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【BBS:Q&A 49】抑圧された人格の台頭

仁悟の坐禅相談室『坐禅の智慧で答えます。』 抑圧された人格の台頭

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2014年11月:夢窓様より


夢窓様の投稿

ああ臨済が黄檗に喝入れたのが第五図『牧牛』ですね。 以後、絶対的な自由人、夢の旅人として行脚していくとか、カッコよく言っちゃえますけれど。 『牧牛』なんて「もうこの道を迷わずまっすぐ行けばよい」に尽きますから。 まさにアントニオ猪木のこれですね。

「この道を行けばどうなるものか 危ぶむなかれ 危ぶめば道はなし  踏み出せばその一足が道となり その一足が道となる 迷わず行けよ 行けばわかるさ」

喉頭部に気の流入点ができるというのがそうですね。 確かにここでは集中の行がものを言うようですが。

悟境としては『荘子』ともダブりますね。 『荘子』と『臨済録』も、どちらも自由人、生死解決した無事の人についてですから。 とはいえ、『荘子』と『臨済録』も書かれていることは、『牧牛』『自由人』にとどまらないようですね。

そもそも第五図『牧牛』〜第7図『忘牛存人』でやることに大差はないようというのが感想です。 一緒くたです。 『荘子』なんて明らかに『人牛具忘』まで言ってるでしょう? 厳密に区別する必要はないわけで。 『喉頭部に気の流入点ができる』以降はタオですから。

『牧牛』以降の区別があいまいな様な感じがしますね。 深度は違っても、課題は違っても、 修行として心掛けることができるのはかわりませんから。 なんとなくアバウトな区別はありますね。心境的な。 ただ立ち位置はあいまいに思えます。 越えていないと思っていても、越えていたり。 越えたと思っていても、越えていなかったり。 針子の芯のように未だ定まっていないというか。

ああまた、余計なことを喋ってしまった〜。

【当山解説】
 この夢窓という投稿者は、2014年5月に精神分裂症を発症した修行者で、この投稿の直前に、このような投稿をしてきていた。
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涅槃寂静はサハスラーラまで意識が引きあがってる状態ですね。 それで僕は匂いがするんです。涅槃の。 ここから無種三昧?までもっていくんですけど、一気に畳みかけるには引き上げた意識を下降させないことが大切でして、喉頭部に気の流入点ができるというのがそうですね。
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 どうやら未成熟な精神のまま喉頭部の気の流入口(ヴィシュダ・チャクラ)の活性に成功してしまったらしく、要するに、頭頂まで気が上がってのぼせあがっているのである。 自我を徹見する内的体験を透過したことがなく、すなわち、十牛図の第一段階『尋牛』 にも到達していないのに、当人はすでに第五段階『牧牛』に達しているつもりでいるのだ。 いわゆる“増上慢”である。
 当山は、いちど当人を持ち上げて、それから諭してみることにした。

赤雲水

当山の返答

黒雲水

君は素質が違う。桁外れだ。

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涅槃寂静はサハスラーラまで意識が引きあがってる状態ですね。 それで僕は匂いがするんです。涅槃の。 ここから無種三昧?までもっていくんですけど、一気に畳みかけるには引き上げた意識を下降させないことが大切でして、喉頭部に気の流入点ができるというのがそうですね。
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私は定力の修行はこれからなので、こういうことは、さっぱりワカラナイ。 ですが、十牛図を誤解しているような気がするんですけど、大丈夫でしょうか?

十牛図の本筋は般若の徳を得る方―すなわち智慧の修行にあるので、般若の徳で十牛図の階梯を説明できない修行者は横道にそれていることを意味しています。 たしかに十牛図は解脱の徳を得る方―すなわち禅定の階梯でも説明は可能なんですが、それは般若の徳と足並みをそろえて始めて意味を持つものです。

臨済が黄檗に喝入れたのが何歳なのかは『臨済録』からは読み取れませんけれども、これを頓悟したときだとすると、それは十牛図六『帰牛騎家』。 臨済が法身を顕した瞬間となります。 けれども、もしも般若の徳と解脱の徳が足並みを揃えていなかったら、ここから問題が生じてきます。

