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【BBS:Q&A 78】何も学ばなかった頓珍漢たち

仁悟の坐禅相談室『坐禅の智慧で答えます。』 何も学ばなかった頓珍漢たち

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2016年8月:行者様・ヨギ(某太郎)様より


行者様の投稿

布施さんって文学賞に応募していたんですね。

これは以前にも書いたんですけど、今回の記事を見て、さらに強く思ったことです。

小説って何かを題材にして、書く読み物であって、何かを考えを表明したり訴えたりするものではないと思います。 また、逆に、何かの考えを表明したからと言って、小説にはなりません。

恋愛小説は恋愛を、社会派小説は社会の問題などを題材としていますが、これらの問題を解決するためのものではありません。 あくまで読み物です。 それに対する方策を示したものは、人間関係の指南書であったり、その分野の研究書や評論などです。

三国志演義などもそうですよね。 一般的に出回っている三国志は、明の時代に書かれたこの三国志演義です。 基本的に流れは史実に近いんですけど、微妙に異なる部分もあります。 これはまさに「西暦200年前後の中国」を題材にした読み物なわけです。

確かに「相当にそれを知る事」は可能です。 しかし、「本質的には別」なんですよね。 三国志演義でその時代の中国の出来事を相当に知る事は可能です。 実際に、この三国志演義がその知識を広めている事は否めません。 しかし、本質的に歴史を学んだことにはなりません。 それをするならば、三国志正史なり、それについての研究書を読まなくてはなりません。 これは日本の戦国時代の小説なんかも同じですよね。

また、「相当にそれに迫る事」はできるかもしれませんが、「程度の違いにすぎない」というものもあります。 小説なんかでも、その問題に相当に迫る事は可能かもしれませんが、そうでないものとの違いは、程度の違いにすぎません。 三国志演義と三国無双なんかがそうです。 両方とも「西暦200年前後の中国」を題材とした小説・ゲームですけど、三国無双の方は史実からかけ離れていて、三国志演義の方はより近いですけど、結局は、程度の違いにすぎず、両者ともエンターテイメントでしかありません。

そして、これらの両者の能力は別物です。 要するに、小説家と研究者・実践家との能力は別という事ですね。

布施さんは「昏睡状態の豚ちゃんたちよ、オレの生き様をみるがいい。どうだ悔しいだろう。やれるもんならやってみな」など、自我の確立をテーマにした事を書きたいようですが、小説でこれらを表現することは究極的にはできません。 確かに、それを「題材に使う事」はできます。 また、それについて相当に知る・迫る事はできるかもしれませんが、本質的にはできません。

社会派小説などで、ある問題を訴える事は可能ですが、それならば、評論で書けばいい事であって、小説という形にする事は、むしろ遠回りでしかありません。

布施さんは小説や歌から、自我について訴えている事を汲み取ることができるようですが、これは布施さんが精神世界の勉強をしているからできる事であって、通常はできませんし、その為に作られているわけでもありません。

実際に、小説や歌だけで、自我の確立について学ぶ事は不可能でしょう。

「ボクは自分の文体を見つけたんだ。才能の源泉を見つけたんだよ」
「ボクの才能の油田の埋蔵量は底なしだった」

確かに、そうですよね。 布施さんは自分の文体を見つけだし、才能の源泉を見つけ、油田の埋蔵量は底なしです。 しかし、それは小説家としてのものではなく、精神世界の研究者・指導者としてのものです。 この武禅ライフでその才能を証明して見せましたが、武禅ライフは小説ではなく、精神世界の研究のブログでしょう。 要は、三国志演義を書く才能ではなく、三国志正史を研究する才能です。

以前に布施さんの本質は「小説家」ではなく、「導師」と書きましたが、まさにこれです。

以前に「現代の法華経を書いてみたい」という事を書かれていましたが、法華経は小説ではないでしょう。 むしろ、この武禅ライフこそが現代の法華経ですよ。 まさに「おまえはすでに書いている」ですね。

「小説は様々な題材を使って書く読み物」「必要なのは小説家の能力」
「研究・評論はその分野の考察」「必要なのはその分野の知性」

これらを混同してはならない。

なんか布施さんがこの作家志望について詰まっている所が、まさにここにあるような気がします。

布施さんが小説家の才能があるのかどうか分かりません。 ただ、武禅ライフと同じ調子で小説を書く事はできないでしょう。 そこを突破すれば、何かが起こるような気がします。

小説と研究・評論は役割が異なります。

その時代の中国の歴史を学びたければ、三国志演義を読む必要はありません。 三国志正史やその分野の本で十分です。 布施さんの考えを知る事だって、布施さんが書いた小説を読むよりも、武禅ライフを読む方が全然良いでしょう。

では、なぜ小説を読む意味があるのか。 それは「読み物としての面白さ」があるからですよね。 三国志演義は読み物としての面白さがあるから、ここまで有名になったわけです。

小説家として必要な能力は、題材を適切に選び出し、この面白味・エンターテイメント性を作り出せるかどうか、というものでしょう。

インスピレーションだって、小説家には小説のインスピレーションが、文系の研究者には文系の研究のインスピレーションが、理系の研究者には理系の研究のインスピレーションが、それぞれ降りてくるというものですよね。

「大衆に媚びるのか、自身の考えに忠実になるのか」…という事も、研究・小説共に存在する問題です。 精神世界には特に、安易な事ばかり書いている本っていっぱいありますよね。 布施さんは自身の考えに忠実な方だと思いますが、それでも、

小説は小説としてどうゆうスタンスであるのか
研究は研究としてどうゆうスタンスであるのか

という問題に過ぎず、両者が混同する事はありません。

研究者・評論家と小説家の能力は別です。 両方の能力を持つ事は難しいと思います。 ただ、可能ではあるでしょう。 自分は小説をほとんど読まないので、正確かどうか分かりませんが、堺屋太一なんかはそうじゃないですかね。 石原慎太郎もそうですか。

両方の能力を持っている人って、「研究や評論で得た知見を小説の題材に転用する事」が上手そうな感じがします。

布施さんは精神世界の研究者・実践者としての能力はありますよね。 衝動を感じるのは、研究の方ではないでしょうか。 本質的にはそっち向きだと思います。

小説の能力は分かりませんが、少なくとも、武禅ライフとは異なったスタンスでやる必要はあるでしょう。

「主観で語るのが小説家」「客観で語るのが研究者」
「空想を追うのが小説家」「真実を追うのが研究者」

小説家としてのスタンスで、小説家を目指すのも一つの手ではあります。 実際に小説家としての才能が発露するかもしれません。

ただ、布施さんって現時点では、小説を書くよりも、自己啓発・精神世界系の本を書く方が良いような気がします。 作家といっても、そっちの分野の作家ですよね。

小説の方でその才能があっても、後で追い求める事も可能です。

究極的に、何が上手くいくのかという事は、闇のベールに包まれているので、なんとも言えないのですが、そっち方が良いような気はします。

(2016.8)

【当山解説】
 この投稿は『かなりキワどい坐禅作法』の「アニムスの歌を聴け9」にコメントされたものだった。
矢印マーク 【坐禅作法108】アニムスの歌を聴け9― PRIDE ―
 この投稿者は、31-33歳の大厄のときから当山の記事を読み始めた読者で、この時点ですでに5-6年が経過していた。 どうやらこのとき37歳8月の正念場を迎えていたらしい。 すなわち37-38歳の渾沌における青い闇の期間に突入したところなのである。
 当山の『坐禅作法』シリーズの根幹は、『ちょっとはマシな坐禅作法』の「Trial Impossible」と「心随観のヒント」にある。 とくに、そこに解説されている『仁悟式CR』が肝心かなめの行法で、というのは、それにより顕在意識よりも深い意識層にある潜在意識へのアプローチが可能になるからだ。
 その潜在意識層を観察できるようになったときに待っている“興菩提心体験”を透過すると、いよいよ内なる師のつかさどる“因果律のカラクリ”がみえてきて、<生>を独力で学んでいくことができるようになる。
 けれども、この投稿者は顕在意識層における心の働きしか観察できない凡人だったため、「興菩提心体験を透過しないことには何も学べない」「さっさと見性しちゃいなさい」と何度も忠告してきたのだけれど、5-6年の長きに渡って『仁悟式CR』を一向に実践しようとしなかった。
 そのわりには、しきりに「見性したい…」と語っていたから、この投稿者がなぜ『仁悟式CR』を実践しようとしなかったのか…その理由が当山にはよくわからない。 おそらく「口から先に生まれてきた男」だったのだろう。 いわゆる“嘘つき”である。
 31-33歳の大厄で“興菩提心体験”を透過して見性すると、36歳頃には自分の中にある種の天才が覚醒してくる。 その天才の洞察力を活用すると、当山の『坐禅作法』シリーズのような思想書を書けるようになるのだけれど、そこからさらに物語や音楽や絵画といった芸術作品を創造するには、38歳からの『創造の病』を経なければならない。 同じ天才といっても思想家と芸術家のあいだには分厚い壁があるのだ。 当山の『坐禅作法』シリーズは、その壁をどうやって乗り越えようとしているかを実況中継している。
 この投稿者の場合、31-33歳の大厄で“興菩提心体験”を透過して見性することに失敗していたため、36歳頃に自分の中にある種の天才を覚醒させることにも失敗していた。 おかげで『坐禅作法』シリーズに何が書かれているのかを、まったく読み取れていないのである。
 それでも、これが37歳の男の投稿でなければ、当山も目をつぶるところなのだけれど、この投稿者の場合は、38歳から『創造の病』に入れるかどうかの「待ったなし」の時節を迎えていたため、当山の返答もいささかキツイ調子になってしまっている。 つまり、ここにある当山の返答は創造の扉が閉まる直前に与えられた運命の最終警告でもあるのだ。 禅者諸君は、この投稿者が運命の最終警告を無視していく様子を読み取り、反面教師にするといい。
 また、ここには、この投稿者と同時期にやってきたものの、やはり『仁悟式CR』を実践しようとしなかったため、カオナシになりかけていた42歳の男も登場する。 彼はカオナシのセオリー通り、この投稿者の足を引っ張って、カオナシ地獄に引きずり込もうとした。 おかげで、二人で連れションでもするかのように、申し合わせて時節を取り逃がしていく様子もよく描かれている。 仲良しこよしは何だかあやしいものだ。
 これは何も学ばなかった頓珍漢たちの末路を記した貴重な記録であろう。

