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【坐禅作法8】只管打坐の四階梯

ちょっとはマシな坐禅作法 只管打坐の四階梯〜心随観へのプロローグ〜

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〜心随観へのプロローグ〜


官能のほしいままに流されている坐禅。それは『只官打坐』

禅者たるもの、すべからく、“しかんたざ”すべし!

ただし“しかんたざ”はその修行程度に応じて進化してゆくものである。

まず凡人の“しかんたざ”は『只官打坐』といえよう。
ただ官能のほしいままに流されている坐禅。だから『只官打坐』。

たしかに、この手合いの“しかんたざ”も坐禅には変わりないかもしれない。
ただし、心の悩みや苦しみと真剣に向き合おうとするのではなく、
坐禅しているという官能的陶酔にかまけて心を野放しにしているきらいがある。

その様はあたかも母親のエプロンの裏に隠れて様子を伺っている小さな子供。
憐れみを抱かずにはいられない凡人としての禅者である。

とはいえ、それも度が過ぎればボクだって容赦はしない。
「オマエは坐禅を官能の一時的陶酔の道具にしようとする外道である」
とはっきり言ってやる。

成程、私の宗旨は悟も要らん、悟もない。 小声で『悟もない』と云うのではない。 大きな声で『悟もない!』と云ふのである。 同じ言うのにも『さとりもない』と言ふのと『私は悟っておらんのじゃ!』と大きく言ふのとは違ふ。
(澤木興道『禅談』より)


どちらも一緒である。

然るに『坐禅すれば何になるのか』とすぐ尋ねる者がある。 私は『坐禅しても何にもならぬ』と答えてやる。 そうすると、それっきり坐禅に来なくなる手合いがあるのですが、 これは坐禅の対象を誤ってゐるのである。
(澤木興道『禅談』より)


それっきりで大いに結構。

迷いを転じて悟りを開き、生死の問題を見透かす智慧を獲得し、
この世の悩み苦しみから脱出する。
すなわち、転迷開悟、生死透脱の最速最短の方途が禅である。

『坐禅しても何にもならぬ』と言う人に随おうなんてボクは到底理解できない。

この『只官打坐』に嫌気を差した賢い禅者には次の段階が待っている。
ボクはそれを『止観打坐』と呼ぶ。

矢印マーク 『禅談』

悟りの入り口がみつからなくてボケちゃったお爺ちゃん。
あぁ、かわいそうに…。

赤雲水

心の動きを止めて観ながら打ち坐る。それは『止観打坐』

黒雲水

心の動きを止めて観ながら打ち坐る。だから『止観打坐』。

凡人の心は無意識のうちに様々な反応をひき起こしている。
たとえば、ある種の人は「がんばってくださいね」と言われると、
「馬鹿にするな」という感情が起り、手をあげたり、語気を強めたりする。

ところが「馬鹿にするな」という感情が起こった時点で気がつけば、
その後の行動をおのずから制御できるようになる。

ことは、それだけではない。
「馬鹿にするな」という感情が起こった原因を分析していけば、
自分の抱えている心の問題点を明らかにして変えていくことも可能になる。

たとえば心の中に劣等感を抱えたまま努力を重ねている場合。
どんなに努力をしても自信はいつまでもついてこない。
だから、「こんなにがんばって成果も挙げている人間に向かって
『がんばってください』とはなんと生意気な」と思ってしまう。
この点に気づけば心を変える方法もおのずから解ってくる。

さらに自信を持てない原因を心の中に探ってゆくと、
幼い頃に「近所の誰々ちゃんはできるのにアナタはどうしてできないの」
と母親から聞かされた愚痴がトラウマになっていることを知る。

そうして原因をあからさまにしてしまえば、
「劣等感を抱き続ける必要なんか一つもなかった」と思い始めるだろう。

それが信念に変わる頃に禅者はふと気づくことがある。
「がんばってくださいね」の一言にかつてあれほど沸き起こっていた
「馬鹿にするな」という感情が影を潜めている…。