飢来喫飯、困来打眠(飢え来たれば飯を喫し、困じ来たれば眠りを打す)

この修行が法身の段階から始まるんですけど、この辺りから、目覚め、夢見、深い眠りのうち、夢の中で意識が目覚めているばかりでなく、深い眠りの状態も完全に意識できるようになってくるそうです。 問題が生じるというのは、このとき目覚めと夢見の状態の区別がつかなくなることで、般若の徳をないがしろにしたまま解脱の徳ばかりを追求して、この段階に入った修行者が陥ります。

ちょうどニーチェがシュタイナーや山岡鉄舟や私と同じ軌道に乗っていたのですが、彼が44歳頃から発狂したのはそのためです。 喉頭部に気の流入点ができるのが40-42歳の大厄の頃のようですから、そこから44-46歳くらいまでに般若の徳を身につけていなければ発狂するというわけであります。

それで、ちょっと心配になったんですけど、大丈夫でしょうか? もしも、私の取り越し苦労だったら勘弁してね。

>まさにアントニオ猪木のこれですね。
>「この道を行けばどうなるものか 危ぶむなかれ 危ぶめば道はなし  踏み出せばその一足が道となり その一足が道となる 迷わず行けよ 行けばわかるさ」 

言ってくれるなあ、アントニオ猪木。 私は高校生のときにプロレス好きの友人から教わった言葉が座右の銘であります。

「そこにリングがあるからだ」

誰の台詞だったかは、忘れちゃったよん。


夢窓様の投稿

般若の徳ですか…大丈夫ですか?
とかそういう風に言われちゃうと困っちゃう。

大周天以降のことははっきりわからないのですけれど、ユングにしても「ユング自伝」を書いたのは晩年のことですし、それなりの智慧というか経験があってのことかもしれませんね。 老成してから、見渡せる景色があるということかと。

高藤聡一郎さんの『錬金術房中の法』は読みました。 学研でも後期の書籍ですよね。 西洋錬金術、アルケミストが賢者の石を造る工程を、東洋の仙道に対応させているくだりは、意味が不明でしたけど、アニマ、アニムス、天地自然との房中とか、そういうことが書かれていて参考になりました。

夢見のことですけど、ロマンチックアニマ以上のアニマが出て来ます。 「荘子」の西太母のようなのありえるような。 自分が相手の女の子になっちゃたりすると、男女の性の区別があいまいに感じたりします。 あくまで僕がその頃に興味があることに対して従って、深層意識が表現されているということでしょうけど。

ヨガナンダのグルのグルの逸話(たしかババジが豪華絢爛な宮殿を目の前に出現させたとか...)にもありましたけど、解脱の障害になるような、心の奥にある未解消の願望も夢を通して叶ってしまうこともあるのかもしれません。 普通は一生を通じて満たしきれないものなのかもしれませんけど、覚醒の炎がすべての願望を焼き尽くすというか。大げさな大道言ですね。

眠りの中での意識を保つことできるようになる?かもしれません。 とにかくに喉頭部の気の流入点ができるというのが、ここで身体的な変化ですよね? チベット密教の夢見の術にも、喉の道管にある点に集中しながらプラーナーヤマをしてから、眠りにつくと夢を鮮明に見ることができ、夢を自在に操れるようになるという...

「目覚めと夢見の状態の区別がつかなくなること」 これは多少心当たりあります。 目が覚める時に鮮明に残った夢だけ日記をつけるようしていて、 従来なら現実→夢見という流れでしょうけど、それが逆転してますね。 夢見→現実に起きるという風に。

確かに夢は深層意識を代弁しているだけですから、表面だけ見て判断してしまうとおかしなことになってしまうでしょうか? その辺はユング自伝の「無意識との対決」にも詳しく書いてあります。 夢は...他人のことであると同時に自分のことであり、世界のことであると同時に自分のことでもある。 このように自他の観察の方法として扱っていますけど、このあたりは声聞〜縁覚で学ぶことを振り返りながら、なんとかやっています。 ちゃんと実践すれば、よい経験になりますし、菩薩道のようなものなのかも。

