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脳の右側で描け!

たしなみ倶楽部 脳の右側で描け!

たしなみ倶楽部

写経の極意


美術的センス神授説

美術教師ってどうよ!?
トピックスイメージ

美術教師というのは何で教壇に立っているのか理解に苦しむ存在だった。
「美術的センスは天性のもの」。
そんな発想の持ち主ばかりだから凡百の生徒を門外漢とするきらいがある。

しかも彼らの主張する“美術的センス神授説”は奇妙な説得力を持つ。
美術の時間に風景画家ロイスダールの『ウェイクの風車』を模写したとき、
似ても似つかない絵を描いたボクはその前に屈して抵抗する気力すら失った。

とはいえ凡百の一人のボクだってデッサンくらい何とかしたいと思うわけである。
そこでイラストを少しでも巧く描きたいとちょっと前に手にした本がこれ。

B・エドワーズの『脳の右側で描け』

矢印マーク 『脳の右側で描け』

唄ふも舞ふも法の声。
日本ではお茶を飲む行為まで道になる。
画を描くこともまた禅に通じる道なのだ。
これはいわば“画道入門書”。

著者の主張はこうだ。

「画なんてものは見たままを描けばいい」

「見たまま」を描けないのは左脳の論理的思考に頼って描こうとするためで、
そうすると“シンボル”を描いてしまうことになるのだそうである。

たとえば、目を描くなら「丸かいてチョン」。
手足の指は「五本の突起物」。
人物の鼻は顔の向きにかかわりなく「真横を向く」。
すなわち眼前の対象物よりも記憶の中の定義を優先的に描いてしまうのだ。

ところが左脳の論理的思考を黙らせることに成功したなら、
「見たまま」を描くことをたやすくする“右脳モード”に転換できる。
それが“画家の眼”というやつで天性というよりコツにすぎないものらしい。

この『脳の右側で描け』はそのコツを掴むためのテクニック本なのだ。

そのテクニックは奇想天外なもので、逆さまにした絵を模写したりする。
絵や写真を天地逆さまに置くと脳は何が描かれているのか判断できなくなり、
普段は饒舌(じょうぜつ)な左脳の論理的思考が沈黙するというのだ。

これは“右脳モード”の状況を説明したもの。

まず第一に、時の流れが止まっているように感じられることです。時が進行しない感じで、時間は意識されません。第二に、話された言葉には何の注意も払わなくなることです。話し声は聞こえても、音声を意味のある言葉として解読しないのです。誰かに話かけられても、引き戻して再び言葉で考え、答えるには大変な努力が必要なように感じられます。さらに、何であれ、いまやっていることがとても面白く感じられます。鋭敏になり、神経が集中され、対象と“一体に”なった感じがします。エネルギーにあふれながら静かで、行動的でありながら不安はありません。自信がわいてきて、目の前の仕事はいくらでもできます。思考は言葉でなくイメージでなされ、特に画を描いているときは、知覚している対象に思考が“釘付け”になります。

(B・エドワーズ『脳の右側で描け』-P.84-85「5記憶を引き出す、画家としてのあなたの経歴」)

この件なんかは“心の饒舌を止める”という意味で禅的だとボクは思う。


ダリ様の秘伝

デッサン修得法の共通点
矢印マーク 『ダリ・私の50の秘伝―画家を志す者よ、ただ絵を描きたまえ! 』

ああ、サルヴァドール・ダリ様!
私もダリになりたい。

また「逆さまにした絵を模写する」という方法論は、
サルヴァドール・ダリ様の秘伝20に通じている。

私が伝授する素描の学びかたはこうである。石膏像を方眼の入った板ガラスの向こう側に置き、その向こうには鏡を置く。どのような角度からでも石膏像の鏡像を見ることができ、描けるように。この鏡像はいうまでもなく逆向きである。ある場合にはモデルは上下さかさまに見える。こうして転倒させてみるわけは、この方法で写生したとき、俗にいう「知的な表現」に対する先入観、つまり画学生の精神に要らぬ枝葉末節をかたちづくり、いわゆる順調な滑り出しを阻害する慣習どおりの紋切り型というものがまるで魅入られたかのように消え、数回この演習をこなしたのちには、素描の修業段階に長く居座っていた幼稚な悪癖はすべて姿を消す。

(サルヴァドール・ダリ『ダリ・私の50の秘伝』-P.101-102「秘伝20」)

これに続く方法論でもダリ様の秘伝とB・エドワーズの手法は一致していた。

たとえば三次元で眼に映るものを二次元の平面の紙に描くためには、
対象物を平面の板ガラスに映して、その板ガラスを描写したらいいわけで、
あらかじめ板ガラスに描いておいた方眼をガイドにするとより効果的だ。
板ガラスに描いた方眼と同じ尺度の方眼をあらかじめ紙に線引きしておいて、
板ガラスに映ったとおりを模写するのである。

モデルを逆さまに描いたら次は、同じ尺度で横たえたポーズで描きたまえ。同じ尺度とは、(板ガラスの)方眼の数を同じだけ満たすように描くという意味だ。

(サルヴァドール・ダリ『ダリ・私の50の秘伝』-P.102「秘伝20」)

そして次の記述は究極のコツである。

さらに言えば、まっすぐ描こうが裏向けに描こうが、描く対象物が「何」であるかは考慮に入れなくていい。ただ眼の前にある形態だけを見ればいい。よりいいのは、二本の脚を描く代わりに、その二本のあいだに形成される空間を描きだしてみせたまえ。

(サルヴァドール・ダリ『ダリ・私の50の秘伝』-P.102「秘伝20」)

