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【BBS:Q&A 23】素質ある禅者の落とし穴

仁悟の坐禅相談室『坐禅の智慧で答えます。』 素質ある禅者の落とし穴

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2011年12月:夢窓様より


夢窓様の投稿

軟酥の法は禅者なら誰もが一度は耳にしたことがあり、試みたことがあるのではないかというほど、知られている行法ですね。
私も以前に何度か試みて、さっぱり手ごたえがないので、封印した記憶があります。 白隠さんは軟酥の法を初心者向けに教えたという話になっていますが、そもそも、初心者には観想するだけのイメージ力も集中力もないです。 白隠さんは、正受老人のもとで見性した後に、偏差(禅病)でバランスを崩していますが、後に軟酥の法を伝授されて、偏差を克服されています。 しかし、どんな修行をしていたのかの記録がありませんよね。

前置きはこれくらいにして、軟酥の法に関連していると思うのですが、お聞きしたいことがあります。

それは、頭に気が昇ってしまって、困っているということです。 もっと正確に言うと、「すぐに頭に来てしまう」ということです。 私は結束が解けた感覚はありませんが、やはり坐禅をしていると、 自然に気道(任脈と督脈)が開けて、気が昇りやすくなっているように感じます。 また気が以前より強くなっていることもあると思います。

それが原因かははっきりしませんが、感情的になりやすくなっているのは確かのようです。 表現としては「腹が立つ」でもなく、「むかつく(胸)」でもなく、「頭に来てしまう」 が適切なようです。

坐禅を組めば、喉から下へ気が流れていくのですが、 日常では頭に気が滞りやすく、この状態(怒りにとらわれやすい状態)もある種の偏差かと思うのですけど、 何か助言をいただけないでしょうか?

矢印マーク 関連記事:『白隠禅師・軟酥の真実』

赤雲水

当山の返答

黒雲水

白隠禅師の20代の見性と42歳の大悟の関係については、私も真相を知りたいところです。 見性しておきながら気のバランスを崩すというのは信じられませんし、 白隠禅師は42歳で大悟してから布教活動を本格始動したようですから、 見性したところで未だホンモノではないと考えていたはずで、
「白隠禅師と正受老人の見性とは一体何ぞや?」
というのが今もってわだかまっている疑問なんですよね。 そのうち見性・大悟してみれば私もわかる時期がくるのかもしれません。

そんな体たらくですので、「何か助言をいただけないでしょうか?」 と言われると少なからず気後れしてしまうのですが、 自分の未熟な悟境を棚上げして一丁やってみましょう。

>頭に気が昇ってしまって、困っているということです。

という問題と、この問題。

>「すぐに頭に来てしまう」ということです。

これは別々に区別して考えなくてはいけません。

まず「頭に気が昇る」というのは当たりまえのことで、 脊髄に貯えられている気は気道を上から下に流れるものですから、 頭に気が昇らない人というのは誰一人としていないわけです。 それで頭寒足熱のために何とかして下げたいところなのですが、 それは第二の結節を解かなければ、さらには、解いたとしても、 不随意筋を完全に解消しない限りは意識的に下げることは困難です。 ですから今ではだいぶ解消できるようになってきましたが、 私も今だに下がりきらない気が頭に滞っている状況でして、 昨年の二月頃までは軽い頭痛持ちの状態でもありました。 そんな状況にあっても安全に行を進めるためには、結節、 特に第二の結節が解けていたほうが望ましいわけです。

思考は修行者自身の手が完全に掌握する一点に集中させられる。
このことによってひとつの暫定的な中心点がエーテル体の流れのために 作られる。この中心点は最初はまだ心臓部にではなく頭部にある。 見霊者はこの部分にエーテル体の流れの出発点をみるであろう。
−はじめにこのような中心点を作る行法だけに完全な成功が期待できる。
(R・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』P.170-171)


このシュタイナーの言っている中心点というのは、 今回の記事で扱ったサハスララのことです。 それで「この中心点を作る行法だけに完全な成功が期待できる」 というのはこういう意味であります。

アジナに精神集中すると、イダ、ピンガラ、スシュムナの三つの 偉大な力に触れて、心は大きな変化を経験し、また浄化されます。
心が浄化されると、ほかのチャクラに精神集中を始めても、 問題が生じません。
というのは、アジナ以外の各チャクラは、 それぞれ異なったカルマを温存していて、特にムーラダーラの中 にはカルマのすべてが含まれているといわれるほどです。
(本山博『密教ヨーガ』P.161)