それは、ある意味、“小さな悟り”と言っていいとボクはおもう。
この“小さな悟り”を一つ一つ積み重ねてゆく段階が『止観打坐』だ。

ただし、この『止観打坐』においては出来事に随って生起する心の反応に
動揺することなく、己の愚かさをあるがままに達観できなければならない。

これをヴィパッサナー瞑想では『心随観』と呼ぶそうだからボクもそれに従おう。
この『心随観』は禅の中核である一方、実は最も難しい心の技術でもある。
禅者の心のバランスを少なからず動揺させるものだからだ。

心の中のトラウマに気づいた瞬間から、「馬鹿にするな」と思ったときに
仕出かしてきた数々の失態の記憶が禅者の脳裏を過(よ)ぎるようになる。
そのとき如何に反応するのか?禅者の日常は究極の選択の連続に変わる。

これまでは心の中に「馬鹿にするな」という感情の沸き起こるとき、
相手を攻撃することで相手の理不尽さに責任を転嫁していればよかった。
ところが心のトラウマに気づいた瞬間からは、相手を責めるかわりに、
自分の愚かな心の反応に攻撃の矛先を向けなければならないことを知る。
そうしなければトラウマはいつまでも心から除かれないからだ。

しかし、たとえ自分の愚かな心の反応を直視できても新たな問題に直面する。
今度は自己憐憫や後悔の念に執われ、そこから逃れられなくなるからだ。
新しい価値観への視座の転換に成功するまで その状態は何時までも続く。

それだからこそ悩み苦しみから抜け出す価値観の組換えが可能なのだけれど、
逆に、それだからこそ心の葛藤もいよいよその激しさを増してゆくとも言える。

葬式仏教の学者坊主が何時までも『只官打坐』に留まる理由もここにある。
葛藤を避けるための口実を求めて心が彷徨(さまよ)い始めるからだ。
トラウマから眼を背けるための巧妙な口実を心がでっち上げてくるのである。
禅者の心が禅者自身を欺くのだから、その迷路からはなかなか抜け出せない。

ひどい場合には仏教教義を笠に着て相手の理不尽さを責め続けていることもある。
殊に教団自体がこの落とし穴にどっぷりハマっていたりするから始末に負えない。
たとえば日蓮大聖人を崇める某団体なんか…いや、これ以上は、やめとこう。

ともかく、この『心随観』が坐禅における最大の難所と言ってもいい。
以下は『ブッダの瞑想法―ヴィパッサナー瞑想の理論と実践』からの引用である。

心をきれいにするためには、反応系の心のプログラム組み換えが必要不可欠です。 そのためには、自分の心の現状をありのままに把握しなければなりません。 ところが、これは、エゴの最も嫌がる仕事なのです。
(地橋秀雄『ブッダの瞑想法―ヴィパッサナー瞑想の理論と実践』P.191)

心の随観を阻んでいるのは、エゴ妄想であり、自我への執着です。 ありのままに心を随観するためには、潔く自分の真実の姿を受け容れる覚悟が不可欠です。 エゴは巧妙なので、自分の心から眼を背けるために、 センセーションに没入させていくケースもしばしば見られます。 エゴに欺かれ、無意識に心随観を拒否している、と言ってもよいでしょう。
(地橋秀雄『ブッダの瞑想法―ヴィパッサナー瞑想の理論と実践』P.191)


この難所を一度でもすり抜けた禅者は心に風穴を空けたことになる。
その穴の底から“菩提心”が湧きあがってくることに気づくだろう。
間もなく“第一・第二の結節”も解けて気感が備わるようになる。

こうして『心随観』に熟練してゆくうちに、
心はなぜ彷徨うのか?心はどう欺くのか?心をどう鎮めたらよいのか?
という心の性質を禅者は学んでゆくことになる。

すると次第に心の中身は単純な感情というか信念に集約されてゆく。
たとえば、神仏への絶対的な信頼、隣人への公平無私な慈悲などだ。

そのうち次の段階に突入するのだけれど、これはちょっと強引だ。
でも、たぶんそれが神仏のやり方なのだから逆らうわけにもいかない。
肉体が強制的に改造され始める。これが『弛緩打坐』の始まりだ。