感覚磨いてないので、はっきりしていませんけど、天眼が開く時節には映画のマトリックスのような世界に移るじゃないかと。 オカルトなことなので、禅には関係ないかもしれませんね…ただ面白いものを見れるな程度のことで。

ニーチェの発狂のことは…うーん。よく解らんのです。 ユング曰く、ニーチェは宙ぶらりんの状態で地に足をつけてない、現実に根ざしてないことが問題だったと言ってます。

桃雲水

当山の返答

青雲水

率直な感想を書きますよ。 私は口が悪いけど悪気はないからね。 ちょっと覚悟しとけ。

まず君には素質がある。 たぶん、白隠禅師と同じ軌道に乗ってるの。 つまり、順調にいけば42歳で大悟できる。 ただね、おっちょこちょいなの。 センスがない。 いつも一槌(いっつい)を欠いてるのさ。

道元の『正法眼蔵』にある有名なフレーズ知ってるかな。 現成公案の巻。

仏道をならふというは、自己をならふなり。
自己をならふというは、自己を忘るるなり。
自己を忘るるというは、万法に証せらるるなり。

一度、疑団(心のわだかまり)を起こすでしょ、最初のうちはそこで証果をもらえちゃうわけ。 いままで君の身に起こってきた神秘体験がそれなの。 だけど君はそこでいつも一槌を欠いてきたから中途半端になってる。 せっかく疑団を起こしたら、それを深めていかなくちゃいけない。

一、一度、疑団を起こす。ここが最初の一瞥。
二、その疑団を深めていくと執着を離れる覚悟が決まる。ここが悟り。
三、そういう覚悟をいくつも積み重ねていって万法から証(さと)りをいただく。それが本当の証果。

「一槌を欠いてきた」というのは、覚悟の決め方が甘っちょろい、という意味なのね。

君の“行”自体は、私より一年から二年分先を走っている。 だから、もう「夢は深層意識を代弁しているだけ」とは言っていられない段階に入っているんだよ。 なので、いますぐ視点を変なきゃいけない。思考を捨てるために。

思考に捕われることが夢の中の自分の行動にどんな悪影響を与えているのか?

その思考の過程を観察するんです。 すると「思考を持ち続けること自体が損なんじゃないか」という疑団が起こる。 そのときがくるまで徹底的に観察するの。 マハルシの、マインドを捨てろ、というのはそういうことなんだよ。

>天眼が開く時節には映画のマトリックスのような世界に移るじゃないかと。
>オカルトなことなので、禅には関係ないかもしれませんね...

すごいじゃん、わかってるよ、君。 それこそが禅なんだ。 「面南看北斗」の答えそのものなんだよ。 その疑団を深めるんです。

精進しろよ、五百年に一人の逸材。 布施仁悟は二千五百年に一人の逸材だけどな。なんつって。


夢窓様の投稿

どうなってんだ〜 ・゚・(ノД`)・゚・。ウェ―ン
どうにもこうにも止まらない。はっ。

ちょっと覚悟しとけ?

覚悟ーーーーーー(○≧∀≦)ノァハハハハ
喝を入れるというのは、喝を返されることもまた当然の当然と覚悟というほどでもない。 厳しいこと言っちゃ、イケー。ふざけてますけど、本気ですから。 布施仁悟さんはそういうのが、意外とまた好きなんでしょう?好きですねぇ…

神秘体験ーーーーーーー。それ騎牛帰家(小悟)まで。 幾つ体験しても石ころ。 宮本武蔵『バカボンド』良いですよ。漫画だってあなどれない。 大道廃れて、仁義あり〜。

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「いままで君の身に起こってきた神秘体験がそれなの」
「君の“行”自体は、私より一年から二年分先を走っている」
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いつもそんなことばかり言ってる!
一番こだわってるの誰?