とはいえ、この記述の元ネタのサッチァナンダというヨーガ行者の解説を、 著者の本山博氏が誤読しているので複雑になってしまいますが、 サッチァナンダは要するに「アジナ=第二の結節を解いてさえいれば、 修行中にチャクラを不用意に活性化してしまっても試練を乗り越えられる」 と言っているわけで、これはシュタイナーの意見と一致するのであります。

それでまあ、私の経験から言っても第二の結節を解く頃には、 完全ではないにしても、「すぐに頭に来てしまう」という状況から 心理的に身を引く哲学を心得ているもので、そういうことからも、 シュタイナーやサッチァナンダの説は間違いないと思うわけです。

また、チャクラを不用意に活性化するとカルマが吹き出すなんて云いますが、 それは坐禅修行をしている限り避けられないことに違いありません。

あらゆる状況は正しい反応を要求してくる挑戦なのだ。
反応が正しいとき、挑戦はかなえられ問題は消える。
反応を誤ったとき、挑戦はかなわず問題は未解決のまま残る。
あなたの未解決の問題があなたのカルマを構成しているのだ。
それらを正しく解決し、自由になりなさい。
(『アイ・アム・ザット』P.301「60 想像ではなく現実を生きなさい」)


修行者は普通の人より試練の内容が濃密になるので乗り越えれば天国。 乗り越えられなければ地獄という感情のジェットコースターのような日々。 それが坐禅修行ということになります。

ですから本山博氏の言うような、 「アジナに精神集中すると心は大きな変化を経験しまた浄化されます」 なんて夢のような話はなく、やはり心随観を修める必要があるんですね。

それで夢窓さんはすでに正師に出会ってるんです。若い頃の神秘体験の時に。
「怒りや不安を鎮める」にはその内なる正師を全面的に信頼するのがコツです。 「相手が悪いのではなく内なる師が自分の成長のためにそそのかしている」 と考えればいいんです。これはユング式の声聞道で、もう一度、 ユング自伝の12歳の神秘体験を読み返してみればよくわかると思います。

汝の内なる師の導きを信頼し頭を垂れ、而して、
隣人の内なる師の導きも信頼し耳を傾けよ。
(布施仁悟)

偶然ながら私もこのユング式声聞道でやってきました。 だから私にとっては人生そのものが師であり公案なんです。

それから、夢窓さんはすでに「尋牛」の段階に入っていますから次は「見跡」。 牛の足跡を見つけるのが課題なんですけど、まあ、牛というのは心のことです。 牛の足跡というのは、牛の三つの特徴に基づいて見つけていきます。

牛はいかに彷徨うのか?
牛はいかに欺くのか?
牛をいかに鎮めればよいのか?

「尋牛」の段階に入る行は宇宙の法則を学ぶことでしたから、誰でも、 宇宙の番人よろしく凡人にも宇宙の法則を学ぶことを強制する愚を犯しがちです。 しかし、それは“菩薩きどり”ですから自ら戒めなくてはなりません。 凡人は時節の到来するまで凡人でなければいけない運命にありますから、 どんな不幸に見舞われようと本人が気づくまで放っておくのが思いやり。 「見跡」の段階に入らんとする禅者はただ牛を追っかけてればいいんです。

夢窓さんは素質のある禅者ですから、これ以上の解説はヤボですね。

矢印マーク 関連記事:『恩寵は刹那的な体験か』

矢印マーク 『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』

坐禅修行のプロセスを正確に記述してある唯一の本。
(2011年1月現在・ボク調べ)
こういう本が市場に出回っている現在、
秘密にしておくことなんてもはや何もないはずである。
そろそろまともな禅書を誰かが出版しても
いいのではないだろうか?

矢印マーク 『 密教ヨーガ―タントラヨーガの本質と秘法』

本山博先生の著作は大いに参考になる。
ただし、凡人にとっては『正法眼蔵』のように
超然とした部分もあることは確か。

矢印マーク 『アイ・アム・ザット 私は在る』

結局このニサルガ・ヨーガに行き着いたのは驚きだ。
ニサルガダッタ・マハラジはあまりにクール。
そのため当初は冷徹な印象を受けたものである。
でも実はそれが本当の慈悲であり愛だった。
愛は神であり、神は愛である。
ゆえに愛はパラドックスである。


夢窓様の返答

チャクラは下から順に開いていくほうが安全、と教えている方もいますね。

布施仁悟さんは、第一の結節→第二の結節(アジナチャクラ)の順に結束を解かれて、 何か問題が生じたという心当たりありますか?