赤雲水

当山の返答

黒雲水

行者さんがこの話題に関して頓珍漢なのは、まだ38歳からはじまる“創造の病”を体験していないからであり、そもそも31-33歳の大厄にある“興菩提心体験”や“ぷっつん体験”といった見性の過程を透過できていないからである、とおもわれます。

今回の記事は、38歳から始まる“創造の病”に焦点を当てて「そこに如何にして突入し、そこで何が起こり、如何にして抜け出るのか」を書いたもので、もしも私と同じ内的体験を経ていれば、その過程で私に起こった心理的変遷を時系列で追うことができるはずです。

ところが、行者さんの場合は、たぶん、31-33歳の大厄にある人生の賭けに敗れているため、透過するべき内的体験が欠落し、そもそも“創造の病”に至るプロセスから外れている。 そこで、このような誤解をしてしまうのだとおもわれます。

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>「昏睡状態の豚ちゃんたちよ、オレの生き様をみるがいい。どうだ悔しいだろう。やれるもんならやってみな」 など、自我の確立をテーマにした事を書きたいようですが、 小説でこれらを表現することは究極的にはできません。
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自我の確立をテーマにしたものなら、まさしく村上春樹の小説がそこに焦点を当てたものですし、「小説でこれらを表現することは究極的にはできません」と断言してしまうあたりが、行者さんのまず頓珍漢なところではないでしょうか。 村上春樹の小説の読者層の多くは27-35歳くらいに集中して存在していて、そこはちょうど「いかにして自我を確立するか」ということを考える年齢層なんです。 私が『道東青春18きっぷの旅』を書いた頃というのも、ちょうどその年代を過ぎた時期だったものですから“自我の確立”がテーマになったわけです。

だから、もしも小説好きで自我を確立したいと願っている人であれば、その年代になると自然に村上春樹に手がのびる。 もしかすると行者さんは、たんなる暇つぶしに読む小説ばかり読んできた人で、そもそも自我を確立できるほどの根性も切望も持ち合わせていなかったのかもしれませんね。

それからこれも、どうしたものか、と頭を抱えてしまうほど頓珍漢であります。

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>布施さんは小説や歌から、自我について訴えている事を汲み取ることができるようですが、これは布施さんが精神世界の勉強をしているからできる事であって、通常はできませんし、その為に作られているわけでもありません。 実際に、小説や歌だけで、自我の確立について学ぶ事は不可能でしょう。
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精神世界のあれこれは「運命の試練を通してみずから体験して洞察するものだ」というのが、この『アニムスの歌を聴け』を一貫して流れているテーマで、そもそも学習できるようなことではないんです。 ただし、その洞察を導くヒントがあれば洞察を生む助けになる。 この『アニムスの歌を聴け』からは、小説や歌がどのように私の洞察に作用してきたのか、を読み取ることができるはずです。

また小説や歌だけでなく、あらゆる芸術は己れの洞察を分かち合うための表現となっていて、「通常はできませんし、その為に作られているわけでもありません」と言ったら、すべての芸術を否定することになります。

そもそも、芸術として表現されているものを見破る“知性”がなければ洞察は生まれない。 私が特殊に見えるのは、行者さんに“知性”が欠落してるからです。 「自我を落とすにはまったき知性が必要だ」と和尚が述べているように、行者さんには自我を徹見した内的体験がないために“知性”が乏しくて洞察を生んだ経験がないのだとおもわれます。

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>インスピレーションだって、小説家には小説のインスピレーションが、文系の研究者には文系の研究のインスピレーションが、理系の研究者には理系の研究のインスピレーションが、それぞれ降りてくるというものですよね。
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以前にも指摘しましたけど、行者さんは単なる“思いつき”と“インスピレーション”の違いがさっぱりわかってないし、そもそも、そういうことは「創造の病」に突入しないとわかってこないんだ、と説明してありますでしょう?

この『アニムスの歌を聴け』の冒頭部分でも軽く触れてますけど、『坐禅作法』シリーズを書いてきた37-42歳の5年間というのは、“創造のカラクリ”を学ぶための5年間だったわけです。 “創造のカラクリ”を学ぶための教材として、『坐禅作法』シリーズの“インスピレーション”が私にやってきていたんです。

先日、高校の同期会があってね。 才能が完成するときに現れるという“ひとりの天使”に会ってきた。 それは2号じゃなくて、私にとっても意外な女性でね。 あえて精神世界の本は読まないみたいなんだけど、村上春樹の本を完璧に読みこなしてた。 びっくりしたよ。

つまり、私も読者と一緒にだまされながら『アニムスの歌を聴け』を書いてきたというわけ。 この『アニムスの歌を聴け』は、おそらく、次回書く記事が最後になるんだけど、最後の最後に大どんでん返しが待ってたの。 この『アニムスの歌を聴け』はその大どんでん返しに向かって進行していたんです。 その間、私は先がまったく見えない状況で書かなければならなかった。 なんか推理小説を書いているみたいじゃない? こういうことが、小説に限らず、創造活動全般の基礎訓練になってるのさ。

で、「創造の病」で与えられる課題をこなして創造力を最大限に発揮したとき第三の眼が開かれる。 その第三の眼が開くと、ダリ様の「できるかぎり目覚めていながら眠れ」とか、村上春樹が「書くことは、ちょうど、目覚めながら夢見るようなもの」と言っている芸当ができるようになるのね。

たとえば、村上春樹なら『ノルウェイの森』→『ダンス・ダンス・ダンス』→『国境の南、太陽の西』あたりまでが、37-42歳の「創造の病」のうちに書かれた長編小説。 それ以降に書かれた長編『ねじまき鳥クロニクル』からは、「できるかぎり目覚めていながら眠れ」という書き方を身につけはじめたので、自我のはたらきを洞察する描写が格段に進歩してくる。 そこに自我の確立につながる隠喩(メタファー)や寓意(アレゴリー)を盛り込んできてるんです。 これは、「創造の病」を抜けて第三の眼がひらいたからできた芸当なんじゃないかな。

なので、私が私の小説を書くとしたら、そこからなんですよ。

(2016.8)


行者様の投稿

そうですか。 布施さんがそう思うのなら、仕方がないですよね。

確かに自我について興味のある・悩んでいる人達は、自我をテーマにした小説・曲・詩などについては、「良く理解できる」でしょうし、「共感」もするでしょう。

ただ、そうかと言って、小説・研究・評論のそれぞれの役割が変わるわけではありません。 結局、自我について学ぶ・修行するのであれば、小説や曲よりも、武禅ライフやここで紹介されている本で学んだ方が良いわけです。 小説の役割はもっと別にあります。

また、良く理解できる・共感できたとしても、それが作れるというのは、また別です。 ここで紹介されている例えば、和尚やマハラジは、おそらくは村上春樹の小説を良く理解できるでしょう。 しかし、じゃあ、彼らが小説を書けるのかと言えば、必ずしもそうではありませんよね。

これは他の歴史小説などでも同じでしょう。 歴史に興味があれば、良く理解できるし、共感もする。 しかし、それで小説の役割が変わるわけではないし、作れるというのはまた別である。

芸術作品を作るには、ある題材があって、それを小説にしたり曲にするなど、「料理」するわけです。 その料理の能力がなければ、芸術作品は作れない。 「隠喩(メタファー)や寓意(アレゴリー)を盛り込んでくる」とありますが、これはまさに、料理の一手法なわけです。

だから、自我について分かった・体得したとしても、それを芸術で表現できるとは限らない。 そう思います。

とりあえず、布施さんはあと少しで第三の眼を開き、そこから小説を書き始めるようなので、それが上手くいく事を期待しています。

(2016.8)

桃雲水

当山の返答

青雲水

創造というのは創造主に乗っ取られるようなものです。 知識や技能として蓄えたことを利用するときにも自分を一切介入させないんですよ。 そうしたとき、自分が最も敬う仕事ができる。 しかも、その動機すら創造主からやってくる。

行者さんは“頭でっかち”になってるから、そういうことが想像もできないんです。 だから「自分でつくる」ものが芸術―アート―だと思い込んでる。 それは芸術屋のやることであって、芸術家のやることじゃない。 そんな発想をしてる行者さんに芸術なんてわかるわけがないでしょうに。

自分の人生に起こった出来事をもっと柔軟に振りかえってみたらいいんじゃないかな。 そういう仕組みになってるから。

(2016.8)


某太郎(ヨギ)様の投稿

行者さん、メール・アドレス、お知らせいただけますか。

鬼和尚さんの、お言葉があります。

(2016.8)

【当山解説】
 この投稿者は「ヨギ」というハンドルネームで投稿してきていた古い読者なのだけれど、このとき「某太郎」という別人を装ってこの投稿をしてきた。

緑雲水

当山の返答

赤雲水

鬼和尚さんからのお言葉ですと・・・

本アドレスは書くわけにはいかないので、臨時のアドレスを作りました。
やりとりが終わりましたら、すぐに消します。

xxxxxxxx1234@yahoo.co.jp

です。

布施さん、この場をお借りします。

(2016.8)


当山の返答

わおっ!

“ハディル”かな?しっかり掴めよ!

(2016.8)

黒雲水

ヨギ(某太郎)様の投稿 【約2ヶ月後】

桃雲水

ヨギです。

キツかったです。 だけど、プラクテスは休みませんでした。 仁王軸 菩薩軸、整いつつあります。 リハビリ順調です。 連絡は、しようか迷いましたけど。

布施さん、来年、年明けが、勝負、ですか?

