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【BBS:Q&A 57】サマタ瞑想の必要性

仁悟の坐禅相談室『坐禅の智慧で答えます。』 サマタ瞑想の必要性

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2015年2月:サンテPC様より


サンテPC様の投稿

去年の11月頃に質問させて頂いた者です。

あの当時は正直、布施先生が易しく教えて下さったヴィパッサナーの意味すらちんぷんかんぷんでしたが、その後少しずつ理解を深めることでそのニュアンスを掴めるようになりました。

少々値が張りましたが、去年布施先生のホームページを参考にして、『解脱の真理』や『キリストのヨーガ』も購入してみました。 当時はこれも意味不明だったのですが、自我の仕組みなんかを自分に投影させてみると、それらの書いていることはまさに今の自己の観察のことなんだなぁと実感しております。

止観法曰く、シャマタ(止)の追求である気力や精力などへの関心から、布施先生のホームページでヴィパッサナー(観)の重要性を認識出来たことが今思えば僥倖でした。 臍下丹田を養うことよりも、今ここへの気付きとか自分の誤魔化し、癖を暴露していく方が余程重要なのですね。 悪口や煽りをする直前に「ちょっと待てよ」という気づきが自然に入るので、リアルでもネットでも、これまでは攻撃されたと感じたらすぐに反撃してスッキリしたり、こちらから攻撃を仕掛けて満足していましたが、いつも自我を観察する癖が身につきました。

長文になりますが、いくつか質問させて下さい。

ヴィパッサナーをするにあたっての瞑想の必要性はどこにあるのでしょうか?
もっといえば、シャマタは禅者にとって必要なのですか?
「肴はとくにこだわらず」でいうチベット体操などの気感の説明と関係があるのでしょうか?

よく布施先生の挙げる天才禅者(マハラジやマハリシ)は、布施先生のようなヨガ修行のプロセスはむしろ邪道といい、思考や肉体、精神は全て自分ではない、本当の自分は今ここの意識だと、だからヨガの知識を捨てて今ここに在れとかいいます。 まるで禅の精神論「求めるな、考えるな、無心になれ!!」に近いようにも思えます。 肉体や精神は自己ではないというのは、悟りを妨げているのが肉体や精神だから、凡人の禅者にとっては瞑想などで気を通したりすることが必要なのかな…とか混乱します。

布施先生の一連の修行のプロセスのゴールが、天才マハリシやマハラジのいうものなのですか?

赤雲水

当山の返答

黒雲水

そうですよね。 私も『解脱の真理』や『キリストのヨーガ』を読んだ当初にそういう疑問を抱きました。

観(ヴィパッサナ)と止(サマタ)は、よく“鳥の両翼”とか“車の両輪”にたとえられるもので、どちらも重要です。

まず、観(ヴィパッサナ)を修めていれば、運命から与えられる試練を乗り越えることができます。 具体的には、シュタイナーの三つの試練ですね。 それは自我を観察することでしか乗り越えることができないもので、この試練を乗り越えていくことで智慧が身についてきます。

その最初に現れてくる智慧が“妙観察智”というもので、たとえば、この智慧が現れてくると経典に書かれていることの真意を読み取れるようになってきます。 私はそれを“バベル語の修得”と云っているのですが、つまりは“妙観察智の発現”のことです。 そうすると、この智慧のある人とない人の区別がつくようになってきますから、伝道の一歩を踏み出せるようになってくるわけです。

それから、止(サマタ)を修めていれば、集中力を身につけることができます。 これによって、普通は気づけない微妙な自我の動きを観察することも可能になるわけです。 しかしながら、入門したばかり修行者は、どこをどうすれば自我を観察できるのかワカラナイので、精神集中の行ばかりを修めようとするものです。 止(サマタ)は、気感の“行”とも密接に関係するもので、そういうわかりやすい証果を得ることが修行の目的になってしまうんですね。

