ。それなのに他人とはどういうことよ。まったく情けなくなってくるわ」
「そんな恩着せがましい人間を親と認めるバカがどこにいる」
「なによ、一人で大きくなったような顔してからに、今すぐ家から出て行きなさい」
逆上した母は大量の帯状疱疹を噴出して翌日入院し、自分が家から出てゆく羽目になった。
 見慣れない病状をみて心配になった母は口論の直後にもかかわらず、脚全体にひろがった疱疹をボクの部屋にみせにきたものだ。
「ねえ、これ何かしら」
「自業自得だよ。誰かに向けた悪意ってのは、すべて自分にはね返ってくんの。まったく、そんなこともワカラナイなんて何年生きてんだよ。ホント、おバカだねえ」
「なに言ってんの。ただの蕁麻疹よ。悪いものでも食べたのかしら」
「蕁麻疹だってわかってるなら皮膚科にでも行けばいい。坐禅をしないやつには、どうせわからん」
ボクは母が入院支度をしている鞄の中に坐禅の本を忍ばせて見舞いの代わりとしておいた。
 あの面接を受けたのは、ボクらが今のアパートに引っ越す直前だから、坐禅を始めてから一年半くらい経った頃のことだったろうか。もっとも、こうしたわかりやすい精神性疾患に限らず、人間の運命のすべてが自業自得だなんて、ボクだって信じきっていたわけじゃない。とくにインドのヒンズー教の聖典にこんな句を見つけたとき、ボクは釈然としなかった。

嫉妬心、羨望心が極めて強く、
他者に害毒を与える最低の人間どもを
神は繰り返し繰り返し、
物質界のつまらぬ者どもの胎内に投げ入れる

あの父と母のもとに生まれたことまでが自業自得だと言うのだからたまったものではない。これでは、まるであやつり人形みたいだ、と思った。でも、あの面接の一件のおかげでその意味が少しわかったと今では感じている。
 約束の一週間を過ぎても、二週間経っても、面接結果の連絡はこなかった。
それなのに腹が立つわけでもなく、どういうわけかアベコベに嬉しい。その勢いを駈って、大胆に、会計士試験のテキストを括ってすべて捨ててしまった。長年愛用してきたテキストやノート達を見送ってスッキリしたその夜、こんな象徴的な夢をボクはみる。

 以前働いていた情報システム部とよく似たオフィス。
 そこへ突如として押し寄せた洪水がオフィスにある備品のすべてを流し去る。
 びしょ濡れになって立ち往生するボク。
 そこへ一人の男が現れる。
 男は隣りのビルへボクを案内した。
 その何階かにあるだだっ広い事務所の扉を開ける男。
 事務所の中には窓から射し込む光と柱しかない。
 「ここが君の新しい仕事場だ」
 男は続けた。
 「ワタシは君のことは別段好きなわけじゃないんだが、努力だけは認めよう。好きに使ってくれたまえ」
 「えっ?どういうことですか」
 「いま言ったとおりだよ、君」
 男は言葉を継いだ。
 「まったく君のそういう鈍いところが気に入らない」
 「どうもすみません」