『思考に捕われることが夢の中の自分の行動にどんな悪影響を与えているのか?』

これは良いアドヴァイスです。 師よ、モウナに徹してください。 外道を叩こうとすることは正道ではない。 損、損。 自分で自分の首を絞めることはない。 障害の種蒔いていくことない。 結果が良ければと、悪い手段をもちいて事を為せば、結果もまた悪いものになります。

正義という仮面には、善悪、優劣、是非、美醜という観念が残っています。 他者へ行う行為の報い、それを発した者へと帰ってきます。 故に、悪は悪に引き寄せられ、お互いに勧善懲悪し合うのです。 しかしその様な者達はある意味ですでにバチ当たってるのです。 宗教とかの巣で正義振りかざしてると、下手するとバチ当たるというか、バチ当たってますよ。

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その思考の過程を観察するんだ。すると「思考を持ち続けること自体が損なんじゃないか」という疑団が起こる。
もう「夢は深層意識を代弁しているだけ」とは言っていられない段階に入っているんだよ。
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その疑団、良いアドバイスです。でも未熟とは言え通過済みです。

喉から上、どちらが正しい、間違ってるという分別に拘ってると息詰まりです。 そして鏡として見て行く姿勢をもたないと、無意識との対決になりません。 常識的に考えて、自分が正しくて、相手が間違っているとしても、そういう問題ではない。 縁覚道ですから。道が無意識を表現する鏡として機能するんです。

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『だから、いますぐ視点を変えろ。思考を捨てるために』
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必要なのは視点どころか、まずは固定化した自我プログラムを直すことですが、しかし、「自我とは何ぞや?」。 一切が内なる師であるというなら、という矛盾もあるのです。 しかし良師はそこに可能性を見て、その可能性に掛けて行くのでは。 叩きあいなどではない。そんなものが、一喝ではない。

「いか越」でも、ちょろっと言及されてます。 思考と感情と意志のセンターを整える、この段階では修行、環境、生活等でよからぬ影響を与えるものから極力距離を保つこと。

ああオウマ―、オウマ―、オウマ―であれ、悪くない。 オウマ―だからみんな悪人とかおかしい。 看守人にも善人、悪人いる。 囚人にだって善人や悪人がいる。 死刑囚はみんな悪か? グリーンマイル〜、ああスティーブンキングさま。 規制する方、また上手く成りすました荒らしですなぁ。 あれが甲で、あれが乙だと叩きあってる姿など見れたもんじゃない。 まったく学級崩壊してしまうのでないですか?

一端の修行者の身なら、そんなところに関わっていくなです。 排他姿勢などは菩薩行どころではない。 2ちゃん、インターネット、鬼女板と見れたもんじゃないが、仮想現実中の娑婆のほうが現実より心の乱れ現われてる。

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「一槌を欠いてきた」というのは、覚悟の決め方が甘っちょろい。
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それは本当は自分自身に言い聞かせているのですか? 己が一番欲してる言葉ですか?

良い言葉〜。 鬼和尚の牛十図を思い出す。 見牛から忘牛存人までは、小悟。 体験がどうとか、何年先にどうのこうのということがあると言ってるということは牛忘れられないということ。 体験、体験と、未練たらたら。

また足跡での教訓はなんですか? 牛の足跡をしっかり見つける。経典、公案。 でも字面では牛見つけられない。 参考書を手に入れて、足跡がわかったら、参考書を叩き捨てる。 すがすがしい、自由。 これは良い教訓。後々にも生かせる。 いつまでも足跡虫眼鏡で見ていてもしょうがない。

碧眼録だの無門関だの、牛十図だの、そんな下らんものは、もういらない。 やれ公案だの印可だの、そんなものは役に立たん、とはこのことか、コレコレ。 認可もいらんときたなコレ。 臨済、黄檗のもと辞する時、認可証明? そんなもの焼いてしまえと言ったとか。

(○≧∀≦)ノァハハハハ  笑っとくか。

聖典に囚われること大きな罠。 いつまでも知識を増やすことへの執着落とせない。 いつまでも教えるということへの執着に気づけない。 それが欲だと観ようとしない。

誰も彼もが教えようと欲してる。 宗教家に限らない。 私は知ってるんだ、私は賢いんだと言わんばかり。 でも真実、ただ言葉でよって、他人をコントロールしたいという願望なのかもしれない。 つ・ま・り、教師なんてある意味支配欲の強い人間がなろうとする、家長のごとく。 教えたい、救いたいなんて欲が捨て去られた先に待ってる。