それがために、観(ヴィパッサナ)をないがしろにして、ほとんどの修行者が運命の試練を乗り越えられずにいるため、最初に“ぷっつん”して観(ヴィパッサナ)のコツをつかんでおく道を私はお勧めしているのであります。

また、運命の試練を乗り越えるほどに、あるいは、蓮華の開花と回転にしたがって、身体の中を流れる気の量が増えてきます。 そうすると「心の乱れ」と「気の乱れ」には密接な関係があることがわかってくるんです。つまり、

「心をおさめるには気をおさめなければならない」

というようなことです。 実はこれ、その逆もまた然りであります。

「気をおさめるには心をおさめなければならない」

さらに「呼吸を制すれば気と心をおさめることができる」ということにも気づいてきます。

「呼吸と気と心は三位一体である」

“調息”というのは、呼吸を調えることではあるんですが、それは同時に心を調えることであり、気を調えることでもあるんです。

ちなみに、ラマナ・マハリシはよくわかりませんけれども、少なくとも『アイ・アム・ザット』のニサルガダッタ・マハラジは“気”を完全には否定していないようです。 なにぶん分厚い本なので、どこに書いてあったかは憶えてませんけど…。

>布施先生の一連の修行のプロセスのゴールが、天才マハリシやマハラジのいうものなのですか?

まず、「思考や肉体、精神は全て自分ではない、本当の自分は今ここの意識」というのは、まったく正しいんです。 ですが、入門者にとっては誤りとなります。 五蘊[色(肉体)・受(感覚)・想(感情、思考、意志)・行(分別)・識(記憶)]に価値を付加してしまう自我の働きを一気に断ち切れる人にとっては正しくとも、それができない人にとっては“不可能”“時期尚早”という意味において誤りということです。

“過去のトラウマの清算”もできていないのに、“今ここ”というのは愚の骨頂。 禅の禅臭いのは、味噌の味噌臭きに等しく、砂糖をたっぷりまぶしても食えない野郎となってしまいます。

ほとんどの人にとっては、止観法やなんらかの気功法を用いて、顕在意識で認識できる肉体や感覚や想念に囚われる自我を観察する方法を知ることが先決です。 そうして、次のステップとして、潜在意識層の自我の働きを観察できるようにならなければ、マハリシやマハラジの説く行法は“不可能”“時期尚早”なことなんです。

ニサルガダッタ・マハラジは、34歳で正師に出会い、「私は在るに沈潜しろ」と言われたのですが、その時点で、すでに潜在意識層の自我の働きを観察できていたようです。 覚者といえども、自分の経験や内的体験からの智見を説くため、マハラジというのはそこから先の話しかしない傾向があります。 なので、彼の『アイ・アム・ザット』は その辺の事情を考慮した上で読まなければいけません。

やがて止と観の行が進むと、「止にあらず、観にあらず」、「止の中に観があり、観の中に止がある」の“非止非観”に進化するそうです。 そこでは、特に意識するまでもなく、止と観が自動的に起こっているんです。 マハリシやマハラジは、真実の悟りを得ていて、その境地から話をしていますから、もっとも本質的で重要な部分だけを説く傾向があります。 とりわけ17歳で悟りをひらいたマハリシは、われわれ凡人の境遇を理解するための経験が欠落していますから、かなり無茶なことを平気で言ってくれちゃいます。

禅師の中では、やっぱり、愚直一番・道元禅師がマハリシに似てるかな? “愚直一番”を言い換えれば“記憶喪失のおっさん”くらいなもんです。 ですので、逆に、われわれがその辺の事情を考慮したうえで話を聞かなければいけません。

