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【坐禅作法27】禅的三密観

ちょっとはマシな坐禅作法 禅的三密観〜Trial Impossible 3〜

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〜Trial Impossible 3〜


禅者よ、その胸のかそけき声を聴け!

そろそろチベット体操で身体をつくりはじめてから10週間以上経過する頃だろうか。

中には頭が気だるく後頭部に軽い震動を覚えている禅者もいるかもしれない。
それはいい傾向である。ここでやめないで続けて欲しい。
後頭部のちょうど延髄の辺りには大きな気の出入口があるらしく、
ここが活性化する時分には軽いめまいを生じるものなのだ。

さらに、1〜2年経過するころには腕に小さな赤い斑点も出てくる。
それはこれまで血液の通っていなかった毛細血管の活性によるもので、
異常なものではないから慌てて皮膚科に行かなくてもよろしい。
むしろ身体が健康体になってきた証拠として喜ぶべき現象なのである。

身体は正常な機能を取り戻す前段階で一時的に不快な症状を生じる。
これを中国医学では瞑眩(めいげん・めんげん)現象というのだけれど、
西洋医学に侵された現代社会では身体の機能は異常な方向に傾く一方なので、
瞑眩を悪い兆候と勘違いしがちだから、この知識は覚えておくといいと思う。

矢印マーク 『5つのチベット体操-若さの泉・決定版』

心の管理と肉体の管理。
人間の義務はたったこれだけ。
さすれば総てのことは添えて与えられん。
坐禅とチベット体操は人生の基本です。


さて、禅者諸君は因果観・輪廻観によって坐禅修行の入口に立ったわけだ。
今回のミッションからは禅の真髄・心随観をマスターする具体的行法の解説に入る。
ただし、ボクは本当のことも告げておかなければならないと覚悟を決めている。

おそらく今回のミッションを遂行できる禅者は10000人に1人だろう。
悪く思わないでいただきたい。これはそういうものなのだ。

全き知識を求めて努力する者は
おそらく幾千人の中の ただ一人
その秀れた求道者たち幾千人のなかで
わたしの実相を知るものは ただ一人

(ギーター7-3)


つまり今回、諸君は“禅者としてのセンス”を試されるのである。

矢印マーク 『神の詩―バガヴァッド・ギーター』

世界中で聖書の次に読まれているという聖典。
仏教とキリスト教をつなぐ架け橋となる。


ところで『才能とは何か』のシリーズ記事はもう読んだだろうか。

そこには松本清張の苦悩について述べているのだけれど、
だいたい29歳にもなって清張の苦悩と同じものを体験していないとしたら、
おそらく今回のミッションの成功はおぼつかない。

なぜなら、その人生における苦悩に正面からぶつかり、
一刻も早く苦悩を乗り越える必要性を感じている人でなければ、
今回のミッションを成功させるための“切実さ”に欠けるからである。
そして29歳はそんな心の準備のできた人に運命の扉が開かれる年齢なのだ。

したがって、齢(よわい)29を越えて『才能とは何か』を読んだときに、
清張と苦悩を共感できず、その心理描写の巧みさに感服できなかった人は、
“禅者としてのセンス”に著しい欠陥を抱えていると考えて間違いない。

要するに“30代へのパスポート”をつかみ損なったのだ。

たぶん世間の連中にそそのかされて妥協と逃避にうつつを抜かしている間に、
そのオツムは常識に毒されすぎてしまい、運命の扉に鍵をかけてしまったのである。
その鍵をはずす方法をボクは知らない。自分でかけた鍵は自分ではずしたまえ。

このことも、また、悪く思わないでいただきたい。
今回のミッションの成功には“時節”というままならぬ条件も不可欠だからだ。

もちろん落胆は禁物。次に扉の開く58歳に再び時節は巡ってくるからである。

たしかに58歳で運命の扉が開かれるかどうかは今の生き様にかかっているし、
運勢は急転落下の様相をみせるけれど、61歳から禅の本質に導かれてゆく。
さらに3年後の64歳頃から潜在能力が目覚め始めれば68歳から運勢は変わる。
そうなれば71歳から飛躍できるはずだ。