(2016.10)

【当山解説】
 この投稿者は、時節をとらえるセンスのない人物で、年齢や星まわりの大切さをまったく認識していなかった。 そのため当山に年齢を伝えてくることがなく、推定するしかなかったのだけれど、おそらくこの時点で42-43歳の渾沌における青い闇の期間に入っているはずだ、と当山は考えていた。
 この投稿者は、40-42歳の大厄を迎えた頃から精神分裂症の初期症状を見せはじめたため、この半年前にカウンセリングを受けに行くことを当山から勧められていた。 これはその近況報告みたいなものだろうか。
 当山はこの近況報告を待っていた。 カウンセラーの教える精神分析には限界があり、もしも青い闇の期間を抜ける(この投稿から4ヶ月後の2月)までにその限界に気づかなければ、渾沌に取り残されてしまうことになる。 そのための助言をしておかなければならなかったからだ。 つまり、いずれこの投稿があることを想定済みで、カウンセリングを受けに行くことを勧めたわけである。
 この記事に登場する行者とヨギ(某太郎)という投稿者に対しては、当山は“導き手”の役割を<全体>から与えられていた。 そのため彼らは適当な時期になると、当山から助言を受けにくる仕組みになっていたのである。 どうやらこの世界には、お互いに意見を交わしながら変性を遂げる“兄弟子と新弟子”みたいな関係性が構築されることがあるようなのだ。
 しかしながら…その現象に気づいていたのは当山だけだったようである。 彼らは“兄弟子”としての当山の助言をことごとく無視して時節を取り逃がしていった。


当山の返答

私の勝負どきはまさに今です。

昨年の12月くらいに村上春樹のインタビュー集を手にしたんだけど、彼はホントによくわかってて感心してます。

「むしろ小説を書かない時期が大事なんじゃないかとおもう」

ということを言っていて、これ、まったくその通りなんですよね。 自分がなんらかの内的体験を経ると、その体験を整理してまとめるために、作品のインスピレーションが降りてくるみたいでして。 で、その作品を書き終えたとき、作家はまったく別人に生まれ変わっている。

私が40-42歳の大厄の時期に書いてきた『縁覚道の地図』と『アニムスの歌を聴け』はそういうものになってまして、私はそれらを書きながら精神の変性を遂げてきたんです。 S・キングとか村上春樹の作品もそういうものになってるから、ある意味、彼らの作品というのはその精神の変性過程を記録しているものなんですよ。

たとえば…村上春樹が42歳の頃に発表した『国境の南、太陽の西』という作品は、ちょうど私の『アニムスの歌を聴け』と同じ主題を扱っていまして、その主題は『ぷっつんレディの原型(アーキタイプ)』になってます。 これはどうしてかといいますと、どちらも同じ年齢の頃に書かれているからです。 いわゆる“42歳前後の恋の迷い”という運命の試練を整理するために、村上春樹は『国境の南、太陽の西』を書かざるをえなかったし、私は『アニムスの歌を聴け』を書かざるをえなかったというわけなんですね。 S・キングの『ミザリー』は37-38歳くらいからの“創造の病”を扱ったものでしたし、ロバート・ネイサンの『ジェニーの肖像』は“42歳前後の恋の迷い”に始末をつけた頃に書かれています。 つまりは、これらも同じことなんです。

なので、まずは内的体験を経ることが第一でありまして、もしもそれを乗り越えたら、村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』やS・キングの『グリーンマイル』に相当する作品のインスピレーションが降りてくるんじゃないかな。

すなわち…私の勝負どきはまさに今なのです。

体軸というのは肉体よりも微細な身体―アストラル体―が成長するにつれて調ってくるらしいんだけど、R・シュタイナーが指摘していたように、アストラル体の感覚器官である蓮華(チャクラ)というのは運命の試練をないがしろにしていると不健全な形で開花してしまいます。 私もあと少しで頭頂から足先まで体軸が抜ける予兆があって、まあ、正師に遭遇する機会を取り逃がすこともなかったし、やれるだけのことはやってきたから大丈夫だとはおもうんだけど…「不安がない」と言えば嘘になるかな。

(2016.10)

青雲水

当山の投稿

緑雲水

普通の人ならここで見放しちゃうんだけどさ、ヨギさんと私ってアレでしょ。

インターネットというバーチャルな世界でつながってるだけなんだけど“ぷっつんメイト”っていうの? いわゆる相棒(バディ)だよね。

31-33歳の大厄と40-42歳の大厄というのは“ぷっつん”の時節でして、大きく回心する時節でもあります。 「見性」の定義が曖昧なのってそのせいでもあるんだよね。 大きな回心が2回あるの。 ほとんどの禅師は2回目の回心の時点を「見性」と呼んでるんです。 でも私はその立場をとってなくて、1回目の回心を「見性」と呼んで、2回目の回心を「観照」と呼んでるのね。

で、ヨギさんと私は、その2回目の回心のおこる40-42歳の大厄を一緒に乗り越えるための相棒(バディ)だったんじゃないかとおもうんですよ。

だから、どうしてだかわからないんだけど、ヨギさんの場合、かける言葉が見つからなくなることがないんだよね(いまのところは…)。 普通なら、私はここで見放してるはずなんだ。 かける言葉が見つからなくなってね。 でも、私の中には、いま書かなきゃいけない言葉が浮かんでる。

なので、ちょっと口うるさいことなんだけど、書いておいたほうがいいと思うので書き残しておきます。

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40代の構造
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40-42歳:レーベンスヴェンデ1期
43歳:新たな環境に移行
44-46歳:レーベンスヴェンデ2期
47歳〜:スタンドバイミー&創造の病
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これが40代の構造ね。 何でかは知らないけど30代とはちょうど一年ずれてるみたい。

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30代の構造
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31-33歳:レーベンスヴェンデ1期
34歳:新たな環境に移行
35-37歳:レーベンスヴェンデ2期
38歳〜:スタンドバイミー&創造の病
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たいていの芸術家が48歳くらいで才能が枯れるのは、40代のレーベンスヴェンデ2期のシフトチェンジに失敗するからなんです。

中島みゆきが『地上の星』を発表したのが48歳くらいなんだけど、あの曲はすぐには売れなかったのね。 ジワジワと火がついて紅白で歌ったのが51歳だったかな。 ちょうど50代に入ったその頃に『銀の龍の背に乗って』という曲を作ってるんだけど、それは菩薩道の決意表明の歌になってる。 おそらく30代と同じ創造の病が40代にもあるんだ。 それを乗り越えないとホンモノにはなれない。

で、ヨギさんなんだけど、今の時点で「リハビリ順調です」なんて言ってちゃいけないんです。

精神分析には限界があってね。 カウンセラーとのやりとりではどうしても乗り越えられない壁にぶちあたったとき、はじめて回心が起こるんです。 もしもその人が回心を起こしていたら、「キツかったです」じゃなくて、そのときに起こった内的体験をみんな書いてくるものなんだ。 だから、せめて「リハビリ順調です」じゃなくて「もうどうしたらいいかわからない」ということを書いてきて欲しかった。 いま回心を起こさなかったら、また30代と同じように時節を取り逃がしちゃうよ。

なんか口うるさくて申し訳ないんだけど、私は31-33歳の大厄のとき、バディたちにこういうことを何も言ってやれなくてね、心のこりになってるの。

悪いんだけど、どうか、そんな思い察してほしい。

(2016.10)


ヨギ(某太郎)様の投稿

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>で、ヨギさんなんだけど、今の時点で「リハビリ順調です」なんて言ってちゃいけないんです。
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ホント、どうして、こういう軽い言葉がでるのか、しみじみ考えてみたら。

父親が、悩む人だったんですよ。 いわゆる悟れなかった人。 私を傘で突き…はお話ししましたよね。 その、大嫌いな父親が、泣きながら言うんですよ。 「人間、普通がいちばんいいんだ」「極端なこと言っちゃいけないんだ」って。

それで、なんか、トラウマなのか、フツーのこと言ってしまうんですね。

その父が、宮沢賢治、武者小路実篤、新しき村、ご存じですよね。 毛沢東、ユートピアとか、幼い私にいろいろ言うんですよ。 迷惑もいいところですよ。

で、リハビリは順調ではなく、また荒野に戻りました、ということです。 先輩、布施さんの、ここ数か月は、私にとつても重要です。 ホントに布施さんの半年あとを追ってるのか?

わたし、どちらかというと、洋楽系、ギターもずっと練習しています。 父は、ハーモニカがものすごくうまくて、右手で伴奏をつける吹き方なんかできたんですね。

でも、わたし、小学校のころは音楽に興味なかったんですよ。 なのに、父親が、そろそろ教えるか、って、もう恐怖でした。

で、なんか、父親の好きな曲。 日本の曲。 嫌いになったのかなぁ?なんか、井戸の底、まだまだ、みたい。

布施さんは、来世とか、どうですか? 悟れなかった、我々が、来世でバンド組んで、ワンランク上がるとか。 いわゆるスピ系の解釈ですよね。 どうですか?

(2016.10)

赤雲水

当山の返答

黒雲水

9歳の運命のクロスポイントで阿久悠の『もしもピアノが弾けたなら』の洗礼を受けたことを考えると、たぶん私は天性が詩人なんだとおもう。 その詩に旋律をつけてみたいだけなんだよね、きっと。

それと何でだかわからなかったんだけど、「ピアノを弾けなくちゃいけない」とずっと思い込んでいたところがあってね。 おかげで、ギターで作曲しようか、ピアノで作曲しようか、ずっと迷ってたところがあるんです。 そんなトラウマのおかげで本格的にギターの練習をはじめたことがなかった。

なんだけど40-42歳の大厄に入ってから、ようやくそのトラウマが解けたんですよ。

『アニムスの歌を聴け』のインスピレーションのフローに入ってから、それまで音楽なんてしばらく聴いてなくて本ばっかり読んでたんだけど、昔あつめてたCDを引っ張り出してきたりしてね。 いろいろと聴いた。 そのとき『もしもピアノが弾けたなら』を西田敏行が歌ってるのをテレビでたまたま観たんだ。 その2番がこんな感じになってたの。

もしもピアノが弾けたなら
小さな灯りを一つつけ
君に聴かせることだろう

人を愛した喜びや
心がかよわぬ悲しみや
抑えきれない情熱や

(作詞:阿久悠 作曲:坂田晃一『もしもピアノが弾けたなら』より)

これ30代の運命の試練の順番としては「抑えきれない情熱や」→「心がかよわぬ悲しみや」→「人を愛した喜びや」になることがわかるかな。 まず創造的知性(ミューズ)を目覚めさせ、自由と孤独を学び、愛の萌芽を見つける。 この愛の萌芽を見つけるとこまでやらないと芸術というのは創造できないんです。 で、そこが同時に声聞道の出口になってる。 そこからようやく世に出ていけるの。

この歌詞のカラクリに気づいたとき、ピアノのトラウマが落ちた。 そこからはギター一本…本格的に練習できるようになったんです。 9歳からのトラウマだから長かったよね。