道元禅師はお茶目なオヤジです。 つるつるの頭をナデナデして、ときにはデコピンしてあげましょう。


サンテPC様の投稿


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それから、止(サマタ)を修めていれば、集中力を身につけることができます。 これによって、普通は気づけない微妙な自我の動きを観察することも可能になるわけです。 しかしながら、入門したばかり修行者は、どこをどうすれば自我を観察できるのかワカラナイので、精神集中の行ばかりを修めようとするものです。
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鬼和尚も、観照が分からなかったらそれ相応の集中力が必要なのだと仰る理由も、精神が安定せず何らかの病気になっていては自我の暴露などと言っていられないという意味なのかもしれません。

海外にはよく映画や舞台の役に感情移入するため、その人の生活スタイルをそのまま真似ることをする俳優さんがいるそうですが、その過程で自我が少しでも暴かれてしまうと精神病になってしまうケースもあるそうです。

ヴィパッサナーを行うにあたって必要な集中力、感情コントロール能力を養っておかないと、精神的にも持たないのだと思います。

桃雲水

当山の返答

青雲水

観照とは「それまで自分と思っていたものが実は自分ではなかったと気づくこと」です。

それは自己否定、自我放棄になりますから、法(ダルマ)、道(タオ)、神(アラー)、呼び名はなんでもいいですけど、真の実在に対する信頼が確立されていないと精神崩壊することになります。 観察による自我暴露の訓練によって、まず最初に自我を完成させることが必要なのはそのためなのだと思います。

観照に必要な集中力というのは、一般に考えられている集中力とはちょっと違って、“明け渡し”とか“リラックス”の方が適切のような気がしますね。


サンテPC様の投稿

僕は勘違いをしておりました。

ヴィパッサナーは自我を消失させていくものだと思っていましたが、声聞道の段階は顕在意識上において自我を観察していくことを進めますよね。 これは自我を壊すのでなく完成させていくことになるのですかね。

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観照とは「それまで自分と思っていたものが実は自分ではなかったと気づくこと」です。
それは自己否定、自我放棄になりますから、法(ダルマ)、道(タオ)、神(アラー)、呼び名はなんでもいいですけど、真の実在に対する信頼が確立されていないと精神崩壊することになります。
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ヴィパッサナーの気付きと観照の違いがいまいちピンとこないです。

声聞道では自我を完成させるために必要な、あるいはそれを妨げているものに気付くということでしょうか。 それがガンガジのいう過去観なのかな。

一方、縁覚道を指し示しているのがMペインの解脱の真理でしょうか。
道元の回光返照とはどちらの道の段階を指し示しているのでしょうか。

緑雲水

当山の返答

赤雲水

観照とは「それまで自分と思っていたものが実は自分ではなかったと気づくこと」と定義できるのですが、これをM.ベインは『キリストのヨーガ』でこんな風に表現しています。

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心が心自身を変性させて真理に成ることなどできるはずはなかったのである。
また、心が真理を発見することもできるはずはなかったのである。
(M.ベイン『キリストのヨーガ』P.47)
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ここでいう“心”は、おそらく“mind(マインド)”の訳ですから、“思考”などと読みかえた方が最初はわかりやすいかもしれません。

この段階に至る以前は、思考する自分を持ったまま思考内容を昇華することによって真理を知ることができる、と勘違いしているものなんですが、“観照”“回光”“返照”―その言葉は何でもいいんですけれども、この段階の近くまでくると それが勘違いだったことがわかってくるんです。 「思考は自分のものではなく、どうやら借り物のようだ」あるいは「思考が沈黙したところに本当の自分がいるらしい」という主客逆転の疑団(気づき、わだかまり)が生まれる。 私の場合は、文章修行を続けていくなかで「どうやら自分の中にいるミューズが文章を創造しているらしい」という確信が生じていましたから、その延長線上に主客逆転の疑団がありました。 この観照の疑団は禅語の「面南看北斗」に象徴されています。

私の場合は、まだ最初の疑団が起こったばかりの段階で、今まさにその洞察を深めている状況なのですけれども、思考を沈黙させるためには、まず「面南看北斗」の主客逆転の気づきを起こさなければ不可能のような気がします。