素質のある人は29歳に開く運命の扉からこの“天職への12年”へ入る。
しかしながらこの時機を逸する人があまりにも多いのである。
そういう人に希望を与えられるものとしては、おそらく坐禅以外にないだろう。

因果観・輪廻観で人の運勢をよく観察するようになるとこんなことに気づくと思う。

人間は心の準備のできるまで29年周期の堂々巡りを繰り返しているにすぎないと。
つまり坐禅修行で心の準備を調えないかぎり苦悩ばかりの一生が待っているのだ。
だから、必ずや運命の扉をこじ開けるつもりで今回のミッションに挑んで欲しい。

矢印マーク 『アイ・アム・ザット 私は在る』

おバカな質問にも真剣に答えてくれる稀有な聖者。
550ページにものぼる質疑応答のなかに、
修行者の胸にある疑問と答えが必ずみつかるだろう。
心随観のヒントがいっぱいの珠玉の一冊。


そもそも坐禅修行とは苦悩を避けるのではなく苦悩に喜びを見いだすことである。

(質問者)苦痛は受け入れがたいものです。

…どうしてかね?試したことがあるのかね?試してみなさい。 そうすれば苦痛には快楽が生みだすことのできない喜びがあることを見いだすだろう。 なぜなら、苦痛の受容には快楽よりもはるかに深いところへあなたを導くという純然たる理由があるからだ。 個人の自我はその本性からして絶えず快楽を求め、苦痛を避けている。 このパターンの終焉(しゅうえん)が自我の終焉なのだ。 自我と、その欲望と恐れの終焉は、幸福と平和の源であるあなたの真の本性に帰り着くことを可能にする。

(『アイ・アム・ザット 私は在る』-「59 欲望と恐れ、自己中心的な状態」より)


運命からの贈り物である苦悩を避け続け、子宮回帰の夢を見ている人を前に、
どんな言葉をかけたものか?ボクにはさっぱりワカラナイのだ。

ただし、まだ聞く耳を残しているとしたら、禅者よ、その胸のかそけき声を聴け!

Mission 3 常識を徹底的に疑え
矢印マーク 『うまくいっている人の考え方』

これは著者の冒頭での告白。
「私自身、困難な教訓ほど直視したくなかった。 しかしだからといって、それが真理ではないということにはならず、 結局、私はその教訓を学びとるまで何度も苦しみつづけなければならなかった」
こういう体験から生まれた本には人の人生を変える力がある。
心の中に巣喰う劣等感を浮き彫りにしたければ、 自尊心を高めるような考え方をぶつければいい。 この本はそのための恰好のテキストである。 坐禅入門者、とくに声聞道を正しく歩む者は、 こういう考え方が自然に身についてくるものなのだ。
なんとAmazonマーケットプレイスなら1円から買える。 送料は別だけど…。

赤雲水

直に人惑を受けざらんことを要す

黒雲水


随処に主と作(な)れば、立処みな真なり。

これは「みずから主人公であれば、どこにいようと真理がある」という意味で、
臨済禅師の語録としてよく引用されている有名なものだ。

おそらく大上段で威勢のいい句だから好まれるところなのだけれど、
むしろ重要なのは直前に添えてあるこの一句だとボクは思う。

大器の者の如きは、直に人惑を受けざらんことを要(ほつ)す。

(意訳)大器の人であれば、何よりも他人に惑わされまいとするものだ。

(『臨済録』-「示衆」P.70より)


すなわち誰かの言いなりになっているようなやつはダメだというわけである。
しかし、ほとんどの人は誰かの言いなりになっていることに気づいてもいない。

矢印マーク 『臨済録(岩波文庫) 』

語録中の王。それが臨済録。
禅師のくせに坐禅しろなんて一言も言わない。
だから、こいつはホンモノの語録だ。
読んだら間違いなく坐禅中毒になるね。


それで、どうして人間は誰かの言いなりになるのかを説明するのだけれど、
簡単に言えば「そのほうが処世において都合がいいから」である。

実はボクたちは何にも知らない幼子(おさなご)の頃にこの処世術を身につけた。
ボクたちを養ってくれた両親などの育て親の愛情を得るためには、
その言いなりになって“おりこうさん”を演じればよかったからである。
これがボクらの人生最初の成功体験といえるだろう。

