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【坐禅作法30】興菩提心

ちょっとはマシな坐禅作法 興菩提心〜Trial Impossible 6〜

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〜Trial Impossible 6〜


興菩提心体験とその罠

ある禅者から嬉しい報告を受け取った。ミッション成功の報告である。

Mission 5 得度を授かってこい!

ちょうどおととい、今までのぼんやりした考えが明確になり、 自分の今世での役割というか、これをすべきといえる天命が分かるとともに、 すべての物に宿る神のような存在を認めれるようになったのです。


これが得度の体験である。ボクはこの神秘体験を“興菩提心”と呼んでいる。

まさかミッション成功の報告を受け取れるとは思っていなかったので、
ボクは内心喜んではいたけれど返答には慎重にならざるをえなかった。
「行の進行」に「業の解消」が追いついていない兆候をみせていたからである。

昨日ですが、早朝に霊的な何かを感じ金縛りと共に起きました。
昼になっても動悸と息切れがあり、 心臓あたりのチャクラが飛び出ているような感覚だったので、 自分でそれを撫でて納めるイメージで胸に手をかざしておりました。
少し落ち着いたのですが、今度は夜に肩や肩甲骨の辺りに筋肉の硬直を感じ、 頻繁に体をブルブルっと震わせないと居ても立ってもいられない症状に苦しみました。
とにかく肩のストレッチをし続け、冷静を心がけると、 今度は体全体が熱くなり、首の付け根辺りにドロドロした熱い塊を感じ、 それはしばらくして消えたのですが、今度は眉間を締め付けられる感覚と、 頭の真ん中がツーンとしてくる症状が出てきました。


ボクの提唱する坐禅作法に動悸や息切れや締め付けられる感覚はありえない。
たとえあったとしてもその原因をみずから解明できる想定の範囲内でのこと。
それ以外は心の成熟を待たずに気の身体を育成したときの警戒信号なのだ。

また神秘体験は劇的な通過点であると同時に進歩を止める罠ともなる。
だからボクは「それは妄想にすぎない」と応(こた)えるしかなかった。

はたして禅者はその罠の一つ“増上慢(ぞうじょうまん)”にも落ちていた。

ぷっつん体験は完全に終えております。
世俗的な欲はすべて理解し、手放してきました。
劣等感もすべて解放したつもりです。


これは単にうぬぼれと言えばわかりやすいかもしれない。

興菩提心体験の後に目前に広がるべきは途方もない荒野のはずである。
これから乗り越えるべき山を幾つも遠くに認めることになるからだ。
ゆえに手放さなければならない欲や劣等感に圧倒されてこそ正解となる。

もちろんこの禅者を恥辱の十字架にかけて見せしめにしようという意図はない。
それはここを通過する禅者なら一度は陥らなければならない罠であり、
幼児のかかる水疱瘡やおたふく風邪のようなもの。ただ症例を示したまでだ。

矢印マーク 『白隠禅師―健康法と逸話』


坐禅と氣の関係を明かした本。
内観の秘法と軟酥の法は坐禅の基本。
白隠禅師の『夜船閑話』と『遠羅天釜』で
ちょっとはマシな坐禅をしよう。


白隠慧鶴にしてもここを乗り越えて五百年に一人の逸材となったのである。

二十四歳の春、越後高田の英巌(えいがん)寺で、性徹(せいてつ)和尚のもとで修行していた折に、 死を覚悟の一大坐禅をつづけて十四日目の早朝に、 「澄みきった空の彼方より、ボーンとひびいてくる寺の鐘の音が、心魂に透きとおる」のを感得して、 ハッと眼をさまし、身心が天地にとけ澄んで、満ちひろがり、天地と自分との境がなく、 天地とともに澄みわたり、満ちひろがっている、大きい大きい自己を体感して、 一大安心と歓喜をおぼえ、「天下でこのような大きい悟りを得たものはあるまい」と思い、 師匠や同僚に告げるのですが、相手にしてくれません。 慧鶴は、お前たちにはこの私の悟りがわからないのであるといい、 ますます超然として、人を人ともおもわなくなったのであります。

(直木公彦『白隠禅師―健康法と逸話』-P.22「白隠禅師の人と仕事」)