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声聞道では自我を完成させるために必要な、あるいはそれを妨げているものに気付くということでしょうか。
声聞道の段階は顕在意識上において自我を観察していくことを進めますよね。これは自我を壊すのでなく完成させていくことになるのですかね。
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自我の完成というのは二つの側面があるような気がします。

一、自分の中にある認めたくない一面を受け入れること。
二、他人から植えつけられた偏見や道徳に左右されないこと。

普通は、自分の中にある認めたくない一面を受け入れられないために歪んだ自我の殻を作り上げていますから、まずその歪みを作り上げている原因を暴く必要があります。 そうやって、歪みのない正しい自我の殻を作り上げたら、他人から植えつけられた偏見や道徳に左右されない本物の智慧を身につけて、自我を完成させていく。 やがて、本物の智慧が身についたら、今度は正しい自我の殻自体も邪魔になりますから、今度はそれを放棄していくわけです。

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それがガンガジのいう過去観なのかな。
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観(ヴィパッサナ)によって、どんな疑団(気づき、わだかまり)を生むべきなのかは、修行の各段階で違いますが、とりわけ過去観は入口として最適です。 過去観によって“過去のトラウマ”を暴いていくと、、己れの自我のパターン分析ができるようになって、因果のカラクリがみえてきますから、誰もが最初の行として勧めているんです。

で、過去のトラウマになっている出来事が、どうしてそうなったのか、を洞察できるようになると、こういうことがわかってくる。

― 自我に囚われたら好ましくない結果に直面し、自我に囚われなかったときには好ましい結果に直面している ―

そういう因果のカラクリがみえてくと、そのときから人生をやり直すことができるようになるんです。 というのも人生の必勝パターンがわかってくるからなのであります。


サンテPC様の投稿


------------------------------------------------------------------ 過去観によって“過去のトラウマ”を暴いていくと、、己れの自我のパターン分析ができるようになって、因果のカラクリがみえてきますから、誰もが最初の行として勧めているんです。 思考を沈黙させるためには、まず「面南看北斗」の主客逆転の気づきを起こさなければ不可能のような気がします。
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思考を一切放っておいても、自分の心の中のトラウマやコンプレックスなどを暴露させず誤魔化したままなので、いつまでも心は成長せずに自我の完成とは縁のない座禅になってしまうわけですね。

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思考する自分を持ったまま思考内容を昇華することによって真理を知ることができると勘違いしているものなんですが、
「思考は自分のものではなく、どうやら借り物のようだ」あるいは「思考が沈黙したところに本当の自分がいるらしい」という主客逆転の疑団(気づき、わだかまり)が生まれる。
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ここが縁覚道の入り口というわけですね。 それまでは思考を味方につけて自我を暴露していかなくてはなりませんね。

定力タイプの人も観察さえできれば悟りに至るよというのが、鬼和尚さまが説かれている止観法なのでしょうか。

黒雲水

当山の返答

桃雲水

鬼和尚さまの説いているのは、まったくもって“定慧一等”“止観双修”なんです。

でも、サンテPCさんは観察を覚え始めたみたいだから不思議に思ってるようですよね。 「鬼和尚の掲示板」に書き込みしている人たちのなかに観察をやってる人はほとんどいないように思えるでしょう? 「観察って言ってるけど、こいつらポーズだけじゃねえの?」みたいな感じで。

鬼和尚さまは、修行者の自由意志を最大限に尊重する方ですから、「修行者が自分の信じている方法論に限界を感じるまで待つ」ということをやっているようです。 なので、修行者がみずからの意志で観察するようになるまで、ねばり強く待っているところがあります。 たぶん、私だったら「禅定バカはよそ行ってやってくれ」と言うところを、ちゃんと付き合ってますでしょ。 やさしい覚者ですよね。 “観察”は「観たくないものを観る」という行為ですから、できれば“定力無双”で行きたいと思うのが人情ではあります。


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