さらに、この幼児期における成功体験はこんなことを確信させてゆく。
「知識や経験を積み重ねれば成功できる」
なぜなら「おりこうさんね」と褒められた経験を分析して、
パターン化した知識を蓄積するほど成功体験が増えていったからである。

そして、いつのまにかボクらは誰かの“おりこうさん”であるための処世術を、
知識としてストックすることに血道をあげるようになってしまった。
この知識こそが常識、道徳、伝統、信仰、倫理などである。

たとえば葬式仏教に入信する心理もこの延長線上にある。
仏教の知識があれば他人から尊敬されると勘違いしているのかもしれないし、
とりあえず伝統的な権威を鵜呑(うの)みにして免罪符を買っているのかもしれない。
どちらにしろ根本的に無智無明であることは同じだ。

坐禅の目的はこの無智無明の思考習慣を逆行させ幼子に戻ることにある。
すなわち「知識や経験を積み減らせば成功できる」というのが禅の教えなのだ。
それは、金輪際“おりこうさん”を演じるのを辞めるということで、
臨済禅師の語録にしたがって誰の言いなりにもならないということでもある。

ゆえに常識、道徳、伝統、信仰、倫理を徹底的に疑わなければならない。
そして、以下はそのための恰好のテキストからの引用。

矢印マーク 『うまくいっている人の考え方』

25 無理をして人から好かれようとしない。

なぜだかわからないが、自分が相手を嫌っていることを相手にわからせようとする人がいる。 そんなとき、私たちはたいていそれは自分のせいだと思い、 どうしたら相手の気分をよくすることができるだろうと悩んでしまう。
そこで必要なことは、こう自分に問いかけることだ。
「他人が私のことを好いていないからといって、 なぜ私は自分を変える義務があると思ってしまうのだろうか?」
他人が自分のことを好いていないという問題を解決する方法は、 他人に好いてもらうために自分を変えることではない。 真の解決法は、だれからも好かれることは不可能だし、 またその必要もないということを理解することなのだ。
(P.68)


ボクらは道徳的ないし常識的あるいは倫理的、伝統的、信仰的観点から、
本来の自分を押し殺すような心の契約を堅く守り続けている。

たとえば「ボクは誰からも好かれる善い人になります」のようなものだ。
ところが、この契約に同意した瞬間に本来の自分の一部を殺してしまう。
それは「必ずしも誰からも好かれるように立ち振る舞えない自分」である。

誰かにとって“おりこうさん”であるための知識を蓄積しはじめるときから、
ボクらは本来の自分を抹殺するための努力を繰り返すようになる。
それはいわば人格に分裂を引き起こす思考習慣を続けているようなもので、
たまたま精神病の診断を受けていないということにすぎない。

この無智無明の思考習慣を打ち破る方法はただ一つ。
古い心の契約を破棄して新しい契約に書きかえるということだ。
そのためには今まで押し殺してきた本来の自分の声に耳を傾ける必要がある。

そこで必要なことは、こう自分に問いかけることだ。
「他人が私のことを好いていないからといって、 なぜ私は自分を変える義務があると思ってしまうのだろうか?」


こういう疑問は心の声に耳を傾ける態度になったときに発せられるもので、
“セロトニン優位”の状態に脳をチューニングできたときの“気づき”でもある。

するとそこに古い心の契約を見つけるだろう。
「ボクは誰からも好かれる善い人になります」
同時にその原因も明らかになるに違いない。
たとえば幼児期の母親の言葉がトラウマになっているのかもしれない。
「あら、そんなことをしたらみんなに嫌われちゃうのよ。ママは悲しいな」
ただし、もはや母親の言いなりになる筋合いはないのである。
そこですかさず心の契約の内容を書きかえればいい。