>あらゆる状況は正しい反応を要求してくる挑戦なのだ。
>反応が正しいとき、挑戦はかなえられ問題は消える。
>反応を誤ったとき、挑戦はかなわず問題は未解決のまま残る。
>あなたの未解決の問題があなたのカルマを構成しているのだ。
>それらを正しく解決し、自由になりなさい。

>それで夢窓さんはすでに正師に出会ってるんです。若い頃の神秘体験の時に。

内なる師は「そこが天国だろうが地獄だろうが、最善を尽くせ」と沈黙のままで語っているようです。 私は臆病なのでそれができませんでしたし、坐禅を始めた今でもまだまだ難しいと立ち止まってしまいます。 それ故に、素質のある禅者と言われると、もし私に素質があるのだとしたら、 あの人もこの人も、どれだけ素質があるのだろうか、逆境の中をしっかりと生きてきたのだからという想いがします。

>普通の人より挑戦の内容が過激になるので乗り越えれば天国。
>乗り越えられなければ地獄というジェットコースターのような日々。
>それが坐禅修行ということになります。

以前に禅宗の坊主は、ただ座っているだけで心随観が伴っていないというような話がありました。 坐禅を始めれば過去の感情を伴う記憶、トラウマが頻繁に甦ってくるようになり、 心随観せずにはいられないのではないかと思いました。 ですから、何かの理由で坐禅を止めてしまわない限り、悟境は進むのではないかと屁理屈を考えてみたのですが。

>「怒りや不安を鎮める」にはその内なる正師を全面的に信頼するのがコツです。
>汝の内なる師の導きを信頼し頭を垂れ、而して、隣人の内なる師の導きも信頼し耳を傾けよ。(布施仁悟)

声聞道は...静かに内なる直感、ひらめきに耳を傾けて待ち、それを信頼して身を任せろということでしょうか。
ごめんなさい、まだ、はっきりとわかっていない様です。

ユング自伝には『義務間の葛藤』という言葉が出てきます。

人は内なる衝動と集団的義務・要求の間で揺れ動きます。 この内なる衝動が神の導き、意志の現れであり、信頼して身を任せなければならない。 たとえそれが道徳に反し、戒律を破ることになっても。 それは罪や罰(カルマ)を背負うことを怖れてはいけない、怖れずに行動すること、 それでも貫かなければならない意志があると言っているのかなと。

すべての宗教が戒律を説きます。良い行いをしなさいと言います。

故・立川談志は『人間の業の肯定』を説きました。 もちろん道徳を守れば社会的な利益が生まれます。 それは有益なことですが、時として社会的道徳、価値観、 善・悪にとらわれない自由が求められることがあるとおっしゃっているように思えます。

人間は完璧ではなく心に光と闇を併せ持っています。 誰も彼もが善人であり、悪人なんだと思います。 社会は絆を必要に求めます。しかし私は孤独もまた求めています。 というよりは、社会の求めているような模範的な生き方が出来ません。 私もつながりがほしいと思いますが、それは社会が求めているような絆では ないのかもしれません。または単に私が未熟で心を開いていないだけかもしれません。

シュタイナーの「いかに〜越えるのか」を読みました。

ユングは善悪の基準を超えて、内なる衝動に従うように説きました。
シュタイナーは社会的な義務を怠らないことを説きました。
進んで善をしなければ、道を誤り、衝動に従わなければ道を外れます。 衝動に従おうとした時、義務を完璧に全うすることは不可能です。

私が以前にあった神秘体験、尋牛の体験というのは、 ユングの12歳の時の体験とは心境が少し違うように思います。 私は単純に大いなる意志の存在を認めざる負えないほど追いつめられ、私の自我は人生の前に屈服しました。 自分の意志はあって、ないものだと。
しかしユングの時は罪を犯す、犯さないという視点が認められています。ユングは自分の衝動に従います。
私は自分の意志はあって、ないものだと、人生の前に屈服したにもかかわらず、 実際には意志を捨てるなんてことは不可能であり、今は夢(願望)を持ち、夢を追うことを求められています。
私はユングのようにヴィジョン(標識)を観たりはしません。 つまりこれは内なる衝動・期待に従わなければならないということでしょうか。