これは銀塩カメラのネガフィルムの要領だ。

木でも人でも建造物でもその形(フォルム)をとらえるためには、
木や人や建造物そのものをみてはいけない。
実はその周囲の空間を描いた方がより正確にフォルムを捉えることになる。
そうしないと木や人や建造物のシンボルを描いてしまうものなのだ。

また多くのデッサンの技法書はこんな指導をしている。
「あらかじめ全体のアタリをつけて、それから細部を描きこめ」

しかしダリ様の秘伝はそれを真っ向から否定するものだった。

そして必ず足指から描き始めること。頭のてっぺんから描いてはいけない。それは大きな間違いである。この練習では(板ガラスの)方眼を頼らずに描く。目的は画面の釣り合い(プロポーション)の取り方をマスターすることにある。

(サルヴァドール・ダリ『ダリ・私の50の秘伝』-P.102「秘伝20」)

「画の構図を完璧にしたければ全体のアタリをつけるな」という逆説である。

これをB・エドワーズ『脳の右側で描け』ではこう表現している。

フォルム全体の輪郭線を描いてから、部分を“埋めていく”描き方は、やめたほうがよいでしょう。なぜなら、そうした場合、輪郭のちょっとした誤りから中の部分が合わなくなってしまうからです。描くことの喜びの一つは、部分がしっくりと一体化していくことの発見です。だから、私は、ある線から隣り合う線へ、あるスペースから隣り合う形へと描いていき、描いているうちに部分が一体化していくようにすることをお勧めします。

(B・エドワーズ『脳の右側で描け』-P.59「第4章 クロスオーバー、左から右への転換を体験する」)

曲線の形状や線の相対的な角度や陰影の面積を正確に観察しながら描くと、
全体のアタリをつけなくても完成した画の部分部分は見事に統合される。

一般に「木を見て森を見ず」とは戒めの諺とされているけれど、
このケースばかりは例外だ。「よく木を見れば森はおのずと知れてくる」

そういう描き方をしているときの頭の中の言葉は“視覚一色”である。

自分自身に語りかけるとしたら、「この線はこんなふうに曲がっている」とか「あの形はあそこでカーブしている」とか「紙の端に比べて、この線はこういう角度をなしている」といった具合に、視覚の言語だけ用いるようにしましょう。

(B・エドワーズ『脳の右側で描け』-P.59「第4章 クロスオーバー、左から右への転換を体験する」)

それでは、ここで断言しよう。このB・エドワーズとダリ様の秘伝はまったく正しい。
というのはボクもこの方法論で“美術的センス神授説”の呪縛を解いたからだ。

しかし芸術家きどりの画学生はこんな感想を抱くことだろう。
「見たままを描けるようになったところで創造的に描くことはできない」
もしもそう考えるなら、そのおめでたい愚かさに安住し続けるがいい。

「すでに見えている完成像を大理石から解放するだけだ」

ルネサンスの天才。ミケランジェロ・ブオナローティのように、
天才芸術家は「見えているもの」を形にしているだけなのである。

そしてB・エドワーズのいう“右脳モード”こそ創造的諸力の扉を開く鍵なのだ。
さらに、その方法論は写経の極意にも通じる。

トピックスイメージ

写経の極意

シンボルを書くな
トピックスイメージ

矢印マーク 『美しいペン字の書き方』

世間の圧倒的多数を占める凡人は慧眼が曇っているため、
名著の隣に並ぶつまらない本を手にする運命にある。
ゆえに、しばしば名著は絶版の憂き目に遭うのだった。

ボクは小学生の頃に書道教室に通っていたのだけれど、
世の中の美術教師と同様に書道教室の講師もワカッテナイ人ばかりで、
極意に通じるコツはわからず終い。さっぱり字はうまくならなかった。

おそらく「類は友を呼ぶ」というこの世の法則のイタズラにより、
凡人だったボクはそもそも凡人の教師や講師にしか巡り会えないはずで、
それはボク自身の不徳の招いた悲劇だったと諦めてはいる。

ただし、オツムの調子が戻ってきた現在になっても書道を諦める必要はない。
先日、古本屋の百円均一コーナーで格好のテキストを見つけてきた。
すでに絶版なのだけれどその本を著したペン字の先生はワカッテル人だ。

下村芳流(しもむらほうりゅう)著『美しいペン字の書き方』という本は、
“手本の見方”に頁を割いて「シンボルを書くな」とちゃんと解説してある。
現在の本屋に並んでいるテキストをざっとみてもこういう記述は見つからない。

どの方向から起筆しているか、線の長さは、そり加減は、はねやはらいの具合はどうなっているか、転折そして終筆はどう収めてあるか、という細部まで観察すればするほど、あなたの書技は必ず向上いたします。

(下村芳流『美しいペン字の書き方』-P.23「手本の見方」)

写経や書道で大切なことは「文字の記憶に頼ってシンボルを書かない」こと。
それは巧くみせるコツや運筆の技を習うことよりもずっと重要なのである。

姿勢と呼吸を調えて記憶から解放された瞬間に筆やペンを走らせると、
“技”ではなく“業”が現れる。同じ“わざ”のようで、しかし何かが違うのだ。
調子のよいときには筆を運ぶべき線が浮かんで見えてくることすらある。
その瞬間に初めて遭遇したボクは何度も眼をこすってしまったほどだ。
そこで書かれた文字は明らかに出来が違うし狙って書けるものでもない。

おそらく、それができてはじめて書道は“道”になるものなのだ。

それにしても美術室や書道教室のトラウマから解放されてみれば、
そこにいた教師や講師に文句の一つも言いたくなってくる。
ものごとの本質もわかってないくせに人にモノを教えようとするなっつーの!
そういう行為は未来ある子供たちにとってまことに迷惑千万である。

(2012.07)


肴はとくにこだわらず厳選情報