しかし、まったく失礼な男だ、と思ったところで目が覚めた。

 数日後に佐々木君と会ったとき、当然のごとく事の顛末を尋ねられた。
「ところで面接どうだった」
「それがさ。連絡こないんだよね。どちらにしろ一週間くらいで連絡するって言われたんだけど」
「それ、ホントなのか?」
「まあ、そうだけど…」
「なんなんだ、あの野郎。今すぐオレが文句言ってやるよ」
「いや、いいんだ。あの人も気の毒な人だから」携帯電話を取り出した佐々木君を制して、ボクは言った。「それに何だか腹も立たないんだよね」
「ん?文句言わなくていいのか」
「いいよ。おかげで何というかフッ切れたし。そう、フッ切れたんだ。佐々木にはホントに感謝してるよ」
「おっ、そうか。何だかよくわからんけど。オマエがそう言うならやめとくよ」
これを有り体に言えば、何もかもお手上げにしたらスッキリしちゃった、くらいなものだろうか。
 それまでのボクは会計士試験に不合格になるたびに、
「サラリーマンよ。公務員よ。オマエらは可哀そうだ。あわれなヤツらよ」
と蔑むことで精いっぱい粋がって自尊心を満足させてきた。
「オレは自由にやってるよ。やっぱり自由はいい。これが人間のあるべき姿じゃないかな」
と飲み会の席で語り、さしでがましい決めゼリフまで吐いてきた。
「自分の時間を切り売りしただけでサラリーもらって、ハイ、ヨロシクっていうの?カッコわるくて性に合わねえよ」
そのくせ気がつけば、そんな人間になりたくないと想ってきた、まさに、そんな人間になろうとして、あの面接を受けていた。
 「ただの肩書きじゃないか。こんなもの」
そう思って会計士試験のテキストを捨てたとき、肩書きを誇りとした挙句に肩書きから見捨てられた父の心がボクの心と二重写しに透けてみえた。そのときまでのボクは父の生き方をどこかで軽蔑しながら、そうとは知らずに同じ生き方をなぞっていたわけで、自分の人生など生きていなかったようにおもう。思えば、あのとき、ボクは初めて父から自立したのだ。そして、つぶさに苦い青春から卒業してきたのだ。
 するとにわかに“家族”というものの本質もわかってきた。
家族とはこのカラクリに気づかせるために天の用意してくれた人生舞台のキャストにすぎないのかも知れないと。おかげでボクの経験してきた過去のすべての出来事は、あの時から、ボクの人生に豊かな意味を添えてくれている。どんなにろくでもない家族でもボクにとってはよい家族だったのだ。
 思いがけず、随分と、恥と過ちの多い歳月を過ごしてきたようにおもう。でもあの一件のおかげで、ボクの人生は一気に価値を取り戻したのではないだろうか。その証拠にボクを悩ませてきた、
(本当にこれでいいんだろうか)
という想いは、今ではまったく消し飛んでしまっている。こうして可能になった新しい人生を前にしたボクは、たまに好物のコーラとポテトチップスで自分自身を祝福する。独りの部屋でポテチを口に放り込み、コーラをグビグビと飲み干す。
コーラ、ポテチ。コーラ、ポテチ。
間断なく繰り出されるコーラとポテチの祝福の中で、誰にも理解されはしないだろう心の変性を遂げてしまったボクの数奇な運命のすべてを流し込み、跡形もなく消化するのだ。
 だからボクは「お父さん、お母さん、産んで育ててくれてありがとう」「もし生まれ変わっても、またお父さんとお母さんの子供になりたい」なんてひととおりの物言いは決してしない。喜びもある。愛情もある。そのくせ傷つけあいもある。それが家族だ。そして、それだからこそ意味もある。傷つけあうことでしか心のカラクリをあからさまにできないならば、互いにぶつかりあって徹底的に傷つくことがボクの勇気だ。生易しい言葉でごまかすことなく完膚なきまでに打ちのめすことがボクの慈悲なのだ。だからボクは(もし生まれ変わっても二度とこういう父と母のもとには絶対に生まれてこない)と決意も新たに日々の坐禅に向かう。なぜならボクは禅者として生まれ変わったのだから。
 電車は釧網本線を北上中である。車窓に広がる釧路湿原は冬には丹頂鶴を目撃できる名所となるけれど、今は夏だ。車窓からは見渡すかぎり夏の大空と大地しか見えない。太陽が狂暴に力強く陽射しを降りそそぐ中にあって、電車の中からは単調な景色が続いているようにしか見えないのだ。しかもこの座席は、ちょうど排熱口の上にあり、したがって汗ばむほど暑い。そのため、いやがうえにも微睡みに誘われる。そこで満腹の玲子は、ついさきほど寝息をたてて眠ってしまった。こうして玲子の寝顔を見ていると普段は口にすることのない新たな決意がこみあげてくる。そして手垢にまみれた喩えだと知りながら、人生を航海にたとえてみたりしてしまう。
 その昔、父と母から海図と羅針盤を手渡されたボクは、同時に小さな船を相続した。
「これは私たちが幾多の荒波を乗り越えるのに役立った。きっとおまえも、これで乗り切ることができるだろう」と。意気揚々と大海原に出帆したけれど、そのうち船のアラが目立ってきて、少々不安になったボクは港に立ち寄り修理を施すことにした。ところが、その港の薄暗い骨董屋で埃にまみれた海図と羅針盤を見つけてこう叫ぶことになる。
「ボクの持っている海図と羅針盤は救いようもなくデタラメだ!」
その骨董屋の海図によると運命がその航路を開いている時期にしか渡れない大陸が確かにあるのだ。今のボクは新たな海図と羅針盤を手に入れ、それにふさわしい船を捜しているようなものだと想像を膨らませる。そして、後援者のスペイン女王・イザベラと謁見するまで諸国を遍歴しなければならなかったコロンブスに比べて、ボクはなんて恵まれているのだろうと悦に入る。ボクの側にはいつも後援者がいたではないか。それこそ、いま隣で寝入っている玲子その人であり、スケールはイザベラに見劣りするとしても、無論、それは本望だ。
 もうしばらくすると女王・玲子は目を覚ますだろう。
そのとき、夏の大空の下、この悠大な北海道の大地をゆっくりと北上する電車に揺られながら、ボクはこう訊ねるつもりだ。
「女王さま。ランチは何にいたしましょう?」
ボクは、今、こんな白昼夢をみれるほどに自由なんだ。


(布施仁悟『道東青春18きっぷの旅』-「真夏の白昼夢」より)


それでは最後のミッションを告げる。

Mission 8  “ぷっつん”しちゃいなさい!


そこから先は内なる師が諸君を導いてくれるだろう。

(2012.11)

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