ヨギさんは私の半年後くらいから悟りの軌道に入って運命の試練を受けてることは間違いない。 でも最初の「見性」に失敗してるから知恵がまったく身についていないんです。 そうなると創造的知性(ミューズ)もやっぱり覚醒しない。 以前に私の創造性についての解説を誤読してしまったのもそのせいなんです。 だから…

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>なんか、トラウマなのか、フツーのこと言ってしまうんですね
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というのは違うんですよ。 「見性」の内的体験を経ていれば知恵が身についているし、創造的知性が覚醒しているはずなんだけど、ヨギさんは肝心の内的体験を透過してないから、その内的体験を語れないし、私の語っていることの意味だって本質的には読み取れないんです。

私の『坐禅作法』シリーズというのは内的体験を透過して身につけてきた知恵を語ってるだけでね。 和尚だって半分くらいは内的体験を透過して身につけた知恵を語ってる。 それは「人生の経験から直に学んだもの」で「生きられた内的体験の言葉」なんだ。 だから、その点では私の見解は和尚の見解とまったく一致している。 ただ和尚の語ってることのもう半分は、実在からやってくる般若だから、私はまだそのレベルでは語れませんけどね。

それから、いま私の発見した“悟りの軌道理論”を裏付ける実証が続々と寄せられてる。 自分でもびっくりするくらいに。 それから推測するとヨギさんがいま直面してる状況はかなり深刻なんです。 ちょうど縁覚道に入ろうとする段階にいるし、その徴候がはじまってる。 実際に体軸が調ってきてるみたいだし…。

これからは現実世界の出来事とか夢なんかもそうなんだけど、それらが逆説的なメッセージを送ってくる。 たとえば、ぷっつんレディ2号と美術室の彼女の関係性が逆説だったみたいにね。 そうしたものに巻き込まれて浮かれてたら私だってもうしばらくしたらクルクルパーになってると思う。

“42歳前後の恋の迷い”の運命の試練は、その全体が縁覚道に突入するためのレッスンだったんだ。 そうした逆説を見抜く知恵が内的体験を通して身についていないと、縁覚道に突入してしばらくした頃にニーチェやヘルダーリンみたいに発狂する。

だから私は「いま回心しろ」と言ってるの。

まだ父親のトラウマへの対処の仕方がわかってないみたいだから、おそらく、そのカウンセラーは精神分析家ですよね。 でも、その精神分析は禅の正門の近くまでヨギさんの手をひいて連れてきてくれる。 そこまできたら『ちょっとはマシな坐禅作法』のメソッドが的を射たものとなる地点に出ます。 そこから先はヨギさんが内なる師の導きにしたがって、たった一人で歩むんです。 その先に禅の正門がある。 そこを通り抜けたら「見性」できます。 最初に「見性」しておかないと、運命の試練を受けても、どんなに聖典を読んでも、何も身につかないんですよ。

「抑えきれない情熱や」→「心がかよわぬ悲しみや」→「人を愛した喜びや」

悟りの軌道に入った人はこのプロセスを完遂するまで世に出られないらしくてね。 いつまでも中途半端な環境に置かれる。 だから坐禅も気功もヨガもなめてちゃダメなんです。 悟るか、それとも、発狂するか、二つに一つの大勝負なんですよ。

私はどうせ来世があるならヒラニャローカに行きたいかな。 ヒラニャローカは『あるヨギの自叙伝』に出てくるんだけどヨガナンダの師のスリ・ユクテスワが転生して指導している星があるらしいんだ。 私はスリ・ユクテスワに惚れこんでるんだよね。 なにせ、かっこいいんだもん。 会ってみたい。

なので、今度、楽器を持つとしたらシタールだろうか。

(2016.10)


ヨギ(某太郎)様の投稿

ええええええ。 逆説とか、なんか解かんなくなっちゃったんですけど、作家デビューも、歌手も、ツインなんとかとの、あれもなくなつたつてことですか?

なんか、すげーっていうか、ワカんねーー。

布施さん、43歳になつたんですよね。

(2016.11)

桃雲水

当山の返答

青雲水

私の誕生月は三月なので、あと四ヶ月くらいで43歳になります。

ここで説明しているのは、31-33歳や40-42歳の大厄では「自分のしたがっているルールが逆説的に変わる」 ということにすぎません。 それは「見性」や「観照」のプロセスのことなのですが、31-33歳の大厄の時節における最初の見性に失敗してる人は、おそらく逆説― パラドックス ―の意味自体がワカラナイとおもいます。

『ちょっとはマシな坐禅作法』や『かなりキワどい坐禅作法』は、少なくとも“まもなく見性しようとしている人”を前提にしている読み物ですので、 ヨギさんは、まず人の話にちゃんと耳を傾ける習慣を身につけて、見性の入口に立ってから読んだほうがいいとおもわれます。

まず人の話をちゃんと聞くのです。 そこからが心随観です。

そうじゃないと、どんなありがたい話も、ただ誤読するだけでわけがわからなくなります。

(2016.11)


ヨギ(某太郎)様の投稿

いゃああ。 いろいろ考えてみると、ボクのプッツン体験って、布施さんなんだよ。

父親とのトラウマ、それを布施さんに仮託して、甘えたりしてたんだよ。 ほら、布施さんから、ボクの半年あとを追っているとかいう、アマーいお言葉をもらったりしたもんで、ね。

で、父に対する、コンプレックス、ね。 これ、鬼和尚さんに、恥ずかしながら、聞いたです。

(2016.11)

緑雲水

当山の返答

赤雲水

「私の半年あとを追っている」というのは甘い言葉ではなく警告のつもりだったんです。

「バベル語の習得のところか、それ以前でつまづいてる」
「見性できているかどうか私にはよく判断できない」

とも言っておきましたでしょう。 普通の人ならそこで自分の悟境を疑うものなんですけど、ヨギさんの場合は、そうではなかった。 おかげで、いまではコミュニケーション障害を発症してる。

自分に都合の良い話ばかりを受け入れて、自分に都合の悪い話には耳を閉ざしていると、己れのオツムを疑うことがなくなり、人の言うことを自分勝手に翻訳するようになってしまうんです。 それがコミュニケーション障害。 縁覚道の段階に入って頭脳分裂が起こりはじめると、いずれそれが幻覚障害の原因にもなる。

『縁覚道の地図』では、実際にコミュニケーション障害を発症して幻覚障害の段階まで逝ってしまった修行者を例にあげて、その危険性を警告しています。 ここ数年間の記事はヨギさんへの警告でもあったんです。

またキーパーソンとの関係をちゃんと洞察できないと“ぷっつん体験”には至らない。 それは自分が人格を抑圧して分裂させた原因を洞察して、人格を統合する糸口を見つけることでもある。 そのためには自分の自我をごまかさずに観察しなければならない。

そういうことを私は例をあげて何度も繰り返し説明している。 それなのに…

「ボクのプッツン体験って、布施さんなんだよ」
「父親とのトラウマ、それを布施さんに仮託して、甘えたりしてたんだよ」

なんて見当違いの言葉がどうしていまだに出てくるのか? 私にはさっぱりわかりません。

まず人の話をちゃんと聞くのです。 そこからが心随観です。

まあ、どうして説教されてるのか意味がさっぱりわからないだろうから、ヒントを書いておこう。

父親とのトラウマに気づいたところで選択肢が生れる。

父親がどのようにして本心を偽って生きてきたのか?
父親がどのようにして自分の本来歩むべき道を踏み外してきたのか?

その「どのようにして」は父親の表面的な行動を見ているだけでは見えてこない。 その背後にある心理的問題を洞察することではじめて見えてくる。 この段階ではフロイトにはじまる精神分析の成果が役に立つので、それを活用するといい。

するとその父親の抱えている心理的問題は、ヨギさんが本心を偽って生きてきた原因をつくり、ヨギさんが本来歩むべき道を踏み外した理由ともなってきたことがわかってくる。 そうしたらそこに選択肢が生まれる。

それを自分自身の心理的問題として解決するのか、それとも、それらを自分に吹き込んだ父親に責任転嫁して解決するのか。

ここからは父親に責任転嫁して解決しようとする自我のはたらきが問題になってくる。 精神分析でできるのはここまで。 まさにここから宗教が的を射たものとなってくる。 ヨギさんの問題は、父親のトラウマに気づいたところで満足して、父親に責任転嫁しようとする自我の手口を洞察しようとしていないことにあるんだ。

でも、その自我の手口を洞察したところに“ぷっつん体験”がある。

“ぷっつん体験”はそんなに甘いもんじゃない。勘違いしないでくれ。

(2016.11)

【当山解説】
 これが、この投稿者への最後通告だったらしい。 このとき最も気になったのは、インターネットで説法を展開している「鬼和尚」という覚者に相談しているという告白だった。
 この投稿者は、自分の抱えている心の問題を正しく認識できていないため、鬼和尚という覚者を前にしても、適切な質問なんか投げられるわけがない。 そういう場合、覚者といえども、当たり障りのない返答を返すしかないのである。 すなわち、核心をついた返答なんか期待できないのだ。 その弊害は、鬼和尚という覚者の当たり障りのない返答を妄信して、彼が現時点で当然なすべきことをないがしろにしてしまうことだろう。
 <全体>が彼のために“兄弟子と新弟子”の関係性を構築した相手は、鬼和尚ではなく当山だったのである。 そういう場合、彼にとって適切な助言をもたらすのは、鬼和尚ではなく当山と<全体>が決めている。 鬼和尚も当山も、その<全体>の決定にしたがって返答を返しているにすぎないのである。
 かくして彼は鬼和尚というミスキャストの当たり障りのない返答を妄信して、自分の当然なすべきことをないがしろにした。
 この投稿者のように、人の話をちゃんと聞くことができていないと、幾つになっても「通りすがりの人から学ぶ」という姿勢が身につかない。 その弊害が運命の大事な局面になって表面化してしまったということだろう。
 人生は一期一会(いちごいちえ)だ。 「自分の師は覚者ばかりではない」ということを覚えておくといい。


ヨギ(某太郎)様の投稿 【約四ヶ月後】

こんなの、出てきました。

たびたび、父に殴られる。小学生のころからでした。 高校時代の日記を見ると、三日に一度は殴られていました。 父は、言うんです。 「オマエは根本がわかってない。ま心がない」

つまり、そんな、小学、中学時代を過ごしました。 暴力ですね。 だから、ボクは断言する人に弱わかったんだ。 ようやく、わかりました。

ある晩、高三年のとき、父に殺意を抱き、口論のときに殺してやろうと、殴りかかったところ、迷いが生じ、ボクのパンチは、なんとも情けない、ペチンという音とともに、父の頬に。 しかし、父は、驚きました。 涙、流して、「出ていけ。出ていけ」と叫びました。 その晩、ボクは家を出ました。

これが、ボクのプッツン体験だったんだと、ようやくわかりました。

(2017.1)

【当山解説】
 これが約四ヶ月前の当山からの最後通告への回答だった。 2017年1月26日の投稿で、後厄42歳8月から続く半年間の青い闇を体験した後、この投稿者の出した結論がこれなのである。 そして、これがこの投稿者の42年間の結論でもあった。
 やはり人の話を何も聞いていなかったらしい。 <<終わった…>>と当山はおもった。

黒雲水

当山の返答

桃雲水

この臆病者め。それのどこがぷっつん体験なんだ?

