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【坐禅作法6】経典との正しいお付合い

ちょっとはマシな坐禅作法 経典との正しいお付合い〜非道徳のすすめ〜

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非道徳のすすめ


「私はイスラムじゃない。スーフィーだ」

たとえ提灯記事になっても本懐である。そう思わせる映画を観た。

『イブラヒムおじさんとコーランの花たち』

矢印マーク 『イブラヒムおじさんとコーランの花たち』

映画そのものというより、こんな映画の作り手がいて、
それを評価している人が少なからずいることに感動する。
実に、いい映画なのだ。


イブラヒムおじさんの店は町の目抜き通りから外れたブルー通りの一角にある。
娼婦の立ち並ぶ“いかがわしい”通りだ。
通りをはさんだアパートに父親と二人きりで住む年頃の万引き少年・モモは、
そんな娼婦たちに夢中だった。

モモの父親は厳格なユダヤ教徒。
イブラヒムおじさんの食料品店を『アラブの店』と呼んで軽蔑している。
父親は、貧乏な暮らしぶりのくせに立派な書斎を構え、
書棚には高価な格式ばった本ばかりを並べている。
「本を読め。兄さんはオマエと違って賢く立派だった」
といつも説教されるからモモはそんな父親が嫌いだ。

父親は失業したある日、置き手紙と幾ばくかの金を残して消息を絶つ。
その金を使い切ったモモは、書斎の本を片っ端から売って生計を立て、
時には寂しさを紛らすために娼婦を抱いた。

けれど、そんな生活がいつまでも続くはずもない。
何かと目をかけてもらっていたイブラヒムおじさんに「養子にしてくれ」
と泣きつくと、「いいとも」ふたつ返事で承諾してもらえた。

イブラヒムおじさんは、年頃の少年の悩み、恋や家族、
そして生き方について多くの的確な助言を与える。
それは全てイブラヒムおじさんが人生の中で実践してきた
コーランの教えからにじみ出てきたものだ。
まさに救いのあるコーランの教えだった。

劇中、モモの父親が線路に身を投げて自殺したことが判明する。
まるで厳格に守っている宗教の教義や読書から得た知識からは
何の救いも得られないことの象徴のような事件である。

一方、イブラヒムおじさんは言う。
「私はイスラムじゃない。スーフィーだ」
スーフィーとは教義や知識よりも実践や智慧を重んじるイスラムの一派である。

赤雲水

文字の中において求むることなかれ

黒雲水

矢印マーク 『臨済録(岩波文庫) 』

道元禅師の『正法眼蔵』を読むくらいなら、
ボクは『臨済録』を読むね。
だって、こっちのほうが直感的なんだもの。


経典や聖典の文句には気をつけなければいけない。
それは両刃の剣にも似ている。
もしも誤読すれば翻(ひるがえ)って自身を傷つけることになるからだ。

そこで『臨済録』にはこんな言葉が録されている。

「文字の中において求むることなかれ」

経典との正しいお付合いを望むなら、まずはこの真意を思い知ることになる。

また当然ながら、禅の正門は道徳や常識の延長線上にはない。
だから禅者にとって“親孝行”とか“お年寄りは大切に”とか、
もちろん“葬式の香典の相場”や“禅堂での作法”なんてことも
実は、どうでもいいことなのである。

にもかかわらず、葬式仏教の僧侶の主催する坐禅会などで、
あたかも道徳や常識が経典に書かれているかのように説教されているのは、
末法の世であるがゆえの由々しき事態と言うよりほかない。

むしろ禅者の端くれなら非道徳・非常識な説教を打ってみてもらいたいものだ。
なぜなら俗世の道徳を疑問視することが禅の正門への第一歩となるからである。

「ボクは仏教徒じゃない。禅者である」

矢印マーク 『神の詩―バガヴァッド・ギーター』

世界中で聖書の次に読まれているという聖典。
仏教とキリスト教をつなぐ架け橋となる。


ボクらの生きているこの社会にはルールがある。

道徳はその中にあって、法律や常識や慣習といったものの
土台を形成しているというのが定説となっている。

だから年々ぶ厚くなってゆく法律書を学んでいなくても
社会はまわるというわけだ。
それは誰もが道徳を知り、それを守ろうとしているからである。

ただし、道徳による心の悩みや苦しみの解決には限界がある。
そして社会のルールが破られるのは決まってそんな時なのだ。
つまりそれは、道徳を破らざるをえない巳むを得ない事情に
直面することが間々(まま)あるということを意味している。

そこへいくと“禅”というものは…とこうなる。
道徳では救えない心の問題の答えを禅の教えは提示しているからだ。

ただし、道徳を学ぶように経典を学び、道徳を守るように戒律を守るなら、
それは道徳の延長線上にある何にもならない道徳禅に成りさがる。
そしてこのような、経典に書かれている教条をなぞるだけの教条主義こそ、
葬式仏教の僧侶や結婚教会の牧師の跋扈(ばっこ)する温床にほかならない。

矢印マーク 『聖書―旧約・新約』

イタリア人神父が丁寧に日本語訳した聖書。
伝道の情熱を読みとれる貴重な一冊。
聖書は坐禅修行にも必ず役立つ。
かりそめにも軽んじてはならない。


だから経典に対するアプローチにおいて、
道徳を学んだ過程とは別の方法論を試す人をボクは禅者と呼ぶ。

そういう禅者は経典と真摯に向き合おうとするから、
道徳の教科書や教師や両親から教わったことを鵜呑みにしていれば良かった
という方法論が経典には通用しないことを発見する。
なぜなら、それでは心の悩みや苦しみから救われないからだ。

この時から坐禅において心に浮かんだ通りに経典を解釈するようになる。
すなわち、自分の直観に従って理(ことわり)をつかみ、
それを確認するために経典をひも解くようになるのである。

その過程には仏教の経典の役不足を痛感する瞬間もあるかもしれない。
そんな時にはキリスト教の『聖書』やヒンズー教の『ギーター』を構うことなく
ボクはひも解いてきた。禅の本質に通じる文言はそこにもあったからだ。
残念ながら、その中には俗世の道徳と真逆の結論だってある。

でも、それで一向に構うことはないことを今では知っている。

禅者はあくまでも禅者であって、人格者と認めてもらうには及ばないし、
必ずしも仏教徒である必要もないのだから。要するに、
心の悩みや苦しみを救えるなら、いきおいそれが“優れた禅書”なのである。

だから、ボクもイブラヒムおじさんにならって、こう宣言してみたい。

「ボクは仏教徒じゃない。禅者である」

……なんてね。

(2011.1)

青雲水
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