だれからも好かれることは不可能だし、またその必要もない。


この一連の作業の繰り返しが禅の真髄・心随観へのとば口となる。

ただそのためには、本来の自分の声に耳を傾ける態度になって、
古い心の契約に疑問を発する“気づき”を得られなければ話にならない。

禅的三密観

では、その“気づき”を促す『禅的三密観』という行法を紹介しよう。
それは実に簡単で三つの文句を覚えて夜坐の最初に唱えるだけだ。

行うべきことについて、行わなかったこと、行ってしまったことはないか?

語るべきことについて、語らなかったこと、語ってしまったことはないか?

想うべきことについて、想わなかったこと、想ってしまったことはないか?


お釈迦さまは実にシンプルな教義を説いたものだとボクは思う。

『身口意の三業(しんくいのさんごう)』を調えることが仏道修行のあり方。
すなわち、身(行い)と口(言葉)と意(思い)の間に一本のスジを通せというのだ。

たとえば「誰からも好かれる善い人になります」という古い心の契約は、
自分でも思ってもいないような嘘の言葉を語る原因となるし、
相手本位のどことなく気分の滅入る行ないの引き金となってしまう。

だから耳ざわりの好い言葉や体裁のよい立ち振る舞いを索(さぐ)るのではなく、
思いと言葉と行ないの間に横たわる相互矛盾を看破することで、
いっそ、難しいことを考えるのを止めてしまおうというわけである。

そもそも三密観というのは真言密教の修行法で、
手に印を組み(身)、真言を唱え(口)、吽(うん)字に精神集中する(意)という
意味不明なものなのだけれど、ボクらは禅者なのでそんなことはしない。

あくまでも心の声に耳を傾け、身口意の間にある矛盾を観る。
これが『禅的三密観』である。もちろん、ちょいと難しい。
ボクたちは常識にまみれた生活の間、本来の自分の存在を否定し続けてきた。
そのため本来の自分の心の本音を聞くコツを忘れてしまっているからである。

最初は本来の自分が本音をそっと耳打ちしても気づかないかもしれないけれど、
きっと、そのかそけき心の声は「ワカル?この感じ」という底のものである。

若い人で何をしたらいいか分からないヤツがいたら…俺がいいこと教えてやるよ。
気持ちいいことしな。それが答えなんだよ。

たぶん(矢沢永吉『成りあがり』より)だと思う。何かのインタビューだったかもしらん?


身口意の間に一筋の芯が通ったときの「気持ちいい」という感覚を掴んで欲しい。

矢印マーク 『成りあがり How to be BIG―矢沢永吉激論集』

10代・20代を正しく歩むためのバイブル。
10代・20代の諸君。人生には時節というものがある。
おそらく「聖書」や「経典」を読むのはまだ早い。
まず、これを読んで来たるべきときに備えよう。


さてさて、今日から一冊のノートを用意するといいとボクは思う。

心の古い契約はその脳裏に焼きごてのように刻印されているものだから、
そう簡単には消えてくれない。
だから坐禅修行で確信した新たな契約をノートに書きつけておいて、
脳裏に刷り込むために何度も再読しなければならないといずれ気づくからだ。

古い契約を忘れ、新しい契約を覚える。

これは禅者が最初にやらなければならないことなのである。

Mission 3 常識を徹底的に疑え


山僧が人に指示する処の如きは、ただ汝が人惑を受けざらんことを要す。

(わしが君たちに言い含めたいのは他人の言葉に惑わされるなということだけだ)
(『臨済録』-「示衆」P.33-34より)

ある学者坊主によると「坐禅とは自分が自分を自分すること」なんだとか。
まるで言葉のアクロバットである。

禅者に求められているのは、この種の詭弁(きべん)に、
「意味ワカンナイ。馬鹿じゃないの?」と言える才覚があるかどうかなのだ。

それでは次のミッションでまた会おう。健闘を祈る。

(2011.11)

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