関係という鏡


他者は鏡にすぎない。 自分自身の問題を直接知ることはむずかしいが関係のなかでそれを知ることはとても易しい。 鏡が手に入る。 あなたは自分の顔を、その鏡で見ることができる。 そして、相手は自分の顔を、あなたの鏡で見ることができる。

和尚『一休道歌 下』-P.684「第13話 関係―最大の公案」


“ぷっつん”したければ父親を鏡として自分の愚かな自我を浮き彫りにしなければいけない。 それは愚かな父親の中に自分自身を見つけることだ。 己れの愚かさを直視することから逃げるな。

そうやって、いつまでも父親に咎(とが)のすべてを押し付けて、外面的な現実体験しかみてないから、“ぷっつん体験”の真意を誤読するんです。 なぜそうなるかといえば、自分の内面を直視した内的体験がないため、ものごとの因果の責任が自分自身にあることに気づいていないからです。

君はまだ、なーんにもわかっちゃいないね。

暴力に傾いたのは別にして、「オマエは根本がわかってない。ま心がない」というお父さんはまったく正しい。 君は人の話をまともに聞いていないからね。 そういうコミュニケーション能力は、普通4-6歳くらいまでに発達してくるはずなんだけど、たぶんその頃に、自分に都合の悪い話にはまったく耳を貸さないように心を訓練して、みずから精神年齢を止めてしまったんだとおもう。

いわゆる発達障害というやつです。

だから、君と話をすることは、覚えの悪い犬と対話をするようなものなので、発達障害という現実の共通認識がない場合、毎日顔を突き合わせていたら、普通の人ならイライラして殴りたくなるのも仕方がない。 小・中学校でいじめられるのも当たり前です。

もしかすると父親をゆるす心のワーク以前に、友人たちや恋人たちをゆるす内的体験すら透過したことがないのかもしれない。 そうだとしたら父親のトラウマを直視することは難しい。 親というキーパーソンは大ボスみたいなものなんだ。

小・中学校時代にいじめられたことを、当時のクラスメイトたちに責任転嫁してはいないだろうか。 その原因が人の話をまるで聞いていない君自身にあることに気づいているだろうか。 また、恋人にフラれるのも、すべては自分の心(あるいは業というべきか)に責任があること、別言すれば、運命の一幕にすぎないことに気づいているだろうか。

よく内観してみるといい。

(2017.1)


行者様の投稿

ぷっつん体験に関する布施さんの見解は正しいと思いますが、発達障害はちょっと違いますよ。

発達障害はアスペルガーやADHDなんかが有名ですが、これは先天的な脳の障害であって、「自分に都合の悪い話にはまったく耳を貸さないように心を訓練して」とかそうゆう事は関係ありません。 発達障害は社会的にも結構大きな問題ですから、気をつけて発言した方がいいと思いますよ。

ヨギさんは精神科に行ったとコメントされていましたが、診断内容も分かりませんし、仮に発達障害だったとしても、前述のように、これは先天的なものです。

これは自分の感想なんですが、ヨギさんって、布施さんと自我確立・ぷっつん体験のタイプが違いますよね。 精神世界の本・ブログを読むと、自我確立・ぷっつん体験のような話はでてきますが、全部同じじゃないでです。 もちろん、根っこにあるのは自我の確立というもので一緒なんですが、それの直面の仕方が違うんです。

・「常識的な枠の中にいて、そこから抜け出す」

周囲の価値観に従って生き、それに疑問を持ち、自分の価値観を身に付けていく。 布施さんが社会的な尺度から会計士の試験をやめたという話は、まさにこれですよね。

・「常識的な枠の中に入れなくて、それに打ち勝つ」

そもそも、常識的な枠、一般的な人間関係といったものに入れなくて、それで悩んで、動じない強さを身に付けていく。 ヨギさんはこっちのタイプでしょう。

常識的な枠から抜け出すのは、武禅ライフに書かれているように、洗脳から抜け出すような感覚ですよね。 周囲と離別する強さを身に付ける。

常識的な枠に入れないのは、入れないがゆえに形成される劣等感を克服する。 要は、自分に対する自信を身に付けるんですよね。 ヨギさんに必要なのは、こっちでしょう。 実際、ヨギさんからは、自信がまったく感じられません。

最終的に、目指すものは同じで、自我の洞察も必要なんですけど、迫る角度というか、ルートが違うんですよね。

正しいか、正しくないか、役に立つか、役に立たないか、分かりませんが、そんな風に感じました。

(2017.1)

【当山解説】
 この投稿は、2017年1月30日の投稿で、後厄37歳8月から続く半年間の青い闇を体験した後、この投稿者の出した結論がこれだった。
 この記述からは、33歳に待っているぷっつん体験で、社会的存在証明の喪失― アイデンティティ・クライシス ―が起こるときに、自我が元に戻ろうとする力に屈した人物であることが読み取れる。 アイデンティティ・クライシスは内的体験として起こるものであり、直面の仕方が人それぞれ違うなんて話があるはずがない。 要するに、この投稿者はアイデンティティ・クライシスを乗り越えることに失敗したオカマチキンなので、そのとき内的体験として透過するべきことが理解できず、表面的な知識をこねくり回しているだけなのである。
 もはや手遅れだったのだけれど、このとき当山は後厄42歳8月から続く青い闇の突破口を探していた。 この投稿者とは“兄弟子と新弟子”の関係にあったため、その場合、お互いに智恵を交換しあう義務がある。 そこで、老婆心をまじえながら、ちょっと付き合ってもらうことにした。

青雲水

当山の返答

緑雲水

行者さん、まったく的はずれだよ。 あいかわらずセンスないよね。 いいかげんに見性してみたらどうなんだ?

「発達障害は先天的な脳の欠陥」というのは世間的な常識でしかない。 見性するとその常識の方が間違っていることがわかってくるのだよ。

発達障害は決して先天的な脳の欠陥じゃない。 印度ヨーガでは3歳頃から前世から持ち越してきている精神的な習慣が少しずつ現れてくると説明されている。 「三つ子の魂百まで」といわれるように、それが一般的には改善不可能にみえるから、学者連中は「先天的な脳の欠陥」として片付けてしまっているだけなんだ。 そうやって治療を放棄してしまっているんだよ。 つまり「運命は変えられない」というわけだ。 そんなもん、クソ食らえだよ。 君はまず常識を疑って、常識的な枠から抜け出しなさい。

それから、ヨギさんは今、父親と離れて暮らしている。 そこで父親とのトラウマを解決するために私と遭遇したんだ。

「私のぷっつん体験は布施さんだったんだよ」
「だから、ボクは断言する人に弱わかったんだ。ようやく、わかりました」

と言っているのは、彼が私の発言の中に父親の面影を見ているからなんだ。 私は天の配剤によって彼の父親の代役として抜擢されたキーパーソンというわけ。 私は彼の父親と同じで、口が悪いし、いじめっ子気質で、気性が荒いんだよね。 彼の天敵なのよ。 でもキーパーソンというのは、たいていそういう人になってる。 君が見性できないのは、そういう因果のカラクリを洞察できていないからでもある。

で、かつてヨギさんは、高校三年のときまでに幼い頃から父親に言われていることを理解しようともせず、その環境から逃走した。 そのために精神年齢がそこで完全にストップしているんだ。 精神年齢が4-6歳のままなんだよ。

一方、君の場合は9歳の運命のクロスポイントから中学1年までの13歳あたりで精神年齢が止まってる (おそらく君の場合、9歳の運命のクロスポイントを過ぎた頃に、私の“ぷっつんレディ1号”に相当する女の子に出会ってないと思うんだけど、違うだろうか?)。 そういう人たちの口癖は、君の大義名分である「自分は他の人よりできている」とか「だってみんなそうやってるよ」とかいうオカマ的なものになってくる。 それは「自我を確立する」という運命の課題の取り組みに失敗しているからなんだ。 それでも君の場合は、精神年齢が4-6歳で止まっているわけじゃない。 そこで『ちょっとはマシな坐禅作法』の内容を誤読ばかりしているけれども、一応、人の話を聞くという基本的なコミュニケーション能力が備わっている。

でもヨギさんはそういう普通の人以下の段階にいて、9歳の運命のクロスポイント以前で学ぶべき、「人の話をちゃんと聞く」という運命の課題すら乗り越えていないんだ。 だからコミュニケーション能力に障害がある。 彼の父親はそれをなんとかしようとしたのだけれど、どうしたらいいかわからなくて暴力に頼ってしまったんだ。 そういう「人の話をちゃんと聞く」ことのできない人たちが精神科に行くと発達障害と診断されるものだから、私は“発達障害”という表現を使った。

中国道教の経典の中には、周天法をはじめる条件として「齢40歳に達した者」を挙げているものもある。 これはアストラル体やエーテル体と呼ばれる微細身の成熟だけではなく、精神年齢が40歳に達していることが前提条件となっているかららしい。 そこで私は『アニムスの歌を聴け』で人生の各段階で精神年齢を引き上げるための方法を書いていたんだ。 なのに4-6歳や9-13歳で精神年齢が止まっていたら話にならないじゃないか。 君の場合で云えば、「自分は他の人よりできている」という前世から持ち越してきている口癖や思い癖をいまだに解決できていない。

それを乗り越えるのが運命の課題であり、人生の挑戦ではないだろうか?
それとも君は、それを「先天的な脳の欠陥」として片付けるのか?