指導者、宗教者これになかなか気づけない。 思考と信仰に自己同着し過ぎてる。 物書きなんて因果な職業。 たくさん本読まなければいけない。 仕方ない。そうじゃない物書きもいるかもしれない、よく知らない。 完璧な職業なんてない。

頭の中知識でいっぱい。 さらに知識積み上げて行く。 人生は引き算なのに…ああ人間の性かなぁ。 しかし死ぬときにその知識を持っていけると言うのかという大疑団。 知識もまた、金や名声と同程度に無常なものに過ぎない。

布施仁悟は二千五百年に一人の逸材。すばらしい。

見るものことごとく才能の塊。 誰も彼も、虫も草木も才能の塊。

面南看北斗?

プライドに気をつけないと教室崩壊。 マトリックス崩壊。 愚かさと謙虚さと聞く耳、愚者の賢人への敬意まで失うことでないとの教訓。

ラーマクリシュナの言葉。 低い方の自我すでに捨て去られてる、希薄な自我が残ってる。 これ覚者のエゴ。 つまり集合的ものに生かされ、生かす。 個人的な思惑から離れていくかのよう。

師と弟子に違いあるのか、ないのか。 教える者と教えられるもの、師にとっては違いがあるのか? 時に弟子であり、師であり、友達、同有。

緑雲水

当山の返答

赤雲水

よく読んでみればわかると思うけど、喝を入れようとしてるんじゃないんだよ。 抑下の托上(よくげのたくじょう)、ちょっと難しかったかな。

で、何を言っていたのかというと、君は『いか超』風にいうと「思考と感情と意志」の人格分裂が起こってる。 夢に変化があらわれてるのもそのためだよね。 これは私にはまだ起こってないことなの。 だから「君の“行”自体は、私より一年から二年分先を走っている」と言っているの。 事実なんだよ。 ただ、こだわってるだけだったら、普通は嫉妬するだけだよね。 定力の修行は私の方が進んでいないということなんだから。

それから「思考と感情と意志」の人格分裂が起こっているのに、コントロールが効いていないと、ただの精神分裂症患者になると『いか超』にも書いてあるよね。 ところが、ほら、こうしてプライドにカチンとくると暴走しちゃうでしょ? それが文章の脈絡のなさに、はっきり出てるわけ。 「これが精神分裂症患者の書いた文章です」って渡されたら、誰だって納得しちゃうぜ、これ。 こういう文章を書くようになったのは何時からか思い出してみなよ。 人格分裂が起こったときからじゃないの?

つまり、喉に穴が開いたときから。

マトリックスを離れる覚悟の決まってないやつが喉の蓮華を開けると精神分裂症の症状が出る。 シュタイナーがしつこく“忍耐”を強調するのはそのためなんだ。 私だって37歳からは“只管打坐”と“望景内”以外の行は一切やっていない。 ようやく覚悟が決まったのは、40歳の先月10月8日「面南看北斗」に気づいたときだ。 だから「おい、君、そんな覚悟で本当に大丈夫か?」という意味を込めて、こういう考え方もあるぞと書いてみた。 それだけのことなの。 たしかに私の書き方も悪かったよね、これは私が反省しなくちゃならない。

でも「面南看北斗」が私のプライドから出た言葉だと思われたとしたら、悲しいな。 内的体験から生まれた言葉が果たしてプライドの産物なのだろうか?

精進してるみたいだから、君も当然ワカると思って投げかけたのに…。 なんか、逆に君のプライドを傷つけちゃったみたいだよね、悪かったよ。

白隠禅師って、32-33歳くらいで喉の蓮華を開いてるんだよね。 君もそうなんじゃないかと思ってさ。 だったら、あと一歩、進んでもらって、逆に私が教えを受けにゃならん、と思ったんだけど。 どうやら勘違いだったみたいだ。


夢窓様の投稿

ちょっと気が上にあがり過ぎてるのも関係してるでしょうね、でも普通に会話はできます。 ふざけてるけど本気だ、と前置きしておきましたけれど、頭がおかしいと思われました。

カチンとくる?