この後、白隠は正受老人に増上慢を一喝されようやく正道に戻ることになる。

興菩提心で陥りやすい罠には“増上慢”のほかに“菩薩きどり”もあるけれど、
実は坐禅修行とは“増上慢”と“菩薩きどり”を克服する過程ともなっている。

興菩提心体験とその罠。それはホンモノの禅者への登竜門と言えよう。

Mission 6 菩提心を興せ!
赤雲水

神秘体験の実質

黒雲水

坐禅修行の階梯には心境の変化に随伴するいくつかの劇的な体験が待っている。
すなわち自分の悟境を客観的に判断できるようになっているのだ。

ただ五百年に一人の逸材ですら最初のボタンを掛け違うくらいだから、
いまだに体系化できる禅僧が日本に現れていないだけのことである。

しかも葬式仏教の学者坊主はせいぜい興菩提心までしか体験できないため、
この階梯をもって見性とぬかしている体たらく。無論、それは見当違いだ。

見当違いといえば興菩提心に伴う神秘体験だっておそらくダミーである。
その神秘体験の内容は各人各様。百花繚乱、妄想の狂い咲きなので、
神秘体験の内容自体から共通点を導き出すことはできないからだ。

たぶん神秘体験の要点はそのときの心境の変化のほうにある。
そこで心境変化の分析により神秘体験の意味を暴き出してみよう。

矢印マーク 『人間の永遠の探求』

修行者はどういう生活をしたらいいのか。
迷ったらこの人に聴けばいい。
ただし納得できたものから少しずつ取り入れていかないと、
ただのストイックな禁欲主義になるのでご用心。


ボクの33歳の興菩提心体験はこの文章を読んでいたときに急に起こった。

神は、われわれの過ちや、神に対する忘恩や無関心にもかかわらず、 われわれを愛し、われわれに生命と、生活に必要なすべてのものを与えてくださいます。 これほど偉大なお方はほかにいません。そのような神を忘れることほど大きな罪はありません。

(パラマハンサ・ヨガナンダ講話集『人間の永遠の探求』-P.24「講話三 神の無限性」)


突然、今まで流したことのない涙が溢れ出てきて止まらなくなったのである。
自分が情けないのか、ありがたいのか、その涙の理由はさっぱり理解不能。
心の奥底にもう一人の自分がいて、そいつが泣いているような感覚だった。

この法悦の涙をはじめて知ったとき心に浮かんでいたのは因果律である。
いくら環境を変えても、必然的に同じような出来事や人物に出会い、
同じような苦悩に直面させられてきた人生の法則に思いをはせていた。

そして、この時はじめて自分の心をどう組み替えたらいいのかを知った。
つまり、人生の変え方、道の開き方が分かってきたのである。

この因果律こそ、言わば、神のみえざる手であり、み仏の方便だと思った。
その愛や慈悲は必ずしも人の思い通りを叶えることではないと知ったのである。
神仏と和解しその愛と慈悲に触れたボクは魂の涙でそれに応えたのだろう。

矢印マーク 『ユング自伝―思い出・夢・思想 (1) 』

「ユング、オマエもかっ!」
禅者なら体験できて当たり前。
悟境確認用に禅者の家に一冊いかが?


お次はユングの神秘体験。なんと12歳のことだそうである。

その時ふいに、ほんの一瞬間だったが、 私は濃い雲から出てきたばかりだという抗しがたい強い印象を受けた。 私にはすぐにすべてのことがわかった。 今や、私は私自身なのだ!それまでは、まるでもやの壁が私の背後にあるようだった。 そしてその壁の後には、まだ「私」はなかった。 けれどもこの瞬間、私は私自身に出くわしたのである。 以前、私は存在してはいたけれども、すべてがたまたま私に起こっただけだったのである。 それが、今や私は、私自身に出くわした。 今や私は、私が今自分自身であり、今、私は存在しているのだということを知った。 以前は、これやあれやをするよう命じられていたのだったが、 今や私は、自分の意志を働かせるようになったのである。 この経験は、私にはおそろしく重要でしかも新しく思われた。 つまり、私の中に「権威者」がいたのである。

(『ユング自伝機-P.56「 学童時代」)


実はこの神秘体験の前に貴重な教訓を得る事件をユングは体験している。

ユング少年は学校の帰り道で友人におふざけで突き飛ばされた。
偶然足をすべらせて舗道のふちに頭を軽く打ったのだけれど、
わざと少し長い間横になって周囲の大人たちの関心を買った。
その友人への報復のつもりだったそうである。

その時以来、同情を買うことに味をしめたユングは、
学校の帰り道や都合の悪いときに発作を起こすようになってしまう。

これはその発作を自分の精神力で治す努力に成功した頃の自己反省。

私は次第に、神経症がどのようにして起こってきたのか、思い出せるようになった。 そして、他ならぬこの私が、この全く恥ずべき状況を調えたのだということを、 はっきりと理解した。それが、私を押し倒した学校仲間に、 私が一度も腹を立てなかった理由だった。 事件全体は、私の側の悪魔的な筋書きによっており、 彼はいわば、そそのかされたものであることを私は知っていた。 私には、こんなことは二度と起こらないこともわかっていた。 私は自身に対して激しい怒りを覚え、同時に自身を深く恥じた。 というのは、私の見るところでは、 私が自身を辱め馬鹿にしてきたのだということを知ったからである。 他の誰をも非難しようとは思わない。私は極悪の裏切者だった。