長くなってしまいましたが、要点は伝わるとよいです。

青雲水

当山の返答

緑雲水

私は夢窓さんと違って素質なんてものがからきしなかったので、 若い頃に神秘体験をし損ねたガチガチの肉体を持つ凡人出身なんです。 だから夢窓さんは生来の素質のある秀才タイプだと思っています。

それで夢窓さんのような秀才タイプの人は生来肉体ができているので、
「チャクラを下から順に開いていくほうが安全」
という方法論が通じるんですけど、肉体がガタガタの私たち凡人は、 むしろ、第一の結節→第二の結節の順に結束を解いてからチャクラの 活性化をしないと、霊障に見舞われたり、新興宗教の教祖への道を ぶっちぎりで突き進んでしまうのであります。そんな凡人が、 『真実の呼吸法』や『坐禅の黄金時間』を発見した弊害としては、 凡人の肉体からの変性に伴う身体のひずみの出現でしょうか。 一部は変性して体軸に沿っているのに一部は不随意筋に阻まれてガチガチ。 そんな状況になるので身体のねじれた部分が痛いのなんので大変なんです。 だから3歳くらいからストレッチをしておくことは大切なんだと思います。

さて、前回のジャブのような思わせぶりのコメントでは伝わらないので、 ここからは失礼を承知で思い切ってストレートを浴びせようと思うのです。
では、第2ラウンドのゴングを鳴らしましょう。カーン!

素質のあるはずの夢窓さんの悟境に、後から追いかけた私の悟境が 追いついてしまった原因をはっきり申し上げてしまいますと、 夢窓さんは探すべきところを間違っているのであります。 そればかりか非常に傲慢なことを仕出かしているのであります。

「社会はどうあるべきか。人間はどう生きるべきか。道徳とは何か。 神仏はわたしに何を望んでいるのか。宇宙の法則はどうなっているのか」

「見跡」段階に入らんとする夢窓さんにとっては、 そんなことは、一切合財、どうでもいいことなのであります。 なぜならそんな高尚な哲学遊びなど坐禅ではないからです。

本当の瞑想とは自我を暴露する過程なのである。
自我暴露でない瞑想は瞑想ではない。


(M・ベイン『キリストのヨーガ』P.44「第二章キリストのヨーガを求めて」)


たしかに坐禅を始めれば、
>過去の感情を伴う記憶、トラウマが頻繁に甦ってくるようになり
ますが、そこで自我を暴露しないかぎり心随観にはならないんです。
そして自我を暴露するには心の三つの性質を知り尽くさなければいけません。

心はいかに彷徨うのか?
心はいかに欺くのか?
心はいかに鎮めればよいのか?

私たち禅者のすることなんて、これしかないんです。 だって、禅の悟り・解脱は身心脱落の後にやってくるんじゃないですか? 高尚な哲学なんてものは心脱落だって実現してくれやしません。

真理について考えることをやめることによってのみ、 私は真理を経験することができるのだった。
このことが分かった時、心は静かになった。
それは強いられた静けさではなく、解脱から来る静けさであった。
(M・ベイン『キリストのヨーガ』P.47「第二章キリストのヨーガを求めて」)


つまり、心=自我の動きを見極めるのが禅者の課題なんです。

「日々是好日」「行雲流水」と泰然とポーズを決めたって、 自我の動きから目を背けていたら何の価値もないんです。

またやっかいな問題は、自我は巧妙な詐欺師でもあることであります。
そのでっちあげてくることが高尚で神聖で敬虔にみえるほど、 コロリと欺かれてしまうものなんです。その自我を野放しにていると、 ついには傲慢にも「オレが悟りを見せてやるよ」とまで言い出してくるんです。

そう。夢窓さん、あなた自我の口実に引っかかってるんですよ。
クロスカウンター炸裂!!!ドッどーん!(夢窓さん、リングに沈む)

…ごめんなさい。おイタがすぎたかも。

心が心自身を変性させて真理に成ることなど、 できるはずはなかったのである。 また、心が真理を発見することもできるはずはなかったのである。
真理を開示するには、心は静かでなければならない。 そうして初めて時間に属さない静けさ、強いられない、 あるいは強制されない静けさ、より来るところの静けさ があったのである。 心が饒舌(おしゃべり)をやめた時、その静けさの中に 「実在するもの」「知られざるもの」が現前したのであった。
これが創造性(creativeness)であったのだ。
わたしはもはや、結果を求める欲望はなくなった。 すべての行動はやみ、すべての思考はやんだ。 これが最高の形態の思考だったのだ。
なぜなら、今やそこには創造性があったからである。
(M・ベイン『キリストのヨーガ』P.47-48「第二章キリストのヨーガを求めて」)