矢印マーク 『ブッダの瞑想法―ヴィパッサナー瞑想の理論と実践』

心の中で何をしているか?
坐禅ではそれが重要なのである。
で、心の中ですることがコレ。

肉体が強制的に改造され始める。それは『弛緩打坐』の始まりだ。

『弛緩打坐』の始まりは自発動功と“第三の結節”の解放が合図となる。
これまで解説してきた体軸や偏差などの話はこの段階のことなのだ。
強制的な肉体改造の進行に伴って、禅者の身体はみるみる柔軟になっていき、
姿勢が本当の意味で正しくなり、結跏趺坐はここにきて初めて完成をみる。

正しい結跏趺坐のできない理由は首肩腰の筋肉が弛(ゆる)まないからだ。
そして筋肉の弛まないのは『心随観』を修めていないからにほかならない。
こうした坐禅作法の真義を身体で理解するのが この『弛緩打坐』の段階である。

おそらく、この『弛緩打坐』のどこかに見性体験が待っているとおもう。
舌鋒の鈍るのはボクがまだ体験していないので何ともいえないからだ。
今はただ、そこから先が『只管打坐』だという信念だけがある。

どうやら心の内観を続けてきた禅者にのみ『只管打坐』はゆるされるようだ。
したがって何ら内観の経験を持たない禅僧を雨後の筍(たけのこ)のように
次々と量産する仏教教団に禅を冠する資格はない。
禅宗各派はこの『只管打坐』を達成した禅者においてのみ、
世に出て禅僧を名乗る印可を与えるよう強く願う次第である。

矢印マーク 『地球が天国になる話』

斎藤一人。この人、わかってます。
劣等感の克服をテーマにした名著。


だから最初に断っておかなければならない。
ボクは悟ってなんかいないし、事実、見性だってまだなのだ。
そんなボクが禅について語るなんていうのは確かにおこがましくもある。
見性してから書き始めたほうがいいんじゃないかと思わないわけでもない。
それでも在家の未熟なボクだからこそ書けることがあると信じている。

先に「次第に心の中身は単純な感情というか信念に集約されてゆく」
と書いたけれど、これは心を悩ませたり、長年苦しんできた過去の記憶が
顕在意識に浮かび上がってきても動揺しなくなることを意味する。

人間の記憶というのは感情とセットになって顕在意識に浮き上がってくる。
たとえば恨(うら)み、妬(ねた)み、嫉(そね)み、辛(つら)み、怒(いか)り、不安。
後悔、不満、逡巡(しゅんじゅん)、それから自己憐憫(れんびん)が動揺を招く感情。
こういった感情と記憶は凡人の潜在意識の中で密接に結びついているものだ。

ところが、この感情と記憶を引き離すことに一度でも成功したら、
その記憶の生み出す印象に悩まされるなんてことは困難だ。
その記憶は最終的に単純な感情に結びついてしまうからである。
それが、神仏への絶対的な信頼と隣人への公平無私な慈悲。
この感情ないし信念に結びついた記憶は決して悪さをしない。

道元禅師の『正法眼蔵』や臨済禅師の『臨済録』などの世界観が
凡人にしてみれば どこか超然としている原因は、かかってここにあるとおもう。
つまり、禅師たちのオツムの中は余計なモノが何もない“空っぽ”なのだ。

もしかしたらボクもしばらくするとこんなことしか言えなくなってくるかも知れない。

「おお神よ、おお弥陀よ、あなたはどうして阿弥陀なの?」
「なあ兄弟、なあ姉妹、いったい何が問題なんだ?坐禅しようぜ、べいびぃ」

さらに警策を振り回して「喝!喝!」なんて叫び出したら、ほとんど重症である。
そのとき悩みを解決する方法を尋ねられたらボクはこう答えるしかないだろう。

「神仏を信じなさい。隣人を憐れみなさい。そうなるために坐禅なさい」

それは至極まっとうな答えではあるけれど、
凡人の心というものは未だそんなに単純化されているわけじゃない。
それゆえ、まだ煩悩の残っている誰かの橋渡しが必要になるはずなのだ。

だから今のうちに『心随観』の道標を書きつけておかなければならない。
それが祖師方の残してくれた語録やホンモノの禅僧への橋渡しとなれば、
それはそれで意義あることなんじゃないかと未熟なボクは思うのだ。

(2011.3・改訂2014.8)

青雲水
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