(『ユング自伝機-P.55-56「 学童時代」)


この自己反省は因果観であったことを読み取れると思う。

「他ならぬこの私が、この全く恥ずべき状況を調えた」
「事件全体は、私の側の悪魔的な筋書き」
「彼はいわば、そそのかされたものである」
「私が自身を辱め馬鹿にしてきた」
「他の誰をも非難しようとは思わない」

こうしてものごとの因果はすべて自分の心に起因することを理解するとき、
自分の心にもとづいて運命を設計している「権威者」に気づくことになる。
興菩提心体験によって人生の変え方に見通しの立つ理由もここにあるのだ。

たいていハンマーで脳天をかち割られるような運命の打撃を引き金とするから、
この「権威者」に対して多大な畏怖の念を抱くに違いない。

こちらはこのブログのコメント欄に書き込まれたある禅者の回想。

私は単純に大いなる意志の存在を認めざるをえないほど追いつめられ、 私の自我は人生の前に屈服しました。自分の意志はあって、ないものだと。


この畏怖の念が神秘体験を誘引する。“菩提心”とはこの畏怖の念に他ならない。

また興菩提心の体験は啓示と言ってよいほどの恩寵として感じられるものだ。

つまり、こうだった。 私は途方もなく心が軽くなるのを感じ、名状しようのない救いを感じた。 予想していた破滅の代りに、神の恩寵が私の不意をつき、 それとともに私のかつて知らなかったほどの言いようのない幸福感が、やってきた。 私は幸福感と感謝のために涙を流した。 神の英知と善とは、私が神の容赦のない命令に屈服したということを私に啓示されたのである。 それはまるで、私が啓示を経験したかのようであった。

(『ユング自伝機-P.66「 学童時代」)


それはあまりに劇的であるためゴールと勘違いして“増上慢”に陥ることもある。
ただしそれはすぐに克服されるだろう。なぜなら恩寵の喪失感に襲われるからだ。
どうせこの体験以降も相変わらず人生の不安はつきまとうのである。

したがって“増上慢”を通り抜けた直後から本格的な修業は始まる。
なんとなれば圧倒的多数の凡人たちが知るよしもない真実を知ったがゆえに。

それは私に耐えがたい孤独を強いた。 このころの私の偉大な業績は、誰かに話したいという誘惑にうち勝ったことであった。 ここに私の世間に対する関係のもち方の型がすでに前もって示されている。 つまり、今日もその時のように私は一人ぼっちであるが、 それは、私が他の人々の知らない、 またふつうは知ろうとさえ思わないようなことを知っており、 それをほのめかしてはならないからである。

(『ユング自伝機-P.69「 学童時代」)


次の目標はユングのいう「世間に対する関係のもち方の型」を身につけること。
つまりは凡人との人間関係の折り合いのつけ方を学ぶことである。

ところがこれは非常に辛い立場からの挑戦となるだろう。
人間は興菩提心体験を経てはじめて救われてゆくことを知ったというのに、
親しい友人、兄弟姉妹、両親その誰一人として聞く耳を持たないからだ。
すなわち最も理解してもらいたい相手から最も拒絶されることになる。

このとき生じる問題は、相手への愛しさが憎しみに転じて怒りとなり、
相手の愛情の欠陥を嘆く被害者意識に傾いて自己憐憫に陥ることである。

ゆえにユングが「一人ぼっち」と表現しているその耐えがたい孤独は、
怒りや自己憐憫(れんびん)の温床となり、たちまち“菩薩きどり”を差し招く。
そうして仏法を笠に着て宇宙の番人よろしく菩薩裁きを下しはじめる。

たとえば、何かにつけて宇宙の法則をまくしたてその愚かさをあら探し、
素質やセンスのかけらもない凡人を坐禅修行に引きずり込もうとする。
それでも聞く耳を持たないからと聖なる書物を読み漁り理論武装を固めつつ、
凡人社会の汚点を尋ねあぐねて飽き足らず軋轢(あつれき)を増してゆくばかり。

こうした菩薩きどりの深坑(じんごう)は高尚で神聖で敬虔であるがゆえに、
さしもの増上慢も物ならず。それは世界の最深マリアナ海溝ほども深い。

誰かに愛情を保障してもらえば幸福になれるとする常識的発想が抜けない限り、
自分の心ではなく相手の心を変ようとするため自我の巧妙な口実に欺かれる。
それは自我のでっちあげたおためごかしにすぎないと気づくまで、
いつまで経っても浮かび上がることはできないことになっているのだ。