カチンと来ないような人間だとでもお思いですか? いつでも聖人君主のように振る舞う人間だとでも? カチンと来ますね。カンカンですよー。

どうも聞いていますと、布施仁悟にはまだ起こってないことをさもわかったように語ってるわけですか?

「面南看北斗」がプライドから出た言葉だとは思っていません。 「よくそこまで修行した。増上慢に気をつけよ」 。 他人事ではありませんし、大切なことですよね。 でもそれはあなたの内的体験から生まれたなのでしたら、やはり何よりあなたが必要としてる教訓なのだと思います。 ニーチェのことにしてもそうです。 僕はあなたからニーチェのことを聞かされてとても勉強になりました。 でも彼の例に自分を当てはめようとしているわけではありません。

布施仁悟さんがニーチェにこだわる理由は、あなたの中にどこか引っかかるところがあってでしょう? 星周りだということもそうです。 僕は他人の物語を自分に当てはめたりしませんから。

『増上慢に気をつけよ』 自分よりも何歩も遥か先へ行っているような先輩すらまでも、色眼鏡に当てはめて般若の徳が足りないなどと非難の対象にして、耳を塞いでしまうことを持てないこと、増上慢だと心得ています。

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「マトリックスを離れる覚悟の決まってないやつが喉の蓮華を開ける」
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正確にいうとアストラル(夢)のことではないかと思うのですけれど。 どうでしょうか? アストラル低次〜メンタルに留まったままでは先へ進めないはずです。

ご存知のとおり、僕は喉の蓮華をこじ開けようとなどという意図をもってやって来ておりません。 仙道やヨガは振りかけ程度にしかやっておりません。 集中の行にしても、機に合わせてやり始めたことです。 何カ月もかけるようなことではありませんでした。 結果として喉の蓮華が開いたなという程度の認識があって程度です。

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「白隠禅師って、32歳で“ぷっつん”完了して、アナハタ開いてるんだよね」
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もしアナハタチャクラということでしたら、アストラル-メンタルの入り口で、魔境が始まるところなのではないでしょうか。魔境という表現はあまり好みませんけれど。

騎牛帰家ですね。 今思えば、家宅の子…一種の臨死体験の一種ですけど。 僕の場合はそんな感じがしましたね。 騎牛帰家というのがよく解らない、とにかく体験と言えるような体験が残っていることは確かです。 布施仁悟さんが僕を評して体験に囚われていると感じたのもそうでしょう。

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「人格分裂が起こったときからじゃないの?」
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はっきり自覚しだす時期かもしれません。 それで何らかの方法で自我統合を果たして行くわけですね。 でも脱線する時はどこまでも脱線するものかもしれませんね。 しかも本人は自覚が持てないという。自分はそんなはずはないという慢心。 逆に反転して、他者が魔境に落ちているように見えたりして。 僕も他人事ではないですから。

でもどんな道を行っていようとも、それなりの理由があるものかと。 だから過剰な干渉は相手の成長する経験を奪うことになるのかもしれない。 やっぱり物事には時節があるというか。 変な憑きものが頭頂部(アストラル体)についてしまっていたとしても、それとともに霊的な成長をともにして、離れるときが来るなんていうハイヤーセルフの意図かもしれない。

スピリチュアルな類の例を上げてみました。 適当に受け流してください。 ヨガとか霊的なことは経験豊富でないのであやふやです。

マトリックスというのはもう少し後のことではないかと思ってるんですけど... コーザルですよ?ですからヴィシュッダ以降のはずです。間違ってるのかな。 あくまでチャクラも方便のようなものに過ぎないでしょう。 あまりチャクラだとか、神通力だということ考えてこだわって修行を進めないほうがよいですね。

それから一つ確認しておきたいのですけれど、確か以前の記事で「ボクのアルカディア(学び舎)は夢の中にあった」というような発言をされていましたけれど、これはどういうことですか? 推測するに夢の世界(アストラル)のことはもうひと段落つけたという風に受け取っているのですけど誤解でしょうか? それともそこで未だに競争意識に基づいて堂々巡りになっている状態ですか?