心がみずから饒舌(おしゃべり)をやめるようになるのは、 その三つの性癖を見抜かれたときだけです。 だから心の三つの性質を知って自我を暴露することが、 心随観であり、坐禅の本質なのであります。

ですから、内なる師は…
>「そこが天国だろうが地獄だろうが、最善を尽くせ」
>と沈黙のままで語っている
んですけど、そこで自我を暴露できなければ心は静かになりませんし、

声聞道は…
>静かに内なる直感、ひらめきに耳を傾けて待ち、
>それを信頼して身を任せろということ
なんですけど、そのときにも自我を暴露していなければ意味ないんです。

でも私たち人間はアホなので「心随観だ!自我暴露するぞ!」といきまいても、 日常の出来事に直面してショックを受けなければその気になりませんから、 内なる師は何度でも奈落の底に突き落とすような出来事に直面させるんです。 そのとき、自我を暴露できれば次の課題がやってきますし、 自我を暴露できなければより過激な教育的指導が待っています。 その指導の意味に気づけば気づくほどカルマが解消されて悟境は進歩しますから、 カルマというのは一般に考えられているような“罰”とはちょっと違うんです。

で、心が静かになってくると世の中や他人のアラ探しがなくなってくるんですが、 そうすると周囲の環境が特に願わなくても適切な場所に収まるようになります。
「勝手にしやがれと想ってると思い通りに動いてくれる」という感じかな?
「なるほど。あらゆることが、どういうわけか正解だ」と納得すること請合です。

当然、自分が何をすべきかを考えずとも知らずに適切な行動をしているので、
>ユングは善悪の基準を超えて、内なる衝動に従うように説きました。
というわけですし、内なる師の指導は今置かれている環境で与えられますから、
>シュタイナーは社会的な義務を怠らないことを説きました。
ということになります。別に出家遁世するまでもないというわけです。

それで忘れてはならないのは、私たち禅者は、修行を完成させて、 大器となって、初めて世の中に貢献できるということであります。

わたしはさっそく仕事にとりかかりたかった。
なぜなら、以前は確信などなかったのに、 今のわたしには(人々に)与えるべきあるものが あったからである。この確信のなさのために、 わたしは自分がペテン師のような感じがしたものである。 それは自分が本当には知っていないことを 自分自身の奥で感じていたからである。
しかし、今度という今度こそ、わたしは偽物を知ったのである。 この同じ偽物を以前のわたしは本物だと思いこんでいたのだ。
しかし、今は違う。
わたしはできるだけ早く仕事にとりかかりたかった。
(M・ベイン『キリストのヨーガ』P.330「第十八章文明世界への帰還」)


大器か、ペテン師か、それが問題だ!

だから、ワクワクしない事をしているなら、“ぷっつん”してやめちゃうことです。
それでもし考えるだけで武者ぶるいがしてくるものがあればすぐに始めることです。

というのは、どうせ才能の限界にぶち当たるに決まってるんですけど、その時、 その限界を突破するには修行を完成しなければならないことを痛感するんです。 それが自我暴露へ突き進む決意の原動力になるのであります。 ワクワクしない事を続けてたら、その原動力が爆発しないのであります。 特に29歳からの面壁九年の行に入った禅者は修行を完成させることが義務で、 修行の完成するまで内なる師からの霊導に従わなければいけないんです。

たとえば、将来を約束された学会に背を向けてまでフロイトと決別したユングのように。

したがって、内なる正師に出会えたという事実は信ずべき幸運なわけですから、 夢窓さんとユングの神秘体験は本質的に一緒なんです。

私がこの神秘体験にこだわるのは、それが得度であり洗礼だからでして、 夢窓さんは、あの時“但し書き”つきで悟りを約束されているんです。 その“但し書き”には、たいてい、こう書かれています。

「ただし、これから始まる試練に合格できたらね」

振り返ってみれば、ありがたくも非情な試練の数々に気づくことでしょう。 そのことごとくに落第してきた自分を笑い飛ばして発奮してください。 素質がありながら「尋牛」の段階で止まってしまう人って多いんですけど、 才能を眠らせたまま一生を終えるのってもったいないと思うんですよね。

M・ベインの『解脱の真理』『キリストのヨーガ』はそんな人向けの本です。 「真理のもつ創造性はいかに発現されるか」という内容ですから。 興味のわいた頃に読んでみたら如何でしょうか?

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