これはタイプがどうとか、ルートがどうという問題以前の“勇気”と“根性”のお話なんだよ。 どちらにしろヨギさんは42歳になったとき、ふたたび父親のトラウマから逃げだした。 それは運命から差し伸べられた導きの手をみずから振り払ったに等しい。 もはや手遅れだよ。

かつての私の弟も彼と一緒だった。 弟というのはとぼけたやつでね。 自分の都合の悪い話にはまったく耳を貸さない人間だった。 でも適当に愛想をふる処世術だけは母親ゆずりで身につけてるから、人の話を聞いてるようで実は聞いてない。 そういう態度が頭にくるやつなんだ。 君の場合は、ちゃんと話を聞いてるんだけど、頭がコチコチに固すぎて意味が通じないだけだから、別に頭にくることはない。 精神年齢が4-6歳で止まってる人と、9-13歳で止まってる人とは、ちょっと性質が違うのね。 で、私の弟はちょうど17-19歳の厄年の時分あたりから口うるさい私や父から逃走していった。 その結果、どうなったと思う? やがて結婚した彼の家庭には発達障害の子供が生まれてきた。 まったくやりきれないよ。

私はこの5-6年間、ヨギさんがぷっつん体験を乗り越えるための勇気を集められるように、ひたすら励ましてきた。 それがここにきてすべて徒労に終わったんだ。 君に私の落胆がわかったら、たまんないね。

…しかし、父は、驚きました。涙、流して、「出ていけ。出ていけ」と叫びました。

これは、落胆の涙であり、落胆の叫びなんだよ。 ゆるしは理解からはじまる。 ゆるしとは理解だ。 彼は父親の胸中にある愛情を、なぜ暴力に頼ってしまったのかを、理解しようともしなかったんだ。

私はこの件に関しては、もう関わりたくない。 話を蒸しかえさないでくれ。

(2017.1)


行者様の投稿

発達障害は特定の機能が働きにくいんであって、心のパターンとは関係ありませんよ。 障害の内容により、注意力・人の気持ちを察知する能力などが働かないんです。

ただ、その分、異様な能力を持っている事も多いようです。 脳の特定の部位が働かない代わりに、別の部位が働いているといった感じでしょうか。 もちろん、個人により、障害の程度も様々です。

私は、発達障害の専門家ではありませんし、ある程度の知識と、実際に発達障害(アスペルガー)の人と一定期間、接した経験くらいしかありませんが、心のパターンとは別物である事が分かります。

「自分の愚かさと対面できない」といったものは、心のパターン、自我などの、精神の強さに関するものですが、発達障害の場合、「人の気持ちが全く読めない」「物事を忘れてしまう」といったある機能に関する障害です。

普通の事ができないので、人間関係なども破綻しやすく、悪い心のパターンを形成しやすいのは事実ですが、「心のパターン」と「特定の脳の機能」であって、本質的に両者は別物です。

その方はアスペルガーで、アスペルガーは人の気持ちが読めないんですが、それが原因となり、人間関係も悪く、心のパターンもよろしくなく、、人に責任転嫁してばかりといった感じでしたが、そうでない方もいます。

「息子と僕のアスペルガー物語」で検索すると、アスペルガーの親子のコラムがでてきます。 このコラムを書いた親の方は、自身がアスペルガーである事により、種々のトラブルに見舞われましたが、それに対処していき、人格も成熟している感じですが、今でも、人の気持ちが全く分からないそうです。

このコラムは現段階で中断していて、また、全部を読むのは会員限定なんですが、興味があれば、見てもいいと思います。

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>そういう「人の話をちゃんと聞く」ことのできない人たちが精神科に行くと発達障害と診断される
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とありますが、人の話をちゃんと聞けなくとも、発達障害とは限りませんし、発達障害の中には、ADHDのように、コミュニケーションより、むしろ注意力といったものに、問題があるものもあります。

また、布施さんとヨギさんの場合、「話を聞く・聞かない」という意味よりも、ヨギさんが「話を受け入れる・受け入れない」「字面でなく本質的に体得する・しない」といった意味でしょう。 これは発達障害とは関係ないと思います。

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>私は“発達障害”という表現を使った
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とありますが、これは表現として、誤解を生む不適当な表現ですよ。

自分は精神世界に足を突っ込んでいる人間なので、前世の因縁により、発達障害の身に生まれるというものを否定はしませんが、心のパターンとは別物ですよ。

これはヨギさんの問題で、余計かもしれませんし、布施さん的には終わった話なので、書いて迷惑かもしれませんが…

例えば、体が極端に弱い人間は、少なくとも、普通レベルに近い筋力とかから身につけないと、格闘技などはできません。 ヨギさんの場合、基本的な自己肯定感のようなものが必要な気がします。

ヨギさんが見てるか分かりませんが、もし、自分の考えが役に立ったら、幸いです。

(2017.1)

赤雲水

当山の返答

黒雲水

行者さん、君はもう38歳になっちゃったんだろうか。

『坐禅作法』シリーズの内容はもう理解できなくなったみたいだから、58歳くらいまで、俗世という苦い道場でいっぱい辛酸をなめてからまた来るといいんじゃないかな。 そうしたら色んなことが腑に落ちるだろうよ。 その頃にこのサイトがあるかどうかはわかんないけど。

で、「心のパターンとは関係ない」とか言っちゃってますけどね。 自分の心のパターンすらまともに観察できていない君が、どうしてそんなことを断言できるのかね? 君はいつもそうだ。 「増上慢もいいかげんにしないと進歩がそこでピタリと止まる」といつも忠告してきたじゃないか。 いったい何を聞いていたんだ? そのせいで時節を取り逃がしてしまったことがワカラナイのかね?

それに一般的な発達障害の定義なんか私にはどうでもいいことなんだよ。 なぜなら私にはその障害の原因がみえてるから。 すべての問題は自我のはたらきが生み出しているんだ。 だいたい私からみれば君も発達障害なんだぜ。 13歳で精神の発達が止まってるんだから。

それから、障害の原因の見えてない連中の作った発達障害の定義に何の価値があるんだろう? そもそもの誤解を生み出しているのが彼らなんだ。 君はオツムの逝ってる連中に振り回されてるだけなのに、そんな自分をおかしいとも思わないのか?

そういう君のオツムの構造が、私にはさっぱりワカランのだよ。

あと、ヨギさんはもう来ないよ。 どちらにしろ私と彼は、今度の2月3日の節分までの関係だとはじめから決まっていたんだ。 こんな結末になったのは残念だけどね。 人生の節目には相手の成長する波動について行けなくなって脱落する者が必ず出てくるものなのさ。 ある者は溺れてしまう…仕方のないことなんだ。 覚えておくといい。

では本題。

35-37歳の厄年の運命の課題は「社会システムに対抗する<個>の確立」なんだ。 それを乗り越えないと38歳から「創造の病」には入れない。 でも、君は社会システムの方にまるっと呑み込まれてる。

私が何を言いたいのか…わかるよね。

そういうときはさ。 私が22歳のときに、一旦、創造性の追及から離れて、システムエンジニアになったみたいにね。 ちょっとブラブラして、時節の到来を待つってのも人生の一手だと思いません?

それから、君が35-37歳の厄年に入ったときに『ちょっとはマシな坐禅作法』の「懺悔の本質」をしきりに奨めたのを覚えてるかな。 君の場合、創造性の話ばかりに意識が向いて、そっちの課題の重要性に気づかなかったのがマズかったよな。

まあ、そういうわけだ。

こうして一年半前のスタンドバイミー現象が予言した通りになったのは、私もまことに残念でならない。

たしかに先天的な脳の欠陥や運命の挑戦を乗り越えるのは容易なことではないだろう。 でも、それは絶対的な不可能事ではない。 なぜなら私がその証明だからだ。 君にはこんなところでくじけることなく、人生の最後まで真っ直ぐに生きてほしいと思っている。

それでは、一年半前のスタンドバイミー現象のときに、「君にその気があるのなら…力を貸したい」と約束したとおり、君にその気がなくなった以上、私の出る幕はもうない。 君に対する私の役割はここまでだ。

それじゃあ、達者で暮らせよ。

(2017.1)


当山の投稿

そういえばお礼を言うのを忘れてた。

正師・秀爺から究極の奥義を引き出してくれたのは行者さんだったよね。

「あとは体にまかせなさい」

近頃、坐ってるとつくづく思うんだけど、これは本当に究極の奥義だ。 おかげで声聞道九年間を抜けられそうなんだ。 あさっての金曜日。 2月3日の節分で、一応、声聞道九年間卒業ということになるとおもう。 行者さんには本当に感謝しているよ。 どうもありがとう。

というわけで2月3日は卒業式だから、一緒に特別クラスの校歌を斉唱しようじゃないか。

どんなときもぉ〜 どんなときもぉ〜
迷い探し続けるぅ〜 日々がぁ〜
こぉたぁえぇになるぅ〜 こぉとぉ
僕は知ってるぅかぁらぁ〜
(槇原敬之『どんなときも。』より)

このあいだなんだけど、40-42歳の大厄を目前にして特別クラスの入学資格を取得した人からメールをもらった。 つまり無意識の壁に風穴を開けたんだ。 『仁悟式CR』をちゃんと実践してね。

この意味わかるかい?