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「これが精神分裂症患者の書いた文章です」
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そんなあなたが軽く見るところにハートの錬金術があったりして... ハートは愉快さとか、可笑しさとか、同情心とかそういうお茶目なところがあって。 一見狂人に見える浮浪者が大ハートだったりするのではないでしょうか? はい。皆さん一緒に〜、おにぎり、おにぎり、恋するフォーチュンクッキー。

ハートの開き自体は人それぞれでしょうね。 日日是好日で、安定しているわけではないです。

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「だったら、あと一歩、進んでもらって、私が教えを受けにゃならん、と思ったんだけど。どうやら勘違いだったみたいだ」
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それが人に教えを請う態度ですか?こっちこそ嫌です。ふん。 どの道、僕が案内できるのは航海を越えた彼岸までです。 仙道でいう虚無。 イメージは邪魔にしかならないでしょうから捨ててください。

ああニーチェの善悪の彼岸ですね。 そこまで分裂統合が進んだことになります。 もし布施仁悟さんが小乗をすでに乗り捨てているというなら、そこまで来ているはず。 手法、手段、地図を捨てる必要があります。白紙の未来ですよ? 未知(道)。 それが確信です。

そこから先はグルに付きっきりで手取り足とり教わるなんてやり方はなくなるはずです。 そんな気は起きないでしょうね。

僕は新米で、あまり霊的な能力があるわけではないので急所を指摘いけるかわかりません。 あくまで自分がやって来たことを振り返りながら、ポイントを絞って伝えることができるだけ。 グルは沢山います。 鬼和尚でも、ほかにも優れた方達がいます。 僕を信用できないなら、それでいいです。 そう直感してるなら。それに従って、他の方にあたればいいだけです。 心に適うグルの言葉に従っていけば。

外のグルは必要ない?必要です。 必要ないと言える今が栄光の彼方です。 決断するのはあなたです。

僕が壁に想えるなら、どうぞ越えて行ってください。

「天才ですから」 (≧▽≦)  ハーハッハー

「桜木君、バスケットは好きですか?」
「大好きです。今度は嘘じゃないっす。」
「オヤジの栄光時代はいつだよ・・・ 全日本のときか? 」
「オレは今なんだよ!!」

黒雲水

当山の返答

桃雲水

ごめんね。

君の文章、天才的すぎて何言ってるのかワカンナイ。 おかげで、返す言葉が見つからないんだ。

ほんと、すまない。


当山雑感

この夢窓と名乗る修行者は、このとき32歳だった。 それは31-33歳の大厄の時節にあたる。

厄年というのは前厄―本厄―後厄の三年間でその全過程を完了するもので、その真ん中にある32歳の本厄は最も大切な時期なのに、すでに増上慢に陥っていることから、もはや“取り返しのつかない状況”としか言いようがないだろう。

また、コミュニケーション能力の著しく欠落した文章を書いていることから、人格を抑圧したまま喉頭部の蓮華の活性に成功してしまっていることも読み取れる。 つまり、この修行者は、自我を観察する用意が微塵もなく、抑圧して分裂した人格を統合する方法を学ぼうともしてこなかったのだ。 えてして、そういう修行者が、このような精神分裂症となる。

喉頭部の蓮華の活性によって「思考と感情と意志」の人格分裂が起こると、いよいよ“本来の面目”が現れてくるのだけれど、そのとき抑圧して分裂した人格の統合に失敗していると、逆に“抑圧していた人格”の方が表面に台頭してきてしまう。 この修行者が、ちょっとしたきっかけで二重人格的な文章を書いてしまうのは、そのせいないのだ。 こうなってしまうと脳内のホルモンが異常なバランスで分泌されるようになるため、精神科に行って投薬治療を受けなければ回復の見込みはない。

この修行者がこうしたコミュニケーション障害の症状を抑えて、普通の人と同じように文章を書けるようになったのは、精神科でドーパミンの分泌を抑える薬を処方された後からだった。

青雲水
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