内なる正師(サットグル)

ただし、この菩薩きどりの深坑を抜け出す手段はすでに手に入れている。
因果律を支配している「権威者」の意図を推理洞察してそれに従えばいい。
どんな聖なる書物にも書かれていない最速最短の手順を示してくれるだろう。

というのも、この「権威者」こそは内なる正師だからである。
ボクはこの真実をニサルガダッタ・マハラジの『アイ・アム・ザット』で納得した。

矢印マーク 『アイ・アム・ザット 私は在る』

結局このニサルガ・ヨーガに行き着いたのは驚きだ。
ニサルガダッタ・マハラジはあまりにクール。
そのため当初は冷徹な印象を受けたものである。
でも実はそれが本当の慈悲であり愛だった。
愛は神であり、神は愛である。
ゆえに愛はパラドックスである。


マハラジは人を内面から導く“内なる師(サットグル)”の存在を説いている。

たとえ外側のグルが発見できないとしても、そこにはつねに内面から助け導く、内なる師(サットグル)がいる。

(『アイ・アム・ザット 私は在る』-P.375「73 マインドの死は智慧の誕生だ」)


そして、これは内なる師との出会いをどう知るのかという問いへの答え。

それは偶然出くわすひとつの言葉、あるいは本のなかの一ページかもしれない。グルの恩寵は神秘的に働くのだ。

(『アイ・アム・ザット 私は在る』-P.375「73 マインドの死は智慧の誕生だ」)


この回答はボクの興菩提心体験と全く同じ状況を説明していたのである。

またマハラジによると内なる師の指導とは少々荒っぽいものらしい。

弟子の意志、知性、エネルギーなしにはグルは無力なのだ。 内側のグルはチャンスを得ようとする。 愚鈍さと誤った追求が危機をもたらし、弟子は自ら己の苦境に目覚めるのだ。 賢い者はショックを待ったりしない。それはひどく粗暴なものでもありうるのだ。
(質問者)それは脅しなのでしょうか?
脅しではなく、警告だ。 内なるグルは非暴力に専心してはいない。 愚鈍で堕落した人格を破壊するためには、彼はときおりまったく暴力的になりうる。 不幸と死、生と幸福は彼の仕事の道具なのだ。

(『アイ・アム・ザット 私は在る』-P.391「75 平和と沈黙のなかで、あなたは成長する」)


29歳のボクが病気のデパートと化して辛酸をなめさせられ、
33歳で興菩提心体験へ到った経緯のすべても内なる師の指導だったのだ。

しかもボク自身の高い自我こそが内なる師であるとマハラジは切言する。

あなたの内なる真我が最も偉大なグルだ。 本当に、彼が至高の師なのだ。 彼だけがあなたを導くことができる。 道の終わりにあなたが出会うのも彼だけだ。

(『アイ・アム・ザット 私は在る』-P.166「35 内なる真我が最も偉大なグルだ」)


あの時「心の奥底にもう一人の自分がいて、そいつが泣いているような感覚」
を覚えたのは、このせいだったに違いない。
要するに興菩提心体験とは内なる師との出会いの体験だったのである。

今ではこの内なる師こそ神と崇め、み仏と呼ぶべき存在だと知っている。
ボクを今の悟境に導いてくれたのは他ならぬ彼だからだ。

とはいえ内なる師の指導というのはいつもながら理不尽だと思う。
たしかに最終的には「結局、アンタが正しい」となると分かっているけれど、
ときには業を煮やすこともなきにしもあらず。

「この野郎、どういうつもりなんだ。他にやり方があるだろう?」
「まったく、いつも手口が汚ねえんだよ。鈍いからって馬鹿にしやがって」
「気に入らないなら何とか言ったらどうなんだ!」

内なる師との無言の対話は喧嘩腰くらいで丁度いい。
今のところ罰は当たっていないから、たぶん、心配無用である。

だから内なる師の意図を推理洞察することは並大抵のことじゃない。
でも因果律を支配するのは彼だから因果を深く見つめれば必ずわかってくる。
その面白さは推理小説やサスペンス映画の比ではない。人生が冒険になる。

Mission 6 菩提心を興せ!


人生そのものが師。人生そのものが公案。(布施仁悟)

内なる師の声なき声を聞こうと努力するから声聞道。
大乗仏教の声聞道の修行は興菩提心から始まるのである。

とにかく今回の内容は罠に落ちてみなければ理解できないだろうから、
とりあえず“増上慢”と“菩薩きどり”の罠に堂々とハマってみるといい。

それでは次回のミッションでまた会おう。健闘を祈る。

(2012.3)

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