いわば星まわりの法則を破ることだって不可能じゃないということさ。 そして何ごとも基本が大事だということ。

君も特別クラスの一員となれますように…

「それでは特別クラスで会えることを楽しみにしているよ」
(『ちょっとはマシな坐禅作法』【坐禅作法36】懺悔の本質より)

(2017.2)

赤雲水

行者様の投稿

黒雲水

確かに、秀爺さんの「抑えようとすると滞るから、体にまかせなさい」っていうのは、言い得て妙ですよね。

無理やり無心になろうとすると、無心になろうとする雑念が湧きますから、自然な形の身心を目指す、今も心掛けている事です。 感覚的に柔らかなものが身体全体に巡っていると、なんとなく、身心共にいい感じになります。 余計な心の反応もあまり起こらない。

余計な反応の奥底には、色んな心配や恐怖などがありますよね。 徐々に少なくしていくしかないようです。

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>星まわりの法則を破ることだって不可能じゃないということ
-------------------------------------------------------

そうですね。 自分の人生は自分次第、それしかないですよね。

(2017.2)


当山の返答


― 男女にかぎらず まず見性させて さて坐禅さすべし ―
(至道無難禅師『龍沢寺所蔵法語』)

無意識の壁に風穴をあけることが先決だ。 「なんとなく、身心共にいい感じになります。余計な心の反応もあまり起こらない」 「余計な反応の奥底には、 色んな心配や恐怖などがありますよね。 徐々に少なくしていくしかないようです」…なんてことをやってるから、いまだに見性できないんです。 君はその“余計な反応”とやらを見守り、「心はどう彷徨うのか」「心はなぜ彷徨うのか」「心をどう鎮めたらいいのか」を洞察しなければならない。

― 禅は第一悟を先にして、悟にまかせ修行すれば、日々夜々安楽なり ―
(至道無難禅師『即心記』)

至道無難禅師の教えは、まず第一に見性だ。 究極の奥義を実践するのは君にはまだ早いのだよ。 君はそこを勘違いしていたから、30代のレーベンスヴェンデの挑戦に敗れたんです。

しかしまだ望みはあるかもしれない。

老子には84歳で生まれたという伝説があるそうだ。 君が教えてくれたように84年というのは天王星の周期らしいね。 白隠禅師がその意味を解き明かしてる。

42歳まで:因行格
84歳まで:果行格

42歳までの生きざまの結果を43歳から84歳まで受け取るんだ。 よかったなあ…約28年周期の土星には嫌われたみたいだけど、84年周期の天王星はまだ君の味方らしいぞ。 その天王星の放射線をうまく利用するには、心の中に植えつけられた悪い業の種子―心の青写真―を焼き尽くす方法を知らなければならない。 星の放射線は業の種子に発芽の機会を与えるからね。

で、「心はどう彷徨うのか」「心はなぜ彷徨うのか」「心をどう鎮めたらいいのか」を洞察して、無意識の壁に風穴をあけることがその方法を知る第一歩になる。 「自分の人生を自分次第」にしたければ、そうやって、まず「いかにして星の放射線を味方につけるか」を学ぶんだ。 いまのままでは星にもてあそばれるだけだぞ。 それがまず最初に見性しなければいけない意味なのさ。

至道無難禅師は、日本の禅史上、一番まともなことを言っていた禅師だ。 あとはどいつもこいつもイマイチだよね。 まともに教えを聞いてたら君みたいなことになりかねない。 無難禅師の教えをよ〜く聞いておきなさい。

(2017.2)

桃雲水

当山の投稿

青雲水

今日は2月3日の卒業式だから君とはここでお別れらしい。

ああ、卒業しても友達ね
それは嘘ではないけれど
でも過ぎる季節に流されて
逢えないことも知っている

(作詞:松本隆 作曲:筒美京平『卒業』より)

君はからかい甲斐のある人物だから、もっとからかっていたかったのだけれど、これが私からの最後の老婆心となるだろう。 実にさみしいよ。

記録によると2016年8月22日となっているから、約半年前だよね。 君はハディルに遭遇している。 『アニムスの歌を聴け9〜PRIDE〜』のコメント欄での出来事だ。

「勝負どき」というか「ふんばりどき」というのかな。 そういうのってハディルに教えてもらえるものなんだよ。 でも、みんなそうなんだけど、ハディルを無視しちゃうんだ。 そうして半年後に増上慢になって私のところにやってくる。

で、そのとき私はテストするのね。 それで増上慢になってなければ合格。 増上慢になっていたら引導を渡す。 私が40歳になってからかな…そういうことを繰り返してきてる。

“ツキ”ってものには波があるんだ。 この波はね。 学ばなきゃワカンナイ。 「勝負どき」というか「ふんばりどき」を知る“カン”てのはさ。 この波を学んだ人だけが持っているの。

私はその波を競馬と株式投資で学んだんだ。 32歳から坐禅修行をはじめる前のことだよ。

“ツキ”が離れているときのことを私は“クスブリ”と呼んでるんだけど、この“クスブリ”に入ったら馬券は買っちゃいけない。 しばらく競馬場から離れてテレビでレースの様子を見るんだ。 そうしたら「はは〜ん、なるほどね」とわかってくることがある。 そうしたら“クスブリ”から抜けて“ツキ”が戻ってくるから、また馬券を買いに行く。

株式投資はね。 もっと簡単。 景気のでっかい波があるからそれに乗ればいい。 株式市場のみんなが「もうダメだー」と合唱してる不景気のときに爆買いして、今みたいに景気が下降しはじめてるのに浮かれた状況になったら手放せばいい。

たしかに、これは勇気がいるよ。 みんなと反対の行動をとるんだからね。 でも、この株式投資の経験が私の「社会システムに対抗する<個>の確立」の下地になったと言ってもいい。

こうした波を学んだら競馬も投資も負けなくなる。 だから私は勝ち逃げしてるんだ。

一度、父親の年金運用に助言して儲けさせたことがあるんだけど、私の父親というのはぜんぜんダメなのね。 教えた通りの行動ができないの。 「いまが買いどき、さっさと買え」と言ってるのに買わなかったり、景気の悪いときに「もう少し我慢して待て」と言ってるのに売り払って損こいたり、「小遣いが欲しい」とか言い出して景気の波が去った頃に投資信託を買って損こいたりね。 そういう人には…

「あんたはセンスないからやめといたほうがいいよ」

としか言いようがないんだ。 それはやっぱり“波”を学んだことがないからじゃないかな。

次に君のところにハディルがやってくるのは40-42歳の大厄の頃だと思うけど、それまでに“波”を学んでおくといいよ。 君、いまのところセンスないから。

競馬はやったことある?

競馬は頭を使ってシミュレーションするギャンブルだからね、頭脳派の君には競馬は性にあってるとおもうよ。 それに競馬には天才・武豊がいる。 彼は無為自然を目指してるから、彼の騎乗から学ぶことも多いんだ。

まあ、そんなとこかな。

引導を渡すときの恒例の餞別の和歌なんだけど、君はからかい甲斐のある人物だから、皮肉っぽいやつを選んでみた。

説く法に 心の花は ひらけども
      そのみとなれる 人はまれなり
(至道無難禅師『即心記』)

(2017.2)


行者様の投稿

ギャンブルには興味ないですね。 探求すれば、儲ける事も可能かもしれませんが、それならば、違う事に時間を使いたいといった感じでしょうか。 今のところは、ない選択肢ですね。

8月22日と言えば、鬼和尚さんからのお言葉があるという投稿が某太郎さんからあった日ですよね? あれはコメント欄にも書きましたが、鬼和尚さんからの直接のメッセージではなく、引用のようなものです。

布施さんの言う「ハディル」というのが、自分は何なのか分かりません。 おそらくは、神意的な意味合いのメッセージのようなものなのでしょうが、自分がそれ捕まえられなかったとしても、それが当時の自分なのですから、仕方がないでしょう。

布施さんはもう少しで43歳でしたっけ?

42歳の内に何か起ころうとも、何も起こらなくとも、この分野ではすごい人と思ってますから、期待してますよ。

(2017.2)

緑雲水

当山の返答

赤雲水

あ、そう、残念だね。 私もかつては父親から競馬と投資についてずいぶん反対されたものだけどね。 結果をみれば私が正しかったとおもう。 私の父親は競馬と投資をやらなかったせいでオカマでチキンなんだといっても過言ではないくらいさ。 ああいうものは、そもそも金を儲けるためにやるもんじゃないんだよ。 ツキの波に乗るセンスとクソ度胸を養うためにやるんだ。 ギャンブルは孔子も推薦してるんだぜ。 「センスのないやつは博打でもやってたほうがよっぽどいい」ってね。

某太郎さんて誰なのか?
どうしてメッセージをくれたのか?
なんであのタイミングだったのか?

よく考えてごらんよ。

言っとくけど某太郎は私じゃないよ。 「世の中には偶然に起こることなんて一つもない」と思って出来事の意味を考えるんだよ。 真っ直ぐ生きてる人は、そういう生き方の基本が、教わらなくても自然に身についてるもんなんだぜ。 たぶん、君の生きざま自体がひん曲がってたんだな。 そうやってなんにも考えないで「仕方がない」で片付けてきてるわけ? 因果律が洞察できないはずだよ。

私は火の試練の先に志願しちゃったから、42歳の時点ではまだ日の目をみれないんだ。 早くてもうちょっと先の44-45歳くらいになっちゃうみたい。 ユングが42歳の時点ではまだ「創造の病」の真っ只中にいたように、38歳から創造の病に入った人はみんなそうなのよ。

一方で、火の試練の段階で手を打った人は、38歳くらいから日の目をみて42歳までにはバンッと世に出てくるんだよね。 そういうのずっとうらやましかった。 でも、そういう人たちの業績って中途半端なんだ。 火の試練までのことしか表現できないから、あんまり深みがない。 たとえばモームとか夏目漱石なんかが代表格かな。 しかも、モームが45歳の『月と六ペンス』で終わってるように、その辺りで才能が枯れちゃう。 夏目漱石なんかはモームよりせこいよね。 才能が枯れたところでさっさと死んじゃったんだから。 夏目漱石の『こころ』読んだことある? あれは自分が遣り残したことを未練たっぷりに書いた遺書なんだ。 いやだぜ、そういうの。 そもそも彼らには“愛”や“美”が描けないんだよね。 だから私は「大器晩成、大器晩成」って思いながらがんばってきたのよ。

君には裏表があるから書く言葉に紗がかかってるんだよな。 だから、あんまり期待されてるようには思えないんだけど、まあ、がんばるよ。 君もがんばれ。 それじゃあね。

(2017.2)


行者様の投稿

申し上げにくいんですけど、あのメッセージって、

「布施さんを信用するな、あの人は大したことはない」

というニュアンスのもので、それに対する私の回答は、

「全面肯定はできないが、やっぱりすごいと思う」

というものだったんですけど。

(2017.2)

黒雲水

当山の返答

桃雲水

人生の岐路には間違ったことを説く者と正しいことを説く者の二人が目前にあらわれる。 それで、どっちに傾くかはその人の選択にまかされるんだ。 過去の出来事を思い出してみれば、いつもそうだったとわかるんじゃないだろうか?

たとえば今回のヨギさんの場合はカウンセラーと私だった。 ヨギさんのコメントをよく読んでみるといい。 彼は「精神分析には限界がある」という私の助言を無視して、カウンセラーに教わったとおりの精神分析にはまってる。

それにあのとき私が誰に何を言っていたか覚えてないの? 現在の君と同じ失敗をしでかした者があそこにいたんだよ。 年齢も同じだ。 私は君が半年後に時節を取り逃がすことなんて何も知らずに書いている。 けれども今なら君への警告として書いているようにも読めるだろう? こんな感じで、みんな無意識的に適切なことをやってるんだ。 某太郎さんもそう。 その人のオツムの状態にあわせて、その場にふさわしい行動をとる。 彼の役割は、この場合、「間違ったことを説く者」だったのかもしれない。

あれは『アニムスの歌を聴け』の最終章を書く直前でね。 『縁覚道の地図』のときもそうだったんだけど、最終章を書く直前は何て言うんだろう、ボルテージが上がってるから、すごく敏感になってる。 “胸さわぎ”がするんだ。「現在の君と同じ失敗をしでかした者」が来ることはなんとなくわかっていたし、君が人生の岐路に立ったことを某太郎さんの登場によって感じた。 だから今回「君はもう38歳になっちゃったんだろうか」と書いたんだ。 ハディルってのは、つまり、そういうもんよ。

なのでハディルの教える時節には君が期待しているような明白なメッセージなんてないんだ。 「ノストラダムスの予言」みたいに曖昧で暗示的なものなの。 だから出来事のつむぎだすムードから時節の到来をハートで感じ取らなきゃいけない。 そこで「勝負どころ」や「こらえどころ」をとらえる“カン”が大切になってくるのさ。 あのとき、なんか“胸さわぎ”みたいなものを感じなかったのかね?

でも、まあ、いいか。もう終わったことだし。 そう、もう終わったのだよ。

今日は待ちに待った立春なのだ! ボクらも、いい加減にこのへんにしとこうよ。 立春だってのにケジメがつかないじゃないか。

それじゃあ、バイバイ。

(2017.2)


行者様の投稿

私はまだ38歳になっていませんよ。

38歳も小さな節目でしたっけ。 人生29歳変動説でも、29歳の時に転機を迎えた人は、35・38歳で人生の意味を見出すんでしたよね。

あのコメントがハディルであったかどうか分かりませんが、私の布施さんの評価は、書いたように「全面肯定はできないが、やっぱりすごいと思う」です。

今までのコメント欄に考えが違うと思う事は書いてきましたが、そうであっても、総合的には精神世界の中では、すごいと思います。 「周囲の価値観との離別」「自我の完成」などの記述は、圧巻ですよね。 武禅ライフはこの系統のブログの中では、見るべきブログの一つでしょう。

これは、自分の目で見て、自分で考えて出した答えです。

武禅ライフを初めて見た時、「このブログは見た方が良いな」と直観的に感じましたから、そういう意味では、その時は勘は働いたかもしれません。

いつか布施さんが活躍する事を期待してますよ。

(2017.2)

【当山解説】
 この投稿者は「自分は布施さんの言っている事全てに賛成というわけではありません」と語ってきていたのだけれど、当山と自分のあいだに“兄弟子と新弟子”の関係性が構築されていることは、なんとなく感じ取っていた。 たしかに“昏睡状態の豚”ではあるのだけれど、“覚醒しかけている豚”だったのである。 そこで、なんとかできないものか…と当山も5-6年の歳月をかけてあれこれ助言してきた。
 しかしながらセンスがいまいちだったため、当山の打ち出すメソッドを信用しきれず、『仁悟式CR』を実践する勇気と根性が欠落していたことも手伝って、最後にはカオナシに足を引っ張られて時節を取り逃がしていった。 なんともあわれな修行者であった。

青雲水

当山の返答

緑雲水

ありがとう。迷ってたのはこれなんだ。

“聞く耳”の開く時節


人には“聞く耳”の開く時節というものがあり、それは決まって、31・34・37・40歳。 どんなにセンスのない人でも、32・35・38・41歳を迎える2〜3ヶ月くらい前になると聞く耳がパッカリ開くのだ。 そのとき忠告をしてくれる誰かが現れたりして結構キツイ目に遭うから、そこで自分の心としっかり向き合わなければならない。 それが“聞く耳を開く”ということなのである。 たいていの人は己れのオツムを疑う習慣がないため、32・35・38・41歳の誕生日を迎えると見事に聞く耳が閉じてしまうのだけれど、そこで意識して開いてさえいれば次の修行段階に進める。 そのとき必ず何らかのイベントやら啓示があるものなのだ。

(『かなりキワどい坐禅作法』【坐禅作法94】正師の手口)


「“聞く耳”が閉じてからきたのか?」
「“聞く耳”が閉じる直前の警告を受けにきたのか?」

今回の君のケースは後者だったのかもしれない。 まあ、38歳の誕生日までできるだけやってみるといいかもしれないね。

私は特異な人生を歩んでるから、普通の人たちの38歳がどんなものかは、よくわからない。 でもそこに節目を感じてる人はあんまりいないみたいだよね。 私の経験では高校の同窓会で再会した美術室の彼女くらいかな。 まあ、そんな感じだから、やっぱり「創造の扉はあからさまに開き、いつのまにかひっそりと閉じられる」ものらしい。

また「人生の意味に疑問を持って行動を起こす」というのは32-38歳までのレーベンスヴェンデのことで、「人生の意味を見い出す」というのは40-42歳の大厄の頃だった。 40歳になった頃から過去の出来事がひとつひとつ一本の線で結ばれてくるんだ。 そうして42歳になると目前に一本の道があらわれる。 以前なら、いろいろ手直ししたい過去もあったけど、43歳直前の今はそんなところは一つもない。 善いことも悪いこともみんな意味のあったことがわかってくるんだ。

君は「精神世界の中では、すごいと思う」とか「期待している」と言ってくれるけど、実のところ、そういうのはあんまり嬉しくないんだよね。 私は悟ってないけど、その正門だけはちゃんと知ってる。 で、その正門のくぐり抜け方をずっと書いてきてるんだ。 だから、「おかげで禅の正門を通り抜けられました」と言ってもらえるのが一番うれしい。 「もうアンタなんかの世話にはならん。なぜなら私は一人で歩んでいけるからだ」と言ってもらえるのが一番うれしい。 そうじゃなかったら『坐禅作法』シリーズというのは単なる心の慰めで終わっちゃう。 どんなに読んだって何の価値も持たないんだ。

君はヨギさんとほぼ同時期に私のところにやってきたよね。 だから、君とはもう5-6年の付き合いになる。 でも、みんなね。 私のところに来た最初のときが最大のチャンスを迎えてるんだ。 何でだかは知らないけど、そういう時節にやってくる。 で、センスのある人は、しばらくむさぼり読んで、いくつか私に質問して、さっさと見性して、サヨナラしていくの。

これまで私は小学校に通っていたようなものでさ。 このブログに来ていた人たちというのも、みんな小学校の13歳くらいまでに精神年齢が止まった人たちだったらしいんだ。 どういうわけか、そういう人たちしか来なかった。 「さっさと見性して、サヨナラしていく」人たちが現れ出したのは、私の眉間の結節が解放された一年半前くらいからなんだ。

その頃からだよ。 精神年齢について考えるようになったのは。 彼らの精神年齢は13歳で止まってなかった。 ずっと発達を続けてきてた人たちだから、いきなりビンビンくる言葉を書いてくるんだよね。 人間の性能の違いを感じたよ。 そういう精神年齢の違いって、残念ながらあるんだ。

「卒業」って言ってたのは、そういう意味。 私はもう中学生。 君にはまだ小学生レベルの運命の課題が残ってる。 おそらく、もう同じ学び舎には通えないんだ。

今回はいろいろ悪辣な言葉を投げてしまって申し訳なく思ってる。 でも、君ならその老婆心を受け取ってくれると思うんだ。

(2017.2)

【当山解説】
 当山はこのコメントを投げたときに後厄42歳8月から続く青い闇の突破口を見つけた。
 それは彼の置きみやげのようなものだろう。 当山は彼の将来のために数々の老婆心を残した。 それは<全体>に協力して何かを注ぎ込む行為である。 すると当山の直面している運命の課題の解答が脳裏に浮かび、文章となって認識されるのだ。
 このように“兄弟子と新弟子”は、互いに智恵を交換しあうWin-Winの関係性になっている。 禅者諸君も、目前にあらわれた新弟子のために、誠心誠意の老婆心を投げてあげるといい。
 以下はもう一人の新弟子からの最後の言い訳である。 「布施さん、43歳になつたんですよね(某太郎(ヨギ)談)」 「布施さんはもう少しで43歳でしたっけ?42歳の内に何か起ころうとも、何も起こらなくとも、この分野ではすごい人と思ってますから、期待してますよ(行者談)」。 この出来のわるい新弟子たちは、ワイドショーで芸能人の凋落を楽しむかのように、当山が42歳で運命を転落していく様子を見届けようとしていたらしい。 そうした彼らの腹の内を知ったは、この言い訳を読んだときだった。
 しかしながら、この関係性が構築されると、どんな結末になろうと互いに憎みきれないのがつらいところである。


某太郎(ヨギ)様の投稿

某太郎です。

ボクは布施さんのブログを、とても興味を持つて観ていました。 だけど、なにかコメントをしてみるの、怖かったんです。

「精神異常」でしたっけ?

なんか、軌道をはずれると、きちOoになる、とか、ニーチェですか。 あって、とても敷居が高かかったんです。 怖くてね。

で、鬼和尚サマに、このブログは、どうなのでしょうか、とメールしたんです。 その、ご返事を「行者」さんにだけは、お伝えしたくて、おじゃましたんです。 ワタシの意見は、ないんです。 鬼和尚サマの、ワタシにたいする返事だけなんですよ。 それを、「行者」さまに伝えただけなんです。

ワタシは、いまも、布施さんが正しいのか、わからないんです。 軌道に乗っているのかもわからないんです。

行者さまに書いたのも「43歳で」ファンタジーですか、小説ですか、お書きになるというので、43歳、今年の3月ですね。 までは、静観しましょう、ということだけだったのです。 「否定的意見」ではないのです。

ワタシはわからないのです。

(2017.2)

【当山雑感】
身のとがを おのが心に 知られては
      罪のむくひを いかで逃れん
(至道無難禅師『即心記』)

赤雲水
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